結婚五日目
「ジョージ殿下が王宮内で楽しそうに出来るとは知りませんでした」
カイルは冷めた目でジョージを見ていた。ジョージは殿下と呼ばれたにもかかわらず反応する素振りがない。
「え? 俺楽しそう?」
「えぇ、とても。そこまでライラ様を気に入られるとは思っていませんでした」
「何か面白いんだよね、あの姫。世間知らずだし」
カイルはジョージの中のライラ像が自分とかけ離れていると感じた。流石に寝室で何があったかなど聞く気にはならないが、仲がいい振りだけで十分だったのにジョージの心はそこで踏み留まる気配がないのはわかる。
「外交官をしていた方に対して世間知らずとはどういう意味でしょう?」
「あ、そうか。姫は外交官だったんだよね。……ん?」
「何か?」
「いや、外交官らしさが確かに最初はあったんだけど、今は感じないなって」
カイルはブラッドリーの件で部屋を出た後、未だにライラの所に行けていない。それは自分の仕事が忙しかったからでもあるが、既に外に出る事が決まっているので今更説明は要らないとも思っていたのだ。
「姫なりにレヴィに馴染もうとしてるから、違和感がなくなってきたのかも」
「馴染む? あぁ、歴史書を読んでいる件ですか」
カイルの対応にジョージは嫌そうな顔をした。
「そうか、間者の侍女がいるから筒抜けなのか」
「お二人が外へ行かれたら彼女も移動させますから暫く辛抱して下さい」
「あぁ、今引き上げると不自然だから仕方がないな」
そう言いながらもジョージはどこか不機嫌そうなままだった。
「で、用件は? 何か仕事が増えた?」
「復興案の通過の目途が立ちました。一週間後には出立出来ると思います」
「一週間。数日縮んだな」
「縮めろと言われたのはどなたでしたでしょうか」
不満そうなジョージにカイルは冷たい視線を投げる。
「いや、悪い。普段の俺なら大喜びだ。状況が変わると思ってなくて」
「状況?」
「姫にまだ読ませたい歴史書があるんだよ。一週間であと何冊読んでくれるかな?」
カイルは何故ジョージがそんな事を言い出したのかわかりかねた。
「レヴィは明日までかかるでしょうし、頑張ればあと三冊くらいでしょうか?」
「三冊か。うん。三冊頑張って読んでもらうか」
ジョージは呟くようにそう言った後、思い出したかのようにカイルの顔を見た。
「あ、出立の前夜、姫を連れて晩餐会に出るからそう言っておいて」
「何故急にそのような話になるのですか」
「この前の謁見の時、陛下に言われたんだよ。だから姫を紹介してから王宮を出ようかと」
「そう言えば噂になっています。ガレスの姫君が綺麗だと。わざと見せびらかしましたね?」
「陛下に会った後にね。姫が王宮をわからないのをいい事に少し遠回りしたし」
「隊長は王宮に居ない割にわかっていますよね」
「十五歳まではここから出られなかったんだ。嫌でもわかるさ」
そう言いながらジョージは立ち上がった。
「ちょっと姫を連れて散歩してこようかな」
「勿論王宮内でしょうね?」
「無用に王宮内を歩くのは不自然だから庭のつもりだけど?」
「王宮の敷地内なら口出ししません。王都へは行かせられませんが」
「流石に今は出ないよ。折角の芝居が台無しになったら困るからね」
ジョージはカイルに笑顔を向けた。
ライラは黙々と歴史書を読み進めていた。しかしジョージの言った意味は分からない。そもそもレヴィの歴史は約三百年弱あり、彼女はまだ半分も読めていなかった。
ライラは小さくため息を吐くと栞を本に挟んで閉じた。流石に目が疲れてきていた。
「ライラ様、根を詰め過ぎではありませんか?」
エミリーが紅茶を差し出す。ライラはそれを口に運んだ。
「だけどこれを読まないと、ジョージ様の言いたい事がわからないの」
「歴史書に答えが書いてあるのですか?」
