オオカミとの契約
死にたい。
雲になりたい。人間以外の、思考しない植物にでもなりたい。
そう言ったら担当教諭は“何を現実逃避しているんだ”と言った。
そうか、人以外でありたいと望む事は現実逃避だったのかと思った。本心だったのに。人間以外で、脳みそのない存在になりたいと思ったのは、心からの言葉だったのに。
そりゃそうだ、人は人以外になれない。不可能な事を望むのは無意味なだけ。
だけど、そういう話じゃなかった。
何の才能もなく、幻獣との契約も出来ない僕に、いったい何の希望があるっていうんだ? 幻獣とパートナー契約が結べない事ほど、人にふさわしくない事件があるだろうか? だったらもう、人以外になりたいと望んだって、いいじゃないか。死ぬのは怖くって無理だから、せめてこの思考する脳を持たぬ存在になりたい。
「出来損ないが」
世界はすべて雪に閉ざされ、城壁で囲った狭い王国の中、人は一人一体の幻獣との契約を結ぶ事で暮らしてきた。そうするのがずっと昔から当たり前だったんだ。
幻獣契約を結ぶのは十三歳の成人の儀の頃、しかし幼い子供でも人は誰でも幻獣と契約を出来る。そう、誰でも。そのはずだった。僕を除いて。
自分には当たり前に出来る事が出来ない存在を、人は見下す。僕はそんな侮蔑の眼差しには慣れたはずだった。孤児だから、家族もなく、一人で暮らすのにも慣れたはずだった。誰かが笑うのを見て、素敵だと思うものに出会って、自分にも出来るのではと感じて、それでも手を伸ばすのをやめる事は出来るはずだった。
全部みんな、諦めて見ない振りして、振り払って。
それなのにどうして、悲しくなってしまうのだろう。自分との違いを見せつけられて、自分にはないものを見せられて、届かないのにどうして――ほしいと願ってしまうのか。
「こいつ、幻獣だけじゃなくて動物にだって嫌われてるんだぜ」
「動物なんかに!」
幻獣は動物とは違い、遥かに高位な存在だ。それゆえに幻獣と契約を結べるのはとても有り難い事だ、だが誰にでも可能なために人々は奢っているように思える。その例が、幻獣より下位とされる動物に対する扱いの酷さ。もっとも、僕はそんな動物にすら好かれていないらしいが。
学園という名の社会の縮図である箱庭は、弱肉強食の世界だ。誰もが当たり前に手にしている栄光を持たない僕は、当然生徒たちの攻撃の的となる。
でも彼らは僕をしつこくいたぶったりはしない。何かと罵倒はすれど、幻獣にも動物にすら見向きもされない存在など、長く付き合う価値もないと見なされているらしい。
今年、僕は十五歳になる。
幼い頃から鈍くさいと、役立たずの間抜けと呼ばれてきた僕が成人の儀において決定的な欠落者だという烙印を押されてから――二年。自分より年下の子供たちが幻獣契約をする姿を見て、何度自分の感情を押し殺した事か。
十六になれば、学園を卒業する年になる。
誰もが幻獣を連れて学園を卒業するのが当たり前の世界だ。僕はこのままだと幻獣と共に卒業出来そうにもない。
無駄だと教師陣も僕自身も感じながらも、再三の幻獣契約を試みるのだが――この日も駄目だった。
才能がないのだろうか。誰もが皆持つものを持たないのは、一体何故か。本当はこの世界の人々が恵まれすぎているのではないか。この、雪深い王国を出さえすればどこかに、幻獣を知りもしない人々に出会えるのではないか。そんな考えても意味のない事まで考えてしまう僕は、努力もしない愚か者なのだろう。
教師陣の諦めの瞳を集めながら、今日も僕は契約の間を一人で出て行った。一人で。
出来る事があるならやるべきだ。僕は皆が自然とやっている事が出来ない。せめて何か文献で僕に似たケースが見つからないかと図書館で本を借りたはいいものの、数ページを開いたところで止まってしまっている。
どうせ駄目だ。どうせ、無理なんだ。
あの、何度繰り返したかも分からない、幻獣への契約を呼びかけた後の教師たちのあからさまな苛立ちの色。同級生、年下の子供の、僕の顔を見た時のハズレくじを引かされたような顔。一人に慣れきったはずなのに、ふとした瞬間に幻獣と楽しげに笑う人を見ると出来なくなる――呼吸。
