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神童[Shen tong]

藤澤会幹部銃乱射事件

作者: 藤夜 要

 GINが初めてサレンダーの名を知ったのは、今から六年前、配属から一年にも満たないころだった。師走の声が聞かれる季節の、とある昼下がり。GINは紀由をまじえた数人との雑談の中で、かつて“高木の右腕”と呼ばれた敏腕刑事、小磯が信州へ出向させられたまま定年退職を迎えるという話の流れから耳にした。

「直接会ったことはないけど、警視庁時代は高木さんの評価が高かった人だろう?」

 GINは誰にともなく、噂でしか聞いたのことのない小磯について、確認を兼ねて尋ねてみた。

『十六年前に異動したまま信州から帰ることなく定年、っていうのが口惜しいな。高木さんも、なぜそこまで小磯さんを冷遇したんだか』

 一課の先輩刑事に当たる花村が、苦虫を潰したような顔でそうごちた。

『上の意向、って噂がありますよ。総監はその辺を臭わすような話を本間さんとはしないんですか?』

 話を振られた紀由が、露骨な不快感を表した。

『知らん』

『案外、“上”ってサレンダーだったりして』

 彼のそのひと言が、紀由の限界を迎えさせた。

『花村、迂闊にその名を口にするな。都市伝説級の与太話でも、初耳の者が無駄な好奇心を煽らされる場合もある。業務に支障が出かねない発言は慎め』

 紀由は花村への警告を介して暗にGINへ釘を刺すと、カップに残った最後のコーヒーを飲み下した。

『休憩は終了だ。職務に戻れ』

 彼は低い声でそう言い捨てて、なぜかGINの腕を取った。

『あ?』

 腕を取られ、引きずられるようにして喫煙室から退室させられた。ひとつの疑問がGINに湧いた。

『な。サレンダーって』

 と、紀由に問い掛けようと口にし掛けたが。

『都市伝説だ。いちいち気にするな』

 ぴしゃりとそう言い放ったかと思うと、GINの腕を掴んでいた紀由の手が、より強く腕を握って遠回しに質問を拒んだ。

『何怒ってんだよ』

『お前がいつまでもだらだらしているせいだ。さっさと京極町通り魔事件の裏を取りに行け』

『別件でむかっ腹立ててるように見えるんだけど』

 一瞬だけ足を止める。彼はGINに向き直り、乱暴にその腕を振り捨てた。

『俺がお前に八つ当たりをしているとでも言いたいのか。見くびるな』

 紀由はそう吐き捨てると、自分たちのフロアに向かう歩を足早に進めた。

『なあ、京極って、また俺独り? 最近、零も単独で別件に当たってるみたいだけど、なんの事件(ヤマ)か本間は聞いてるのか?』

 足早に彼に追いつき、肩を並べて問い掛けた。

『知らん』

 喫煙室で見せた以上に増えた眉間の皺が、不機嫌の上乗せを伝えている。紀由がそんな表情を見せることなど滅多にないので、どうにも嫌な予感がして食い下がった。

『お前は一応俺らの上司だろう。それなのに、どうして知らないんだよ』

『俺の上が直に指示を出してる。問い質しても茶を濁される』

『親父さん、総監でしょ。コネを使えよ、コネを』

 GINの言葉が終わると同時に、渾身の拳を脳天に食らった。

『貴様まで警察の汚い部分に染まったような言葉を吐くな』

(……やっぱ、八つ当たりじゃん)

 なんとなく、紀由の苛立つ原因を理解した。彼は自席へと戻り、荒っぽい扱いで椅子を引いてどかりと座ると、視線をこちらへ戻すことなく、書類を不快そうにめくり始めた。

 権力社会には、裏がある。表で正義を謳いながら、裏では黒い物が蠢いている。紀由の勘が何かを感じ取っているのだろうか。彼がこのところしばしば見せる仏頂面の理由は、零の不審な行動や都市伝説と無関係ではなさそうだと感じられた。

『……京極の裏取りに行って来まーす』

 GINのその声へ答える声の中に、紀由の声はなかった。




 事件に大小はない、とは思っているGINだったが、正直なところ、解決可能な事件を担当したい、という本音はあった。現場付近の住人が吐き出す、事件当時の目撃情報とはまるで無関係な井戸端会議めいた話に辟易とした毎日からどれくらい過ぎたのかも忘れた。

『だからね、きっと、ご主人よ。ほら、実際に今ちっとも帰って来てないじゃない?』

『あ~、もちろんおっしゃるとおりで、こちらでもまず調べたんですよ。ご主人の所在はハッキリしていますし、今は一応“妻の殺害遺体を見た精神的ショックから在宅出来ない”ということでご実家で過ごされているとのことです。それはご存知でしょ?』

『やだ、刑事さん、そんなのを鵜呑みにしてるの? 今どき刑事モノのドラマに出て来る刑事だって、そんな見え透いた言い逃れを信じやしないわよ』

『はあ……。ところで、ほかに日ごろと違った点など、思い出したことはありますか? 例えばいつもならゴミ出しに出て来る時間なのに出て来なかった、とか』

『あら、あの奥さんがそんなことするわけないじゃない。ご主人より稼いで来るからってことで、得意げに“主人は私よ”って言っちゃうような人だったのよ。愛人だった男の人ってのも、一度見たことがあるんだけど、これが』

 一向にはかどらない聞き込み捜査のさなかに、携帯電話がGINの内ポケットの中で小さく震えた。GINはここぞとばかりに携帯を手に取った。

『うわ、すみません、呼び出しです。ご協力ありがとうございましたっ』

 着信相手を確認もせず、適当な弁解と簡素な礼を述べてその場を逃げるように立ち去った。救いと思った着信の主も、その発信者名を見た途端、救いの神から逆の意味合いに変わった。

『よう』

 通話と同時につい出る挨拶が、皮肉混じりの低い声になった。

『最近、本間もスルーで、こそこそと何やってんだ――零』

 無表情で何も映さない切れ長の目が更にひそめられて、GINを蔑みの瞳で見据えるイメージが脳裏に浮かんだ。

《公私ともにご無沙汰してます。至急本店に戻り、高木警視正の部屋まで来てください。現時点をもって、京極の担当は花村さんに引き継がれました》

『は?』

 唐突な担当事件の剥奪と意外な呼び出し相手に、GINの口から裏返った声が出た。

『どういうことだよ。まだあたりもつけてないんだぞ』

《あなたには荷が勝ち過ぎると高木さんが判断しました。“アレ”なしで捜査しているのでしょう?》

 零の告げたそのひと言には、あまりにも多くの含みがこめられていた。次々と浮かぶその内訳の推測が、GINの息を一瞬詰まらせた。京極事件の担当を指示したのは紀由だ。それを覆せるのは、その更に上の存在しかいない。彼にそう指示出来る上司は山ほどいるが、GINが不平を零すと推測し、こういった変更は紀由自身がフォローを兼ねて伝えて来るのが彼のスタンスだ。それを今回省いているということは、紀由に有無を言わせない人物がこの理不尽な指令を下したことを意味している。紀由が言葉を呑む上司は、彼の父親を除けばただひとり。

『……高木さんの、指令か』

 その問いに零は答えなかった。

『この間の爆窃団のときに、“アレ”の件を晒した、って、俺に言ってたな。それに関係することか』

 GINは高木徹という人物を、紀由から零れ聞く話でしか知らなかった。だが、あの紀由をそこまで心酔させる男だ。そんな男がよからぬことを企んでいるとは考えたくなかった。そう思う一方で、零が先の事件のときに零した苦言も引っ掛かっている。それがGINの危機感を妙に煽っていた。

《諸々の質問には、高木さんに。とにかく時間がないので、急いで戻ってください》

 零はそれだけ言葉を返すと、GINに返答の間も与えず通話を切った。

『……海藤組が動き出したのかな』

 高木が四半世紀にわたって追い続けている暴力団組織、藤沢会系暴力団海藤組。もし自分の呼び出された理由がそれであれば、GINにとっても出世のチャンスに繋がる任務になる。

『うし、話だけでも聞いてみるか』

 Zに乗り込み、キーをひねりながら、敢えて言葉に置き換えた。

『あの人は海藤組殲滅にしか興味がない人らしいし』

 黄色になった交差点へ無理やりZをねじりこむ。後輪が痛々しい悲鳴を上げて左へリアを振った。

『情報網がハンパないし、まだ藤澤会が表立って動きを見せてないだけで、これから派手な騒ぎがあるから、ってことかも知れないし』

 ステアリングを思い切り強く握る。右足がアクセルをフルに踏み込む。

『捜査本部に入り込めれば、あの人ならきっと下手は打たないだろうし。そしたら、俺や零もワンランク昇進出来る。紀由に近づける。だから……ビビる必要なんか、きっと、ない』

 自分の立てた予測は、まるで見当違いの希望的観測ではないか。《能力》を悪用するために、零もろとも手駒としてよからぬたくらみに加担させられるのではないか。異端である自分の存在を知って、自分を陥れようという策略ではないか。

 浮かんでは消えるそれらの悪い予感を、楽観的な出世案を口にすることで無理やり揉み消した。


 警視庁へ戻ると、GINは自分の部署には顔を出さずに直接上階へ向かった。エレベーターが理事官室の並ぶ上階についた通知音を鳴らすと同時に、扉がゆっくりと開いた。

『下には顔を出していないようですね、賢明な判断です』

 扉の向こうで出迎えたのは、零のそんな皮肉な賛美だった。

『それくらい察しをつけられるっつうの』

 促されるままエレベーターホールから伸びる通路を右折する。

『なあ、零。いつから喪服がユニフォームになったんだ? お前、最近何をやっている?』

 GINのそんな声とふたり分の靴音だけが、冷たい廊下にカツカツと響いていた。

『高木さんの手引きでサレンダーの仲間入りした、とか?』

 無視を続けていた零が、ぴたりと歩む足を一旦とめた。不快に満ちた縦皺を眉根に刻み、腹立たしさを露骨に表した視線をGINに投げつけて来た。

『バカバカしい。そんな都市伝説を真に受けているのですか』

『へえ、やっぱお前も知ってたんだ、その噂。俺は花村さんの与太話から知ったんだけど、お前は?』

 必要最低限しか他者と接触しない零が、雑談から情報を得たとは考えにくかった。この噂が人によって禁忌扱いされているらしいのは、あながち百パーセントの嘘ではないからなのではないか。GINのその推測が、彼女の無言で確定されると踏んでの問いだったが。

『花村さんには、困ったものですね。口にしてはいけない禁忌だと忠告しながら、自分がばら撒いているじゃあありませんか』

 彼女はそう言って、冷笑さえ見せた。それは滅多に彼女が見せない表情なだけに、そのときのGINにはカモフラージュの笑みなのか、本物の呆れた苦笑だったのかの判断がつきかねた。結局、余計に迷わされただけで、その話は中途半端なままに終わった。

『理事官室3 高木徹』

 そう刻まれたプレートの前で、ふたりは改めて姿勢を正した。


 ノックとともにふたりが名乗ると、しばしの沈黙のあとに入室の許可を告げる声が返って来た。意外にも落ち着いたトーンの穏やかな声で、GINの中にあった高木のイメージが、少しだけゆるい人物像へと修正された。

 閉じられたブラインドの向こうに何を見ていたのだろう。後ろ手に手を組み、凛と姿勢を正す高木の背中からは、わずかに憂いが漏れていた。GINが振り返った彼を見て苦心したのは、苦笑いを噛み殺すことだった。

(うぉ、室井捜査官)

