1.運命の出会い
1.運命の出会い
リュック・リリエ=ド・ロレンヌは夕暮れの街中にいた。少し童顔で中性的、小柄なこの青年は、これでも今年で十八になる。肩まで伸びた金髪は色素が薄く、夕焼けに照らされて茜色に染まっていた。ロレンヌ王国の第一王子である彼が一人でここにいることは驚くべきことではあるが、街では誰一人としてその一大事に気付いてはいなかった。夕飯の買い出しで忙しい街の人々には、綺麗に着飾った男が一人増えたところで気に留める理由にはならなかった。
リュックは自分がいなくなったことに誰かが気付き、大騒ぎになっているのではないかと、一抹の不安を抱いて丘の上の城を見上げたが、今更気にしても仕方が無いだろうと今日という日までに八年かかったその日々を振り返り、満足気に微笑んだ。
「ふー、やっとだ」リュックは息を吐きながらその新たな一歩を歩き出した。
―八年前の出来事
リュックには一つ年下のパトリックという弟がいて、年子の二人は幼い頃からよく一緒にいた。リュックの容姿は母親似で、背は小柄だった。一方の弟は父親似で、兄よりも一回り以上大きく、髪の色以外は兄と似つかなかった。そんな二人が兄弟だとは誰かが教えなければ気付かれることは無かったが、二人の兄弟愛は互いが口に出さずとも分かち合えるほど深かった。
兄のリュックは少しお調子者で、何にでも好奇心旺盛、手先は器用で何でも器用にこなしたが、一方で飽きっぽいのが玉に瑕だった。それに対し、弟のパトリックは控えめで不器用な性格、決められたこと以外には消極的、おまけに一度決めたことはなかなか曲げない頑固な性格だった。二人を比較すると勉学は兄のリュック、剣術は弟のパトリックだった。しかし王としての資質、リーダーシップという点では、圧倒的にリュックが勝っていた。興味があったことには挑戦し、一緒に行おうと周りをよく巻き込んでいた。
「なあ、パトリック、城の外へ抜け出して、街を一緒に探索してみないか?」リュックはお気に入りの中庭の噴水に腰かけ、無邪気な笑顔で弟のパトリックに声をかけた。
「兄上、何をおっしゃっているのですか?」そう言葉を返すパトリックは剣の素振りの手を止めることは無かった。晴天の下で剣が空を斬る音、そのリズムは一定でまるで時を刻んでいるようだった。
「城の外に興味は無いか?」リュックはパトリックの剣の練習などお構いなしに会話を続けた。
「ええ?そういう問題ですか?」素振りの音は続いている。
「そういう問題だ。お前が行かないなら私一人でも行くぞ。正直もう限界だ。私は国民の本当の声を直接聞いてみたい。ここで耳にする噂はどれも良いものではない」
「その気持ちは分かりますが、外に出て何をなさるのですか?」
「何でもするさ。もっと真実を知りたいのだ」
「お止めになった方が宜しいでしょう。だって兄上に何かあってからでは遅いのですよ?せめて誰か連れて行ったらどうですか?」
「だからお前に声をかけている」
「ふふふ、兄上、相変わらず頭おかしいですね」
「ははは!お前のそれは本音だな!いいさ。私一人で行く!大丈夫さ、お前が誰かにばらさなければ何の問題も起きないさ」
「いやー、そう言われてしまうと何も言えませんよ。でもばれずに外に出る手段はあるのですか?」
「まだない。考え中だ」
「そうですか。まあ、無理だと思いますけどね」
この頃、リュックが耳にする噂はあながち間違いではなかった。ロレンヌ王国、第十六代国王ピエールは、この年に妻のエリーゼを病で亡くし、生きる活力を失っていた。その影響を受けた国の各機関も停滞、そのしわ寄せは国民の生活に影響を与え、犯罪者や貧困者の人数が日に日に増え始めていた。衰退の道を歩み始めている王国を立て直そうと、城内の家臣たちは街へ繰り出し、聞き込みや、国の立て直しが出来る様な人材の発掘を進めていた。一般人を巻き込まなければならない程、この時のロレンヌ王国は追い込まれていたのだった。
―八年後・現在
リュックが地下から抜け出せる通路に気付いたのは今朝のことだった。城の敷地内の何処かに、誰にも見つからず抜け出せる通路がきっとあるだろうと長年探し続けてはいたものの、一向に見つけることは出来ていなかった。
しかしまさかそれが馬小屋の干し草に覆われているなんて、城内で知る者は少数であろう。あの入口の湿り汚れ具合からいって、もう何年もあそこは使われていなかった様に思えた。
地下のカビと埃にまみれた湿った通路を1キロメートル程進むと、町の地下水路へとつながっていて、丁度、街中に続く街外れにある水路の流れ込みの中に出口はあった。水が涸れでもしなければ、こんな通路には誰も気付かない。そもそもそんな場所に行く者すらいないだろう。
この方、この国で水が枯れたという話は一度も聞いたことがない。リュックは水路の隠し通路に感心しながらも、錆で傷んだ鉄格子を外し、水路の外へ踏み出した。濡れないようにと素早く外に飛び出したが、どうしても上着だけはしっかり濡れてしまった。周りに人気は無く、リュックは濡れた服を乾かそうと上着を脱ぎ、服が乾くまでその場にたたずんだ。時より目の前を人が通る。それは街の人であったり、旅人であったり、または馬車が通ることもあった。
「川に落ちたの?水遊びをしたの?」物珍しそうに八歳くらいの女の子が話しかけてきた。
