ライラの帰還
「エミリー! ただいま、元気だった?」
ライラは王宮の自室に戻ると、迎えてくれたエミリーに勢いよく抱きついた。
「おかえりなさいませ。ところでいかがされたのですか、その恰好は」
「これ? ジョージが軍隊に紛れられるようにと用意してくれたの。似合うでしょう?」
ライラはエミリーから離れると、挙手の敬礼をして見せた。エミリーはそれに呆れ顔を返す。
「誰かに見られたら大変です。すぐに脱いで下さい」
「えぇ? もう二度と着られないかもしれない貴重な軍服なのに?」
「姫が軍服を着る事は貴重でなく異常です。早く脱いで下さい。マッサージをしますから」
ライラはマッサージという言葉に笑顔になり、軍服とブーツに靴下を脱ぐと下着のままベッドへ俯せに寝転がった。エミリーは香油を手に取るとゆっくりと足の裏からマッサージを始めた。
「結構無茶をされましたね?」
「ジョージの予定に付き合っただけよ。無理はしていないわ」
「そうですか。でも身体はお疲れですよ」
「楽しかったからか、疲れたなんて思わなかったわ」
「それほどまでに楽しかったのですか?」
エミリーの問いにライラは首だけ後ろに向ける。
「エミリーは海を見た事はある? 水平線がずっとあって、星空もとても綺麗で。今度一緒に行こうね」
「気軽に王宮からは出られませんよ」
「ジョージがまた連れていってくれると言ったもの」
「それはライラ様とお二人で行かれたいのではないのですか?」
「だけど馬車で移動ならエミリーも一緒でいいと思うのだけど」
「よくわかりませんけれど、私はお二人の邪魔をするほど無粋ではありません。お気持ちだけ頂いておきます」
エミリーの言葉にライラは不機嫌そうな顔をした。
「エミリーは海を見たくないの? 大きな船も港に停泊していたのよ」
「私としては海よりもライラ様の気持ちの変化の方が余程興味があります」
「気持ちの変化? ジョージの事?」
「それ以外に何があるのですか。そもそもいつから様付を止められたのですか」
「王宮を出た直後。ジョージが平民の振りをするのに敬語がおかしいと言うから。心配しなくてもきちんと場所を弁えて話すわよ」
エミリーはライラのふくらはぎを揉んでいく。
「それは当然です。それで、どこでご自身の気持ちに気付かれたのですか」
「どこと言われても、恋愛話が苦手な事を知っているのに、どうして聞くのよ」
不機嫌そうにするライラにエミリーは無表情で応対する。
「あの相談が解決しているのでしたら無理に話されなくても結構ですけれど」
「それは解決してないけど、もういいの。エミリーの返事を貰ってわかったから」
「私は答えられないと返事をしたはずですが」
エミリーは訝しげな表情をした。
「ジョージは今大変な時期だから、ジョージを思いやるなら私は何も言わない方がいいでしょう? そういう事よね?」
「それはジョージ様の意見も聞いてみないと何とも言えませんけれど。そもそもどう怒られたのですか? 仲直りはされたのですよね?」
「手紙を書いた後に謝って仲直りしたわよ。ジョージも悪かったと言ってくれたわ」
「つまり怒ってはいなかったという事でしょうか」
ライラはその夜の事を思い出すように宙を見つめた。エミリーはライラの太腿から脚の付け根へと優しく揉んでいく。
「呆れているような、怒っているような感じ。でも手紙を書く前のジョージはとても余所余所しくて苛立ったわ」
「自分で場を弁えない発言をしておいて苛立ったのですか。いけませんよ、それでは」
「何故? 好きだから抱いて欲しいと思うのはいけない事なの?」
ライラは何もわかっていない様子だ。エミリーは小さくため息を吐いた。
「場を弁えない事が駄目だと言っているのです。軍団基地は本来女人禁制です。いくらジョージ様が隊長だからと言って、そこに女性を連れ込んで抱けるわけがないではありませんか。いいですか? ライラ様は男性というものを知らなさすぎます。軍隊というのは基本禁欲生活の場なのですから、女性が滞在するのは本来危険なのですよ。ジョージ様は軍団基地へ連れて行く気などなかった所を、無理矢理ついていったのではないのですか?」
「本当はクレアさんという方の所に泊まる予定だったのだけど、それが出来なくて」
「出来ない? 断られたのですか?」
「違うわ、誘拐事件があっていられなくなってしまったの」
誘拐と聞いてエミリーの手が止まる。
「そのような事、手紙には一言も書かれていなかったと思いますが」
「エミリーに心配をかけたくなかったの、黙っていてごめんなさい。だけど怪我はなかったわ。ジョージが助けてくれたから」
「つまり、誘拐をされそうになった所を助けてくれたジョージ様に、場も弁えずに抱いてと言ったという事ですか。呆れてものも言えません。何故そう考えずに思った事をすぐ口にしてしまうのですか。助けて貰って気持ちが高揚したのかもしれませんけれど、少しは考えて下さい」
呆れてものも言えないと言いながら、まくしたててくるエミリーにライラは閉口した。エミリーは止めていた手を腰に置きマッサージを再開する。
「本当にライラ様はジョージ様の事をお好きなのですか? 窮地を救ってくれたからときめいただけという話ではないでしょうね」
「そんな事はないわよ。あのように素敵な人は他にいないわ。優しいし、隊長としての姿は尊敬出来るもの。それに……」
ライラは恥ずかしそうにしながら言葉を紡ぐのをやめた。エミリーは一旦手を止めて、ライラの顔を覗き込む。
「それに?」
「いいの、とにかく好きなの」
「ジョージ様は口付けが上手いのですか」
「んなっ、何でそうなるのよ」
