旅行初日 ~旅の目的とジョージの意図~
二人は王宮から出た後、王都の市場に来ていた。王宮に近い貴族向けの市場とは違い、庶民の為の市場である。しかし庶民向けとはいえ大国レヴィの王都。生活用品や惣菜だけでなく嗜好品も取り扱っている。
「じゃあライラ、俺はここで馬を見てるからあれを買ってきて」
「あれ?」
ジョージが指さす方を見ると、そこは焼き菓子店だった。ライラは不機嫌そうな表情を彼に向ける。
「自分で買いに行けばいいでしょう? 馬は私が見ておくから」
ライラは言葉遣いを切り替え、完全に商人の娘になりきっていた。
「俺があの店に入るのは見た目がおかしいだろ?」
ジョージは背も高く軍隊にいるからか筋肉質である。ゆったりした商人の服を着ていて顔も優しそうとはいえ、焼き菓子店が似合う雰囲気はない。
「まさかずっと私に買い出しに行かせるつもり?」
「もしかして買い方がわからないの?」
そう言いながらジョージはライラに銀貨を差し出す。彼女はそれを乱雑に受け取った。
「わかるわよ。買ってこればいいんでしょ。んもう」
ライラは帽子が風で飛ばないように深く被り直しながら焼き菓子店へと向かう。しかし焼き菓子店に着いた時にはもう彼女の不機嫌は直っていた。ガレスでは見た事もないお菓子がそこに並んでいたのである。彼女はいくつか焼き菓子を買うとジョージの元へ戻った。
「買い過ぎじゃない?」
「どれも美味しそうだったから絞るのが難しかったのよ」
ライラは釣りと焼き菓子の入った紙袋をジョージに渡す。彼は受け取った紙袋の中を覗く。
「確かにどれも美味しそうだな。一回ここのを食べてみたかったんだよね」
そう言いながらジョージは釣りをポケットに放り込んで紙袋からマドレーヌを取り出す。
「食べた事がなかったの?」
「王宮から外出するのは難しいんだよ。それにこの店は二年前にはなかったし」
ジョージはそう言ってマドレーヌを頬張り、満足そうな表情を浮かべた。
「これからお菓子を食べながら移動するの?」
「それも目的のひとつだね」
そう言いながらジョージはライラにクッキーを差し出す。彼女はそれを受けると口に運んだ。口の中にバターのいい香りが広がる。
「美味しい。レヴィの市場はすごいわね。これなら貴族の館にあっても不思議ではないわ」
「戦争していたなんて信じられないくらい平和だろう?」
「本当ね。戦場から遠いとはいえ、何の影響もなさそう」
「ガレスの王都はどうだったの?」
「ガレスも王都は平和だったわ。ここまで美味しい焼き菓子の店はないけどね」
元は同じ国とはいえ国力の差をライラは感じていた。ガレスでは菓子を食べられるのは貴族や豪商くらいで平民には馴染のない物である。それがレヴィでは平民でも気軽に買える価格で売られている。それだけ平民の生活も豊かという事である。
「お菓子がないなんて魅力がないな」
「何故甘党なのに軍隊へ入ろうと思ったの? 軍でお菓子は食べられないでしょう?」
「王宮でもそうそう食べられないよ。俺が赤鷲隊の料理長に作らせてるんだから」
ジョージはそう言いながらフロランタンをひとつ頬張った。ライラは活気のある市場の人達を見ている。
「あの戦争は必要だったのかわからないの。レヴィはどうしてもガレスの独立は認められない?」
「急に何? 美味しい物を食べてる時に嫌な質問をするね」
ジョージは明らかに嫌そうな顔をした。それをライラは気づかなかったふりをして続ける。
「レヴィもガレスも王都は平和なのよ? 何故国境付近だけ長らく争っているのか、その地域に暮らす人達だけ貧乏くじを引いたようなものでしょう?」
「それを俺に言われても困る。戦争を始めた人間はとうに亡くなっているのに、理由なんてわかるはずがない。でも休戦協定は結ばれた。それを守るだけだよ」