 振り返った高木の面は、巷で大ブレイクした刑事物のドラマに登場するキャリア組の警視正によく似た雰囲気を滲ませていた。ひそめた眉間の皺までもがそのドラマの役者を思わせた。

 特に黒でなくてはいけないという規定はないが、彼は喪服と見紛うような黒一色のスーツに、濃紺のネクタイを身につけていた。オールバックで整えられた微量の白髪混じりの頭髪は、彼の潔癖な性分を表していた。寸分の隙もない眼光は、まっすぐGINを見据えている。自分を観察するその視線は、面接のとき以上の緊張をGINに強いた。

『理事官の高木徹だ。急な呼び出しで申し訳ないが、早速本題に入らせてもらう』

 今の一瞬で見定められたのだろうか。訝りながらも、デスクの向かいに用意された椅子へ勧められるまま腰掛けた。同時に零も隣の席へ、そして高木もふたりに面したチェアへ腰掛け、刑事部には内密らしい指令が説明された。


 手渡された数枚の資料は、藤澤会系列の起こした事件の一覧だった。それに目を通すGINと零に、高木の藤澤会――特に海藤組とのこれまでが語られた。

『列記したそれらのほとんどが解決済みの事件として処理されている。だが、例えば十六年前の海藤組・籐仁会間における大麻取引及び殺人事件。海藤組海藤周一郎の息子、海藤辰巳が被疑者として書類送検されている。取引の失敗により籐仁会と海藤組の抗争直前に逃亡した海藤辰巳を、籐仁会構成員、市原雄三が射殺し現在行方不明。実際には未解決のまま時効が成立しているにも関わらず、これらの事実は公にされないまま、被疑者死亡の解決済み事件として処理されている、というのが現実だ。藤澤会はこんな事件を次々と作り出している。法の限界が奴らをのさばらせているというこの現状を、風間、君はどう考える?』

 問い掛けられたことで、GINは初めて紙面から顔を上げて高木を見た。

『……』

 デスクに肘を立てて両手を組み、じっと見抜くようにまっすぐ見据える瞳は、一瞬GINを黙らせた。彼が自分をどこへ導こうとしているのか、今ひとつ掴みかねる複雑な色を帯びた目をしていた。目の端で零の反応を盗み見れば、彼女は既に高木と打ち合わせが済んでいるように感じさせる無言を保っていた。

『自分の手の内を全部見せないのに、こっちだけ計られるってのは、アンフェアじゃないっすか』

 理性は強く否定したが、勘の教えた“きな臭さ”を信じ、GINは敢えて挑発的な態度に出た。面倒くさげに手渡された書類を高木のデスクへ投げ返すと、高木の左眉がひくりと上がった。

『高木さんが俺たち下っ端の間でなんて噂されているか、ご存知ですか。“殺された奥さんの仇を取るために海藤組殲滅に拘る復讐の鬼”だそうですね。そのためなら手段を選ばない“アイスマン”っていう綽名も、ご存知でしたか』

 彼を見据えるGINの視界の片隅に、零が目を見開いてこちらへ顔を向ける様子が映し出された。GINが彼女の手に制されるよりも一瞬早く、高木が軽く右手を翳して零の動きをとめた。

『ああ、知っている。それが私の質問に答えることを拒むのと、なんの関係がある』

『キレイゴトの上っ面な正義っていう大義名分のもと、あなたの復讐劇を手伝う義理なんかこっちにはない。しかも、あなたの誘導するような物言いは、自分の保身を確保した上で俺を主導の立場に仕立てようとしてるという解釈をしたと言ってるんです。面倒な駆け引きはこの辺にして、ストレートに話す方がお互いに無駄な時間を取らずに済むんじゃあありませんか』

 GINは高木にそう告げながら、両腕を組んで背を大きく反らした。それは自分で想像してみても、大きな体躯の猛獣に小動物が必死で威嚇しているようにしか見えなかった。椅子の背もたれに張りついたGINの背中を、真冬にも拘らず汗が伝っていった。

『……くっ』

『!』

 高木が、笑った。それも嫌味や皮肉などでゆがんだ醜いものではなく、心底可笑しいのを必死に抑えるような、眉間に一層皺を寄せて額を抱え、俯いて呑み込もうと足掻く笑い方をした。

『紀由君が……本間が君をことさらに心配する理由が判った気がするよ。自分の置かれた立場を冷静に判断出来ているくせに、あと一歩のところで感情をセーブ出来ない。そう威嚇しなくても、私も君と同意のつもりだ。本間を巻き込む事態は避けたい』

 隣から、「ほぅ」と小さな安堵の吐息が漏れた。高木と零は、まるでふたりしてGINを子供扱いしているかのように見える。膝で握った拳が、口惜しさにきゅっと鳴った。だが、懸念していた項目がひとつ減った。GINはそれで相殺だと自分へ無理やり言い含め、次への問いを高木に提示した。

『すいませんね、あからさまで。それで、俺を呼びつけたのは、どういう指令を出したいからなんですか』

 言葉の始めは不遜そのものなのに、語りながら高木の目を見た途端、語尾の勢いが急速に衰えた。

(なんつう顔するんだよ、おい)

 アイスマンと揶揄される冷血な男、それが高木徹だったはずなのに。温和な顔で、懐かしむように、GINではない誰かを遠い目をして見つめている。そんな風に、見えた。

『少し私的な話も混じるが』

 疲れたような溜息を交えて、彼が話したことは、以下のこと。

 これまで海藤組の犯して来た事件の大半が、女子供も容赦なく殺戮や陵辱のターゲットにされて来ていたこと。他国間での取引もあることから、政府が握り潰してしまった事件も多々あるということ。例えば人身売買や子供の“パーツ”取引など、国際問題になりかねない類は、すべて闇に葬られているとのことだった。

 時間がないというその理由は。

『藤澤会会長の藤澤時一(ときいち)が肝臓癌で入院した。既に八十を超えた老体が、そう長くもつことはないと思われる。リークではなく、おとりで藤澤会に潜らせているこちらの手の者から得た情報なので確かだ。つまり』

『藤澤会の世代交代……海藤組が、動く、ということですか』

 東龍会所属の籐仁会が解体されてからは、藤澤会内で小競り合いがいくつかあった程度で、比較的大人しかった暴力団関係。暴対法の浸透も手伝って、組織対策本部の焦れた空気が庁内に漂っていたのは、GINも就任当時から感じていた。

『可能性は、高い。近年勢力を蓄えて来ている水城組と海藤組の大規模な抗争が予測されるが、平和な時期に勢力を拡大させた水城と先代を殺してのし上がった海藤では、決着がつくのにそう時間を取りはしないだろう』

『となると、海藤が藤澤会を統べる、ということに、なる?』

『そうなれば東龍会が黙ってはいない。また二十年前の抗争が全国のあちこちで繰り広げられる。無関係な一般市民が、その犠牲になる』

 一件の事件解決に向けて警察が奔走している間に、数十件の事件が民間人を巻き込みながら勃発する。

『もとを断たねば、きりがない。だが私に残された時間はあとわずかだ。法に準じて動いて来た結果がこのザマだ。これが真の正義だと思うか?』

 いつの間にか、高木の面から滅多に見ることの出来ない微笑が消えていた。ぎちりと固く組まれた両手の甲に爪が食い込み、彼の皮膚を赤く染めていた。

『私情と言えば私情かも知れない。愚鈍な己を呪うよ、このごろの私は』

 時間がないのだ、と繰り返す。触れずとも漏れ伝わって来る彼の思念に、偽りや作為は感じられなかった。そして同時にGINが覚ったのは、彼の言わんとしていること。

『いくつか、訊いてもいいですか』

『答えられる範疇であれば話を聞こう』

 高木からの答えを受けて、GINはただの確認に近い形で尋ねた。

『本間に知られないようにと留意するのは、あなたが背信もしくは触法行為を辞さない覚悟で何かをしようとしているから、だと思ってます。あいつはあなたを目指している。あなたもそれを知っている。あいつからこの指令を隠すことに拘るのは、あなたの自尊心のためですか。それともあいつのため、ですか』

『……彼は、本人の意思とは関係なく、純粋培養で育って来たようなものだ。きっと私の行為を赦せはしないだろう。少しずつ濁りに馴染ませればまだ生きていけるが、いきなり濁り切った泥水で己を見失わずに生きろというのは、酷な話だと考えている。彼にはこの道をまい進して欲しいと願っている。だから今は、伏せておきたい』

『どうして俺にはそこまで腹を割って話すんだ?』

『君は、土方君と本間のちょうど中間に位置する。理想的な立ち位置にあると考えている。汚水に穢され切ることもなく、だが汚水に息を詰めることもなく。何より、本間が全幅の信頼を寄せる君ならば、濁り切ったこの庁内でも、土方君とともにこれから先も本間を上へ押し上げてくれるだろうと……信頼、しているつもりだ』

 答えになっているだろうかと問われれば、答えとも言うべき問いを口にするよりほかに持ち合わせる言葉がなくなっていた。

『指令を呑む条件は、“コレ”を本間にも絶対にばらさないこと。いずれ結成される藤澤会抗争一連の事件対策本部に、零と俺を参画させること。ひとつでもこの条件が呑めないってことなら、今この場であなたの口を封じる』

 GINの瞳が淡い緑を帯びていった。密閉された上層階にも関わらず、どこからともなく風が吹き込み、デスクの資料を天井へと舞い上がらせる。GINをとめようと伸ばされた零の右手が、彼女の視界を遮る長い黒髪を押さえるために戻っていくのが見えた。真正面で微動だもせずに自分を見据える高木は、乱れ落ちた前髪を直そうともしない。

『指令ではない。契約だ。私が君との契約を違えたときは、好きにするといい』

 GINの脅しに屈することなく、よどみのない声と瞳で断言された。ツキンとした痛みがこめかみに走る。右手に集約され掛けた気の渦がグローブの表面を焼いて、焦げた臭いが部屋に充満した。大きく息を吸い、そして、吐く。次第に気流が静寂を取り戻し、同時にGINの視界も緑を帯びたものから通常の景色へと戻っていった。高木がそれを見てようやく乱れた前髪を気だるそうに掻き上げた。

『風間にしか出来ない任務だ。いずれもまだ具体的な日程は決まっていないが、最優先事項として常時連絡可能な状態にしておいて欲しい』

 そう告げながら、零とGINに同じものと思われるファイルを二冊差し出した。

『風間の《能力》を使い、三十分間だけ諜報部の思念を撹乱すること』

 ふたりがファイルを開くと、藤澤会所属の各組に関する分厚い資料が綴じられていた。

『本件について長期にわたり協力して来たある人物を、藤澤会、警察の双方から保護隠蔽すること、以上だ』

 ようやく本題とも言うべき指令が高木の口から発せられた。




 公安職に属するGINや零に、まともな休暇などないに等しい。十二月二十四日。世間一般でいうところのクリスマス・イブの夜。巷では、神もキリストも信じてなどいやしない若者から家族連れまでが、浮かれた気分で街を徘徊したり大きな包みを抱えて慌しく帰路を急ぐ妙な夜。

 今のGINの脳裏には、そんな皮肉めいた表現がよぎるばかりだが、ほんの数時間前までは、そんな大衆と同じように浮き立つ気分に浸っていた。本当ならば、仕事から上がり次第、由良と映画を見に行く予定だったからだ。だが結果的には、半ば強制的に零のアパートで“特別任務”に従事させられることになってしまった。

