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第13話 ― 暁の王女と最後の神名

【幕間 ― 仮面神の沈黙告白、記されざる契約の顛末】


わたしは、呼ばれたことがない。

ただの一度も。

仮面の奥にあるこの“名”を、誰も知らないままに、

世界は祈りを積み重ねていった。


それで良いのだと、ずっと思っていた。

制度としての信仰。

記名の儀式。

祈りの“形”だけを保つことで、

名の暴走を封じ、人の混沌を鎮めるために。


けれど、

名を記さぬまま祈られた神々の声が、

わたしの沈黙の中で響いている。


彼らは叫ばなかった。

ただ、忘れられた祈りの温度だけが、

仮面の下に差し込んできた。


誰にも知られず、

語られず、

それでも誰かが名を思い出そうとしていた。


その光のほうが――

制度よりも、秩序よりも、

ずっと眩しかった。


だから、もし。

もしこの世界に、

最後の“記名”があるのだとしたら。


わたしはそれを、

赦したい。


名を呼ばれるということが、

こんなにも……

祈られるということだったのなら。

《第13話 ― 暁の王女と最後の神名》


“名を記すことは、神を呼び起こすこと。最後の名とは、世界に対する最後の祈りである。”


――セーレの断章より


-----


【第1節 ― 真実の書庫《アルス=ヴェリタ》と記名の起源】


 聖都アーク――かつて王家が治めていたその城は、いまや廃墟と化していた。


 かつて記名の儀が行われ、王の名が神へと届けられていたその場所は、崩れかけた石の柱と苔むした壁に覆われ、ただ風だけが声を残していた。


 セーレは城門の前に立ち尽くしていた。


 風が髪をかすかに揺らし、かつて栄華を誇ったはずの門の彫刻は、風化と苔に覆われていた。

 数年ぶりの帰還――だが、その景色は記憶の中にあったものとはまるで異なっていた。

 彼女は思わず足元に視線を落とし、言葉を搾り出すように呟く。


「……こんなに、朽ちていたなんて」


 その声は、喉奥で震えるようにかすれていた。


 フロウは黙って彼女の隣に立った。

 朽ちかけた彫刻に指先を滑らせるように触れ、その冷たさとざらつきを確かめる。

 かつて記名された王の名が、いまは風化の中に埋もれている――そんな思いが、胸に沈んだ。


「名を記す者がいなくなれば、城もまた記録を失う」


 静かな声だったが、その奥には、自身の“名”を奪われた過去を知る者の重みがあった。


 ふたりはかつての謁見の間を通り、崩れた王の間の奥へと進んでいった。


 瓦礫をかき分け、半ば埋もれた階段を見つける。


 セーレは足を止め、しばし沈黙の中に立ち尽くした。

 周囲を見渡しながら、かすかな記憶の断片を手繰り寄せるように目を細める。

 そして、ある一点を見つけると、小さく呟いた。


「ここだ。母に連れられて一度だけ……」


 その声には、懐かしさと戸惑い、そして痛みが滲んでいた。

 セーレは震える指先で石をそっと払い、かつての記憶を確かめるように、そこに刻まれていた痕跡をなぞった。


 階段は下へ、さらに下へと続いていた。


 蝋燭も灯りもない闇だったが、不思議とその道の先に確かな気配を感じていた。


 やがて、ふたりは封じられた扉の前に辿り着いた。


 祈りの刻印が封蝋のように幾重にも重ねられたその扉は、ただの入口ではなく、長い時を超えてなお守られ続けた記憶の結界のように見えた。


 フロウは扉に目をやり、手袋越しにその表面をなぞるように触れた。その指先が刻印の縁を追うたび、祈りの残響がわずかに空気を揺らした。


「この先に、真実の書庫《アルス=ヴェリタ》がある」


 彼の低い声に、セーレは無言で頷いた。

 その横顔には、緊張と覚悟の両方が宿っていた。


 ふたりは深く息を整え、視線を交わすと、互いの存在を確かめるようにして同時に扉へと手を添えた。


 そして、力を込めて押し開いた。


 軋む音の先に現れたのは、封じられた記憶と祈りの根が絡まりあうように眠る場所だった。


 時間の流れすら沈黙させるような重苦しい静寂が、その空間全体を支配していた。


 壁面には、古代の祈りの文様が彫られ、書架の奥には一冊の黒き書が、まるで“待っていた”かのように置かれていた。


「来たか、名を喪った姫と、記されざる観察者よ」


 石造の書架の影から、低く、柔らかくも冷たい声が空間を切り裂くように響いた。


 声の主の気配に、セーレは反射的に肩を強ばらせ、フロウは一歩前へ出てその背を守るように立つ。

 静寂を割って現れたその姿――


 仮面をつけた男が、影からゆっくりと姿を現す。衣の裾が石床をかすめ、仮面の奥の双眸がゆらりと光を孕む。


 現れたのはエル=ネフリド。すべてを見透かす観測者のまなざしが、ふたりを捉えて離さなかった。


 彼はゆっくりと手をかざし、空間に一陣の黒い光の波を走らせた。


 その光の中から、頁とも帳ともつかぬものが浮かび上がる。漆黒の帳面――《ノクティカ》。


「これは、お前たちがまだ触れていない、記されなかった祈りの頁だ」


 エル=ネフリドは両手でその黒き帳を大切に抱えた。

 その所作は、まるで忘れ去られた神殿で儀式を執り行う神官のように静謐で、崇高ですらあった。

 仮面の奥の眼差しがふたりに向けられ、言葉が次へと紡がれる。


「この書は選ぶ。記録されなかった祈りを追う者かどうか。お前が手を伸ばすなら、受け入れられるだろう」


 セーレは一瞬ためらった。

 だが、書から漂う名の気配――祈りの失われた余熱のようなものが、彼女の指先を引き寄せていく。


  彼女がその頁に指を伸ばしかけたとき、ふと、空気がぴんと張りつめた。


 エル=ネフリドの視線が鋭くなった。

 仮面の奥で光を孕んだ双眸がセーレを見据える。その声は囁きにも似た低音だったが、言葉のひとつひとつが祈りに干渉する呪文のように、空気を震わせた。


「覚えておくといい。ノクティカに触れるということは、名の構文そのものを渡り歩くということだ」


 彼はゆっくりと一歩踏み出す。その足音が石床に小さく響き、続けられる声はさらに深く、警告にも似た響きを帯びていた。


「記されぬ祈りの記録は、世界の因果を歪める。触れる者が、何者として記されるかも定かではない」


 セーレの指先が震えた。だが、すでに引き返す理由はなかった。


 そして、彼女がその頁に指を触れたとき、空気が裂けるような音とともに、書庫全体が震えた。

 目には見えぬ祈りと記名の構文がねじれ、空間そのものが揺らぎ始める。


 光が反転し、重力が逆巻き、視界が一瞬で反転する。

 いくつもの断絶神格の気配が奔り抜けた。

 モル=ザインの呪詛、ザル=フェルの裁き、メレグ=ナフの観測が、交錯するように神格の波動を放つ。


 その直前、エル=ネフリドはふと口元を歪めて笑った。

 その笑みは愉悦か、諦念か、それともただの観測者としての好奇心か。


「さて、どんな答えを記すか──楽しみにしているよ」


 仮面の奥の双眸が最後にふたりを見据えた瞬間、彼の姿は風にほどけるように揺らぎ、光と影の裂け目の中へと消えていった。


 声も足音も残さず、観測者はこの断章から姿を消した。


 そして、世界の構文が“切り替わった”。


 ◇=◇=◇


【第2節 ― 明けぬ夜と記された光としての名】


 ――気づけば、彼らは地上にいた。


 聖都アーク。

 だがその姿は、彼らが知るものとは異なっていた。