「わかるかも? くらいらしいけど、読まなければ一切わからないのよ」
一体この夫婦は何を目指しているのか、エミリーには理解が出来なかった。ライラの興味がジョージに向かっているのはわかるのだが、そこに恋愛感情は見い出せない。むしろ何か意地になっているような気さえする。
「昨日の本とは読み方が違います。今のままですと疲れますよ」
「え?」
「昨日は楽しそうに読んでらっしゃいました。その本は楽しくないのですか?」
ライラは閉じた本に視線を落とす。内容を比べるのならケィティの方が面白かった。それはケィティが知らない歴史だったのに対し、レヴィは知っている歴史というのがそもそも違う。そしてそれ以上にレヴィは暗い内容が多いので疲れるのである。まだ半分も来ていないのに内乱が多くて王家の家門が既に変わっている。騙し合いが多く誰を主役にしても明るい話にならないような歴史である。
「そうね。思った以上に苦手な内容だわ」
ガレスで読んだレヴィの歴史書では内容が薄いだろうと補完する意味で借りた本だったが、こんなに暗い内容だったら知らない方がましだったかもしれないとライラは思った。陰謀渦巻く世界を好む人間もいるのだろうが、彼女は好きではない。
ライラがティーカップを机に置いた時、突然部屋をノックする音が響いた。扉の近くにいたジェシカが対応する。
「はい、どちら様でしょうか?」
「俺だけどちょっといいかな?」
「はい、只今開けます」
ジェシカが扉を開けジョージが部屋の中に入ってきた。
「読書中だった?」
「いえ、休憩をとっていた所です」
「なら丁度いい。気分転換に散歩に行かないか?」
ジョージの誘いの意図がわからず、ライラは首を傾げただけだった。
「散歩は嫌い?」
「いえ。ただ何故急にそのような事を言われるのかと思いまして」
「いい天気だから散歩でもしようかなと思っただけだよ」
ジョージの表情は優しい。しかしライラには何かが引っ掛かって一緒に行く気になれない。
「私は今日化粧をしていません。面倒ですから化粧は極力したくはないのですが」
「ライラ様!」
エミリーがライラの言葉を責めるように叫ぶ。ジョージは笑っている。
「散歩に化粧なんか要らないよ。それに化粧しなくても十分綺麗じゃないか」
普通の女性なら照れたりするのだろうが、ライラはそれを特に何とも思わない。特にこの男が綺麗な顔立ちに興味がない事をわかっているので余計に白々しく感じた。それなのにエミリーは横で喜んでいる。
ジョージは煮え切らない態度のライラの横に座ると耳元で囁いた。
「それでも行きたくない?」
優しく微笑むジョージの顔がライラにはやたら憎たらしく感じた。しかし彼女は囁かれた言葉を聞き流す事は出来なかった。
「……行きます」
「よし、じゃあ行こう。姫を一時間くらい借りるね」
ジョージはライラの手を取ると彼女を立ち上がらせた。エミリーは慌ててライラに帽子を手渡す。ライラは帽子を被ると二人は彼女の部屋を後にした。
廊下を少し歩き、突き当たりにある勝手口をジョージは開けた。そこは既に庭である。
「何でそんなに散歩が嫌なの?」
庭を歩きながらジョージが尋ねる。
「いい天気ぐらいで散歩に行きたいと言い出すとは思えないからです」
「例の侍女の前で馬に会いに行こうって言うのはまずいかなと思っただけだよ」
勿論それはジョージの口実で、ジェシカからカイルに情報が流れるのが単に嫌だっただけである。
「そのような気遣いだったのですか?」
「余計だった?」
「いえ。ありがとうございます。本当はフトゥールムの様子が気になっていたのです」
二人の前に厩舎が見えてきた。そこには馬を連れたブラッドリーが立っている。
「フトゥールム!」
ライラはジョージの手を解き、一目散に馬へと駆け寄っていく。
