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~一章:死ぬことと見つけたり~

以前に投稿させていただきましたものの、続きになります。

彼が死に一歩近付きます。

至らぬ点が多くみられるかと思われますが、そこはご容赦頂けると幸いです。

 ふと気付くと、そこは鬱蒼とした森だった。山かもしれない。

「…………」

 困惑と達観を半々に、穣はただそこを歩いていた。

 仕事が終わって、家路についていた。そこまでは確かに覚えていて、しかし、彼は今、見覚えの無い場所に居る。持っていた筈の鞄は無く、財布も携帯もない。明確な時刻など、着の身着のままな彼に入る由も無いが、今が夕刻には思えなかった。

 実家の周辺ならばいざ知らず、彼が一人暮らししているアパートから、職場までの間にこんな場所は無い筈だが。

 取られそうになった足を、危うく踏ん張って、彼が目指すのは森の端。そこから見える景色から、何か得られるかもしれない。

「――――――っ⁉」

 また一歩足を出して、しかし靴底は地面を掴まず、浮遊感が穣を襲い、同時に視界が縦方向に急転した。

 踏み外した。そう理解する頃にはもう山肌を転げ落ちていて、枝葉や根、石が容赦なく彼の体を痛みと共に貫いていた。

 平衡感覚の麻痺した中で、体は反射的に体勢を立て直そうと動く。抵抗は虚しく、暴力に晒される中で、体は幹に叩き付けられたことで、ようやく止まった。

 やば、打ち所、悪かった、かも……

 激しい運動をしたわけでもないのに、呼吸は浅く乱れている。痺れたように、電池が切れたように動かない自身を、穣は他人事として見ていた。

 暗く、視界がブラックアウトしていく。

「…………」

 それさえも、彼にとっては他人事だった。

……………………

………………

…………

『今回はまた多いですね。『勇者』……実際、本当に『流れて』来た人間はどれだけ居るんでしょう?』

『俺が知るわけないだろ。知る必要も無い。俺達はただ連れて行って、残ったのを連れ帰ればいいだけだ』

「…………」

 会話が聞こえる。しかし穣の耳では、それが言語であることは分かっても、その内容までは分からなかった。

「…………っ!」

 床がぐらりと揺れる。穣は背に走った激痛に顔を顰めた。そう言えば何かにぶつかったなと、思い起こしつつ、彼は周囲に視線を巡らせる。

 薄暗いそこは、まるで牢獄だった。座っている床も、背を預けている壁も、黒ずんだ固い木材。それが無骨な金具で接合されている。採光窓にはご丁寧に、脱走防止のための格子。

 そして手足は鎖と枷で拘束されていた。

『――よぉ。目ぇ覚めたか?』

 先程聞いたものと同じ言語が、横から聞こえた。見れば、二十代くらいの黒人男性が、くたびれたような顔で笑っている。

「…………?」

 悪意は感じられない。心配してくれているのだろうか。ジェスチャーが通じるか否か疑念を抱きながらも、穣は指で『OK』を示す丸を作って見せた。

『いや、最初見たときは死んでんじゃねぇかってびびったよ。傷だらけだし、体冷たいしでよぉ……あ、オレ、ピューマな!よろしく!お互い災難だな!』

「……お、オゥ……」

 ものすごい矢継ぎ早で分からない言語をまくしたてられ、締めに握手を求められる。穣には彼の名前がピューマであることと、彼が友好的であるということくらいしか分からなかった。

『――なんだ?元気なのが一人いるな。――おい!静かにしろ!』

 御者が気怠そうに何かを叫び壁を叩く。その音はただの木材にしてはいやに重厚だった。ピューマが小さく舌打ちをする。

『ったく、『勇者』っつーんなら、もうちょい待遇良くしてもいいだろ!――まぁ、オレは違ぇけど』

 彼は何か、ぶちぶち文句を言っているように見える。穣の眉はずっと、八の字のままだった。

 それから、言葉が分からないことをジェスチャーで伝えた後も、ピューマはずっと一人で、何かを喋ってくれていた。

 何となく、耳に言葉が馴染み始めた頃、不意に馬車が止まる。

『――お?着いたか?』

「ああ……」

 他の者たちもそれに気づいたらしく、ゆるゆると顔を上げていく。露わになった顔に統一性は無く、ピューマのような黒人も居れば、白人も、穣のようなアジア系も見られる。男女の区別も無く、そして殆どが若い。共通点など、疲れた顔くらいのものだった。

 奴隷、だろうか。ピューマの言葉の中にそれに近い響きの単語があったが。

『――全員、降りろ』

 解錠の音。蝶番が重く軋み扉が開かれる。軽鎧を纏った男が、逆光を背負いながら、ぶっきらぼうに何かを命令してきた。

 状況から考えるに『降りろ』だろう。その予測は的中し、皆が皆、老人のように立ち上がって馬車を降りていく。鎖は全員で一繋ぎだったらしい、穣はその最後尾に繋がれていた。

「…………」

 穣を迎えたのは、古墳に似た印象を受ける、石造りの遺跡だった。

 重苦しい雰囲気もさることながら、彼は遺跡から、何か、良くない気配を感じ取っていた。

 立ち尽くす彼の手首に小さな手応え。見れば同乗者達はぞろぞろと開かれた門へ向かって行っていた。

『ほら、さっさと進め!』

 せっつかれて、穣は仕方なく歩き出す。ざっと見ただけで四人の憲兵がこの場には居て、自分は他の人間と鎖で繋がっている。逃げようがないのは分かり切っていた。

「…………」

 篝火が集れていて尚、狭い通路には冷たい風が吹いている。嘗められるような感触に鳥肌が立った。ざりざりという引き摺るような足音は一個の巨大な生物が身じろぎしているよう。暗い奥へ進む毎に、穣は心音が大きくなっていく錯覚に襲われていた。

