結婚三日目
翌日の午後、ライラはジョージに言われた通り最大限に着飾っていた。
「ライラ様お綺麗です。いつもこのようにお化粧をされたら宜しいのに」
「嫌よ、つけまつげを毎日つけていたらそのうち重みで目が開かなくなるわ」
ライラは今まで極力化粧をしないで生活していた。父の下で働くには女性らしさなど邪魔だったからだ。それに彼女は自分をよく見せるという事も嫌いだった。
「そのような馬鹿な話は聞いた事はありません、ねぇジェシカさん」
「重みで開かなくなるのなら王妃殿下はじめ女性の皆様は既に盲目でないとおかしいという話になってしまいますね」
王宮内の女性達の化粧が濃いのだと批判しているようなジェシカの物言いがライラはおかしかった。
「ジェシカは今まで誰に仕えていたの? 今の言いようは宜しくないと思うわ」
「私は元々厨房で働いていました。言葉使いが間違っていましたら申し訳ありません」
ライラにはジェシカの答えが意外だった。厨房で働いていた者を侍女として雇うカイルの真意がわからない。そもそも厨房で働いていた者が侍女としてきちんと振る舞えるものだろうか? しかしジェシカの侍女としての務めはライラから見て申し分ない。
ライラの思考を遮るように扉をノックする音が響いた。
「俺だけど、そろそろ準備出来たか?」
「出来ていますよ、どうぞ」
エミリーは扉を開けた。ライラは部屋に入ってくるジョージに微笑みかけた。
「いかがでしょうか? ご不満なら化粧をし直しますけれども」
「いや十分だ。結婚式の時より気合が入っているのはわかる」
ライラはジョージの言葉に驚いた。あんなに気怠そうだったのに、ヴェールの下の自分の顔を見ていたとは思っていなかった。しかしこの男、彼女を見ても表情を一切変えない。綺麗な顔立ちには本当に興味がないようだ。
「では行こうか」
ジョージはライラに手を差し出した。彼女は彼が紳士的な態度が出来る事に違和感を覚えながら、そこに手を乗せてソファーから立ち上がる。側にいたジェシカがヴェールをライラに被せた。
「前は見えるか?」
「うっすらと」
「危ないから捕まるといい」
ジョージはライラの手を放すと腕に彼女の手を回した。エミリーが彼の態度に喜んでいるのがわかったが、彼女は気付かないふりをした。
部屋を出て二人は謁見の間へと歩いていく。徐々に王宮内の中心部分に近づいているのだろう、すれ違う人が増えてきた。中にはこの二人を窺う素振りを見せる者もいたが、誰も頭も下げなければ挨拶もしない。黙々と歩くジョージにライラは黙ってついていくしかなかった。
謁見の間に到着すると二人は下座で国王を待った。部屋の奥、三段上がった所に椅子が置いてある。ガレス王国でも謁見の間はこのような感じだったが、あくまでも国王と臣下もしくは外国の使者との場合に使われていた。ライラがそのような事を考えていると部屋の奥の扉が開き一人の男性が入ってきた。その男性はそのまま椅子に腰かける。
「本日はお時間を頂戴し誠にありがとうございます」
ジョージの物言いが明らかに親子間の雰囲気ではない。しかしライラは黙っていろと言われたので、彼の後ろに控えたまま表情を悟られないように俯いていた。
「うむ。そちらが例の姫君か?」
「はい、ガレス王国より嫁ぎましたライラでございます」
「ヴェールなど被せて勿体ぶっておるのか?」
「いえ、そのような事は。ライラ、父上にご挨拶を」
ジョージがライラのヴェールをあげた。彼女は優雅に膝を折って一礼してから顔を上げる。
「お初にお目にかかります。ライラでございます」
国王は五十歳前後の人のよさそうな雰囲気の男性だった。権力が強いと聞いていたので意外だなとライラは心の中で思った。そして目の前の国王は一瞬目を開いた後、細めて彼女を見ている。
「これはまた綺麗な。やはり勿体ぶっておったのではないか」
「いえ、王宮内にこれ以上の波風が立たぬようにとの配慮でございます」
国王の顔が少しひきつった。嫌な事を思い出したような表情である。
