第一章:太陽系第三惑星の事情
ここは宇宙。空の遥か上、夜道よりも暗い空間である。
ここは宇宙。黒い牛がいたら溶け込んでしまいそうな深い闇の中、星の光がひどく儚げだ。しかし、思ったほど真っ暗でもない。それは何故か。
ここは宇宙。思ったほど真っ暗ではないのは、視界にうっすらと、青い色彩が滑り込んできたからだ。青色は徐々にスクロールし、やがてその全貌が露わになった。
見る者に自然と安らぎを与える、青と白と緑の星。
地球を見つめる何者かが、ピアノのような、電子音のような、不思議な音を発した。それを日本語に直すと、
「……なかなか、綺麗な星じゃないか」
という意味になる。
「だが、まだ若い、な。……さて、回収回収。あいつも家が恋しくなってるだろう」
幾分苦笑混じりの声である。それには、何処か優しさがにじみ出ていた。
「あれ? でもあいつ、出発前に奥さんとケンカしてたんじゃなかったっけ? ……忘れたな。まあどうでもいいか」
ゆっくりと地球が大きくなっていく。星々が、見守るように瞬いていた。
「えーっと、じゃあうちの出店はお化け屋敷って事で……」
「えーっ、マジ? アタリ? うわー振り込んじまったー!」
「あたしはさー、アンタも悪いと思うよ? 男ってそんなもんじゃん」
「ありえねー! お前、イカサマしてんだろコラァ!」
県立有水高校二年四組は、いつもこのような有様だった。活気が別の方向へとばかり向かい、てんでまとまる気配がない。
そんな中、一段高い教壇に、文化祭実行委員の生徒が二人いた。
一人は黒板を背にして立つ女生徒。半袖のワイシャツから伸びる手が胸の前で組まれ、そこからさらに伸びる右手が額を押さえている。気の強そうな眉をしかめ、困ったような、呆れたような顔をしていた。その顔を前に、嬌声や紙飛行機が飛び交う。
その傍ら、教壇に腰掛ける男子が、もう一人の実行委員である。彼はぼーっとした顔のまま、頬杖をついていた。右手に持ったチョークを持て余して、騒がしい教室を眺めている。
「はーっ。どーする、ヤキトリ?」
女生徒が、傍らの男子に声をかける。当の男子は、恨めしそうな上目遣いで彼女を見上げた。俺に聞くなよ、と、眼が訴えていた。そんな視線を、女生徒は三白眼をもって跳ね返す。ヤキトリ、と呼ばれた男子は、ややたじろぎながらも、息を吐いて立ち上がった。
「あー、じゃあ、美樹もキレそうだから解散。次は決定するから」
ヤキトリが言うやいなや、他の者はここぞとばかりに、素早く教室を脱出していった。
「あー……、はえぇなぁ」
下校しても何もなさそうな女子連中だけが、残って嬌声をあげていた。女は年に関係なく、おしゃべりが好きなんだなと、ヤキトリは妙な感慨を覚えた。
「ちょっと、ヤキトリ! なんて事ゆーのよ、みんな帰っちゃったじゃないのよ!」
黒板の前で仁王立ちした女生徒が、ヤキトリを怒鳴りつけた。
「い、いや、まさかこんなに早く散開するとは思わんかった」
そんな彼に、廊下の男子数人から声がかけられる。
「おーい、ヤキトリ―。帰ろっぜー」
「耶鳥だよ、や・と・り! 無意味に長くすんなよ、人の名前をさー」
ぼやきつつ、鞄を手に取り、教室のドアへと向かう。が、はたと立ち止まった。
廊下にいる友人達が、揃って顔面蒼白になっている。歯の根が合わず、カタカタと音を立てていた。放っておけば失禁しかねない有様だ。
それを真正面で見たヤキトリ自身、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
「……わり。お前ら、先帰ってていーよ……」
ヤキトリの背後には、不動明王の如く憤怒の相を浮かべた女性徒が立っていた。
彼の名は高崎耶鳥。通称ヤキトリである。
女生徒の名は美樹ほのか。
なんの因果か、文化祭実行委員に任命された二人の苦難は、こうして始まった。
放課後、誰もいない教室で、ヤキトリと美樹は机を並べて話し合っていた。
「……やっぱ、お化け屋敷はなし。もうちょっとひねらないと。いいアイデアならみんな納得すんでしょ。別にすげぇやりたい事があるワケじゃなさそーだもん、誰もさ」
けっ、と口汚く舌打ちをする。
「美樹、お前実行委員なんだぞ? 当日になっちゃえば、クラスそっちのけで雑用こなさなきゃなんない俺らが、なんで気合いいれて考えなきゃいけないんだよ!」
「あんたが帰しちゃったんじゃん。代案考えとかないとあとで面倒でしょ」
「つーか、まだ六月だぞ。文化祭って夏休み明けだろ。ちょっと気ィ早いんじゃねーか?」
「夏休み中に準備できるようにするんでしょーが。今サボって、後でアワくってるアンタが眼に見えるわ。アンタのよーに想像力のない連中が、戦争を起こすのよ」
ヤキトリはアワアワワとわななく。あまりといえばあまりな物言いだ。
教室には、部活にいった連中の着替えや荷物があるほか、人影はない。時計は午後五時を差していた。
「……~~お前さぁ、なんだよアロマテラピーって?」
「だーかーらー、アロマキャンドルを置いて、かぐわしい香りを楽しんでもらおう、って店よ」