 人生なんてとっくに投げてつもりだった。しかし今は、ここから逃げ出したい。

『追放だと?死罪だと言ってくれ』よくは知らないが、『ロミオとジュリエット』にはそんな一節があるらしい。それが今になってまた、頭に浮かんだ。そして――

 一行は開けた部屋へ出た。高い天井は丸く、まるでホールのよう。中央近くには祭壇のような石造りの台。その手前、踏み固められた地面には、多くの足に遮られていてもそれと分かる魔方陣。そして最奥には、巨大な何かが蹲っていた。

 後ろで、扉を閉じる音がした。

 ローブを顔が隠れる程に目深に被った人間が数名、足音も立てずに近寄ってくる。一人の手によって枷から鎖が外されていく。誰も、何も言わない。穣にはそれが際立って不気味に映った。

「それとそれと……それからそれを、こちらへ」

 ようやく一人が口を開いた。その言動は、連れて来られた者達を、同じ人間として見ていない。別の一人が指差しで人数を数え、指された奴隷たちはまるで操られているように、言われるがままに足を動かす。

「…………」

 まったく異なる容姿の人間達に、自分が重なる。穣は眉間に皺が寄るのを感じていた。

 生きることを諦めた人間は、かくも醜い。

『なぁ、何すると思う?』

 ピューマが隣にやってきた。穣は「分からない」と首を振る。引き抜かれたのは六人。それぞれが目隠しをされ、何かを飲まされ、陣に描かれた六芒星のそれぞれの角へ跪かされていく。

――知ってるだろ。――否、分かり切ったことだろう

「――っ!…………?」

 耳元で囁くような声がした。穣は弾かれるように隣のピューマを見る。しかし彼は儀式に注視していた。

 そも、あれは彼の声ではなかった。しかし、どこか聞き覚えのある――

 呆然とする穣の前で、儀式は淡々と進められていく。念仏のような、暗くぶつぶつと紡がれる呪詛。陣の中心に、言葉にし難い不思議な色をした炎が、厳然と燃え上がった。

『な、……なんだありゃ……⁉』

「…………」

 声を上げるピューマを穣は、口の前に指を立てる「静かに」のジェスチャーで制する。

 慌てて彼は口を噤む。息を殺して様子をうかがう二人の前で、炎は蛸が這うように六人へ向けて〝肢〟を伸ばしていく。

 炎の触手はやがて六人を見つけ出し、そして心臓の辺りへ流れ込んでいった。

 流れ込むその直前、穣の目には炎が、獣の頭の形を取り、喰らい付いたように見えた。

「――うぅ⁉」「ぁぁぁ…………」「が、か……っ」「…………ぅっ!」「――は……ぁ!」「ぉ、ごが……!」

 六人がそれぞれに、苦悶の声を上げる。突き飛ばされ、掴まれ揺さぶられているように、六人の体は不自然に震えだす。

苦し気にのたうつも、手足の枷がそれさえも満足にさせない。そして――

「が……か、かか……ぎ、……っ……ごば…………っ⁉」

 一人の男が、夥しい量の血を口から、鼻から噴き出し倒れ、それきり動かなくなった。

 二人目。三人。一人目を皮切りに、鼓膜にこびりつくような断末魔を上げ、被術者達は絶命していく。

 ローブの男達は身動ぎ一つせず、表情一つ変えず、それを見ている。

 そして、四人目が果実が潰れるように血を噴いて、間髪を入れず五人目が異様に背を反らしそのまま息絶えた。

「あ、ああああああああっ⁉あ、が、う、あああ……………………っ!」

 残ったのは金髪の少女だった。頭を地面に擦り付け、爪の剥がれた指で地面を掻き毟る。丸まった背中が一回り、二回りと膨らんだように見た。彼女もじきに死ぬだろう。穣は目を細める。

 そして

「……………………は…………はぁ…………っ…………」

 ぱたりと、細い体が倒れた。血が溢れる様子は無く。肩が、背中が小さく呼吸を続けている。

「…………」

 知らず、安堵の息が穣に口から漏れ出た。少女は死を免れたらしい。

 しかしそれも、束の間のことに過ぎなかった。

 五人の骸が地面に沈んでいって、直後――

――ぐちゅ。く、ちゅ。ちゃ……ずるっ、ず、ず、ちゃ、く

 咀嚼音は祭壇の奥、蹲る何かから聞こえてきた。

――ん、ぐ……………………

 嚥下した。そうして訪れた再びの静寂は、誰の背にも冷たい指を這わせただろう。穣は思い切り顔を顰め、ピューマは鳥肌の立つ手で口元を押えている。

「う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ⁉」

 堪りかねた一人が、悲鳴を張り上げた。恐慌は伝播し、一人二人と相次いで絶叫する。

 その全員に、先の炎の触手が絡み付いた。

 次々と魔方陣へ引き摺り込まれ、一人残らず、一組目の命を落とした者達の後を追っていった。

 そして不気味な嚥下の音が三度目の静寂を齎す。

「先ずは一人か」

「次。それとそれと…………」

 ここでは、ヒトが得体の知れないものに喰われることはよくあることらしい。ローブの男達は何事もなかったかのように淡々と、自分の仕事を熟していく。

『マジかよ……生贄じゃねぇか。こんなん…………』

 ピューマの呻きに、穣は応える言葉を持たない。

 二組目は二人が生き残った。

 淡々と続けられる、人に何かを植え付ける儀式。穣とピューマは最後まで残された。

「残りは……五人か」

 やはりローブ男の態度は一貫して冷淡だった。ピューマは顔を青くしたまま、命じられるままに重そうに足を引き摺って、魔方陣へ向かっていく。他の三人も、反応は概ね似通っていた。中には人形のような無表情を貼り付けたものも居て、穣もまた同じようなものだった。