「よかった。とても元気そう。ブラッド、変わりはない?」
「えぇ、フトゥールムはいい子にしていましたよ」
「それは見たらわかるわよ。ブラッドは大丈夫だった?」
「えぇ、無事ここで厩番として雇って貰えました」
「本当? よかった」
ライラはブラッドリーに抱きついた。
「ブラッドには悪い事したと思っていたの。本当にごめんなさい」
「いえ、それはいいので出来たらすぐに離れて欲しいのですが」
「別にいいでしょう? いつもの事だから」
「ここはお屋敷ではないですし、ライラ様は嫁がれたわけですから」
ライラは背中越しのジョージの存在を忘れているのか、ブラッドリーの言葉に耳を貸さない。そんな彼女を彼は何とか離した。彼女は明らかに不機嫌顔である。
「何よ、そこまで余所余所しくしなくてもいいでしょう?」
「私にも立場がありますからご容赦下さい」
ブラッドリーの懇願を聞いてライラは振り返った。
「ジョージ様は器の小さい方ではありませんよね?」
ライラはにこやかにそう言った。ブラッドリーは視線を落としている。
「今の行動は軽率だと思うよ。俺が彼を斬り捨てても問題にならない。この王宮はそういう場所だ」
ジョージは淡々とそう言った。ライラは楽しい気分が一瞬で吹き飛んだ。
「斬り捨てる? 少し会話をしただけでですか?」
「会話は別に構わない。抱きつくのが頂けない」
「何故でしょう? 久しぶりに会えたのですから抱擁くらい宜しいではないですか」
「いやおかしいだろう?」
「ではフトゥールムに抱きつくのも駄目なのですか?」
「感心しないけど、俺は咎めないよ」
ライラはブラッドの袖を引っ張って小声で尋ねた。
「ブラッド、あの人は王子にしては器が小さすぎると思わない?」
「そのような事はありませんよ。嫁いだ自覚をお持ち下さい。そもそも本来なら未婚でも貴族の女性でしたら気軽に男性に抱きついたりしませんから」
「えー、知らないわよ」
「知らないのではなく、わかりたくないだけですよね? 本当は御存知ですよね?」
「ここでは知らないふりは出来ないという事?」
「私は殺されたくないので、出来たらやめて頂きたいです」
ライラは肩をすくめた。そして小声の二人のやり取りを黙って聞いていたジョージに向かい彼女は頭を下げた。
「ごめんなさい。もう軽率な事はしません。ですからブラッドを斬り捨てないで貰えますか?」
「いや、斬り捨てる気は最初からないよ。弁えてくれたらそれでいい」
「ありがとうございます。フトゥールムと散歩はしても大丈夫ですか?」
「ここから見える範囲でね」
目の前に見えるのは赤鷲隊が使っていると思われる厩舎と兵舎。しかしそれ以外視界を遮るものはない。一体どれだけ庭が広いのかわからない。
「わかりました。では少し歩いてきますね」
ライラはフトゥールムを連れて歩いて行った。ブラッドリーがジョージの側に寄る。
「私を挟んで腹の探り合いをするのはやめて下さい」
「悪い。どうしてもブラッドの身元を知ってるか気になって」
ブラッドリーは赤鷲隊所属の間者だった。カイルの部下ではなく、ジョージの部下である。ジョージが赤鷲隊に入隊した時、ブラッドリーは彼の教育係だった。その時から気が合い、肩書を意識せず軽口を言い合う関係である。ただ、ブラッドリーはカイルとは話そうとせず、カイルが一緒だとジョージとも極力話さない。それに合わせてジョージもカイルがいる時はブラッドリーを愛称では呼ばなかった。
「そのような事にライラ様は興味を持ちません。私の事は友人扱いですしね」
「友人? それ以上に親しい感じがしたけど?」
「友人です。付き合いが長くなればわかりますよ。ライラ様は所謂姫ではありません。きっと馬の散歩している途中で芝生に寝転びますよ」
