5.風の足音
5.風の足音
春夏秋冬、幸せな日々が続いていた。皆で畑を耕し、農作物を売りながら暮らした。決して贅沢ではないけれど、それは今に始まったことではない。時には近所の老人たちを集め、皆で収穫を祝うなどの宴も行った。その日々はとにかくのどかで平和だった。
そして訪れた初夏、リュックたちは小麦の収穫を終えると、小麦を粉に精製した。次に街で売り捌く為に袋に小麦を詰め、それを馬車へ積み込んだ。
街へ出るのは大概ソフィアとリュックだったが、今回はクロディーヌも一緒に行きたがった。「ねえ、リュック、ソフィア、たまには私も街へ連れて行ってよ」そう言ってクロディーヌはポッコリ膨れた腹を優しく撫でた。
「えっ?ソフィア、大丈夫かな?」リュックは身重のクロディーヌを心配して、ソフィアに相談した。
「えっ、大丈夫でしょ!いざとなったら私がいるし、リュックだっているでしょ?妊婦に気分転換は絶対必要だよ!馬車も慎重に走らせれば大丈夫でしょ」
「やった!たまには街に出ないとね。そうと決まれば夕飯の買い物もね。リュックは何が食べたい?」
「そうだな、チーズオムレツとか?」
「あー!それ私の好物じゃない!」クロディーヌはそう言って両手を腰に当てた。
「反対?」
「そんなわけないでしょ!卵とチーズ買わないとね!」
「えーっ!クロディーヌ、私も食べてみたい!」楽しそうに話すリュックとクロディーヌにソフィアも紛れてそう言った。
「勿論よ!簡単だし、美味しいし、正に最高よね!」
荷馬車の手綱はリュックが握り、その両脇にはクロディーヌとソフィアがいる。三人は終始賑やかに市場までの道のりを楽しんだ。
「二人は子供の名前決めたの?」ソフィアが微笑みながら二人に質問を投げかけた。
「ふふふ、決めたよ。ね、リュック」
「ああ。男ならルイ、女ならエリザベートだ」
「良い名前ね!」ソフィアは両手をポンと叩いてそう答えた。
そして街への城門通過を前に、リュックが改めって口を開いた。
「盛り上がっているところ申し訳ないが、ソフィアもクロディーヌも、街中では一人にならないようにな。最近はロマニア人も多くなったし、それに紛れて東西南北から様々な人が流れてきている事実がある。どんなやつがいるか分からないからな。外国人には特に注意だ」
「成程。さすがは元王子ね」ソフィアはそう言ってリュックを肘で軽く小付いた。
「何が出来る訳でもないのにな。やたら情勢やら治安やら気になってしまってね」
「ねえリュック、以前私はあなたを王には向いていないと話したけれど、実は向いているのかもね」クロディーヌもそう言うとソフィアの真似をしてリュックを肘で小付いた。
「はは。それは分からない。実際に王になってみて、死ぬ間際に国民が心から悲しんでいたのならば、それは真実の王なのではないかと私は思うよ」
―現在のロマニア国・ロレンヌ領
この頃の国の情勢はワルテルが領主として納めてはいたが、続々と訪れるロマニア人や、それに紛れてここを訪れる者たちをコントロールしきれずにいた。街中での略奪や暴漢など、日に日に頻度が増していた。また、城内の家臣たちにも悪い影響が出始めていて、ただロマニア人というだけで大手を振って歩く新参者も増え、ワルテル派と呼ばれていた家臣たちは、それに憤慨していた。国の舵取りに優秀な結果を残し続けてきたワルテルに付いて行けば、きっと恩恵を受け続けられると信じて来たものの、昨今は何も分かっていない新参者のロマニア人に見下され、逆らうことを許されずにいる。ワルテル派の者たちの我慢も限界を迎えようとしていた。
リュックたちはロマニア領の城門を抜け、真っ直ぐ荷馬車を走らせた。街の中心部から市場にかけては、今までになく一番賑わっている。確かにリュックの言う通り、ロマニア人や見たことも無い風貌の人を多く見かけた。街全体がとにかく人でごった返している状況で、なかなか馬車は進まず、市場に着くころには空は赤く染まっていた。
