強奪する譲渡者
「あの、おじさん」
「は、ひっ、はいっ?」
声を掛けてしまった。見かねて。
いや、見かねてというか、正直何も考えずに疑問に思って、そのままの感情を下に声を掛けてしまった。
「その、失礼かもしれないんですけども」
「は、い。な、んでしょうか?」
白髪交じりの気弱そうな顔のオジサンが私に顔を向けてくる。
「何かご病気でも患ってたりします? 先ほどからずっと唸ってらっしゃるし、汗も凄い掻かれてるようですし」
「あ、す、すいません、あ、すみま、あ」
物凄くテンパっている。なんなのだ、取り乱し過ぎだろう。
やはり興味本位で声など書けない方が良かっただろうか……。
まあ、いいや。取り敢えず状況整理しておこう。
この場所は銀行。自分の暮らすアパートから、およそ十分程度歩くと着く、なんの変哲もないただの銀行だ。
私は今日、ちょっとした仕事の都合で、ナップザックを一つ抱えてこの銀行にやってきた。この仕事が片付いたら、また引っ越さなければいけない。
何の趣味もない、寧ろ仕事が趣味と言えるかもしれない程に労働に追われる人生。いつも見えない何かに追われながら生きている気がする。
そんな労働戦士の私が、銀行で所定の手続きをするために、こうして待合のソファに座って居たら、おじさんに出会った訳だ。
おじさんは、私が来る前に既に待合の椅子に座っており、私はなんとはなしに彼の隣に座ったのだが、そのおじさん、ずっと何がしかを呟いている。
なにせ小声なもので、注意して聞いても断片的な言葉しか聞き取れない。まだ暦の上では秋になったばかりで、残暑さえ感じるのに、厚手のジャンパーを着て、両手で何かから守る様に、または隠すように自分の体を抱えているオジサンの恰好には不気味さがある。
また、呟きの内容自体も『私なら出来る』だとか、『落ち着け落ち着け』だとか。取り敢えず、切羽詰まった奇怪なオーラをビシバシ感じる事は確かだ。
関わっちゃいけない類の、アレな人の可能性もあるけど。不思議な事に、オジサンからはアレな人の臭いというか、印象はない。まともな人間がまともに動揺しているというか。
【アレ】とは何かについて、具体的な言及は控える事にしよう。
「病気じゃないんなら別にいいんですけど、何か思いつめてらっしゃるようなので」
「だ、大丈夫ですはい。ほんと大丈夫です。ちょっと、その、緊張してつ、つしま、しまって」
緊張? 銀行で何について緊張するんだ? オジサンがとんでもない資産家だから銀行屋に食い物にされるとかって警戒してるが故、とか?
「緊張ですかー。こんな場所でそんな思いを抱くなんて、中々にレアですねー」
「あ、は、あははは……」
オジサン苦笑い。
うん、もうぶっちゃけた話、だ。滅茶苦茶怪しくない? この人。
駄目だ、気に成る。他人の事情について根掘り葉掘り聞くのはマナー違反かもだし、なんなら私自身が怪しまれるかもしれないけど、でも気になって仕方がない。
「あのやっぱりオジサン病気……いや、なんか悩んでたり?」
「へ!?」
「てか、何か困ってたり?」
「ひへ!?」
「言葉を選ばず言えば、不審者みたいですよオジサン」
「あ、ぅ」
私の不躾な指摘にしょげるオジサン。可愛い、訳もない。
なんか自分の倍はあろうかという年齢のオジサンがしょげてるの見るの、妙な虚しさがある。私は一応女だが、どうやら異性のタイプはかなりの年上という訳ではないようだ。新発見。
「まあ傍目から見てたらそんな感じで怪しさ満点なので、どうしても気になっちゃいまして」
「あ、あはは……。申し訳ない、です……」
「いやぁ、謝られるような事じゃないんですけどね」
苦笑するオジサンに合わせて、私も緩い笑みを浮かべておく。愛想笑い愛想笑い、あはははのは。
「良かったら、何か事情があるなら話してみません?」
「ぇ……」
「どうせ誰も聞いてやしませんし、他人に話したら頭の整理もしやすいでしょうし、落ち着けるかもですよ?」
待合の場所は受付で忙しそうに働いている人たちから少し離れた場所にあり、見通しは良いが、仕事中の銀行員に私たちの声は聞こえないだろう。また、待合椅子はブロック毎に分かれていて、他の客が数人いるが、私達の居るブロックの椅子には、私とオジサンしかいない。他愛のない世間話をしても、よっぽどの大声で無ければ、誰にも聞かれないし、注意を向けられる事さえない筈だ。
「そう、ですかね」
「ええ、そうですよ」
ニッコリ笑顔の私と、苦笑継続のオジサン。お互いそんな顔で向き合って数秒、オジサンは何かを諦めたように溜息を付く。
「まあ、もう、貴方に指摘されてしまった時点で、どうせ目的は果たせませんし……聞いて、貰えますか?」
さっきまでの動揺し切った不審者の様子は消えて、落ち着いた、悪く言えばくたびれた様子を見せるオジサン。なんでわざわざ悪く言ったのだ私は。
「実は、今日。私、この銀行にですね」
ぽつりぽつりと呟いていくオジサンに、うんうんと軽く相槌を打つ。
「強盗しに来たんです」
へー。そっかー。強盗かー。
え?