 最初の一組を見て、誰もが嫌でも理解しただろう。

 ここへ連れて来られた段階で、自分達に逃げ道はない。

 生き残った者達がどうなったのかも、奴隷側の誰も知らない。

 生き残ったっとして、その先に続くのはきっと、これまでとさして変わらない、絶望という言葉の意味さえ分からなくなるような日常。

 自分達のこれまでにもこれからにも、救いは無い。

 死ぬしかない。と。

『飲め』

 目隠しをされ、口元には陶器の冷たい感触。唇に触れた、生暖かい何かを、体は存外にすんなりと受け入れた。

 口から鼻に抜けたのは血の風味。酩酊したように熱を持ったまま冴え渡っていく頭の芯で、穣はやっぱりかと息を吐く。

 あとは、あれを待つだけ。

 自分は恐らく死ぬだろう。炎を待ちながら穣は、まるで何でもないことのようにふと息を吐く。

 適合したらしい人間は、四人中三人が女性だった。それを彼はただの偶然ではないと考えていた。

 貴重な体験が出来る。これから自身の身に起こることを、彼はその程度にしか考えていない。

 どうでもいい。生きていようが死のうが、何も違わない。

 『絶望』を忘れたのは、彼も同じだった。

「俺は――――」

 誰の耳にも届かない呟き。刹那。穣の身の内で、何かが膨れ上がった。

……………………

………………

…………

『生まれてきてごめんなさい』それを穣が実際に口にしたことは、初めてそう思ったときから現在に至るまでに、ただの一度もありはしない。

 もう二十年以上、彼は誰かの為に、その言葉を胸の奥に封じ続けていた。

 吐き出す。とはよく言ったもので、愚痴も弱音も、言葉にして吐いてしまえば、存外楽になれる。

 逆を言えば、秘め続け、溜め続けることは毒になる。

 蝕まれる。腐って、壊れて、死んでしまう。

 優しさでは、正義では、それを止められない。寧ろ『毒』の効果を増大させる。

 些細なすれ違い。『大人』の暴論。暴力。ヒトの性。

『やさしさ』と『正しさ』の呪縛。

 些細な愚痴。我慢する必要のない苦しみ。訴えなければならない痛み。こころとからだの不一致。

 何も言えなくなって

 喜多島穣は人知れず、静かに壊れた。

 優しさには猜疑を。評価には虫唾と唾棄を。嫌悪と暴力には享受を。

 好意には死にたくなる程の痒みと苦痛。沈黙の形をとる否定を。

 ヒトとしての『一般的な』或いは多くが口を揃えて謳う『誰もが手にする権利を持つ』『幸福』は最早、穣の器では、決して受け入れることの出来ないものになっていた。

 やりたいことに手を付けられず、好きなものを好きだと言えず、諦め切れずに足掻く中で、自己嫌悪を積み上げるだけの日常。

 寧ろ都合が良かった。生贄というものは。

 心とは厄介なもので、余程のことでもない限り、自死の選択を執ることが出来ない。

 紛いなりにも鍛えた体は、その余程のことがっても生き延びてしまう。

 殺されるのは、願ってもないことだった。

 ここまでなのだと、割り切れる。

……………………

 だというのに。嗚呼。だというのに…………!