「長らく戦場にいたお前でさえ知っているのか」
「私が戦場へ赴く前から兆候はありましたので」
「それで、この姫をどうしたいと」
「出来ましたならば彼女を連れて次の任務にあたりたいと存じます」
ライラはジョージの後ろに控えながら驚いていた。まさかそのまま希望を告げるとは思ってもいなかったのだ。
「また無謀な事を。他国からの姫君に無理をさせる気か」
「しかし王宮内で第三の派閥として担がれでもしては、父上の心労が増えてしまいます。そのような事を私は望みません。それに彼女は乗馬が出来ますし、一度私と共に外へ出て帰ってきたならば、変わった姫というような対応になりましょう」
ライラは視線を伏せてジョージの言葉を無言で聞いていた。失礼な事を言われた気もするが、ここで何かを言って彼の計画を潰してしまえば自分の首が絞まる事はわかっている。
国王はジョージの言葉を聞いて少し考えている様子だった。
「姫はそれでよいのか?」
「はい。ジョージ様のお側にいたいと思っております」
ライラは国王の性格を聞いておけばよかったと後悔した。初対面の相手にどう答えたら正しいのかなど簡単にわかるはずもない。しかも相手は国王である。
「変わった姫よのぅ。隊長であるジョージの側にいたいとは」
ライラは間違えたかもしれないと思って俯いた。助けを求めるように彼女はジョージの袖の端を少し引っ張った。
「彼女をからかうような事はやめて頂けませんか? 恥ずかしがっているではありませんか」
ジョージは微笑みながらライラの髪を撫でた。彼女はこれが説得の一部なのかどうかもわからず、俯いたまま顔を上げられなかった。部屋から出る際に手を差し伸べて以降の彼の態度が、今まであまり女性扱いされてこなかった彼女にとって本当に恥ずかしかった。
「確かにこのように慕ってくれる女性を残していくのは辛かろう。かといって戦後復興作業を他に任せられる人材がいるわけでもないし」
「それでは宜しいのですか?」
ジョージは国王をじっと見つめる。国王はゆっくりと頷いた。
「彼女は他国から預かった大事な姫だ。怪我などさせるな」
「安全は最大限考慮を致します」
「期限は三週間。それ以上は許可出来ぬ。ガレスに帰ったと噂になる前に戻ってこい」
「はい、ありがとうございます」
「ありがとうございます」
国王の言葉にジョージとライラは頭を下げた。
「うむ。あと先日の復興案、議会で審議中である。その結果が出次第出立せよ」
「かしこまりました」
「それまでわずかだがゆっくり休むといい。だが時間を無駄にするなよ」
「承知しております」
「出立の際、例の件をまた頼みたい」
「かしこまりました。別途お伺い致します」
「うむ。用件は他にないか?」
「ございません。貴重なお時間をありがとうございました」
レヴィ国王は少し寂しそうな表情をした。しかしジョージはそれを気にも留めない。
「うむ。気が向いたなら出立の前日くらい晩餐会に顔を出すといい」
「考えておきます。それでは失礼致します」
ジョージは一礼した。ライラも彼に倣った。彼が踵を返してまた腕を出すので、彼女もドレスの裾を翻してそこに手を添えて謁見の間を後にした。
「ジョージ様、ヴェールが……」
「もういい。堂々と見せつけておけ」
ジョージは満足げな表情を浮かべている。先程のやり取りは彼にとって想定内だったのだろう。ライラは言われた通りヴェールを上げたまま堂々と歩く事にした。するとすれ違う人々の視線が彼女に集まって何やらこそこそと話をしている。しかし、そんな事はお構いなしに黙々と二人は彼女の部屋へと戻っていった。
「おかえりなさいませ。いかがでしたか?」
エミリーがにこにこしながら二人を迎えた。帰りも腕を組んでいたのが余程嬉しいようだ。
「問題ない。今後の日程は追ってまた連絡する」
「あら、もうお戻りですか? 折角ですからガレスの紅茶でもいかがですか?」
「気持ちだけ頂いておくよ。これから目を通さなくてはいけない報告書が山のようにあるので」
「お忙しいのですね」
