選ばれる人間
この世には選ぶ側の人間と選ばれる側の人間がいる。
選ばれる側の人間は、選ばれるために努力する必要がある。ここに、また選別が起こるのである。自分が選ばれる側の人間であると自分で認めることができているか、いないか。これは一般にプライドの高さとして表現されることが多いかと思う。つまり、この構造の中で、一番の最底辺は、「自分は選ばれる側の人間にも関わらず選ばれる側の人間だとは認めない(認めたくない)」者であろう。
そして私は、その最下層に属している人間であると強く自覚している。だったら、自力で這い上がる努力をしろよという話であるが、ここにまた問題が生じてくる。努力できることこそ最大限に「才能」が反映されてくる部分なのである。残念ながら私は、努力する才能がないのである。残念である。
選ばれるためには努力が必要であるのは当たり前であるが、しかし、努力をすることで本当に成果に結びつくのかという点について言えば、必ずしもそういうわけではない。しかし、努力できる人間はごまんといる。彼ら彼女らを動かす原動力は何かというと、「努力している自分が好き」という気持ちなのである。また、なおさら難しい問題に直面してしまう。努力する自分など全く好きではない。自分なりに一生懸命頑張っていたことを否定される経験をすると、人は途端に努力することをやめてしまうものだと思う。失敗経験を学習する、一般的にこれは学習性無力感などという用語で表されるが、まさしく私は学習性無力観人間である。このように、私は努力することができない、底辺人間なのである。「自分は選ばれる側の人間にもかかわらず、選ばれる側の人間であると認めることもできず、選ばれることができるように努力することもできない」人間へと逆成長したのである。
私が選ばれる人間になりたい理由は、僕のような人間を再生産して、それを見て楽しむことなのだ。非常に性格が悪いと思う。選ばれる人間は、幸せそうである。選ぶ人間も幸せそうであるが、全くその領域に達する見込みが感じられないので、選ばれる人間になりたい。
もう一つ、圧倒的な被害者意識が私の中に根付いている。人のせいでこうなったと本当に思っている。どこまでさかのぼるかというと、父と母が結婚したところまでさかのぼる。いい人たちである。しかし、このような性格的な特性を持つ人間を生み出してしまったことについては非常に恨んでいる。というか、自分の運のなさにうんざりする。運がないやつは生きる価値はない。本当である。早くしんでしまいたいがその勇気もない。しねる性格に生まれなかったのもこれは運がないことである。努力できる性格で生まれなかったのも、これは運が悪かったのである。運が悪いやつは生きる価値はない。周りにも影響をもたらす。
まず、こんな性格を次の世代に受け継いではならない。子どもにまた迷惑がかかる。結婚願望はあるが、しかたないことだ。迷惑をかけられつづけてきたから、人には迷惑はかけまいと考えるのは自然なことであろう。だから、僕と付き合ったりするのもやめた方がいい。たぶん、よくない人生を送ることになるだろう。運の悪さが伝播してはならないのである。
はやく終わらせたいけど、まあ、たぶん明日も生きているだろう。そんな自分がとても嫌いである。
選ばれる人間にはなれそうもない。