第1話 一 七日
entréeに続く物語です。1話ずつ短編になっております。
01
私――一七日は、春公演の主役を降板することになった。
怪我のせいだ、と誰もが言う。それは事実である。舞台から逃げたわけでも、駄々を捏ねたわけでもない。『怪我』。その二文字が先頭にやってくる。けれど私にとって、その言葉は理由にならなかった。
ただ、舞台に立てなくなった。その言葉だけで、十分だった。
私が通う国立バレエ学校の春公演は、最終学年にとって特別な意味を持つ。
進級テストや日々の評価とは違い、「舞台に立つ自分」を観客に見せられる、数少ない機会だ。いわばインターハイの決勝戦に進取する感覚と言っても過言では無い。
その中でも主役は、努力だけでは掴めない場所にある。元々持っているポテンシャルや、それこそ華と呼ばれる目に見えない光。
私が踊るはずだったのは、『ドン・キホーテ』のキトリ。いわばヒロイン。太陽のように明るく、強く、自由な娘。自分とは正反対の役だと思いながら、それでも私は、この役に人生を懸けていた。
怪我をしたのは、リハーサル中だった。
元々癖のあった左足首を、思い切り捻った。床に足をついた瞬間、鈍い衝撃が走り、次の瞬間には立っていられなくなっていた。靭帯を酷く伸ばしており、歩くことさえままならない状態だったという。
医師は言った。
「今は学生なんだから、無理はしない方がいい」
教師も言った。
「春公演は、代役を立てましょう」
誰も間違ったことは言っていない。けれど、私はただただ、舞台を失った。
代役はすぐに決まった。
同期であり、私の一番のライバル――新井さくら。
彼女は、私とは正反対の踊りをする。パキパキと、音を切るように踊る私に対し、彼女はのびのびと、呼吸ごと音楽に溶け込むタイプだった。視線を鋭く投げて魅せる私とは違い、彼女は柔らかく微笑み、自然と観客の心を掴む。
同じ学年、同じレッスンを受け、同じ時間を過ごしてきたはずなのに。
どうしてここまで違うのだろう、と何度思ったかわからない。
そんな彼女の代役発表により、リハーサル初日からスタジオには人が賑わっていた。みんな興味があるのだ。『ザ・キトリ』という踊り方をする私とは違い、どちらかというと『ザ・お姫様』な踊り方をする彼女が、どんな“キトリ”をみせてくれるのだろうかと。
既にスタジオの隅でパイプ椅子に腰掛けていた私と目が合うと、みんな気まずそうに会釈する。私は冷めた目でスタジオを見渡した。
この中で一体何人の子が、私の降板を喜んでいるのだろうか、――と。
一番最初にスタジオ入りしていたさくらは既に午前中のレッスンで体を温めており、トウシューズを履いて準備していた。パートナーの向葵の準備が整い次第、リハーサルの開始だ。
正直、心に余裕があるかと聞かれたら、そんなこと全くない。悔しすぎる。自分が踊るはずだった役を、この椅子に座って大人しく見てるなんて。でも、そうとも言っていられない理由が、私にはあった。
結論から言うと、二人の踊りは最高だった。流石としか言いようがなかった。
さくらは、私たち最終学年の中でトップの成績で、私は二番手だった。本来、春公演では学年トップが主役を踊るのだが、キトリは割に合わないと言う理由で、私が配役されたのだ。
でも、そんなの間違っていた。
キトリは、誰がどう見ても最初から、さくらのものだった。同級生たちや下級生たちから称賛の声、拍手の音。先生でさえも、やれやれと首を横に振っていた。さくらと向葵は嬉しそうに顔を見合わせる。一瞬、向葵がこちらを見たが、私は目を伏せた。だから、実際にこちらを見たかはわからない。
――知りたくなかった。
同情なのか、慰めなのか、あるいは何も考えていないのか。どんな感情で見られても、今の私は耐えられなかった。
心が醜くなっていく自分を自覚するのが辛い。怪我をしたのは、自分の責任だし、むしろ大役で踊ってくれるさくらには感謝をするべきだ。なのに、心はそんな素直になってくれない。
