異人館の恐怖
/1
その館で暮らすことにしたのは、単にスランプから脱却したいという思いからだった。私は小説家で、それなりの人気はあった。ただ、最近、どうにも調子が出ず半年に一冊ペースで本を出していたのだが、ここ二年ほど全くといっていいほど筆が進んでいなかったのだ。当初は、様々な地方に旅行などして気分転換でもすれば元の調子を取り戻せるだろう、と思っていたのだが、調子を取り戻すどころか逆に気ばかり焦る始末だった。そのうち、鬱になってしまい、医者からもどこか違う環境で暮らすことを薦められた。
そんな訳で、私は人里はなれた山間の村に来ていた。立ち並ぶ家々はどれも古めかしく、日本昔話を髣髴させられた。さて、私がしばらくの間暮らすことになる館はどこだろう、と思う間も無く館は見つかった。
家々の集まる村の中心部から離れ、木々に囲まれて斜面に建つ白亜の洋館が目立たないはずは無い。その位置を見て、これは買い物にいは苦労しそうだな、と思いつつ私はスポーツワゴンを走らせた。
洋館までの道は、舗装されてはいるものの道の両端は木が生い茂り日の光を隠していた。そのせいで、まだ正午過ぎだというのに夕方ぐらいの暗さだった。周囲に街灯は無く、夜ともなれば闇に包まれる事になるだろう。
それから五分ほど車を走らせた頃だろうか、ようやく館の白い外壁が木々の切れ間に見えた。村から見た感じでは、車で五分とはいえ、それほど時間のかからなさそうな距離には見えたのだが、目測を誤っていたようだ。
館の前に着いたが、ガレージらしき物が見当たらなかったため、とりあえず玄関脇に車を停めた。車外に出ると、私はこれからしばらくの間暮らすことになる洋館を見上げた。この館の所有者である友人の話では明治時代末期に建てられたとのことだったが、私にはそれ以上前の時代に建てられたもののように見えた。無論、明治時代以前にこのような洋館などを建てる人間はいないし、このような建築様式自体伝わっていないため土台、有り得ない話ではあるが、不思議とそんな気分になってしまう。
館の重苦しい扉を開けようとしたときのことだ、私は妙な違和感を覚えた。扉に掛けようとしていた手を止め、少しばかり逡巡した後、その違和感の正体はすぐに分かった。今、季節は夏で日中だというのに静か過ぎるのだ。夏の山といえば、燦々と照りつける陽光の下で蝉がけたたましく鳴いているのが普通だ。現に、今も蝉の鳴き声は聞こえている。だが、それはかなりの遠い距離でのことで耳を澄まさなければ聞こえなかった。館の周りの林を見ても、何の気配も感じられない。木々が生い茂ってはいるが、そこには何もいないようだった。すぐそこに村があり、自然があれば数多くの動物が生息していてもおかしくは無いはずだが、この館の周囲に生命の息吹は感じられなかった。
この事実に不気味なものを感じつつも、私は扉を開けた。夏真っ盛りだというのに、中からは冬の雪山を連想させる体の芯まで凍えてしまいそうな冷気が溢れだして来た。思わず、肩がブルリと震えた。
不思議な屋敷だ。周囲に生命の息吹は無く、夏だというのに中は冷気に包まれている。室内に一歩踏み入れてみれば、冷気が充満してはいるものの、凍えてしまいそうなほど冷たいものは無い。程よく冷房の効いた室内のようだ。これならば、クーラーどころか扇風機いらずで過ごせそうだ。とはいえ、この屋敷にそんな文明の利器が存在するとは思えなかったが。
扉を開けた先のロビーは広かった。扉の真正面に二階へと続く階段があり、その階段を上った先の踊り場の壁に一枚の大きな絵が飾られていた。室内の暗さに目がなれていなかったため、最初はその絵が何を描いているのか、分からなかったが、次第に目が慣れてくるにつれて何が描かれているのかが分かった。
幻想画のようだった。描かれているのは満月の浮かぶ荒廃した都市。立ち並ぶ廃墟の手前に、月が浮かび、その月の背後にあるビルが透けている。何とも不思議な絵だ。その絵に興味を引かれた私は、生活に必要な荷物を屋敷に運び込まなければならないのに、それを後回しにして絵の側へと歩み寄った。