そう言いながらジョージは紙袋を閉じると馬に括ってある袋に入れた。
「市場の観光でもしたい所だけど、ゆっくりしてるとカイルに怒られるから行くよ」
「この後どこかで合流するの?」
「合流するのは八日後。それまでは二人だよ。何の為に商人の恰好をしてると思ってるの」
「動きやすいからかと思っていたけど、違うという事ね」
「動きやすいっていうは間違ってない。でもただの移動でもないよ」
「私はレヴィの情報を持ち合わせていないから、含みのある言い方をされてもわからないわ」
不満そうにそう言うライラにジョージは微笑む。
「今夜宿に着いたら説明するよ」
夕刻、二人はレヴィ王国の西の町にある宿屋に辿り着いた。土地勘のないライラにとって今自分のいる場所はわからないし、町の名前を聞いても思い当たるはずがない。彼女は歴史書だけでなく地図も借りておくのだったと少し後悔をしていた。
宿屋の階段を上り渡された鍵の番号が書いてある扉を開けると、その部屋にはベッドが二つと簡易な机と椅子が置いてあった。ライラは困惑を隠しきれずその場で立ち止まった。彼女は外交官として父に随行する時はあくまでも公式の立場だった為、簡易な宿屋に泊まった経験がなかった。
「今回の宿は基本こんな感じだよ。これでもいい方だからね?」
ライラの困惑を察してジョージはそう言いながら荷物を椅子の上に置く。
「どこで着替えれば……」
「その辺で着替えればいい。別に見たりしないよ」
「え、でも……」
「あんまり面倒な事を言うと脱がせるよ? 一回見られたら恥ずかしくなくなるだろうから」
「何て事を言うの! そんなわけないでしょう!」
ライラは顔を真っ赤にして怒っている。ジョージは笑いながらベッドに腰掛けた。
「嫁いだという認識が足りないって前言わなかったっけ?」
ジョージの言葉にライラは視線を泳がせる。出立前にエミリーが念を押した意味を彼女はやっと理解した。しかし彼女にとって彼は平和を維持する為の協力者なのである。それ以上の関係は考えられなかった。
「ごめんなさい。脱がせるのは勘弁して」
やっとの事で声にしてそう謝るライラに、ジョージは微笑を返した。彼の表情に怒りなどは感じられない。しかしどこか諦めの色が浮かんでいた。
「無理矢理脱がすのは俺の趣味じゃない。先に夕食にしよう」
ジョージは立ち上がりライラの手を取ると食堂へと向かった。そこで簡単に食事を済ませると部屋に戻ってきて彼女に椅子に座るよう促す。彼は荷物から一枚の紙を取り出すと荷物を床に放り投げ椅子に腰かけた。そしてテーブルの上の燭台に火を灯してから紙を机に広げた。それは地図だった。
「大陸の地図は見た事ある?」
「あるわ。でもこれは私の知っている地図より広い気がする」
「ガレスの物は公国がないかもしれないね。とりあえず今いるのはここ」
ジョージが指し示す場所はレヴィ王都の西だった。本来の目的地はガレスとの国境の軍団基地なので南東である。
「何故逆方向に移動しているの?」
「行きたい場所がここだから」
ジョージが指を南へとずらしていく。帝国との国境の山沿いに動いていく指が止まった所は、公国との国境付近である。
「ここまでが帝国領。ここが公国領。帝国との間は山が自然に国境となっているけど、公国との国境は関所がいくつかあるものの、いくらでも越境する手段がある」
「越境? 亡命者でも捕まえに行くの?」
ライラが不審そうな表情を浮かべる。ジョージは首を横に振った。
「いや、話を聞きに行こうと思ってる。でも公国の言葉が俺はわからない。だけどライラならわかるんじゃないかと思って」
「無茶を言わないでよ、知らない国の言葉はわからないわ」
「でも公国の成り立ちを考えると、この辺りの言葉がわかるなら通じると思うんだ」