「なんかふわっふわしてんだよなー。こう……何かが足りない」
「何かって何よ! ハラたつ! つうかあんたこそ考えなさいよ! 何かいいアイデアを。焼き鳥の方がまだ食えるだけマシじゃない。ほら、カモンナイスアイデーア」
「お前の進路が危うく見えるよ。つーかだからさっきから言ってんだろ、映画の上映会」
「そんなの、やる気のないクラスの専売特許でしょーが!」
「アロマテラピーだって似たようなもんじゃねぇか!」
不毛な議論は、三十分後に幕を閉じた。
夕陽が照らすアスファルトの道を、二人は並んで歩いていた。ヤキトリとほのかは、中学までお互い顔も知らなかったが、意外と家が近所だと最近知ったのだった。小学校、中学校と、ちょうど学区の境で、同じ学校にいくことはなかったのである。
それが高校に入り、なんの因果か、二人して文化祭実行委員に任命されることになったのだった。その帰結として、とぼとぼと家路を共にする羽目になっている。
「あー、お腹すいた。ヤキトリ、ヤキトリ言ってたから、食べたくなってきちゃったじゃん」
「はっ、オヤジくさ。つうか美樹らしいわな。晩酌でも楽しめよ」
「そーねー。あんた、なんか下戸っぽいよね。違う?」
「あっ? な、んな事ねぇよ。なんでだよ? 意味わかんないだわよ……」
「……動揺しすぎておネエ言葉になってるよヤキトリ」
どこか憐憫の眼差しを、ほのかはヤキトリへ送った。
「う、うっせぇな美樹はよ、……っと」
ヤキトリが仏頂面になる。少し前を歩いていたほのかが、不思議そうに振り返った。
「ん? 何さ?」
言いにくそうに、ヤキトリは頭を掻く。
「……お前、名字も名前みてーだから呼びづらいんだよ」
「ほーう、あれか? なんか彼女っぽいってか? 付き合ってるみたいで恥ずかしいってか?」
「死っね。呼びづらいっつってるだけだ!」
「うむ。なら『ほのか様』と呼んでもよくってよ」
「……ほのか様アホじゃねえの? ああ、ほのか様よ、やっぱり映画上映会より、ほのか様のアロマテラピーとやらの方がラクそうじゃねえかほのか様?」
「うっわはぁ、ムカつく! どこからつっこめばいいわけ? そもそもアロマテラピーは、現代人なら誰もが持つ、心の隙を狙ったリラクゼーションスペースよ」
「隙をねらってどーすんだほのか様? 意味わかってんのかほのか様?」
住宅街の向こうに、夕陽が沈んでいく。左手に見える公園を抜けると、家までの近道となる。二人はいつものように、その公園を突っ切って行こうと入っていった。この時間、親子連れはもう帰宅しているし、カップルがイチャつくには少し明るい。
そんな公園に、ニット帽をかぶった人物が、一人のっそりと歩いていた。
ヤキトリとほのかは気にも留めない。人影とは二十メートルほどの距離があり、二人ともその人影は、完全に認識の範囲外だった。
ニット帽をかぶった男が不意に立ち止まり、そっと手をかざす。
茜色に染まった手を、左右に振った。
(あれ?)
ほのかは、足下に落ちる影を急に見失った。さっきまで西日が影を作り出していたのに、である。思わずヤキトリを見ると、彼も怪訝な表情を返してきた。
夕陽よりも、より赤い光が二人を包み込んだ様である。しかし夕陽のそれと区別がつかず、二人は輪郭すらぼやけそうな、強い光を全身に浴びていた。妙な浮遊感を感じながら、眩しすぎる光を瞼が遮った。
暗い視界の底で、ヤキトリは音を聞いた。
うなり声に似ていて、電子音の様でもある。不思議なリズムと間隔をおいて、それはひっきりなしに聞こえてきた。まるでピアノのようだ。
薄く瞼を開ける。ヤキトリは柔らかな、ほの白い光を感じた。足に伝わる感触から、自分が片膝をついている事がわかる。徐々に眼を開いていくと、白い床が眼に入ってきた。
左手に何かがさわっている感触がある。何かと思って見ると、ほのかだった。袖と左腕を、ほのかががしっとつかんでいる。何故か、少し安心した。
(しかし……ってか、うぐぐっ、おぉぉ、い、いてぇ……)
落ち着いてくると、その感触がだんだんと痛覚に直結してきた。
ほのかはヤキトリの腕を、悪意さえ見え隠れする力で握っていた。腕本来の太さより、ふた回りぐらいしぼられているのではないだろうか。ほのか本人は、眠っているのか、眼を閉じているだけなのか分からない。ただ、眉間に難しげなしわが寄っていた。
「ま、まぁいっか」
ヤキトリは諦めて、自分の周りを見わたした。どこもかしこも白い。清潔な病院のようで、壁自体が光を放っているような明るさだ。視線を一巡りすると、正面に向けた。
すると、さっきと同質の、不思議な音が聞こえた。
「う……うおぉぉぉぁぁぁ?!」
ヤキトリは思わず、ほのかの手を握り返していた。
そこには、今まで見たことのない生き物がいた。それは、二体いて、それは、人型で、それは全体の色が赤く、それは猫のようなまん丸の眼を持っていた。まさに、「カワイイ」と「ブサイク」の中間ぎりぎりにデザインされた、Eテレ番組のキャラクターのようなものがいた。