3.記憶の残像
3.記憶の残像
リュックは目を覚ますと、そこがベッドの上だということだけはすぐに認識することが出来た。消毒の臭いが鼻を衝き、自身の胸には突き刺すような激しい痛みが脈を打つ。その痛みは何にも代え難く、とても体を動かせるような痛みではなかった。リュックの胸と顔には白い包帯が綺麗に巻かれていた。
「あっ!起きたのね!」そう言って見知らぬ女がリュックの傍で声をかけた。
「あなたは?」
「ソフィアよ」
「ソフィア?・・・見ず知らずの私を救ってくれたのか?」
「え?・・・うん」ソフィアはそう返事をしながら、自分はリュックに覚えられていないことに落胆した。オリーブの瓶を運んでもらって以降、自分は再会を焦がれていつも街中でリュックの姿を探していた。『君はあの時の!』なんて台詞を期待していただけに悲しみは大きかった。
「救ってくれてありがとうソフィア。私は・・・」
「私は?」
「私は・・・何も思い出せない・・・」
「・・・そっ・・・か・・・あなたはね・・・ミロよ」
「私は、ミロ?」
「そう、ミロ・ポム」
「そうなのか。知り合いだったのか。良かった。それで私たちはどういう関係だったのだ?」
「ええっと・・・こっ、恋人」ソフィアはとっさに嘘をついた。リュックへの片思いが、ソフィアの心に魔を差させてしまった。
「何と言うか、すまない・・・記憶を失っていて・・・その」リュックは素直に信じた。手厚い看病をされていたことは明らかで、リュックにソフィアを疑う余地は無かった。
「二人で新しく思い出を作っていけばいいじゃん!」ソフィアはドキドキしながらリュックの手を取った。
「そうだな」リュックは手を握り返し、笑顔でそう答えた。
「お腹、減っているでしょう?」ソフィアは張り裂けそうな胸の高鳴りをごまかすように、慌てて握った手を離した。
「いや、傷が痛すぎてよくわからないんだ」
「そうだよね。でも3日は食べていないの。だから食べて」そう言ってソフィアは一度台所に戻ると、リュックの為に煮込んだ野菜と鶏肉のスープを持ってきた。そして一口分のスープをスプーンですくうと、「フーッフーッ」とスープを冷まし、リュックの口にスープを運んだ。スープはとても柔らかく煮込んであり、全てが口の中でとろけていった。
「美味しいよ、ソフィア。ありがとう」リュックはそう言ってソフィアに微笑んだ。
「・・・うん」ソフィアは頬を赤らめ次の一口の準備をした。「フーッ、フーッ」
「ただいま、ソフィア!」帰宅したギュエルタスが戸を開け、ベッドがある部屋に顔を出した。
「お兄ちゃん!」リュックはそう言って兄の声がする方向に顔を向けた。
「おーっ、意識戻ったんだな!良かった!」
「あっ、この度は救って頂き、ありがとうございます」
「いやいや、当然のことです!あっ、それで・・・」
「あっ、お兄ちゃん!」ギュエルタスが早速褒美をもらおうとしたところで、ソフィアが割って入った。「ちょっといい?」
「ん?何だよ?別にかまわないが」ギュエルタスは少し不愉快そうだった。
「ミロは待っていてね」ソフィアはそう言うと、ギュエルタスを連れて部屋を出て行った。
「どうした?」小声でギュエルタスはソフィアから早く話を聞き出そうとした。
「記憶が無いのよ」ソフィアも小声で言葉を返す。
「え?」
「だからー、記憶が無いの!」
「何のだ?」
「彼の!」
「えっ?嘘だろ?」
「嘘ついてどうするのよ?」
「だって、それならば褒美もらえないじゃないか。あの紋章はロレンヌ王国の紋章だぞ?」
「だって自分の名前すら覚えてなかったのだから。それに彼の名はミロ・ポム。全然、ロレンヌじゃないわ。見つけた場所が娼婦館でしょ?全然意味が分からないじゃない」
「そうなのか・・・。じゃあ、思い出させよう!」
「ちょっちょっちょっ、焦りすぎ!まだ目を覚ましたばかりなのよ?もっと大切にしてあげてよ!」
「お前やけに親切じゃないか?さては・・・」
「ちょっと、ふざけないで!」そう言うソフィアは赤面した。
「顔、赤っ!」
「うるさい!ほらっ、あっちいけって!」
「あっかあ~」
「うるさい!バカ!」
「好き?」
「うるさい!」
ソフィアは真っ赤な顔をしたまま、リュックの元へ戻って行った。
「ごっ、ごめんね。うちのお兄ちゃん、バカでさ」