三人は市場の片隅で大急ぎで小麦を売り始めた。苦戦を強いられることを危惧したが、人の多さとソフィアの顔効きもあって、小麦は即時完売した。とにかく日暮れ前に買い物も済ます必要があった。話し合いの結果、リュックが荷馬車で留守番、クロディーヌとソフィアが買い物へ行く事になった。クロディーヌとソフィアが買い物を続けていると、物乞いの乞食が二人に声をかけた。
「お恵みを・・・どうか・・・」ボロボロのフードを被った男が中に着ている服は、着古した影響で黒ずんでいる。服の形状は元貴族だろうか。強い異臭を放っている。長い間そのままに放置したのであろう髪と髭は伸び放題で、髪は太ももの辺りまで、髭も腹の辺りまで伸びていた。腰を下ろしている男は建物に力無く寄りかかり、飢えで死に絶えそうな様子だった。
「あの、これ少ないですけど」そう言ってクロディーヌは買ったばかりのリンゴとパンを物乞いに施した。
物乞いはか細い声で礼を言うとすぐさまリンゴにかじりついた。歯のケアも出来ていなかった所為で、男の歯はリンゴをかじる音と共に抜け落ちた。
しかし男はそのことは気に留めず、リンゴを血まみれの口でそのまま食し、飲み込んだ。そしてそのままパンをかじった。パンをかじった口元からは血とよだれがしたたり落ちていた。クロディーヌとソフィアはその様子をおぞましく感じ、そっとその場を離れた。
二人は買い物を再開し、再びリンゴとパンを購入した。残りは卵とチーズで今日の買い物は終了するので、ソフィアは右の卵屋、クロディーヌは左のチーズ屋で買い物を済ませて再び合流することにした。買い物はすぐに済ませた二人だったが、ソフィアはフローラと偶然会ってしまい、買い物後に少しだけ世間話をしていた。思ったより時間のかかっているソフィアの姿を早く目に入れようと、クロディーヌは何度も辺りを見渡した。しかし一向にソフィアの姿は無い。クロディーヌはソフィアを迎えに、卵屋へ向かった。卵屋へ向かう途中、先程の乞食が気になり、乞食がいた場所に目を向けた。しかしそこに乞食の姿は無く、クロディーヌはそのまま卵屋へ歩みを進めた。
その時だった。
「あっ」
クロディーヌは背中にズキッと激しい痛みを感じた。ゆっくり振り向くと先ほどの物乞いがいた。物乞いが一歩後ろに下がるとその手には血まみれの短剣があった。次の瞬間、クロディーヌの体は力を失い、腰からストンと地面に砕け堕ちた。
『私、この男に刺されたんだ・・・』痛みは激しさを増し頭が真っ白になっていく。理由も分からないまま、クロディーヌの意識は薄れて行き、視界は徐々に黒くなっていく。
『どうしよう・・・リュック・・・』
クロディーヌを刺した乞食は倒れこんだクロディーヌをしばらく見つめ、何かをブツブツ唱えている。そして一人二人と増えてくる人だかりを前に、その場をそっと後にした。
クロディーヌの周りに出来た人混みは、かき分けなければクロディーヌの姿が見えなくなる程に膨れ上がっていた。
「何かあったんですか?」買い物から戻ったソフィアが人混みの人たちに声をかけた。
「何でも妊婦が刺されたらしい」
「え?」ソフィアはまさかという思いと、絶対そうではない様にと願いながら、人混みを力いっぱいかき分けて中心部へ進んだ。そしてその先にはソフィアの嫌な予感そのままに、最悪の事態が待っていた。
「クロディーヌ!」ソフィアは屈むと、震える手でクロディーヌを抱き寄せた。
「ソフィ・・・・ごめ・・・さい・・・。ど・・・こ・・・」クロディーヌの意識は途切れ駆け、既に体の感覚は全て途切れていた。
「え?クロディーヌ?ちょっと?」
「あか・・・ちゃ・・・」クロディーヌは腹の子を心配しながら息絶えた。