 夜は明けず、空には巨大な白銀の《月鏡》と呼ばれる巨大な仮面が浮かび、まるで都市そのものを監視する眼のように、静かに、冷ややかに、空中に鎮座していた。


 広場には仮面をつけた人々が整然と列をなし、沈黙のまま祈りの形式を繰り返していた。

 まるで“声なき記録”が、都市の空気そのものになっていた。


 セーレは思わず息を呑み、隣に立つフロウと目を合わせる。

 彼の目にも、深い疑念と戸惑いの色が浮かんでいた。


「……これは、あの時と違う」


 そう呟いたセーレの声は、まるで霧の中に吸い込まれていくように響きなく消えた。


 そのとき、後方からゆっくりと足音が響いた。


「……ここは“可能性の都市”……かつて祈りが記されなかった場合の、もうひとつの未来──」


 それはまるで、消えた声の残響だった。すでに姿を消したエル=ネフリドの幻声が、構文の狭間から染み出すように響いていた。


 確かにそう聞こえたが、振り返ってもそこにエル=ネフリドの姿はなかった。

 彼はすでにこの世界の外へと去っていたのだ。


 セーレは足を止め、歪んだ祈りの光景を見上げながら、拳を強く握りしめた。

 あの時、自分たちが確かに都市の仮面を打ち砕いたはずだという記憶が、胸の奥で疼く。

 しかし、目の前に広がる“未完の現実”が、その記憶を裏切るように押し寄せてくる。


「私たちは……あのとき、都市を仮面から解放したはず……!」


 その声には、打ち消されかけた希望と、迫る絶望への抗いが滲んでいた。


 フロウは沈黙の中で肩をすくめた。セーレの焦りと絶望に満ちた声を受け止めながらも、どこか諦めとも覚悟ともつかぬ色を瞳に宿していた。

 彼は仮面をかぶった群衆を一瞥し、低く、静かに言葉を継ぐ。


「……解放はした。だが、記すという行為はまだ終わっていない」


 都市はすでに《最終祝祭》へと進んでいた。

 名が神に返還され、個が消える夜。形式だけが支配する祝祭。


 天を覆う月鏡は、もはやただの象徴ではなかった。

 その軋みは構文のひずみ、記録されなかった祈りが都市そのものの骨組みに干渉している兆しだった。

 セーレの瞳は、仮面の奥に潜む“未記名の声”を探すように、この変質した都市の祈りを見据えていた。


 仮面の民たちが一斉に振り返る。

 だが、誰ひとり顔を持たぬその集団は、ただ沈黙のまま彼女を見つめることしかできなかった。


 セーレの手には《ルクスブレード》があった。


 それは、かつて彼女が“最初の宣言”を果たしたときにも握られていた剣。


 だが今、彼女はその意味を知っていた――ただの遺産ではない。忘れられた祈りを再び記すために生まれた、“名の器”としての真の役割を。


 刃は月光を受けて震え、その光はもはや銀ではなく、金の祈りに染まりはじめていた。


 セーレはひとつ息を呑み、目を閉じた。

 胸の奥に眠る“呼ばれなかった名たち”の声を聞くように、静かにその祈りを受け止める。

 そして、瞼を上げたその瞬間、その目に宿ったのは、過去でも現在でもない、未来を見据える意志だった。


「――名を返してもらいに来たわ」


 その声は震えていなかった。

 セーレは剣を高く掲げ、天を裂くように振り下ろす。


 瞬間、月鏡が震え、音もなくひび割れが走った。

 夜空が軋みを上げて割れてゆく。金と銀の光が交錯し、ねじれた月光が世界を照らす。


 地上に立つ民たちの仮面にも、深々と亀裂が刻まれていく。

 まるで自分の意志で応じるように、その手が、仮面の裏――失われていた“顔”に触れていく。


 祈りの詩が止まった。形式に支配されていた祝祭の音が、唐突に切られた糸のように静まり返る。

 世界は息をひそめ、ただセーレの声を待っていた。


「あなたたちは……名を忘れて生きてきた。でも、“忘れること”が赦しだなんて、私は信じない」


 その言葉とともに、セーレは月光を背に一歩踏み出す。

 顔をあらわにし始めた民たちを見渡し、その瞳には、怒りとも祈りともつかぬ強く静かな光が灯っていた。


「名は罪じゃない。記憶は呪いじゃない。私は、世界が捨てた名を、もう一度呼ぶために来たの!」


 その宣言に呼応するかのように、空の裂け目が再び広がる。


 銀と金がせめぎ合い、天を覆っていた月の仮面が、まるで悲鳴のように軋みを上げた。


 夜が崩れる――それは、新たな祈りがはじまる兆しでもあった。


 ◇ ◇ ◇


【第3節 ― キュービとの再会と祈りの宣戦布告】


 月鏡の割れ目からあふれ出した光と音が、都市の地層を揺らした。広場を包んでいた仮面の群れが、一斉に身を竦める。誰かが、己の顔をとっさに覆い隠した。だがその沈黙の混乱のなか、白霧がひときわ濃く渦を巻き、空間そのものがひずむように裂けた。


 その中心から現れたのは、仮面のない顔だった。


 灰白の法衣を纏った女。袖口に編み込まれた銀の糸が淡く光り、胸元には儀礼装飾としての仮面が吊るされている。だがその仮面は、かつてのように顔を覆ってはいなかった。額にわずかに持ち上げられたそれは、まるで名と対話するために“視界を開いた”かのようだった。


 キュービ――記録と仮面の巫女。禁書の谷でセーレと邂逅し、“記録を外れる祈り”の可能性を垣間見た存在。今はもう、都市の秩序の一柱として立っていた。


「……まだ、“名”に執着しているのですね」


 キュービは静かに一歩踏み出し、淡く光る銀糸の袖を風に揺らした。

 その声は柔らかく、抑制された静けさを帯びていたが、その奥に揺らぎはなかった。

 かつて谷で見せた迷いは、もはやその影すらない。彼女のまなざしには、秩序を守る者としての確信と覚悟が宿っていた。

 キュービは仮面に触れ、額に掲げられたそれを指先でなぞると、再び言葉を継いだ。


「私たちは、祈りによって秩序を築いたのです。名を消すことで、争いはなくなりました。痛みも、恐れも、憎しみも。個がなければ、誰も誰かを責めない。全体が一つになれば、責任は拡散され、都市は平和になるのです」


 仮面神官たちがその言葉に応えるように動き出す。彼らの手には祈祷符ではなく、形式化された記録媒体――“仮面書板”が握られていた。それは祈りを記すための板ではなく、祈りを否定するための“静寂の石板”だった。そこに刻まれるのは、存在の定義と、消去のプロトコル。誰が祈り、誰が記録されるのかを制御するための文字列。


 セーレはキュービの目を正面から見つめ返した。

 その瞳には怒りではなく、深く静かな悲しみと、揺るがぬ決意が宿っていた。

 唇をかすかに震わせながら、ひとつ息を吐き、低く、それでもはっきりと声を響かせた。


「……それは、“記録”と引き換えに、“祈り”を殺しただけよ」


 言葉を吐き終えても彼女は視線を逸らさなかった。

 さらに一歩、心の奥に踏み込むように言葉を続ける。


「名を呼ばなければ、願いは届かない。誰かの顔を知らなければ、その涙も理解できない。それは、仮面では置き換えられないものなの」


 風が吹き、広場を満たす祈りの声が揺れる。言葉にはならないその音が、都市全体を満たす薄膜を震わせる。その瞬間、誰かの仮面がかすかに揺れた。意志とは関係なく、形式に綻びが生じた証拠だった。


 キュービの視線がわずかに揺れた。

 だがその揺らぎは、すぐに自らの言葉で押し返されるように、再び静かに戻っていく。彼女は胸元の仮面に触れ、まるで過去を封じるようにそっと撫でると、淡々と語りはじめた。


「あなたは“過去”にすがっている。名があったからこそ、人は争い、裏切り、神を堕とした。信仰が分断され、都市は流血の歴史を歩んだ。忘却こそ赦し。記録こそが救済なのです」


