自由な姫と真面目な王子【後編】
「何を持っているの?」
「ここは温泉地でね。大浴場は温泉なんだ。でも流石にライラをそこに案内するわけにはいかないから、悪いけど暫くは身体を拭くだけで我慢してほしい」
「別に入浴しなくても身体が拭けるならそれでいいわよ」
「ライラって入浴嫌いだったの?」
「入浴は好きよ。でも外交官の時は男装をしていたと言ったでしょう? 泊まりの仕事だと入浴も出来なくて。だから一週間くらいなら大丈夫」
「そう言う事。これは湧き出した所から汲んできて少し水を入れたから大丈夫だと思うけど触ってみて」
ライラは手桶に手を入れた。丁度いい温かさである。
「丁度いいわ、ありがとう」
ジョージは手桶を持つと部屋の奥にある扉を開けた。そこは簡易な寝室である。その床に手桶を置いた。
「タオルは部屋の中の棚にあるから適当に使って」
そう言いながらジョージはライラを寝室に入れると荷物を渡し、退室しながら扉を閉めた。彼女は荷物を床に置き、棚からタオルを一つ取り出すと手桶に入れる。そして耳飾りと首飾りをしまうと服を脱いで身体を拭き始めた。扉を開ければ彼がいる妙な距離感に少し落ち着かなかったが、彼は絶対扉を開けないという確信がある。彼女はゆっくり丁寧に身体を拭くと寝衣に着替えた。目の前のベッドを見ると一昨日のベッドより小さい。一人用なので仕方がないのだろうが、ここで彼は二人で寝ようと言うだろうか?
「ジョージ、この桶はどうしたらいい?」
ライラは扉を少しだけ開けて覗くようにして尋ねた。
「そのままでいいよ。明日の朝に片付けるから」
ジョージは机に向かって書類を片手に水を飲んでいた。
「ねぇ、今夜抱いてくれる?」
ライラの軽い言い方にジョージはむせた。彼女は慌てて彼の側に寄る。
「ちょっと、大丈夫?」
「ライラが突然変な事を言うから」
ジョージは呼吸を整えるとグラスを机の上に置いた。そしてライラに椅子に座るように促す。彼女は大人しく彼の横にある椅子に腰掛ける。彼はため息を吐いた。
「ライラ、自分が言った言葉に対して俺がどう思うかを少し考えてくれないか」
「不快にさせたならごめんなさい。一緒に寝たかったの」
「それなら言い方が違うだろう?」
「違わないわよ。もっと近付きたいと思ったの。ジョージの事が好きだから」
ライラの言葉は徐々に声が小さくなり、言い終わると俯いた。
「昨日寂しかったの。ジョージが隣にいないだけで眠れなくて、どうしたらいいのかわからなくて。だから違わないの」
「一昨日はそんな素振りなかったじゃん」
「一昨日、私の言葉を遮ったのはジョージじゃない」
ライラは拗ねたようにそう言った。ジョージは一昨日の話を必死に思い出す。しかしこれと言って思い当たらなかった。
「どこで?」
「もういいわよ。過ぎた事だから」
ライラはジョージから顔を背けるようにして視線を落とした。その様子を彼は可愛いと思い、そこで思い出す。
「あ、あれか。あれは続きがあったのか」
ジョージは後悔した。ライラが言葉を継げないのだろうと思っていた所に続きがあったとは。もう少し待てばよかったのだろうが、あの時彼は自分で作った雰囲気を壊したかった。髪を撫でられ小さく震える彼女を見て、雰囲気に流されそうな自分を抑えるのに必死だったのだ。
「もう言わないわよ?」
「なら遮ったって言わないでよ。続きがあると気付いたら気になるのは道理だろう?」
ライラは一瞬ジョージの方を見てすぐに視線を落とした。
「もう一度口づけをしてと言いたかったのだけど、恥ずかしくて」
ライラは恥ずかしそうにしている。ジョージは笑った。
「な、何故笑うのよ。笑うなら言わせないでよ」
ライラは困ったような顔でジョージの腕を叩く。
「ごめん。抱いてくれる? と言い方が違い過ぎて。さっきはすごく軽かったじゃん」
「あれは軽く言った方が断られた時に誤魔化せると思って」
「俺が断る前提だったの?」
「ジョージは軽口を言っても手を出そうとはしなかったでしょう? 私が覚悟を決める云々は建前で、本当は私を抱きたくないだけかもとか考えてしまって」
ケィティを除いてジョージはいつもライラに背を向けて寝ていた。一昨日も彼女が妙な態度を取らなければ、きっと背を向けたまま寝ていたに違いない。彼女はそれを最初は何とも思っていなかったのだが、告白された後はどこか寂しさを感じていた。
「無理矢理は俺の趣味じゃないって言ったよね」