……………………

………………

…………

「…………!」

 穣は先程までと変わらないまま、地べたに正座をしていた。何時の間にか外された目隠し。心臓は当然のように、一定の調子で脈打っている。

 体内とは違う、どこかで感じている異物感。穣は生きてそれを感じている。

「――はぁっ…………!はぁぁ…………っ!………………っ!………………っ!」

 べたりとヒトが倒れる音。荒い呼吸を辿れば、うつ伏せで肩を上下させているピューマの姿。

 彼もどうやら適合したらしい。

「……よぉ、お前、も、大丈夫だったか…………」

「……さぁ、どうなんでしょうね」

 ピューマの言葉が、今度は穣の耳にもちゃんと届いた。考えるまでもなく、まるで日本語で会話しているように、彼は肩を竦め、そこで初めて、会話が出来ていることに気付く。

「…………」

 無表情のまま目を丸くする穣。驚く彼を他所に、ローブの男達は淡々と後片付けをしていく。

「二人――これを含めて六人か。元の数を考えれば、今回は豊作だな」

 後ろを振り返ると、あの不思議な色の炎は消えていた。男達がごく当たり前に会話をしていることにも合点がいった。

「あとは調整か。来年に何人残ってるだろうな」

「『勇者』として死ねるんだから光栄だろ。お前も志願してみたらどうだ?」

「冗談だろ」

「く、そ。こいつ、重てぇな…………!」

 伏したまま動けずにいるピューマを、一人が引き摺って動かそうとしている。抵抗する力など残っていないだろう。彼はされるがままになっている。

「――やめろ…………」

 掠れる声は怒気を孕んでいた。小さくも確かに響いた声に、ローブの男は穣へ顔を向ける。フードで陰になっていても、男の、彼を見下す視線は感じ取れた。

「お前、随分余裕があるらしいな。だったら代わりに運んでくれよ。この黒いの」

 男達にとって、穣達は実験動物でしかないらしい。――否。まっとうな研究者なら、実験動物もそれなりに丁寧に扱う。

 髪を掴まれ、揺さぶられる中で、穣はこの男を言われたことも出来ない、三下に格付けした。

 差別的な言動に苛立つ彼を、見下す男の顔が凍り付いた。

「お前…………」

 愕然とした様子で呟いたのは、ローブの男ではなくピューマだった。男は捨てるように、穣から手を離した。

「おい、下らないことは…………どうした?」

 かねてより問題行動を取っていたのか、別の男が男へ呆れたような声を掛け、その様子に声音を怪訝なものへ変えた。

「…………」

 男は応えない。いよいよ不審に思ったらしい、数名が穣の元へ寄って来て、彼の顔を見るなり表情を凍らせた。

「…………」

 何事か。訝る穣の手の甲を、ぽたりと雫が叩いた。

「…………?」

 それはタールのような、黒い液体だった。

 ごぶ。何かを言い掛けて、それは言葉ではなく泡立つ不快な音として発せられた。口からもその黒いものが出てきたらしい。

 ほらみろ。やっぱり駄目だった。

 安堵したように、穣は一つ息を吐く。それを液体が邪魔することはなかった。

 視界が黒く塗り潰されていく。

 ほら。やるよ。好きにすればいい。

 誰に対してか、穣は胸中でそっと、そう囁いた。

……………………

………………

…………

 何をしても物足りなかった。

 夢中になればなる程に、目立つ窮屈さに苛立った。

 思ったことを口に出来ない。『全力』を出せたことがない。

 達成感も快感も刹那的。一瞬後には、そんなことを忘れる程の、或いは死にたくなる程の悔恨に襲われる。

 ルールが、常識が、『普通』と『他者』という概念の全てが邪魔だった。

――違う。本当に邪魔なのは

 自分だ。ヒトになど生まれてしまった自分だ。

 痛む『心』などというものが、心底煩わしかった。欲しくなどなかった。持つべきじゃなかった。

 そも、生まれてさえいなければ。

 もっと、ずっと、穏やかなままでいられたのに。

 見えるのは、傷付け、喰い合い、貶め合い、殺し合う、ヒト、ヒト、ヒト。

 煩わしい。

 痛みさえ感じない、心など宿していない兵器で在れたなら。災害のような現象で在れたなら。ヒトの歩みの全てを無に帰してやれるのに。

 自殺なんてしたくないだろう?悪いことなんて全部、ぜんぶ誰かのせいにした方が、気が楽だろう?

「…………」

 忘れたことは、唯の一度もありはしない。お前達の全てが、俺にそれさえさせてくれなかった。

 鬼になりたい。

 矮小なお前達の、滓みたいな『善意』の全てを笑い飛ばして壊してしまう、絶対的な悪に。

 恐怖の象徴。戒め。或いは死因に

 ずっと、ずっと、成りたかった。


 根を張って芽吹いたのは、十年前から抱き続けてきた、たった一つの願い。

 死ぬことに、さして頓着などしない。どうでもいい。

 願いが叶った。叶うのだから、いよいよ、どうだっていい。

 ずっとずっと、死にたかったのだから。

   ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

『緊急通信!西端、国境付近にてアルンヘム国軍を確認!バラ平原をシュルス砦へ向け進軍中とのこと!至急『憑獣兵(ベルセルク)』の派兵を!』

 神殿に設えらえた、鸚鵡の骨格標本が突如、けたたましく鳴いた。ローブの男達は顔を見合わせ、誰からともなく頷いた。

「調度良い。()()が失敗か成功か。性能を確かめるとしよう」

「――『立て』」

 ともすればコレは、三十余年ぶりの、本物の勇者なのかもしれん。目から、口から鼻から黒い液体を滴らせ、虚空を見詰める喜多島穣だったものは、糸で釣り上げられたように立ち上がる。

「ついでに。『アレを持って外へ――付いていけ』」

 ローブの男は他の適合者を運び出そうとしている一団を指差す。ピューマを抱え上げた穣はやはり命じられるままに歩き出した。


「……なぁ、お前、大丈夫かよ」

 青褪めた顔、気だるげな声は本心から穣のことを気に掛けている。そんなピューマに対し、彼は応えない。別人どころか、今の彼はヒトを模した人形そのものだった。

 そうしている間も絶えず、虚空を見詰める目から、固く閉ざされた唇の端から、黒い液体は不吉に流れ続けている。

 荷馬車に控えていた兵達は、そんな様に動揺を隠しきれなかった。

「伝令が入った。西端、国境付近にアルンヘム国軍を発見。シュルス砦にこいつらを移送するようにと」

 迅速に出立の準備を整えていく彼らの元へ、もう一人、ローブの男が慌てた様子で駆け付けてきた。

「伝令に追伸。敵軍、斥候部隊、予想より早い進行速度。『憑獣兵』によって構成されている模様」

 兵達は渋面を作る一方、ローブの男達の中には皮肉気に笑う者が散見される。

「派兵、急がれたし。とのこと!」

「――となれば、『転送』が最善か」

 ローブの男達は頷き合うと、馬車のすぐ後ろになれた様子で、魔方陣を描き始めた。

 瞬く間に描き上げられた陣の上へ、馬車は停められ、そして馬が外された。

「――シュルス砦へ連絡完了しました。転移可能です」

「では私が座標の特定を。『積み荷』の監督も兼ねて現地へ同行させていただきましょう」

 悠然とした足取りで、一人が前へ歩み出てそのまま陣へ入っていった。彼は荷馬車の傍らでどっしりと杖を構えて佇む。

 それが合図であった。魔方陣が淡く赤色の輝きを放ち始める。

「ご武運を」

 誰かが言った。陣を囲う男達はそれぞれに手を翳し口を動かす。紡がれる言語はこの国の公用語とは異なり、分からないものの耳にはそれは、ただ唸っているだけのようにしか聞こえない。

