旅行二・三日目 ~職権乱用~
翌朝、ライラが目覚めると隣のベッドにジョージの姿はなかった。そのかわり書置きがあった。八時には戻ると書いてあるその字はとても癖字で、彼女は意外で笑ってしまった。何でもそつなくこなす彼の字とは思えなかったのだ。そして彼女はふと思った。彼はいつも彼女が目を覚ますと部屋にいない。朝から何をやっているのだろうか。
ライラは着替えを済ませ、ジョージが戻ってくるまでレースを編む事にした。彼女にとって唯一女性らしい趣味であったが、これは彼女が無になりたい時にいつもやっている事だった。黙々とレースを編んでいる時は余計な事を考えなくてすむ。考えが纏まらない時、何かを一旦忘れたい時、彼女はいつもレースを編んでいた。
丁度八時になろうとした頃、部屋の扉をノックしてジョージが入ってきた。
「おはよう、よく眠れた?」
「おはよう。よく眠れたわ。こんなに朝早くから何をしていたの?」
「身体を動かすのは朝の日課なんだ。俺は腹の出た隊長にはなりたくないからね。ライラは?」
ジョージに質問され、ライラは手元のレース編みの道具を彼に見せた。
「レースを編んでいたの。似合わないかしら?」
「いや、いいんじゃない? 俺は手先が不器用だから絶対やらないけど」
「そう言えばジョージは個性的な字を書くのね」
「癖字だろ? でもこれは偽造し難いからあえて直してないんだ」
赤鷲隊隊長の偽書など出回ったら国内の混乱を引き起こしかねない。そういう意味では利点になりうる。癖字とはいえ読み難いわけではない。
「それなら私はこの字を覚えておくわね」
「俺は基本的に軍事書類しか書かないよ」
「ジョージが書かなくても誰かが偽装したのを見破る必要があるかもしれないから」
「なるほど。じゃあついでにこれも覚えておいて」
そう言いながらジョージは署名を二種類書いた。一つは癖字のまま、もう一つは綺麗な字である。
「俺の本来の署名は俺が信用している人しか知らない。基本的にはこの綺麗な方を使っている」
「誰が書いたかわからない癖のない署名ね」
「ゆっくり書けば癖を消せる。そして意図的にカイルの字を真似ている。カイルは俺の代筆役だから」
そう言われてライラは思い出した。初日にカイルに渡された手紙は確かに綺麗で癖のない文字だった。身分の高い者が代筆をさせることは珍しくない。しかし署名を代筆させる事はない。これはそれを逆手に取っている。知らない者ならばカイルの文章がジョージ直筆に見えてしまう。
ジョージは署名をした紙をライラから取り上げると、燭台に火を灯して灰にした。それは証拠を残さない事は彼にとって当たり前という自然な振る舞いだった。
「じゃあ食事にしよう。俺は空腹なんだ」
「少し待って、かつら被る時間を頂戴。もう面倒だから髪を染めてしまおうかしら?」
「髪は染めない方がいい。すごく痛むから後悔するよ。折角綺麗な髪なのに勿体ない」
ジョージの言い方が柔らかい。ライラは何だか落ち着かなくて、上手くかつらを被れない。
「そうか、ここ鏡台がないね。そこまで気が回らなかった」
ライラがかつらを被るのにてこずっているのは鏡がないせいだと思ったのか、ジョージは彼女の手からかつらを取り上げると金髪を隠すように被せた。
「ありがとう」
「うん、道中で鏡を買おうか。多分これからの宿屋にも鏡台はないだろうから」
「そうしてもらえると助かるわ」
人に何かを買ってもらう事もライラはあまり好きではなかったが、毎日かつらを被せられる方が彼女には嫌だった。それが何故なのか彼女はまだ気付いていない。
エミリーは赤鷲隊の軍服を持って兵舎へと向かっていた。ライラが出かけた後、ジェシカはカイルに頼まれた仕事があるとどこかへ行ってしまった。一人残された彼女は赤鷲隊預かりという身になり、赤鷲隊の腕章をつけさせられ、軍服を修繕するという雑務を押し付けられていた。
「エミリー、ご苦労様。それ預かるよ」
厩舎からブラッドリーがエミリーに声をかける。彼女は彼に軍服の入っている袋を渡した。
「まだあるの?」
「うん、でもあと一袋だよ。部屋まで運ぼうか?」
「結構よ。何故ブラッドがこんな事を仕切っているの?」
「あれ? 俺の事をヘンリーさんから聞いてないの?」
「父が私に何か言うわけがないわ。あの人は徹底した秘密主義よ」
エミリーは嫌そうにそう言った。そんな彼女にブラッドリーは明るく打ち明ける。
「俺ね、元々赤鷲隊の間者」
「どういう事? ライラ様はご存じなの?」
エミリーは訝しげな表情でブラッドリーを睨んだ。彼はにこやかな表情のままだ。