「戦場にいるよりは楽だよ。ではまた」
そう言うとジョージは部屋を出て行った。エミリーはライラに笑顔を向ける。
「今日のジョージ様は王子らしいですね」
エミリーの言葉にライラは今までの違和感が払拭された気がした。気怠そうなジョージが今日はそんな素振りも見せず紳士的だったのは、王子として振る舞っていたからだ。それで彼女を姫として扱うからあのような恥ずかしい目にあったのだ。彼女はそう納得するとやっと心が落ち着いた。
「そうね、別人みたいだったわね」
「ときめかれましたか?」
エミリーが楽しそうに尋ねる。ライラは冷めた視線を返した。
「別に。それより私に紅茶を頂戴」
「今日は料理長からクッキーの差し入れがあります。こちらもいかがですか?」
ジェシカが差し出した皿の上には美味しそうなクッキーが数種類あった。
「隊付きの料理長はお菓子も作るの?」
「ジョージ様が甘党なので平時には作るそうですよ」
「気遣ってもらって悪いわね。料理長にはお礼を伝えておいて」
「かしこまりました」
「それとこの化粧を落としたいわ。とりあえずつけまつげを引っ張っていい?」
ライラが右手を目に近付けたのでエミリーは慌てて行動を静止するように声を上げた。
「いけません。そのような事をすれば睫毛も抜けてしまいます。準備を致しますから少々お待ち下さい」
「カイル、クッキーは残ってるか?」
ジョージは扉を開けるとそう言いながらソファーへと向かった。本来なら王族の私室に臣下の者が無断では入れないのだが、カイルは従者の役目も担っていたのでその辺は曖昧になっている。
「私は甘党ではないので食べませんよ。というかよくわかりましたね」
「さっき姫の部屋でクッキーの匂いがしたから」
「それでしたら一緒に食べてこられたら宜しかったではないですか」
「嫌だよ。遠慮しながら食べるのは好きじゃない」
カイルは笑いながらクッキーの入った缶を差し出す。ジョージはその態度が気に入らずむっとした。
「何がおかしい?」
「いえ、ライラ様と食べる事が嫌なわけではないのかと思いまして」
受け取った缶の蓋を開け、ジョージはクッキーを頬張る。
「あぁ。そう言われると確かに嫌じゃない。不思議だな、あの姫」
「その不思議なライラ様の報告書がこちらです」
カイルはテーブルの上に山積みにしてあった書類の上にその報告書を乗せた。ジョージはクッキーを頬張りながらそれに目を通していく。
「どうせ先に読んでるんだろ」
「えぇ。待っている間、暇でしたから」
悪びれもなくカイルは言った。ジョージは別に窘めたわけではない。読みながらブラッドリーの報告書の内容について話せるかを確認したに過ぎない。
「露見した経由がわからないじゃないか」
報告書にはガレスの王都に入り、どうするか悩んでいた所で職を探しているなら貴族の家で厩番をしないかと突然声をかけられ、とりあえず話を聞こうとしたらレヴィの人間という事はわかっている、厩番するか国に戻るかどっちか選べと言われたとある。
「理由を聞いてみたらしいのですが、教えて貰えなかったとの事です」
「そりゃそうだろ。手の内を教える奴がいるか」
「しかしこれがわからないとガレスに間者は行かせられませんね」
「もう休戦協定は締結したし、姫はこちらにいるわけだから暫くはいいだろう」
ジョージはクッキーを次々と口に運んでいく。
「ブラッドリーの注意力はわかるが、それにしてもこの家は隠す気が一切ないな」
「そうですね。雇っている者の出自に頓着する様子もなく、屋敷の一家は無防備というか、使用人を含めて大家族として仲良くしているというか」
「間者を取り込んで何かを企んでいるのか、ただ無力化したいだけなのか、この家宰が曲者っぽいな。姫の家族はいい人達という印象しか受けない」
「えぇ。休戦協定で会った外務大臣も、悪巧みは出来なさそうな感じでしたよね」
「確かに。しかし何故姫がこの歳まで結婚していなかったんだろうな」