ジョージは帝国南西部の辺りを指差してそう言った。ライラは読まされた歴史書を思い出した。元々公国は帝国の一部だった。皇族の一人がローレンツ公を名乗り治めていた地域が独立宣言したのが約百年前。最初はそれでも上手くいっていたが、それを認めない前皇帝の治世から公国とは対立が続き一触即発の状態になっている。
「亡命者に話を聞いても戦争をするかなんてわからないのでは?」
「でも何で亡命したかで予想は出来る。亡命者が増えるのは困るから対策を講じたい」
「それは赤鷲隊の仕事なの?」
ライラの言葉にジョージははっとした。
「そうか、俺の仕事の説明をしてなかったよね。そっちが先だったか」
「でもカイルから聞いたわよ。国内の軍隊を全て把握しているという事は」
ジョージは一瞬眉根を寄せた。
「カイルはそんな事を言わないだろう?」
「でも赤鷲隊の基本業務は何かと聞いたらそう教えてくれたのよ。え? 嘘なの?」
ジョージは少し視線を落とし何か考えているようだった。
「いや、嘘じゃない。でも俺より先に、カイルの判断で」
「言っている意味がわからないわ」
「カイルに悪気はない。それだけわかってくれたらいい」
今度はライラが眉根を寄せた。そんな彼女にジョージは微笑む。
「まぁいいじゃないか。赤鷲隊の仕事は確かに国内の軍隊を全て把握し、戦時にどう軍隊を動かすかを陛下に進言する事。また各軍隊から国境を脅かす何かの報告があればその対処をするのも仕事。今回はまだ大事には至ってないから非公式で確認に行く」
ライラは頷いた。
「ちなみに軍隊は基本騎士階級と平民からなっているが、貴族階級の者が存在する隊がある。それが赤鷲隊。赤鷲隊は貴族と騎士が半々、そして隊長は王族と決まっている」
「だからその若さで隊長なの?」
「俺が十五歳の時に入隊した時は叔父上、つまり陛下の弟が隊長を務めていた。俺は彼の後継として経験を積む予定だったんだけど、叔父上が三年前に急死してしまって俺に隊長が回ってきてしまった。あ、これは本当に病死だから。陰謀ではない」
「あなたが隊長になりたがる感じはしないからそうでしょうね」
ライラの言葉にジョージは不快な表情をした。彼女はその意味がわからず、彼を見つめる。
「何?」
「あなたっていうのは好きじゃない。名前でいいよ。名前を隠す必要もないし」
「隠す必要はなかったの?」
「ジョージなんてありふれてるよ。その辺の犬の名前でもおかしくない」
「わかったわ、ジョージ」
微笑むライラにジョージも満足げな表情で返す。
「赤鷲隊の隊長になるには一つ儀式が必要なんだ。王位継承権を捨てるという儀式が。だから俺はもう王位継承権がない。陛下と兄上が万が一急死してもライラは王妃にはなれないからね」
「王妃なんて願い下げだわ。でもそれで国王陛下を父上と呼ばないわけね」
「ん? 今その話はしてないんだけど」
「でも王位継承権を捨てて赤鷲隊隊長になったという事は、ジョージは国王陛下の臣下になったという事でしょう? 王子だけど王子ではない。その区切りをしているという事ではないの?」
ジョージは苦笑を零した。意図してない事を拾って解釈していく目の前の女性を敵に回してはいけない、そう思った。
「そうだよ。陛下は俺の態度がやりすぎだと思ってるみたいだから、陛下の前でだけは父上と呼ぶ事にしてる。でも面倒だから極力会いたくない」
「面倒なんて。国王陛下はジョージに対して優しそうな感じだったわ」
「陛下は何を考えているのかわからないから苦手だ。そもそも休戦協定の政略結婚だって、俺は弟の話だと思って進めていたんだ。しかし最終的には俺になった。俺を中立の立場に置いておきたいとしても、王位継承権を捨てている俺に政略結婚っておかしいと思わないか?」
ジョージの質問にライラは即答出来なかった。そう言われるとおかしい気もする。