「クロディーヌ!クロディーヌ!どうしよう!どうしよう!」ソフィアはクロディーヌとお腹の子を助ける方法を模索したが焦るばかりで何も浮かばない。あたふたとソフィアはクロディーヌを抱いたまま辺りを見回した。「どうしよう。助けなきゃ。どなたか、助けてくれませんか?」そう言ってソフィアは周りを入念に見回したが、悲しそうな顔をして首を振る者、隣同士でヒソヒソ話している者、目をそらす者、助けようとする者はいなかった。ソフィアはそっとクロディーヌを寝かせると、再び人混みの中に突っ込み、人込みの外へ飛び出した。そして全速力でリュックの元へ駆け付けた。リュックはソフィアの尋常ではない様子にクロディーヌに何かあったのだとすぐに察知し、何も聞かずにクロディーヌの元へ駆けて行った。そして人混みをかき分けると、そこには最愛の妻が息絶えた姿があった。
「おい!クロディーヌ!おい!」ぐったりと地べたに寝そべり、息をしていない妻をリュックは抱き寄せ、何度も声をかけた。一向に返事をしない妻を抱いた腕は彼女の血で真っ赤に染まっていた。リュックはクロディーヌの胸に耳を当てたが、心音が聞こえてくることはなかった。
深い絶望感に包まれたが、ハッとお腹の子の存在を思い出し、クロディーヌの腹に耳を当てた。しかし母親と同様に、子供の心音は聞こえてこなかった。リュックは強く目を閉じると、ぐったりと下に俯き、クロディーヌの腹に顔を埋めた。
ザワザワと周りの人たちは好き放題にあることないことを話し続ける。
「誰だ⁉誰がこんなことしたんだ⁉」リュックは突然、苛立ちながら顔を上げ、周りの人たちを睨みつけた。苛立っていたのは何よりもふがいない自分に対してだった。父の死の時も同じ、自分がもっとしっかりしていれば救えた命だと感じた。そう思えば思う程にいたたまれなくなった。
そんなリュックに中年の女が声をかけた。「あの、ご主人、刺したのは男の物乞いだよ。逃げるときにフードが外れて後ろ姿を見たけれど、汚くて長い金髪で身長はあなたより一回り大きかった。短剣で後ろから刺したんだよ」
リュックはもう一度ギューッとクロディーヌの躯を強く抱きしめると、そっと床に寝かせ立ち上がった。
「ソフィア、あとは頼む!私は犯人を許すわけにはいかない。奥さん、そいつはどっちに?」
「あっちだけど、見つかるかね・・・」南東を指さした女は不安そうな顔をしていた。
リュックはすぐさま人混みをかき分け、南東の方角に走り始めた。
「リュック!」ソフィアはリュックに声をかけたが、リュックには届かない。あとは頼むと言われても、ソフィア一人の力ではクロディーヌを運ぶことも出来ない。
リュックは走りながらクロディーヌを刺殺した男を探した。市場の中、幾多にも別れた細い路地、いくら探しても男の姿を目にすることは出来ず、いつの間にか辺りは真っ暗だった。
リュックは途方に暮れ、空を見上げた。リュックの心情とは裏腹に、星は暗い夜空一面に輝いている。
翌朝、眠らず夜明けを迎えたリュックは、国を囲む城壁の上にいた。城壁内にはロマニア国・ロレンヌ領、背後には何処までも広がる畑や高原、転々と佇む集落。各方面に森や林も広がっている。リュックの横ではバサバサと音を立て、ロマニアの国旗が風になびいている。東から登る太陽が、朝露で澄んだ世界に染み渡る。リュックはクロディーヌと過ごした日々を思い出しながら遠い空を見上げ、空が徐々に色づいて行く様子を眺めた。
リュックにとってクロディーヌと生まれて来る子は自分の全てだった。そしてクロディーヌは自分が死んだと思った際、命を絶とうとしたと聞いていた。それはリュックも同じで、クロディーヌのいない人生など、意味を持つ気はしなかった。タイミングにして街の人が目を覚まし始めた頃、リュックは城壁の縁に立つと、両手を左右に広げ、ゆっくり瞳を閉じた。突き抜ける風は無常の風。リュックは力を抜いたまま前に倒れこんだ。その体は城壁の下へ、下へ吸い込まれていった。
“バサッ!”