「仲が良いのは良いことだよ。私にも兄弟がいたのだろうか?」
「えーっとね、どうだったかなー。特に兄弟のことは話してなかったよ」
「そうか」
「うん。スープ食べたらまた休んでね!」ソフィアは再びリュックにスープを食べさせると、しっかり休むように言葉をかけた。
「すまない」リュックは力無く言葉を発すると、そのままベッドで眠りに落ちた。
その後もソフィアは何日も献身的な看病を続けた。そのかいもあり、リュックの傷はみるみる回復して行った。リュックはリハビリも兼ねてソフィアと外に出ることも始めていた。
今日は北東の森へキノコを採りに来ている。
「なあ、ソフィア、私はどんな男だったか教えてくれないか?」
「えっ?あっ、うん」ソフィアは困った。恋人だととっさについた嘘が自分を苦しめる結果になってしまっていた。今までも何とか話題を変えてごまかしてきたが、そろそろネタも尽きてきた頃だった。正直、ソフィアはリュックのことなど全然と言って良い程に知らなかった。名前がミロで、倒れそうだった自分を助けてくれた。それだけだ。「えっとね、あなたはとても優しい人よ」
「優しい?」
「うん、優しい人。出会いはね、私がこーんなに大きな瓶をふらふらで運んでいるところを助けてくれたのよ」
「随分大きな瓶を運んでいたんだね」
「そう、丸一日飲まず食わずで運んでいたら流石に持たなくて、倒れる瞬間に助けてくれて、そのまま瓶を街まで運んでくれたのよ」
「へー、他には?」
「今日はここまで!」
「え?」
「過去ばかり気にしては前に進めないぞ!」
「それもそうだな、よし」
「ところでミロの集めたキノコですが・・・」
「大きいだろ!」
「毒キノコばかりですっ!」
「えっ?」
「全部、廃棄します!」
「えー」
二人は昼過ぎには籠いっぱいにキノコを集めることが出来たので、帰宅することにした。
ソフィアの家は山の麓にある小さな木で出来た一軒家だった。城壁に囲まれた街からは少し離れていて、この近隣に住む住人は老人が多く、全員で二十五名ほどだった。ギュエルタスとソフィアは幼い頃に両親を野党に殺されており、あの手この手で今日まで生き延びてきた。主な収入源はギュエルタスが盗んだ物を売った金と、ソフィアが自然の恵みで収穫する四季折々の野菜や果物、狩りをして捕らえた動物や魚などだった。いつしかソフィアが瓶で運んだオリーブも野生のオリーブだった。ソフィアはギュエルタスが盗みで生計を立てていることを知っていた。ソフィアは過去にギュエルタスへ盗みを止めて欲しいと懇願したが『それでは生活が出来ない』とギュエルタスが盗みを止めることはなかった。
ソフィアはせめてもの願いとして、盗みは悪い貴族や悪党、誰もいない場所からだと約束させた。ギュエルタスはそれを愚直に守っていた。
―ギュエルタスの日常
物心ついた時からギュエルタスは盗みを働いていた。両親を亡くして以降、まだ右も左も分からないソフィアを連れ、街中でひったくりなどの窃盗を繰り返していた。その腕は日に日に上達し、一年程経つ頃にはすっかり有名人となっていた。そんな身分であるから、もはや街中を歩くことも出来なくなっていた。
ギュエルタスはソフィアを連れ、街の外にある水路の端に座って途方に暮れていた。
「お兄ちゃん、おなか減った」力無い声でぼやいたソフィアはギュエルタスの肩に頭を付けた。
「・・・ああ」返事をしたギュエルタスの目は死んでいた。
「あっ、お兄ちゃん、魚!」そう言ってソフィアは、はしゃいだ様子で水路の中を指した。
「うん」ギュエルタスは聞き流した。今後どの様に生き抜いて行くかを悩み考えていたのだ。
“ザバッ”水が動く音にギュエルタスが振り返ると、水路の中にソフィアがいた。「獲ったよ!」ソフィアは胸いっぱいの大きさはある魚を抱えている。魚はヒレを大きく動かし、必死に逃げ出そうと悶えている。
「これだ!」ギュエルタスはそう言うと、明るい表情を見せた。