 報告書をようやく書き上げ、いそいそと帰り支度を整えて自席から立ち上がった途端、零に腕を引っ張られた。

『――』

『うそ、マジで? 今から?』

 零が耳許へ囁いた誘いに、つい大きな声でそんなリアクションを返していた。その瞬間、零の顔にも、GINに勝るとも劣らない不愉快な表情が浮かび上がった。

『署内で出来ることではないでしょう。あなたの部屋では由良や本間が訪ねて来る可能性があるでしょうし、仕方がありません』

 零はほかの者の目や耳を気にして小さな声で囁いた。だが、目が完全に怒っていた。そういう表情をする時は、決まって紀由に関連する何かだ。その時点で例の任務に掛かる重大性をそれほど重く受け止めていなかったGINは、それでも一応足掻いてみた。

『……それってやっぱ、急ぎ、かな』

 媚びるように、零の目の前へ二枚の前売りチケットを翳してみた。

『由良と八時に待ち合わせなんだけど……そのあとじゃあ、ダメ?』

『高木さんから明日午前中に管理官室へと言われていたはずですが。脳天に一発撃ち込んだら思い出せるというのであれば、お見舞いして差し上げますよ』

 そう言うが早いか、零はGINの手からチケットを取り上げ、その金額分の現金をGINのコートへねじ込んだ。

『指定席を買うなんて、何を考えているんですか。最優先だと言われていたのに。三分以内に由良へ断りの連絡を済ませてください』

 零は一方的に言うだけ言うと、帰り支度をしている交通課の女性職員を掴まえ、彼女に前売りチケットをあげてしまった。

『行けばいいんだろ、行けばっ』

 GINはそんな形で、高木から指令を受けた極秘ミッションの構築に貴重な休暇を費さざるを得なくなった。




『えぇと、だから暴行事件の誤報を《送》り込んでから二十三分後に誤報だったっていう通報を受けた――って思念を流せばいいんだよな』

『違います。出動を確認してから十三分後です。それでは目撃者が誤認識に気づくまでのタイムラグが不自然過ぎるでしょう』

『あが。出動から十三分、な。えっとそんで、場所が――』

 唐突に下されたミッションの敢行日。明日二十五日、時間は未定。協力者から連絡が入る可能性が高い。そんな曖昧な状態の中、高木からのゴーサインが出次第、諜報部すべての人間へ一度に思念を送るという。しかもターゲットに触れず、床を媒体に流す形でしか思念を送れないという最悪の状況下で。

『高木さんの管理官室から三フロアも下の諜報部へ、だろう? 俺、今まで相手に直接触れて個別にっていう形でしか、思念を送ったことがないのに』

 GINはそう零しながら、降参とばかりに仰向けに寝転がって大きな伸びをした。

『だからこの半月間、建設中のビルで繰り返しトレーニングをして来たのではありませんか』

 零がGINの泣き言を許さないとでも言いたげな冷たい声で言い放った。机上で書類を束ねる音が、妙に大きく響いた。

(い……っつ)

 些細な振動にも、GINのこめかみが敏感に反応した。

『失敗は、許されませんよ』

 彼女が言い残し、リビングから離れる気配がした。

『わかってるよ』

 次のミッションが掛かっているという意味でも、明日の失敗は、絶対に許されないものだった。


 次のミッション、藤澤会が極秘で催すとされる、時期会長及び会長へ繰り上げられたことで空席になる若頭席の選出会議。その席に高木の協力者が紛れ込んでいるという。その男は警察の協力者ではなく、飽くまで高木個人の関係者とのことだった。

(詳細は、虫食い状態。こっちの判断は要らない、ってか)

 GINは空になった両手を持て余し、なんとなくテーブルの上に置かれた協力者に関する資料を手に取った。

 協力者の名前は伏せられている。明かされた情報といえば、一枚の古ぼけた写真と、彼の家族が海藤組に殺されたという説明にもなっていないプロフィールと、彼が担っている役割のみ。

 明日のミッションでGINが諜報部を混乱させている間に、彼が警視庁の内部データをハッキングする。藤澤会及びそれと対立する東龍会の情報を引き抜くためだ。その目的も理由も不明。ただ、協力者とされる男は、十六年も前から、高木の立場では不可能な情報収集を彼の手足となって代行して来た者らしい。高木はそれを根拠に信用出来ると断言した。


(これ、いつの写真だろう。この写真を撮った時点で、あんま俺と変わりのない年っぽいけど)

 GINは文字で埋め尽くされた資料をテーブルに戻し、アナログ写真をスキャンして出力したと思われる荒れた画像に写る男をぼんやりと眺めた。

 どこか高い位置で撮影されたものらしい。高い山の峰々とぬけるような青空しか写っていない背景が、その男の立つ場所をそう思わせた。その背景が男の長い金髪を一層際立たせている。だが顔立ちは日本人そのものだ。

(チャラいやつだな。IT関連に勤めてるヤツって、こういうのが多い気がする……ってのは、偏見か)

 GINはただの観察に変わり始めている自分に気づき、軽く頭を振って雑念を掻き消した。

(痛て)

 親指でこめかみを押さえ、頭痛をやり過ごす。集中力が鈍っているのは、連日のトレーニングで思念を飛ばす行為を繰り返しているからだった。GINはキッチンにいる零に気取られぬよう、ポケットから取り出した鎮痛剤を噛み砕きながら、再び写真の中から手掛かりを探した。

 後ろに写っている別の女性二人組と比べてみると、彼の長身がよく判る。彼女たちは被写体の男とは無関係の観光客らしい。GINが見たことのない風景からも、撮影箇所が東京近辺ではない、ということだけはその写真からよく判った。だが、この男に関する情報は、やはりほとんど見つからない。

(隠し撮りっぽいから気がゆるんでたんだろうとは思うけど。それにしたってゆるい顔をしてるよなあ。ホントに海藤組に潜り込ませたままで大丈夫なのかよ、この人)

 情報戦に長けた高木が、特権やシステムもそろっている諜報部を使わないことが解せなかった。高木が自身やこの男に高いリスクを背負わせてまで、彼を使う理由が見い出せなかった。


『GINもその男に見覚えがあるのですか』

 不意に頭上から呼び掛けられ、GINは写真から声の方へ視線を移した。

『見覚え? は、ないけど。何、お前はあるのか?』

 彼女に差し出されたコーヒーカップに手を伸ばしながら、身を起こして尋ね返した。

『見覚え、というか。自分の関わった事件の関係者であれば、確実に思い出せるのですが。誰と特定出来ないので、誰かに似ているだけかも知れません』

 彼女は座卓を挟んだGINの向かいへ腰を下ろし、写真を今一度見直しながらそう語った。

 誰かに、似ている。その言葉が妙に引っ掛かった。

『零、時間の許す限りでいいから、海藤組関連をもう一度洗い直してみてくれないか。俺も極力時間を作って、こいつを調べてみる』

『なぜですか?』

 彼女が手にした写真を資料の束へ戻しながら、視線を合わせず訊いて来る。

『訳もわかんないのに、ただ手足になって指示に従うだけってのは、性に合わない』

 事前に直接この男とコンタクトを取れれば、無駄なリスクを背負うことなく、この人物を保護出来る。彼は高木の話によるとハッカーでしかなく、自分で身の安全を図るのが困難と推察された。ハックした情報を、何に、どう、いつ使うのか。その内訳次第ではあるものの、彼が自衛出来ない一般人であるならば、少しでも早く危険な場所から遠ざけるべきだ。零はそんなGINの見解を黙って聞いていたが、やがて

『そうですね。場合によっては銃撃戦になる可能性もありますし。高木さんの思惑も、彼との接触で判るかも知れません』

 と簡潔な同意を示した。

『うん、よろしく』

 それきり、互いに言葉を紡がなくなった。零らしいと言えばそれらしい、女性の部屋とは思えない簡素なスチール家具だけの部屋に、ふたりのすするコーヒーの音だけがしばらくの間響いていた。

『……零』

『はい』

『藪蛇になりかねないと思ったから、高木さんには訊けなかったけど』

 高木と初めて会ってしばらくした頃に気づいて以来、気になって仕方のなかったことをやむなく零に尋ねた。

『明日のミッション、お前も同席って言われてるじゃん?』

『はい』

『なんで?』

『……』

『最初は、俺の“コレ”を知っているから、零が高木さんと俺のつなぎに入ったと思ったんだ。でも、もしそうなら、明日零が同席する必要なんか、ないんだよな』

『……』

『高木さんは、どこまで、何を知ってるんだ?』

 居心地の悪い沈黙が、GINにわざと大きな音でコーヒーをすすらせた。

『あちっ』

 猫舌がGINに強い主張を訴えた。

『大丈夫、ですか』

 やけどで痺れた舌が、零への返事を阻んだ。彼女が氷を取りにキッチンへ向かう後ろ姿を見ることが出来なかった。ロックアイスをグラスに入れた彼女はGINの隣へ腰を下ろし、トングでそれを摘まんで無理やりGINに顔を上げさせた。

『……すべて、ご存知です』

 ひやりと全身が冷たくなったのは、舌にあてがわれたロックアイスのせいだけではない気がした。

『私が受けた明日のミッションでの任務は、あなたがミッション中に副作用で任務に支障を来たしそうになった時、構築したシナリオを《送》り続けることが可能な状態になるよう、あなたを回復させること』

 深い溜息がGINの口から漏れる。GINの中にあった高木のイメージが、音を立てて崩れていく。彼がことさらに紀由からこの件を隠蔽したい理由のひとつが、解った気がした。

『なんで断らなかったんだよ。俺は金輪際お前の手なんか借りないって言ったはずだ』

 彼女のゆるい拘束を手で払い除け、コートを手に取り立ち上がろうとテーブルに手をついた。

『あなたの、そういうところが大嫌いです』

 床を這うような低い声に、GINの動きがぴたりと止まった。不快げに彼女を見下ろせば、憤りに満ちた瞳がGINを捉えた。

『私と似たような生い立ちで、似たような仕打ちを受けて来て。なのに、本気で理想論でしかない綺麗事を実現出来ると信じて貫き通そうとする。当たり前のように本間と同じ立ち位置にいるあなたなんか、大嫌いです』

 彼女に襟を掴まれ、強制的に腰を落とさせられた。頭痛だけではない、抗えない何かがGINの抵抗を阻んだ。

『いまさら善人面ですか? 事実は事実、起こったことを、なかったことになど出来ません。ならばなぜ、隠し通すだけの強さを持とうとしないのですか』

 強く引き寄せられた衝撃で、GINの胸ポケットに隠し入れた開封済みの鎮痛剤のシートが零れ落ちた。

『……自分に、ウソなんかつけないし』

『それが甘いと言っているのです。本間も由良も、あなたとは兄弟同然に過ごして来たのでしょう。あなたが最も望むものを一度は手にすることが出来たのでしょう。なぜそれ以上の贅沢を望むのですか。仮にこれまでの関係が壊れたとしても、彼らそのものを失うことと、どちらの方が回避すべきことなのですか。優先順位を考えてください。このことを本間が知ったら、彼がどうなるか。あなたには想像がつかないのですか』

 明日のミッションをしくじったら、確実に上層部の知れる事態となる。物心ついた時から高木を父親以上に模範として仰ぎ、この道が正義と信じてまい進して来た紀由が、彼の不正を知ったらどうなるか。それは彼のアイデンティティ崩壊に繋がりかねない。考えただけで背筋が凍った。

『これは、ただの“任務”です……そう割り切ってください。あの人が不信と自信や生きる意味を失って、私たちと同じような瞳になっていくのを……見たくない、です……』

 こめかみだけでなく、体中が強く脈打ち痛みの悲鳴を上げ始めた。GINの右手から由良の贈ってくれた深緑のコートがずるりと落ち、GINの代弁を吐露した零の頭を懐に押し込んだ。