「いや、まあ・・・そうだね、落ちた、いや、どうかな」リュックは惚けることが一番だと判断し、そのまま女の子にとぼけてみせた。
「ふふ、あなたドジなのね。可哀そうね。立派なお洋服なのに気を付けなさい。これあげるから元気出して」女の子は同情した面持ちでそう言うと、リュックにリンゴを手渡した。
「ふっ、ああ、ありがとう。気を付けるよ」リュックが思わず微笑んでしまったのは、女の子の言い草が亡き母、エリーゼにそっくりだったからだった。
「フローラ、早く行くぞ!」少し離れた場所から父親らしい男が女の子に声をかける。
「あーん、もーう、待ってえー!」
父親に出発を催促され慌てて駆け寄っていく女の子の姿はとても愛らしく、リュックはその姿が見えなくなるまで眺めていた。それも見えなくなると、リュックは石壁の低く積まれた場所の上でゴロンと寝転がり、空を見上げながらリンゴをかじった。少し酸っぱいリンゴは好みの味だった。空にはいつもにも増して青い空と、穏やかに流れる白い雲が浮いていた。リュックはそっと瞳を閉じ、先程思い出した母親のことを再び思い出していた。
―十一年前、夏
王宮の中庭でパトリックと遊んでいたが、あまりの暑さにばててしまい、二人は木陰で涼んでいた。
「・・・パトリック、暑いな」そう力無く言葉を発したリュックは、ぼんやり遠くを見つめた。
「・・・暑い・・・ですね」少し間が開いてから言葉を返すパトリックは明らかにばてている。
まだ昼前だというのにこの暑さ。この後、気温が上昇することは明白だった。
「よし!パトリック!行こう!」リュックは突然大声でそう言い放つと、素早く立ち上がり、パトリックの手を引っ張り走り出した。パトリックは兄のまさかの行動に動転しながら足をもたつかせ、間一髪転ばずに兄の足に歩幅を合わせることに成功した。炎天下の中、どんどん加速していくリュックの先にあるものを見た時、パトリックの心も躍動した。「「わー!」」二人は笑顔いっぱいでジャンプし、そのまま噴水の中へ飛び込んだ。噴水はとても大きな波しぶき上げたので、その直後には虹が出来ていた。火照りつくしていた二人の体はみるみる冷され、その心地良さに二人ははしゃぎ続けた。昼過ぎには空腹に襲われたが、その空腹感を互いにぼやきながらもその楽しさが止められず、ずっと二人は遊び続けた。しかし、ついにはそれに耐えきれなくなると、二人は渋々噴水を出て王宮内へ向かって歩き出した。
「母上にばれたら怒られそうだな」リュックはそう言ってパトリックの方を見たが、パトリックは理由を理解できずに首をかしげていた。
「リュック!パトリック!」力強く二人の名を呼んだのは母親のエリーゼだった。
「やばい・・・」リュックは小声でそうつぶやくと、ゆっくりと声がした後ろを振り返った。そこには想像通り、腰に手を当て険しい顔をした母の姿があった。
「どうしたの、二人共?噴水にでも落ちたの?」遠目で子供たちを見ていた母は、あたかも知らない素振りで質問した。
「あっ、いやこれはその」リュックは正直に話すか落ちたと嘘をつくか悩み、口ごもった。
「母上、兄上と遊びました!」噴水で服のまま遊んだことに何の罪悪感も覚えていない一つ年下のパトリックが、ありのままの出来事を母へ即答した。
リュックは一瞬パトリックに口止めしなかったことを後悔したが、したところでパトリックには嘘は付けないと判断し、観念した。
「まあ!」エルザは一度驚いた素振りを見せ、直後にニヤリと口元を緩めた。「リュック、あなた良いお洋服が台無しじゃない。しっかりなさい」母の口調は呆れていることを伝えるには十分な言葉だった。しかし注がれる眼差しはとても暖かかった。「嘘、つかなかったわね。二人共偉いわ」そう言ってエルザは二人の頭を優しく撫でた。「二人とも、ずっと仲良くね。そして兄弟だけでなくて、皆とも仲良くしてね」
「え?でも母上、王宮には嫌な大人も沢山いますよ?」納得のいかないリュックは口を紡いでそう言った。
「え?兄上、王宮には優しい方ばかりですよ?」パトリックは兄の言い分に驚き、自身の解釈を述べた。
「いい、二人共。ロレンヌ王国の民は皆、家族なの。どんな時も自分を愛し、人を愛する。自分を信じ、仲間を信じるのよ。それがロレンヌ王国。人の行動には理由があるの。それを理解すれば自ずとその人が見えて来るわ。悪い人は元来いないのよ」
「「はい!母上」」二人は元気よく返事をした。『ほら、やはりそうではないか』と素直に聞き入れたパトリックに対し、兄のリュックは渋々母の話を受け入れていた。
―現在
服も乾き、そろそろ街中へ向かおうかと立ち上がると、一人の女がふらふらと歩いている姿が目に入った。白い半袖のシャツと深緑色のロングスカートの女は、よく見ると自分の体を超えるほどの大きな瓶を背負っている。徐々に近付いて来る女は服装からいって商人のようで、恐らく街へ向かっているのだろう。
その女はリュックの横を通り過ぎる直前に、突然ふらっと倒れこみそうになった。リュックは女の動向を気にしていたので、即座に支えに入り、女と瓶が地べたに転がる事態を防いだ。
「大丈夫か?」リュックは女の顔を覗き込んだ。