この日からギュエルタスはソフィアと共に川で捕った魚、山で採ったキノコやオリーブなど、自然の幸で生計を立て始めた。やがて街外れの集落に住み始め、老人たちに囲まれながら大きく育った。それでもギュエルタスは街中での盗みを止めることはしなかった。その背景には自分たちだけでなく、集落の老人たちの生活をも見守ろうとするギュエルタスの考えがあった。盗みを働いているなんて老人たちに話したら、即座に止めろと言われるに決まっていたので、そのことは黙っていた。また、妹に対しては他人の面倒まで見ているなんて照れくさくて言えず、盗みを続ける理由を偽っていた。村長と言ってはお門違いで大げさだが、集落ではギュエルタスが人々の生活の安定を支えていたことは事実だった。
そんな日々の中、明け方にギュエルタスが帰宅をした。行先も戻り時間も伝えず、黙って家を出ていることはざらで、妹のソフィアはいつもギュエルタスの帰りを心配していた。
「お兄ちゃん、その火傷どうしたの?大丈夫?」ソフィアが泣きそうな顔でギュエルタスに近付いた。
ギュエルタスの掌は両手とも焼き爛れていた。よく見ると服や髪も焦げている。
「家事の家に入ったんだ。そしたら女の人が焼け落ちた柱に挟まれていたから、助けたんだ。そうしたらこうなってしまった。でも、その家の旦那さんに感謝されたよ。盗みに入ったのに感謝されるなんて変な感じだ」
「お兄ちゃん、心配だからもう止めてよ」
「ごめん。でも止めないよ。もうひったくりだとか、無暗に盗みはしていないさ。今日だって家事だったから入ったんだ。どうせ焼けてなくなってしまうのだから、盗られたって一緒だろ」
「でも危ないよ」
「ああ。数は減らすよ。でも生き抜く為には外せないんだ」
「私、もっと頑張るよ?」
「ああ、それでもだ」
「分かった・・・」ソフィアは悲しそうに返事をすると、家の奥から救急箱を取り出した。
―リュックがギュエルタスたちの家に住み始めて半年程経った頃
「なあ、ミロ、見て欲しいものがあるのだが」そう言ってギュエルタスは箪笥の底にしまっていたリュックの剣を取り出した。
「・・・これは」
「わかるか?」
「立派な剣だ。紋章まで入っている」
「それだけか?」
「ああ。これは何の紋章だ?」
「あっ、ああ。俺も調べているところだ」ギュエルタスはがっかりした。本当にリュックの記憶はすっからかんになっていた。今や街で目に入る国旗や紋章はロマニアのもの。記憶が無いのであれば知る筈も無かった。ギュエルタスは再び剣を箪笥の奥へと綺麗にしまい込んだ。
「そんながっかりしないでくれよ、ギュエルタス。俺ももし思い出したらすぐ伝えるから」
「ああ。わかった」ギュエルタスはあえて紋章のことや、知る限りのリュックの過去を話さなかった。今のリュックに話したところで何にもならないと思っていた。
―夏の終わり
リュックとソフィアは炎天のもと、野生のオリーブを売るために荷馬車で街へ向かっていた。
「いやー、馬は便利だねえ」
「ああ、よくもこの距離をこんな大瓶を担いで移動していたな」
「みんな貧乏が悪いの、でもそのお陰で」ソフィアはリュックとの出会いを思い出し、ちらっとリュックの方照れくさそうに見た。
「ん?」リュックは何のことか分からずにソフィアを見返した。
「なっ、なんでもない」ソフィアはリュックと目が合うと顔を赤らめ、目をそらした。もし馬車でオリーブを運んでいたら、リュックに助けてもらうことも無く、彼の前を何にも感じずに通り去っていただろう。そう思うと運命を感じ、きゅっと締め付けられた胸の内を思い、胸の前で拳を握った。
「・・・高く売れると良いな」
「高くは売れないよ。野生のオリーブはあまりオイルが採れないからね」
「そうなのか・・・」
街へ着くとソフィアは商売を始める場所を確保し、オリーブを売り始めた。
「採れたてのオリーブは如何ですかー?」ソフィアが店を始めると、すぐに人が集まってきた。街では顔を知られているようで、次から次に人が声をかけてはソフィアのオリーブを買っていった。
「ソフィアは有名人なんだね」
「まあ、子供の時から商売しているから、みんな顔見知りになるよ。そんなことよりオリーブすぐ売り切ったら、街の中探索しようよ!」
「ああ。わかった。じゃあ、俺も売るのを手伝うよ」そう言ってリュックもソフィアの真似をしてオリーブを売り捌いた。昼過ぎから売り始めたオリーブは、日暮れ前には売り切ることが出来た。
「今日はご飯食べて帰ろうよ、ついでに一杯、ね!」
「気持ちは分かるが、ギュエルタスはどうするんだ?」
「お兄ちゃんは、今夜はその、仕事だから」