リュックが落ちた先は固く敷き詰められた石畳ではなく、限界まで高く積んだ干し草の上。
牧場から来た荷馬車が城門を潜り、通過したところにリュックが偶然落ちたのである。
馬車を運転している男は御年八十二歳のダミアン・クリュヴェイエ。かつてロレンヌ王国で最強の騎士として名をはせたこの男は、今は引退して牧場を経営していた。そして今日は、城内の馬へ干し草を届ける日。ダミアンがこのタイミングでここを通るのは初めてだった。たまたま前日に体調を崩し、干し草を届けることが出来なかったので、朝一番で干し草を届けようと早くに家を出発していた。高く積み上げられた干し草は最高のクッションとなり、リュックは水に飛び込んだかのように干し草の深くまで体を沈めていた。そしてそのまま気を失い、自身はもう死んだ気分で深い夢に浸っていた。夢の中ではクロディーヌが涙ながらにリュックに何かを訴えている様子だった。でもそれが何なのか夢の中のリュックには分からなかった。そしてその答えを問い詰めたところで、リュックは目を覚ました。
「教えてくれ!」そう叫んで起きた場所は干し草の中だった。リュックは何度も悶えながら干し草の外へ飛び出した。干し草はまだ馬車の荷台の上で、リュックはそのままズドンと地面に転げ落ちた。
「何者だ!」すかさず干し草から飛び出した曲者に外にいた男が反応し、干し草を刺すフォークをリュックへ向けた。
「痛っ・・・」そう言ってリュックは打ち付けた腰を抑えて痛がった。
「あなたは?」そう驚きながら言葉を発したのは、ミシェル・オゾンだった。
「お?ミシェル?」
何故、ミシェル・オゾンがフォークを持って馬小屋にいるのかは不明だったが、まず知っている顔を前にリュックは単純に驚いた。「え?ミシェルなのか?」
「リュック様、ご無事だったのですね!」そう言ってミシェルは涙ながらにリュックに抱き着いた。
「いてててて、止めてくれ」
元大将のハグは力強く、打ち付けた腰と、落下した際に痛めた全身に強く響いた。
「無事で何よりでございます」
「また私は死に損ねたのか」
「そんなことおっしゃらないで下さい。しかしどうやって、何故、ここにいらっしゃるのですか?」
「何から話せば良いものか。それはミシェルも同じであろう。無事に過ごせていたのか?」
「はい。私は簡単に言ってしまえば大将から馬の世話係に降格です」ミシェルはそう言ってペコリと頭を下げながら頭をかいた。
「はー。何とも申し訳ない」リュックは溜息をついてそう言った。
「いえ、殺されなかっただけでも、ましかもしれません」
「私は、簡単に言えば、あの後、記憶を失い、路頭に彷徨い、記憶を取り戻した頃には国はすっかり変わり、なす術無かったが、妻を娶り、幸せになれそうだと思った矢先、妻を殺された。だから死のうとした」簡潔に話したリュックの目には涙が浮かんでいた。
「散々でしたね」そう言ってミシェルも涙ぐんだ。
「ああ。二度も死に損なった。天は何故、私を死なせてくれぬ」そう言ってリュックは顔をしかめた。
「そういう今は、まだ死ねない運命なのでは?」そう声をかけたのは、干し草を運んで来たダミアン・クリュヴェイエだった。
「おお、ダミじいさん」厠から戻ったダミアンにミシェルが声をかけた。
「ほっほっ、人生は表裏一体。良き時もあれば悪い時もある。大物程、その振り幅は大きくなってしまうもの。まあ今のリュック様にお伝えするのは酷ですがな・・・」
「リュック様、心中お察しいたします。しかし、いつか私はリュック様の下、この国をロレンヌへ取り戻せたらと懇願しております。ここにはおりませんが、親友のフレデリク・バルも、リュック様の脱獄を手伝った者たちも、皆同じ思いです。他にも城内には苦渋を舐めている者数多、このままだと内乱が起きます。しかしその内乱の思いを活かさない訳にはいかないと私共は考えております」
「ミシェル、気持ちは汲むが今はそっとしておいてくれないか」
「承知いたしました。リュック様、今はどちらにいらっしゃるのですか?」
「北東の小さな集落だ。来るなよ、集落の奴らに万が一危害が及んでしまったら、申し訳が立たなくなる」
「ではどうすれば」
「クリュヴェイエ、卿の牧場は何処にある?」
「東のソレイユ街道沿いにございます。目印は赤屋根の建物です」