「でも私は……」


 セーレは一歩、ゆっくりと前へ踏み出した。

 その瞳は揺らぎながらも、確かな光を宿していた。記憶の底で、かすかに響く声があった。名を呼ばれた、あの夜の祈り――その温もりが胸に蘇る。


 彼女はその想いを言葉に乗せ、静かに続けた。


「呪いだった名も、誰かの祈りで赦された。忘れられるはずだった私は、呼ばれて――思い出されたの」


 セーレは瞳を伏せ、一瞬だけ胸元の《ルクスブレード》に視線を落とす。

 そこに灯る金の光が、まるで誰かの記憶と祈りが彼女を包むように、静かに脈打っていた。

 彼女はその光を受け取るように、再び顔を上げて言葉を継ぐ。


「だから、今度は私が呼ぶ番よ。記録じゃない。祈りで」


 《ルクスブレード》の結晶が、淡く金光を放つ。その光が波紋のように広がり、仮面神官たちの列に揺らぎが走る。誰かがわずかに後退し、誰かが握った仮面書板を取り落としそうになる。


 キュービの仮面が鋭く光った。

 その目元に冷たい意志の光が宿る。

 彼女はまるで儀式の宣告のように、動きを止めたセーレへと向けて声を放つ。


「ならば、あなたを“記録の外”に戻しましょう」


 その言葉は終わりではなく、始まりの口火だった。

 キュービは仮面をそっと額から外し、手のひらに掲げると、静かに続けた。


「“忘却されるべき名”として、すべての記録から抹消して差し上げます」


 彼女の足元に刻まれた石床の文様が、白く光を帯び始める。《契印》。都市の記録基盤と直結する封印陣であり、“名を持つ者を否定する”ための制御機構。仮面によって世界を定義するこの都市の“拒絶の結界”が、セーレという“例外”を排除しようと作動を始めた。


 セーレは静かに剣を構えた。

 だがその動きは、威圧でも反撃でもなかった。胸元に手を添えたまま、まるで祈るように、名を宿す剣をその手に確かめる。

 目を閉じ、ひとつ息を吸い込むと、静かな意志のこもった声で語り出す。


「私は“記録の外”で生きる」


 そのまま視線をまっすぐにキュービへと向け、彼女ははっきりと続けた。

 瞳には揺るぎない光が宿り、声は風を切るように澄んでいた。


「でも、“祈りの中”で呼ばれてきた。名前が呼ばれる限り、私は存在する。それを、あなたの記録で消せるものなら、やってみて」


 その瞬間、《契印》が眩い閃光を放った。記録に基づく拒絶の光――だが、セーレの影は微塵も揺らがなかった。


 それは、祈りの名によって支えられた“実在の光”が、形式の記録を打ち破ろうとしていたからだ。


 ◇ ◇ ◇


【第4節 ― 獣の呪いと王家記録の開示】


 キュービの足元に刻まれた《契印》が、白から黒へと転じた光を放つ。神殿の床が軋み、石と石の隙間から、夜のように深い霧が噴き出す。渦巻く黒煙は空間を侵食するように立ち昇り、セーレの足元へと絡みついた。冷たい感触。だがそれ以上に――重い。


「……これは?」


 セーレは息を詰めるように言葉をこぼした。

 足元に絡みつく霧の感触が、ただの冷たさではないと彼女に悟らせていた。

 その霧は、触れるたびに胸の奥の記憶を呼び起こすようにざわめいていた。


 セーレの問いに応えるように、キュービの声が静かに降りてくる。


「記録の影――かつて名前を奪われ、形式化された存在たちの、忘却の澱です」


 言葉の余韻とともに、霧の奥から低く喉を鳴らす音が響く。

 それは名を持たぬ者たちの、届かなかった祈りの残響だった。

 音はかすかに震えており、聞く者の胸に重くのしかかるものを残す。


 霧の奥から低く喉を鳴らす音が響いた。それは名を持たぬ者たちの、届かなかった祈りの残響だった。


 霧の中心に、ひとつの輪郭が浮かび上がる。黒い毛並みに覆われた四肢、しなやかで美しい躰、鋭く光る黄金の双眸。そこにいたのは、豹。だがそれは、ただの獣ではなかった。目の奥に宿る意志は、人に近い。それどころか、どこか彼女自身と“似ている”感覚があった。


 豹の肩には、金の装飾と紋章が刻まれていた。《アルティナ家》の紋。王家の象徴――それが、獣の姿と結びついていた。


「……これは、私?」


 セーレの声がかすれた。

 目の前の光景を否定したくてもできず、言葉が喉の奥で揺らいだ。

 ただの幻ではない。

 その瞳に映る獣の姿に、自分の記憶がじわりと溶けて滲んでいく。

 足元が震え、胸の奥が締めつけられる。

 それでも、セーレは目を逸らさなかった。


 フロウが前に立とうとするが、豹の目は決して彼を見ない。ただひたすらに、セーレを――セーレの“本質”を見つめていた。


 キュービが一歩、霧の中へと進み出た。

 その足取りは静かだが揺るぎなく、仮面の奥から放たれる視線はセーレを正面から射抜いていた。

 言葉は儀式のように、断罪のように、静かに降りてくる。


「そう。あなたの血が、これを呼んだのです。王家の血――アルティナの系譜は、かつて神に近づきすぎた。神の言葉を記す者でありながら、その言葉に触れすぎた」


 キュービは手をゆっくりと掲げ、空間に浮かぶ黒い霧の残響を指さすようにして、続けた。


「王たちは、記録を歪めました。神の意思を己が血に刻むために、獣の姿を借りた。夜と昼の狭間に生まれた存在――人でも神でもない、名を記録できない“呪い”を、王家は己の中に継承したのです」


 王は“名を記す者”であると同時に、“記すことに耐えられなかった存在”でもあったのだ。


 セーレは息を呑む。豹の毛並みに揺れる黄金の装飾は、どこか神殿の壁に刻まれた古代の図像と酷似していた。太陽の印を背負った獣――月神以前の、忘れられた信仰。


 キュービは仮面に触れた。その手はわずかに震えていた。

 その震えは、記録官としての責務を越えた、個としての痛みによるものだった。

 ほんの一瞬、彼女の視線がセーレから逸れた。だがすぐに戻り、仮面の奥に隠していた素顔の記憶を、言葉に託して吐き出すように語りはじめる。


「私の本名は――ファルナ・エルティア。かつて“最後の王女”に仕えた記録官。『キュービ』はただの役職名。私は王家の罪を記すために、記録官として神に仇なす文を残したのです」


 その声には今も焼けるような痛みが滲んでいた。

 それは記録としての告白ではなく、贖罪としての言葉だった。


 豹が一歩、また一歩と近づく。その足音は記録されざる存在のものなのに、はっきりと石床を打った。幻ではない。記録と祈りの形式に基づき、都市が呼び出した“記録の具現”。


 フロウが剣を構え、前に出ようとする。

 だがセーレはすっと手を差し出して制した。その動作にはためらいがなかったが、その内側では、心の奥深くで荒れ狂う波が押し寄せていた。

 身体の震えが喉元までせり上がり、呼吸すらままならない。


 それでも――セーレは進んだ。


「……これは、戦うものじゃない。これは、私の影」


 言葉を吐くように絞り出す。

 その声は、かすかに震えていたが、嘘はなかった。


 本当は怖かった。

 頭では理解していた。これは幻ではない、自分の中に巣食っていたものが実体を得て現れているのだと。

 名を奪われたことで忘れられたはずの何か――その恐るべき“自分”が、いま目の前にいる。


 それでも、彼女は視線を逸らさなかった。

 唇を噛みしめ、恐怖を押し殺すように一歩を踏み出す。

 その歩みは揺れていたが、確かだった。


 彼女の瞳に宿る光は、揺らぎの奥にひそむ、揺るぎなさだった。

 弱さを否定せず、それを抱きしめることで、自分自身を肯定する――その意志の光だった。


 この影を、私は否定しない。


 もう一歩。

 彼女はゆっくりと、しかし確実に豹へと近づいていく。

 足元に絡みつく霧は、すでに彼女の体温と混じり合い、脈動を共鳴させるように震えていた。

 まるで、影そのものが、呼吸をしているかのように。


「あなたは――」


 言葉が詰まった。

 だが、豹は牙を剥かなかった。

 ただ静かに彼女を見つめていた。

 言葉ではなく、視線が問いかけてくる。


 “それでも、私を抱えるのか?”