「ライラ様も隊長から聞いているとは思うけど、それまでは知らなかったと思うよ」
「よくも堂々とあの屋敷にいたものね」
「勘違いしないで、俺はヘンリーさんに捕まったの。間者としては役立たずだから」
「それなら何故ここにいるのよ? 父は血の通った人間ではないわ」
「それは流石に言い過ぎじゃないかな? ヘンリーさんが聞いたら悲しむよ」
「悲しむなんて、そんな感情は持ち合わせていないわよ」
「持ち合わせているから俺がここにいるの」
エミリーはブラッドリーの言おうとしている事がわからず彼を睨んだ。
「ライラ様の馬を連れて行きたいという我儘、ヘンリーさんならねじ伏せる事も出来たはずだよ」
「それは、そうね」
「でもねじ伏せなかったのはエミリーが一緒に行くというのを譲らなかったからだよ」
「どこに関係性があるのよ?」
エミリーは回りくどい言い方をするブラッドリーに不満そうな表情を向けた。
「ヘンリーさんは何故か知らないけど俺が赤鷲隊の間者という事を知っていた。そしてライラ様の結婚相手が赤鷲隊の隊長という事も知っていた。だから俺にライラ様とエミリーの安全を託した。もしかしたら俺の出自まで知っていたのかもしれない。簡単に殺されないという事をね」
「確かに間者なら普通任務に失敗した場合は逃げるわよね? ブラッドには自分が殺されないという自信があったという事?」
「まぁね。俺はこれでも色々役に立つからさ」
にやりと笑うブラッドリーにエミリーは相変わらず冷たい視線を投げている。
「信じてないね。じゃあこれを」
そう言ってブラッドリーはエミリーに一通の手紙を差し出した。綺麗な字でエミリー殿と書かれている。裏を見たところ名前はないが、封蝋には鷲の紋章が入っている。
「それジョージ隊長から」
「何故王子から私に手紙が届くのよ?」
「多分ライラ様絡みだろうね。でも心配しなくていい。多分壁にぶつかった所だよ」
「壁?」
「あのライラ様だよ? 惚れたら負けに決まっている」
「優しくライラ様に接してくれているとは思っていたけれど、そうなの?」
エミリーの表情が明るくなる。惚れているだろうとは思っていたが、勘が裏付けされて彼女は嬉しかったのだ。
「うん。隊長はライラ様のような性格は好みのはずだよ」
「性格? あまり物事を考えずに口にしてしまうのがいいの?」
「まぁそんな所。でもどれだけ優しくしてもきっとライラ様は気付かないと思わない?」
「そうね。まず気付かないでしょうね」
エミリーは頷いた。ライラが今まで異性が好意を寄せている視線に気付いたためしがない事を、彼女はよく知っていた。
「だからその手紙はどうしたら恋愛感情を引き出せるのかを問うような内容になっているはずだよ」
「何故わかるのよ?」
「俺は隊長と結構仲がいいから」
ジョージは仕事に真面目な男である。そんな彼が滞在先の町の警備を担当している赤鷲隊隊員を使ってわざわざこの手紙だけをブラッドリーの所へ配達させていた。このような職権乱用はライラ絡み以外では考えられないとブラッドリーは判断していた。
ブラッドリーの軽い口調にエミリーは再び冷たい視線を投げる。
「封を切る物はある? ここで開けるわ」
ブラッドは笑顔で上着のポケットからペーパーナイフを取り出した。
「準備していたの?」
「エミリーならすぐに読みたいと言うかなと思っただけだよ」
エミリーは不満な表情のままナイフを受け取ると封を切って手紙を読み始めた。手紙の文字は封筒の宛名と違い癖字で書かれている。内容はライラが今まで何に興味を示していたのか、誰かに恋をしていた事はあったのかを問うものだった。
ブラッドリーはエミリーが手紙を呼んでいる間、彼女の豊満な胸元を見ていた。彼女が手紙を折り畳む気配を察して視線を外す。
「王子は馬鹿なの? この内容を私がライラ様に話さないと思っているの?」
「隊長は馬鹿じゃない。エミリーは黙って協力してくれると判断していると思う」
「何故?」
「それは隊長に聞いたらいい。別に返信をしなくてもいいし、その手紙をライラ様に転送してもいい。ただ変な事をすると隊長とライラ様の関係もおかしくなる事だけは覚えておいて」
エミリーは暫く考えた。彼女はライラの幸せを願っている。しかしこんな事をしてライラは喜ぶであろうか?
「わかったわ。二人に手紙を送りたいけど、それも可能?」
「いいよ。二人がいる場所は同じだから同時に着くけどそれでよければ」
「それでいいわ。今から手紙を書いてくる。荷物は後で取りに来るわ」
エミリーは楽しそうに王宮へと戻っていった。そんな彼女をブラッドリーは優しく見守っていた。




