鳥鳥鳥
飛行機がみんな鳥のように見えた。行儀よく並んで羽根を休めている。飼いならされて、従順で、規則じみているのにそれはやはり鳥だった。鳥にしか見えなかった。
空港のロビーでわたしたちはビールを飲んでいた。これから日本に帰る。後藤は買い付けたもののリストを嬉しそうに眺めていた。そこには文字しかないけれど、彼には現物がありありと目に浮かぶのだろう。嬉しそうに顔を歪ませ、定期的に紙コップのビールを傾けている。わたしの心に湧き出る感情は、けして陽性のものではない。
旅はそれなりに面白かった。まず、日の沈む時間が驚くほど遅いことが気に入った。春先なのに七時を過ぎてもまだ明るく、九時を過ぎてもまだ明るい、日本との明らかな相違に正直なところ浮き足立つ気持ちもあった。どうしてそんなにまで舞い上がったのだろう?日常と違うことが単純に楽しいから、というのが案外一番近いのかもしれない。未だに台風が近づく夜は胸が躍るし、流星群が見られると聞けばベランダに出て飽きることなく夜空を眺め続けている。体が言うことを利かなくなってしまう。
非日常を目一杯楽しむ、そういう意味では非常に有意義な時間だった。目に触れるもの全てが普段のものと違った。似ているように見えても、じっくりと観察してみればそれは確実に重大な違いをひそめている。同じだとみなしてしまうことは簡単だ。さまざまな家電製品は日本と似たような作りだし、食品も、報道も、サーヴィスも、共通点を見出そうとするまでもなく似通っている。
でも、当然違いもある。初めは見出しづらい些細な点であっても、その違いを取り出してじっくりと照らしてみると、それは根源的なもののように思えてくる。
違いが楽しい。その感覚をわたしは本当にたくさん詰め込むことができた。空想でなく実感として。その意味で、後藤と一緒にこの国へ旅に来て本当に良かったと思っている。
そう、良かったと思っている。基本的にはそうだ。それは間違いない。
けれども何か、違和感を覚える。
何かが薄く体をまとわりつく。
それはあまりにも薄すぎて、きっと無視できるものなのだろう。それが触れる感覚はあまりにも覚束なくて、気のせいなのかどうかさえわからなくなる。本当に存在するのか、覚束なくなる。
あるようで、ない。でも、ある。
鳥に見える飛行機が一機ずつ飛び立っていく。そのひとつにわたしたちも乗って、そして日本へと帰るのだ。
でもイメージできない。
知っている場所へ戻るということが、どうしてもイメージできない。ここにとどまりたいというわけじゃない。むしろ、ここではない場所へ行きたいと思っている。でもそれは、知っている場所じゃない。見たことのある場所じゃない。知らないところ、どこか、そんな場所があると想像さえしていない場所へ、行きたい。消え去りたい。
いなくなりたい。
選挙ポスターを思い出す。サルコジは対立候補に負けた。街角に貼られた二枚のポスターは、サルコジの方だけ大きくバツをかかれていた。その少し前まで、EUのリーダーのような顔をしていた自信家のサルコジの顔を、思い出す。そこにバツ印を重ねてみる。
バツ?
後藤はバツをつけた。買い付けのため訪問したアンティーク家具の取り扱い業者。人懐こい態度であれこれ家具を紹介してくれた。熱心にその商品の来歴を語ってくれた。しかし、後藤の琴線には触れなかった。後藤はリストにバツをつけた。この業者はダメだ。去り際に笑顔で握手をする。また連絡をするよ。しかし後藤が永遠に連絡しないことはわたしにはわかる。一度捨てたものを、後藤が拾うことは二度とない。
二度とない。
イメージできない。
後藤はそう言った。
日本に輸入して、俺たちの店に並ぶ。店に来た人がこれを気に入る。そういう光景がイメージできないと、取り扱うことはできない。得意げに、経験者ぶってそう説明する後藤。しかしわたしには、自分自身が日本へ戻るイメージさえもてない。日本で、後藤と、この旅で買い付けた商品を売って暮らす生活というものがうまくイメージできない。
じゃあ、取り扱うことはできない。
そうつぶやく後藤の姿は何故かはっきりとイメージすることができるのだ。わたしのもとを離れていく、後藤の姿をイメージすることはできるのだ。
日本に戻りたくない。
現実へ戻りたくない。
鳥たちは次々と空港を離れていく。現実を乗せて、飛んでいく。彼らは何かを探しているわけじゃない。定められた場所へ、直線的に、何を省みることもなく、最短時間で運んでいく。
現実へ。
現実世界へ。
ぐちゃぐちゃの敗北が約束された場所へ。
わたしは涙を流す。涙を流しながらビールを飲む。美味しい。この世界ではビールさえ美味しい。現実世界とは違って。何もかもが美しく存在する。何もかもが理想的に存在する。何もかもが正しく存在する。
何を泣いているの、と後藤が心配する。なんでもない、とわたしは答える。ビールが美味しすぎて、泣けてくるんだよ。
後藤は笑う。輸入しよう、といたずらっぽく提案する。こんなに美味しいビールがたくさんあるんだ、輸入して、ひと儲けしようじゃないか。あはは!
輸入?
しかしそれでは正しさは保存されないのだ。その言葉を、わたしは飲み込む。現実世界に持ち込まれた瞬間、それは美しさを失い理想を失くす。輝きを失い、色味を失くす。しかし後藤にはそれはわからない。彼がバツをつけなかったもの、それは美しいまま運び込まれる、何を損なうこともなく現実世界へと持ち込まれると信じているのだ。
ぐちゃぐちゃの敗北にも気づかないまま。
鳥がまた一羽、地面を離れていく。吸い込まれるように直線的に、空へと引き寄せられていく。
そろそろ行くよ、と後藤が言う。どこへ、とわたしは反射的に思う。わたしたちはどこへ行くというのだ?
飛行機がみんな鳥のように見えた。行儀よく並んで羽根を休めている。飼いならされて、従順で、規則じみているのにそれはやはり鳥だった。鳥にしか見えなかった。