側に寄って絵を眺めたが、本当に不思議な絵だ。タイトルが気になり、額縁のすぐ下を見ると、案の定青銅のプレートがかけられており、〈夢のカルコサ〉と刻まれていた。カルコサという名前には見覚えがあった。残念なことに、誰であったかは忘れてしまったが昔読んだ小説にその名前が出ていたような気がする。その小説に描かれていたカルコサと、この絵に描かれているカルコサは違うものらしいが〈夢のカルコサ〉というタイトルが付いているところを見ると、この絵画の作者が夢に見たカルコサの風景でも描いた物なのだろう。
当然のように私はこの絵の作者が気になり、改めて青銅のプレートを眺めてみたが、タイトル以外には何も書かれてはいなかった。絵の隅にでもサインが書かれていはしないかと思ったが、それらしきものは見当たらなかった。もしかしたら、額縁の下に隠れているのかもしれないが、この絵を額縁から外すのは気が引けた。
しばらくの間、絵を鑑賞していたのだが荷物を運び込まなければならないことを思い出し、私は半ば慌てるようにして車へと戻りトランクを開けた。とりあえずは、車の中に積んであった荷物を一度ロビーに置き、館内の探索を行うことにした。この館の、どの部屋を使用するかを決めるためだ。
まずは一階から始める事に決め、玄関から見て右手の通路へと入っていった。通路にあるドアは手当たり次第に開けて行き、中がどのようになっているのかを見てゆく。持ち主の友人によれば、今現在、この館は使用してないとのことだったが、定期的に掃除をしているらしく、埃や汚れはあまり見当たらなかった。掃除をする手間が省けるため、好ましいことなのだが、私にはそれが不気味に思えた。使用しないのと、掃除をしないのでは違うということを分かってはいるが、あの友人の性格をかんがみるに、使わない館を掃除しそうには思えない。第一、この広い館をあの男やもめがするだろうか。
そんなことを考えながら館の探索をしていると、いつのまにかロビーへと戻っていた。館の一階部分は、ロビーと大食堂を中心にして一周するようになっており、洗面所や浴室、台所などで占められており、寝室などは存在しなかった。それらは全て二階に集中しているのだろう。途中、地下へと続く階段を見つけ、降りようと思ったが、今はそういう時間ではないと自分に言い聞かせ後にした。まだまだ時間はあるのだ、地下室の探索は後にすれば良いだろう。と、そこで私は自分の興味が地下室に向けられていることを知った。こういう洋風の館で地下室は大して珍しくも無いと思うのだが、何故だろうか。恐らく、作家の好奇心が成せる業なのだろうと自分自身に言い聞かせた。それに今は、地下室のような通常使わないであろう場所に用事は無いのだ。
後ろ髪を引かれる思いで地下室への階段を後にし、二階への階段を上がる。二階の通路を歩いてみたが、一階と同じようにグルリと一周するようになっていた。一周した後、適当な部屋が無いかを探し、扉を開けてゆく。大半は同じ作りの客間だったが、一室だけ特に豪奢な作りが施されている部屋があった。大方、この館の主人が使用していた部屋なのだろう。他に、書斎ではなく書庫を見つけた。その部屋は本棚しか置かれておらず、ざっと幾つかの棚の間を歩いて見渡しただけだが、正に古今東西。国も時代も問わず種種雑多な本が置かれており、私の興味を引いた。特に古いものが多いが人類学や考古学に関する本が多く、執筆する際には資料として役立ちそうな本が数多かった。中にはアレイスター・クロウリーの『法の書』や、ダレット伯爵の悪名高き『屍食教典儀』、狂える詩人アブドゥル・アルハザードの『死霊秘法』等を始めとした魔導書も数多い。『法の書』については知っていたが、『屍食教典儀』や『死霊秘法』が実在するとは思っていなかった。これらの書物の名前を目にしたのは、H・P・ラヴクラフトという作家の書いた一連の怪奇小説の中であったため、実在しているものとは信じられなかった。
ともあれ、実在するのならば大いに喜ばしいところだった。以前、私はラヴクラフトの怪奇小説に熱中していた時期がありできることならこの中に登場する書物を読んでみたいと、常々思っていたのだ。それが目の前にあるのならば読まない手は無い。