胸の奥で、黒いものが渦を巻く。
妬ましい。
悔しい。
舞台に立ちたい。
そんな感情を抱いてしまう自分が、最低だと思った。
私は、いつからこんなに醜くなってしまったのだろう。いっそ、誰にも気づかれず、このスタジオから消えてしまえたらいいのに。――空気になれればいいのに。
***
――やってしまった。
七日は自責の念にかられながら、校内の廊下を一人歩いていた。
スタジオの近くを通れば、レッスン曲が聞こえる。どの学年かわからないが、使っている曲でおおよそは予測がつく。私はそのそばから離れるように、人気のない廊下を歩いていた。そして不意に見つけたソファーに腰を落とし頭を抱える。日の当たらない木陰のような場所だった。
――何も言わずにレッスンを欠席するなんて、絶対に許されないのに。
怪我をしても、レッスンを見学するかリハビリに専念するかのどちらかなのだが、この日、七日は誰にも告げず、ふらふらと学校を歩いていた。
理由は簡単だ。
いますぐにでもこの場から逃げ出したくなったから。でも、学校内を出たら、本当に戻れなくなる気がして、足は学校内で止まった。七日は一度顔をあげ、周りを警戒する。ここなら誰にも見つからないだろうと、ほっと胸を撫で下ろす。今から言い訳を考えなくては、と頭を冷やしていた。
いつもなら輝いて見える高い天井から吊られたシャンデリアも、今は鬱陶しい光の反射媒体にしか見えない。この景色や空間が好きだったのに、今は胸を締めつける。
「なあにしてんだろうな、私……」
呟きは誰に届くこともなく、冷えた空気に溶けた。
「一さん」
突然聞こえた、聞きなれない声にびくりと肩が震える。振り返った先に、藤波校長の姿があった。背筋は糸のようにまっすぐで、長い影が床にスッと落ちている。
「……校長先生……」
声が震えた。七日は心の奥に巣食う黒いものを、誰にも知られたくなかった。それから自分のいる立場に気がつく。七日は慌てて立ち上がった。
「あ、いや、これは違くて、その……」
年齢にそぐわず、モジモジとしてしまった――。
「ここはね」
校長は、逃げ場を与えることなく微笑んだ。
「よく泣きたい子が来る廊下なのよ。ほら、ここって灯りが届かないじゃない? あなたも……そう?」
自分の心に寄り添うように優しく問いかけてくる校長の声を聞いて、七日の心の枷が崩れた。
「……悔しいんです。怪我をしたのは自分のせいなのに、どうしてもさくらを見ていると……嫉妬してしまう。舞台に立つのは彼女が当然で、私には何もできないのに」
自分の足が嫌になる。
なんで怪我をしてしまったのか。
なんで自分はあの舞台に立てないのか。
そんな思いが堂々と心の奥を巡り、更には代役を引き受けてくれたさくらに感謝すべきなのに、嫉妬してしまう。
「そんな自分が最低で……消えてしまいたいくらい、嫌になるんです」
言葉にすればするほど、声が小さくかすんでいった。
じゃなければ、泣いてしまいそうで。
校長はしばらく黙っていた。窓の外を見つめ、その目に遠い記憶の影を浮かべる。
「……雪々原結、という人がいました」
「ゆ、ゆきのはら……ゆい?」
それって、もしかして―――。
「ええ。私の大切な同期で、誰よりも光を纏ったバレリーナです。誰もが『彼女は未来のプリマになる』と口を揃えていました。私も同じ舞台に立ちながら、ずっと思っていました――私は彼女には勝てない、と」
校長は一度、窓の外に目をやる。夕陽がその横顔を紅く染めた。
「けれど、そんな結がある日、稽古の後に私へ言ったんです。『あなたの踊りは私の心を震わせるの。だから私は、あなたと並んで踊ることが怖い時がある』と」
「……結さんが、そんなふうに?」
七日はそっと問いた。
