腹黒王子
「ウルリヒのせいでお湯が冷めてないといいんだけど」
そう言いながらジョージは手桶を寝室に置く。
「大丈夫よ。ありがとう」
ライラは寝室の扉を閉めると手桶の中の湯の温度を確かめた。別段冷めている感じはしない。彼女はタオルを手に取り桶に入れると、衣服を脱いで手際よく身体を拭き寝衣に着替えた。
「ねぇ、場所を教えてくれたら自分でお湯を汲んでくるけど」
寝室の扉を開け、ライラはジョージの横にある椅子に座った。
「いいよ。俺には軽いけど、ライラには少し重いだろうから」
「でも本来なら使用人がやるような事をジョージにお願いするのは悪いわ」
「俺が好きでやってるんだから気にしなくていいよ」
ジョージは優しく微笑んだ。本当に彼は好きでやっているのだろう。しかしライラはそれに少し悲しそうな顔を返した。いつも彼にしてもらうばかりで返せないのが辛かったのだ。
「何でそんな顔なの」
「だって私、ジョージにしてもらうばかりだから」
「それこそ気にしなくていい。ライラが俺の事しか考えられないように仕向けている最中なんだから」
ジョージの言葉にライラは驚きの表情を彼に向けた。それを見て彼は笑う。
「第三者の目がある時はきちんとして欲しい。でも二人きりの時は俺の事だけ考えてくれたら、俺はそれで満足なんだよ」
「ジョージは何故そういう事をさらっと言うのよ」
ライラは恥ずかしくて俯いた。
「何故ってライラには言わないと伝わらないから」
「鈍くてごめんなさいね」
「そういう所が可愛いと思ってるよ」
「追い打ちかけないでよ」
ライラは顔が紅潮しているのを感じていた。どんな顔をしてジョージを見たらいいのかわからず、俯いたまま動けないでいた。
「こうやって楽しんでるから、ライラは本当に気にしなくていいよ」
「ジョージは腹黒王子よね」
ライラの言葉にジョージは面白くなさそうな顔をした。しかし俯いている彼女はそれに気付くはずもない。
「言葉には気をつけて。ライラが一人で寝るつもりなら好きに言えばいいけど」
ライラは頬が紅潮したまま困ったような表情でジョージを睨んだ。彼は楽しそうに微笑んでいる。彼女をからかっているのは一目瞭然だ。そもそも腹黒だと彼が自分で言ったはずなのに、人に言われるのは嫌なのだろうか? 彼女は再び俯いた。
「ウルリヒの前では淡々と出来たのに、ジョージの前では全然出来ないのが悔しい」
「ウルリヒには俺の事を何て言ったの?」
「休戦協定を守る協力者」
「ウルリヒが何であんな女がいいのかと、俺にわめいた理由はそれか」
ジョージはウルリヒが急にそう言い出した理由がわかって納得した。ウルリヒは勝手にジョージの事を不幸だと思っており、幸せになって欲しいと思っている雰囲気をジョージは感じていた。しかしそれはジョージにとって余計なお世話である。
「中立の立場なら淡々と対応した方がいいと思って」
「うん、それでいいよ。ライラの魅力は俺だけが知ってればいいって返しておいたから」
「何故そのような恥ずかしい返しをするのよ」
「俺の好みに口を出すウルリヒが鬱陶しかったから」
ジョージの言葉にライラは顔を上げて笑った。
「ジョージの事を思って言ってくれたのでしょうに酷い言い方」
「口出しするウルリヒが悪いんだからいいんだよ」
不機嫌そうにそう言うジョージにライラは頷いた。
「それもそうね。普通は口を出さない話だわ」
「ウルリヒに早く結婚話が持ち上がらないかな。そうしたら黙るだろうに」
「私達が結婚したばかりなのに、候補があるの?」
ライラの問いにジョージは暫く考える。
「近隣小国なんて興味がないから年頃の姫がいるかがわからない」
「ジョージは本当に興味のない事は知らないわね。でも覚える事沢山あるもの、どこか切り捨てないと仕方がないわよね」