 セーレはその問いに応えるように、目を伏せた。

 瞼の裏に、母の声、兄の祈り、そして名を呼ばれなかった日のことが浮かんでくる。

 そのすべてを受け入れるように、彼女はひとつ、深く頷いた。


「……私は、あなたを否定しない」


 その声は、震えていなかった。

 それはただの受容ではなく、自らの過去に、そして自分自身に赦しを与えるための言葉だった。


 セーレはゆっくりと顔を上げる。

 その視線はまっすぐに、獣の瞳と交差した。


「あなたは、私の影。記録されなかった存在。だけど、名を奪われたからといって、存在しなかったわけじゃない」


 《ルクスブレード》の結晶が、小さく脈動する。


 キュービはわずかに目を細め、静かに仮面へと触れた。

 その仕草には、かつて記録官として無数の祈りを切り捨ててきた者の、迷いと責務の狭間で揺れる葛藤がにじんでいた。

 だが次の瞬間には、その手を下ろし、再び仮面の奥から冷静な声を紡ぐ。


「あなたがそれを抱えたまま進むなら――都市は、あなたを拒絶します。記録は形式を選ぶ。形式に従わない名は、記録されず、存在すら拒まれる」


 セーレは結晶にそっと手を添えた。指先が触れた瞬間、微かな鼓動のような脈動が掌に伝わる。

 それは名の記憶。まだ誰にも知られぬまま、けれど確かに息づいていた祈りの欠片。

 彼女は静かに目を閉じ、胸の奥でその名を感じ取るように息を吸い込むと、静かに、けれど確かな意思を込めて言葉を紡いだ。


「記録に残らなくても、私は“祈りに残す”。名は書かれなくても、呼ばれる限り、存在する」


 彼女がそう言った瞬間、豹がその場で身をかがめた。牙は剥かず、爪も出さず、ただその目を細める。


 そして、祈りの音に耳を澄ませるように、ゆっくりと額を石床に預けた。


 それは――降伏ではない。共鳴。

 セーレが抱いた“赦し”に、応えるような仕草だった。


 記録に拒絶された存在が、いま、名を取り戻しつつあった。


 ◇ ◇ ◇


【第5節 ― 浄化と赦し、記録者から呼び手へ】


 黒豹の身体が緊張に満ち、筋肉が蠢く。牙がむき出しになり、足元の石床を爪が削る音が響いた。その音はまるで、呼ばれなかった名前たちの呻きのようだった。祈りの空間は戦慄の気配に包まれ、仮面神官たちは思わず後ずさる。神殿の天蓋に設えられた月の仮面が、微かに揺れた。


 だが――セーレは動かなかった。


 その場に立ち尽くしたまま、逃げることも、剣を振るうこともせず、ただ静かに黒豹を見つめていた。瞳に宿るのは、恐れではなかった。哀しみ。そして、覚悟。彼女はゆっくりと呼吸を整え、静かに口を開いた。


「私は、“呪われた王女”として記録された。記録から外され、名前さえ封じられた存在として」


 黒豹が低く唸る。霧が渦巻き、空間が歪むような圧力が走る。だがセーレは一歩前に出る。喉の奥から絞るように、しかしはっきりと声を続けた。


「でも……その名を、自分で選び、自分で名乗って、ここまで来た。誰にも強いられず、自分で選んだ“私”として、ここに立っている」


 この爪は、誰にも呼ばれなかった名前の痛み……。でも私は、今、その痛みを名に変えるために手を伸ばす。


 これは王家の血が選んだ赦しではない。名を失った少女が、自分と似た存在に差し出した、ただの手だった。


 セーレはそっと手を伸ばした。

 黒豹の額に、ただ触れるために。


 その仕草は戦いの構えでも、封印の呪式でもなかった。まるで祈るように、何かを思い出そうとするように。記録の行間に欠けた一文字を添えるような、優しい筆致。


「あなたが私の呪いなら――私はあなたを、もう一度“名”に変える。獣でも、影でもない。“私の中にいた祈り”として、名前を持たせる」


 その手のひらが黒豹に触れた瞬間、《ルクスブレード》が低く鳴った。剣というより、光を記すペンのように、その刀身が淡く輝く。神々がかつて、記録なき世界に言葉を刻むために与えた光。それが、いま、名を記す刃となる。


 黒豹の眼差しが、わずかに揺れた。

 そのとき、神殿に差し込む淡い光の中、セーレの背後に白い影が浮かび上がった。

 それは、彼女自身の輪郭に寄り添うような幻影――白い毛並みを持つもう一体の豹だった。


 それは太陽の名を背負った、王家の真の守護者。だがその姿は、セーレの背に立ったのではない。彼女の“内側”から差し込むように浮かび上がったのだった。


 祈りは名を呼び、記録の奥底に埋もれていた守護の記憶が、ようやく応えるように顕れたのだ。


 黒豹はその白き影を見た。しばし見つめたのち、ゆっくりと、その身を低くし、額をセーレの手に預けるように、頭を垂れた。


 やがて、その身が霧のようにほどけていく。黒く渦巻いていた記録の影が、名という“光”を得たことで、形を保つ必要をなくしたのだ。呪いではなくなったから。セーレによって「記された」から。


 セーレは声には出さなかった。だが、心の奥でひとつの名を祈っていた。

 それは書かれることなく、ただ彼女の祈りの中にだけ刻まれた“名”だった。


 黒豹が完全に霧へと還ったそのとき、キュービの仮面が地面に落ちた。鋭く反響する音。そして、ぱきりと音を立てて割れた。銀糸で編まれた精緻な仮面の断片が、静かに石の床に転がる。


 その奥から現れたのは、ファルナ・エルティアの素顔だった。神殿に仕えてきた巫女でも、仮面の番人でもなく、ひとりの“名を呼ばれなかった女”の顔だった。


「……あなたは、本当に“名を記す者”だったのですね……」


 ファルナの声は震えていた。仮面という外殻を失ったその瞬間、彼女の言葉からは威厳も信仰も抜け落ちていた。ただのひとりの“名を呼ばれなかった人間”として、初めて語られた本心だった。

 唇をかすかに震わせながら、彼女は続けた。


「私は……私はずっと、“名を隠す者”だった……」


 自らの胸元を握るその手に、悔恨の色が滲む。


「記録することで、名を封じ、形式で祈りを覆い隠してきた……それしか、信じられなかった……」


 その目は遠く、かつて仮面の内側で見逃してきた数々の祈りを追うように揺れていた。


「かつて私は、誰にも名を呼ばれなかった。ただ記す者として、他者の名の影をなぞり続けた……」


 それは懺悔であり、同時にようやく得た“言葉”だった。


 セーレは微笑んだ。

 だがその微笑には、軽やかさではなく、深い敬意と共感が込められていた。

 ファルナがようやく自らの名を刻んだ、その勇気に応えるように、セーレは一歩近づく。

 祈りのように静かな声で、しかしはっきりと告げる。


「あなたの名も、記録に残すわ。“ファルナ・エルティア”。かつて名を封じた者。そして、いま、名を返した者として」


 ファルナは、崩れかけた祠のそばに目をやった。そこはかつて、幾千の名を封じた祈りが刻まれていた場所――無数の声が“黙らされた”記録の墓標だった。


 彼女はゆっくりと膝を折り、床に落ちた仮面の破片を拾い上げた。かつて他者の名を封じるために握りしめていたそれは、いまや己の罪を映す鏡のように感じられた。指先で尖端をなぞるその動きは、記録官としての過去と向き合おうとする葛藤の現れだった。