荷物の整理をしなければならないことを忘れ、私は『死霊秘法』をその手にとってページを開いた。ページを開くまで、この本が本物の『死霊秘法』であると思い込んでいたのだが、どうやら違うらしい。誰かは知らないが、本物の『死霊秘法』を手書きで複写したものであるらしく、字体は汚らしく読めたものではない。当然ではあるが、ラテン語で書かれているらしく、日本語の注釈がついていることはついているのだがラテン語が読めなければ話にならない。残念な気持ちで『死霊秘法』を本棚に戻し、『屍食教典儀』を手に取ろうとしたが、途中で手を止める。『屍食教典儀』も海外の書物なのだ。となれば、外国語で記されているのは当然。英語もろくに読めない私が読んだところで、内容を理解できるはずも無い。
仕方なく、書庫を後にし、部屋を決め――使用する部屋は特に豪奢な部屋に決めた――荷物の整理を終えた頃にはすっかり夜も更けていた。簡単な夕食を終え、うっすらと埃の積もるベッドに潜り込んだ。埃っぽくはあったが、寝づらいということはなく、私はすぐに眠りの世界へと落ちていった。
その夜、私の見た夢は不思議なものだった。
夢の中で私は暗い部屋にいた。石造りの壁で覆われ、床には一定の法則に基づいた模様が描かれており、その模様は部屋の中心の床に描かれている星型の魔法陣を中心に描かれているようだった。夢の中で、私に体の自由は与えられていないらしい。体は勝手に部屋の中心へと向かい、星型の魔法陣の中心に立った。
すると、どこからともなく、頭の中に直接響くような音が聞こえてきた。徐々に音が鮮明になり始め、それが笛の音だと分かる。しかし、笛の調べは異界的なもので、本能的な嫌悪感を感じさせるものだった。そのうち、笛の調べの中にまた別の音があることに気付いた。
注意しながら聞いてみると、それが音ではなく声であることが分かる。外国語のようだが、まったく聞いたことの無い言語だ。少なくとも、私の知っている言語で無いことだけは確かだ。意味は全く分からないが、何かを訴えているように私には聞こえた。
/2
目を覚ました私は、言いようの無い頭痛に襲われた。体調には気をつけているため、何か病気にかかったというわけではあるまい。頭痛の原因に全くの心当たりは無かったが、慣れない環境で寝たためなのだと、半ば無理やりな理論を立てて自身を納得させた。そうでもなければ、この頭痛に不気味なものを感じてしまう。
昨晩見た夢は何だったというのだろうか。石造りの壁に、円形の魔法陣を中心に施された床の模様、不気味な笛の調べ、その中に混じっていた声。どれをとっても鮮明に思い出せる。目覚めたばかりというのもあるだろうが、夢というものをこんなにもはっきりと思い出せるというのは気味が悪い。そう思うのも、あの夢の内容が不気味であったせいなのだろうが。
体はまだ寝足りないと訴えているようだったが、ここで寝てしまったら次に起きたときに苦しくなる。重い体を引きずりながら窓辺へより、厚手のカーテンを勢いよくあける。同時に、心地よい暖かさを持った陽光が全身を照らし、眠気をどこかへと吹き飛ばしてくれた。爽やかな気分になった私は、簡単に朝食を済ませた後、昨日探索できなかった地下室の探索に赴いた。
地下室へと続く階段は思っていたより長く、電灯の類も無いようなので一度懐中電灯を取りに引き返し、また降りた。大体十メートルほど下った頃だろうか、階段が途切れ木製の扉が見えた。木製の扉には黄変した紙が張られていた。その紙に懐中電灯を当ててみると、中心に炎のような模様のある五芒星が描かれていた。五芒星を見ると、陰陽道を思い出すのだが、陰陽道の五芒星には炎のようにみえる模様などは無かったはずだ。
扉の建てつけが悪くなっていないか不安だったが、予想に反し、扉はスムーズに開いた。地下室の中は予想通り、完全な闇に包まれており、懐中電灯を持ってきて正解だった。部屋はかび臭く、だが、その中に何か生臭さを感じさせた。壁は一面の石造りだで、それを知った途端、私は言いようのない悪寒を背筋に感じた。まさか、とは思うがそんなことはあるはずがない。
足元を照らしてみると、案の定何かの模様が施されていた。床全体を照らすと、その模様が一定の法則性を持って描かれていることが分かる。そして、私の予想通りに、部屋の中心には魔法陣が描かれており、床の模様はそれを中心にして描かれているようだった。
夢で見た光景と何一つ変わらない。これはどういうことなのだろうか? 私はこの地下室に訪れたことなど無いはずだ。この館に訪れたのも昨日が初めてで、館の存在を知ったのも二月ほど前のことだ。だが、夢と現実のこの信じがたい一致はなんなのだろうか? 私の見た夢は一種の予知夢だとでもいうのだろうか?
