出立前夜【後編】 ~秘密を告白~
ライラは寝室のソファーの肘掛に凭れ掛かっていた。いつもならジョージが来るまで姿勢正しく座っているのだが、今夜はそのような気分になれなかった。一体何がいけなかったのだろう? 無関心ならわからなくもない。しかし王妃の態度は彼女を否定しているようだった。公国とガレスには国交も無いのに恨まれる筋合いが見つけられない。原因がわからず悩む彼女はノックの音がしても声に力が入らなかった。
「何その恰好。誘ってるの?」
ジョージはライラの足元に視線をやっていた。彼女の凭れ方が悪いのでだらしなく足が伸びているのが寝衣から見えている。普段の彼女なら足首まで寝衣で覆われている。
「抱かないと言われたではありませんか」
「それは初日の話だろう。あれから気が変わらないと思う?」
「私は抱き心地が悪いですよ。他の女性をお勧めします」
「抱き心地が悪いかはこっちが判断する事だと思うけど」
そう言いながらジョージはライラの腰に手を回すと軽々と彼女を抱き上げ、そのままベッドに放り投げた。
「何をするのですか」
言葉とは裏腹にライラの声に力がない。
「王妃の態度なんて気にしなくていいと言ったはずだ」
「しかし……」
ライラはベッドに放り投げられたまま視線を伏せた。ジョージの投げ方が乱雑だったので寝衣が膝上まで捲れているが、その事に気付いてもいない。ジョージはちらりとそちらを見るとベッドに腰掛けた。
「王妃は基本あぁいう態度だ。別にライラが何か失敗したわけじゃない」
「え?」
「言っただろ? 公国の人だと。レヴィの発音が難しいみたいであまり話さないんだ。ライラは見たものしか信じないというから、余計な情報は入れない方がいいと思った俺が悪かった」
ジョージの言葉にライラは暫し考え、身体を起こすと寝衣に足を隠した。彼はそれを少し残念そうにしていたが、彼女はそんな事に気付くはずもない。
「それはつまりブラッドに私の事について問い質したという事ですか?」
「ん? あぁ、勘違いするな。ブラッドは赤鷲隊の間者だ。捕まえたのはそっちだからな?」
ジョージはブラッドリーの身元について隠す気はなかった。ライラも驚く様子はなく、むしろ合点がいったというような表情である。
「そう、だからブラッドは逃げなかったのね。ですが任務を遂行しなかった間者をどうするのですか? 私の事を報告させて用が済んだら斬り捨てるのですか?」
ライラは普段通りに戻っていた。先程の力のない瞳など気のせいだったかのように、真っ直ぐにジョージを見つめている。
「斬り捨てない。ブラッドは厩番として再雇用している。だから厩舎にいただろう?」
「他の間者にもそうするのですか?」
「それは時と場合による。そもそも間者の手配はカイルの分野だ」
「カイルの……」
ライラは何か言いたげな口調だったが、視線を外してそれ以上は言わなかった。そして再度ジョージを見つめる。
「それで王妃殿下はいつもあのように人を否定するような態度なのでしょうか?」
「俺は王宮に居ないから詳細は知らない。でも義姉上と揉めてるのはあの態度も影響しているだろうね」
「そうですか。ではナタリー様は王妃殿下と関わるなと言いたかったのでしょうか?」
「別れ際に囁かれたって言ってたやつ?」
「えぇ。部屋に引きこもっていた方がいいわよ、と」
ジョージはライラの言葉に首を傾げた。言葉の意味がわからなかったのではない。言葉自体がわからなかったのだ。
「ジョージ様、やはりレヴィの言葉しかご存じないのですね」
「ん? 何でそう思う?」
「本棚を見せて貰った時、背表紙にはレヴィの文字しかありませんでした。本当に歴史を知ろうとすれば翻訳されていない、現地の言葉で書かれた本を読んだ方が間違いないのに一冊もありませんでした」
ライラの言葉が意外だったのかジョージは目を見開いた。
「そんな所を見てたの? それは気付かなかったな。でもそれを言っちゃっていいの? 私は他国の言葉がわかりますと宣言してるようなものだ」
「裏切らないと申したのに、色々と隠していたら信用して頂けないではありませんか」
ライラは不敵な笑みを浮かべた。ジョージもそれに応えるように微笑を浮かべる。
「つまり帝国語がわかるという事か」
「厳密には帝国で使われている言語全てがわかります」
帝国は広く、多民族国家である。帝国語という共通語があるにしろ、民族別、地方別の言葉は未だに根強く残っている。帝都から離れれば離れるほど帝国語を解する者が減り、民族や地方の言葉しか通じない地域もある。
「女性が外交官とはおかしいと思いませんでしたか?」
「思った。レヴィでは絶対にありえない」
「ガレスでもありえないのですよ。ですから私の役目は特殊なのです。通訳をするのではありません。先方の通訳が正しく言葉を訳すかを確認する事、相手が母国語で何を相談しているのかを聞く事なのです」
