旅行五日目【前編】 ~隊長の休日~
翌日、ジョージとライラは快晴の道を馬で駆けていた。彼は明らかに楽しそうな雰囲気である。
「それほどまでにタルトが楽しみ?」
「タルトも楽しみだけど、今日は休日気分だから」
ジョージはこの四日間を移動にだけ費やしてきたわけではない。身分を明かしたのは青鷲隊の砦だけだったが、道中街道の状態を確認したり、商人の振りして人々に声をかけたり、一体どこまでが仕事なのかライラには見当もつかなかった。
「目的地に着いたらかつらを取っていいよ」
「いいの? どうして?」
「着いたらわかるよ。あの丘を越えたら着く。俺が一番好きな場所だ」
二人が丘を超えると壁のような林が目の前に広がり、その中に門が見える。門は閉じてはいないが、門衛が二人立っていた。ライラは今まで感じた事のない風の匂いに少し戸惑っていたが、ジョージはそんな事を気にせず門へと近付いていく。
「こんにちは、ジョージさん」
門衛の一人が気軽にジョージに声をかける。ジョージは馬を下り、門衛に労いの言葉をかけた。
「テオさんが首を長くしてお待ちですよ。馬で行かれますか?」
「いや歩いて行きたい。馬を任せていいか?」
「勿論です。そちらの方が奥様ですね」
「そんな事まで言いふらしているのか、本当に口が軽いんだから」
ジョージは呆れ顔だ。それを見て門衛は微笑む。
「それだけ楽しみだったのですよ」
「悪いが夕食までに行くと、馬を預けるついでに伝えてくれないか」
「わかりました」
ライラは自分がどの立ち位置で振る舞えばいいのか判断が出来ず、馬を下りて困っていたが、門の文字を見て気付いた。そこにはケィティ自治区と書いてある。
「さぁ行こう。ここにはきっとライラが今まで見た事もないものが沢山あるよ」
ジョージは笑顔でライラの帽子とかつらを取った。彼女の綺麗な金髪が潮風に揺れる。日差しの眩しさに一瞬目を細めた彼女は、慌てて彼に手を差し出した。
「帽子は返して。長時間日光に当たると肌が赤くなって痛くなるの」
「だからいつも全身覆うような服を着てたの?」
ジョージはいつもライラが全身を覆う服を着ているのを見て、用意した商人の服も全身を覆うようなものにしていた。それは単に彼女が肌を見せるのが嫌なのだろうと思っての行動だった。
「仕方がないでしょう? 生まれつきなの」
王都に比べると南下した分太陽の日差しが強い。ジョージは帽子をライラに被せ、かつらを自分の荷物に入れると、彼女の手を取り門の中へと入っていく。彼女は見える景色に驚いた。ケィティは大陸から海に三日月型に突き出た半島全体を都市としており、都市内には運河があり、そこを舟がいくつも行き来している。初めて見る景色にライラは興奮せずにはいられなかった。ガレスにも海はあるのだが、彼女は今まで海を見た事がなかったのだ。
「あれが海なの?」
「そうだ。岬近くまで舟に乗って移動しよう。もっとよく見えるから」
船乗り場まで歩いて行く途中、ライラはかつらが不要な理由がわかった。すれ違う人の民族が多種多様なのだ。肌の色も髪の色も見た事ない人達がいて、聞いた事もない言葉を交わしている。そんな人達はライラの事など気にも留めない。ただ、この都市の住人と思われる人々は、ジョージを見かけると皆気安く挨拶をしていた。
二人は手漕ぎ舟に乗ると、海の近くまで移動してから岬まで上り坂を歩いた。そこからは海を一望出来る。ライラは海と空の境目が不思議で仕方がない。
「水平線のあの先に国があるの? ここから見えない遠くに?」
「あぁ、別の大陸がある。行った事はないけど」
「船でどれくらいかかるの?」
「大陸までは六日だったかな? 風によって多少変わるらしい」
「あの大きな船で六日もかかるのなら、とても遠いのね」
港には商船が停泊している。その船には見た事もない国旗が風に揺れていた。
「あれは向こうの大陸の船だな」
「あの大きさの船を持てるなんて、きっと大国なのでしょうね」