明らかに動揺するライラにエミリーは微笑みながら背中を揉み始める。
「そのような表情は今まで見た事がありませんから。しかし初めてなのに上手い下手はわかりませんね、失礼しました」
「何よ、エミリーならわかると言うの?」
「わかりますよ。何歳だと思っているのですか。二十二歳で男性を知らないなんて、神に処女を捧げた修道女くらいです」
「待って、エミリーは何時そのような男性がいたのよ」
「ライラ様が興味ないから知らないだけで、私は何人ともお付き合いをしていますからね」
エミリーの告白にライラは振り返った。エミリーは微笑んだままライラの腕を揉んでいる。
「何故私についてきたの! 結婚したい人がいるならそう言ってくれないと」
「結婚したいと思った男性などいません。付き合うのと結婚は別の話ではないですか。私は平民ですからその辺は自由ですし、ライラ様に仕えている方が楽しいですから」
「エミリーが側にいてくれるのは嬉しいけれど、私もエミリーの幸せを望んでいるのよ」
ライラの言葉にエミリーは微笑む。
「わかっています。ですから結婚したいと思える相手に出会えれば、その時は正直に言います。本当に今まではそのような男性はいなかったのです」
「本当に? ガレスに残してきたなんて事はない?」
「ありません。ライラ様もガレスに結婚したいと思う男性はいなかったでしょう? それと同じです」
ライラはエミリーに上手く丸め込まれたような気がしたが、言い返す言葉が見つからなかった。
「しかしレヴィまで来てよかったですね。私もついてきた甲斐がありました。本当は少し残念ですけれど、それはもうどうにもなりませんし」
「残念? 何が?」
「ライラ様がどのように恋愛感情を認識していくのか、その相談を受けられなくて残念です」
「だから私は恋愛話は苦手だと言っているでしょう?」
エミリーはライラの肩へと手を伸ばし、丹念に揉んでいく。
「道中、私に相談したいと一度も思いませんでしたか」
「それは何度か思ったけど」
「それを聞きたかったのですよ。本当に残念です。しかし今後何かあった時はいくらでもお話を伺いますから、頼って下さいね」
「どうせ恋愛話限定なのでしょう? 王都へ遊びに行きたいという相談は駄目なのでしょう?」
「当たり前です。王子の妻が王都を歩くのは考えられません」
「この三週間、ナタリー様やサマンサ様は外出されなかった?」
「サマンサ様は侯爵家などの晩餐会に呼ばれて外出される事はありましたけど、他は一切なかったですね。第一この王宮は庭が広すぎて、門から外に出るだけでも大変ではないですか」
「王宮の庭の広さがわかるの?」
「庭は自由に歩いていいと言われたので暇潰しに歩いていました。門は三ヶ所で、裏門が赤鷲隊管轄です。外出されるならあそこからでしょうけど、私は出してもらえませんでした」
王宮内は最初に制限を受けていた範囲しか歩かなかったエミリーだが、庭はくまなく歩いていた。腕章を付けたまま裏門警備の赤鷲隊隊員に外出を願ってもみたが、許可がないので出せないと断られていた。
「エミリーは外出しようとしたの?」
「勝手にライラ様が外出された時の為に王都を把握しておきたかったのですけれどね」
「カイルを説得する方法を考える事を忘れていたわ。裏門はカイルを説得したら出入り出来るとジョージが言っていたの。何かいい案はないかしら?」
エミリーはライラの腕を揉みながら呆れた顔をライラに向ける。
「出かける気満々ではないですか。先程ジョージ様は大変な時期と仰っていませんでしたか。外出されて大丈夫なのですか?」
「確かに。ジョージの抱えている事が終わってからだわ。それより先に私も考える事があるし。ねぇエミリー、王妃殿下とナタリー様のどちらが美人という話はわかる?」
「あぁ、王宮の食事が不味い原因ですね」
エミリーは赤鷲隊の腕章を付けているが、王宮内の使用人と同じ食事をとっている。しかし王宮料理人の料理がレヴィのものから公国のものに代わり、それが美味しくないのは使用人の料理にも影響が出ているので知っていた。
「不味いとはっきり言うわね」
「ウォーグレイヴ家の食事は美味しかったので、こればかりは辟易していますよ。しかしお二人は王宮で顔を合わせる事はまずありませんね。公務も重なっていないようですし。侍女同士が帝国語とレヴィ語で言い争っている所は見かけましたけれど」
「何故そのようにややこしい言い争いなのよ」
「訛りのあるレヴィ語で話す王妃殿下の侍女と帝国語で話すナタリー様の侍女の言い争いです。しかし聞いていて辻褄はあっていましたから、お互い通じていたみたいですよ」
ライラもどちらの言葉もわかるので話を聞き取れるとは思うが、わざわざそのような状況になった原因はわからなかった。
「言い争いの元は何なの?」
「私が聞いた話は舞踏会の時に、ドレスの色が被っていたというものです」
ライラは視線を宙に泳がせて舞踏会の時二人が着ていたドレスの色を思い出す。
「ナタリー様は真っ赤で、王妃殿下は深紅色だったわ。被っていると言うほどではないと思うのだけど」
「その色合いなら文句が言いたいのなら被っていると言い出すかもしれないですね」
「そのように面倒な感じなの? それは本当に何とかなるのかしら?」
「何とかなさるおつもりなのですか?」
「えぇ、ジョージが何とかして……って……」
ライラの声が徐々に弱くなってきた。マッサージを受けていて眠くなってきたようだ。
「ライラ様、仮眠を取りましょう。丁度いい頃合いに起こして差し上げますから」
「えぇ、そうするわ」
そう言うとライラは瞼を閉じる。エミリーはライラに掛布を被せた。