「ェァい!?」
余りの言葉に思わず大声を出してしまう。
当然、私の突然の奇行に、周りの客や受付の人達も何事かと視線を向けてくる。
「す、すいません、大丈夫です〜」
平謝りしながらあははのはと笑いながらとりなすことで、客や銀行員は迷惑そうだったり不審そうな顔をしながら携帯画面や客の対応に戻ってくれ、なんとか注意は逸れた。
「えっと、その、強盗って一体」
「驚かせてしまって申し訳ない。そのままの意味なんですよ……」
言いながら、オジサンは着ていたジャンパーのボタンを幾つか外し、その【中身】を私に覗くように促す。そうして私がその動作に従って、体を倒し視線を向けると、そこにあったのは銀光りする鋭利なモノ。
「ぃっ!」
今度は大声を出すのを堪えられた。
包丁。
一般家庭ならどの家の台所にあるモノ。だけど、この場所には明らかに必要無いし似つかわしくないモノ。
「驚かせてしまって申し訳ないです、はい」
何度目かの謝罪をオジサンが口にする。
「あー、なんか、その」
言葉に詰まってしまう。こんな善良そうというか、悪く言えば意気地が無さそうなオジサンが、銀行強盗なんて。いや、だから何で悪く言い変えるんだ私は。
「一体どうして強盗なんてことを?」
気を落ち着けながら、小声で尋ねる。
オジサンはくたびれた、そして寂し気な目を、何処に視点を合わせるでもなく、ぼんやりと前に向けながら語り掛ける。
「誰かから、何かを奪いたいと思ったんですよね」
「奪いたい? 銀行で奪いたいってことは、お金が欲しいという事ですか?」
「いや、お金。お金にしたのはあくまでわかりやすかったからで。私は、他者から【奪うという行為】をしてみたかったんです」
奇妙な言い回しで、オジサンは言葉を続ける。
「私は、今年で五十と二つなんですがね。なんというか、小さい頃から他者から何かを勝ち取ったとか、そういう経験をした事が無かったんです。長男だったってのもあるのですが、小さい頃は弟に欲しい物を譲り、青年時代は友に恋人なんかを譲り、いやこれは自分に勇気が無かった言い訳かなぁ。まあ、そうして、社会人になってからは、家の為に自分の人生を譲って親に尽くしました」
まあ、家業を継いだので仕方ないのですが。とオジサンは付け足す。
「そうやって、なんというんでしょうか、誰かに譲って譲って。自分が必死に内に貯めてきたものを、切り崩して他人に分け与えるというか。特に働き始めてからは、自分が雇用主な訳ですから、部下の為お客様の為に、自分という存在をひどくないがしろに切り崩して切り刻んで生きてきたような気がするんです」
前を向いていた視線は、言葉を紡ぐたびに下に下に落ち、たどり着いたのは無機質な地面。
「ですが、自分を崩していく中で、最近漸く、思ってしまったんですよ」
行儀よく座り、手は揃えた足の上に乗せられていた。その手が強く強く握りこぶしを作る。
「私のこれは、譲っているのではなく、奪われているのではないか? と」
搾取。
他者に譲っていると思えば、それはある意味自らが優位に立っているからこその優越感で許せたかもしれない。
しかし、他者からの搾取、簒奪、略奪。自分という存在自体を、他人から削りこそぎ落されるという行為を受け入れれば、残るのはボロボロになった自分。
そして同じ結果であろうと、過程がまるで違う事になる。
ボロボロの肉体でも、精神がでっぷりと太って居れば耐えられる。しかし、その精神さえも痩せこけてしまえば、もう耐えられない。
「正直、自分でも勝手な物言いだとは思います。自分が成した行為はなんであれ自己責任。それが大人の筈ですから」
乾いた笑いで、消化できてない事柄を無理やり消化してるかのように、やるせない顔で私に笑いかけるオジサン。
私の方は今、どんな顔をしているのだろうか。
「でも、私は奪って見たかった。他人から、簒奪してみたかったんです」
だから、銀行に来ましたと付け加える。
「此処なら、分かりやすく。まず、金を奪える、次に銀行の信用なんかも奪えそうですね。それに、私が捕まらなければ捕まらない程、警察の時間を奪える。そして、そのどれもが奪えなくても何も奪えなかったとしても、少なくとも、私がこの行為をすることによって親や兄弟、小さい会社ですから大したものではないですけど、それでも自分の人生を一人一人しっかりもってる部下たちの人生を、狂わせ奪う事がきっとできる」