「そんなに海の向こうの国が気になるの?」
ジョージはライラが海の向こうに興味を持ったのが意外だった。だが、彼女は楽しそうに微笑んでいる。
「だって知らない事が色々あるとは思わなくて。私の知っている世界はとても狭いのよね」
「それは別にライラだけじゃないよ。俺達は海を渡る事はきっとないだろうし」
「え? 船で行けないの?」
相変わらずのライラにジョージも呆れ顔だ。
「いくら何でもそこまで俺に力はないよ。船で国外へ出る理由は作れない」
「ほら、それは友好の為みたいな感じで」
「じゃあレヴィ内部が片付いたら考えるよ。今はそんな場合じゃないだろう?」
「そうね。ちょっと浮かれちゃったわ」
ライラは反省したような表情を浮かべた。それにジョージは笑顔を向ける。
「浮かれるのはいいよ。今日は休日だから。馬も一休みさせたいしね」
「そう言えば馬は誰に預けたの? テオさんとはどなた?」
ジョージはライラの手を引き灯台の裏へと回った。彼女を日陰に移動させたのだ。
「ケィティ自治区の代表は俺の祖父テオ。共和国時代から母上の父のままなんだ」
「え? つまり本当に借金返済が納税に変わっただけなの?」
「国の体制が違い過ぎるから、混乱しないように配慮したんだと思う」
ライラはケィティの歴史書を思い出していた。彼女にとって共和国というのは初めて知った存在だった。国民が代表を選び、国民が国の運営に関わる。貴族などの階級は特になく、商人と職人の国だった。
「でも共和国は何年毎かで長を選挙で選ぶんでしょう? どういう事?」
「誰も祖父の後をやりたがらなくて、無選挙で再選し続けてる状況なんだよ」
「代表はそこまで誰もやりたくない仕事なの?」
ライラの疑問にジョージは笑う。
「違うよ。嵐で船を失ったって話をしただろう? その時祖父は借金返済する為に、レヴィに属するから軍艦を平時の間貸して欲しいと陛下に言ったそうだよ」
「そのような事は私でも言えないわよ」
流石のライラも呆れていた。船は安いものではない。気軽に借りられるものではないし、もしまた嵐に遭ったらどうするつもりだったのだろうか。
「普通は言わないだろうな。でも祖父は言った。そして陛下も軍艦を貸すのではなく譲渡した。実際海戦は暫くなくて、軍艦は無用の長物になっていたからね」
「その軍艦は?」
「ケィティ商船に塗り替えられた。今はもう引退したけどね」
「それなら借金も順調に返せているの?」
「既に全額返せるまでは稼いだらしい。でも祖父は陛下にお金を渡して終わるのは違うと思ってるみたいで、今でも納税してる」
ライラは感心したように頷いた。
「そのようにすごい人なら確かに誰も後をやりたくないわね。でも今の話、国王陛下の判断も素晴らしいわ。船を譲渡するという決断はなかなか出来るものではないでしょう?」
「陛下は何を考えているか、よくわからないから」
「そのように陛下と呼んでいるからわからないのよ」
「え?」
ジョージは不思議そうな顔をライラに向けた。
「ジョージは王位継承権を捨てているのでしょう? つまり国王陛下から王位を簒奪する事のない一番信用出来る息子の立ち位置にいるのに、どうして自らそれを否定しているの?」
ジョージは驚いた表情を浮かべている。どうやらその考え自体が彼の中にはなかったらしい。
「国王陛下と前赤鷲隊隊長は仲が悪かったの?」
「いや、二人は仲が良かったよ。陛下は叔父上を信頼していた」
「それなら何故ジョージはそこまで国王陛下と距離を取っているの? まさかただの反抗期?」
ライラの指摘にジョージは苦笑いを浮かべる。
「そうかもしれない」
「何それ。信じられない。しっかりしてよね」
ライラは笑いながらジョージの背中を軽く叩いた。
「私は国王陛下に感謝しているわ。ジョージといると楽しいもの。他の王子ならこうして海を見る事も出来なかったかもしれないし」