「分かった。ではいずれ訪れよう」
「お待ちしております」
「では、申し訳ないが、妻の躯の傍へ戻っても良いだろうか?」
「はっ、ではリュック様、こちらへ」そう言ってミシェルはリュックが城から出るときに使っていた通路へ案内しようとした。
「ミシェル、この道は塞がれているのではないのか?」
「今も、南の出口は塞がっております。他にも通路はございます。以前リュック様を牢から出す際に、ロレンヌの隠し通路を全て把握することが出来ました」
「そうか、では頼む」
「はっ。ではダミじいさん、少しここで見張っておいて頂けますか?」
「ほほほ、構わんよ」
「クリュヴェイエ、卿はもう若くない。無茶はしないでくれよ」
「ほほほ、頼まれてもしませんよ」
「ほう、ならば安心だ」
ミシェルはリュックを連れて隠し通路を進んだ。隠し通路の途中、石をずらせる場所があり、ミシェルはその先の道を案内した。
「まさかこんなからくりがあったなんて想像すらしなかったぞ」
「それは皆同じです。だから隠し通路なのでしょう。しかしリュック様はダミじいさんをご存知だったのですか?」
「勿論だ。クリュヴェイエは我が父、ピエール王に剣を教えた元大将だ。卿と私の関係と同じだな。だから父上から話を聞いて知っていた」
「え?そんな凄い方だったとは存じ上げませんでした。今まで散々無礼な態度を取ってしまった。どうすればいいですかね?」
「ははは、クリュヴェイエは気にしていないと思うぞ」
「いやいや、後で謝罪しよう・・・」
そんな話をしながら着いた先は、北の墓地にあった墓石の一角だった。
「今の私にはぴったりな場所に出たな」
「リュック様、笑えませんよ」
「そういうつもりはないのだが」
「失礼いたしました!」
「では、ミシェル・・・いつかは本当に助かった。感謝する。また、な」
「はっ、リュック様もご無事で!」
こうして二人は一旦分かれた。ミシェルは馬小屋に戻ると、ダミエルをクリュヴェイエ閣下と呼び、深く非礼を謝罪した。
そんなミシェルをダミエルは笑い飛ばして、いつも通りダミじいさんと呼ぶように促した。そして二人は、愛妻を失った直後に自分たちを思いやってくれた元王子の寛大さに心打たれ、いつか訪れるかもしれないリュックの王座奪還の成功を誓い合った。
リュックは墓地から走って集落へ戻った。ソフィアとギュエルタスの家の前には見慣れたソフィアの荷馬車が止まっていて、台車の上にはクロディーヌのものであろう血糊が付いていた。走った勢いそのままにドアを開けると、集落の年寄りたちが集まっていた。そしてその輪の真ん中でソフィアが座って赤子を抱いていた。赤子はすやすや眠っている。
「あっ、リュック」
「ソフィア、その子は?」
「リュックの子だよ」
「どういうことだ?」
「あの人混みにいた医者のミクー先生が、もしかしたら赤ちゃんはまだ生きているかもしれないって、クロディーヌのお腹をあの場で裂いて、この子を取り出したのよ。最初は真っ青な顔していたけれど、先生が助けてくれ、息を吹き返したの!」
ミクーは女医で、くせ毛を後ろで結った飾り気のない中年女性だった。
「何ということだ・・・」リュックは恐る恐る赤子に近付いた。
「本当、奇跡よ。男の子だよ。そしてこの人がミクー先生」
「ミクー先生・・・、本当にありがとうございます!」リュックは涙をボロボロ流しながらミクーに感謝の意を表した。
「私があの場所にいたことが不幸中の幸いでした。私も命を一つですが、救うことが出来て嬉しく思っております。奥様は残念ですが・・・私に出来ることは何でもおっしゃって下さいね」
「はい、ありがとうございます」リュックはそう言うと、ソフィアから赤子を渡され、その子を抱き寄せた。赤子は静かにスヤスヤと眠っている。自分の顔とクロディーヌの顔を足して二で割ったような赤子の顔立ちに、リュックは愛しさを強く感じ、胸を痛めた。
ふと目線を外した先に見えたのは棺だった。中にはクロディーヌの躯があって、その周りを色とりどりの花が埋め尽くしていた。棺はここにいる大人たちが手作りで作ってくれていた。
「綺麗だ・・・。大好きな花に囲まれて、良かったな」リュックは泣きながら、冷たくなったクロディーヌの頬を撫でた。
「クロディーヌがね、赤ちゃんを守ったのよ・・・きっと」ソフィアが横で囁いた。