ジョージが驚きの表情をする。そんな仕事があったとは想像もしていなかったのだ。
「先程のナタリー様の言葉は帝国語ではありませんでした。北方のご出身ですね?」
「彼女は直系だから帝都育ちのはずだが」
「それでは母上様か侍女が北方なのですね。帝都なら北方の民族言語は知名度が低いはずです。ただ何故その言葉を選んだのかがわからず、とぼけましたが不自然ではなかったでしょうか?」
「俺には何を言われたのかわからないという顔に見えた。で、何て言ったの?」
「部屋に引きこもっていた方がいいわよ、と」
「ん? どういう意図だ?」
「わかりません。何故そのような事をあの場で言われたのか、何故帝国でも北方民族の言葉を使われたのか。ガレスでは帝国語でさえ理解する者は少ないのに」
ライラは王妃の態度が理解出来ず悩んでいたわけだが、それよりもナタリーの方が不自然だった事を今更ながら思い出した。何故忘れていたのだろう。それほどまでに彼女にとっては王妃の対応の印象が強かったのかもしれない。
「レヴィでも帝国語を理解する者は多くない。商人ならいざ知らず、貴族や王族には知る者は少ないはずだ」
「ではこの王宮内で帝国語を用いて話していれば暗号のようになると?」
「なるだろうな。兄上は帝国語を話せるが――」
「それではないですか」
ジョージの言葉に被せるようにライラが言ったので、彼は驚きの表情を向けた。
「お義兄様に聞かれたくなかったので帝国語を使わなかったという事です」
「しかしライラに伝わらなかったら意味がないじゃないか」
「では意味が伝わらないとわかって言った言葉という事になりますね」
二人は暫く考え込んだ。しかしこれといった答えに辿り着けない。
「これは一旦置いておこう。俺達は三週間王宮を留守にする。その間に考えよう」
「そうですね。今考えても多分わかりませんね」
「ところでガレスはよかったのか?」
ジョージの質問の意味がわからず、ライラは首を傾げた。
「ライラを他国に嫁がせて、その特殊な仕事の役目は誰がやるんだ?」
「私はあくまでも代役です。弟が育つまでの」
ジョージはライラの言葉を聞き、休戦協定の調印式を思い出した。
「そうか、調印式の時ライラによく似た眼鏡をかけたのがいた。あれが弟か」
ライラは思わずジョージの言葉に笑ってしまった。
「ガレスとレヴィは通訳が要らないのに弟が行くはずないではありませんか」
ライラの笑顔を見てジョージは呆れた顔をした。
「つまり男装したライラだったって事か」
「そうです。嫁ぐ相手を一目見る為に調印式へ行きました」
「それで俺は嫁ぐ価値を見出してもらえたのか?」
ジョージの口調は軽い。しかしライラは真面目な表情を彼に向けた。
「価値があろうがなかろうが休戦協定の為に嫁ぐのは必至。それをひっくり返す事など私には出来ません。ただ調印式へ行かなかったならば、あの結婚式の時のジョージ様の態度で心が折れていたでしょうね」
休戦協定調印式におけるジョージの姿は、国の代表としての威厳を持ち合わせていた。ライラはそれを見て期待を胸に秘めて嫁いできたわけだが、結婚式に現れたのはやる気のない王子。別人かと疑いたくなる程の差があった。
「最初によく見せようとすると後が辛いじゃないか。そもそも俺は王宮に居ないから、本当に形だけのつもりだったんだよ。こんなに話すようになるとは思ってなかった」
「そうですね、私もそれは思っていませんでした」
二人は笑いあった。
「ライラ、その敬語はやめられる?」
「やめる事は簡単ですが何故でしょうか」
「明日から出かける訳だけど、王子と姫で出かける気はない。平民の夫婦が会話をするのに敬語を使うと思うか?」
「平民に変装して出かけられるのですか?」
「そうだよ。衣装はこっちで用意してある。悪いけどその金髪は目立つから、ずっとかつらを被ってもらうからね」
金髪はレヴィでもガレスでも王族と一部の貴族にしかいないので高貴な者という印象がある。両国の国民の大半は栗毛である。ジョージは母親の影響で栗毛である。
「栗毛のかつらなら持っていますよ。金髪が目立つのはわかっていますから」
「ちょっと待て。王家に嫁いで外へ気軽に出かけられると思っていたのか?」
「変装などいくらでも出来るではないですか。私は男装さえも抵抗ないのですよ」
ライラは楽しそうに微笑んでいる。
「面白い姫だとは思っていたけど、流石に自由すぎるだろ」
「自由がなかったからこそ、色々と抜け道を考えていたのですよ」
ジョージは呆れた顔で笑った。しかしどこか楽しそうでもある。
「道中楽しくなりそうだ」
「えぇ。王宮の外に出たら口調を切り替えますね」