女は汗をかく準備が出来ているかのように、しっかりと栗色の髪を後ろに結っていたが、あまりにも汗だくで、乱れた前髪は汗で額に引っ付いていた。その顔色は蒼白で、明らかに良くない顔色をしていた。
「・・・ああ・・・じゃあ」女はか細い声でそう言うと、リュックの腕を解いた。そして再び立ち上がると、足を一歩前へ踏み出した。
「待て。顔色が良くないぞ。少し休んだ方が良い。その、街へ行くのか?」
「・・・ああ・・・そうだ」女は朦朧とした様子で面倒くさそうに返事をした。
リュックは女の返事を聞くと黙って女が背中に担いでいた瓶を外し、下に置いた。
「本当に休んだ方が良い」
「・・・いや、行くよ」女はそう言うと再び瓶を運ぼうと瓶に手をかけた。
それを見たリュックは、すかさず自分の背中に瓶を背負った。「分かった。私が運ぼう。何故、お嬢さんがこれを運ぶのか知らないが、もう体力の限界と見える」
「返せ!そう言って私を騙して奪う気だろう!」女は疲れ切っていたが、他人に警戒している様で、力いっぱい声を張っていた。
「そんなことはしないさ。代わりにその乾きかけた私の上着を持って行ってはくれないか?」
「なんだそれ?変な奴だな。あんた貴族か何かだろ?」
「まあ・・・、そんなところだ。そう、私は変な奴なんだ。顔でも洗ったらどうだ?」
「・・・ああ、そうするよ」女はそう返事をすると、顔を洗って水路の水をガブガブ飲んだ。
「さあ、行こう」リュックは少し安心して女へ声をかけた。
「変な動きしたらぶっ殺すからな」口は悪いが女の顔には生気が戻ってる。
「ああ、そうしてくれてかまわない」
「私はソフィア。あんた・・・あなたは?」
「私は・・・」
「何?」
「えーっと、ミロだ。ミロ・ポム」
「ああ、そう。ミロね。ポムって、はは、可愛いわね」
「あはは。ところでこれは何が入っているのだ?」
「これは・・・死体だよ」女は声のトーンを急に下げてそう言った。
「あっ?何?死体だと?」そう言ってリュックは深刻な面持ちで歩みを止めた。
「ははは、冗談だよ!」
「おいおい、冗談はよしてくれ」リュックは本気で信じていたので少し声を上ずらせた。
「ははは、怯えすぎだよ。中身はオリーブの実だよ」
「オリーブか。売るのか?」
「そう、売るの」
「ということは、ソフィアは農家の娘ってところか?」
「そんな可愛い者じゃないよ」
「じゃあ、ミロは?」
「そうだな、互いを詮索するのもあまりよくないな」
「ミロも訳ありか!」
「そういうことだな!」
「はははは。了解、了解」
リュックとソフィアは当たり障りのない話を続けながら街の中心部へ足を進めた。冗談を互いに交わし、沢山笑ったせいもあって、目的地にはすぐに到着した。
「もう大丈夫か?」
「ああ、ありがとう。何かお礼をしないとだな」
「そんなものはいらないよ」
「じゃあ、貸し一ね!」
「貸しか・・・。分かった。じゃあな」
「ああ、ありがとう、本当、助かった・・・で、上半身裸で行くのか?」ソフィアはリュックの上着を片手にそう言った。
「あっ!そうだった!危ない危ない」
「ははっ、本当っ、変わったやつだな。いいか、貸しは返すからな!」
「ああ、またな!」
そう言い合って二人はいつ訪れるか分からない再会を約束し合い、その場を後にした。
その後リュックは更に街の中心部へ歩みを進めた。街中にはリュックが知らなかったものが多くあった。街に吹き抜ける風の匂い、雰囲気、活気、子供たちの笑い声までも。自分の足で進む街は、馬車の中から見た街とは一回りも二回りも違うものだった。市場で初めて見る食材や装飾品、何から何までが新鮮そのもので、見たこともない食べ物も数多くあった。リュックを貴族だと思った店主が試食だとよこしたウサギの骨付き肉は絶品だった。持ち合わせの無いリュックが肉を購入せず立ち去ると、店主は顔を顰めていた。
「試食であるのだから許せ、店主よ」リュックはそう言ってその場を後にした。
市場を抜けようとした時、ひと際目を惹く女性がいた。言い方は悪いが小汚い服装が当たり前の街中で、その服装はリュックの目を強烈に引いた。煌びやかな青色のドレスを着ていた彼女は、黒くしなやかな髪を後ろで編み込むように結っていて、白い花を装飾していた。見れば見る程に胸は高鳴り、リュックはその女性の魅力に引き込まれる。手元にはふっくらと編み込まれた買い物かごに、ブドウがぎっしり入っていた。そんな彼女は赤と黒のドレスを着た連れの女と二人で、市場を足早に去っていった。
リュックは彼女を知りたいという強い衝動にかられ、彼女を追いかけた。いったい何者なのだろうか?ソワソワしながらリュックは彼女たちの後をつけると、小貴族の館のような建物に彼女たちが入っていく姿を目にした。その建物の前には用兵がたむろっていて、彼女たちが入口の前まで来ると盛り上がりを見せていたが、決して手を出しはしなかった。
とにかくあの建物は何なのか?気になったリュックは近くにいた婦人に聞いてみた。
「ご婦人、恐れ入るがあの建物の主はどなたかご存知か?」
「へえ?何をおっしゃっているのですか?私をからかっているのですか?」
「いや、私がふざけているように見えるか?」
「あっ、いや、そう言う訳では・・・」リュックの言葉に婦人はやっと本当に知らない様子だと気付き、半笑いしながらこう続けた。「確か主はオレリだったかな。入ればわかるよ」