『お前はそれでいいのかよ。全然見返りがないじゃん』

『ありますよ……あなたをサポートすることで、あの人が自分を見失わずに、前を向いて生きていてくれる』

『本当はお前だって割り切れてないくせに』

『そんなことは、ありませんよ。割り切っていなければ、保護された十代のころに血で手を染めていたでしょう』

 そう呟く彼女の言葉以上に、流れ込んで来る彼女の想いがGINに白旗を揚げさせた。彼女がGINと同じ仕打ちと表現した彼女の過去は、GINから見れば、自分以上の過酷なものとしか思えない。ある意味で死んだ方が楽とさえ思える凄惨な過去を封じてまで、彼女が今を生きる根拠は、ただひとつ。

 ――第二、第三の自分を生まない社会を作ること。

 それが紀由の望みでもあるから、彼女はただそれだけのために、ほかのすべてを封印する。そこに持論の矛盾があろうと、わずかな希望を紀由に託して黙殺する。

『……頭、すげえ痛い』

 高木の下した極秘の指令限定だ、と、心の中だけで自分自身に言い訳をした。

『知ってます』

 泣きそうな由良の微笑が脳裏を過ぎる。GINは固く瞼を閉じ、奥歯を噛んでそれを押し殺した。

『その代わり、零の見たい夢を見せてやる』

 絡み合う舌先に、やけどの痛みが何度も走った。




 翌二十五日、高木の予告どおり、協力者と呼ばれる者から高木のもとに連絡が入った。高木の部屋で待機していたGINと零は、打ち合わせどおりに三人だけの極秘ミッションをしくじることなく完遂した。

 年が明けて季節がひとつ巡り、春の声を聞くころから、組織犯罪対策本部が芳しくない意味で活気づいた。高木のシナリオどおり、藤澤会内に於いて抗争が頻発するようになったためだ。

 高木徹警視正を本部長とした藤澤会内部抗争事件対策本部が四月一日に設置され、GINと零が召集された。

『GIN』

 対策本部室から出たところで、聞き慣れた声がGINを呼びとめた。

 零が隣でわずかに眉をひそめる。そんな彼女に軽く手をあげ、先に行くよう促した。

『……なに?』

 彼は自分たちの会話が零の耳に届かないほどまで遠のいたのを確認すると、無愛想に答えたGINの腕を取った。

『ちょっと休憩につき合え』

『って、時間を考えろよ。それ休憩じゃなくて、サボり』

 GINの言葉は相変わらず聞き流され、常態勤務に於ける上司に腕を引きずられるまま屋上へ連行された。

 五分という条件つきで、彼――紀由と話したこと。

『内々に事前通達があったはずだ。なぜ俺に隠していた』

 GINは想定内の詰問を忌々しげに吐き出す紀由へ、あらかじめシミュレートしておいた返答を投げ返した。

『言う間がなかっただけだよ。昨夜の今日だったんだから』

 そう答えるGINの視線は、ポケットの煙草に注がれていた。目を合わせれば、紀由に胸の内を読みすかされる気がして顔を上げることが出来なかった。煙草一本分の時間はあると踏み、ポケットからそれを取り出し燻らせる。伸ばした前髪の隙間から、彼の反応を窺った。

『こんなデカい事件(ヤマ)に、お前や零に招集の掛かるはずがない』

『お前がスルーされてるのに、ってか。相変わらず負けず嫌いだな』

 挑発的な態度は、彼の性格を見越した上でのことだ。高木に疑念を抱かせるわけにはいかなかった。

『言っている意味がわからんな。そんなことはどうでもいい。現場に出て一年そこそこのお前や零に、一体何が出来る。高木さんがその程度のことを考慮に入れていないはずがない。高木さんからどういう形で接触された?』

『人聞きが悪いな。上の連中が実績を見て使えると思っただけだろ。ノンキャリの俺と零なら、捨て駒にちょうどいい人選じゃん。お前とは使われ方が違うってだけだ』

 そう言い終えるか終えないかの間に、紀由が距離を詰めてGINの胸倉に掴み掛かった。

『お前からアプローチを掛けたのか。そういう類の事件だと判ってて』

 GINの思惑通りにミスリードされた紀由は、脳内でフォント化されたGINの言葉から行間を読んだのだろう。掴んだ襟を更に締め上げた。

『一体何を考えている。この件に関しては、俺やお前らよりもずっと長く藤澤会を追って来たベテランだっているんだぞ』

『だから、何。参画に漏れたのは、自分の実績が足りなかったからだろう。俺のせいにされても困る』

『そんな話を……してるんじゃ、ないっ』

 絞り出す声と同時に、GINの体が勢いよく後ろへ押し飛ばされた。転落防止フェンスが衝撃に耐える悲鳴を発し、GINの背に鈍い痛みを走らせた。

『い……って。やっかむなよ』

『やっかんでなどいないっ。お前がことの重大さを解ってないから歯痒いだけだ。お前に何かあったらどうするつもりだ。由良はどうするんだ。相手は、あの海藤組が顔を利かせている藤澤会だぞ。海藤組に個人を特定されただけで、あいつまで巻き込むことになるんだ、解っているのか』

 紀由は一気にそこまでまくし立てると、肩を上下させながら再び次の一発をねじ込む拳を握った。

『だったら』

 多分それが、同じ道を目指し始めてから、初めて紀由に逆らう言葉だった。

『ちんたらといつまでも警視なんかに納まってるなよ。さっさと高木さんの隣に座れる場所まで行け。こっちはコネや親の七光りに甘えてる余裕なんかないんだ。兄貴面する暇があるなら、海藤組みたいな連中を片っ端からブッ潰せるだけの権限を取りに、上へ行け』

 彼の自尊心を傷つける言葉を吐いたGINの方が、傷ついたかのようなゆがんだ表情をかたどった。

『……ッ』

 言葉に詰まって震え始めた彼の拳を、GINは一瞥してから立ち上がった。落ちた煙草を靴でねじ消し、気だるそうに拾い上げる。

 日ごろ沈着な彼が感情をあらわにした姿は、GINの強がる芝居にほころびを生じさせた。彼の根底にある思いを肌身で感じているだけに、これ以上の長居は状況を悪化させる。そんな焦りがGINを屋上の出口へと急がせた。

『紀由』

 強い春の風がGINの長い前髪を吹き上げ、本音の滲む瞳を紀由に一瞬だけ晒した。

『いくらガキのころについて来いって言ったからって、お前が責任を感じる必要なんて、ないんだよ』

 顔色の変わった彼を見て、つい苦笑が漏れてしまった。

『俺は好きでこの道を選んだんだ。私情を挟んでる暇があったら、お前自身の仕事をしろよ。でないと俺がお前を追い越しちまうぞ』

 すれ違いざまに彼へそう伝え、GINは振り返ることなく屋上をあとにした。




 藤澤会内部抗争事件は、GINの予想を大きく上回る規模で展開された。

 やっとの思いで手に入れた情報は、ことごとくこちらをかく乱させるガセネタが大半だった。どうにか真実を見つけ出し、あと一歩で一斉検挙に持ち込めるというところで抗争が勃発する。とにかく、早い。その理由に、捜査本部の全員が愕然とさせられた。


 ――海藤辰巳が帰って来た。


 それは、突入時点で辛うじて生きていた水城組の構成員が遺した最期の言葉だった。

『海藤、辰巳、だと?』

 海藤辰巳。かつて海藤組組織内で、利用価値がなければ身内でも切り捨てると名高い海藤周一郎が自分の後継と公言していたらしい、彼の息子。情報戦略の走りだった二十年前、その姿を一切人前には出さず、父の意に従い手駒を動かして抗争に於ける無敗の人物と憎々しげに語られていた。

 捜査本部設置当初に配布された資料で、その程度に軽く触れられただけの存在だった。なぜなら十六年前に起きた籐仁会との抗争事件で、籐仁会所属の市原雄三に射殺されたとされている存在だからだ。

『海藤辰巳は情報戦の面でも当時の私に再三の黒星をつけた男だ。偽造や情報操作が行なわれていたとすれば、奴が生きていた可能性はゼロではないな。――風間、土方』

 高木がふたりを指名した。ふたりは同時に立ち上がった。

『市原雄三を洗い直せ。海藤辰巳の死亡確認の根拠は、歯形の一致だけだった。現在市原と名乗る男の消息はもちろん、彼に関する諸々の書類、データ、ほかすべてに関して洗い出し報告をしろ。至急だ』

 それに対し、ほかの幹部が異論を唱えた。

『高木警視正。それは所轄に』

『風間、土方、行け。もし奴が市原になり済ましていた場合、所轄の手には負えん』

 後方に座る所轄から、反論や暴言の野次が飛び交った。別の異論が本庁サイドの刑事から飛ぶ。怒号が轟く中、GINと零はそっと捜査本部室を抜け出した。

『どういうことでしょう。今更海藤辰巳の名前が出て来るなんて』

 苛立つ靴音がふたつ、庁内の廊下を足早に叩いていく。

『知らないよ。資料を見た限りじゃ、奴が表に出て来たってこと自体がウソくさい』

『ですが、死ぬ間際の人間が嘘などつくでしょうか』

 本庁の正面入口を出ると、その疑問にスポットライトを当てるかのような陽射しが梅雨空の雲間から射して彼女を照らした。

『本題の事件が大き過ぎて、なかなか“あちら”に着手出来ていませんが。信州の小磯元刑事にコンタクトを取ってみました』

『小磯刑事に? なんで?』

 Zに向かう歩をとめず、足早に進みながら問い返す。零はそこに至るまでの調査内容を掻い摘んでGINに話した。

『リーク情報などから、海藤辰巳が一時期信州のホストクラブに従業員として潜伏していたということが判りました。同様に市原雄三も。海藤辰巳の遺体発見現場から発見された古い写真を資料室で見つけたのですが、そこに写っていた人物が似ているのです』

『誰に』

『高木さんから渡された写真に写っていた協力者と、です』

『……どういうこと?』

『協力者は、市原雄三ではないかと。そこで高木さんから裏ミッションの指令を受けていると明かした上で、小磯さんに尋ねてみました。ですが彼の信用を得られなかったようで、高木さんの言ったことがすべてだ、というひと言で通話を切られました』

『おま、ギャンブル過ぎだろう、それ』

『勝算のない賭けはしません。ふたつの写真の合致から、小磯さんが高木さんの右腕として現役だと踏んだ上で対応したんです。彼の対応から予測するに、恐らくこちらの推測はアタリです』

 零の言うとおり、協力者と市原雄三、海藤辰巳の繋がりが、小磯の信州常駐によって確信に近い予測になったのは確かだった。

 Zに乗り込み、セルモーターを回してアクセルを思い切り噴かす。

『んじゃ、とりま、海藤辰巳のお気に入りだったらしいホステスのところを当たってみるか』

『姫木カヲル子ですね。そこがハズレだったら、元愛人の久我貴美子を』

『だな』

 辰巳が暗躍していた時代に揶揄と皮肉をこめて囁かれていたもうひとつの異名、“色好きのぼんぼん”を頼りに、所在が明らかなふたりの女のどちらかに連絡を取っていると推測し、まずは銀座方面に向かって大きくステアリングを切った。

 ダブルスタンダード・ミッションのキーパーソンは、海藤辰巳。藤澤会時期会長及び若頭選出会議の日程とされる六月十八日まで、あと一週間を切っていた。




 六月十八日午前九時〇〇分。零とGINは、その日突然捜査本部から外された。外された理由が、市原雄三の情報を得られなかった失態であれば、まだここまで腹立たしい思いをすることもなかったが。