「ジョージが無理強いしないのはわかるわ。だから私もジョージに無理強いしたくないの」
目を伏せているライラの言葉にジョージは怪訝そうな表情をする。
「無理強い? 何を?」
「私は色気がないから、そういう気にならないでしょう?」
「その辺の男と俺を一緒にしないで欲しい」
ジョージの声色は怒りを帯びている。ライラは彼の方を向けなかった。そんな彼女の顔を彼は強引に自分の方へ向けさせる。
「俺はライラが俺と同じ想いになるのを待ってるのであって、ライラに色気がないから抱かないわけじゃない」
「私はジョージが好きよ?」
「うん。でもまだ俺と同じではないよ」
ジョージはそう言うとライラの顔から手を離した。
「俺達は平和の為に離婚出来ない結婚をした。でも俺はそんな理由など関係なくライラと一緒にいたい。ライラにもそう思って欲しい。だから自分の気持ちを大事にして。軽々しく抱いてなんて言わないで」
ジョージはライラから視線を外し、机の上の書類に手を伸ばした。
「仕事がまだあるから、ライラは先に休んでて」
「一緒には寝てくれないの?」
「暫く一人で寝てって言ったはずだけど」
「それはクレアさんの所にいる間という事でしょう?」
ジョージは書類を机の上に置き、小さくため息を吐いた。そして頬杖をついてライラの方を見る。
「俺がライラの望みを全部聞くと思ったら大間違いだよ」
ライラは悲しそうな表情をジョージに向ける。
「今日は色々大変だっただろう? 疲れてるだろうからきっとすぐ眠れるよ」
「ジョージはどこで寝るの?」
「座ってでも寝れるし、仕事が終わったら適当に」
ジョージは微笑を浮かべているがどこか余所余所しい。彼の態度がライラを苛立たせた。
「そう。向こうでエミリーへの返事を書いて寝るから、便箋とペンを貸して頂戴」
ジョージはライラに便箋とペンとインクを渡す。彼女はそれを乱雑に受け取ると寝室の中に入り、音を立てて扉を閉めた。
ライラはベッド脇の袖机に持っていた物を置くとベッドに腰掛け、苛々する気持ちを抑えるように深呼吸を繰り返した。エミリーがいたら相談が出来るのに、そう思いながら便箋を見つめた。往復するのに何日かかるだろうか。返事が来るまでこの空気は耐えられない。彼の態度を変えた言葉が何か彼女は必死に考える。どこで間違えたのか。そこでエミリーの前回の手紙を思い出した。困らせていないかと心配だ、意地を張るなと。
ライラはペンを手に取ると文字を書いていった。気持ちがまだ落ち着いていないので文字が乱れているが、こんな事で悩んでいる場合ではない。エミリーに対してお願いしたいのは別の事である。今日誘拐されそうになった話は伏せておこう。彼女には王宮にいて貰わなければならない。最後にジョージの事を書いて彼女は署名をした。そして便箋を折り、封筒に入れて封印をした。
ライラは文字にした事で少しすっきりした。自分が悪かった、そう思えた。ジョージは長期的に物事を考えていて、きっとそれは彼女の為なのだ。だから彼女の軽率さに怒ったのである。
ライラは静かに扉を開けた。ジョージは黙々と書類にペンを走らせている。王宮で彼の仕事をしている姿を見る事はなかった。彼の部屋へは本を借りた時しか入れてくれなかった。厩舎へは案内してくれたが兵舎に足を踏み入れた事はなかった。本当はここにいてはいけないのかもしれないと彼女は思った。
「ライラ、視線が気になるんだけど」
ジョージは書類から目を離さずに言った。ライラも扉をそれ以上は開けなかった。
「私は王宮に帰った方がいい?」
「あんなに嫌がっていたのに帰りたいの?」
「帰りたくはないけど、私はここにいていいの?」
「いいよ。王宮から連れてきたのは俺なんだから。それに戻る途中に襲われる方が困る」
ジョージはそう言うとペンを置いてライラの方を見た。
「さっきは俺の言い方が悪かった。ライラが気にする事はないよ」
「私こそごめんなさい。どうしたらいいのか不安で焦っていたのだと思うの。だから焦らないでゆっくり考えるから、もう少し待っていてくれる?」
「元よりそのつもりだよ」
「ありがとう。それでね、一つお願いがあるの」
ライラは少し紅潮した顔を扉に隠すようにしながら、ジョージの目をじっと見つめた。
「おやすみなさいの口づけだけはしてもいい?」
ジョージは小さくため息を吐くと椅子から立ち上がった。
「わかった」
そう言いながらジョージは扉に近付いてきた。ライラは扉から離れ、彼を寝室へと招き入れる。彼は寝室の扉を静かに閉めると振り返った。