リュックは彼女の半笑いと、館の主が女だということを気にしながら館の入口まで足を進めた。入る際、傭兵たちがリュックを「お兄ちゃん、俺たちにも楽しませてよ」などと言って冷やかしてきたが、リュックはトラブルにならないよう、すぐに中へと入っていった。
中に入ると一般女性の三倍の体格はあるだろう婦人が「いらっしゃいませ~旦那様~」と声をかけてきた。それと同時に中にいた女性たちがリュックの前へ横一列に並んだ。十二人いた女の中に先ほどの青いドレスの女もいた。赤と黒のドレスを着た女はいなかった。リュックは青いドレスの女から眼が離せなかった。
「私はここの主、オレリと申します。ご主人様、お好きな女をこの中よりお選びください」
リュックは青いドレスを着た女を見つめたまま固まっていた。
オレリはそんなリュックを見て「クロディーヌが気に入ったのですね」と、にやつきながら耳元で囁いた。
リュックは耳元で囁やかれたことに驚いたが、すぐに小さくうなずいた。
「五ロレンです」とオレリは再び囁いた。
リュックはオレリから金額を提示されたことで、ここが娼婦館だということにようやく気が付くことが出来た。娼婦を抱くどころか、女を抱いた経験すら無かったが、話には聞いたことがあった。ひたすら不愉快に痛む胸の内を落ち着かせながら、金の持ち合わせがないことにも気が付いた。どうしていいか分からなく、オレリの言葉が永遠と頭の中で繰り返される。
クロディーヌへの視線は外せないまま時間だけが過ぎ、オレリはリュックを見切ったのか急に声色を低く変え、舌打ちをしてこう言った。
「はっきりしてくれませんか?五ロレン、金貨五枚無いのなら、クロディーヌは無理ですよ」
オレリの方に視線をずらすと、彼女はこちらをしかめ面で見つめていた。
「いや、それが・・・」リュックは浅はかな勢いで館に入った手前、完全にどうしていいか分からなくなっていた。
その中、扉を叩くように強く開ける男が入ってきた。振り返るとその男は三十五歳くらいの見た目で、鼻の下の髭を綺麗に整え、服装は貴族の様に煌びやかだった。男は館に入って早々、オレリに五ロレンを荒っぽく手渡した。そして真っ直ぐクロディーヌの方へ歩いていった。髭の男はクロディーヌの手を荒っぽくつかみ、二階へとずかずか大きな足音を立てて上がっていった。ぐいぐいと手を引っ張られるクロディーヌの顔は、痛みと戸惑いで辛そうに見えた。リュックの胸の中でモヤモヤした何かが、より強く不快に悶えていた。恐らくこの髭の男は常連でクロディーヌは五ロレンだと知っている。そう思うと余計に胸が痛んだ。
「待ってくれ」とっさにリュックは声を出し、髭の男の足を止めた。
男は足を止め、不機嫌そうな顔をしてこちらに振り返った。男はリュックを睨みつけている。
オレリは大きな溜息をつくと、腕を組んでリュックにこうに言った。
「何ですか?もうあの方は金を支払っている。あなたに止める権利はないですよ」
リュックはハッとして、とっさに身に着けていたブレスレットをオレリに手渡した。ブレスレットは金で出来ていて、様々な宝石が埋め込まれている。
「今は手持ちがない。このブレスレットを売れば良い値になるはずだ」
婦人はブレスレットを受け取ると、まじまじ物を見つめた。そしてそのブレスレットが価値あるものだとすぐに気付くと大きな目を更に大きく見開いた。
「あー、お客様、申し訳ないのですがねー、この方にクロディーヌを譲ってくれないでしょうか?」オレリは焦った様子で髭の男に声をかけた。
「ん?良い訳ないだろ!私は五ロレンを先に払っている。私が先だろう?」髭の男は声を荒げオレリにそう言った。
「本当にごめんなさい。あなた様にこの方以上のお支払いが出来るのでしたら、話は違うのだけれど」
「どういうことだ?」
「この方が私に手渡したブレスレット・・・八十ロレンは超えています。それ以上お支払い頂けるのならば話は別ですが・・・」オレリは上目遣いで無理矢理笑顔を作り、そう言った。この国の平均月収は二十から三十ロレン。五ロレンという価格も割高だが、八十ロレンとは、誰も何も言えなくなる価格だった。
「何を言っている?そんな高価な物がここにある訳ないだろう。それに私は先に金を支払っているのだぞ?」
「お代はお返しします。ここは金が物言う場所です。それはお客様が一番ご存知なはずです」
「ああ、もういい!萎えた!私は帰る!五ロレンを返せ!他行けば上玉二人抱ける金だぞ!」髭の男は真っ赤な顔でオレリに迫ると、彼女の手にあった五ロレンを奪い取り、大きな足音をたてながらその場を後にした。
「さ、さあ!どうぞ旦那様!」オレリは先程とは態度を変え、精いっぱい出せる大きな声に色気を加え、声をかけた。そして階段にいたクロディーヌの方へリュックを優しく案内した。
一方のクロディーヌは表情を変えずに自分の手前まできたリュックの手を取り、二階の手前から二番目にある部屋へリュックを誘った。部屋へ入るとクロディーヌはすぐにリュックの首に両手をかけ、口づけをした。リュックはしばらく口づけされたまま、我を忘れ放心していた。そしてふと我に返えると、クロディーヌの手をがばっと勢いよくほどいた。
「何がお望みですか?」驚いたクロディーヌはそっとリュックを見つめながらそう言った。