いや、きっと気のせいだ。夢で地下室らしき場所を見たのは確かだが、果たして本当にこの地下室と同じ風景だったのだろうか? 目覚めてから数時間が経過している今、夢は朧げにしか思い出すことが出来ない。きっと、気のせいだ。来たことも無い場所を夢で見るはずは無い。夢で見た地下室は、きっと映画や何かのワンシーンに過ぎないに違いない。そうでなければ、夢で見るはずなど無いではないか。
昂ぶっていた気持ちを抑え、私は木製の扉を開け放したまま地下室に一歩足を踏み入れた。部屋の中に足を踏みいれたその瞬間に、冷や水を浴びせられたかのような寒気を覚えた。それも一瞬のことだった。もしかしたら気のせいだったのかもしれない。確かに、地下室はひんやりとした冷たい空気に満たされてはいたが地下室ということを考えれば当然のことだ。
部屋の中には何も無いようだった。天井を照らせば、天井にも床と寸分違わぬ図形が描かれていた。部屋に入るまでは気付かなかったが、床と天井に施された図形からは何かしらの圧力の様なものを感じることが出来た。そのせいか、部屋の中にいると上下からの圧力で潰されてしまいそうな気がした。その奇妙な感覚に耐えながら、部屋の中心まで行くと、床に描かれた円形の魔方陣の中心に手の平大の石が置かれていることに気付いた。そこには、地下室の扉に張られていた紙に描かれていたのと全く同じ五芒星が刻み込まれていた。果たしてこれは何を意味しているのだろうか。好奇心の魔力に取り付かれた私は、何も考えずにその石を手にするとポケットにしまっていた。途端、全身に感じている圧力がさらに強まったような気がしたが、おそらく気のせいだろう。
その後も部屋中を照らしてみたが、特にこれといった物は見つからなかったため、部屋の中心におかれていた石だけを手に私は地下室を後にし、書庫へと向かった。そこにいけば、この館についての記録があるかもしれないと考えたからだ。もし、この館についての記録があれば、あの地下室が何に使われていたのかなども記されているだろう。魔法陣などが描かれていることから考えても、何らかの宗教儀式に使用されているのは明白だが、あの五芒星は何なのか皆目見当がつかなかった。私の知る限りの宗教には、中心に炎が描かれた五芒星を使用するものは無いはずだ。もしかすれば、陰陽道から派生した土着の宗教なのかもしれないが、それならば何故このような洋館の地下に存在するのかが分からない。このような謎も、館の記録を見れば明らかになるはずだ。館の記録が存在すればの話だが。
複数の書棚の間を探りながら歩むうち、この書庫に収められている書物の大半が只ならぬ物であることに気付いた。昨日発見した『死霊秘法』の写本と『屍食教典儀』以外にも、『死霊秘法』と対で語られることの多い『エイボンの書』、『ナコト写本』、『無名祭祀書』等等、禁断の知識が綴られている魔導書の数々が並べられている。ただ、残念というか幸いというか、『無名祭祀書』を除いた全ての魔導書は手書きの写本だった。しかも、その全てを写しているというわけではなく、断片的なものばかりだ。唯一、写本ではない『無名祭祀書』ではあるが、間違いの多いといわれるゴールデン・ゴブリン・プレス版である。
だが、写本や誤植の多い版であったとしても私にしては夢の中の存在であった物が目の前に存在しているのだ。心が騒ぐのも無理は無かった。手に取って読みたい衝動に駆られたが、今はこの館の記録について探る方が先だ。時間はまだまだある、夢の中の書物たちを閲覧するのは後でも良いだろう。
膨大な数の本の中から、あるかどうか分からない記録を探すのは困難を極めた。だが、一時間後、私は怪しい本を数冊見つけていた。その本はA4サイズのソフトカバーで、背表紙には何もかかれていなかった。本棚から取り出し、表紙を見ると『日記』と書かれていた。試しに最初のページを眺めてみると
3月1日
本日の深夜、古く伝えられる儀式を行う。今のところ、とくに変化は無い。
私はさらにページをめくった。
3月2日
不思議な夢を見た。屋敷の中を彷徨い歩く夢だ。どこか遠くで、笛の音が聞こえていた。
これだ、と思った。これこそが私の捜し求めていた物、この館に関する記録だ。探していた物が実在し、見つかったことへの安堵と、書かれている内容に怖気を同時に感じた。一ページ目に書かれていた『古く伝えられる儀式』というのは何のことなのだろうか。本棚を見れば、他にもこの日記と同じような、背表紙にタイトルの無い本が数冊並んでいるのでそれらを見ていけば分かることだろう。具体的に何のことか分からなくとも、この書庫には参考文献は腐るほどあるのだ、調べるのはさほど難しいことでもないだろう。
私は館の記録を知るため、さらに日記を読み進めた。
3月3日
深夜、廊下で足音がする。姿は無いが、確かに何かが歩いているようだ。姿を見ることは出来ないが、確固たる存在感を確かに感じる。
3月4日
使用人の一人が屋敷で幽霊を見たと騒いでいた。話を聞いてみると、誰もいないはずの廊下で足音がし、何があるのだろうかと見ていると陽炎の様なものが近付いてきたという。怯えている彼には悪いが、私は実験の成功を内心で喜んでいた。
3月5日
使用人の言っていた陽炎を目撃した。陽炎は私の方へ近付いてきた、悪意のような物を感じる。だが、陽炎は私には何もせずに屋敷内のどこかへと消えていった。後で思い出したことだが、その時、私はポケットの中に旧神の印を入れていた。
3月6日
朝、顔面蒼白になった使用人に起こされた。話を聞くと、使用人の一人が何者かに殺害されたらしい。殺された使用人を見ると、全身に紐の様な物で縛られたような跡があった。まさかとは思うが、あの陽炎の仕業だと言うのだろうか。だが、あの存在が人に危害を加えるなどあの本には一言も書かれていなかった。