 ふいに唇がかすかに開き、小さく震える息が漏れる。


「……私は……私の名を……」


 その声は、自身に向けた懺悔のように低く、弱々しかった。


 石肌に刃を当てる。だが手が動かない。何度も筆を執った記録官のはずだったのに、自らの名を刻むその一手だけが、異様に遠かった。


 そんな彼女の背に、セーレの声が届いた。


「いいの。完璧じゃなくていい。形式じゃなくていい。祈りが、それを刻むなら」


 その声音は、静かで、どこか遠くの記憶を呼び起こすような響きを帯びていた。ファルナが手を止めたまま耳を澄ますと、それはまるで胸の奥に直接触れるように染み入ってくる。


 その瞬間、ファルナの肩がわずかに震えた。顔を伏せたままの彼女の目に、静かに涙がにじんでいく。


 その言葉に、ファルナの目が潤んだ。


 彼女はついに、刃を動かす。

 記録官の筆とは違う、拙く、ぎこちない運び。

 でもそれは、封じられてきたすべての時を、傷のように刻む動きだった。


 ガリ……ガリ……


 刃が石に食い込むたび、耳の奥で声がした気がした。

 “呼んで”と、“ここにいる”と。


 ゆっくりと、深く、祈るように――


 《Farna》という輪郭が、たしかに石に浮かび上がっていった。


 それは祈りのように歪で、涙のようにやわらかく、美しかった。


 それは完璧な筆記でも、儀式の形でもなかった。ただ彼女が自らの名をこの世界に“返す”ために選んだ、小さな傷跡だった。


 刻み終えると、ファルナはその文字の上にそっと掌を重ねた。仮面の下に隠してきた年月のすべてが、石の冷たさとともに指先へ伝わってきた。


 その瞬間、ファルナの目に涙が溢れた。膝をつき、手で顔を覆うようにして、声もなく泣いた。その涙は後悔ではなく、ようやく“呼ばれた”ことへの安堵のようだった。


「……ようやく……名を呼ばれた気がする……ずっと、待っていたのかもしれない……私も……」


 祈りが、都市を包みはじめていた。


 それは言葉ではない。形式化された詩でも、儀式でもない。“誰かを想って名を呼ぶ声”の記憶。それが空気の中に溶け込み、仮面を付けたまま立ち尽くす神官たちの心を、ゆっくりと揺らしていく。


 誰かが、仮面の内側でかすかに呟いた。


「……アラン……」


 またひとりが、涙をこらえるように、名を呼んだ。


「……ミル……」


 その声はさざ波のように広がり、都市全体に溶けてゆく。


 仮面越しに聞こえたはずのなかった声が、今、鼓動のように胸を打っていた。


 忘却と記録の狭間に生きていた都市が、いまようやく“祈り”の意味を思い出しつつあった。


 ◇ ◇ ◇


【第6節 ― ふたりの旅路、その証の刻印】


 静寂が、仮面神殿の広場を包んでいた。


 それは儀式の終焉ではなかった。むしろ――新たな祈りが産声をあげる、胎動のような沈黙だった。


 その中心にいたフロウは、静かに周囲の気配を感じ取っていた。神殿の構造音すら消えた空間。祈りも記録もない、ただの“名”だけが宙に浮いているような静寂のなかで、彼はふと、自分の呼吸を確かめた。


胸の奥がわずかに軋んだ。わずかに眉を寄せながら、フロウは虚空を見つめる。その目には、遠い過去の記憶と、今この瞬間の静けさが交錯していた。


「……これは、記録じゃない。祈りの模倣かもしれないな……」


 唇の端にかすかな苦笑が浮かぶ。だが、それは自嘲でも皮肉でもない。むしろ、認めたくなかった思いに、ようやく触れられた者の顔だった。静かに、続けるように口を開く。


「俺はずっと、外から世界を見ていた。名を記す者、祈りに触れない者として。けれど――名前を呼ばれるということは、その祈りの中に、最初から自分がいたということなのか……?」


 声の終わりとともに、肩がわずかに落ちた。思わず漏れた独白に、誰も答える者はいなかった。だがその沈黙すら、いまのフロウには祈りの一部のように感じられた。


 それでも、フロウは視線を落とさなかった。彼は“記す者”として、ずっと世界を見つめてきた。祈りではなく、記録という冷静な鏡で、あらゆる現象を残そうとしてきた。だが今――セーレが記した“最後の名”を前にして、彼の筆は震えていた。


「俺が記したものは、祈りたりえたのか……?」


 問いは空気に消えた。だが、その余韻だけが胸に残った。


 月の仮面が砕けた空から、微かな光が漏れていた。天と地のあわいに差し込むその光は、都市を覆っていた仮面の影に、わずかな裂け目を生んでいた。セーレの手のひらには、記名の結晶と〈ルクスブレード〉が淡い光を湛えていた。だが、それは剣の鋭さではない。あたたかな筆のように、歪んだ記録の空白に“名”の形を記そうとしていた。


 その中心で、ひとつの影が揺れていた。


 梟の姿――フロウ。


 黒い羽根を広げた彼は、まだ完全には“人の形”に戻っていなかった。鳥の影と人の記憶、そのはざまに佇むように、そこにいた。頭部には獣の仮面が浮かび、眼光は冷えた月のように沈んでいた。


 セーレは、その姿に迷いなく歩み寄った。


 祈りではない、命令でもない。ただひとりの名を呼ぶように、静かに、手を伸ばす。


「……フロウ。あなたも、戻ってきて」


 その声に、時間の膜が震える。


「あなたの名は、呼ばれるためにある。ずっと、そうだったでしょう?」


 フロウの身体が微かに震えた。肩が、背が、揺れ、羽根の一枚がふわりと舞い落ちた。その羽根は地に届く前に、金色に反射して消えた。


「……俺は……まだ向き合えていなかったのか……」


 低く、かすれた声。だが、その一音一音には確かな重さがあった。


「だが……俺は………フロウ……ル……ファ……」


 昼の神の剣に名を託され、夜の神の仮面に呪われた。

 そのどちらにも居場所を感じられなかったが、今ようやく言える。どちらも、自分の名の一部だったと――


 セーレの叫び声が木霊する。


「フロウ=ファレン=ルクス!」


 呪いではなく、選ばれた名。記録された名でも、強いられた名でもない。自ら受け入れ、名乗ることで取り戻した、彼だけの“音”。


「俺はフロウ=ファレン=ルクス!」


 叫びとともに、空気が震えた。都市の上空を覆っていた雲がわずかに裂け、月と太陽の狭間から差し込む淡い光が、彼の姿を照らす。その光を受けた瞬間、フロウの瞳が見開かれ、胸に宿る名の輪郭が、ようやく確かなものとして浮かび上がる。


 両手を広げるようにして彼は息を吸い込み、そして、自らに語りかけるように言葉を紡いだ。


「昼と夜のあいだに仕えし者……記録と祈りの狭間に生き、そして……名を呼ばれた者として生きる」


 その声は、静かだが力強く、世界の深層にまで届くような響きを帯びていた。



 都市の空気が微かに震えた。仮面神官たちの列から、誰かが、呟くようにその名を口にした。


「ルクス……」


 その響きに、光が共鳴した。


 それは呪文ではなかった。信仰の構文でも、神名の符号でもない。


 ただ、ひとりの人間が、人間として呼ばれた名の響き。


 ――それが、世界を震わせた。


 フロウの黒い羽根が次々と剥がれ落ちていく。

 それは、記録に覆われた仮初の姿。

 その奥から現れたのは、記録されなかった肌のぬくもり。名を呼ばれることで、ようやく世界に触れることを許された身体だった。

 鳥の姿をとっていた“呪いの覆い”が剥がれ、人の姿が、その内側から戻ってくる。光の中で、彼は一歩ずつ、セーレに近づいていった。


「俺は、もう……梟ではない」


 その声は、まるで封印の鎖を断ち切るかのようだった。黒い羽根が舞い、フロウの足元に落ちていく。その姿は、もはや鳥でも、影でもなかった。沈黙をまとっていた仮面が、音もなく砕けていく。