「なっ・・・何故、こんなところにあなたはいるのでしょうか?」
「こんなところ・・・ですね」リュックの物言いに気を悪くしたクロディーヌは、ため息交じりにそう言葉を返した。
「あっ、いや、市場であなたを見かけ、気づいたらここにいた。私はあなたのことが知りたい」言葉の選択を誤ったことに気付いたリュックは、弁解しようとあたふたしながらそう言葉を返した。この建物に入ったことも建物内で起こっていることも、それが現実なのかさえ分からなくなりそうな程、リュックの気は動転していた。
「・・・私はただの娼婦よ・・・それだけだわ」女は呆れた様子で、再びため息をつきながらそう言葉を返した。その表情はこの世の何もかもを諦めているかのような冷めた表情だった。
「・・・本当にそれだけなのだろうか?」リュックは全く納得が出来なかった。これ程の良い女が、理由もなく体を売る筈が無かった。
「・・・それだけよ。あなたは?」
「私は・・・」この時リュックは自分をどう説明していいか分からなかった。彼女に自分が王家の人間だと明かしたところで、嘘だと鼻で笑われるだろうし、信じてもらえないだろう。そもそも王家の人間がここにいることもあり得ないだろうし、本当にここにいたならば大問題だろう。説明がうんと必要になると思うと、上手く言葉に出来なくなってしまった。
「私は大した人間ではない。ただ、あなたに惹かれている男だ」
「そう・・・。でも八十ロレンもするブレスレットを身につけているなんて、そこら辺の貴族ではないわ」
「・・・私もあれが八十ロレンだって知らなかった」
「まあ・・・それはおかしな話ね」
そう話すクロディーヌに目をやると、口元に手をやり、少し笑ったようにも見えた。
「ああ、まあ・・・、そうだね」
「ええ。あのブレスレットが力ずくで奪った物ならば、あなたの格好は高貴すぎるわ」
「実は今日、初めて一人で家の外に出てきた」リュックは少し顔を赤らめそう言った。
「え?」クロディーヌは少し微笑みながら言葉を吐いた。やはりここにいる男は今まで出会った男とは全く違う。投げかけた言葉に帰って来る言葉は毎回予想を裏切るのだ。
「そういう環境の中で育ったから、無知なことがあまりに多すぎる。ただ、あなたを思う気持ちだけは確信が持てる。この思いはきっと簡単に芽生えるものではない、尊いものだ」
「あなた、お名前は?」
「ミ・・・、リュック。リュックだ」リュックはまたミロと名乗ろうとしたが、クロディーヌには本当の名前を知って欲しくなり、正直に自身の名前を伝えた。
「リュック、あなた、私に恋をしてしまったのね」
「恋。そうか、これを恋と呼ぶのだろう」
「・・・ごめんなさい。あなたの純粋な気持ちに、私は応えることができないの」
「・・・そう・・・」
「だってあなた、私は娼婦よ。お金をもらって男の人に抱かれるの。それだけよ。世間一般の男女の様にはなれないのよ」
リュックはそう言われると傷付き、俯いた。「・・・私は君をここから出したい」
「私をここから出してどうなさるの?」呆れた様子でそう言うクロディーヌの表情は、何処か悲しそうだった。
「・・・」リュックは言葉を失い沈黙した。
「あなた、本当に何も分かっていないのね。私がここから出られたところで、何も出来ることなんて無いわ。のたれ死ぬか野犬の餌になるくらい。例えあなたが私をお嫁にもらおうとしたところで、誰一人認めることはない。娼婦を嫁にする貴族がどこにいるの?」
「・・・」クロディーヌの言う通りだった。リュックは何も言い返せず再び沈黙した。
それを見たクロディーヌは、優しくリュックを抱きしめた。抱きしめられたリュックも、彼女を抱きしめた。溢れ出る思いは腕に伝わり、力の加減を忘れそうなくらいに彼女を強く抱きしめていた。抱きしめている腕は不思議と痺れている。強く抱きしめられた筈のクロディーヌは、痛がりもせずに潤んだ瞳でリュックを見つめた。リュックはクロディーヌを見つめると、そのまま艶やかな真紅の唇にそっと口づけをした。クロディーヌの甘い吐息を感じると、今度はむさぼるように口づけをした。二人はそのままベッドに倒れ込み、唇の角度を何度も変えながら口づけを繰り返した。彼女の体は透き通るように白く、きめ細やかだった。すべるように体の曲線をなぞり愛撫した。見ているすべてが夢であるかのような気分だった。洗い立てのシーツは真っ白な世界に二人だけでいるような感覚を覚えさせた。リュックはまるで幻想の世界にいるような気分で彼女を無我夢中で抱いていた。彼女の淡い声が赤い唇からもれる。二人は快楽と共に過ぎて行く時を刻む。気付けば外の日はすっかり落ちていた。
その日はとても静かな夜だった。リュックは彼女を抱きしめながら窓の外に目をやった。外の満月は神々しく部屋を照らしている。月明かりに照らされた彼女のまなざしは、悲しみや寂しさにあふれている様にも見えた。
リュックは彼女の頬をそっと触り、真面目な顔で口を開いた。
「私はリュック・リリエ=ド・ロレンヌ」
「え?ロレンヌって、ロレンヌ王家?」
「ああ。ピエール国王は私の父だ」
「それではあなた王子様なの?」
「一応、そうだ」
「なんて言って良いか分からないわ」
「疑わないのだな。なんて言って良いか分からないのは、私も一緒さ。気にしないで欲しい。ここにいる私は、私でしかないのだから」