ライラは二十二歳である。この国では十六歳にもなれば嫁に行くのが一般的だ。それを未婚のまま二十二歳とはどういった事なのか。しかも彼女は見た目が美しいので、貰い手がなかったとは考えにくい。
「ブラッドリーの報告とは違うと思うのですか?」
報告書には仕事を続ける為にライラは結婚をしなかったと書いてあった。
「そもそも仕事をしていたという所も気になる。親の権力があったにしろ、女を使うか?」
「我が国ではありえませんね。例えどれほど優秀でも」
「だろう? 彼女が聡明であっても、内政でなく外交官というのは一体」
「魔性な雰囲気はありませんから、各国の要人に色仕掛けというのは考え難いですね」
カイルの言葉にジョージは思わず笑った。
「あの姫に色仕掛けは無理だ。絶対無理」
「何か思い当る事でもあるのですか?」
「あるけど教えてやらない」
ジョージは楽しそうな表情でクッキーを口に運んだ。カイルは気になったものの、折角彼がライラに興味を持ったのだからその邪魔をしたくなかった。彼が女性について楽しそうに話すなど、仕え始めてから初めての事である。
「もしかして国内で結婚出来ないようにわざと働かせていた?」
「え?」
「ガレス王国の姫は既に嫁いでいるんだろう? ならいつかの休戦協定の為に彼女を一人にしておく必要があったとか」
「それは難しいのではないですか? 女性は何歳でもいいというものではありません」
「でも今回の休戦協定、言い出したのは向こうだろう?」
「それなら何年か前に言えばよかったのではありませんか?」
カイルは暗にライラが適齢期を過ぎていると言っている。政略結婚の場合、女性は十代で嫁ぐのが一般的である。二十歳を過ぎている場合は余程地位のある女性の再婚である。
「各国の要人と会う経験を積ませていたのかもしれない」
「それは流石に考えすぎではありませんか? 深読みしすぎるのは危険かと存じます」
カイルの言葉でジョージは一旦考えるのをやめた。深読みをしすぎて真実から遠ざかっては意味がない。
「単に綺麗で聡明な女性を傍に置く自信がある男性がいなかっただけかもしれませんよ」
「そんな理由あるか?」
「隊長もライラ様に国王陛下の呼び方について聞かれた時、困っていたではないですか」
「あーあれか。あの表情は予想外だったからな」
そう言いながらもジョージの表情はどこか楽しそうである。
「そのようなやり取りが何度も繰り返されれば嫌になるかもしれません」
「だけど貴族の結婚は親が決めるじゃないか。結婚前にやり取りする程会ったりするか?」
「私は結婚式まで相手と話した事もありませんでしたね」
「だろう? つまり親が結婚させなかったと考える方が自然じゃないか」
「二歳下の妹君が十七歳で結婚していますから、残った姉に相応しい嫁ぎ先を考えて見つからなかった可能性もありますね」
「でもその時十九歳だろう? 先に結婚していてもよかっただろうに」
「そこまで気になるのでしたら直接聞かれたら宜しいではないですか」
カイルはそろそろこの会話をやめたかった。正直ライラが長く独身であった事が重要だとは思えなかった。それよりも優先して欲しい事がある。
「いや流石にそれは聞き難いだろう」
「ライラ様は聞き難い事をさらっと聞かれる人です。大丈夫だと思いますよ」
ジョージはクッキーの缶を書類の山の上に置いて、顎に手を当て何かを考えているようだった。カイルが缶の中を覗くと詰め込まれていたクッキーは姿を消しており、かけらが少し残っている程度であった。水分もなく一体どうやって大量のクッキーを食べたのか、カイルには信じられなかった。
「全部食べられたのですか? 料理長に二日分と言われたのに」
「え? それは聞いてない。じゃあ明日は菓子ないのか?」
「必要でしたらご自分でお願いして下さい。窯は王宮内で借りないといけないので、焼き菓子は毎日作れないそうですよ」
「じゃあ明日はプリンにしてもらおう」
「それは何でもいいですけれど、この書類は今日中に目を通して下さいよ」
カイルは缶を手に取りながら書類を指した。その書類は今回の戦争地域であったガレスとの国境以外の国境を守る軍隊からのものである。