「私はジョージが王位継承権を捨てている事を知らなかった。ガレスもきっと知らないはず。王妃殿下が自分の息子に正当な姫でない女を嫁がせるのが嫌だったとかかしら?」
ライラは昨夜の王妃の眼差しを思い出していた。直系の王族ではないから、あのように否定的なものだったと言われればわからなくもない気がしたのだ。
「でも君はガレスの正当な姫よりよっぽど価値があるじゃないか。元宰相の孫娘だろう?」
ジョージの言葉にライラは不快感をあらわにした。
「祖父がいくら出来るとはいえ、その孫娘というだけで私の価値を決めないで欲しいわ」
ジョージはブラッドリーがガレスからレヴィに入る前に、わざわざ南下したのを言わなかった理由を思い出した。元宰相の孫娘という先入観が要らないというのは、彼女がそれを望んでいないからなのだ。レヴィ入国前に祖父の家に寄ったのも、彼女が好きで訪ねたわけではないのだろう。
「悪い、気分を害したなら謝る。俺はライラの背景なんてもうどうでもいい。ライラ自身を気に入ってるからね。意図はどうあれ、この政略結婚の相手が俺でよかったと思ってるよ」
さらりと言ってのけるジョージにライラはどう答えていいのか困り反応出来ない。この男は本当にわからないと彼女は思うだけだった。
「話を戻すけど、赤鷲隊隊長が王位継承権を捨てる必要性はわかる?」
ライラは突然の質問に暫く考えた。
「軍隊を使って王位を簒奪しないようにする為かしら」
「そう。陛下の手持ちは近衛兵だけだからね。赤鷲隊隊長は陛下に忠誠を誓う為に王位継承権を捨てる。でもその価値がある権利を手にする」
ジョージがにやりと笑う。
「俺は相続争いの外に出た。王位を狙う者は俺を殺さない。むしろ俺を味方に引き入れたいんだ。国内の軍隊は赤鷲隊の下に所属しているからね」
「お母様が亡くなられたから、赤鷲隊に入ろうと決めたの?」
「元々思っていたけど、決心したのはその時だ。この国で生きていくにはそれが一番いいと思った。たとえ逃げたと思われようと構わない。俺はそもそも王になりたいとも思ってない」
「お義兄様と仲がいいのも、次期国王として忠誠を誓っているという意思表示?」
「兄上とは不仲になる方が面倒だろう? 忠誠は誓わざるを得なくなってから誓う」
ジョージの言い方にライラは笑った。
「何それ。今はまだ嫌みたいな言い方」
「俺は兄上に命令されて軍隊を動かしたくはない。少なくとも兄上と呼んでる間はね」
「そう、そういう事」
父の事は陛下と呼ぶのに、兄の事は兄上のまま。つまりジョージはエドワードとはまだ兄弟でいたいのだろうとライラは思った。王位継承権がなくとも母が違っても兄弟なのは変わらない。
「さっきの例え話だけど、万が一国王陛下とお義兄様が亡くなった場合、王妃殿下の息子が王になるわけでしょう? それでもジョージは忠誠を誓うの? それとも隊長を辞めるの?」
「赤鷲隊隊長は終身職だ。死ぬまで辞められない。だからその場合は誓わざるを得ない」
ジョージは少し嫌そうな顔をした。どうやらその未来は望んでいないようだとライラは判断した。
「ところでお義兄様の母上は国内でも力のある名門貴族の方なの?」
「公爵家の娘だよ。ブラッドの伯母にあたる」
思いがけずブラッドリーの名前が出てきて、ライラは驚いた。
「え? つまりブラッドはお義兄様の従兄弟なの?」
「血縁上ではそうなる。まぁブラッドは家を捨てたから彼は今騎士階級だが」
「よくそのような人を間者にしたわね」
「間者にしてガレスに送り込んだのは俺じゃない、カイルだ。俺は騎兵のままでいいと思ってたよ」
「それならば何故今騎兵ではなくて厩番なの?」
「ブラッドの希望なんだよ。まぁ他にも仕事をしてもらうけど」
ライラはジョージの表情からその意図を探ろうとしたがわからなかった。しかし彼女にとってブラッドリーは厩番以外に想像がつかない。三年隊務から離れたら騎士としては使えないのかもしれないと思い、彼女は考える事をやめた。