「あなたの雰囲気が嘘をついていないと、私を納得させるのよ。私もね、元々はマリエールという貴族だったの。八歳のときに姉の恋愛が原因でね、両親も姉もみんな殺されたのよ」
「そうなのか」
「ええ。犯人はね、今も何処かでのうのうと暮らしているわ。犯人は姉に恋していたの。歳の離れた商人の男だったわ。でも姉には両親によって既に決められた貴族の婚約者がいたの。だから姉はその男の申し出を断ったのよ。私、一部始終を見ていたわ。でも本当は姉もその男に惹かれていたの。姉は父の名誉を汚すまいと、貴族同士の婚約を守ろうとしたのよ。
姉は正直にその男に打ち明けたのだけれど、その男は愛する者を奪われるくらいなら殺してしまおうと、姉を殺したの。そしてそんな考えを持たずにはいられなかった娘を育ててしまった両親を殺したわ。私の存在は知ってか知らずか、どの道あの男にとって私は憎しみの対象外だもの。何もされなかったわ。ううん、もし私がその男に見られていたら殺されていたかも。たまたま男の視界に私は映らなかったのかもしれない。でもいつも思うの。今がこうなら一層のこと殺された方がよかったって。いつも思う。その男を殺したいって。姉も両親も優しかった。大切な家族だったの。あの男さえいなければ、私はこんなことしていないわ」
「泣いているのか?」
クロディーヌの頬が月光で輝いている。「とっくに涸れたと思っていたのに、思い出しちゃった」そう言ってクロディーヌは、流れる涙を袖で拭い、潤んだ瞳でわずかに微笑んだ。
リュックはそんな彼女を胸元へそっと抱き寄せた。クロディーヌはリュックの胸の中で再び話を続けた。
「・・・一人になった私を、父の兄が引き取ったの。そして私が十四の時・・・、伯父は・・・私を犯した。それからずっと私は伯父に言われるがまま。もし口外すれば家を追い出すと言われ続けてね。そんな私にもね、十五の時に好きな人が出来たの。斜向かいに住む、ヴァイオリン職人の息子でテオと言ったわ。彼はヴァイオリンを作る時に色々な曲を弾くのよ。どれもヴァイオリンへの愛情が伝わってくる気がしたわ。辛い日々も彼のヴァイオリンを聴くと気が紛れたわ。家からたまに見える彼の姿を見ると、心が躍った。テオは幸せそうにヴァイオリンを弾くから。でもそんなの束の間だった。私は伯父の子を身ごもったの。妊娠したことを知った伯母は伯父との子だと確信して、私を外へ追いやったの。伯父が私に何をしていたか分かっていたのよ。伯父はなにも助けてはくれなかった。ただ私と目が合わないように、私の姿だけを死んだ魚のような目で見ていたわ。時期が真冬だったこともあって、数日後に寒さや栄養不足から流産したわ。もうどうでもよかった。ううん。最初からどうでもよかったのかもしれない。赤ちゃんの命だって悔やむけれど、何も考えることもできない程に、身も心も朽ち果てていたわ。もうこのままただ死に行くだけだろうって道に倒れていたら、ここの主人のオレリさんに助けられたの。最初はまるで捨てられた人形のようだった。でも、徐々に自己嫌悪は薄れ、心の感覚は麻痺していったわ。客に抱かれている最中は、伯父の面影を相手に感じていた。
今だからわかるけれど多分、私は伯父をどこかで愛していたのかもしれない。そんなどう仕様もない私なのだけれど、十七の時にまた恋をしたの。もう男に心寄せることは無いと思っていたのに、自分で自分が理解出来なくなりそうだった・・・。その男はさすらいの音楽家だった。街の広間でリュートを弾いていたわ。その男が時折見せる笑顔と、彼が奏でる切ないメロディーが好きだった。自分の全てを洗い清めくれるようなメロディーだったから、そのメロディーを聴いて泣いてしまったこともあった。でもそのメロディーも、一ヶ月程で聴こえなくなったわ。せめて一言だけでも話してみたかった。自分に誇れるものは何一つないけれど、せめて彼の話だとか、あのメロディーは何処からくるのとか、好きなものだとか人とか・・・。
その時、私の中にまだこんな感情があることに改めて驚いたわ。彼が去った後は自分を癒すものはもう何も無かったわ。ただ体は体で心はその時どこかに置いてくる。そんなイメージを繰り返した。いつしか自分の体が他人とつながる様をはたから見られるようになっていた。白い頬をピンクにほてらす自分の肉体。そんな自分を私は人ごとの様に見ていた」
悲しい目をした彼女をリュックは優しく抱きしめ続けた。そして、頭を何度もさすった。
「クロディーヌは音楽が好きなんだね」
「そうね。音楽は無邪気な子供のようで心を素直にしてくれるわ」
話を続ける内に外から朝日が射しこみ始めていた。
「朝だ。不本意ながらそろそろ行かないと。また来るよ」
「・・・うん」そう返事をするクロディーヌは悲しい目をしていた。
それからというもの、リュックは足しげくクロディーヌの元を訪れていた。毎日毎日考えることはクロディーヌのことばかりだった。いつからかリュックは服装も工夫を凝らし、街行く人たちと同じ様な服装に隠し通路の出口で着替えてから、街を歩くようになっていた。城から着て来た服は、水路の出口付近にある木の上に隠してあった。
「クロディーヌ、君のドレスと同じ色の花を見つけたんだ。これを君にと思って」リュックは上機嫌に青い花束をクロディーヌに手渡した。