そこまで読み、私はこの日記が実は『日記』というタイトルの小説なのではないかと疑ってしまった。中に書かれていることはあまりにも非現実的すぎる。過去にこの日記を書いた人間は、何らかの儀式を行ったらしい。その結果、何かよくないものがこの世に呼び出されてしまった。さらに、その何かよく分からないものによってこの館の使用人が一人殺されてしまったらしい。
馬鹿げている。あまりにも馬鹿馬鹿しい。こんな話を誰が信用するというのか。こんなもの、出来損ないの怪奇小説でしかないではないか。このていどのものだったら中学生でも書ける。
馬鹿にされたという気分になった私は本を投げ出したくなったが、生来の気質からそんなことは出来ず、結局、丁寧に本棚に戻した。そのときだ、日記の横に並べられている革で装丁された本に目がいった。背表紙には日本語で『無明』とだけ書かれている。何と読めばいいのかは分からないが、小説だろうか。著者は有間怜治となっていた。
『無明』というタイトルに心を引かれた私は、その本を手に取るとページを繰っていた。小説と思っていたが、内容は全く違った。何かの研究書らしく、実験の内容、途中経過、結果。が事細やかに記されていた。それ読んだ私は、この作者が狂っているのではないかと疑わざるを得なかった。この本で言われている実験というのは悠久の過去から伝わる悪魔の召還のことだ。この本の作者、有間怜治は何を考えていたのだろうか。
だが、この本はティーンエージャー向けのファンタジー小説を執筆する際には役立ちそうな本ではある。悪魔の性質・能力・召還方法などが事細やかに詳しくのっているのだ。ファンタジーのための資料としては申し分ないだろう。さらにページを捲ると、このような記述が目に入った。
以上のように、古今東西に伝わる彼の悪魔を召還するという儀式をいくつか行ってみたのだが、結果としてどれも失敗に終わった。これらのことを鑑みるに、やはり悪魔という存在はこの世に無いというべきだろう。但し、全てのグリモワールにて紹介されている方法を試したわけではないので、断言するにはまだ早いと思われるが、悪魔という存在が存在する可能性は低いと見るべきかもしれない。前述したとおり、悪魔や天使(神でもよい)といった存在はこの地球上、我ら人類が存在するより以前の遥かなる太古、この惑星を跋扈していた『旧支配者』が伝えられていくうちに変化していったものであると考えてよいだろう。このように書くと、旧支配者とは悪魔であると考える読者が出てくるかもしれないが、全くの別物である。だが、旧支配者が悪魔の原型となったと考えるのは不自然ではないだろう。
旧支配者と悪魔には決定的な相違があることは既に明らかであろう。悪魔は存在しない(存在するかもしれないが)が、旧支配者はこの地球上に、目には見えないが確かに存在している。そして、幾つかの旧支配者と呼ばれる存在は、手順さえ踏めば召還に応じてくれることもある。現に私は、千の仔を孕む森の黒山羊として知られている旧支配者を召還することに成功したことがある。彼等は忠誠心を見せることが出来れば、我等人類が未だ知りえない知識、能力を与えてくれることすらある。だが、忘れてはならないのが旧支配者は神でも無ければ悪魔でもないということだ。
この作者は一体何が言いたいのだろうか? 悪魔の召還を試みて、召還できなかったら悪魔はいないと主張するのは不思議でもない。だが、悪魔はいないが、旧支配者は存在すると言い放った。旧支配者がどういった存在であるのかなど、どうでもいい。この作者は完全な狂人だ。出版社もよくこんな狂った本を出版する気になったものだ。
本を本棚に収めた後、私は何も持たずに書庫を出た。
/3
書庫を出て、腕時計を確認するともう正午は当に過ぎていた。あまり長居したつもりはないのだが、あの日記や狂った本を読むのに意外と時間が掛かっていたらしい。本の内容を思い出すと、余計な時間を消費したという念にかられる。時間に追われているわけではないが、下らない物を読んだせいで無駄な労力と時間が損なわれたのは事実なのだ。
とはいえ、腹を立たせたところで何がどうなるわけでもない。今日はこれからの生活用品を買うため、村に行かねばならないのだ。外に出た瞬間、太陽が私の肌を焼かんばかりの熱気を浴びせた。照りつける夏の日差しの中、蝉の声が聞こえないのはひどく不気味だった。だが、車に乗り村へ近付くにつれ蝉が鳴き始め、村に着く頃には蝉のコーラスは大気を震わさんばかりの音量になっていた。
村に下りても、目に付くのは昔ながらの木造建築と、青々しい田園風景が広がっている。一望してみたが、生活用品を売っていそうな店がありそうには見えなかった。それでも、ちょっとした食料品店ぐらいはあるだろう。
と、たまたま農作業姿の初老ぐらいの男性が通りがかったのでそういった店が無いかを訪ねてみた。道を聞いただけにも関わらず、初老の男性は目を丸く見開き驚きの表情へと変わる。私のような外の者がこの村に来るのは珍しいことなのだろう。
「ここをまっすぐにいきゃぁあるよ。ところでアンタ、ここらで見ねぇ面ぁしてっけどよ、どっから来なすった?」
「東京ですよ。しばらくの間ここで住もうと思って」
「ほぉぅ、何にもねぇとこですけど、ゆっくりしてってくださいな。ところで、どちらで寝泊りしてんですかい?」
「あの館ですよ」
車から半身を乗り出し、白亜の館を指差しながら答えた。途端に、初老の男性の表情が、驚きから不安そして恐怖へと変化していった。
「そいつぁ本当ですか?」
初老の男性から、今までの好意的な声音が消えた。逆に、敵意がこもっている。知らない間に私は何か失礼なことでもしてしまったのだろうか?
