春の夜の夢
夜の帷がほどけはじめ、東の空が色付きはじめる頃、彼の者の声は聞こえてくる。
「アポロン様、お目覚めください。お時間ですよ」
くすくすと笑いながら、まるで鈴を転がすような声で少女とも少年ともつかぬ子が一人、金色の眩い髪を掻き分けて、その奥に隠れた白い貝殻のような耳に語り掛けた。いたずら好きなその者は春の花の吐息を眠る男の耳元に吹き掛ける。水々しい花々の香りと共に、男は金色の睫毛に縁取られた瞼を、ゆっくりと持ち上げた。
鮮やかな青空よりも更に澄んだ男の瞳には、鳶色の髪とヒヤシンス色の瞳の少年が、屈託ない笑顔で微笑んでいる。
「おはようございます。アポロン様」
「あぁ、おはよう…」
アポロンはまだ少し気怠い腕を持ち上げ、少年の頬に触れた。彼はそっと目を閉じ、されるがままになっている。しかし時折、彼は気紛れに己の頬を擦り付けて、その笑みを深くした。
「ヒュー」
「はい、何でしょう?」
アポロンが少年に声を掛ければ、彼は直ぐ様笑顔を返す。紫色の瞳を細め、真っ直ぐに愛する男だけを見つめるその瞼の端に、アポロンは上半身を起こし、口付けた。
「今日は、外にいこうか」
「はい」
彼はアポロンの言うことに逆らわない。アポロンの身支度を手伝い、常に二人で共に在ろうとする。その髪には何時ぞやアポロンが渡したヒヤシンスの髪飾りが漸く顔を出し始めた朝日に照らされ、銀色に輝いていた。
この島は小さな島である。しかし、光り輝くという名の通り、泉が湧き、木々は生い茂り、花々が美しく咲き誇る。死も生も許されず、そこには輝かしい停滞だけがあった。愛しい者と二人、時に花を愛で、気紛れに訪れる友人の相手をし、日々の責務を全うする。それが、此処での日々であった。
「アポロン様、今日は何を致しましょうか」
「そうだね…。あぁ、思いついたものがある」
そう言うと、彼は竪琴を持った来て欲しいと少年に頼んだ。
「はい、では…」
「あぁ、ダメだ。待ってくれ、二人で行こう」
「はい…?わかりました」
急いで取りに行こうとした彼をアポロンは呼び止めた。少年は驚いた顔をしたが、共に行こうという言葉に、素直に頷いた。朝日が段々と、色鮮やかな神殿の姿を照らし出していく。色とりどりに飾り立てられたドーリス式の柱と天井から吊られた垂れ幕が、朝露に濡れた風に踊っている。隣を歩く少年は、アポロンが奏でる新たな音色はどんなものかと、とても楽しみにしているようで、普段よりもよく回る細い足がその急いた気持ちを隠しきれずにいた。
竪琴を手に取り、先程の庭へと戻り、二人はなだらかな石に腰掛けた。ポロン…ポロン……と、アポロンの指が竪琴を奏で始める。少年は何も言わず、ただその隣で彼が生み出すその音に身を委ねていた。
世界に光を齎し、熱を分け与え、鮮やかな色を取り戻す。世界のすべてが目覚め、生を取り戻し始めるそんなとき、アポロンが奏でた音色は、華やかでありつつも、どこか心悲しいものであった。全ての音を聞き終えて、少年は不思議そうな顔をした。
「何がそれ程、貴方様の心を悲しませるのですか?」
少年にはバレていた。だが、アポロンはそれを知っていた。嘘をつけぬアポロンは、素直にその意味を話した。
「最も愛する者を失った。いや、今も私のもとにいる。その愛も此処にある。だが、やはり私は失ってしまったのだ」
「そうなのですね…」
彼は悲しげな顔をして、そっとアポロンに寄り添った。
「大丈夫です。私はどんな姿になっても、貴方様のお側におりますよ」
そう言った彼をアポロンは竪琴も投げ捨てて、掻き抱いた。少年の身体からは力が抜け、くったりとその身をアポロンの身体に預け、穏やかに笑っている。
「愛しております。今も、これからも、私は貴方様から離れません」
「あぁ、わかっている、わかっているよ…。私もだ、私も君を永遠に愛している」
段々と、彼の熱が奪われていく。何れ程抱きしめていようとも、何度彼に口付けようと、その熱は戻ることはない。
「あぁ、もし君がいたら、天を住処にしていなければ、この子を助けられただろうか…。君が超越した死を、私は越えることができない。アスクレピオス…もしも今、君がこの場に居てくれたなら、君は私の愛しい恋人…ヒュアキントスを救ってくれたか?」
腕の中には穏やかな顔の少年が眠っている。その身はだらりと力無く、アポロンにすべてを任せてしまっている。その身は冷たく、やがて花となるのだろう。甘やかな香りと共に、春の訪れを告げるのだ。しかし、そこに彼の姿はない。あるのは小さな花のみだ。
「あぁ…やはり悲しい…。私はこんなにも、何度この春を繰り返しても、やはり私は悲しいのだ。この目から溢れる涙は枯れることを知らず、君が世界に芽吹く度に滝のように流れ出るのだ。もう二度と君を抱けぬこの腕に、一体何の意味があろうか…。あぁ、ヒュー…こんな、これほどに愚かな男になってしまった私を許しておくれ…」
目が覚めた。外はまだ暗く、鮮やかな神殿は夜の色に染まっている。竪琴と一人の男の歌声が閨の中でほのかに響いている。
「オルフェウス…」
「随分と、魘されておいででしたよ。父上…」
長い睫毛が湿っている。目尻から溢れた雫は耳にまで流れ落ち、耳を濡らした。歌声が止み、オルフェウスの心配そうな視線が寝台を覆うカーテン越しにもわかる。
「毎年、この時期の夜は眠りが浅いようですね」
「いいや、寝付きはいいんだ…」
眠りが浅いわけではない。ただ、自分の往生際が悪いのだとアポロンは知っている。この日ばかりは、鉄の理性を恨むのだ。
眠りの中でなら、あの子に会える。もう抱き締めることのできないその身を、掻き抱くこともできる。愛らしい声を聞いて、二人だけの世界でただ竪琴を引くだけの男でいられる。そのまま、沈んでしまいたいと、何度思ったことだろう。だが、神としての自分が、鉄の理性がそれを許さない。これは夢だ、目を覚ませと、偽りのあの子がこの腕の中で何度も冷たくなっていった。
「花となったあの子とは、この先も会えるだろう。だが、人の身を持つあの子は、もういない…」
雪が溶け、太陽がギリシャに戻る頃、必ず彼の瞳は曇り雨が降る。その雨は必ず夜に流れ落ち、ヒヤシンスの花の香りがこの神殿を満たす頃、漸く止むのだ。