楽しそうに微笑むライラを見て、ジョージは自然と笑みが零れていた。目の前の女性が愛おしくて仕方がない。彼は抱きしめたい衝動を抑えて、彼女の手を引っ張った。
「次は市場に行こう」
市場に辿り着くと、そこはレヴィ市場とは違う活気で溢れていた。見た事もない魚や野菜や果物が並び、綺麗な宝飾品があり、見た事もない商人達が楽しそうにやり取りをしている。ジョージはいつもライラに焼き菓子の買い物を任せていたのに、ここでは彼女の手を引いたままタルト専門店へと入っていった。
「こんにちは。いつものふたつ」
「いらっしゃい。あ、彼女が奥様ですか? それなら結婚祝いに少し大きめに切りますよ」
「何でダンさんまで知ってるの?」
ジョージは小さくため息を吐いた。ダンと呼ばれた男性は笑顔でナイフを手に取る。
「ケィティの者なら皆知っていますよ。ジョージさんが奥様を連れてくると議会でテオさんが言っていましたから。その日は仕事をしないから頼むぞと」
「あの人は本当に自由なんだから」
「ですがテオさんがいなければ今のケィティはありませんでしたから。本当はもう引退してもいいお年なのに、働かせているのはこちらですし」
ダンは切り分けたタルトをすぐ食べられるように紙に包むと、ジョージに差し出した。彼は支払いを済ませてタルトを受け取り店を出ると、店脇にある広場のベンチに腰掛ける。ライラもその隣に座り、彼からタルトの包みを受け取ると早速口に運んだ。
「え? 何これ? 美味しい」
ライラは自然と笑顔を浮かべていた。この旅行中で一番美味しかったのだ。
「向こうの大陸の果物を使っているんだ。日持ちしないから王都までは運べなくてね」
「日持ちしないのに向こうの大陸から来るの?」
「ここに届く日を逆算して向こうで収穫するんだ。予定が狂うと熟しすぎて売り物にならない。でも早く収穫しすぎると未熟のまま駄目になってしまう。その見極めが難しいそうだよ」
「その苗木を貰って、ここで育てる事は出来ないの?」
「どうだろうな。気候が違うらしいから難しいと思う」
「それは残念だわ。ここで育てられたら王都まで運べると思ったのに」
「そんなに気に入った?」
「えぇ。今まで食べた中で一番美味しいかも」
ライラは味わうようにゆっくりタルトを食べている。そんな彼女を優しそうな表情でジョージは見つめていた。
「どうかした?」
「いや、俺の好物をライラも気に入ってくれて嬉しいなと思って」
そう言ってジョージもタルトを口に運び、満足そうに微笑む。
「こんなに美味しいタルト、誰でも気に入るわよ」
「多分サマンサなら苦手だと言うと思うんだよね」
「えぇ? こんなに美味しいのに? 少し苦味があるのが嫌という事? これがクリームとあっていて絶妙に美味しいのに?」
「俺もそこが気に入ってるんだけど、店でも苺や林檎のタルトの方が人気あるみたいだ」
「そうなの? 食べ比べてないからわからないけど、でもこれが一番美味しい気がする」
「俺は全種類食べてこれが一番美味しいと思ったよ」
ライラはジョージに驚きの表情を向けた。
「全種類? 一気に食べたの?」
「いや流石に一度にじゃない。仕事の都合でケィティには定期的に足を運んでるんだ。ここの空気はいいからいつも休日気分になるけど」
ジョージが市場に視線を移す。ライラもそれに合わせる。聞いた事のない言葉が飛び交っているのに、それが不快ではない。笑い声がそこここで聞こえてむしろ楽しく感じる。
「確かにここはいいわね。王宮の窮屈さとは真逆だし。サマンサも連れて遊びに来たいわ」
「サマンサと仲良くなったの?」
ジョージは意外そうな顔をした。
「舞踏会の前日に一緒にお茶をしただけだけど、その時に王都から一度も出た事がないからお土産話を楽しみにしていると言われたわ。やはり王都の外には基本的に出られないのよね?」
「普通はね。でもサマンサの場合は特に無理だ。俺にもどうにも出来ない」
「何故? レヴィの王女はとても大切に育てられているの?」