 円が一層強い光を放ち、内と外とを光の壁で隔てた。眩さに誰もが目を細める中で、光は更に強くなり、やがて陣の中に在る者全てを覆い尽くした。


石造りの広大な蔵が、ようやっと目の慣れてきた兵士たちを迎えた。

「これが転移術式…………」

 目を瞬かせながら、二人の内若い後輩の兵が感心したように呟く。

「お前は始めてか。気を付けろ。成れない内に下手に動くと――」

「いだ――っ⁉」

「……こけるぞ」

 先輩が忠告を終える前に、御者台から降りた後輩は酩酊したようにふらついて、荷馬車の頑健な外壁に頭をぶつけた。

「懐かしいものですね。私は最初は嘔吐しました」

 喜色の滲む声で話に入って来たのは、同行してきたローブの男だった。他愛のない会話に混ざってきたことに、後輩は目を丸くする。

「魔術師殿であっても、ですか……意外というか、何というか」

「魔術師である前に人間ですからね。出来ないことはどこまでいっても一歩も二歩も、得意とする者には劣りますとも」

 荷台の扉へ向かう男の足取りは、成程確かに覚束ない様子だった。

 不意に蔵の天井に、どたどたと無数の足音が響く。

「火急の召喚に応じてくれたこと、先ずは感謝を。――それで、何人、よう、い……出来……た……?」

 部下を引き連れ足早にやって来たのはここ、北西国境の要シュルス砦の主、ガレアス・エクレール中将その人だった。目元に隈と疲労をこびり付かせて、彼は乱暴に援軍に詰め寄る。

「六人です。――戦況はそれほどまでに劣勢なので?」

 中将の焦燥は誰の目にも明らかだった。ローブの男は図らずもそこへ油を注ぐ。

「  は最前線に斥候として『憑獣兵』を配備している。数はざっと数えただけで五十」

「――?攻城戦に『憑獣兵』は不向きなのでは?」

 眉を顰めた先輩を、中将が睨み付ける。――当人にそのつもりは無かったのだろうが、焦燥が彼の一挙手一投足を荒く見せていた。

「持つものを持たせれば、いやでも得意になるだろうさ」

 ローブの男、その後ろの荷馬車へ中将は視線を移し

「六体だろうが構わない。居ないよりはましだ。使わせてもらう」

 彼はローブの男に顎で「開けろ」と命じる。恭しく礼をし、男は扉の封を解き、開け放った。

『――――これは…………』

 開け放たれた荷台からぼたぼたと、泥のような粘性を帯びた黒色が不気味に滴り落ちた。

 中将とローブの男の男が全くの同時に呻く。一方は困惑に頬を引き攣らせ

「――朗報です。中将閣下」

 一方は口元に、獰猛に喜色を滲ませ。

 芝居がかった大仰な所作で、男は被っていたフードを剥ぎ取る。露わになったのは年若い、妖しい色香を漂わせる美丈夫だった。

「これに献上奉りますは『勇者』にございます」

 半歩身を引き、男は扉の前を空ける。

 中には確かに六人が収容されていた。今の六倍以上の人間を収容していただけあって、中は異様に広く見える。

 壁に沿って設えられた粗末な座席には五人が蹲っていて、

 頑ななまでに裂けられている床は、一面が黒い液体に満たされていた。

「…………『勇者』だと?あの真ん中のものがか…………?」

 中将の口振りは、男の言葉を信じられない――否、信じたくないという様子だった。

 荷台の中央、沼のようになった床には一人、男が正座している。項垂れたその様は、斬首を待つ罪人のようでさえあった。

 その身の半分は黒色に呑まれ、異形と化している。

 その異様は『勇者』という言葉を当て嵌めるにはあまりに悍ましく、『憑獣兵』という呼称さえ、まだ上品に思われた。

「この毒々しいまでの魔力量!そしてそれは物質化するまでに濃縮されている!実に三十年振りだ!このような奇異な現象は!『巫女』以来、およそ三十年振りだ!」

 頬に朱が差し、語気を強めて、滔々と謳うローブの男。対照的に、中将の顔は凍り付いて、まるでこの世の終わりを前にしているかのよう。

「――いやなに。閣下の為すべきことに何ら違いなどございません」

 内に熱を押し込めて、男はその口調をこれまでの、落ち着いたものへと戻す。

「何時ものように、命じられれば良いのです」

戦え(いけ)』と。『勇者』であると確信したモノの性能実験に対する興味を、男は隠そうともしない。たったその一言を誘う声はまさしく甘言。悪魔の囁きと呼ぶに相応しく。

 また蔵が重く揺れる。中将は混乱と焦燥に揺れる目に、今一度、異形の『勇者』を映した。

 歳は十六、七といったところか。兵士のように精悍な顔には、僅かにではあるが幼さが見て取れる。短く刈られた髪、中性的に整った顔は、もう半分以上が黒色に蝕まれており、見ている間にも、黒はその面積を増やしていっている。

 紙が燃えるように――否、水に染料が溶けるように――否、蛆が死肉を貪るように、異形化は進行していく。

「…………」

 斯様に悍ましいものは、さっさと捨ててしまうに限る。

 男の言葉は、パンケーキに垂らした蜂蜜のように、エクレールの焦燥に荒んだ心に染み込んだ。

「魔術師クロードに命じる」

 舌に絡む、粘付く唾液。一息を置いて、中将は告げる。

「『憑獣兵』を全騎投入する。解放の準備に掛かれ」

 踵を返す中将の背に、ローブの男、クロードは慇懃に礼をした。吊り上がった唇を、まるで隠すかのように。

   ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 途中何度かの揺れに見舞われ、腹を底から揺さぶられながら、執務室へ逃げ込むように戻った中将。後ろ手に扉を閉めた彼の、その視界の端に、見慣れない甲冑が入り込んだ。