「いつもより多くないか?」
「今回は二年いませんでしたからね。戦場にも届いていたものは省いています」
全てに目を通すのは時間がかかる。カイルはわざわざ重複している物を避けて今日運んできたのだった。
「俺を大臣と勘違いしてるものも混ざってるんだろう?」
「そうですね。賃金値上げ要請や築堤許可申請などがありましたよ」
カイルの涼しげな答えにジョージはため息を吐いた。
「それ俺の管轄外じゃないか。何で俺宛に届くんだ」
「便利な王子と思われているのではないですか?」
「あぁもう面倒臭いなぁ」
そう言いながらジョージは書類の山から報告書を手に取り読み始めた。彼は管轄外であろうと届いた書類には全て目を通し、必要だと思えば適切な所へ書類を回す。各軍の隊長が提出する先がわからないのではない。正規に提出すると王宮に届く前に地方役人に潰される事がよくあるのだ。軍隊は国からの派遣であるが、給料以外の維持費は各地方の負担金となっている。地方役人は軍隊にお金など払いたがらない。国境を守ってもらっているという事を失念しているのだ。だが赤鷲隊隊長であり王子でもあるジョージに必要性が伝われば国からの指示になり、地方役人はお金を出さざるを得ない。しかもそれは必ずレヴィ王国の為になる。巡り巡って役人の懐を潤す事にもなるのだが、目先の欲しかない地方役人にはそんな事はわからず、言う事を聞く代わりにこれをお願いしろと軍人に書類を回し、それがジョージの元へ届くようになっていたのだった。
ジョージは本当に読んでいるのかという速さで書類に目を通し、ソファーの上か床に投げていく。床に落とされたものは読んで終わりの報告書と彼に必要性を感じさせられなかったものである。ただ床に投げられていくものでも場所が彼の足の左右に分かれている。左側に投げられたものは廃棄。右に捨てられたものは返信をする分である。
仕分けが終わり、カイルはジョージの右側に落ちている書類を拾いあげた。書類は五点。その中には築堤許可申請も入っていた。
「築堤に口出しをしても宜しいのですか?」
「いや俺もあそこに堤防は必要だとは思ってるんだよ。ただ一回突っぱねられた書類をそのまま送って、俺が許可を出すと思ってるこの役人が気に入らない。内容を精査して正規で再申請したら議会に口をきいてやらんでもないと返信しとけ」
ジョージは国境沿いの軍全てを把握している。しかし軍の移動が常に国境沿いなのではない。戦時となれば遠回りしている時間は惜しい。国内のどこを通れば最短で移動出来るかも彼は把握しており、その街道も定期的に視察している。そしてその街道の一つに近くの川が大雨で氾濫する箇所があり何とかしたいと思ってはいたのだが、それは彼の管轄外であり、また大雨など数年に一度の事。予算を引き出すのは難しいだろうと諦めていた問題である。
「かしこまりました。今の言葉そのままにしますか? 丁寧に書き直しますか?」
「いやらしいくらい丁寧に頼む」
ジョージは軍からのものには自分で返信するが、役人からのものに関しては絶対に書かない。それはどこで誰が見るかわからないからである。カイルの文字は癖がなく誰が書いたものか判別しにくいのに対し、ジョージは癖が強く何度か見た事があるものならわかってしまうのだ。
ジョージはソファーに乗せた書類を集めて机の上に置いた。こちらは軍からの書類で議会へジョージの名前を出して回す分と、返信をする分である。そして一番多く捨てられた廃棄分をカイルが集めて床に山のように積んだ。
「今回は廃棄が多いですね」
「中を見たんだろう? 結構時間の無駄なものが多かったぞ」
「私はこのように大量の書類の中身は見ません。表紙の題だけ読んで重複しているものを避けているだけですから」
「そうなの?」
ジョージは驚きの表情を浮かべた。彼はカイルも目を通しているものだと思っていたのである。
「速読技術、私は習得出来ていないのです。ですから届いたものを勝手に捨てるという事もしていません。表紙が普通でも中身が面白いものもあるでしょうし」
