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キャサリンは愛犬のスヌーピーと、大家から世話を仰せつかっている猫のチェシャにエサをやるために狭いキッチンをしばらくうろちょろした。アルはキャサリンと入れ替わりでキッチンを出て、テーブルに皿を並べている。
「おはようレディ・チェシャ 、おはようハンサムくん」
チェシャは猫そのものといった性格で自由気ままな貴婦人のような雌猫だ。子猫の頃に貰われてきたという話だが、大家は文字通り猫かわいがりして育てたのでそのような性格になったのだろう。大家曰く彼女は幸運の女神らしいが……他の人にとってはただの猫だ。
チェシャのエサは大家からの支給品だ。彼女は貴婦人のように舌が肥えているのでキャサリンの給料ではとても買えない値段の缶詰を食べている。
キャサリンはキャビネットから取り出した缶詰をエサ皿に開けて、床で行儀よく座っているチェシャの前に置いた。チェシャはミャウ、と一声鳴いてからエサを食べ始めた。お行儀の良さも貴婦人級というわけだ。
キャサリンはキャビネットに向き直り、今度はスヌーピーのエサを取り出した。近所のスーパーマーケットで買える中型犬用のドッグフードだ。安いけれど変なものは入っていない安心安全が売り文句である。
キャサリンがエサ用のボウルにドッグフードを入れていると、スヌーピーが尻尾をブンブンに振って足元にまとわりついてきた。今か今かと朝ごはんを待っている口元ではよだれが垂れそうになっている。
水用のボウルの横にエサ皿を置く前に、キャサリンはスヌーピーにコマンドを出す。
「ステイ(待て)よ、スヌーピー」
その声を聞き、スヌーピーは耳をピンと立ててその場でぴたりと止まった。キャサリンはさらにいくつかコマンドを出すと、スヌーピーは間違えることなく指示通りに飼い主に応えていく。
「スィット(お座り)。ハンド(お手)……グッドボーイ、オーケー、お食べ」
オーケーの声で勢いよくエサ皿に顔を突っ込んだ。
スヌーピーは雑種である。なんとなく白っぽい毛並みの中に、ダークグレーやブラウンのぶちがまだらに散らばっている。幸い、彼は短毛なので手入れにそれほどお金と時間がかからない。
キャサリンは食べることに夢中な愛犬の頭を撫でてからキッチンを離れた。
ダイニングではアルがテーブルの支度をしていた。
「今週は忙しくないといいな」
「ホントにね。怪盗キャットも大人しく家にいてくれれば――ていうか盗賊業を止めてくれれば助かるんだけど」
椅子を引いて腰かけながらキャサリンは返事をした。アルがテーブルの上に皿を並べていく。
「わぁ今日も美味しそう!」
キャサリンはテーブルの上に並んだ朝食をみて目を輝かせた。真っ白な皿にはオーバーミディアムの卵を挟んだセサミ味のベーグルが乗っていて、ベーコンとチーズが添えられている。マグにはたっぷりとグリーンスムージーが注がれていた。
キャサリンはさっそくスムージーを飲んだ。リンゴの風味が鼻に抜ける。美味しい。あとはバナナとアボカドとケールと……ナントカ(・・・・)シードが入ってるんだっけ。次はベーグルに手を伸ばし口に運ぶ。これも美味しい。拾った人間が料理上手だったのはとんでもなくラッキーだった。
黙々と朝食を頬張るキャサリンを見てアルは満足そうだ。
「ランチはこっち、家を出るときに忘れないようにな。コーヒーはもうタンブラーに淹れてあるから」
「ありがと」
「今日の豆は先週買ってきた新しいやつだぜ」
アルはキッチンカウンターに置かれたランチボックスとタンブラーを顎で示した後、コーヒーカップをサーブしてくれた。キャサリンはカップを持ち上げて香りをかぐ。
「うーん、いいにおい」
「店員が深煎りがおすすめって言ってたからそうしたけど、どう?」
キャサリンは一口飲んで味わう。
「イイ感じ。でも初めての豆だし色々試してみてもいいかも。明日は好きにやってみてよ」
「ん、わかった」
アルはひかえめに笑んで頷くと、キャサリンの向かいに腰を下ろして一緒に朝食を食べ始めた。
彼に入れてもらうコーヒーは格別だとキャサリンは思う。以前のキャサリンにとってコーヒーとは目覚まし効果抜群のうんと苦い飲み物に過ぎなかった。
キャサリンはチーズをベーグルに塗りつけながらアルに話しかけた。
「毎朝大変でしょ、たまにはさぼってもいいよ?」
「これくらいなんてことないさ。今のところただのヒモだしせめて家事はしないとな」
「またそんな自虐的なこと言って。負担に思うことないのに」
「そう言ってもらえると気が楽になるよ。ま、正直なところ、君の食生活が心配だからなんだけど」
確かに、アルとルームシェアを始めて半年になるが、キャサリンの食生活は劇的に改善した。彼が来る以前はテレビディナーやデリバリーばかりで食事を抜くことも珍しくなかった。
最近はバランスのとれた食事を規則正しい時間帯に摂取しているので、当然と食事量は増えたのだが、不思議なことに体重は増えることはない。むしろ身体が引き締まってきたような気もするくらいだ。
アルに言わせると、必要な栄養素を適切なタイミングで食べることにより上質な筋肉が育ちつつあるのだそうだ。ただの美術学芸員にしてはやけに筋肉と食に詳しい。アル自身はマッチョという見かけでもないのに。
まぁ学芸員になるくらいだから単に雑学好きなのかもしれない。オタクってそういうところあるし。学芸員の全員がオタクとは思っていないが、アルは確実にオタクだ。例の過集中と妙な早口言葉がその証拠だ。