「ええ。あの結が。お世辞にも、彼女は独特な性格をしていて、決して万人に好かれるタイプではありませんでした。……私は、大好きでしたけどね。だからこそ、衝撃的でした。嫉妬していたのは私だけではなく、結もまた、私を見て揺れていた。そのことに気づいた時、自分の踊りに誇りを持てたのです」
校長の瞳が細くなる。そしてその細長い指先を軽くさすった。
懐かしさと痛みを抱えて。
「――でも、結は突然舞台から姿を消しました。どんな理由か、今もわかりません。ただ、最後に交わした言葉を今でも覚えています。『また一緒に踊ろうね』と。……私は現役を引退してしまいましたが、その一言は、今の私を支えています」
七日は胸を押さえた。ズキズキと痛んでいたこの痛みが、ほんの少し、暖かさが差し込んだ気がした。
「だからね、一さん。嫉妬することを恥じなくていい。それはあなたが本気で舞台を望んでいる証だからなの。あなたの胸にある黒い感情も、全部含めて、踊りに変えていけばいい。嫉妬も悔しさも燃料になる。さくらさんの踊りを見なさい。そして、その火を自分の中に移すのです」
「……でも……でも、私は臆病です。さくらをみたら、壊れてしまいそうで」
「壊れることも受け止めるのよ。踊りは何もずっと完璧じゃない。基礎に戻って進んで、また戻って…――。バレエってそういうものでしょ?」
七日の瞳に涙が溢れた。
「……舞台に、立ちたい。もう一度、主役を踊れる日を信じたいです」
校長は優しく、――しかしどこか力強く頷いた。
「その言葉、忘れないで」
バレエはね――。
「才能がある人間だけが舞台に立てるわけじゃないの」
舞台を諦めきれなかった人間が、最後まで立つの――――。
廊下に響いたどこかのスタジオのピアノの音が、まるで二人のための伴奏のように流れていった。
二人はゆっくりと並んで歩き出した。
磨かれた石畳の床に、靴音が規則正しく響き、大きな窓から差し込む夕陽が、長い廊下を茜色に染めていた。
「……校長先生、どうしてここの廊下に来られたんですか?」
七日がぽつりと尋ねる。
「ここはね、私にとっても思い出の場所なの。若い頃、留学先の学校にも、似たような長い廊下があって、辛いことがあると、よく一人で歩いたものです」
校長はふふふっと微笑んだ。
「先生でも、そんな時があったんですね」
「ええ。みんなと同じ。ただ、私の方が少し先に生まれただけの話よ」
その笑みに、張り詰めていた七日の肩も少しだけ緩む。
「……あの、校長先生」
「なあに?」
「もし私が……また主役を掴めたら、そのときは、見てくださいますか?」
校長は足を止め、七日の横顔を見つめた。
「もちろん。あなたが舞台に立つなら、どんな小さな役でも私は必ず見るわ」
その言葉に、七日の唇がふっと綻む。二人は再び歩き出し、稽古場の前にたどり着いた。
ドアの向こうからはピアノとバレエシューズの音が、活気ある息遣いと共に漏れてくる。
「行きましょう。一さん」
「はい」
七日は深く息を吸い込んだ。
扉を開けば、また現実が待っている。けれど、もうさっきまでの逃げ出したい気持ちはなかった。
廊下を共に歩いた時間が、確かに彼女を前に進ませていた。
***
春公演の準備は着々と進行された。
まず巨大ポスターが校内に貼られる。それは否が応なく七日の視界へ入ってくるが、もう恐れることはなかった。七日は度々足を止め、ポスターを見上げる。
ギュッと拳を握り、また歩き出す。
ポスターは近くの駅や掲示板にも貼られ、本格的に広報が始まった。ポスターができた後は、衣装合わせで廊下が賑わう。基本、学校が所持している衣装たちだが触れ合う機会はそうそうない。生徒たちは顔色を輝かせ、鏡の前で写真を撮ったりと、気持ちを高めていった。
そうして一日一日過ぎていき、春公演の日となった。
午後の光が傾き始める頃、劇場のロビーには観客たちの足音が重なっていた。
ざわめき、笑い声、衣擦れの音が、一つの熱気となって空間を満たしていく。舞台が始まる前の空気には、どこか祝祭めいた高揚が漂っていた。
そんな観客たちの姿を、二階からじっと見つめる少女がいた。
