初戀
十一月
はじめて友だちから初詣に行こうと誘われたのは中一の時で、父さんに言ったら案の定一蹴された。
「三が日はうちが一番忙しいことくらい安曇だって知ってるだろう」
クラスの誰にも言っていないけれど、ぼくは神社の子だ。正月はいろいろやることがある。境内の掃き掃除やゴミ拾い、お神酒のかわりに子供たちに配るジュースやお菓子の準備、お守りやおみくじを用意したり、次々と仕事がある。
幼稚園の頃は正月が大きらいだった。遊んでほしくても父さんも母さんも忙しくしていて、「あとでね」とか「あっちに行ってなさい」という言葉を何百回も聞かされた。しかたなくぼくは境内をぶらついて砂いじりをしたり、絵馬に書かれた願いごとを漢字だけ飛ばして読んだりしていた。
小学校にあがると、絵馬に書いてあることはだいたいわかった。絵馬に知った名前も見つけることもあった。読むと、胸がざわざわした。誰も知らない秘密を打ち明けられたようなうしろめたさと好奇心が入り混じった感覚。父さんや母さんが仕事に明け暮れている大半の時間をぼくは絵馬掛所で過ごした。
一度、絵馬で読んだことをうっかり友だちに話してしまったことがある。
「鈴木くんはA中学を受けるんだね」
「どうして知ってるの?」
鈴木くんは驚いて目をまるくした。A中学を受験することは誰にも言っていなかったらしい。頭のいい鈴木くんは、秘密を洩らした犯人を徹底的に探し出そうとした。絵馬を盗み見たことがいつばれるのではないかとひやひやした。けれど、鈴木くんが行きついたのは、志望校を知っているのは塾の先生とお母さんだけだということになった。「個人情報はちゃんと守っていますよ」と塾から言われた鈴木くんは、おしゃべりなお母さんを犯人に特定し、大喧嘩の末しばらくお母さんと口をきかなかったらしい。絵馬に自分で志望校を書いたことは忘れてしまったらしい。鈴木くんの怒りを買わずにすんで、ぼくは胸をなでおろした。以来、絵馬掛所で見たことをうっかり人に言ってしまわないようぼくは気をつけている。
今年、同じバスケ部の優斗から初詣に誘われたけれど断った。「正月は寝る」と言ったら笑っていた。優斗はいいやつだ。試合でぼくが失敗しても「気にすんな」と肩をたたいてくれる。誰にでもやさしいから優斗は女子に人気がある。ついこの間まで女の子には興味ないと言っていたのに、最近彼女ができたらしい。渕上梨花。活発で、いつも友だちに囲まれている一番人気の女子だ。ぼくは、滝本あゆの方が好きだけど。
「あの子、何考えているんだかわかんないよね」
「あゆが梨花の友だちじゃなかったらつきあわないと思う」
クラスにはあゆのことを悪く言う子もいるけれど、おとなしいから誤解されやすいだけだと思う。あゆと一緒の班行動で、冬休みはどうするのか聞いたら、梨花と初詣に行く約束をしているとうれしそうに話していた。ぼくは、あゆが笑った顔が好きだ。もしかしたら二人ともうちの神社に来るかもしれない。おみくじの箱を大吉でいっぱいにしておいたら喜ぶだろうか。
十二月
学期末試験が終わる頃、教室の空気感がにわかに変わった。クラスメイトのおしゃべりはいつも通り飛び交っているのに、どことなく重々しい空気が流れている。そのことに気づいているのはぼくだけだろうか。その根源は、おそらく梨花とあゆだ。ふたりにいったい何があったのだろう。いつもは何をするのも一緒だったのに、休み時間も別々のことをしていることが多くなった。どこかよそよそしい感じだ。
「梨花とあゆ、なんかあったと思わない?」
思い切って優斗に聞いてみても、優斗はぽかんとするばかりだ。
「何が?」
「だからさ、けんかしたとか」
「そんなことないだろ」
優斗は案外鈍感なところがある。いさかいの原因はたぶんお前だぞと言ってやりたかったけれどやめておいた。
「そういえば、俺、梨花と初詣行くことになった」
優斗がにやけて言った。
ほら、どんぴしゃだ。
冬休み前の最後の部活からもどると、梨花が教室に残っていた。後方にあゆもいて、教科書をカバンに入れていた。ふたりで帰るところなのかと思い、なんとなくほっとしていたら、優斗が教室にもどってきて、事態は一変した。梨花が優斗をつかまえて、あゆを残して先に帰ってしまったのだ。
「帰りにキムラスポーツにバッシュ見に行こうって言ってたのに」
優斗のことをちょっとだけ腹立たしく思い、ため息をつく。ちらりと横目で見たあゆは不穏な空気をまとっていて、血の気のない表情で唇を引き結んでいる。帰るに帰れず、この場の空気をなんとかしなくちゃという思いで、ぼくはわざとおどけてみせた。
「ふられちゃった者同士ってことで、いっしょに帰らない?」
ところが、このひと言がまずかった。火に油を注いでしまった。
「サイテー」
ものすごい形相でぼくをにらみ、あゆは教室を出て行ってしまった。
一月一日