そんなものはもう見たくない。感じたくないんだ。
がんばったところで、どうせ。望みが叶う事はない。だったら最初から、望みさえしなければ。あの、僕のせいで酷い時間の無駄使いをしてしまったと苦虫を噛む彼らの姿を見なくてすむ。望んでしまうから――
明日は、進級前の僕のための最後の幻獣契約の日だ。また、徒労に終わるはずの、日。
最近、何がなくとも手がふるえるようになってきた。
また幻獣と契約出来ない事実を受け入れるのがこわい。
何も出来ない事がこわい。
諦めたはずなのに、手を伸ばしてしまっている希望に拒絶されるのがこわい――。
ああやっぱり、死んでしまいたい。
何も出来ないくせに望みだけは持ってしまう、この脳みそを捨ててしまいたいと思うんだ。
翌日は朝から雪が降っていた。降雪なんて珍しくもないが、僕の気持ちは晴れでも雪でも明るくなるはずがなかった。
最近よく死ぬ事を考える。将来の事を考えると、胃の中身が逆流しそうだ。
幻獣を持たないまま卒業出来るのだろうか? 卒業出来たところで、誰もが持つものを持たない僕が、社会でやっていけるのだろうか? 努力次第では手に入ったかもしれないものを、何もせずにいた僕に何が出来るのか?
豊かな暮らしが約束される気はしない。まだ十年と少ししか生きていないのにもう、こんなにも息苦しい。なのにまだ、寿命の尽きる五十年近くの長い年月を、たった一人で生きていかなくちゃならないなんて。
生きてちゃいけない気がするんだ。僕には何もない。帰りを待つ人も、軽口をたたきあう友人も、契約を結んでくれる幻獣も、いない。
心が、黒い渦に呑み込まれる。
気がつくと僕は、城壁の外にいた。
自分の手が自分のものではないかのようにふるえていた。四肢だってそうだ、僕を勝手に王国の外に運び出した。
違う。これこそ、現実逃避、だ。僕は契約の儀式がこわくて逃げ出した。ただそれだけなんだ。
膝のあたりまで積もった雪が歩く邪魔になったはずが、僕は随分と壁の内側から離れていた。
当たり前だが、人の姿は僕以外他にない。
一人になれた。そう思うと、乾いた笑いが生まれた。
息が苦しくなるくらいに笑い声を上げていた。
「ああああぁぁっ!」
それはいつしか咆哮に変わり、僕は雪の上に膝をついた。
僕はもう駄目かもしれない。これまでずっと、訳も分からない何かにすがるように、いつかの日を求めて生きてきた。でももう、限界かもしれない。
僕には何もない。なんにも、ないんだ。
認めてしまえば楽になるかと思ったのに、息は苦しくなるばかりで、空気の足りない肺が痛むので僕は手で胸をおさえた。
このまま、雪の中で眠ってしまいたい。
寒い、冷たいという感覚はあるのに、今はどうだってよい事だった。
何かの気配がした。
意味もなく、僕は顔を上げた。誰か人だったら嫌だったからだ。
でもそこにいたのは、人ではなく動物――銀色犬と呼ばれる獣だった。僕のうずくまる場所からはだいぶ距離があるが、あっちは僕を少し窺うように見ている気がした。
犬に似ているが少し違う。猫のような瞳ははっとする程真摯に見えた。
あっちは僕を警戒する程の存在じゃないと見なしたのか、ただの通りすがりだったのか、雪をわずかに蹴散らして、ぱっと駆け去ろうとした。
「あっ、待って」
思わず言ったのは、その銀色犬の立派な毛並みが血の色で濡れていたからだ。怪我をしている。
幻獣と違ってただの動物と意思の疎通が出来るはずがない――分かっていたのに、僕はあの銀色犬を追っていた。
怪我をしている、という事は人間にやられたのか、あるいは他の動物か。時々王国の人は城壁の外に出て獣を狩るために罠をしかける。鋭い槍や矢で彼らを傷つける事もある。何故だか急に、その事がとても酷い事のように思えて、僕は何故か銀色犬を助けてやりたくなった。
僕の呼びかけがあの獣に届くはずもなく、獣は速い足であっという間に駆けていけるはずだった。
それなのに相手は――誇り高き戦士のような瞳で僕を振り返った。
この時の気持ちを何と言おう?