彼女は銀色の手すりに肘を乗せ、手の上に顎を乗せながら、過ぎてゆく時間をじっと受け入れる。まるで、その景色を目に焼き付けるかのように。
整えられた髪や胸に輝くコサージュ、特別な夜を迎える期待に満ちた横顔、――そのひとつひとつが、舞台の花柳を象徴していた。
「――あ」
一階で母親に手を取られながら歩く女の子と、ふと少女の目が合う。女の子はかすかに首を傾げた。目線はお互いに合ったまま逸らさない。
しばらくして少女は瞳を伏せ、静かに踵を返す。
誰に言葉を残すこともなく、観客たちの熱気から距離を取るように、その場を去った。
「……ねえ、マぁマ」
切ったチケットを受け取った女の子の母親と見られる女性は、「なあに?」と言う。
女の子は特徴的な銀色の手すりが並ぶ二階のロビーを指差した。
「さっきね、あそこに人がいたの」
「そうなのねぇ」
「すっごく、すっごく綺麗な人だったの」
次第に目を輝かせながら女の子は母親に言う。「バレエ学校の人かなぁ」と母親は相槌を打った。
「るい、あの人に呼ばれた気がする!」
「え?」
「るい、この学校入る!」
女の子の瞳にシャンデリアのハイライトが映る。その純粋な水晶は、母親の目にも飛び込んできた。
一瞬驚いた母親は固まったが、後ろから続く人の邪魔にならないよう、女の子の手を弾きながら再び歩き出した。
それから、優しく微笑んだ。
「じゃあ、まずはバレエを習わないとね」
やがて劇場内にベルが鳴り響いた。
一瞬にしてざわめきが止み、劇場は張り詰めた静寂に包まれる。
数秒の静寂。
指揮者がオーケストラピットに現れる。観客は拍手で指揮者を迎える。若くて厳格に見える容姿をした指揮者は、観客へ向かって一度礼をする。
そして指揮棒を持って、―――。
オーケストラの序奏が鳴り始め、幕がゆっくりと上がる。
舞台に広がったのは、陽光降り注ぐスペインの町。
明るく弾む旋律に合わせて人々が集い、祝祭の踊りが繰り広げられる。赤や金の衣装が舞い、カスタネットと足音がリズムを刻む。観客は早くも笑みを浮かべ、視線を舞台に釘付けにした。
そこへ現れるキトリの姿。
舞台上手から元気よく飛び出てきた姿を見て、誰もが思う。
――彼女が主役なんだと。
鮮やかな赤のドレスが翻り、跳ねるようなステップとしなやかな腕の動きが舞台を支配する。
彼女の笑みは太陽にように眩しく、強く、自由そのものを象徴していた。だけれども、どこか優しさが混じる音の使い方。なんだか相反するように見えるその魅力が、観客を舞台の沼へと落とし込んでいく。
次にバジルが軽やかな飛躍と確かなテクニック。観客を挑発するような眼差し。
彼の動きは、舞台の情熱そのものに見えた。
セリフがなくとも伝わる二人の声なき対話に、観客は息を呑む。キトリがセンスで口元を隠しながら、風を切るように歩く。バジルはギターを抱えたまま、やれやれと首を横にふる。大げさにも見えるその動きが不思議と馴染んで見えた。
一幕、二幕とあっという間に時間は過ぎ去り、舞台はクライマックスのグラン・パ・ド・ドゥをむかる。
バジルの力強いリフトに支えられ、キトリは宙を舞う。
光を受けたその姿は、赤い花びらが大空に解き放たれる瞬間のようで合った。音楽が最高潮に達し、最後のポーズで二人が凛と静止する。
二人の笑み。
劇場を震わせるような拍手が巻き起こった。
二階席の影から、その光景を見守る少女の姿があった。
舞台に響き渡る音楽と拍手の渦を前に、彼女の頬には一筋の涙が流れていた。それは照明の光を受けて煌めき、静かに顎の先から落ちていく。
観客が総立ちで拍手を送る中、少女は袖口で涙を拭い、ゆっくりと立ち上がった。その動作は躊躇いなく、迷いを残さないものだった。
拍手の波がまだ続く中、少女は二階席の奥の闇に溶け込むように姿を消した。
***【Nanoka Hajime ~fin~】
ご感想等お待ちしております☺︎