「寝転ぶ? いくら何でもこの芝生には座るのも躊躇うだろう?」
ジョージは庭の芝生を見た。勿論王宮内の芝生だから手入れは行き届いている。しかし王族や貴族が芝生の上に座るなど聞いた事もない。
「そのような事を躊躇わない人ですから私も情が移っているのですよ」
「あの報告書、端折ったのはやはりわざとか」
ジョージはため息を吐いた。いくら三年振りに報告書を書いたのだとしても、直近の事を忘れるはずがない。
「すみません。不要だと思った事は省きました」
「元宰相に会ってからレヴィ入りしたという事が不要だと?」
「元宰相の孫娘という先入観が不要なのです。それがあるとライラ様の本質が見えなくなってしまいます」
「本質?」
「ライラ様を利用しようとするのは得策ではありません。共に歩むという方向でなければ、あの方の心は動きません」
二人が話している事など気にも留めず、ライラは馬を撫でたりしている。
「ライラ様は自分で感じたものを信じます。人の噂には左右されません。本音で話さないと本音を返してくれません。こちらが何か隠したままでは駄目なのです」
「やはりブラッドの身元がわかってるって事か?」
「ライラ様があの馬を連れてきたのは我儘ではありません。私の為だったのです」
「どういう事だ?」
質問に対し、違う答えが返ってきてジョージは少し苛立った顔をした。
「レヴィに入国後、ライラ様は私にこう言いました。ブラッドとフトゥールムはここから消えても何の問題もない。だから故郷に帰ってもいいと」
「ブラッドをガレスからレヴィへ帰郷させる為に一芝居うっていたという事か」
「そうです。しかも私でさえその芝居には気付きませんでした。そして私が間者と知っていたとしたら、そのような行動を取るでしょうか」
ジョージは腕組みをした。目の前のライラを見ればあの馬を気に入っているのはわかる。その大切な馬を間者の逃走に差し出すとは考え難い。間者とは知らず、ただ友人を思っての行動とした方が納得出来る。
「それで、どう断ってここまで来たんだ?」
「私は親に勘当されているので帰る家がありません、と」
「確かにブラッドに帰る家はないな」
ブラッドリーは元々公爵家の次男坊である。だが彼は勉強が出来ず、政治家になるのは難しいと判断されて赤鷲隊へ放り込まれた。しかし彼は赤鷲隊に馴染んでしまい、結局家を捨てて赤鷲隊に腰を下ろしてしまったのである。
「ライラ様は不要だと思えば人の心に土足で入ったりはしません。ですから私との関係は、お互いの出自など気にしない友人という立ち位置に落ち着いているのです。しかし隊長では立場が違います。土足で入りたくなくても、そちらから土足で入ろうとすればやり返そうとするのは仕方がない事でしょう」
ブラッドリーは先程のライラの態度はジョージのせいだと言いたいようだ。
「彼女は一貫していないというか、よくわからないんだよ」
「ライラ様は譲れない所は絶対譲らない頑固な方ですが、それ以外は拘らない方です。今ライラ様にとって重要なのは休戦協定を守りたい、ただそれだけですよ」
「あぁ。話の内容で態度が違うように感じたのはそういう事か」
「元宰相の孫娘だからかはわかりませんが、人の見極めは出来る方です」
「俺も今見極められているのか」
「隊長も同じ事をしているのですから責められませんよ?」
「それはそうだ。つまりブラッドから見れば彼女は信用が置けるという事だな?」
「人としてはそうですね。女性として見ると判断が難しいのですが」
「ん? そこを分ける必要があるのか?」
ジョージが問いかけた時、ライラは芝生の上に寝転がろうと腰を下ろした。それを見たブラッドリーが慌てて走り出す。
「ライラ様! いけません、エミリーに怒られますよ!」