「ああ・・・。そうだな。ありがとう、クロディーヌ」リュックは少し微笑みそう言った。
「リュック、赤ちゃんのことで分からないことは沢山あるだろうけれど、私たちが傍にいるから、いつでも頼ってね。いつも私たち助けてもらってばかりで、何も返せていないから」そう話すのは御年八十七歳になる集落一番の高齢、マリアンヌ・トーマンだった。
リュックはマリアンヌの優しい微笑みに再び涙を流し手でそれを拭った。
「本当に皆さんありがとうございます。心から感謝します。言葉足らずで申し訳ないですが、宜しくお願いします」
クロディーヌの葬儀は集落で慎ましく行われた。リュックは息子にクロディーヌと決めた名前のルイと名付け、大切に育てた。ルイに必要なミルクは、医者のミクーが知り合いの母親たちに声をかけて集めてくれた。ルイの度重なる病気やトラブルは、ソフィアやギュエルタス以外にも経験豊富な集落の老人たちが助けてくれた。
―この頃のオレリの様子
娼婦館の主だったオレリはクロディーヌを失って以降、新たな逸材の女を探していた。クロディーヌと暮らしていた街外れの小さな家に、今も残った娼婦たちと暮らしていた。クロディーヌのことは娘とはいかなくとも、オレリの中ではそれに近い感情で可愛がっていた。クロディーヌの帰りが遅いと、重たい体を動かして、娼婦たちと共に息を切らせながら探したこともあった。
しかしリュックが記憶を取り戻した日以降、クロディーヌの姿を目にすることは無かった。オレリは三日間、クロディーヌを探し続けると見切りをつけ、新たな人材を求めて街中で目を凝らした。そしてその日の内に乞食の若い女一人と、孤児の女の子一人に声をかけ、上手い話で家まで連れて帰った。綺麗に体を洗い、美味い飯を食わせ、綺麗な服を着せた。これから安定した生活を約束する条件として体の売り方などを指南した。オレリは再び街中で高級娼婦館を営業することを目標に日々を過ごしていた。
―同時期、ロマニア国・ロレンヌ領・城内
ロマニア国・ロレンヌ領の領主となったワルテルだったが、ロマニアから来たエリオ・ブラガという男に手を焼いていた。ワルテルがジェジェと呼ぶ右腕、ジャン=ジャック・ジャヌレ将軍の元帥就任式に、ロマニア本国からの来賓として招かれていた。
気取った性格のこの男は、肩まで伸びた黒いくせ毛のオールバック、口には髪色と同じ髭を鼻の下と顎に生やし、それを綺麗に整えていた。鍛え上げた体は細いが筋肉質、おまけに長身だった為、男前ではないが、とても目立つ存在ではあった。就任式は終わって一週間は経つというのにエリオは帰路に就こうとはせず、ロレンヌ領に留まり続けていた。
暇を持て余しては酒を煽り、ワルテル派と呼ばれた男たちの仕事ぶりに何かと嘴を入れてきた。エリオはその気取り屋で横暴な性格から自国で蔑まれていて、来賓として鄭重に扱われたことに気を良くし、自分は偉いと完全に思い違いをしていた。
「おい!お前たち!止まれ」王宮でブラガは、すれ違いざまに自身へ挨拶をしなかったエドガー・ベラスコ大将とジャック・ヴェイユ中将の足を止めた。
この時、ロレンヌ領では東の敵国のペルキリア国との小競り合いが常習化していて、ジャヌレ元帥を中心にこの国の部隊は、その鎮圧に追われていた。その為、いつまでも就任式の来賓に構っているゆとりは無かった。
「これは失敬」エドガーはそう言うとジャックと足を止め、ブラガに敬礼をすると、すぐにその場を後にしようとした。
「待て待て待て!無礼ではないか!」ブラガは二人を追いかけ、ジャックの肩を後ろから掴んだ。
「まだ御用ですか?我々は国の防衛に勤しんでいるのです。邪魔は止めて頂けませんか?」ジャックは苛立ちながら、ブラガの手を払った。
「おい!無礼だぞ!」ブラガはそう言うと、腰に挿していた剣を抜き、ジャックに斬りかかった。
ジャックは咄嗟に剣を抜き、ブラガの首を横からスパンと跳ねてしまった。
「おいジャック、これはフォロー出来ないぞ」エドガーは頭をかきながら、天を仰いだ。
ジャックが降ろした剣からは、ブラガの血がポタポタとしたたり落ちていた。
「あー、手が出ちゃった」ジャックは後悔し天を仰いだ。
傭兵から経歴をスタートさせたジャックは中将まで上り詰めていたが、この日を最後に獄中での生活を余儀なくされた。