「ありがとう。綺麗。でも、あなたの服装はセンスないわ」クロディーヌは笑いながらそう言うと、花束を花瓶に挿した。
「服選びは難しいよ」そう言ってリュックは、両手を左右に広げくるりと一周して見せた。
「ふふふ。今度、あなたの服選んであげる」
「そいつは嬉しいな」
「あなたって本当、気取っていないというか、王になる人って感じがしないわ」
「ああ。王には恐らくならないさ」
「クスッ。じゃあ誰がなるのよ」クロディーヌはリュックの王にならないという予想外の返答に、思わず吹き出してしまった。
「王に相応しいのは弟のパトリックだ」
「それって弟に面倒なことを擦り付けているのではなくて?」クロディーヌはリュックがまだふざけていると思い、反笑いでそう続けた。
「そう言われても仕方がないが、パトリックは王に向いているし、王になりたい筈だ。私は現場主義だから王はパトリックに任せて、街で国民の声を聴いて回り、手を取り合って生きていきたいと考えている」
「ふふ。それは良いかもしれないわね」
「そうだろう」リュックは王位継承について真面目に話していた。
パトリックが王になりたがっているのは事実で、例えば夜な夜な玉座にパトリックが座っている光景を、リュックは寝ぼけまなこに見たことがあるくらいだった。また、リュック自身も王に相応しいのは自分ではなくパトリックだと思っていた。
同時にこの時期、政略結婚の話もちらほら持ち上がってくるようになっていた。リュックにもパトリックにも、周辺諸国や貴族の娘たちの名前が花嫁候補として上がる。父と母もそうだった様に、基本的には政略結婚が時代の主流で、結婚相手を自分で選ぶ話は聞いたことが無かった。それが更にリュックを王座から遠ざけていた。日に日に深まるクロディーヌへの熱い思いとは裏腹に、時間は刻々と流れ、周囲の大人たちは年頃の王子たちに次の階段を用意し始めていた。
まるで時の流れに逆らうかの様に、リュックとクロディーヌは愛を深めていった。ある時は夜明けまで語り合い、ある時は夜明けまで愛し合った。外に出ては花を摘み、日差しが強い日には川で泳ぎ、夜には星空の下で語り合った。オレリもリュックの金払いの良さに、また人柄に心を許し、リュックの要望をある程度受け入れていた。
クロディーヌに夢中になっていたリュックだったが、遅くとも城の者たちが目覚める前には必ず城に戻り、決められた公務は全てこなしていた。しかしそれでも公務から逃れられない時があり、その時は決まってクロディーヌ狙いの男たちが彼女を指名していた。もう誰にもクロディーヌは手を出させないで欲しいというリュックの要望は、強欲のオレリには届いていなかった。口では約束を交わしておきながら、実際には守っておらず、それを話したところでオレリは逆にリュックをゆすって来る可能性を含む器だと理解していた。それを知っていたリュックは、城の中ではクロディーヌのことばかり考えながら、与えられた仕事を今まで以上に早く終わらせ、少しでもクロディーヌと会えるよう試行錯誤を繰り返していた。
ある日、リュックが密かに城を抜け出しているという噂を耳にした王は、リュックを呼び出した。そしてそこで思いもよらない言葉を耳にした。
「息子よ、最近良からぬ噂を耳にする」
「父上、王位はパトリックに譲って頂きたい」
「お前、自分が何を言っているのか分かっているのか?長男を差し置いて次男が王になるなど、この国では前代未聞だぞ?」
「はい、私の様な者よりもパトロックの方が余程、王に向いております」
「どうした?何故そうなったかを話しなさい」そう話す王の顔は父親の顔をしていた。
「街には不幸が溢れております。実を言いますと、私は街に出てそれを目の当たりにしてきました」
「やはり噂は本当だったのか」
「ええ。噂の真相は存じませぬが、私は民に寄り添ってそれを改善したいと考えております。こんなところに籠っていては何の解決も出来ません。ロレンヌ王国の民は皆、家族であり、どんな時も自分を愛し、人を愛する。自分を信じ、仲間を信じる。そうではないのですか?それに・・・」リュックはその先を話すことをためらった。ここでクロディーヌのことを話そうものなら間違いなく彼女に迷惑がかかる。そう思ったリュックは話の続きをそのまま話そうとはせず、違う形で王へ話をした。
「先の偉人たちは言います。自分がしたいと思うことをすることが成功への近道だと。嫌々物事を進めても良い結果は生まれないと。私は王になりたいとは思いません。しかしパトリックは王になりたがっております」
「勝手に城を抜け出していたとは・・・。まあそれを咎めても仕方がないことだろう。それにお前が言うような事例はあるかもしれないが、お前は王国の第一王子という立場故、その話は通用しないと心得よ。弟の方がふさわしいと思っておるのか。確かにパトリックは優秀だ。剣も素晴らしい。しかし、その知性と寛大さ、私はお前こそが次期国王に相応しいと考えている。民に寄り添いたいのであれば、そういう王になればいいではないか。それでは不服か?」
「勿体無いお言葉です父上。しかしここには自由がない。私は第一王子である前に一人の人間です。少なくとも私が王位に就くということは私にとっては不本意で、幸せではなくまたパトリックを始めとする周りの、いえ、この国自体も不幸にしかねないのです」