ライラとブラッドリーがやり取りしているのをジョージは遠目で見ていた。確かに貴族の女性は庭の芝生に寝転ばない。一体彼女は何がしたいのか、彼は必死で思考を巡らす。しかし上手く考えが纏まらない。それは彼女が彼に向けた事のない笑顔を厩番に見せているからかもしれない。
ライラは寝室に行くのを少し躊躇っていた。今日のジョージの態度が気になっていた。自分も少しやりすぎたかなとは思うが、それにしても彼の態度が冷たかった。しかし寝室に行かなければ余計に気まずくなる。
寝室の扉をノックしても相変わらず返事はない。ライラはゆっくりと扉を開けるといつも腰掛けているソファーに腰を下ろした。ふと視線をテーブルにやると本が三冊積んである。何の本だろうと手を伸ばそうとした時、ベッドの方から声がした。
「ちょっと待って」
ライラは驚き、声のした方に視線を移した。ベッドにはジョージが寝転んでいたが、寝ていた雰囲気はない。何故ノックをしたのに返事もしないのか、この男はよくわからないと彼女は訝しげな表情を向けた。
「何でそんな顔になるの」
「ノックをした時に返事がなかったので、驚いたではありませんか」
「ごめん。返事し損ねたかも」
「し損ねるとはどういう事でしょうか。考え事でもされていたのですか?」
「そう、どうしても考えが纏まらなくてね」
そう言いながらジョージはベッドから降りるとライラの前のソファーに座った。
「考えてもわからないから、直接聞いてもいいかな?」
「何でしょうか?」
「王宮の外へ行って、何がしたい?」
「え?」
思いもよらない質問にライラは驚いた。
「普通、嫁いですぐに王宮を出るなんて言い出さないでしょ? 何の目的があってそう言い出したの?」
「自分の身を守るのに王宮内が一番危ないと思っただけです」
「確かに今はガレスとの国境の方が安全かもしれない。で、そこへ行って何をするの?」
ジョージに責めている雰囲気はない。単純にライラの考えを知りたい様子だ。
「ごめんなさい、そこまで考えての言葉ではありませんでした」
「つまり向こうで俺が仕事をしてる間、暇を持て余しているつもりだったの?」
ジョージに問われ、ライラは自分が何も考えていなかった事を恥じた。復興作業中に自分が出来る事は何かを考えておくのは必要な事なのに、何故そこに頭が回らなかったのだろうと彼女は自己嫌悪した。
「返す言葉もありません」
「それでも行くの?」
「行きます」
「たとえ王宮内にいる間、命の保証がされたとしても?」
「それでも行きます。ジョージ様は考えがあって私を連れ出すのでしょう?」
ライラの言葉にジョージは笑う。
「残念だが俺にも考えがない。前代未聞の事をやるのは面白そうだ、それしか考えていなかった」
「そのような状況で国王陛下に会いに行かれたのですか?」
「まぁ結果的に説得出来たみたいだからいいんじゃない?」
気楽そうにジョージが言う。どうやらやはりライラを責める気はないようだ。むしろ何も考えていなかったのが好都合だったとさえ思っているような雰囲気がある。
「何か私にやらせたい事があるという事でしょうか?」
「そうだ」
そう言いながらジョージは机の上に積んであった本を一冊立ててライラに表紙を見せた。それはシェッド帝国の歴史書だった。
「帝国の歴史はわかる?」
「多少はわかります。ガレスと国交がありましたから。帝国の皇女が第一王子に嫁いでいるのも知っています」
「じゃあ帝国がどこと仲が悪いかもわかる?」
「噂は聞いた事があります。ただその国はガレスと国交がないので詳細はわかりません」
ジョージは帝国の歴史書を横に置き、二冊目の本の表紙をライラに見せた。そこにはローレンツ公国の歴史と書かれている。
「その噂はここ?」
「そうですが、それが何か?」