「そうだな。これなんか表紙だけを見たら読む気にさせない」
ジョージはテーブルの書類の一綴りをカイルに渡した。表紙は国境についてとしか書かれていない。しかし中身は最近ローレンツ公国側から夜逃げのような人々が、たまに流れてくるという報告書である。
「これは表紙が間違っていますね」
「その注意はする。しかしこの内容は気になるだろう?」
「確かに。公国から亡命とは、帝国がとうとう軍事行動を始めたのでしょうか?」
「そこを調べたいな。そういえばこの前言ってた間者はどうしたんだ?」
「申し訳ありません。まだ準備が整わないので、彼女は今ライラ様の侍女になっています」
「姫に間者をつけてたのか」
「どういう人かわかりませんでしたからね。しかし暇を持て余しているとしか報告が上がってきません」
「暇? 俺はこんなに忙しいのに?」
忙しいと言いながらも大量の書類を既に目を通し切ったジョージの仕事は半分以上片付いている。あとは返信さえすれば出立までは自由である。
「他国から来た姫が仕事をするわけでもありませんし、確かにやる事はないでしょう。王宮内を歩き回る事もなく黙々と部屋でレースを編んでいるそうです」
「レース? また意外な趣味だな」
「結婚式のヴェールも御手製だったそうですよ」
ジョージは思い出そうとしたが思い出せなかった。ただ今日使っていたヴェールとは違うという事しかわからなかった。
「あれはそんなに簡単に出来るものなのか?」
「さぁ? 移動中の馬車の中で編んでいたらしいです」
「移動ってそんなに日数要していたか?」
ジョージはブラッドリーの報告書を再び手に持って該当箇所を探す。
「さっき気にならなかったけど、これはおかしくないか?」
「おかしいとは?」
「戦争中に国境の大河に架かってた橋は全部落としたけど、普通船で渡るなら中央あたりじゃないか? 何故南までわざわざ迂回をしているのか」
ジョージは立ち上がると机の引き出しから紙を引っ張り出し、それをテーブルに広げた。そこにはレヴィ王国中心の地図が描かれている。彼はそこの一角を指した。
「ここが王宮。ガレスの王都がここ。どちらも国の北側だ。大河の北は急流で船は使えないが、中央辺りに緩やかな所がある。ここは船でも渡れるし、橋脚が残ってるから板を渡せば簡易の橋も作れるのにわざわざ休戦協定を結んだ辺りまで南下して渡っている」
「ガレス王国の馬車が通れる道を選んだ結果という事は?」
「それは考えにくい。これはまだレヴィがガレスと一つだった頃の古地図だ。ここに街道が通っているだろう? それを七十年で潰すとは思えない」
橋脚を立ててまで頑丈に橋を作ったのは大河を渡るのによく使われる街道だったからである。その街道はレヴィ王国の主要街道で作りもしっかりしている。現に今レヴィ王国にあるこの街道は王都まで続いていて、数多くの国民が今も利用している。
「わざわざ戦場跡を見に行った?」
ジョージは初日のライラの言葉を思い出した。馬車から覗いたと。
「そのような酔狂な事をされますか?」
「あの姫はやりかねないだろう?」
「確かにやりかねないですが、これはブラッドリーに聞いてみましょう。行程をどのように決めたのかを」
「そうだな。そうしてくれ」
ライラは寝室のソファーに凭れ掛かっていた。
ジョージが寝室に来ないのだ。その場合先にベッドで休んでいていいものなのか、来るまで待つべきなのか、その作法がわからない。しかも寝室には時間を潰せるようなものは何もない。かといってわざわざ部屋までレース編みの道具を取ってくるのも気が引けた。いくら向こうから抱く気がないと言われていたとしても、暇潰しを寝室にまで持ち込んでいいものか判断出来なかった。
悩みながらうたた寝しかかっていた時、静かに扉が開いた。ライラはその気配にはっとして身体を起こす。ジョージは部屋に入ってきて彼女の前のソファーに腰掛けた。
「悪い、先に寝ててよかったのに」
「いえ」