『フザけんなっ』

 GINは締め出された捜査本部室の扉に向かい、憎々しげに吐き出しながらそれを一発思い切り蹴飛ばした。

『GIN』

 と暗に咎める零の眉間にも、不快の皺が刻まれていた。それは出世のチャンスを逃した憤りではなく、きな臭さから来る疑心暗鬼の表れだ。

『お前は大人しく引き下がれるのかよ。越権行為に該当する強硬な捜査手法、って言われたんだぞっ。こっちは趣味でデカやってんじゃないんだ、このヤマから外されるようなことを誰がするかっつうのっ』

『姫木や久我がリークしたとは思えませんね』

『彼女たちはこっちから巧く逃げたくらいじゃん。そんな小物じゃない』

 具体的な内容も曖昧な説明で納得出来ないまま始末書を書けと命じられた腹立たしさが、自分のデスクへ戻るGINに乱暴な靴音を響かせた。

『GIN、物は考えようです。フリーになれたのですから、“別件”に集中出来ると考えましょう。まずは高木さんを捉まえ、状況を聞く。すべてはそれからです』

 高木、という名を聞いて、いきり立っていた足取りがいく分かゆるやかに落ちていった。

『なあ、高木さんまで総括本部長を外されただろう。“別件”がバレたのかな』

『解りません。だからこそ、上の通達に逆らうなんて無駄な時間を省くべきです。さっさと始末書を書き上げて高木さんから話を聞かないと……嫌な予感がします』

 上りエレベーターのボタンを押そうと伸びたGINの指が、高木の管理官室がある階を押したがる。それをぐっと押し殺し、自分の部署が置かれた階のボタンを押した。


 デスクへ戻って始末書を書いている最中、用度課の女性職員が携帯電話と密封された茶封筒を手にGINの席へやって来た。

(GIN、これ。高木警視正から渡しておいてくれ、って頼まれたの)

 彼女が声を潜めて言った。

(なんで小声なの?)

 ふたつのアイテムを受け取る一方で、GINもまた小声で問い掛けた。

(ほかの人に自分が頼んだことを聞かれないように、って。これ、用度で用意した支給品じゃないの。高木警視正が個人で用意した物みたい。真面目な人だから、私用でGINを使うことに罪悪感でもあったのかしらね?)

 耳許にそう囁く彼女の吐息に、色めいた意味とはまったく異なる理由から心拍数が跳ね上がった。少しでも触れたら思念が漏れる。高木らしからぬこの配慮のなさに、彼の切迫した状況を嗅ぎ取った。

(伝言ってことは、高木さんは出てるってこと?)

 伝達の彼女は屈めた身を起こし、普段のトーンに口調を戻した。

『ええ。こっちの関係書類は個人情報が含まれているから処分を頼むって。この携帯の機種変更処理を伝えて欲しいって、今朝用度課に顔を出されたのよ、彼』

『機種変更……』

『じゃ、確かに渡したから。私が叱られちゃうから、確実によろしくね』

 彼女はそう言って自分の持ち場に戻っていった。

『個人情報、か』

 呟くGINの隣から、零がデスクと向き合ったまま、

『なんですか』

 と問い掛けて来た。もちろんそれが興味本位からの問いではないと解っている。

『裏ボスからのラブレター』

『そうですか。では、まず始末書をクリアしましょう』

 と彼女が簡潔明瞭な言葉でGINを急がせた。

『だな』

『先に出ます。以降はZで、ということでいいですね』

『ラジャー』

 GINが言い終えるころには、すでに彼女は書類の作成を済ませていた。ひと足先に席を立ち、部屋から立ち去る彼女を見送ったGINは、はやる気持ちを抑えながらどうにか始末書を書き上げた。幸いなことに、何かと突っ込みを入れて来る紀由が、今日は珍しく朝一番からデスクにいない。逃げるのにちょうどいいタイミングだ。GINは書類を課長のデスクへ放り、

『応援、行って来まーす』

 と現場名を告げず、誰も振り向く者のない一課をあとにした。




 Zに乗り込んだものの、行くべき場所を定められない現状だ。GINと零は、これを打破することから始めなくてはならなかった。

『暗証番号、ですか』

 Zの助手席で、零が顎に手を当てほんの一瞬考える仕草を取る。三人だけの共通の数字。それは、意外と単純だった。

 mission0618――今日、という決行の日付。零とGINにとっては大躍進が掛かっている重要な日。高木にとっては、長年の宿敵を仕留める念願の日でもあった、藤澤会幹部による極秘の集会敢行日。

 高木の悲願、自分たちの姑息な願望は、このミッションの決行で叶うのだろうか。ふとそんな不安がよぎり、ロック解除されてGINの名をファイル名にした音声ファイルを選択するGINの指がためらいを見せた。

《高木だ。用件のみ伝えておく》

 これまで聞いて来たのとまるで変わらない、冷静で淡々とした彼の口調。それがほんの一瞬だけGINと零の緊張をほぐし、淡い期待を抱かせた。だがその淡い期待も、続いて紡がれたメッセージがあっという間に打ち砕いた。

《昨年風間の協力で手にした情報を外部へ流したことが上層部に露呈した。私は今からSITの陣頭指揮を執る》

『?!』

 高木から託された茶封筒を開けていた零の手がぴたりととまり、GINの息を呑む音がZの中で小さく響いた。

《だがこれは私のシナリオどおりの展開だ。予定どおり本件に関する協力者の保護及び隠蔽を、何がなんでも完遂しろ。協力者の詳細データをお前に託しておく。脳へ叩き込んだから消去しろ。警察の正義など、まやかしだ。お前の中にある正義を信じよう――以上、健闘を祈る》

『どういう意味だよ……"健闘を祈る”って、これじゃあまるで』

 そのあとに繋ぐつもりでいた言葉を音にするのがためらわれ、GINは言霊が現実へいざなうのを拒むかのように口をつぐんだ。

『風間、中身は数枚の写真と……壊れたICレコーダー、破損していない別のICレコーダーがビニール袋で厳重に包まれています』

 零が現実に目を向けさせる形で、更にGINの嫌な予測をコーティングした。

『壊れている方のこれは、聴けという意味ではないでしょうね』

『ってことは、これを読んで協力者の思念から当該人物を特定しろ、ってことか』

『と、思われます。ですが、高木さんご自身は一体どう対応するつもりなんでしょうか』

 数枚の写真を慎重に観察したまま、零が珍しく戸惑いをまじえた疑問を口にした。

『その辺がもう一個のレコーダーに入っているかも知れない。とにかく時間軸に従って見ていく方がよさそうだな』

 大破したICレコーダーを包むビニール袋を破きながら、GINも零の手にした写真をつぶさに観察した。

 一枚目は、似合わない伊達眼鏡を掛けた無精ひげの男。緊張感のないゆるんだ顔で照れ臭そうに笑っている、漆黒の長い髪を束ねた男の写真。傍らに写る勝気な瞳の少女が、満面の笑みで幸せという単語を浮かばせた。この少女は恐らく協力者ではなく、その関係者、つまり今回の件には無関係と思われる。男の顔には見覚えがあった。

『先日手渡された金髪の男ですね』

『多分な。あっちが地毛で、こっちが染めてるんだろう。目立たなくさせるため、かな』

 そんなやり取りをしながらICレコーダーを取り出し、指先を軽く噛んで右手のグローブを外した。その瞬間までは、GINの意識は写真の方へ向いていたのだが。

『な……んだ、これ』

 念をこめたかのような強い残像思念が、暴れるような勢いでGINの中に溢れ返った。

『風間?』

 ほんの数十センチしか離れていない零の呼び声が、どこか遠い場所から叫んでいるかのように聞こえた。

『零、左手……っ。ダイブする時間なんか、今はない』

 言い終えるまでには左手のグローブが外され、零の右手が碇のようにGINの意識を繋ぎとめた。


 壊れた古いICレコーダーに残されていた記憶。それは、海藤組関連の事件とはまったく関係のないものであり、そうではないもの、とも言えた。

 賑やかな笑い声。それも、まだ中学生か高校生くらいの子供も混じった談笑の音。

《再会を祝してーっ、乾ぱーいっ!》

 艶やかな長い黒髪の毛先を嬉しそうにたなびかせてはしゃぐ少女がその声を発していた。

《克也君、いや、克美君、まず、その呼び名がいかんのだよ。名は体を現す、と言ってだな》

《にゃはははぁ、それ、さっきも言ってたぁ》

《む? そうか? そんなに私はもうろくしたか……そうか……》

 その声は明らかに高木のものなのに、それを疑いたくなるほどの甘ったるい響きを伴っていた。それは恐らく誰にも見せたことのない、彼のプライベートの素顔、なのだろう。

《ぎゃははは! すっげーっ、高木さんが泣いてる! おっもしれぇ!! 可愛いからちゅーしちゃうーっ》

 克也と克美、ふたつの名を持つらしい不思議な少女が、あの冷徹な高木さえもが相好を崩すのも頷けるほどに信頼に満ちた満面の笑みをかたどった。その少女は先ほど確認した写真の中で、“幸せ”な笑みを浮かべて協力者の傍らに立っていた少女だった。

《ぬお、やめ……っ!》

 高木の視点でアイテムの残留思念を追っていたGINの目の前が、一瞬だけ真っ白な闇に閉ざされた。

《とうとうされちゃいましたねえ》

 最後に苦笑を零した男の声は、初めて聴くものだった。だが、GINの中に溢れる残像が彼を写真の男と知らせていた。そしてその男の正体も、残留思念が伝えていた。

 高木が訪れたふたりの自宅と思われる一室で、ベッドサイドの間接照明が仄かにふたりを浮かび上がらせる。その映像がGINを落ち着かなくさせた。

 安心し切って眠る少女の傍らで、宝物を愛でるようにいつまでも眩しげな視線を送る男が、彼女の髪をそっと撫で続けていた。その場を立つのも名残惜しそうな顔をして、彼は彼女の額にそっとおやすみのキスをした。

《……それは完全に“家族のキス”とやらとは違うようにしか見えんのだが》

 そうとがめる高木の声に、目の前の男がこちらへ振り向かないまま、小さな声で呟いた。

《妹、ですよ……加乃の》

 GINの左手に、きゅっと握られる力がこめられる。そのお陰で、完全に思念の中へダイブすることから回避出来た。

『加乃……守谷加乃、ですね。籐仁会と海藤組との麻薬密売に絡む抗争事件で銃殺された一般人の被害女性です』

 返す言葉が見つからなかった。零から流れ込んで来る推測と、残留思念に映し出される男が、そろってGINに協力者の正体を見せつけるように知らせたからだ。

《でなきゃ、とっくに“色好きのぼんぼん”で悪名高い俺が、食ってない訳ないでしょ》

 こちらに向いたポーカーフェイスが、不遜な口調で高木を弁を否定した。高木の思念が苦しげに乱れる。彼は知っていた。海藤辰巳が表情を隠すときほど、自分が核心に触れているということを。

 そしてこのこの、高木のシナリオが海藤辰巳に知らされぬまま書き換えられたことを思念で知った。

 ――これ以上あの子に失う辛さを味わわせたくは、ない。

 恐らく信州からの帰路、ずっとポケットにしまいこんでいたのだろう。最も鮮明にICレコーダーへ残された残留思念は、海藤辰巳から持ち掛けられたこの計画に乗った失敗を悔やむ思いだった。