「悪いことは言わねぇよ。今すぐあの館から出ていきな、何にも起こらねぇうちに出ていくが良いさ。どうしてもこの村にいてぇんだったら、探せば物好きが一人ぐらいいて、あんたを泊めてくれるかもしんねぇ、だからあの館から出ていきな」
「急に、それも見ず知らずのあなたに言われても……私は結構気に入ってるんですけどねぇ。あ、私は作家なんですけどねあの館の環境は執筆に向いてるんですよ。何があるのかは知りませんけど、出て行けといわれても、ちょっと出て行く気にはなれないですねぇ、すみませんが」
「いんや、あんたのために言ってんじゃねぇ。ワシらのためにあっから出て行ってくれ。でねぇと、良くないことが起こる」
「良くないこと? 何が起こるというんです?」
「そらぁとてもおっかねぇことだ。ワシにゃあ何というてええのかわからなぇぐらいおっかねぇんだ。だからよ、とにかくあっから出て行ってくんねぇかなぁ?」
声音からは敵意が完全に消え、懇願しているように聞こえた。だからといって、私はあの館から出て行く気など微塵も無かった。あの館には小説執筆に役立ちそうな本も置かれているのだし、何よりも私の望んでいた環境があそこにあるのだ。こんな始めてあった、見も知らぬ老人の言うことを間に受けるわけにはいかない。だが、以前にこの村であったらしい恐ろしいことというのは気になる。
「あの、その恐ろしいことっていうのはどういうことなんですか? 良かったら教えてくださいよ」
「言えねぇよ! そんな恐ろしいこと、口にすることすらかなわねぇ、あれにゃあどんな徳の高けぇ坊さんだって敵いやしねぇ。とってもワシの口からは言えねぇ、言えねぇよ! 悪いけど、他を当たってくんな」
言うが早いか、初老の男性は逃げるように去って行ってしまった。今の話から察するに、この村では昔とてつもなく恐ろしい出来事が起きた。私に館から出て行くように言うあたりを考えると、あの館が何かしらの関わりを持っているらしい。ただ、今一つよく分からないのが、徳のある坊さんでも敵わない、という言葉だ。これはどういう意味なのだろうか? 坊さんが関係するというのだろうか? いや、違うだろう。おそらくは、超常現象のような出来事にでも見舞われたのだろうか? 何がなにやら分からないが、これから行く食料品店でも話を聞けばいいだろう。もしかしたら、何が分かるかもしれない。
初老の男性が教えてくれた通りに車を進めると、自宅を改造したと思われる雑貨店が見つかった。その脇に車を止めて中に入る。レジに割烹着姿のお婆さんが座っており、中に入ると私に「いらっしゃい」と声を掛けた後に「おや、あんた見ない顔だねぇ」と嬉しそうな声で言った。私も適当な挨拶を返し、一通り必要な物を買い込んだ後、この村について訪ねてみた。
「村について聞かせてくれだって? 残念だけどよ、この村はなんもねぇ村だよ」
「いえ、私はこの村の歴史について聞いているのではないのです。あの白い洋館のことについて聞きたいのですが」
今まで柔和だった老婆の顔が、一瞬で険しい物へと変わる。
「あんた、あの屋敷について調べてんのかい? だったらやめときな、首突っ込んでいいようなもんじゃねぇよ。あれのせいで、何人がひどいめにあったことか……だいたい、あのお屋敷だって潰してしまえばいいんだよ」
「ひどいめって、どういう目にあったんですか?」
「喋りすぎちまったみたいだね、さぁ帰った帰った。あんたみたいなのがいると商売上がったりなんだよ!さぁ、帰った!帰った!」
私は老婆に押し出されるようにして、店を追い出されてしまった。私が店の外へ出た途端、老婆はシャッターを閉めてしまった。何もそこまでしなくていいじゃないか、と思うと同時に村人達にこのような極端な反応を起こさせる何かがあの館にはあるということだ。
車の中に戻り、私はハンドルにもたれ掛かってここからどうするべきなのか悩んでいた。この村に何があったのか、そして、それにあの館がどのようにして関係していたのか。これを明らかにし、文章化するだけでも一端の作品にはなりそうだ。題材にするには充分過ぎるだろう。無論、小説の題材になるから調べたいというのもあるが、何よりも私の好奇心が知りたいと叫んでいた。
村人達の反応を見る限りでは、かなり大きな事件のようだし、当時の新聞を調べれば何か見つかるかもしれない。だが、腕時計を見れば時刻は既に午後三時を回っている。図書館へ行くには山を降り、さらに探さなければならない。見つけ出せるかどうかなどわからないし、仮に見つけられたとしても調べる時間など残っていないだろう。だったら、今日は館に戻って早めに寝て、朝早くから出かけたほうがいい。