寂し気な瞳で、恥ずべき悪事について彼は述べる。
「きっとそれは、痛快な事なのではないかと、思ってしまったんですよねぇ」
地面に合わせていた視線が、ゆっくりと私に向く。
私はそんな彼に、尋ねる。
「今から、それをしますか?」
「いいえ」
即答だった。
「一時の気の迷い。ちょっと魔が差した。こんなばかばかしい事、するべきではない。分かってはいたんです、でも忘れていた。だけれども、思い出しました。私は誰かに奪われていたんではなく、譲っていた。その筈です」
そう信じないと、思い込まないと、彼はきっとまともではいられない。
それが、【大人】という生き物、なのだろうか。
「良いんですか?」
「良いんですよ、こんなおっさんの話を聞いてくれて、ありがとうございますお嬢さん」
苦笑しながら、オジサンは笑う。彼は正直情けないと評される人間かもしれないが、でもきっと、間違ってはいない。
オジサンは話は終わりだという様に、腰を上げようとする。だけれども、どうしようもない事だとは言え、私は引っ掛かりを覚えてしまう。だから。
「オジサンちょっと待って」
「? はい」
立ち上がりそうになったオジサンの服を掴んで、もう一度座らせる。
「ちょっと手を貸して」
「え、あ、はい」
オジサンがおずおずと差し出してきた手を掴み、私はそれを自分の体に近付ける。
そして、そのまま手を引き、オジサンの掌の部分を自らの体の一部分に密着させた。
「んっ」
「――は?」
その一部分の場所は。
胸部である。
てか、おっぱいである。
「はひぉよぃぁっち!?!?!?!?」
奇声。
オジサンものっそい奇声。てか、もはや悲鳴。
本来女である私が挙げるべき、高音の金切り声を上げる。
あらやだ、衣を裂いたような叫びってこういうやつ?
「な、ななんあ。なにしとっと、してるんですか?」
「あははのは。落ち着いて落ち着いて」
オジサンは物凄い勢いで私の手を振り払い、飛びのきそうになっていたが、なんとか服を掴んで椅子に固定する。万が一彼の服の内側にある包丁が飛び出したら洒落にならんからね。
オジサンの大声というか悲鳴に、さっきからあいつらはなんなんだという視線やら咳払いを周囲から感じたり聞こえたりするが、愛想笑いでなんとか誤魔化しておく。
「お、お嬢さん、一体何がしたいんです……!」
「いやね、まあね」
未だ興奮というか、動揺というかが収まっていないオジサン。こんな年でおっぱい触ったくらいでこれとか、もしかして未婚男性とか童貞さんだったりするのだろうか。まあいいかそこは。
「オジサン、誰かから奪いたいって言ってたからさ」
「へ? い、言いましたが、それとこれとが一体どういう――」
「私処女なのよ」
「……」
絶句された。
なんか、もうオジサンの私を見る目が、理解不能の宇宙人を見る目に成っている。さっきの空虚な目よりは、よっぽど感情が灯っていてマシな目で良き哉良き哉。
「んで、おっぱいを男の人に触られるなんて初めてだからー。ほら、私のおっぱい初接触奪えたよオジサン! 良かったね!」
宇宙人を見る様な目から、外国人を見る様な目へと、不審レベルが下がった模様。
「まあ、おじさんがね、色々抱えてるのは分かったし、それでもああやって怯えて行動できないで、他人から奪われているって気が付いても、同じように奪い返す事が出来ない。あまつさえ、諦めて私みたいな人間にペラペラ色々喋って安らぎを得ようとしちゃう、【臆病者】であるっていう事が露見しちゃっててもね」
「うぐっ、痛い所を突きますね……」
「ん。ま、それでも、いいんじゃあないかな。臆病でさ。他人の人生滅茶苦茶にしてでも、自分を貫くことが出来ない臆病さ。私は、嫌いじゃないし、それはそれで恰好が良いと思うよ?」
にんまり笑顔で、私は言ってあげる。
そう、言って【あげる】のだ。これは、多分善意で。
逃げてしまったオジサンに、私の善意を譲る行為。だから、私はオジサンに譲渡し、オジサンは私から奪う。
でもそれは、譲渡やら簒奪という言葉を抜いて考えれば、きっともうちょっと素敵な言葉になる筈なのだ。それが都合のいい、おためごかしだとしても。
「……ふ、は、ははは。五十二年生きてきて、漸く他人から奪い手に入れた事柄が、自分の半分程度の年齢の女の子の胸に触れる事、ですか……」