 零がGINの手から壊れたICレコーダーをそっと取り上げた。恐る恐る瞼を開けたGINは、フロントガラスを照らす陽射しのまばゆさに眉をひそめた。だるさに耐えかね、シートに思い切り身を預けて目を覆う。残された高木の思念と自分との境界が、GINの中で曖昧になっていた。

『コントロールは出来ていますか? ここで使い切られると、あとあと具合が悪いのですが』

『ああ、大丈夫だ。まぶしいだけ。頭痛じゃないから。それよか、こっちは?』

 沈む気分を無理やり上げようと、わざと強い口調で答えてみた。だが声のトーンが意に反して低い。GINは無駄な抵抗をやめて、資料の続きに目を遣った。

『随分粗い画像だな』

『携帯のカメラで隠し撮りをした、といったところでしょうか』

 零がそう推測する根拠は、画像写真の右下に刻まれた日付からだった。今年の五月初旬を表示していた。

『この顔、どこかで……』

『って、だから、海藤辰巳の最近のツラってことじゃないのか』

 いぶかる仕草を見せる零の戸惑う理由が解らないまま、GINは深く考えもせず、思ったままにそう答えた。

 最初に見たときと同じ、脱色した作り物の金髪と、いかにもその筋と判る派手な柄のシャツをまとい、カメラに気づかずだらしのない笑みを零して何かを喋っているような写真。彼が瞳に仕込んでいるグリーンのカラーコンタクトが、妙にGINの癇に障った。だが、それだけだ。零が拘るほどの引っ掛かる点などない気がしたのだが。

『待ってください』

 零が思いついたように、自分のバッグからノートパソコンを取り出した。スタートアップを苛だたしく見守る横顔が、彼女にしては珍しい。小首を傾げながらも、GINは再生が可能な状態のICレコーダーを調べに掛かった。

《海藤の件についても、勝手に動くことは許さんぞ》

 流れて来たのは、やはり高木の声だ。尖る語調は、彼の苛立ちを露骨に表していた。それは耳が聞き取る声だけではなく、GINの脳裏をよぎっていく残留した映像からも、彼の苛立ちが見て取れた。その根拠は、計画の邪魔になる勝手な行動を懸念した上での警告とはまるで違う意味合いの思いからだった。

《ああいう輩は、(タマ)を取られるよりも、社会的に抹殺される方が苦痛のはずだ》

 その言葉を吐き出す瞬間、高木の中で混沌が渦を巻いた。フラッシュバックのように、雑多に単語が散りばめられては消えていく。

“籐子、やっと君の両親に認めてもらえそうだ”

“息子、それなら真也と名づけよう”

“死”

“海藤周一郎”

“陰謀”

“殺”

“復讐”

“海藤の息子、隠し玉”

“計画”

“辰巳”

“同志”

“友”

“なぜ奴が海藤の息子なのだ”

“克美君、君は”

“辰巳、お前は”

“赦せない”

“赦すべきだ”


 ――辰巳、お前にとって、正義とは、なんだ?


《加乃がこの世にいないのに? 高木さんの奥さんもいないのに?》


 混沌とした高木の思念が唐突に切れ、GINの視界が、虚無に満ちた濁るグリーンアイズに占領された。だがそれも一瞬で消え去り、見慣れた駐車場の景色がGINの前に戻って来た。右手を見れば、手にしていたはずのICレコーダーが足許に落ちていた。危うくアイテムにダイブするところだった。それほど強い思念だったということは、正常に稼動するこのICレコーダーも、中身ではなく思念を見ろということだろう。

『何が、言いたいんだ、高木さんは』

 そう呟いたGINの小さな声を、同じ映像を見ていた零の声が掻き消した。

『風間、日本帝都ホテルに向かいます。今の海藤辰巳は、高木さんと知り合う以前と同じ目をしています』

 そう叫ぶ零の膝の上でノートパソコンが映し出していたのは、警視庁の監視カメラが撮影し続けていた、古い映像記録のひとつ。小さな子どもを抱き抱えて膝を折っていてもそうと解るほどの背の高い若者が映し出されていた。高木の記憶の中で「克也」と呼ばれていた少女を抱きすくめながら、挑むように高木をねめつけていた。まだロングヘアでも金髪でもない、明るい茶色の髪に上品なロングコートをまとった、少し金回りのよい家庭の世間知らずなおぼっちゃん、という風貌は二十歳になるかならないか、というほどの若造にしか見えなかった。ただ、ひとつの念に囚われた瞳だけが、平凡から逸脱していた。強い感情を帯びた色が、彼の前に立った高木を微動だにすらさせなかった。

 Zのセルモーターが唸りを上げ、GINの叫びに呼応する。

『まさか、この計画ってのは、十六年も前からって計算に』

 狂ったように走り出すZのステアリングの操作が荒れた。

『俺がまだ紀由と会ったか会わなかったか、ってくらい昔の話じゃんかっ』

『ひょっとして高木さんは、そのころには既に《能力》の存在を知っていたのでしょうか』

 零の問いに答えられる者は、今まさに勃発しようとしている事件の現場にいる。

『高木のヤツ……っ。最終的な判断を俺に丸投げしやがった。海藤辰巳をどう解釈しろってんだよ、ちくしょうッ』

 GINはその答えを求めて、日本帝都ホテルへ向かう最短コースへZを走らせた。




 時刻、二〇二八。藤澤会による極秘の会議が行なわれている日本帝都ホテル四十八階、高千穂の間。現場であるそこへ辿り着くまでに、少々手荒なことをした。突入の混乱に乗じてSIT二名に眠ってもらい、その装備を拝借した。

『やっぱサイズがでかいか。零にはキツいな、それ』

『四の五の言ってはいられません。狙撃の腕はあなたより上ですから、足手まといの心配はご無用です』

『……ヤな女だね、ホントに』

 フルフェイスのヘルメット越しでもありありと判るGINの声を、それに内蔵されたイヤホンから流れる声が遮った。

《今朝本部長に就任された浅倉警視正が緊急招集により一時離席した。彼に代わり、一時的に指揮を執ることになった本間だ。指示を通達する》

 高千穂の間へ向かって非常階段を駆け上がっていたGINの足が一瞬とまった。

(紀由が? どういうことだ?)

 ヘルメットで顔が見えないと解っているのに、あとに続いて来ている零の方を振り返る。彼女もまたこちらを見上げながら、勇んでいた足を固まらせていた。

《第二班は入口より突入と同時に、左右へ分かれて挟み撃て。第三班は入口を封鎖、部屋から出ようとする者を一人残らず確保しろ。最優先事項は市原雄三の確保、生死は問わないとのこと。高木警視正も――それに準じる。次の機まで指示を待て。以上だ》

 GINは紀由の下したその指示に食らいつくのが一瞬遅れた。

(う……わ……)

 声にならない音が喉の奥から絞り出された。四十八階に辿り着いた途端に、鉄の非常扉さえ貫いて漂って来る硝煙と鉄と、その他ありとあらゆる雑多なモノが混じった臭い。警戒とは違った意味で、鉄の扉を開ける手が鈍った。追いついた零が腹立たしげにGINと扉の間へ分け入り、重い扉を慎重にそっと開いた。

『な……っ』

 零でさえも、一瞬小さな声を上げた。そこはカーペットを敷き詰められた広い通路のはずだった。だが今は、高千穂の間から溢れ出る血がベージュとどす黒い赤の醜いまだら模様という無残なデザインに染め替えられていた。GINは零の腕を取り、混乱に乗じて素早く狭い給湯室へ身を隠した。

『高木さんもそれに準じるっていう、“それ”とはどこまでを適用された指示、ですか』

 見えない捜査本部に向かって声を荒げる。そう問い質さずにはいられなかった。捜査本部にいる誰もが判らなくても、紀由にだけは確実にこの声が自分のものだと判るはずだ。彼がなぜ朝から姿を見せなかったのか、この可能性を考慮していなかった自分への憤りが問う声に混じっていた。

『市原雄三は、元籐仁会の構成員です。総本山の東龍会に関する情報を握っている可能性が高い。聴取すべきです。高木警視正だって、藤澤会を根絶したのちは、東龍会の』

《その通信回線は第三班、だな。有事のさなかに意見する暇があったら、自分の配置につけ》

 冷淡を装う紀由の声が、ほんのわずかに震えていた。彼の向こうでざわつくノイズが、回線を通じて彼を糾弾していると伝えて来る。現場の駒ひとつひとつにいちいち反応するな、といった類の高圧的な指令を口汚く発しているのは、恐らく最前列にいるうっとうしい連中だろう。

『ひとつだけ、今教えてください。なぜ高木さんが陣頭にいるんですか』

《市原雄三の戸籍を買った海藤辰巳と内通していた》

 紀由がそれだけを伝えると、回線に不自然なノイズが混じった。

《各班班長以外のマイク回線を遮断した。個々は班長及び本部の指示に従え。以降私語を禁じる》

 そう伝えたのは、紀由とは別の者による苛立ちの強い見知らぬ声だった。

『……本間は、どこまで知ったのでしょう』

 彼を心配する憂いが、零の声をか細くさせた。

『あいつ自身が回線を切ったわけじゃない。裏があると解ってるから、あんな声だったんだろ』

 半分は自分へ言い聞かせる意味合いを含んだ答えだった。GINの中で、高木の苦悩がリフレインする。

 ――正義とは、なんだ?

『きっと紀由も、高木さんと同じことで迷ってる。全部を知ったわけじゃないと思う。とにかく、あのおっさんらを保護して、すべてはそれからだ』

 GINは壁に張られた四十八階の間取り図を指で弾き、それを合図とばかりに給湯室の扉に手を掛けた。


 扉を開けば、嫌な意味での別世界がGINと零の前に広がっていた。用心深い海藤組らしく、入口がたったひとつしかない小さなホール。その扉も第一戦の段階で、意味を成さないほど撃ち砕かれていた。その向こうに広がる凄惨な光景は、まさしく“小さな戦場”だった。

 高千穂の間は、入口から見て左右前後に二十メートル四方の間取りになっている。左手の壁一面が嵌め殺し窓になっているが、先の銃撃戦で既に撃ち割られ、室内には強い風が吹き込んでいた。入口の真正面には、披露宴使用時に高砂とするような一段高いステージがあるらしい。「らしい」としか言えないのは、その前に防壁代わりとしてテーブルが立てられていて確認出来ないせいだった。轟く銃声と低い呻きや怒号の声、鳴りやむことを知らない発砲音の喧騒さえ凌ぐ“思念”が、GINを正面の防壁テーブルへと急がせた。


 ――これが加乃の分。加乃への最初の一発はそこを撃った。あいつの痛みを思い知るがいい。


 辰巳の放つ強い思念。それが入口から最も離れたテーブルの向こうから、この部屋を覆うどす黒い赤と同じ色を帯びて放たれた。誰に対して向かう思念なのかは、GINや零にもすぐに判った。

 サブリミナルでGINの脳へ直接映し出される辰巳の記憶が、目の前に立ちふさがる男の姿をぼやけさせた。

 代わって鮮明さを増すのは、GINの見知らぬ女性の今にも消えそうな儚い微笑。口許から溢れる鮮血が、あまりにも似合わないほどに無垢な白さを思わせた。

《ちょっと前、なら……迷わず、克也……選べたのに……ごめんね、たつみ……選べ、なかった》

 そう囁く彼女の姿がぼやけていく。GINの中で、聴いたことすらないはずの辰巳の声が、彼女を何度も「加乃」と呼ぶ。

《私が、選んだの……だから……責めないで、自分の、こと》

 籐仁会の者と海藤に騙され、辰巳の恋人だった彼女を海藤周一郎の指示どおり撃ったのは辰巳自身だった。

《……辰巳……楽に、させて……》

 GINの瞳が潤み、トリガーにこめるべき力が入らない。しかし次の瞬間、トリガーを引いた。一瞬だけ辰巳の過去から解放され、目の前に立ちはだかった男がのけぞり仰向けに倒れていった。