と、そこで館にも一応記録は残っていることを思い出した。あの、日記だ。村で起こった事件にあの館が関わっているというのなら、あの日記に何か書かれていてもおかしくはない。書いた人物はさぞや狂っていたみたいだが、狂った文章の中からでもある程度なら真実を読み取ることも出来るだろう。そうとなれば、善は急げとばかりに私は車のエンジンを入れるとアクセルをいっぱいに踏み込んだ。
/4
館に帰った私は、すぐさま書庫へと向かい、例の日記を何冊か手にすると部屋へとこもった。明かりをつけ、ベッドに深く腰かけてから昨日読んだ物と同じ日記帳を手にし、続きのページを開いた。
3月7日
何ということだろうか! アレが屋敷の外へと出てしまった! 私自身の耳で聞いたことではないが、村へ買出しに行った使用人の聞いた話によると、屋敷に一番近い家に住んでいた一家五人が無残にも殺されてしまったというのだ! しかもだ! その五人の死にようは、昨日何者かに(不可視のものに違いない)よって殺された使用人と同じように、紐か何か細いもので締め付けられたような後があったというのだ! これ以上被害が出ぬうちに、アレを何とかせねばなるまい。
この後、日記はしばらく書かれていなかったようで、次の日付は三月七日から一週間がたった十四日になっていた。
3月14日
しまった! 何故私はあの本、無明をもっとよく読まなかったのだろうか!? 私は呼び出してはならないものを呼び出してしまった! アノ本には不可視のものの召還方法は載っているが、還す方法については何も書かれていないではないか!? まさか、この本は削除版だったのか!? だとしたら嵌められた! あの古物商め! これが削除されていない完全版だから買ったというのに!
この後はしばらく古物商に対しての罵詈雑言が並べ立てられており、続きも何者かによって殺された使用人や村人達に懺悔する内容ばかりだった。しばらく読んでいたが、懺悔と後悔していることしか書かれていないため、これ以上読む必要は無いと判断した私は日記を閉じると、書庫へと向かった。この日記の中に書かれていた本『無明』をとりに行くためだ。
書庫で『無明』を取り、部屋に戻った私はまたベッドに腰かけて本を開いた。以前のように中ほどから読むのではなく、最初から読んでみようと思う。日記によると、この本には『不可視のもの』と呼ばれるものを召還する方法が書いてあるという。――それが真実か、虚構かはひとまず置いておく――ということは、この本はユダヤの王、ソロモンが書いたといわれる『レメゲトン』等と同じようなグリモワ、悪魔召還の方法について記されている魔導書なのだろう。
村で起こった事を調べるという最初の目的とは変わっているものの、何も今すぐに調べる必要はないのだし、どうにもこの本を読まなければならないような気がするのだ。この本に書かれていることがまったくの嘘っぱち、妄想の産物であることなどは百も承知だが、私の脳はこの本の中に書かれている知識を欲し、意思とは無関係に手を動かすのだった。
時間を忘れて、私は『無明』を読みふけった。そして、一ページ、また一ページと読み進めていくたびに、私は慄然たる恐怖を覚えるしかなかった。以前読んだ箇所などはこの本の本題とは離れた、一種の余談でしかなかった。この本『無明』に書かれているのは恐るべき事象、人類の知る地球の歴史全てを覆しかねないものだ。
這い寄る混沌としても知られるナイアルラトホテップ、千匹の仔を孕みし森の黒山羊シュブ=ニグラス、一にして全全にして一なるものヨグ=ソトース、名伏しがたきものハスター、大いなるクトゥルー。
これらの記述を読むたびに、私の心は震え上がった。喉は渇き、額から冷や汗がにじみ出ているのが自分でも分かる。確かに私は恐れていた。だが、何を恐れる必要があるというのだろうか? この本に書かれている内容は妄想に過ぎない。これらの旧支配者と呼ばれる存在が太古の地球を支配し、旧神と呼ばれる存在によって地下深く、または宇宙の彼方に封印されたが再び地球を支配するために虎視眈々と時期をうかがっている、などと誰が信じられるというのだろうか。こんなもの、絵空事にしか過ぎない。
だというのに、何故旧支配者について知れば知るほど恐怖を感じるのだろうか。恐れる必要などは全くない、これは作者の絵空事なのだ。だが、私は恐れている。紛れもない事実として、私はこの本の知識を知る事によって恐怖を感じているのだ。恐怖のあまり、私は本を閉じたい衝動に駆られた。これ以上、この本に記されている知識は必要ではない。慄然するしかない内容を読み続けても、恐怖で足元が瓦解していく感覚を味わうだけだ。早く、閉じたい。