「――随分とお疲れのようだが、到着した増援というのはそんなにも頼りないものだったのですか?中将殿」

 凛とした涼やかな声は、女性のものの中ではかなり低い。記憶の端に似た声を見付け、中将ははっと顔を上げた。

「……ミカエラ・アマン皇女、殿下……!」

 驚愕に目が、痛い程に開かれる。首を絞められているように言葉が喉につかえる。名前を呼ばれた騎士ミカエラは、一歩、歩み寄った。

「今の私は聖騎士の末席を担う、騎士の一人に過ぎません。そう畏まらないでいただきたい」

 無茶を言うな。中将は内心頭を振る。今でこそ、別の人間が即位しているものの、彼女は継承権を持つ歴とした王族なのだ。他の騎士と同列扱うなど、彼に出来る筈も無い。

 女の身で聖騎士の座へ上り詰めた実力も、陰で囁かれている危ない噂も加味すれば、尚のことだった。

「どうして、こちらに…………?」

 呼吸を整え、中将は扉から背を離す。平静を取り繕って投げた問いに対し、ミカエラは冷静に応えた。

「救援要請を受けたからですが?斯様な状況で、ただ視察に来ることもないでしょう」

 伝令は国内の軍事基地、並びに軍人、騎士全体に向けて発せられていた。クロードや『憑獣兵』、誰が駆けつけて来ても不思議ではないのだ。焦燥と緊張から、エクレールはそれを完全に忘れていた。

「……そうですな!多忙な中、御足労頂き感謝します」

「いえ。可能な限りの人員を手配したかったところなのですが、来られたのは私と、部下の――」

「――ゲルハルトと申します」

 いつからそこに居たのか、ミカエラの陰から眼鏡を掛けた細身の男が、歩み出てきた。表情というものを欠いた顔は、なまじ整っているだけに、一層冷たい印象を与える。――『荊姫(いばらひめ)』とその右腕である『鉄血(てっけつ)』。二人の『通り名持ち』を、中将は一方的に知っていた。

「お噂はかねがね……」

 手を出して、しかしゲルハルトが握手に応じることはなかった。

「早速ですが中将殿。状況を詳しくお聞かせ願えますか」

……………………

「――成程、理解しました。それで如何なさるおつもりですか?」

 一しきり説明を聞き終え、ミカエラは口元に手を当てたまま、中将に問う。

「お二人と同時期に『憑獣兵』が輸送されてきました。先ずはそれを、外の『憑獣兵』へ当てがいます」

 慣れてきたらしく、中将は先程よりも淀みない口振りで大まかな作戦を伝える。

 現状における数少ない幸いの一つが、『憑獣兵』のみで構成された斥候と、本体の距離とが開いていることであった。速やかに斥候を撃退出来れば、本体からの攻撃が始まるまでに備えられる。

 堅実で、分かり易い方針に対し、ゲルハルトが声を発した。

「追加された『憑獣兵』の総数は如何ほどですか」

 その言葉で中将は、思い出したくも無いものを思い出す。それがそのまま、渋面となって現れた。

「……六、体です」

「心許ありませんね」

 平静を装って絞り出した言葉を、ゲルハルトが一蹴した。何事か発そうとミカエラが口を開き、それよりも早く中将が「ですが!」と食い下がった。

「『憑獣術』の儀を神殿にて執り行っている魔術師の言に曰く、適合者――『勇者』が見付かったと!数の不利など覆せると!…………そう、申しておりました」

 中将の脳裏には、ヒトならざる何かに蝕まれ異形と化しつつある少年の姿が、ずっとこびりついたまま。一刻も早く手放してしまいたい一方で、あれを外に放り出していいものかと、彼は良心の呵責に苛まれていた。恐怖と良心が、その言葉尻を濁らせていた。

「ふむ…………」

 開き掛けた口を一度閉じ、数拍の間を置いてミカエラは再び口を開く。

「――では、この場はその『勇者』に収めていただくとしましょうか」

「――よ、よろしいのですか……⁉」

 踵を返し、執務室を外へ向かうミカエラと、それに追従するゲルハルト。その背に中将の、動揺に上ずった声が追い縋った。その顔は、彼自身何故そんな声を上げてしまったのか、分かっていないようで、そして二人に何かを期待しているようにも見えた。

「――?私は『勇者』と呼ばれるもの、それが有する力については文献でしか知り得ません。魔術師が歓喜するほどのものであるなら、それは強大な力を有していることでしょう」

 冷徹な態度に、『勇者』の登場を驚いている様子は感じられない。中将自身も同じだが、ミカエラはそれを、兵力の一つとしてしか認識していないのだろう。

「先ずは力を示していただきましょう。『憑獣兵』というのであれば、尚更一歩引いたところから見ている方が良い」

 それに、何かあっても我々が後詰に居れば問題無いでしょう。なんとも、将としての「らしい」言葉だった。何も知らなかった頃の中将ならば、間違いなく彼女と同じことを部下へ言っていただろう。