「舞踏会に参加した王女、サマンサ以外に誰がいたか覚えてる?」
ライラは暫く考えた。サマンサは確かにいた。しかしそれ以外で王女らしい装いの女性はいなかった気がする。
「もしかしてレヴィの王女はサマンサ一人?」
「そう。王子は四人いるのに王女は一人なんだ。当然彼女は政略結婚の為に大切に育てられているし、本人もそれを弁えている」
「でも、それだとサマンサの気持ちはどうなるの?」
「それは俺達が口出しする事じゃない。そもそもカイルの態度を見ただろう? あれが答えだ」
「カイルは指輪をしているものね。相手がいるのよね」
「そうだな。それに俺の義弟にはなりたくないそうだよ」
悲しそうな表情を浮かべるライラの頭をジョージは優しく撫でた。
「政略結婚も色々ある。サマンサにもいい人が見つかるかもしれない」
「そうよね、きっと国王陛下がいい人を探してくれるわよ」
「ただ帝国と公国とガレス以外になるはずだから、どこかはわからないけど」
「それ以外で国交を結んでいる国ではないの?」
「普通はそうだろうけど、その三ヶ国を除くと小国しか残らない」
「それなら海の向こうかしら?」
「ライラが海の向こうに行きたいのは、もうわかったから」
ジョージは呆れ顔で笑っている。ライラはその選択肢がない事が意外だった。軍艦を譲渡してしまうくらいだから、きっと争いはないと判断しているのだろうが、あんなに大きな商船を持てる国ならしっかり国交を結んだ方がいいような気がした。しかしそれはレヴィに嫁いだばかりの彼女が口を出す事ではない。彼女はまだレヴィ内部の情勢でさえ完全には把握出来ていない。
「もう少し市場を覗いていく?」
「えぇ。エミリーとサマンサにお土産を買いたいわ。食べ物は無理でも綺麗な宝飾品もあったし」
「自分は嫌いなのに?」
「小さい物は好きだけど、舞踏会用のは重いから嫌なの。それに綺麗な物を見るのが嫌いな女性なんていないわ。あ、ここの通貨は何かしら? 銀で交換出来るといいのだけれど」
「ここは貿易都市だから色々対応してるよ。銀でも大丈夫だと思うけど」
「それならよかった。ガレスから銀しか持ってきてなくて」
「嫁ぐのにそんなのを持ってきたの?」
ジョージは怪訝そうな顔をライラに向けた。身分の高い女性は普通自ら支払いをする事はないので、お金など持たないものだ。そもそも彼は旅行初日、彼女が何事もなく買い物した事を驚いたくらいだった。
「お金がないのは困ると思って、家宰から今までの仕事代として貰ってきたの。銀貨を下さいと言って貰えるかわからなかったから」
「そこはまず王宮から出られるかを先に考えるべきじゃない?」
「それは何とかなるかなと、ね?」
ライラは笑って首を傾げて見せた。それにジョージはため息を吐く。
「ね? じゃないよ。王宮に戻ったら基本出られないから覚えておいて」
「えー? たまには都合してくれるでしょう?」
「だったらカイルに頼んで。裏門警備は赤鷲隊の管轄だけど、出入りは全部カイルに情報が流れるから。俺でも門衛が通してくれないんだよ。カイルに怒られるからって」
「カイルを説得するのはなかなかの難問ね。帰るまでに作戦を練らないと」
諦めないライラにジョージは笑う。
「じゃあいい作戦浮かんだら教えて。俺も一緒に行くから」
「王宮は目立ちそうだし帰り道に迷ったりはしないと思うわよ」
「一人は危ないって言ってるの。まさかガレスでは一人で歩いてたの?」
「たまにエミリーが付き合ってくれたけど基本一人ね」
ジョージはため息を吐いた。そして真剣な表情をライラに向ける。
「ライラに何かあったら困るから、これからは絶対に一人で外を歩かないと約束して」
「……わかったわ、約束する」
「よし、じゃあお土産を見て祖父の所へ行こう」
ライラは真剣な表情のジョージに圧倒されていたが、彼が笑顔で手を差し出すので、自分に何かあったら休戦協定に影響が出るからだろうくらいに解釈して彼の手を取った。