「ここ王妃殿下の出身国」
ライラは驚きの表情をジョージに向けた。何故王妃と第一王子の正妻が争っているのか。それはどちらが綺麗かだけの問題ではなかった。平和な争いなどではなかったのだ。
「待って下さい。王妃は第一王子の母君ではないのですか?」
「違う。今の王妃は俺の弟二人の母親だ。兄上の母上は既に亡くなっている」
「では第二王子は? ジョージ様は三男と聞いています」
「第二王子は二年前に亡くなっている」
王族がそんなに簡単に亡くなるものなのか、ライラは判断しかねた。病死なのか毒殺なのか、それはわからないがこの王宮には陰謀が渦巻いている気がする。そう、読んだ歴史書のままに。
そして昨夜のジョージの言葉の意味が腑に落ちた。正妻がいない彼以外の王子二人は王妃の息子。つまりその争いの渦中に入っていたという意味だったのだ。ジョージの嫁だからこそ、今まで呑気にこの王宮で読書など出来ていたのだ。
「何故急にこのような話を?」
「俺はこの王宮が息苦しくて仕方がないんだよ。だから軍隊へ逃げた。でもこのままでいいとも思っていない。ライラ、君は俺の味方?」
ジョージの表情は真剣だ。その眼差しはライラの心の奥を見ているようで彼女は目を逸らせなかった。しかし彼女はそれに怯まなかった。ずっと気にかかっていた事があったのだ。
「私の名前を呼ぶのもわざと避けていましたよね?」
「ん? そこも気になるの?」
「えぇ。国王陛下の前でも必要最低限しか呼びませんでした。私は姫として育てられていないと伝えたはずです」
「それなら俺の意図がわかってるんだろう?」
「意図はわかりますけれど、真意はわかりかねます」
二人は視線を外さないまま暫く黙っていた。お互いが相手の出方を窺っていた。しかしその沈黙はジョージが視線を外す事で破られた。
「今すぐ答えが出せないのなら、出立前夜まで考えていてもいいよ。その間にこの本は読んでね」
ジョージはテーブルの上の本を三冊整え直した。
「最後の一冊はどこの歴史書なのですか?」
「レヴィだよ。今貸してるのはおおまかなやつ。こっちは内容が濃い方」
ライラの表情が曇る。その変化にジョージは笑みを零す。
「歴史書は好きなんじゃないの?」
「好きですけれど、レヴィは陰謀が多くて気分が重くなるのです。それは気が滅入る話という事ですよね?」
「でもこれがレヴィの根幹だ。こういう国だと理解しないと上手く立ち回れない」
ガレスとは七十年前まで同じ国だったはずなのに、何故こうも違うのか。いや、レヴィという国が嫌でガレス初代国王は国を一から新しく作ったのかもしれない。
陰謀が多いのがレヴィの根幹。味方かと尋ねるジョージ。つまりライラが彼と共にその陰謀に立ち向かう覚悟があるのか、それを確かめたい。そしてその為に必要な知識を目の前に差し出している。普段飄々としている彼が今夜はどこか自信がなさそうに見えるのは気のせいだろうか? 彼は本当に味方として彼女を受け入れたいのではないだろうか? そもそも彼女に帰る場所はもうない。それなら彼と敵対するより共に歩んだ方がいいに決まっている。第一彼女はこの結婚に期待して嫁いできた。第一印象を結婚式で覆され、どう対応するか決められなかっただけである。
ライラは覚悟を決めたように一瞬鋭い眼光をジョージに向けた後、柔らかく微笑んだ。
「私は平和を望んでいます。ジョージ様もそう望んでおられるのなら決して裏切らないと誓いましょう」
ライラの言葉にジョージも微笑み返す。平和の為にと念を押した所が興味を引いた。
「いい教育を受けてるね」
「ジョージ様も良い環境で御育ちのようですね」
ライラは笑った。それは今までジョージに向けていたのとは違う、今日ブラッドリーに見せていたあの笑顔である。彼はその笑顔を見て満足した。