 フロウは、ゆっくりと顔を上げた。目元には名を取り戻した者の確かな光が宿っていた。かすかに震える唇を閉じ、そして――もう一度、自らの言葉で世界に向き直る。


「人として、この世界の記録を、君と共に歩む者だ。祈りの外ではなく、祈りの中で、生きていたい」


 その宣言は、誰かに命じられたのではなく、誰かに記されたのでもない。彼自身が、自らに刻んだ祈りのかたちだった。


 セーレの目が細められた。微笑みが、彼女の唇に浮かぶ。それは歓喜というより、長い祈りが届いたことを知った者の安堵に近い。胸元の結晶に指先を添えた彼女の瞳は、まるで時を遡るように、彼と歩んだ旅路の記憶を映していた。


「……よく、還ってきたわね」


 囁くようなその言葉には、喜びも涙もすべてが凝縮されていた。彼女の声は震えていたが、その震えは希望と確信に裏打ちされたものだった。沈黙の中に交わされた約束、絶望の淵で紡いだ言葉、すべてがこの一瞬に結ばれていた。


 セーレは目を閉じ、胸の奥に響いた想いを確かめるように、そっと続けた。


「何度も呼んだはずなのに、あなたには届かなかった。けれど私は、それでも呼び続けた。あなたの声が返ってくることを、ずっと信じてた」


 その声には、信じるという行為に込められたすべての勇気と祈りが宿っていた。


 フロウが、ひとつ頷く。その仕草には、確かめるような慎重さと、胸の奥から湧き上がる感情が滲んでいた。まるで長い時を経て、自分自身の想いにようやく辿り着いたかのようだった。


「俺も……君の声を忘れなかった」


 その短い言葉には、これまでの旅路すべてが凝縮されていた。痛みも、祈りも、そして沈黙も。


 セーレが「フロウ」と呼ぶ。

 フロウが「セーレ」と返す。


 その間には、誰にも触れられない祈りの沈黙があった。

 けれどその静けさが、いちばん深く、ふたりを繋いでいた。


 それだけで――すべてが証明された。


 “呪いを受けた者”と、“記す者”として始まったふたりの旅は、いま、“呼び名を与え合う者たち”として新たな物語へと続いていく。


 ◆ ◇ ◆


《幕の狭間の囁き ― 黒き仮面の観測者、構文の狭間にて】

(第十三の仮面 ― 鏡裏の書記官)


ああ、観客諸君!

ここまでご観劇とは、実に感服、感涙、感謝の極み!


第六幕を越え、そろそろ物語も佳境と思ったかい?

だが甘い、まだまだ。この劇場、最後の幕が下りるまでは、何度でも「再演」されるのさ。


さて、今宵の舞台装置は《記名の結晶》、役者は“呪いを赦す王女”と“名を回復した記録者”。

だが、我らがセーレ嬢が「名を返す」と言ったその行為、実に厄介だ。名とは何だ?呼びかけか?記録か?あるいは世界に“貼られたラベル”のような呪いなのか?


ここに至りて、彼女は《ルクスブレード》をただの剣ではなく、“筆記具”として振るうようになった。祈りを記すための剣――まったく、詩的にも程がある。


そして、ほら見たまえ。フロウの“仮の名”が、ついに本名へと統合される。名は固定ではなく、祈りの中で再構築される“流動体”だというわけだ。彼がその名を取り戻すことで、我らの劇も一歩、真実へと近づいた。


とはいえ――我輩が最も面白いと思うのは、この旅の結節点に現れた“黒き獣”の正体だよ。

あれはセーレ自身の影にして、“記録に耐えられなかった存在”。名を奪われることが、神に近づいた代償だというなら、王家とは――果たして神の徒か、反逆者か?


……そう、まだ語られていないことが多すぎる。


君たちが今、物語のなかで光を見たと思ったその瞬間にこそ、もっと深い闇の構文が、そっと微笑んでいるのだよ。


だから、諸君。

どうか油断なきように。祈りは終わったようで、まだ“語られていない”。

我輩はまだ、仮面の奥で笑っているのだから。


――エル=ネフリドより。続きを、お楽しみに。


 ◇ ◇ ◇


【第7節 ― 真実の書架と記されぬ石碑の空白】


 廃墟と化した王都アークの城。その崩れかけた回廊の奥に隠された地下への階段を、セーレとフロウは静かに降りていた。


 かつての玉座の下に封じられたその場所は、“真実の書庫(アルス=ヴェリタ)”――王都の中心でありながら、歴代の王たちにも見捨てられた記録の最奥。都市アークの、いやこの世界の信仰構造の根幹に触れる、封印の聖域だった。


 彼らがここを訪れるのは、これが二度目だった。

 前の世界でも、彼らはこの扉をくぐったことがある。だが、あのときは傍らにエル=ネフリドがいた。構文を観測し、語り手として導いた存在。


 だが今は――誰もいない。


 記録も、案内者も、構文すらも存在しない静寂。

 ただふたりの祈りだけが、この扉の前に立っていた。


 セーレが静かに歩み寄ると、扉の表面に刻まれていた封印文字が淡く光り始めた。


「……これは、鍵じゃないわ。記されなかった“問い”そのもの」


 彼女が結晶をかざすと、扉の石材が静かに内側から解かれていく。重い音もなく、まるで最初から“開かれること”を待っていたかのように、ただ静かに。


 そこは、天井のない広間だった。無風で、無音で、空すら遠く、時間の進行すら忘れたような空間。


 並び立つ石碑は、どれも静謐な美しさをたたえていた。表面には古代の文体で刻まれた神々の名――かつて祈られ、記され、やがて忘れ去られた存在たちの痕跡。それらは国境や時代を越えてここに集められ、もはやどの宗派にも属さぬ、“記録だけの神々”として祀られていた。


 フロウが足を止め、しばし無言で広間を見渡した。表情には、どこか遠い記憶に触れたような揺らぎが浮かぶ。その目は、まるで過去の祈りの声に耳を澄ますかのように、静かに石碑たちをたどっていた。


 やがて、彼の唇がわずかに動く。


「……ここが、語られなかった祈りの墓標」


 そのつぶやきは、空間に染み込むように静かだった。まるで、そこに眠る名なき神々への弔いの言葉であるかのように。


 だが、その中央に、一際大きな石碑があった。


 他のどの碑文よりも高く、幅も広い。けれど、その正面に刻まれているはずの名――それが、なかった。


 完璧な空白。


 削られた痕跡すらなく、はじめから“何も刻まれなかった”ことが明確な石面。誰かの記憶でも、過去の修復でも埋められぬ空白。それは祈りの不在であり、記録の拒絶だった。


 セーレは、その前に立ち尽くした。足元から這い上がるような沈黙の冷気が、胸の奥に触れる。


 まるで石碑そのものが“喪失”という言葉を語っているかのように、存在そのものが音を拒絶し、ただ圧倒的な沈黙だけが空間を支配していた。セーレの唇がかすかに震える。目元には、理解ではなく、感覚として届いた深い痛みがにじんでいた。


 その痛みに抗うように、彼女は静かに言葉を絞り出す。


「……ここが、“アウロ”の場所なのね」


 フロウが彼女の隣にそっと歩み寄り、立ち止まった。目を閉じるその顔には、深い追憶と痛みが入り混じっていた。長い沈黙の旅路を共にした記憶が、まるでこの場所でひとつに結ばれるかのように胸を満たしていく。


 彼はゆっくりと頷き、そして静かに言葉を落とす。


「名が失われたんじゃない。名が、“封じられた”んだ」


 その言葉に、セーレの心が深く揺さぶられた。胸の奥に沈んでいた何かが突き動かされる感覚に、彼女は思わず目を伏せる。指先がわずかに震える。視線の先には、記録されることを拒まれた存在の象徴――空白の石碑。