「働かせるわね」
「赤鷲隊は常に人手不足なんだよ。ブラッドを連れてきてくれて感謝してる。ついでにライラもその人手不足を補ってもらうからね」
「いいわよ。帝国と公国の争いをレヴィの中から消したいという事でしょう?」
「そう。出来たら王妃殿下と義姉上の争いも収めてくれると助かる」
「それは難しいわね。そもそも女の争いなんて今まで無縁だったのよ」
「その顔立ちで? 今まで色々あったんじゃないの?」
「ないわよ。私は仕事中ずっと男装をしていたし、舞踏会も極力逃げていたから」
「それであんな態度だったのか。なるほどね」
ライラの言葉にジョージは納得したように頷いた。美人の公爵令嬢にしては姫扱いすると恥ずかしそうにする彼女が彼には不思議だったのだが、舞踏会に出ていなかったのならばそういう機会もなく、ただ不慣れだったという事なのだろう。そんな彼の態度に彼女は不満そうな顔を向けた。
「何に納得したの?」
「別に。ライラと話すのは楽で助かるよ。長らくレヴィが拒否していた休戦協定を受け入れた理由は、もうわかってるよね」
「ガレスにいた時に色々と想像していたのが違う事はわかったわ。レヴィは軍隊を公国や帝国側に移動させる可能性があるから、ガレスと戦っている余裕がなくなったのでしょう?」
「そうだ。ガレスはもしレヴィが軍隊を国境から引かせたらその隙を突くと思う?」
「突かないわ。ガレスは国土を維持したいだけで拡大したいわけではないもの」
迷いもなくライラは言い切った。その態度にジョージは真面目な表情で彼女を捉える。
「何故公爵家の娘でしかない君がそこまで言い切れるのか」
「それが祖父の方針だからよ。知っているのでしょう? 祖父が現役な事」
ライラの祖父は宰相としてガレスを支えていた。国王の信頼も厚く、宰相が国を動かしているとも言われていた。彼が宰相の間はガレスとレヴィの争いはずっと膠着状態であった。そんな彼が引退を表明したのは五年前。表舞台から突然姿を消した。それを機にレヴィはまたガレスに戦争を仕掛けていたのだ。
「ブラッドに無理矢理口を割らせた。俺が聞き出したから責めるなら俺にしてくれ」
「何故ジョージを責めるのよ。赤鷲隊の間者なら当然の事でしょう?」
「でもブラッドは隠したがっていた。赤鷲隊の間者という身分はガレスで捨てたらしい」
「それならば何故厩番として再雇用したのよ。信用出来ない者を傍に置くの?」
ライラの問いにジョージは微笑む。
「ライラはもう俺の癖に気付いてるだろう?」
ライラはジョージの言わんとしている事を理解した。彼は基本的に名前を呼ぶのを避けるようにしている。しかし信用している者の名前はよく出す。それは暗に彼女も信頼していると念を押ししているようだった。しかしここで彼女の中に疑問がわく。そうなると兄上と呼んでいるのは信用していないからなのか? 兄は既に一人しかいないから名前を呼ぶのを省略しているだけなのか? もし前者だとしたら先程の命令されたくないと言った意味も変わってきてしまう。
「ではこの休戦協定の立案者は元宰相って事か」
「そうね。結婚相手に私が選ばれるようにしたのも多分祖父だと思うわ」
「勿論ライラが帝国の言葉を理解しているのは元宰相は知ってるんだよね?」
「知っているも何も祖父の指示で教育を受けさせられたのよ」
ライラの言葉にジョージは腕組みをして考え込んだ。
「ライラがずっと独身だったのも元宰相のせい?」
「それは違うわ。私個人の問題」
予想外の返事に、ジョージは不思議そうな顔でライラを見つめる。
「両親は恋愛結婚なの。だから子供達にも政略結婚でなく恋愛結婚をして欲しいと望んでいた。だけど私にはその相手を探せなかった、それだけよ」