「女の子とは酷いね、これでも立派なレディですよ?」
「ふふっ、そうですか。ふ、あはは、なんともはや」
彼は楽しそうに、なんだかもう笑うしかないといったように、静かに笑う。
「お嬢さん。有難う」
もう一回にこりと、優しい笑顔で。オジサンは笑った。
そして、彼は立ち上がる。今度こそ、しっかりと立ち上がる。
「行くの?」
「ええ、なんだか、なんとなくだけど、もう少し、やってみたいと思います。何かに期待したいと思う」
「そっか。うん、いいと思うよ。また立ち止まって悩んじゃうと気が来たら、その時こそ強盗でもなんでも、しちゃえばいいよ」
「ははっ、その通りです。全く、その通りなんだろうな」
そう言い残して、オジサンは歩き出す。振り返らずに、出口に向かって。
彼は、きっと。これからも奪われる側で、簒奪される側で、譲り続けて、譲渡する。それは臆病な生き方なんだろうけど、きっと、恰好が良いと言い訳ができる人生の筈だから。
「ふぃーっと」
私は一息つく。
オジサンの小さい背中を見送って、私は自分の仕事をするために頭を切り替える。
他者から奪う事、他者から簒奪する事、他者から強盗する事。
それは世の中では形を変えて横行する事で、自らが奪われているのに奪い返せない事は、臆病であると言える。かもしれない。
だけれども、それは愚かだけど、善性だ。他人から何かを奪う事は、もうその時点で悪性なのだから。
だから、善性オジサンに対して私はエールを送りたい。幸あれオジサン。ガンバレオジサン。還暦過ぎても長生きしろよ!
『受付番号09番で御待ちのお客様、大変お待たせいたしました。2番窓口へお越しください』
そんな事を思っていたら、受付アナウンスで私の番号が呼ばれた。
「さて、と」
私は持ってきていた大きめのナップザックを手に取って少しばかり中身を確認する。よし、仕事に必要なものはちゃんと持ってきてる。
そして、目的の為に受付に向かった。
「大変お待たせ、い、致しました」
少しばかりひきつった受付のオバさんの笑顔。まあ、さっきからやいのやいの騒いでたのを見られてたのだから、若干の不審さというか、不満というかはあるだろう。
だが、仕事には関係がない。
というより、問題がない。
「本日はどのようなご用件でしょうか?」
「あー、はいはい。そですねー、用件はですねー」
私は笑顔を浮かべながら、ナップザックから仕事道具を取り出し、受付のオバサンの額に向ける。
私は仕事が趣味だ。
趣味が仕事だと言ってもいい。
そして、私の趣味は『強奪』する事だ。
何でもいい、なんでも。誰かから奪うというその行為に対して価値を感じる。
だから、オジサンから奪ってやった。彼が自分自身の人生を台無しにするという、その行為。全てを破壊する行動、刹那的な快感を、私は話を聞くことで奪ってやった。
だが、それは本当に、純然とした趣味の範疇だ。趣味だけで人は生きていくことが出来ない。だから、今度は仕事をしよう。
私の人生は労働に追われる人生だ、そして、いつもその対価として、【見えない何かに追われながら生きている】のだ。
具体的に言えば、私の労働とは強奪であり、見えない何かはそれを取り締まるもの。
私の人生は奪い続ける事で、見えない、しかし確実に存在する者たちに奪われ続けるという事。
だから、オジサン。あんたは、誰も奪わなくて正解だった。
あんたには、きっと耐えられない。だから、アンタは私に会えたことを、幸運と思ってくれ。私に奪われた事を、奪われ続けだったと嘆くその人生を、飲み下して生きて行ってくれ。
私は、簒奪者としてこの道を行く。お前らの立つ場所を奪い取り、違う何かに変えてみせる。
いや、もう、まどろっこしいだろう。
言葉をこねくり回すのは矢張り苦手だ、だから、簡潔に言おう。
私は。
私という人間は――。
「あ、ひぃ、あっ」
受付のオバサンのひきつった笑顔が、引きつりきった恐怖の顔になる。
一般人なら誰だって、銃を額に当てられれば、その道の恐怖にそんな顔になるだろう。
そして、私は恐怖を言葉で上書きする。此処にいる人間達の今日という一日を、日常というかけがいの無い物を奪って、度合い不明の恐怖を譲渡するために。
「どうも、オバサン。何処にでもいる、よくよくありありな、銀行強盗です」