ひどく心もとないような、胸の奥底にまで何かを差し込まれたような。不安と希求が入り混じり、知りたいと思うのに怯えてもいた。
ただ一つ言える事は、僕はあの獣に近づくのをやめないだろう、という事だった。
銀色犬は少し前に進んだけど、傷ついた足が痛むのか歩みをゆるめていた。
気がつくと僕は銀色犬との距離をひどく短いものにしていた。
この獣が、人には慣れない、というのは知っている。そろりそろりと近づいても、相手は逃げようとはしない。不思議だ。だけど今、大事なのはそんな事じゃない。血の具合から、傷は小さくないと分かっている。だけど血がしたたるほどじゃないみたいだ。僕は人間相手の傷の手当てだってした事ない。でもきっと、血の流出を防いだ方がいいのは人も獣も同じはず。
上着を脱いで、銀色犬の傷に近づいた。怪我は右の後ろ足の付け根のあたりにある。腹に上着を巻いてみるが、意味があるのかどうか。かすった毛は、赤い血で濡れぬるりとした。
止血になっているかも分からない行為をして、後は一体どうしよう? 医者を連れてくるべきか? 人間相手の医者しか王国にはいないが、何もないよりましかもしれない。この銀色犬は、まさか死んでしまったりはしないだろうな?
手のふるえは止まらない。訳もなく、この獣の命が失われるのはおそろしいと思った。どうかいなくなったりしないでくれ。僕はいつの間にか銀色犬を抱きしめていた。
これだけの距離にいても逃げもしない。不思議だ。僕は幻獣どころか動物にも好かれていないはずなのに。
ぺろりと頬を舐められて、はじめて自分が涙している事を知った。
一体何に対する涙だ?
自慢じゃないが僕は物心ついた頃から泣いた記憶がない。そうしてしまうと、全ておしまいな気がしたからだ。銀色犬の舌はざらざらして、痛いくらいだった。
それなのになんで――こんなにも切なく、悲しいぐらいに、虚しいとさえ思えるのに、心がふっと軽くなるのだろうか。
改めて相手の顔を見た。本当に――とても美しく誇り高い眼差しをしていた。まるで僕の全てを、弱さも、醜さも、何も持たない事さえも知っていて、それでも僕を見つめようとしてくれているみたいに思えた。
ああ僕は、このぬくもりをなくしたくない。
この怪我が治っても、そばにいてほしいと思うくらいに。
獣はきつく抱きしめられても、抵抗をしなかった。
幻獣でもない、ただの動物なのに。
僕の事をみんな分かっているかのように、じっとしていた。
幻獣でも何でもないただの獣を連れ帰った僕を見て、皆は何と言うだろうか。また愚かな真似をと嘲るだろうか。僕の未来が明るかった事なんてない。
けれど、僕はもう諦めちゃいけないんだと思った。
この、僕だけのパートナーが傍らにいてくれる限りは。
歩き続けなきゃいけない。
たとえどれだけ手がふるえようとも。
歩みを止めてはいけないんだ。
固く閉ざされた城壁へと向かう少年の隣には、灰色の毛並みのオオカミが一匹
雪は止んで、彼らを日差しが包み込んでいた――
ある意味ではとある曲へのオマージュのような気もしますがそうでもない気も。
深夜テンションでアップしたので後で消したくなる気もしますがそうでもry