「覚える事? 何の話?」
「ウルリヒが言っていたわよ。ジョージは赤鷲隊だけでなく黒鷲軍の人達も名前を覚えていると」
「流石に黒鷲は全員覚えてないよ。挨拶したら覚えるだけで」
「それだけでも十分凄いわよ。私は舞踏会の時に挨拶した人もほとんど覚えていないもの」
ライラは舞踏会の途中から挨拶をした相手を覚える事を放棄したが、王妃と会った後は挨拶をした人の顔さえもほぼ記憶にない。
「覚えてないの? 挨拶した人達はライラをきっと一目で覚えたよ」
「それは向こうが私一人覚えるのに対し、こちらは何十人といたわけで」
ジョージはライラの容姿が一目見たら忘れないと言いたかったのだが、全く彼女には響いていない。どうも彼女は端正な顔立ちを過小評価しているような気がしてならなかった。
「舞踏会に出席する時は俺の側にいる事だね」
「ジョージが王宮にいない時に舞踏会があったらどうしたらいいの?」
「仮病でも使ったら?」
さらっと言うジョージにライラは口を尖らせる。
「他人事だと思って。そのような理由は何回も使えないでしょう?」
「じゃあ俺以外と踊りたくないから嫌だとでも言っておけば?」
「そのような事を言ってもいいの?」
「さぁ? 俺が舞踏会の作法を知ってるはずがないだろ」
「それならジョージが嫉妬するので一人では出ませんという事にするわ」
ライラは微笑んだ。ジョージは冷めた目で彼女を見る。
「俺が作り上げてきた赤鷲隊隊長像を壊すような発言はやめてくれ」
「愛妻家という事にしておけばいいでしょう?」
「それをライラが言っちゃうんだ。随分と俺に愛されていると思っているようで」
「え? 違うの?」
ライラは戸惑った表情を浮かべた。それにジョージは笑って返す。
「ライラが感じたままでいいよ」
「それだと私が勘違いしていたら、とても恥ずかしい事にならない?」
「そこは見極めて欲しいね」
笑顔のジョージにライラは困った表情を浮かべる。
「難しい事を求めないでよ。私はまだ考えが纏まってないのに」
「ゆっくりでいいよ。舞踏会も暫くはないだろうし」
「本当? ないならそれに越した事はないわ」
「そんなに舞踏会が嫌い? 着飾ってるライラも綺麗だからたまには見たいのに」
ジョージの言葉にライラの頬が紅潮する。いつも彼が綺麗と言う時は社交辞令のようだったのに、今のは感情がこもっている言い方だった。
「何故そのような言い方をするの。ジョージは私の顔に興味なんてないでしょう?」
「そんな事は言ってないよ」
「言ってはいないけど、最初から私の顔を見ても反応しなかったでしょう? 今になって急にそういう言い方をするのは、恥ずかしいからやめて」
ライラは目を伏せた。ジョージは楽しそうに微笑んでいる。
「出会った当初はさておき、今はライラが誰よりも綺麗だと思ってるよ」
「もう言わなくていいから」
聞き飽きていたはずの言葉が、ジョージに感情を込めて言われると、こんなにも恥ずかしいものだとライラは思わなかった。彼女は俯く。恥ずかしくて顔を上げられなかった。
「俺の事を腹黒と二度と言わない?」
ジョージの言葉にライラは慌てて顔を上げた。彼は不機嫌そうな顔をしている。
「ごめんなさい。深い意味はなかったのだけど傷付けた?」
「腹黒い相手に言われるのはお互い様だから気にしないけど、ライラにはそういう対応をしてないつもりだから面白くない」
ライラは思考を巡らせる。ジョージは最初無関心だった。その後は王子対応だったり、からかったり。政治的な話を除くと基本からかわれているような気がする。弄ばれているのは絶対に自分の方だと彼女は思った。
「だけど私をからかって楽しんでいるわよね?」
「それは愛情表現のひとつだから」
「そう言えば何でも許されるとでも?」
「許されないような事を言った記憶はないけど」