「報告書の返信を書いてたら時間を失念していた。身体は冷えてないか?」
「大丈夫です。この程度で体調を崩すほどか弱くありませんから」
ライラは姫扱いして欲しくないという意味でそう答えたのだが、ジョージには彼女の機嫌を損ねたように聞こえた。
「慣れない王宮に一人にして悪いとは思ってる。俺の出来る範囲であれば対応するから、遠慮なく言ってくれて構わない」
「遠慮なく? 何でも宜しいのですか?」
ジョージの予想外の申し出にライラの瞳の奥が輝く。
「出来る範囲なら」
「でしたら歴史書を貸して頂けませんか?」
想定外の要望にジョージは訝しげな表情を浮かべた。
「歴史からレヴィ王国がどういう国かを知りたいと思うのはおかしいですか?」
「いや、おかしくはないが姫の要望ではないなと思って」
「私を姫と思う事やめて頂けませんか? 私は王女ではありませんし姫として育てられていません」
真剣な表情でライラが言うので、ジョージは思わず笑ってしまった。
「こっちは真剣に――」
「悪い。でもそれは難しい注文だ。俺の中ではもう貴女は姫でしかない」
「どこをどう見たらそうなったのですか?」
ライラは不機嫌そうな表情をあらわにした。余程姫と思われるのが嫌なのだろう。しかしそれが却ってジョージに姫と思わせているとは彼女は気付かない。
「どこをどう見ても姫じゃないか」
ジョージはそう言いながら立ち上がると、ライラの手を取りソファーから立ち上がらせた。
「手が冷たい。やはり身体が冷えてないか?」
「大丈夫です」
「なら俺の部屋へ行こう。本棚の中の歴史書、好きなのを持っていくといい」
「今からですか?」
「俺の部屋は仕事部屋も兼ねているから昼間出入りされると困る。そこは汲んでくれ」
ジョージはライラの手を引いたまま、寝室を出て自分の部屋へと案内した。
ジョージの部屋はライラの部屋と間取りは変わらなかった。違うのは鏡台がない代わりに本棚が壁にずらっと並んでいる事である。そして従者がいないというのに部屋は一切散らかっていない。机の上に報告書とおぼしき書類が積んであるくらいである。
ライラは先程の不機嫌さなど吹き飛んだかのように、本棚の本を楽しそうに覗いている。
「ジョージ様、お勧めはどれですか? 多数あるので選ぶのが難しいです」
「ざっと歴史を追いたいならこれかな」
ジョージは本棚から一冊の厚めの本を取り出した。表紙にはレヴィの歴史という何ら捻りのない表題が書かれている。それをライラに渡すと彼女は大切そうに抱えた。
「あともう一冊いいですか?」
「ん? それを補完するようなのが欲しいのか?」
「いえ、出来ればジョージ様のお母様の母国のものがいいのですが」
「母上の? 何でまた」
「ジョージ様に流れている血を知りたいので」
ジョージの顔はレヴィ国王とは似ていなかった。だから他国から嫁いできた母親似なのだろうとライラは思っていた。しかしそれがどこの国かわからず気になっていたのだ。
「母上はケィティ共和国の出身だ」
ジョージはそう言いながら薄めの本を一冊ライラに手渡した。
「ケィティ? ごめんなさい、存じ上げなくて」
「知らなくても仕方がない。今はレヴィの一部になっている」
本を受け取ったライラの表情が曇る。
「気にしなくていい。併合されたのは仕方のなかった事だし、今も自治権はある。それに母上は併合される前に病死しているから、その事実は知らない」
「お母様はいつ……」
「十年前、俺が十一歳の時だ。併合はその一年半後」
ライラはジョージの立場が弱い理由を見つけた気がした。母親が亡くなっていて、その出身国も既に自国の一部。彼に後ろ盾はない。
「その本は二度と手に入らないだろうから失くすのだけは勘弁してくれよ」
「そのように大切な本を宜しいのですか?」
「出来る限り対応すると約束したからな。さぁ戻って寝よう。俺は眠い」
ジョージはライラの抱えていた二冊の本を片手で軽々取り上げ脇に抱えると、彼女に手を差し出した。彼女は彼が姫扱いするのを諦めて受け入れようとその手を取った。