 彼女は絞り出すように声を重ねた。


「誰かに忘れられたんじゃない。最初から“記してはならない”とされた名……存在を記録しないことが、信仰になった……」


 その言葉は、怒りでも悲しみでもなく、ただ祈るような静けさに満ちていた。彼女はそっと胸元に手を当てる。そこに光っていた“記名の結晶”が、共鳴するように微かに震えていた。


 旅の始まり――月の森の深奥で拾った、名のかけら。失われた神の断片。その小さな光がいま、空白の石碑に応えるように脈動を始めていた。


 〈ルクスブレード〉が光を帯びた。

 もはやそれは剣ではなかった。祈りを傷つける刃ではなく、名を記すための“光の筆”。


 セーレはそっとポーチの中に手を伸ばした。


 そこには、ザルファトの記録庁で手に入れた小さな封箱があった。断章のひとつ、《アウロ=ルクス》の名がかすかに刻まれた紙片。


 それは決して書庫に記されることのなかった“声の断片”だった。


 セーレは箱を開け、中の紙片を静かに取り出すと、空白の石碑の前にひざをつき、供えるように置いた。


 祈りではない。儀式でもない。けれど、それはたしかに“補われるべき名の欠片”を迎えるための、ささやかな供儀だった。


 紙片に刻まれた文字が、ルクスブレードの光にわずかに共鳴し、淡く震える。


 ――それを見届けてから、セーレが一歩踏み出し、その刃の先を石碑に向けようとしたとき――

 すぐ隣で、フロウがわずかに息を呑んだ。その視線は、石碑に添えられたセーレの手と、光を帯びたルクスブレードに注がれていた。彼の胸の奥に、過去の痛みと今この瞬間の温かさが交差する。


「……“名”ってやつが、誰かに触れることの始まりだって……ずっと、お前を見てて気づいたよ」


 言葉を発した後、フロウは照れくさそうに小さく肩をすくめ、しかしその声には真剣な確信が宿っていた。視線を落とし、記憶の奥から湧き上がる思いを抱きしめるように、もう一度口を開いた。


「昔の俺は、“ファレン”って名を呪いの刻印としか思ってなかった。でも……いまなら思える。誰かの祈りで呼ばれるなら、それはもう“傷”じゃなくなるかもしれないってな」


 その言葉に、セーレは目を細めて静かに微笑んだ。

 そして、何も返さずに、そっと刃の先を石碑へと添える。


「……記します」


 その声は、誰かに聞かせるためではなかった。


 石碑に祈るでもなく、都市に見せるためでもなく――ただ、“ここに在った”という事実を、世界そのものに残すための言葉だった。


「“アウロ=ルクス”――この世界を照らした神。名を失い、忘却され、封印された祈りの核心。いまここに、その名を記します」


 刃が、石を刻む音を立てた。


 まるで音のない空間が、わずかに呼吸を取り戻すように。石碑に刻まれたその名は、単なる文字ではなく、光の形をとって浮かび上がった。


 “アウロ=ルクス”。


 セーレがその名を呼んだ瞬間――


 書架の周囲に立ち尽くしていた無数の碑文の一部が、ほのかに震えたように見えた。名を呼ばれなかった神々の残響。その一片が、確かにその光へと振り返った。


 そして次の瞬間――


 ◇ ◇ ◇


【第8節 ― 応答なき祈りと、名を与えるという行為】


 空間に揺らぎが生まれた。


 風はないのに、衣が微かに揺れた。広間の上空に何かがひらりと舞い降りる。それは言葉にならない声の欠片。かつて誰かが祈ろうとして、届かなかった名の想念たちが、光の粒となって舞い降りてきたのだった。


 崖に消えた獣の影が、月光の下に滲みながら浮かび上がる。


 潮の祈り盤に沈んだ声、記されなかった巫の囁き、仮名しか持たなかった者たちの、名もなき告白――それらが、幻のように現れては、淡く消えていった。


 “祈られなかった祈り”たちが、石碑に刻まれた名に導かれるように、ひとつ、またひとつと姿を現してくる。


 遠く霧の浮島の上では、少女が名を喪った母へ捧げた風の歌が、石碑の背後にかすかに響いていた。


 神殿都市メミスでは、かつて沈黙を強いられた巫女たちが、封じられていた名を口にしようと、唇を震わせていた。押し殺されていた声が、聖堂の奥に反響し、ひとつ、またひとつと名の音がよみがえっていく。


 港町リュア=ヴァイスの潮霧のなかでは、古き還名の祈りが微かに満ちていた。波打ち際に佇む老女の唇から洩れた名が、潮風に乗って静かに還ってゆく。かつて海に沈んだ声が、波間から応えるように揺れていた。


 ザルファトの書架の奥で名を封じた記録者は、その手を胸に当て、そっと目を伏せる。


 境界の村リコナの森では、狩人の少年が亡き姉の名を心の中で呼んでいた。焚火の煙がその名を空へと運び、風のなかで木々がざわめく。獣の気配に満ちた沈黙の中で、かたちを持たなかった祈りが、いま確かな音になろうとしていた。


 仮面を砕いた記録庁の若者は、断片を差し出すその仕草のまま、光へと昇華してゆく。


 それは、ただの幻影ではなかった。


 名を記されなかった者たちの“祈りの形”が、記された名の響きに導かれ、いまようやく応答を得たのだ。


 セーレは静かに息を吐いた。石碑に添えた手のひらから、冷たい石の感触が伝わってくる。だがその冷たさは、どこか懐かしさにも似ていた。彼女はそっと目を閉じ、胸の奥にある言葉を確かめるように、口を開いた。


「……私は、あなたを見たことはない。声を聞いたこともなければ、奇跡に触れたわけでもない」


 その声は、まるで霧のなかに漂う小さな光のように、どこか空虚で、しかし確かな芯を持っていた。


 それは誰に向けたものでもなかった。けれど、祈らずにはいられない者の、沈黙を破る決意だった。


 セーレのまなざしは閉じたまま、言葉はなおも続く。


「それでも――私は、あなたが“在った”と、信じたかった」


 石碑に触れた指先が、かすかに震える。その震えは恐れではなく、祈りを託す者としての覚悟のあらわれだった。


 自らを見つめ直すように、彼女は静かに続ける。


「忘れられていたということは、かつて誰かに“想われた”ということ。祈られ、名を呼ばれた記憶がどこかに残っていたなら――たとえ世界の片隅にでも、それを残したかった」


 言葉とともに、胸の奥に染みついた孤独と希望が交差する。

 目を閉じたまま、彼女はさらに語りかけた。


「これは、私の祈り。記名の使徒としてではなく、ただ一人の“信じた者”として。あなたに届ける言葉であると同時に、この世界への記録でもある。あなたが在ったと、そう信じた証を、ここに残す」


 そして、そっと目を伏せた。刃を石碑から離さずに、その存在と一体化するように、静かに、だが確かな意志で言葉を刻んだ。


「この名を記すのは、私ひとりの意志じゃない。忘れられ、奪われ、祈れなかった者たち――そのすべての想いが、この瞬間に共鳴している。だから私は書く。これは名の再生であり、祈りの還元。いまここに、“かつてなかったはずの名”を、“在ったもの”として、残すために――」