ライラは言葉に詰まった。ジョージは彼女を傷付けるような事は言わない。恥ずかしいから困っているだけで、嫌な訳ではない。
「ジョージに言われっぱなしなのが悔しいだけで腹黒だなんて思っていないわ。もう二度と言わない、ごめんなさい」
素直に謝るライラにジョージは優しく微笑む。
「出来たらその癖は直した方がいいよ」
「何を?」
「深く考えず口にする所。外交官の時はどうしてたの?」
「仕事の時は気を遣っていたわよ。あ、私がジョージに対して気遣いが足りないという話? 無意識のうちにジョージを傷付けるような事を言っていた?」
「傷付いてはないけど、気遣って貰えると嬉しいね。そろそろ寝衣だけだと身体を冷やすよ。早く寝た方がいい」
ジョージの言葉にライラは考える。一緒に寝ると言うのが気遣い不足なのだろうか? でも昨夜は離さないと言っていた。一緒に寝ないと言うのも違う気がする。どう言えば彼を気遣う事になるのか彼女はわからず、言葉を発せられないでいた。そんな彼女を見て彼は笑う。
「考えると言葉が出ないの?」
「何を言っても間違っているような気がするから、言われた通り寝る事にするわ。ジョージはまだ仕事があるのよね?」
「いや、今日はもうないけど」
「それならジョージも寝るの?」
「寝るよ」
ジョージは立ち上がって寝室の方へと歩いて行く。ライラも立ち上がって彼の後をついていく。
「一緒に寝てもいい?」
「いいよ。一緒がいいんだろう?」
「そうだけど、これだと結局気遣えてないわよね。正解を教えてくれない?」
「それはライラが考えて。俺は何でも言う事を聞く従順な女性が好きな訳じゃないし」
ジョージの後に続いてライラが寝室に入った所で彼は扉を閉めた。彼女はベッドに寝てもいいのかわからず、その場で立ち尽くしていた。そんな彼女を見て彼は苦笑いを零す。
「そんなに戸惑われると俺が意地悪をしてる気分になるんだけど」
「意地悪だなんて思っていないわ。私はまだまだジョージの事を知らないみたい。どうしたらジョージが喜ぶのかわからないのだもの」
「俺は結構喜んでるよ」
微笑むジョージにライラは不思議そうな顔をする。
「何故? 何もしていないのに?」
「だってライラの頭の中、俺の事でいっぱいだろう?」
ジョージの言葉にライラの頬が紅潮する。それを見て彼は笑うとベッドに横になる。
「立ってても仕方がないよ。おいで」
ジョージが掛布を捲りベッドを叩く。ライラは促されるままそこに寝転がると、彼は彼女の腰に腕を回して抱き寄せた。彼女は上目遣いで彼を見つめる。彼は微笑みながら彼女の髪を撫でた。彼女の視線は強請るように彼に向けられている。彼は視線を外すと彼女の額に口付けた。彼女は不満そうに彼を見つめる。そんな彼女を見て彼は意地悪そうに微笑むと、彼女の頬に手を添える。彼女が瞳を閉じると二人の唇が重なる。何度か口付けて彼が離れると彼女は再び不満そうに彼を見つめた。
「昨日みたいにしてくれないの?」
「物足りないの?」
ジョージの返しにライラは恥ずかしそうに頷く。彼は昨夜懲りない彼女を困らせようと思っていたのだが、懲りる所か求めてくる彼女に彼は意地悪をしたい気分になった。
ジョージは微笑むと再びライラと唇を重ね、深く口付ける。そして彼の腕が彼女の腰から背中へ、そして胸へと回った時、彼女は彼の腕を掴んで動きを止めた。彼は唇を離し不満そうな顔を彼女に向けた。彼女は明らかに戸惑っている。
「その、違うの。嫌とかではなくて、ほら、小さいし……」
「俺はライラに触れたいだけだから気にしないよ」
ジョージの言葉にライラは困った表情を浮かべ、恥ずかしそうに視線を外すと彼の腕を離した。彼は微笑むと彼女の頬に手を添え、自分の方へ顔を向けさせると再び口付けた。