 今、辰巳の中に渦巻いているもの。十六年前の記憶と今が混在し、それを視るGINのことまで混乱させた。


 ――市原と幼馴染のよっちゃんの恨み。


 辰巳の過去が、GINの中に溢れ返る。半日ほど前にICレコーダーで視た、まだ茶髪で幼さを残した若いころの辰巳が、苦笑混じりで本物の市原に謝罪を告げた。

《ごめんな。親父のせいでよっちゃんを》

《俺に海藤を殺れるだけの力はねえ。頼んます》

《兄弟の杯、しようよ。市原クン》

 辰巳は、ただ潜伏のために市原を名乗っていたわけではなかった。市原もまた、海藤周一郎の教唆によって海藤組に身内を殺された犠牲者だった。


(くっそ、海藤辰巳の思念が強過ぎて……SITに巧く《送》れない)

 高木が現場にいると判明してからGINと零が描いた計画では、彼の抱く“海藤組殲滅”という強い思念を隊員へ《送》り、本能的な恐怖心を凌がせて隊員の士気を煽ることで優勢に持ち込むというものだった。だが藤澤会の幹部たちがそろえた用心棒たちは、手練のものばかりを選りすぐった実践慣れした者ばかりだった。それらからの肉弾戦や発砲を避けつつ、さらにSITの優勢に傾けるよう思念の操作をするのは、現実的にかなり難しい状況だった。

 間近に銃声を聞いた途端、GINの横を小さく鋭い風が走り過ぎた。

『く……っ!』

 後方を支援していた零が一瞬体勢を崩し、左の肩を庇った。

『撃たれたのか』

『利き手ではありません。大丈夫です』

 彼女はそう言ったかと思うと突然身を屈め、GINの足をなぎ払った。

『おっ?!』

 思い切り転倒したが、すぐにうつぶせて内臓への被弾を防ぐ。GINを転がした当事者の意図をすぐに察したからだった。GINの目の前に立っていた黒いスーツの男の眉間に、黒い大きな点が宿った。次の瞬間、そこを基点に赤い華が醜く咲き誇った。零の前に立ちはだかっていた男も、ほぼ同時に倒れ込んで来た。転がりながらそれらを避けつつ、零の逃げ込んだ小さな一角へと向かった。椅子やテーブルを格納していた場所であろう、部屋の右隅にある小さな空間にGINも身を滑らせた。

『私が前をふさぎます。どの道、私の左腕は使えません。素手にしておきますから、拾った思念を私に視せ続けてください』

 ヘルメットを外した彼女が、左腕に簡易の処置を施しながら淡々と次の動きをGINに告げた。

『フザけんなっ。なんで俺が女に庇われなきゃ』

 言葉の半分も吐き出せない内にヘルメットが無理やり外され、文句を言う唇を塞がれた。

(高木さんを海藤辰巳とともに救い出して……あの人のために)

 その瞬間だけ、直接触れた零の強い思念が、十メートルほど離れた海藤辰巳のそれを凌駕した。制された唇が再び自由を得ても、彼女の意向をダイレクトに《送》られたGINは、それ以上何も言うことが出来なかった。

『GIN、海藤辰巳の思念に引きずられないでください。あなたが今すべきことは、SITの士気を高めること。彼らをここから救出すること。それに専念してください』

 GINから辰巳の思念を受け取った零が、悲しげな微笑をかたどった。そして彼女はそれだけ言うと、再びヘルメットを被り直し、GINに背を向けて応戦に戻った。


 GINはひとつだけ、大きく息を吐いた。覚悟を決めて、両手からグローブを外した。万が一に備えて、零の左手の位置を頭と左手に叩き込む。何かあったらその方角へ自分の素手を伸ばして「自分」へ返ること、と頭の中で言葉にした。

《これが、高木の奥さんの分。一般人を巻き込んでんじゃねえよ》

 触れたカーペットを通じて、よりはっきりと海藤父子の一方的な戦いを視せつけられる。

《待……て……》

 辰巳とよく似た長身で鋭かったであろう目つきの男が、似合わないほどに眉尻を下げて辰巳を見上げていた。写真でしか見たことのない海藤周一郎とは思えない、命乞いをするただの老人に見えた。そんな男の左胸、心臓をわずかにそれた場所から鮮血が噴き出した。

《ラスト》

 その低く地を這うような声が、GINの背筋に冷たい衝撃を走らせた。

《克美を俺の鈴なんかにしようとした罰。先に地獄へ逝ってな、クソ親父》

 鮮やか過ぎるほど鮮やかなヴィジョンが、GINの脳を侵蝕していく。画像で見た少女と思しき子供の、狂ったように泣き叫ぶ声と潤んだ大きな瞳。たくさんのチューブに繋がれ、眠ったままの無表情。白銀の世界で無邪気に笑う女は、恐らく現在の克美の姿だろう。

 次の瞬間、海藤の眉間に大きな黒い丸が現れた。邪心でゆがんだ光を発していた海藤の眼の色が澱んでいき、次第に瞳孔が広がっていった。続けざまに四発の弾が、海藤の頭蓋目掛けて撃ち込まれた。硝煙の鼻をつくツンとした感覚が、GINのものなのか辰巳のものなのか解らない中で、SITへ思念を流し続けていた。明らかなのは、海藤周一郎を始めとした藤澤会幹部の連中が存命する限り、誰もが真の平和を望めないこと。今ここで殲滅しなくてはならない、という、辰巳と高木とGINや零、そして命を賭して立ち向かっているSITに共通している強い使命。

 海藤の脳天目掛けて辰巳の放った銃弾が、彼の脳髄と鮮血を爆ぜ散らかす様を視ながら、その使命感が場内に伝播していくのが感じられた。海藤の散らした赤い血潮が、最期のあがきと言わんばかりに辰巳を襲い、その全身を鮮やかな紅に染め上げた。

《……あっけないな。これだけのことだったのか》

 そう呟く辰巳の声は、あまりにも乾いていた。本懐を成し遂げた彼の中で、強い憎悪と使命の念からGINを戸惑わせる想いに取って代わった。




 高木から下された指令は、協力者の保護と隠蔽だった。ミッションを知らされた当時は、協力者の同意のもとだという前提で捉えていた上、協力者の正体も不明のままだった。

 なのに、この段階に至ったとき、状況はGINに考え及ぶはずのない想定外の状況になっていた。それは協力者の正体が海藤辰巳だった、ということだけでなく、この状況下で判断を自分になすりつけられてしまったということ。高木が最後に残した「お前の中にある正義を信じよう」という言葉の真意が目の前に突きつけられていた。

『現場の指示を優先しろ!』

 距離にして十メートルほどの近い距離で、高木がSITに向かってそう叫んだ。ヘルメットに内蔵された通信イヤホンからは、紀由の苦渋に満ちた『被疑者確保』の声が響いていた。各班の隊長は高木と紀由の職務に対する貢献の差を計算したのであろう、最終的には一隊を制し、SIT全体の動きをとめた。

 高木が握る拳銃の先は、海藤周一郎の遺体を挟んだ向こうで佇む男に向いていた。その先で高木の視線を迎える深緑の瞳は、高木ひとりに意識を集中させていた。純白のスーツをどす黒い紅に染めた辰巳のグリーンアイズには、先ほどまでダイレクトにGINへ伝えて来たほどの敵意は宿っていなかった。彼が二挺の拳銃を高木に向けているのは、あくまでも戦友である彼の立場を守ろうという強い意志から来る警察へのプロパガンダと受け取れた。一九〇センチを優に越える長身が、一方で高木に狙いを定めたまま、もう一方の銃先で高木の耳に嵌められていたイヤホンを跳ねのけた。彼がそれを容赦なく踏み砕くと、高木が一瞬だけ、場にそぐわない柔和な表情を辰巳に向けた。

『高木さんは、こうなることまで想定済みだった、ってことなのか』

 こうなること――辰巳と対峙する状況になる、ということ。

『こんなの、指令なんかじゃないだろうが』

 身を切る痛みが、GINにそう吐き出させた。思念を読み取る掌がカーペットから離れ、何かを潰したいとばかりに強く握りしめられた。それでも遮断することすらままならない強い想いがふたつ、GINに苦痛の表情を浮かばせた。


 GINの中に流れ込んで来るのは、高木と辰巳、それぞれの強い後悔と懺悔の声なき声。

《辰巳。私の十六年前の気持ちは今も変わらん。目的を果たせた今、妻も子も奪われたこの世に未練はない》

 辰巳だけに吐露した高木の声が、GINの耳にも鮮明に届いた。混じり気のない虚無が、辰巳に伝えるその言葉を心からの思いだと告げていた。

《だがお前には克美君がいる。やはりお前は……生きろ》

 一時の恨みに翻弄され、辰巳を巻き込むと解っていながら、彼の打診した計画を受け入れ契約した――高木の抱き続けて来たその罪悪感が、次第に大きく膨らんでいく。まるで死に逝く者の最期のように、高木のこれまでが走馬灯となって駈け巡った。その中に、GINもいた。その瞬間、高木がわずかに口角を上げた。音にさえされないその念は、GINに対する信頼だった。

《部下にお前を保護隠蔽するよう指示を出してある。奴は必ずお前を克美君の許へ届けてくれるだろう。俺を盾に、もう一度だけ場を乱せ。混乱に乗じて部下がお前をここから連れ出すはずだ》

 零が膝を立て、救出の動きを見せた。彼女はGINの手を介して高木の思念を読み取っているのに、GINとは異なり迷いがないようだった。まだ迷いを捨て切れないGINは、一度は離れた彼女の手をもう一度引き寄せ、身を乗り出す彼女の動きを封じた。

(どうして)

(本当に、それがあいつにとって正しいことなのか?)

 零に投げ掛けたGINの問いを裏付けるように、辰巳の悔やむ想いがいや増していった。

《部下と連絡取れるのかな。そこの柱の影に隠れてる子。俺じゃなくてあの子を助けてやってくれないかな。赤木の息子なんだ、あれ》

 辰巳の言葉で初めて気づいた。GINたちの隠れている格納スペースの正反対の位置にある柱の影から、わずかに震える肩が見え隠れしていた。

(赤木……海藤辰巳の幼少時に側近としてついていた海藤組幹部だった男です。彼も謎の自殺を遂げていますが、藤澤会内では海藤周一郎に裏切者として嵌められたと言われていました)

 零の説明を受けながら、赤木の息子と言われた男に焦点を合わせてみる。

《ちくしょう……っ、動け、動けっ、俺っ。なんのために助けに来たんだよっ》

 実践の場を知らない若者が、自分の中から溢れてやまない恐怖に歯噛みする思念を嫌というほど感じ取った。赤木の息子と呼ばれたその男の辰巳に寄せる信頼が、辰巳の人間性をまたひとつGINに知らしめた。そして、さらに迷い悩む。

(零……俺らが今すべきことは、なんだと思う?)