「そう、ですな……!存分にお力、振るっていただきましょう……!」

 止めて欲しかったのだろう。戦場を穢すなと。しかしそのような言葉が返って来ることはなく、中将は不自然に途切れる言葉でそう応えるより他になかった。

 今度こそ、中将は一人、執務室に取り残された。

 ようやっと手にした位を、彼は今日ほど呪った日はないだろう。


「――何だと思う?あのぎこちない態度は」

 ミカエラは砦内を迷いなく進みながら、傍らに付き従うゲルハルトに、何気ない声音で問う。

「『荊姫』に『勇者』、いの一番に来た援軍は揃って厄介者ですから、自然なことかと」

「その厄介者に『鉄血』(おまえ)も付け加えておけ」

 体温を欠いた冷淡なその声は、冗談なのか本気なのか、判別に困る。それにミカエラは慣れた様子で応じた。

「力不足、という点ではあながち間違いではないように思われますが。――『勇者』が余程頼りなく見えたか、或いはその逆――」

 投下を躊躇するほどに恐ろしいものとして、あの方には映ったか。即座に付け足された真面目な見解に、ミカエラも首肯する。

「――ああ、そこの君」

「は、はい⁉」

 不意に呼び止められた兵士は、緊張も相まってか素っ頓狂な声を上げる。青い顔は如何にも、荒事には不慣れな様子だった。

「最上階へ行きたい。最短で行くにはどこを進めばいい?」

「は、それなら、い一番手前、の螺旋階段が、そうかと……!」

「そうか。有り難う。お互い頑張ろう」

 明らかに身分が上だと分かる相手から、気さくに肩を叩かれた兵士は、息を詰まらせ反応に困っている。それに構うことなく、二人は再び歩き出した。

「――またですか」

 ゲルハルトが嘆息する。表情にも声音にも、殆ど表れはしていないが、彼は確かに、主君の行動に呆れていた。

「有事だ。文句は言わせないさ」

 頬を、見た目には殆ど分からない程度に綻ばせ、ミカエラは階段を一定の調子を保って登っていく。流石はというべきか、目的の最上階、城壁上へ辿り着いても、二人の呼吸は一切乱れていなかった。

「一雨来そうだな」

 見慣れない甲冑姿にどよめく兵達を差し置いて、ミカエラはひとりごちる。見上げた空には分厚い雲が、砦を挟む山の頂を隠す程に降りて来ていた。

    ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

「『憑獣術』の利点は時間が掛からないことにある」

 荷馬車を、召喚した異形の獣に牽引させながら、クロードは誰に対してでもなく講義を始めた。

「何日も、何時間も修練を積み上げるまでもなく、人間を強力な戦士へ至らしめることが出来る」

 聞いている人間など、居るとすれば馬車に乗っている六人くらいのものだが、誰もそれに耳を傾けていられる余裕など無い。一人に至っては意識があるのかさえ怪しい。

「しかし、欠点もある」

 当然だ。魔術も万能ではない。悠然とした足取りで、彼は蔵の端へ向かっていく。

 また蔵が揺れた。クロードの立つそこで感じた地響きは、それまでのどの揺れよりも強く、直接的だった。

「素質を求められる。『ケモノの霊』を受け留める、器としての素質が」

 杖で二回、彼は荷馬車を叩く。すると荷台は、まるで玩具のようにぱかりと、堅固な造りを無視して展開された。

 底に溜まっていた黒色がしとどに零れ、蔵の床を汚した。避ける足場さえ奪われた五人は、あるものは黒色と共に床に投げ出され、またある者は猫のように荷台から飛び下りた。

「しかし、成ってしまえば話は早い。――君達は『ただ本能に身を委ねていればいい』」

 一人語りの中、不意に織り交ぜられる『力ある言葉』。術者と被術者、発された言葉は繋がりを持った者の身に、変化を齎した。

「――ぐ……っ!ぅあああぁ……‼」

 文字通りの、絞り出したような悲痛な声。身を捩る彼等の体から、炎が噴き上がった。

――否、形容し難い色をしたそれは、魔力と呼ばれる(エネルギー)だった。被術者それぞれを包み込んだ魔力は、炎のように揺らめきながら、形を成していく。

 ある者は尖った耳に太い尾、手足には鋭い鉤爪。

 ある者は湾曲した逞しい頭角、勇壮な蹄。

 ある者は巨大な顎に、刺々しく堅牢な尾。

 ある者は丸く重厚な巨躯。

 それは、それぞれに植え付けられたケモノ達が有していた、生き抜く(たたかう)ための武器。

「――ほう!」

 クロードが小さく歓声を上げた。()()をより近くで観察すべく、彼は不躾に、不用心に近付いていく。

「告白すると、君のことは割とどうでもよかった。――しかし、改めるよ。『勇者』程ではないが、君にも素質があったらしい」

 嫌な輝きを目に宿し、息も掛かるほどの距離で、彼はピューマを観察する。

「ふ……。ふ……っ。ふ…………。ふ…………!」

 背を丸め、肩を上下させる様は、虫の羽化にも似ている。

 翅も、角も、触角も肢も無いが、魔力に覆われた彼の体には確かな変化が顕れていた。

 耳は長く尖り、瞳は縦に長く切れている。長く太く伸びた犬歯が唇から覗き、爪は頑強に増長して、脚はより速く走る為に、形を骨格から、獣のそれへと変化させていた。

 ピューマは知らない。彼と同じ名を持つ獣が、この世に居ることを。彼の名は、その獣にあやかって付けられたことを。ただ奴隷として輸入された彼の中に、祈祷師(シャーマン)の血が流れていることを。