だというのに、私の体はページを繰る手を休めようとはしなかった。眼も瞬きするのすら惜しむように文章を見続け、脳へと送る。情報を送られた脳も、それを決して忘れまいとするかのように入念に記録していく。そこに、私の意志は無かった。
そして私は慄然すべき記述を眼にした。
それは『見えざるもの』と呼ばれる存在を召還する方法だった。この存在を召還するためには、地下室の床と天井に全く同じ魔法陣を二つ書かなければいけないらしい。ご丁寧な事に魔法陣の図が記されていた。その図を見たとき、私は我が目を疑わざるを得なかった。その図に描かれている魔法陣は、この部屋の地下室にあったものと全く同じ物だったのだ。
まさか、だがそんなことはありえるはずが無い。あんなものはきっとただのでたらめ、妄想に違いない。しかし、しかし仮にあの日記に書かれていたことは本当だったというのか? 村人がこの館を忌避していた理由というのは、もしや……いや、そんなはずはない。こんな考えは馬鹿げている、ただの空想や妄想の産物だ。あまりにも非科学じみすぎている。
本を読み終え、体の自由が戻ったことを感じれるようになったときには、既に夜は更けていた。窓から見える景色は、完全な闇に包まれていた。窓辺により、空を見上げてみたが、曇っているらしく星は見えなかった。さて、今は何時だろう、腕時計を確認すると既に日付はとうに変わっており、草木も眠る丑三つ時になっていた。そこでようやく、体が水分と栄養を求めていることを知った。今まで飲まず食わずで本を読み続けていたのだ、当然だろう。
何か食べ物と飲み物を確保するため、部屋の外を出ようとしたとき、変な臭いがすることに気付いた。それほどキツくはないが、腐敗臭や死臭のように本能的に嫌悪感が呼び起こされる類の臭いだ。加えて、一定の間隔を置いて床の軋む音がする。どうやら臭いと音の元は近付いているらしく、臭気は増し軋む音は大きくなってゆく。その正体が何なのか、見当もつかなかった。少なくとも、人間ではないはずだ。だとしたら、動物でも迷い込んだのだろうか。
音はさらに大きくなり、臭いもきつくなってくる。その正体が何であるのか、ドアを開けて確かめたい。だが、腐敗臭とも死臭ともとれる正体不明の不快な臭いがドアを開けることを躊躇わせている。しかし、臭いと音の元が何であるのかは気になる。せめて、何かが見えればと思い。私はドアの鍵穴から外をのぞき込んだ。
音の感じからして、そろそろこの扉の前を、音と臭いの正体が通るはずだ。ミシリ、ミシリ、と床板の軋む音が近付き扉の前を通り過ぎていった。その時、私は何も考えることが出来なくなっていた。頭の中は真っ白になり、目の前の状況が把握することすら出来なかった。断言しよう、私は鍵穴から、それこそ瞬き一つせず眼を凝らして何が通るのか見極めてやろうとしていたのだ。何が通ろうと、見逃すはずは無かった。だが、見えなかった。音と、臭いだけが通過して行ったのだ。だが、それだけならばまだいい。恐ろしい事に、見えないはずなのに私にはその存在の姿が分かるのだ。音と臭いの正体の持つ圧倒的な存在感が、私の心に作用しているのか、頭の中に音と臭いの正体の姿が浮かび上がるのだ。基本的には人の形をしているが、上半身だけが異様に逞しく下半身は何故立っていられるのかわからないほどに細い。頭部に顔の半分以上を占める口以外の器官は無く、腕も肩の付け根辺りから無数の触腕がのたうっていた。私にはその存在を視覚することは出来なかった。
だが、どのような姿をしているのかは頭の中に浮かび上がってくる。
臭いと音の正体がドアの前を通り過ぎた後、私は叫ばずにはいられなかった。頭の中は恐怖だけで支配されていた。とにかくこの場から逃げ出そうと、ドアの前から走り出したが、外に出るわけにもいかない。窓の外から飛び出そうにもここは二階だ。飛び降りることは出来るだろうが、飛び降りるには躊躇ってしまう。
その時、私は足音が止まっていることに気付いた。あの正体不明の存在はどこかに行ってくれたのか、と安堵しかかったが相変わらず鼻をつく悪臭がそれを否定している。まさか、と脳が最悪の予想を思い浮かべる。
再び、床の軋む音が近付いてきた。それはドアの前に来ると、また音がやんだ。臭いはしている。間違いない、あの正体不明の存在は今正に、ドア一枚隔てた向こう側に存在しているのだ。ドアノブがゆっくりと回る、音も無くドアが開く。その向こうには何も見えない。だが、私は感じている! あの異形の存在を! 私の心は映し出している、あの異形の姿を形を色を!
足音が近付く、もうどうすることもできない。どうすればいいというのだ、私が何をしたというのだ!? 見えない触腕が伸びて、私を捕らえた。