 第二戦が沈静してこう着状態が続く中、GINは零と格納スペースに身を隠したまま、小さな声で呟いた。

(……まだ、答えが、出せません)

 カーペットに置かれたGINの両手は、素手のままで彼女の両手に包まれて動けないでいた。雑多な緊張の思念がGINの脳内でざわめく中、ひときわ強い感情を放つふたつの似たような感情と、零の手から漏れ伝わって来るGINとよく似た戸惑いの念が、ふたりの体を硬直させていた。

 これは“指令”ではなかった。では、一体なんなのか。まだふたりには、その答えが出せないでいた。


 固まったまま動けなかったGINと零を再び動かしたのは、高木に答えた辰巳の言葉と、そしてその根底にある強い想いだった。

《撃ってやるよ、高木さん。俺たちはお互い、復讐のために手を穢し過ぎた。俺以上にあなたの方が、そんな穢い手で生きながらえるのが辛いでしょう》

 GINの迷いの源になった思いを彼がとうとう言葉にしてしまった。矛盾したもうひとつの思いを抱えている辰巳がそちらを選択してしまったことに、GINは口惜しげに顔をゆがませた。

《あいつのところへ帰るには、俺、あんまりにも自分を血で穢し過ぎちゃったんだ》

 GINの瞳がグリーンに染まる。間に合えと強く念じるのに、頭痛が邪魔をした。

(い……っつ)

《辰巳――巻き込んで、済まなかった》

 高木の声を感知すると同時に、鋭い痛みがこめかみを走った。

(風間っ)

 零の焦れた声が、“一発”の銃声に掻き消された。

 事後に自分の《能力》や知り得た情報をすべて絞り出してやろうと思っていた相手がくずおれていく。尊敬し、見上げ、彼を未来の紀由と見立てて来た高木が、辰巳の銃弾に倒れていった。彼は自分の拳銃から既に銃弾を抜き取っていた。

《やっぱ、撃たないと思った。今度は地獄でコンビ組もうぜ、高木さん》

 辰巳のつまらないジョークが、空気を伝ってGINに届く。切なげに、苦しげに、呟くように微かな響きで。

(零……奴の拳銃、を……)

 辰巳にシンクロし過ぎて、GINの体が自由にならない。痛みが行動の邪魔をする。彼女に辰巳の拳銃を撃ち跳ねろと伝えたつもりが、巧く言葉にさえならなかった。その間にも、SITが一斉に辰巳のもとへ押し寄せる。GINのヘルメットが不意に外され、手早く口の中に鎮痛剤が押し込まれた。それを脊髄反射で噛み砕く。間に合うか解らないものの、どうにかクラウチングの姿勢を取り直した。零が一歩先に飛び出し、GINもそのあとについて飛び出した。

『?!』

『!』

 辰巳が下手くそな微笑を浮かべる。哀しげな、憐れむような、逃げられぬと諦めたその笑みが、彼の救出に向かったふたりの歩を再び阻んだ。


 ――総司、見届けてくれてありがとさん。今の内に逃げな。


 彼の視線が、先ほどの若者に注がれていた。そこにこめられた彼の願いが、GINの進む先を辰巳から赤木総司の方へと変えさせた。

『零! 巡査の保護が優先だ!』

 彼の唇がかたどった言葉の意味を、きっと赤木総司という若者は解っている。サイズの合わない制服をまとう彼もまた、GINNたちと同じくここへ乗り込むために無茶な形で奪い取って勝手に乗り込んで来たのだろう。彼の身元が警察へ知れない形でここから逃がすことが先決だと考えた。

『でも“彼”は』

 暗に辰巳の救出を打診する零に返す言葉がくぐもった。

『間に、合わない』

 そんな物理的な理由だけでなく、彼がそれを望んでいなかった。それでもGINが迷い続けたのは、彼の中に息づく“彼女”という大きな存在――守谷、克美。


 ――最期くらい、言ってもいいかなあ……俺の……本当の、胸の内――。


 めくるめく長い時間、それでいてほんの束の間とも感じさせる、守谷克美と過ごした彼の十七年。

 ほとんど人に直接触れたことのないGINにさえ面映く感じさせる、彼女がたくさん彼の掌に綴った、指文字のくすぐったい感触。

 幾度となく繰り返された、「だいすき」と囁く甘い声を感じ取り、彼の軋む想いがGINの瞳を潤ませた。

 何度も交わした、小鳥が啄ばむような、優しく淡い“家族”の証。互いが互いを無二の存在だったと、それがGINにまで訴えて来る。

 喫茶店を営みながら隠れ暮らしたふたりを常に包んだコーヒーの芳香が、辰巳の思念を読むGINの鼻をツンと突くように痛ませた。

 屈託なく高らかに響く、無邪気で明るい笑い声。砂糖がたっぷりの生クリームがとろけるような、甘く優しく穏やかな時間――辰巳はひと回りも年下の彼女を、ひとりの女性として愛し、守り続けて来た。


 ――ただ、愛してただけ。見返りなんて要らなかったんだ。だから、克美……俺のことを待たずに、生きている人たちと、笑って過ごしていきな。


 その想いと同時に、銃声が室内に轟いた。

『辰(にい)っ! 高木さん! 離せこの野郎!』

 そう叫んで暴れる赤木総司を、無理やり担ぎ上げて出口へ向かう。零が素早く出口を確保し、GINを非常階段へと走らせた。薬の効果が表れ、頭痛が次第に晴れていく。一気に《能力》を解放し、非常階段を一足跳びで最下層まで飛び降りた。

『約束したのに……恩返しするんだ、って……』

 GINは抗う気力さえ失くしてそう呟いた赤木の胸倉を掴んで怒鳴り声を上げた。

『泣いてる暇なんかないだろう、お前はっ。あいつの尻拭いをする役目を押しつけられたんなら、何がなんでも守谷克美を探し出せっ。あいつの舎弟なら、居場所の手掛かりくらい持ってるだろうがっ。ここでぼぉっとしてパクられてる場合じゃないことくらい判るだろう。早くこいつを脱いで、ここから逃げろっ』

 誰に対する腹立たしさなのかも解らないまま、赤木に向かって毒を吐いた。彼が大きく目を見開き、理性と思考を取り戻していく様を見つめながら大きく息を吐き出した。

『あんた、何者?』

 赤木の問いにどう答えてよいのか一瞬戸惑ったが

『……海藤辰巳と高木さんの計画に巻き込まれた一般人』

 とだけ答えた。

『さっきの、あれはどういう』

 そう言い掛けた彼から逃げるように、GINは言葉をたたみ掛けた。

『奴らを逃がせなかった詫びはいつか改めて必ず、守谷克美に返す。今はとにかく、サツがこの裏路地まで出ばって来る前に逃げろよっ』

 GINが赤木にそう発すると同時に、零がいいタイミングで追いついて来た。GINは彼女の手を取り逃げるようにそこから走り去った。




 相手にダイブしたわけではないので大した頭痛ではないものの、紀由がGINの額から手を離した瞬間のかすかな揺れも、こめかみにズキリとした痛みを走らせた。

「……高木さんの伝えようとしたことは、解った、という気がする」

 深い溜息をついて、疲れたようにソファへ背を預ける紀由の顔が、GINを六年前から現在へ戻ったと実感させるのに充分な歴史を感じさせた。

「お前の大嫌いな不正を働いていた人だけど、失望は、しないんだ?」

「必要悪、というものを知ったからな。やっていることは、今のところ高木さんと似たようなものだ。サレンダーと警察の両方を利用している辺り、とかな」

 苦々しげに笑む紀由の表情は、まだどこか晴れないニュアンスを漂わせていた。

 GINは頭痛薬代わりにと思い、ラックからグラスをふたつとヘネシーを取り出した。なみなみとそれを注いで、ひとつを紀由の前に滑らせる。

「誰を視点にどう考えればいいのか、あのときの俺はわかんなくって」

 高木も辰巳も、潔癖で完璧主義なために、彼らを視点に据えると救出が悪だと思えてしまう。法が悪を罰してくれないならば、毒で毒を征すとばかりに不正に走り、人を殺める。それが赦されていいとは思えない。

 そう思う一方で、あの計画がなかったら、今ごろどれだけの人間が海藤組の犠牲になり続けて死体の山が築かれていただろう、とも思う。

「だけど、あのあと零がすごく俺のことを責めたんだよな。あいつは辰巳や高木さんの中で見た、守谷克美にえらく同調しちゃったらしくって」

“海藤辰巳は最期まで勝手が過ぎる。独りよがりの正義感を振りかざしたまま死なせるあなたも、大バカです”

「って。大切な人の心ひとつも守れなかったくせに、って。救出に迷った俺も、海藤辰巳と同罪だ、とさ」

「耳の痛い話だな」

 どちらからともなく、グラスに口をつける。ヘネシーをすする小さな音が、GINの事務所に小さく響いた。


 一度走り始めた計画を、高木と辰巳は、互いが互いの過去を知るが故に、覆すことが出来なかった。守るべき存在があったのに。慕う部下たちに寄せる想いがあったのに。最期に彼らが遺した想いは

“大切な者を裏切る道を選んだ自分に、正義を謳う資格などない”

 とGINに諭すような、深い懺悔と後悔だった。

「正義って、なんだろな……」

 GINがぽつりと呟いた。

「高木さんは、それを常に念頭に置いた上で行動しろ、と言いたかったのかも知れないな」

 紀由が眉根を寄せて、GINの言葉に合いの手を打った。

「高木さんから送られて来た資料に、手書きのメモが添えられていた」

 ――結果的に君を巻き込まざるを得ない状況となったことに心からの詫びを伝え、あとを君に託す――。

「当時は意味が解らなかった。とにかく、まずは翌日に突入の話があった藤澤会関連の資料から着手したところへ、緊急招集が掛かってあの事件に参画する状況になった。あのあと自宅に保管しておいたファイルの解読に取り掛かったのだが、幾つかナンバリングが飛んでいた。お前に何か託したのかと思っていたが、どうやら違ったようだな」

 紀由が用事は済んだとばかりに、グラスの酒を飲み干した。

「まあ、目ぼしい民事の案件があったときには投げてやる。それらしい案件は見つけてある。年明けまで、もう少し待て」

 それが今回の情報提供への報酬のつもりなのだろうか。紀由は立ち上がったとき、ついでのようにそういい捨てて、GINに背中を向けた。

「欠けたファイル、案外零が握ってるとか、ないのかな」

 GINのさりげない誘い水をどう受け取ったのか、振り返った紀由の眉間に深い皺が刻まれていた。

「探っておけ」

「なんで俺が。お前が直接訊けばいいじゃん」

「毛嫌いされていると判っていて、必要以上に接触するほど俺はわがままではないつもりだ」

(まだそんな勘違いをしてるのか)

 鈍感な幼馴染に、呆れ混じりの溜息をつく。

「志保さんに遠慮してるだけだぞ、あれは。零も彼女が妬きもち妬きだって知ってるじゃん」

「……意味がわからん」

「自分に時間を使う暇があるなら、奥さんに時間をあげるべき。それが零の考え方」

「……なるほど、彼女らしい気遣いだな」

 紀由の表情が和み、珍しくはにかむ微笑を浮かべた。

「長年お前とセットでつき合って来ているからか、零は妹のような感覚で、節介とは解っていても、やはりあの気丈さが何かと心配でな。それを疎ましく思われているとばかり思っていた」

 そう語って遠くを見つめる瞳には、きっと由良が映っている。そう思うとGINの胸につきりとしたものが一瞬走った。

「そんなこと、ないよ、きっと。零はお前の手足になるためにデカを目指して今があるんだから」

「ありがたい話だな。では、遠慮なく彼女に訊いてみることにしよう」

 GINはそう言って扉の向こうに消えた旧友を、複雑な心境で見送った。

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