「そうなんだ。わかった」リュックはギュエルタスが何をしているかを知っていた。ギュエルタスの口からではなく、ソフィアの口からそのことは聞いていた。正直、ソフィアと同じ様に盗みなど止めて欲しい気持ちだったが、そう簡単に止めろとは言えない環境下に自分たちはいることもソフィアから聞かされていたので、ギュエルタスには知らないふりを、ソフィアにもそのことについて意見を述べることはしないようにしていた。
リュックとソフィアはオリーブをキロ買いしてくれた男の店で食事をすることにした。店主の名前はマルセル・ケイタといった。マルセルは十年以上、ソフィアからオリーブなどの取引をしていた。自然の食材を自分で捕り、そしてそれを売ることを、幼い頃からほぼ一人で行ってきた女の子をマルセルは健気に思い、可能な限り売り上げ貢献に協力していた。
「こんばんは、マルセル!」ソフィアはマルセルを父親のように慕っていた。今までの人生で幾度となく訪れた辛い出来事、マルセルはいつもソフィアの見方でいてくれて、無条件に励ましてくれた。ソフィアは外食する時は決まってマルセルのところと決めていた。
「おお、ソフィア!いらっしゃい!今日は彼氏も一緒か!」
「どうも、ミロです」
「知っているよ!ソフィアがいつも呼んでいるのを聞いていたからな!二人共、何にする?」
「ウサギが食べたい!あとハトと、オリーブの酢漬けとサラダに葡萄酒を二人分!」
「はいっ、毎度!今日は良いオリーブ入っていますよー!」
「そんなすぐに酢漬けは出来ないでしょ!」
「ははは、バレたか!でも当店のオリーブは全てソフィアのオリーブだよ」
「もーう、知ってる!」ソフィアは嬉しそうに微笑んだ。
「本当、仲が良いな」リュックも二人の仲を羨ましがりながら微笑んだ。
「うん。もう十年以上の付き合いだからね。本当、お父さんみたいだよ」
「確かにそう見えるよ」
「ただいまー」まだ十歳にもならないぐらいの女の子が店の中へ入って来た。
「おっ、フローラ!」マルセルが嬉しそうに声をかける。
「お店、手伝おうか?」女の子は買い物をしていたようで、バスケットケースには野菜とパンが入っていた。
「ああ、頼む!」
「はーい」
フローラはエプロンを着けると、出来上がった料理をリュックとソフィアの元へ運んだ。
「はい、葡萄酒とオリーブの酢漬けです。・・・って、あれ?何処かで会っていませんか?」フローラはリュックの顔を見ると、自分の記憶を辿った。
「そうかもしれないな」リュックは鼻で笑いながらそう答えた。自分には記憶がないのでそうとしか答えられなかった。
「いや、ぜーったいに会ってる!でも、何処でだっけ・・・」フローラは首をかしげながら厨房に戻っていった。
「何処かで会ったとか見たっていうのは、今に始まったことではないから慣れてしまったよ。まあ良いさ、いつかこの記憶も戻るかもしれない。それより料理も揃ったし、な?」
「うん!それじゃあ、今日はお疲れ様!乾杯!」
「ああっ、乾杯!」
リュックとソフィアはグラスをぶつけ乾杯をした。
「美味しい!すっごく美味しい!」酒と料理に舌鼓を打ったソフィアは右の頬を抑えた。
「ああ、凄く美味しいな。特にウサギは記憶を失う前から好きだった気さえするよ」
そう言いながらリュックはパクパクとウサギの肉をナイフで切っては口に運んだ。
その後もリュックとソフィアは終始、和気藹々とディナーを楽しんだ。
「あーっ、喰ったー!そして飲んだー!」
「ははっ、飲んだって、ソフィアは葡萄酒一杯だぞ」
「普段は飲まないの!だから飲んだ!」
「そうだな」
二人は良い感じに酔いが回り、いつも以上に会話は弾んだ。二人はたまによろめきながらも、帰路に就く足取りは軽かった。
「リュック?」街中ですれ違った女が、すれ違った直後にリュックへ声をかけた。
リュックは一瞬自分のことかと耳を傾けたが、酔いのせいで聞き間違えたのだと思い、すぐにそのまま歩き続けた。
「待って、リュック!」その女は先ほどよりも大きな声でリュックを呼び止めた。
それでもリュックの耳には彼女の声は届かず、女は「ねえ!」と言って、リュックの手を後ろから掴んだ。声の主はクロディーヌだった。
「え?どなたですか?」リュックはいきなり腕を掴まれたことに驚き、そしてその女の美しさに更に驚き、動揺した。何故か掴まれた腕は勿論、体中から汗が噴き出す。胸の鼓動は高鳴り、呼吸は徐々に荒くなっていく。