「話がかみ合わないではないか。最近、何かあったのではないか?」
「いえ、そうではないのですが」
「まず、お前が王位継承者であることに揺るぎは無い。では、一つ聴こうではないか。お前は何が望みだ?どうすれば王位継承に頷くのだ?参考までに話してみよ」
「・・・では、ではせめて政略結婚の話は取りやめて頂けませんか?」
「それが理由だな。お前は政略結婚の意味が分かっていないのか?政略結婚はな・・・」
「父上、分かっております。そうではないのです。その重要性は理解しております。ならばそれ以上の働きを私はしましょう。ですから、せめて、相手ぐらいは私に選ばせ欲しいのです」
「ふっ、恋でもしたのか?」
「いえ、そういうことではないのですが」
「それではその相手とやらを私の前に連れてくればいい。そこで判断しようではないか」
「・・・承知しました」そう返事をしたものの、リュックの頭にはクロディーヌの言葉が頭を過っていた。『たとえあなたが私をお嫁にもらおうとしたところで誰一人認めることはない。娼婦を嫁にする貴族がどこにいるの』リュックは部屋に戻りながら頭を抱えていた。
「兄上、王位を継ぐ意思が無いとは、本当なのですか?」誰から聞いたのか、パトリックが血相を変えてリュックの部屋へ走りこんできた。余程慌ててきた様子で息が上がっている。
リュックよりも大柄なパトリックだったが、物腰が柔らかい姿勢とその大きな体からは優しさがにじみ出て、何処か頼りなくも見える。
「あ、ああ。そのような話をしたのは事実だが、王曰く、私が継ぐことは揺るがないそうだ」
「何故そんなに嫌がるのですか?理解に苦しみます」
「そうだよな、パトリック、お前は王になりたいのだからそう思うのは当然だよな」
「え?兄上、何処でそれを・・・」
「お前、夜中に玉座に座っていただろ?」リュックはニヤニヤしながらそう言うと、パトリックは顔を赤らめた・
「みっ、見ていたのですか?」
「いや、あそこで声をかけたら可哀想だなって」
「今言っても同じですよ!何ならずっと黙っていて欲しかった」
「それは無理だよ!はははは!あっ、そう言えば・・・」
「今度は何ですか?」
それから二人は遅い時間まで話し込んでいた。王位継承や政略結婚の話などせず、いつもの兄弟として今までの楽しかったことや最近の出来事を語り合い続けた。
―そして翌日
「これはパトリック様、相変わらず凛々しいですな。調子は如何でございますか?」そう声をかけたのはワルテル大臣だった。パトリックが部屋を出るのを待っていた様子だった。
「これはワルテル大臣、お元気そうで何よりです。何か私に用ですか?」パトリックは嬉しそうに言葉を返した。
パトリックとワルテルは仲が良かった。世辞が口癖のワルテルと、何でも素直に聞き入れるパトリックは馬が合うように傍から見えた。実際、パトリックもそう思い、ワルテルを慕っていた。一方、リュックはワルテルとことごとくそりが合わず、二人の関係は正に犬猿の仲そのものだった。
「いえいえ、何か相談がありましたら是非お話をお伺い致しますよ」
ワルテルは王家の問題を見透かしているかのようにも見えた。いや、実際にワルテルは全て把握していた。常に王と王子たちの傍に側近を張らせ、情報をくまなく収集していた。
「耳が早いご様子ですね。実は兄上のことで相談があって」
「リュック様がどうされましたか?」
「最近、頻繁に外に抜け出していて、遂には王位を継がないと申しているのです」
「なんと?それは良くありませんな・・・。パトリック様が忙しく御公務をこなしてらっしゃる中、リュック様は遊ばれておいでですか?」リュックの良くない話となると、ワルテルはやたらと大げさに話す傾向にあった。
「兄上のことだ。公務はこなしている。外でも遊んでいるとは限らないと思うが、勝手に何処かに行かれ、何かあってはと心配なのだ」
「パトリック様はお優しいですな。承知しました、私の部下にリュック様の動向を調べさせましょう」そう言ったものの、実際は常に部下をリュックに張らせていたのでリュックの様々な情報はとっくに知り得ていた。
「おー、そうですか!宜しく頼みます!」そうとは知らずパトリックは喜んでワルテルの手を取った。
「しかし王子、私はあなた様が王位継承者として相応しいと考えておりますぞ」
「おいおい、ワルテル大臣、口を慎めよ」パトリックは過ぎたその発言に笑顔を止め、不機嫌そうにワルテルを否めた。
「ははっ、失礼いたしました。・・・しかしですぞ、リュック様よりもパトリック様の方が王にふさわしいと言うのは何も私だけではございません。この城内の者のほとんどがそう思っておりますことを、お忘れにならぬ様、お願い申し上げます」
「そうですか、頭の片隅に入れておきます」そう言うパトリックは笑みがこぼれるのを必死に抑えた。兄のことは好きだったが、王にはなりたい気持ちに偽りは無かった。そして城の多くの者がそれを望んでいるとワルテルは言う。
パトリックは部屋に戻ると笑いながらベッドへ倒れこんだ。
一方、ワルテルもまた、パトリックと別れてから頬を緩めていた。「これは流れが来たな」そう言って歩く速度を上げ、リュックの調査をしている部下の元へ足を速めた。