朝の五時からたたき起こされ、仕事を言いつけられた。境内はすみずみまできれいに、参拝客が暖をとるのに焚火を絶やさないように、万が一結んだおみくじや絵馬が落ちていたら結びなおしてあげるように。
仕事は山ほどある。中学に入ってから着物に作業用の袴を着せられるようになって、もたもたして動きづらい。同級生はみな今ごろ旅行に行ったり、テレビを見たり、思う存分寝坊したりしているかと思うとうらやましかった。
ぼくだって、お笑い番組を見てゴロゴロしたかったけれど、父さんも母さんも昨日から寝ずに働いているのだから、そうもしていられない。それに、今年は特別だ。梨花が、優斗が、あゆが来るかもしれないと思うと気が気ではなかった。もしもあゆが来てくれたら、この間のことをあやまりたかった。もやもやした気持ちのまま新しい年を過ごしたくない。
常に入口の方を気にしながら掃き掃除やゴミ拾いをした。拝殿の前の長い列に、梨花たちの姿がないか目をこらした。昼前に優斗と梨花がやってきた。優斗はいつものスタジャンとジーンズだったのですぐにわかったけれど、梨花の方は晴れ着に髪を結っていたのでわからなかった。
ふたり並んでお賽銭を投げて手をあわせ、長いこと祈っていた。いったいどんなお願いごとをしているのだろう。そのあと互いにおみくじを引いていた。お決まりの流れだ。優斗は表情を変えないので何が出たかわからなかった。けれど、梨花は凶を引いてしまったみたいだ。「きゃあっ」と声をあげ、両手で顔を覆い、その場にしゃがみこんでしまった。そこへたまたま通りかかった父さんがいつものうんちくを語りはじめた。
「凶はね、必ずしも悪い意味ではないんですよ。心がけ次第では、強運のキョウにもなるんですから」
なかばうんざりしながらぼくは聞き耳をたてていたが、父さんの言葉に梨花の顔がぱあっと明るくなった。
「ありがとうございますっ」
梨花のはずんだ声が離れているぼくのところまで聞こえた。
それから優斗と梨花はふたりして絵馬を書いていた。ずいぶん長い時間考えて書き、隣どうし並べて掛けていた。何を書いたのだろう。好奇心にかられ、ふたりの絵馬を見に行こうとしたとき、母さんに呼ばれ、ぼくは社務所にもどされてしまった。
夕方、そっと絵馬掛所へ見に行ったら、あゆが居たのでおどろいた。日も落ちかけたうす暗い場所で、じっと立ったまま絵馬を見つめている。そのうちあゆが腕をのばし、絵馬に手をかけた。背中に緊張が走った。絵馬を結び付けているのだろうか。はじめはそう思っていたが、逆だった。あゆはかけてあった絵馬の結び目をほどいていた。はずした絵馬を脇にかかえ、二枚目の絵馬もほどいている。よほどきつく結ばれているのかずいぶん手こずっていた。左右に並んだ絵馬が大きく揺れる。
あゆが懸命にはずしているもの。それは、優斗と梨花の書いた絵馬にちがいなかった。そんなことをして、どうするつもりなのだろう。あゆに声をかけたいのに、声が出ない。ただ必死で手を動かしているあゆの背中を見守ることしかできなかった。どうか誰も来ませんように。心の中でおかしな願いごとをしている自分がいた。
やがて二つの絵馬を手にしたあゆが振り返った。はっとして、ぼくは石碑の陰に隠れ、身をかたくした。あゆが、境内の中央に向かって歩いていく。そっと、気づかれないようあとを追った。焚火の前で立ち止まる。消え入りそうだった火が一瞬にして橙色に光り、勢いよく燃えはじめた。パチパチと火の粉があがる。その有様で、ぼくにはすべてがわかってしまった。
絵馬を投げたんだ。
「滝本っ」
夢中で飛び出して、あゆの手をつかんでいた。まさかぼくが見ているなんて思ってもいなかったのだろう。取り乱したあゆが大声で叫んだ。
「言えばいいじゃない。わたしのしたこと、クラスのみんなに言えばいいじゃない」
ぼくは首をふった。
「いいかげんわたしのこと、みんなの言う通りの子だってわかったでしょう」
その時、はじめてあゆと目が合った。乾いた目を腫らして、闘っているような顔をしていた。
「言わないよ。ぼくは絶対に言わない」
ぼくは言った。あゆは信じてくれないかもしれないけれど、ぼくはもうずっと前から絵馬掛所で見たことは、絶対に人に言うまいとわかっているんだ。
「サイテー」
あゆが吐いた。あの時、教室でぼくにぶつけられた時とは明らかにちがう響きだった。その時、なぜだかぼくは、あゆのことをとても好きだと思った。
ぼくたちは、ひとこともしゃべらずに長いこと焚火の前に立っていた。そうしていると、ごちゃごちゃしていたものが自然と落ち着いていくような感覚があった。
あゆが「帰る」と言ったので出口まで送った。
「学校、ちゃんと来いよ」
ぼくが言うと、あゆがこくんとうなずいたのでほっとした。石段をおり、小さくなっていくあゆの後ろ姿をずっと見ていた。紫色に暮れていく空に、満月になりきれないお面のような月がぶらさがっていた。