「え?あなたリュックでしょう?」クロディーヌもまた動揺した。彼女から見ればどう見てもリュックなのに、自分に対して『誰ですか』とは余りに予想外だったからだった。
「リュック?私はミロです」
「ミロ?本当に?」クロディーヌは眉間にしわを寄せて聞き返した。嘘をついていない様子に混乱しショックを露わにした。
「先程、葡萄酒を二杯飲みましたが、私の名はミロです」
「・・・そうですか・・・。グスッ・・・。本当に?」クロディーヌは目に涙を浮かべた。
「泣かないでください。何があったかは存じませんが、あなたは?」
「私はクロディーヌよ」
「クロディーヌ・・・。クロディーヌ・・・。存じ上げません」
「わかったわ。ごめんなさい」クロディーヌはそう言うと、何度かリュックの方を振り返りながら何度も涙を拭い、その場を後にした。
クロディーヌと会話を続けるリュックの横で、ソフィアの酔いはすっかり醒めていた。彼女の態度は明らかにリュックと近しい関係だったことを物語っていたからだった。
「なあソフィア、彼女のこと知らないよな?」
「しっ、知る訳ないよ。あの也だと娼婦?知らないけど。行こっ」ソフィアは不機嫌そうに言葉を返すと、リュックの袖を引っ張った。
ソフィアは、もしもリュックの記憶が戻ったら、彼女の元に戻ってしまうと感じ、不安になっていた。それくらいソフィアにとっても、クロディーヌの美しさは群を抜いていた。
翌朝、リュックはギュエルタスにクロディーヌのことを聞いた。
「なあ、ギュエルタス」
「何だよ、ミロ」
「クロディーヌという女を知っているか?」
「知らんな。何故だ?」
「昨晩、私をリュックという名で呼び止めた女がいた。それがクロディーヌだ」
「へえ、いい女か?」
「・・・」
「何故黙る?あーっさてはいい女だったんだな?」
「・・・」リュックは黙っていたが口元は緩くなっていた。
「お兄ちゃん?ミロ?」そう言って部屋の隅からソフィアが顔を覗かせた。
リュックとギュエルタスはソフィアとは違う方向を見て黙り込んだ。
「バカー!」ソフィアはそう怒鳴ると、部屋のドアを強く閉め、走ってその場を後にした。
「ミロ、追ってくれないか?」
「ああ」リュックは返事をするとソフィアの後を追った。
「・・・リュック?リュック・・・」ギュエルタスはその名に聞き覚えがあった。しかし思い出せない。リュックは椅子に座ったまま、天井を見上げ、その名を連呼し続けた。
ソフィアは家から少し離れた丘の上にある木の陰で泣いていた。
「ソフィア・・・」リュックがソフィアに優しく声をかけた。
リュックの方を向いたソフィアの顔は涙でぐちゃぐちゃだった。これ以上は泣くまいと歯をぐっと食いしばっている。
「ソフィア、すまない」
「謝らないでよ」
「でも・・・」
「ミロ、私はあなたが好き。でもあなたは私のこと、女として見てないよね?」
「・・・記憶が戻れば、さ、きっと」
「記憶だけの問題じゃないよ」
「でもさ」
「もういい。ミロ、ごめんなさい。恋人同士って言うのは嘘よ」
「嘘?」
「ええ、嘘。あなたのこと好きだった。だからお兄ちゃんがミロを運んで来た時、絶対助けて私のこと好きになってもらおうって思った。でも目覚めたあなたは記憶を失っていた。自分の弱さから恋人とか言っちゃったの。ごめんなさい」
「そうだったのか」
「だからもう、無理しなくていいよ」
「無理はしていないさ」
「じゃあミロは私のことどう思っているの?」
「どうって、大切に思っているよ」
「大切って愛とか恋とかの類ではないことぐらい私にだって分かるもん!」
「私には分からない。ただ、ソフィアを守ってあげたくなる気持ちに嘘は無いし、ここでの生活、私は幸せだ。それではダメなのか?」
「バカ・・・」そう言ってソフィアは両目の涙を拭いながらリュックの胸に顔を埋めた。
リュックはソフィアを優しく抱きしめた。そしてよしよしと頭をなで、顔を挙げたソフィアに微笑んだ。
「さあ、家に帰ろう」
二人が家に帰ると、ギュエルタスが心配して庭先で頬をかきながら出迎えた。
「昼飯にしようぜ」そう言ってギュエルタスはソフィアとリュックの肩に腕を回すと、笑いながら家に入った。