「じゃあご両親は今回の結婚に反対したのか?」
「父は猛反対だったわ。調印式に私を連れて行ったのは父よ。相手を見て嫌なら別の女性を身代わりでレヴィに送るなんて無茶な事を言っていたわね」
ライラの言葉にジョージが笑う。
「それは無茶だな。折角の休戦協定の意味がなくなる」
「そうなの。私は割り切っていたのよ。どうせこの歳まで結婚したいと思う男性がいなかったのだもの。私が嫁ぐ事で平和になるならそれでいいと」
「で、納得させられたのか?」
「ジョージの調印式の振舞いに父は文句を言う所を見つけられなかったのよ。私も了承しているし、父も仕方なく納得したわ。でも父がもし結婚式に出ていたならば、きっと私を連れ帰ったでしょうね」
「要人が出てたら俺はあんな態度を取らないよ」
ジョージは笑った。要人が集う舞踏会での彼の振舞いは紛れもない王子だった。結婚式は本当に形式的で要人らしい人はいなかった。
「ジョージは本当にすごいわね。その切り替え方は感心するわ」
「望むならずっと王子対応でもいいよ。ライラを姫扱いするのも楽しいし」
ジョージの笑顔にライラは怒りを込めた視線で返した。
「そんなに睨むなよ。王子対応は疲れるからしないって」
「でも王子対応ではない時でも私を姫扱いする事があるでしょう?」
「姫扱いしなくてもいいの? 折角宿屋に交渉しておいたのに」
ジョージの言いたい意味がわからず、ライラは不機嫌そうなまま首を傾げた。
「何の話?」
「一人で入浴出来るよう浴室を一時間貸し切ってある。髪も洗いたいだろう?」
ライラは目の前の男が憎たらしくて仕方がなかった。宿屋に着いた時はあんな事を言っていたのに、彼女に着替える場所を用意してあったのだ。どうしてこの男はこんなに自分に優しいのか、それには裏があるのではないかと彼女は素直に受け入れていいものか悩んだ。
「ジョージは私をどうしたいの?」
「質問の意図がわからないな」
「私達出会ってまだ二週間くらいでしょう? 何故ここまでしてくれるの? 私のどこを信頼してくれているの?」
「そうやって何でも口に出す所かな」
ジョージは一旦視線を外してからライラを真っ直ぐ捉えた。
「王宮の中には何を考えているのかわからない腹黒い人間しかいない。でもライラは言いたい事を言うだろう? 平和を望むという一点だけでそれ以外に興味がない君が羨ましいのかもしれない」
「羨ましい?」
ライラは意味がわからず首を傾げた。
「俺は常に色々な可能性を考えてとりあえず先に手を打って、でも回収しない事だっていくつもある。ライラはそういう面倒な事を考えないんじゃないの?」
「私も考える事はあるわ。ジョージに全部話していると思ったら大間違いよ」
「全てをさらけだせなんて言わないよ。そもそも俺に出来ない。ただ平和を望むのは俺だって一緒だ。その為にライラが必要だと思ってる。これで納得してくれる?」
ライラは頷いた。何か言葉を探そうとしたが見つけられなかった。普段口が軽いジョージにいざ政治の話以外で真面目な顔をされると、どう対応していいのか彼女にはわからなかった。
「丁度時間だ。八時から九時で浴室を貸し切ってある。ゆっくりしてきたらいい」
「ジョージはどうするの?」
「俺は軍隊勤務だから他人と一緒は慣れてる。風呂に何日も入れなくても平気だし」
ジョージの言葉にライラは不快な表情をした。
「勘違いするな。今まで隣に寝てて俺が臭かった事があったか? 戦場では入浴出来ないのが普通という意味だから」
「そうよね、ごめんなさい」
ジョージは嫌味なくらい気遣う男だ。汗臭いまま一緒に旅をするはずもない。
「それならお言葉に甘えてお風呂に入ってくるわね」
ライラは自分の荷物から着替えを取り出すと部屋を出て行った。それを見届けでジョージはテーブルに伏せてため息を吐いた。