「こんなに狭いベッド、二人で寝たら窮屈だけどそれでも寝たいの?」
「いいの?」
ライラの表情が明るくなる。
「隊員達に悪いかなと思ってたんだけど、それでライラを悲しませるのもね」
ジョージが優しく微笑む。ライラは笑顔で彼に抱きつく。
「嬉しい。ありがとう」
「後悔しても知らないからね」
「え?」
「俺だってライラに触れていたいんだ。あとで嫌だと言っても離してあげないから」
そう言ってジョージはライラの腕を解くと彼女を抱き上げてベッドへと寝かせた。その上に掛布をかけながら彼は覆い被さる。彼の顔が近付くと、彼女は一昨日にはあった困惑が消えた瞳をゆっくりと閉じた。唇が重なる。何度か重なってより深くなっていく。彼女はそれを抵抗せず受け止めた。唇が離れて彼女は照れながらも嬉しそうな表情を彼に向けた。彼は彼女の首の後ろに腕を回して、腕枕をしながら彼女の横に寝転がる。彼女も彼に寄り添った。
「ジョージ、私を外に連れ出してくれてありがとう」
「何? 急に」
「隊長姿のジョージを見る事が出来てよかったと思って。それにジョージはあまり王宮にいないのでしょう?」
「今までは王宮にいる用事もなかったしね。今後はライラがいるから帰るよ」
ジョージはライラの額に口付ける。
「本当?」
「俺は戦争していない状況を知らないから何とも言えないけど、そんなに出かける必要はなくなると思う」
「平和なら王宮にいる日数が長くなるの? それなら早く帝国の問題を片付けないといけないわね。明日から色々考えないと」
「王宮から出るのは諦めたんだ?」
「それは諦めていないわ。だけどジョージと出かけたいから、ジョージがまず王宮にいてくれないと話が始まらないでしょう?」
ジョージは微笑んだ。先日まではライラ一人で出かけそうな雰囲気だったのに、その気持ちが自然と変わっているのが嬉しかった。彼は腕枕している腕で彼女を抱き寄せる。
「王都だけじゃなく観光もしたいね」
「ケィティ以外も連れてってくれるの?」
「その場合は二人でという訳にはいかないかもしれないけどね」
「護衛付で馬車移動という事? それは微妙だわ」
「おばあさんもおかみさんも馬で来たって言ったら俺に冷たい視線だったから、馬車を使うべきだったかなと反省してるんだ」
「馬車は揺れ方が予測出来ないから嫌いなのよ。乗馬は自分で何とでも出来るでしょう? だからその反省は要らないわよ」
ライラの言葉にジョージは考える。
「揺れ方……街道を舗装し直せば快適に馬車に乗れるって事か。馬車を使った事がないからわからなかったな。帰りは王都まで主要街道を通っていくか」
「それは赤鷲隊の仕事なの?」
「どうかな。もう色んな仕事が混ざって正直境界線がわからなくなってるんだよ。俺の仕事ではない気がしても口を挟む事もあるし」
「そのような事をして越権行為に当たらないの?」
ライラは顔をしかめた。いくら王族とはいえ何でも口を挟んでいいとは思えなかったのだ。
「俺は軍事書類しか書かないって言ったろ? 他のは全部カイルが書いてるし、それが表に出ないように裏から手を回してるから大丈夫。舞踏会の時にあんなに挨拶したのは、それを知ってる人達もいたからだよ。俺が言った事にしないで彼らが言った事になってるの」
「法案が通った時、その立案者の名前を冠する権利と引き換えに協力してもらっているという事?」
「簡単に言うとそう。案外自分の名前を残したい人って多いんだよ。たとえどんな小さな法案でもね。だからどうしたらこの法案が通るかの相談もあったりして、そんなの俺に聞くなよって思うんだけど、まぁ国の為になるなら聞かないわけにもいかないし」
「何故そのような状況になったの? 昔からそれが赤鷲隊隊長の仕事なの?」
「いや、違うと思う。最初はそんな仕事はなかった。各隊の見回り行って信頼関係を築いてたらそうなっちゃったんだよ」
何故そうなったのかライラにはよくわからなかった。しかし聞いてもきっとジョージ自身も明確な答えは持っていなさそうな気がした。これも全て彼の人柄なのかもしれない。
「大変なのね」
「そう思うなら王宮にいる間は仕事を手伝って」
「でも仕事部屋には入ってはいけないのでしょう?」
「それはまだライラがどういう人かわかってなかったから、勝手に出入りされると困ると思っただけ。もう気にしなくていいよ。俺がいない間、勝手に部屋に入って読みたい本を持ってってもいい」
