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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

すずの音

作者: 日向 碧
掲載日:2026/07/19


 佐藤は、錆びついた軽自動車を路肩に寄せると、深いため息をついた。目の前にあるのは、山間の集落の外れに佇む、蔦に覆われた古民家だ。

 持ち主である斎藤健一(29)が音信不通になって数年。固定資産税の未納が重なり、自治体から資産状況の確認を依頼された佐藤は、いわゆる「負の遺産」の整理のためにここへ送り込まれた。


「ただの確認作業だ。中を確認して、資産価値がないことを証明する。それだけだ」

 

 自分に言い聞かせる。税理士の自分にとって、ここは心霊スポットではない。単なる「放置された負の遺産」の山に過ぎないはずだった。

 しかし、玄関の引き戸に手をかけたとき、指先から伝わってくる木材の冷たさに、佐藤は妙な居心地の悪さを感じた。


 家の中は、時が止まったかのような静寂に包まれていた。埃の積もった居間に、健一の遺体はあった。


  いつ亡くなったのかは分からない。だがその顔には今なお強い恐怖が張り付いている。佐藤はすぐさま警察へ通報しようと携帯を取り出したが、遺体のあまりに不自然な姿に手が止まった。


「……何を持っているんだ?」


 健一の右手は胸元で何かを強く握りしめていたのだ。

 それを見るなり職業的な好奇心というより、何なのか確かめずにはいられないという本能的な衝動が佐藤を突き動かした。彼は携帯を一度ポケットに戻し、震える手で遺体の指を一本ずつ解いていった。

 

 こわばった指が開かれると、その掌から、小さな鉄の鈴のようなモノがコロリと畳の上に転がり落ちた。表面には黒ずんだ塊が付着しており、嫌な鉄臭さが漂っている。


 佐藤はそれを一瞥し、傍らに落ちていた日記帳へと視線を移した。警察が来るまでの間、この男に何が起きたのか、知っておく必要があるかもしれない。


【健一の日記より】


〇月×日

 千代がまた鳴っていると言う。耳障りな、高い鈴の音だ。俺には何も聞こえない。そんなものはどこにもないと言い聞かせても、奴は「聞こえる、ずっと聞こえる」と泣き叫ぶ。

「お願い、静かにしてって言って!」

 千代は俺の腕に縋りつく。その爪が食い込むほど力強い。俺には、ただの静寂しか聞こえないのに。彼女の怯える瞳を見ていると、俺の心までが削り取られていくようだ。


△月△日

 最近、千代の様子がおかしい。食事中も、寝ている間も、ふと手を止めては空虚な空間を凝視している。

「今、鳴ったでしょう?」

何度否定しても無駄だ。彼女は俺が『嘘をついている』と思い込んでいる。俺を信じないのか。これほど愛しているのに。

 

 彼女の言う『音』が、俺たち夫婦の間に目に見えない壁を作っていく。俺の優しさが、彼女の狂気の前では無力だということが、何よりも悲しい。


□月□日

 今日も朝から耳を塞いでいる。

「お願い、消して。あの子が怒ってるのよ」

 あの子とは誰だ。俺たちの間に子供はいない。千代の幻聴は、単なる聴覚の異常ではない。彼女は何か別の世界と繋がってしまっているのか。俺はついに、彼女の耳を塞ぐために、その頭を抱きしめた。だが、彼女は俺の腕を振り払った。

 まるで俺が、その鈴を鳴らしている犯人であるかのように。


×月×日

 憎い。千代のその怯えた顔を見るたび、俺の中で何かが冷めていく。

 なぜ俺が、これほど苦しまなければならない。なぜ俺が、夜な夜なこの不毛な議論を繰り返さなければならない。彼女が信じている『音』は、俺にとっての『不快』そのものだ。


 夜中、彼女が空中で指を動かし、リズムを刻むのを見た。チリン、チリンと……何も鳴っていない空間で。その姿があまりに滑稽で、あまりに悍ましくて、俺は震えが止まらなかった。


◎月◎日

 もう、限界だ。

 俺の耳には何も聞こえない。だが、千代の耳元で鳴り続けるその音が、俺の神経を食い破る。彼女の命が削れるのと引き換えに、俺の理性が壊れていく。


「ねえ、本当に消してくれないの?」

 彼女が泣きながら俺を見た。その瞳に映る俺は、悪魔のように歪んでいただろう。

 俺は彼女の首に手をかけた。悲鳴なんて上げさせない。彼女が信じ続けていた『音』を、この手で永久に封印してやるんだ。


▲月▲日

 静かだ。

 千代はもういない。冷たくなった彼女の傍らで、 俺は安堵した。……はずだった。

 なのに。

 チリン。

 窓もない密室で、風もないのに音がした。

 千代が死んだ瞬間に、なぜ。

 

 耳元で、あの忌々しい音が鳴り続けている。一度殺したはずの彼女の『音』が、今度は俺の鼓膜の裏側に直接響いているのだ。


日付不明

 頭が割れる。家中の床を剥がした。壁を壊した。 鈴などどこにもない。

 それでも音がする。

 ああ、わかった。彼女は正しかったんだ。鈴な  ど、どこにも置かれていなかったんだ。

 鈴は、最初からずっとここにあった。彼女の耳ではなく、俺の頭の中に。


 俺は、千代の狂気を殺したのではなく、自分の中に移植してしまったのだ。

 今、喉の奥で音がする。これを取り出せば、終わる。千代が死に際に見せた、あの安らかな微笑みに辿り着けるはずだ。

   

 佐藤は日記を閉じた。健一が「自分の中から掴み出した」と記した鈴。それは、現実にはあり得ないはずの現象だった。

 だが、そのとき――。

 静まり返った座敷に、乾いた音が響いた。

 

 チリン。


 佐藤が顔を上げると、落ちていたはずの鈴が、健一の遺体のそばから、まるで誰かに押されたかのようにスルスルと移動していた。

 佐藤は日記をその場に放り出し、死に物狂いで家を飛び出した。


 警察が到着したとき、座敷には健一の遺体と、古びた日記帳だけが残されていた。しかし、現場検証を行った警官の一人が、不可解な表情で首を傾げた。


「……奇妙だな。この男、自分で自分の喉を切り裂いている。何かを摘出したのか? 喉の奥には、第二頸椎――現場じゃ『お鈴』なんて呼ぶ骨だが、それを無理やり引きずり出したような跡がある。だが、その骨自体が見当たらない」

   ◇

 後日、佐藤は事務所でその日の報告書を作成していた。

「……資産価値、なし」

キーボードを叩く手が止まる。

静寂の中で、どこからともなく高い、鋭い音がした。

チリン。

 佐藤は背筋を凍らせた。自分の耳元で、誰かが囁くように鳴ったのだ。


 一度その存在を認識し、その「音」を信じてしまった瞬間、呪縛は所有者を入れ替える。

 佐藤は今も、夜中にふと目が覚めることがある。

 静寂の中で響く、逃れられない鈴の音。それはきっと、彼がこの世から消えるまで、決して止まることはないのだろう。

*内容を一部変更しました。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


夏が近づき、最近は暑い日が続いていますね。


少しでも涼しくなっていただければと思い、この作品を書いていました。ですが、書いているうちに自分まで家の物音を意識するようになってしまい、夜は少し落ち着かなくなりました(笑)。


この作品で、皆様に少しでもひんやりとした気分を味わっていただけたなら嬉しいです。


普段は、思わず顔がにやけてしまうような恋愛小説も執筆しています。もしご興味がありましたら、ぜひそちらも読んでいただけると幸いです。

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