 彼は、彼等は知らない。

「――?」

 後でちゃんと調べ直そう。予期せぬ拾い物に人知れず心躍らせるクロード。その視界の端に何かが入り込み、彼はなんとなしにそちらへ目を向ける。

「――――!」

 そして息を呑む。その瞬間、ピューマが起こした変化などは、些事に成り下がった。

 壁に貼り付くように、そこには男が立っていた。

 暗い蔵の中に在って尚その総身は黒く、見る者の不安を煽る。

 男は瘦身だった。しかし不健康に痩せ細っているのとは異なる、しなやかさと鋭さがそこには感じられた。

 まるで蟲のような。

 籠手に、身幅の広いパンツ。軽装は真黒な総身を、乱破のように飾っている。

 纏う毒々しいまでの魔力に、クロードは一目でそれが、『勇者』であると、半端だった変化が完了したのだと悟った。

「――ふ、ふふ……ははははは…………!」

 その口からは、自然と笑いが漏れ出た。

「凄い……。まるで、神代から甦ったようじゃあないか!」

 感動ともいえる感情の昂ぶりから、その声は震えている。しかしクロードは、ピューマのときとは異なり、むやみに近付くようなことはしなかった。

「虫害の厄神『アバドン』。圧は兎も角、魔力の質は、()()以上だ……。……『勇者』!『勇者』!――ああまったく!興味は尽きないなぁ!」

 苛ついたように頭を掻き毟るクロード。しかしその口元は笑みに歪み、目は怪しい輝きに爛々と輝いている。

 熱い呼び声に、『勇者』はぴくりとも動かない。

 やかましいと抗議するかの如く、また地響き。ぱらぱらと埃が、砦の一部だったものが彼等に降り注いで、煩わし気に、クロードはため息を吐いた。

「さて。全員準備は整ったようですし、始めるとしましょうか」

 かつん。蔵内に響き渡ったのは、石突を床に打ち付ける音。悶え苦しんでいた被術者達は、『勇者』に倣うかの如く、やおら立ち上がり、その後ろに横一列に並んだ。そこには糸で吊られた人形のような無機質さと、獲物に喰らい付く機会を、獰猛に窺う獣の荒々しさが混在している。

『勇者』が貼り付く壁がすっと、不意に透き通り、砦の外側をクロード達の前に映し出す。

 そこには同じく『憑獣術』を受けたアルンヘムの兵士が押し寄せていた。

「持つものを持たせれば……成程」

 関心したように、クロードは頷く。イノシシに憑かれていると思しき兵は、全身を重厚な鎧で固めていた。兜も肩当も、鎧の随所に痛みと凹みが見られ、隙間からは血が滴り落ちている。

 ふらつきながらもそいつは、身を低く構え壁に向かって体当たりをした。先程のものとは比べるべくも無いが、ぶつかった拍子に、確かに床は揺れた。

 猪に、自らの怪我の具合を省みる様子は無く、ただ目の前の(てき)を倒すことしか頭にない様子だった。

「芸の無いことをする」

 呆れたように、嘲うようにクロードは吐き捨てた。彼は再び、杖を床に打ち据える。

 かつん。涼やかな音を受けて、壁が水面の如く波打った。

「『戦え(いけ)』」

――――――――――――――――――!!!!

 力ある言葉による命令。蔵内どころか砦全体を揺るがす程の咆哮は、是の返答か。或いは不当な支配に対しての怒号か。

 突っ立っているのみだった『憑獣兵』達は各々に駆け出した。透けた壁は彼等を水のように柔らかく受け入れ、そして戦場へ送り出す。

 早速、頭角を生やした少女が猪武者を、蹴り倒した。

「――――おや?」

 満足気に頷くクロード。しかし彼はすぐに、怪訝に首を傾げる。そこには、まだ『勇者』がひとり、残っていた。彼は一歩、歩み寄る。

「どうした『勇者』?

「――ああ、俺か」

 初めに目にしたときから、変わらず彼は突っ立ったまま。クロードを振り返ることさえ無いままに、『勇者』は気だるげに応える。

「……ああ、そうだ」

 言葉を返して来たことに、ほんの僅かに目を丸くして、クロードは驚きを表現する。

「二度とその名で呼ぶな」

 うんざりしたような声だった。

「では何と?」

 ほんの一瞬の沈黙。

「なるべく酷くて、汚いのがいい」

 不穏に喜色の滲む声で、『勇者』はそんなことを口にした。

「――考えておこう」

 まるで満足したように、クロードの言を聞き終えるなり『勇者』は緩慢に手足を動かしだす。壁を透り抜け、そして彼は戦場に立った。

「…………」

 クロードは己の手を見やる。握り込まれて爪の跡がくっきりと付いたそこには、雫が出来る程の汗が滲んでいた。

 獰猛に、さながら獣の如く、彼は笑った。

    ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 窮屈だった。何もかもが。

 満足出来ない。満喫出来ない。

 何かが欠けているようで、空虚で、なのに余裕は無くて。

 叫びだしたくなると、決まって息は喉につかえる。

 暴れだしたくなる衝動は、いつも緊張に縛りつけられ、身動きが取れなくなる。

 求める自分が赦せない。

 楽になることが赦せない。

 呼吸さえ儘ならない。

 窮屈で、窮屈で堪らない。

 だから破った。破ってやった。

 壊した。壊してやった。

 なぁ――――


 欲求が、願望が、不満が、溢れ出て、絡み付いてくる。

 動け、動けと。

 やってしまえと。

 いいわけがない。従えるわけがない。ただ、耐え忍ぶしかなかった。

 これはだって、外に出してはいけないものだ。

 思うままに振る舞って何になる。

 湧き上がる自己嫌悪に呑まれるだけだ。

『やらずに後悔するくらいなら、やって後悔した方が良い』などと。

 人を殺しておいて、後悔も何も、あったものではない。

 俺は何もすべきではない。

 何をしても、誰かに迷惑を掛けるだけ。

 息苦しさと窮屈さが増すだけ。自己嫌悪に苛まれるだけ。

 俺には何の意味も、価値も無い。

 きっと、生きる価値さえ――

――――――――ただ

 ただずっと、死にたかった。

 生まれるべきじゃなかった。

 俺が、俺なんかが生まれたから、誰も彼もが不幸になった。

 俺が生まれていなければきっと、もっと、皆違った今を生きていられた筈だ。

『生まれてきてくれてありがとう』なんて、冗談でも聞きたくない。信じない。

 どんな言葉も、救いも、必要ない。

 けれど、一つ、望んでいる言葉がある。

お付き合い頂いて有り難うございます。

遅筆故にあれから何ヶ月も経ってしまいました。猛省。

続きはなるべく早く。完結は年内に、が当面の目標です。

彼を生み出した者として、彼に負けないよう頑張ります。

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