ジョージの言葉にライラは微笑む。
「いいの? それなら暫くは暇潰しが出来るわね」
「暇かどうかはわからないよ。俺の仕事の山はすごい時があるから」
「それはつまり外出する暇もないという事?」
「外出する暇を作る為に手伝ってという事」
笑顔のジョージにライラは口を尖らせる。
「その言い方はずるいわ。私は手伝うしか選択肢がないではないの」
「ライラは仕事がしたいのだと思っていたけど、違った?」
笑いかけるジョージにライラは苦笑する。
「そうね。姫扱いされるくらいなら仕事をしていたいわ。だけどそうなると勉強を先にしないといけないでしょう? レヴィの法律なんて全く知らないし」
「細かい事は専門家に任せておけばいいんだよ。地方からの要望で、国に必要なものを議会に聞いてもらうようにする橋渡し的な事をやってるんだから」
「でもそれが必要かを見極める目を持たなくてはいけないでしょう?」
「ライラにはそこそこ備わっていると思うよ。見てて不思議なんだ。綺麗に着飾る時はとても高級そうな装いをするのに、商人の服も着るし、街角の食堂の食事も美味しそうに食べるし。なのにサマンサへのお土産はすごく奮発してたし、金銭感覚はどうなってるの?」
「サマンサへのお土産はむしろ安いくらいだったのよ。適正価格を見極められるようにも教育されているの。商人にカモにされたら嫌でしょう?」
「公爵家は金に糸目をつけなさそうなのに」
「えぇ、つけないわよ。いい物ならいくらでも出す家よ。でも価値がない物には一切お金を出さないわ。質の悪い商人を撲滅するのはあの家に住む人共通の趣味ね」
「その趣味はいいんじゃない? 騙される人が減るんだから」
「そうね。だからもし王宮で私が商人を冷たくあしらったら、そういう事だと思って」
「わかった。王宮に戻ったらライラに取り入ろうとして来る商人達もいるだろうから好きにしていいよ。俺は王宮に出入りしてる商人と付き合ってないし」
「え? それなら服はどこから購入しているの?」
ライラは驚きの表情を向けた。普段軍服しか着ていなくとも、寝衣や下着は必要である。
「今はケィティの商人としか付き合ってない。余計な事を言ってこないから楽なんだよ」
「私に用意してくれた商人の服もわざわざケィティから?」
「いや、それは時間がなかったからサマンサの所に出入りしてる商人にお願いした物。でも彼はケィティの出身で、今は王都に暮らしてるわけだから、ある意味ケィティの商人か」
「そうなの。エミリーが褒めていたわ。いい素材を使っていると」
「じいさんの知り合いだからね。俺達に変なものは売りつけてこないよ」
「そのような所でもテオさんの力が。すごいわね、テオさん」
「じいさんは本当に敵わないよ。商人であり政治家でもあるからね」
「テオさんの後継者はいるの?」
「俺の母上は一人娘だから血縁的な跡継ぎはいないね。でも議会でじいさんを補佐してる人はいるから、その人が後を継いでいくと思う」
「ジョージの隊長職が終身制でなければケィティの代表になったかも?」
ライラの問いにジョージは笑う。
「いや、俺には無理だな。レヴィ語しか話せないのは商人として致命的だから。それこそライラの仕事じゃないけど、通訳を入れると交渉が上手く出来ないと思う」
「つまり私がケィティ語と海の向こうの言葉を覚えればいい感じ?」
「俺は転職をする気はないから意味ないよ。そんなに言葉を覚えたら混乱しない?」
「言葉の法則次第かしら? レヴィに近ければ問題ないけど、文法から違うとなかなか難しいわね。でも幼い頃から教えられているせいか混乱はしていないの」
「俺には理解出来ないな」
ジョージは呆れたような顔をした。ライラは微笑む。
「こういう時間は楽しいわね。寝ないでずっと話していたい気分」
「駄目だよ、ちゃんと寝て。このベッドでは熟睡出来ないかもしれないけど眠って」
「私が眠ったらジョージはここから出てしまうの?」
ライラが寂しそうな表情をジョージに向けたので彼は微笑んだ。
「そんな面倒な事はしないよ。書類はきりのいい所で終わらせたから」
「わかった、それなら今日は寝る」
そう言うとライラはジョージの唇に触れるだけの口付けをした。そして恥ずかしそうに顔を彼の胸に埋めた。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
ジョージは微笑みながらライラが寝付くまで愛おしそうに眺めていた。