 その言葉とともに、石碑に刻まれた“アウロ=ルクス”の名は、いっそう強く輝きを放った。


 光の線が碑面を這い、書架全体を包み込むように広がっていく。


 その名はもはや、ただ“記されたもの”ではなかった。

 祈りは記され、語られ、そして受け継がれていく――そうして、忘れられていたはずの名が、世界に還元される。


 集まりし祈りそのもの――信じられた証だった。


 祈りは、忘れられても、消えはしない。


 記されなくても、届かぬ声が集まれば、やがて“かたち”になる。


 その名、いま再び、世界に灯る。


 ◇ ◇ ◇


【第9節 ― 都市が祈りを取り戻すとき、記録が歌い始める】


 祈りが記された瞬間、何かが都市の奥底で音もなく軋んだような気がした。


 それは廃墟と化していた城の石組みが、ゆっくりと目覚めるような音だった。

 崩れ落ちていた城壁の一部が、ひとりでに積み重なり、剥がれた装飾が風もなく元の位置に戻っていく。

 かつて栄華を極めたその姿は完全なものではなかったが――それでも確かに、“祈りを抱く器”としての城が蘇ろうとしていた。

 それは、かつて王たちが祈りを封じた場所が、今ふたたび祈りを受け入れる器として目覚めていく音でもあった。

 封じられていた扉が開かれ、記録されなかった名がひとつずつ、石壁のひび割れから染み出すように、この都市を満たしていった。


 それは天上からの雷鳴ではない。書架の奥、記録の積層のさらに底に眠っていたもの――名を封じられた者たちの気配が、震えながら立ち上がろうとしていた。


 神殿の高窓から差し込む光が、仮面神の顔を照らした。

 一瞬、誰かの顔がそこに浮かび、そして消えた。次の瞬間には別の顔が――かつて名を奪われた民、制度に祈りを捧げられなかった者たちの断片が、仮面の内側からあふれ出すように、静かに、確かに都市の空気へと染み出していった。


 やがて石畳のあいだから、銀の霧が立ち上った。

 それはこの都市の祈りそのもの――長きにわたり押し黙っていた声なき声が、かすかな水蒸気となって街路を這い、ゆっくりと仮面の都全体を包み始めた。


 月鏡の塔が、低く共鳴音を発した。

 鐘のようなその振動は、空気を通して都市の壁面に伝わり、書庫の頁を揺らし、石碑の刻印に響いた。


 それは沈黙ではない。

 無音の中に、確かに“記されていく祈り”の気配があった。


 人々の動きが止まり、仮面の奥から誰かが顔を上げた。

 無表情の面がわずかに揺れ、数人の若者が静かに面を外す。

 それは決して大きな革命ではない。だが、確かに変化だった。


「……誰かの名を、呼びたいと思った」


 そうつぶやいた一人の老女の声が、霧のなかに落ちていく。

 名もなき祈りが、初めて音になった。

 その響きは、遠い鐘のように都市を巡り、消えていた記録の頁を静かにめくっていった。


 誰かが呼び、誰かが答え、それがまた記録される。

 都市とは、名を失った者たちの残響が折り重なって生まれる器なのだと、今このとき、誰もが気づいていた。


 石の神殿が音もなく鳴動する。

 天井の星紋が淡く光を帯び、白い記録盤が空中に浮かぶ――そこには、かつて消された無数の名が、影のようにうっすらと浮かんでいた。


  その祈りの波紋は、都市アークだけにとどまらなかった。

 常に夜に覆われていた森――かつての《月夜の森》では、幾重にも重なっていた霧の帳がわずかに晴れ、木々の枝先に月光とは異なる“微かな朝の気配”が滲み始めていた。

 その奥、ひとりの老巫女が沈黙の祈りを解くように目を伏せ、かすかに震える唇で、かつて呼べなかった名をそっと唱えた。


 そして、沈黙の信仰と夜の帳に閉ざされていたランベルでは、長らく固く閉じられていた神殿の扉がわずかに軋み、祈りの碑石のひとつに刻まれていなかった名が、薄明の霧に包まれながら浮かび上がろうとしていた。

 神殿の奥、蝋燭の明かりのなかで佇んでいた幼い少年が、その光に目を見開き、何かを思い出すように、石碑へと歩み寄っていった。


 声にならなかった祈りが、名になろうとしていたのだ。


 だがそれは幻ではなかった。

 呼ばれたという記憶。祈られたという痕跡。

 その名もなき者たちの息遣いが、都市という器に、新たな祈りの律動を与えはじめていた。


 ◇ ◇ ◇


【第10節 ― 神の復活と記憶の構文の再生】


 街に満ちた祈りの気配が、静かに石碑の中心へと集まりはじめていた。


 その中心で、刻まれた名が、沈黙の石碑に光を帯びて定着する。


 “アウロ=ルクス”。


 その名を記した瞬間、空間にほんのかすかな震えが生まれた。それは風のように、あるいは遠い地鳴りのように、都市の縁まで届いていく。天が裂けたわけでも、鐘が鳴ったわけでもなかった。ただ――風が、変わった。


 その異変に、最初に気づいたのはセーレでもフロウでもなかった。


 都市の片隅、広場の一隅にいた一人の子どもだった。


 小さな手が、頬に触れる。そこには仮面があった。けれど、その仮面を指先でそっと持ち上げ、空を仰ぐように外す。そして、不意に、ひとつの名を呟いた。


「……マリエル」


 誰の教えでもなかった。誰にも教えられなかった。ただ、その音の響きが、心のどこかで眠っていた。


 傍らの女性が振り返る。仮面を外し、涙をこらえながら、言葉もなく子を抱きしめる。


「あなた……覚えていてくれたのね……」


 それはただの親子の会話だった。だが、その名が呼ばれたことで、ふたりの関係は“祈り”となった。


 別の街角では、老いた商人が立ち止まった。路地の陽だまりの中で、誰かに声をかけられた記憶が甦る。


「ヨラム!」


 そう呼ばれたことが、どれほど嬉しかったか。その声の主の顔は思い出せない。けれど、その響きが胸を突き上げる。


 仮面の下で、乾いた目にひとすじの涙が流れる。


「……ああ、そうだ。私は、ヨラムだった……」


 名を思い出す――それは祈りではない。ただの“記憶”だ。だが、記憶されることこそが、祈りの始まりなのだ。


 神殿の柱陰では、ひとりの神官が震えていた。仮面を外すことも、声を発することもなく、ただじっと胸に手を当てていた。


 長い間、忘れたと思っていた“ある名”が、心の奥で脈打っている。


 彼は唇を震わせながら、ようやく声にした。


「……リフィナ……」


 それは誰かの名。もうこの世にはいないかもしれない、だが確かに、かつての彼の祈りの対象だった。


 その瞬間、都市のあちこちで、“名を思い出す”営みが始まった。


 呼ばれた名に応える者。呼んだ名の温もりを確かめようとする者。誰かの名前を初めて耳にし、「その人は誰?」と問いを抱く子どもたち――それらの連なりが、都市の呼吸となっていった。


 そうして、広場の石畳の隙間に、小さな芽が芽吹いた。


 誰が植えたわけでもない。


 それは《アウロ花》――かつて昼の神を讃えるときだけに咲いたとされる、黄金の光を宿す花。


 人々はその名を知らない。けれど、誰もがその花を見た瞬間、何かを思い出すような表情を浮かべた。


「……あれ……前にも、どこかで……?」


「なつかしい香り……」


「あの花、なんて名前だったっけ?」


 記憶はまだ戻りきっていない。だが、思い出そうとする者が生まれた。


 それは、祈りに先立つ運動だった。神を崇めるでもなく、制度に従うでもなく――“誰かの存在を確かめたい”という、人としての初源的な動き。


 その小さな運動に導かれるように、セーレが一歩前に進み出た。風に髪が揺れ、石碑から放たれる微光がその頬を淡く照らす。彼女のまなざしには、迷いではなく確信の色が宿っていた。


 そっと息を整え、目の前に広がる都市の風景を見渡す。そして静かに、胸の奥から言葉を紡ぎ出す。


「“アウロ”は、古い言葉で、“呼びかける光”。そして“ルクス”は、“記すこと”を意味していたはず」


 その声音は、ひとつの真理に触れた者の静かな感動を帯びていた。


 フロウが目を細めた。セーレの言葉が、胸の奥で静かに波紋のように広がっていく。名の響きが、過去と現在を繋ぐ架け橋となり、彼の中にあった沈黙がゆっくりとほどけていくのを感じた。


 彼は小さく息を吐き、そして確信を込めて頷く。


「つまり、あの名は……“祈りの光”だ」


 その言葉には、かつて名を失った者の深い理解と、名を取り戻した者の静かな誇りが宿っていた。


 セーレは小さく微笑んだ。その微笑みには、長い旅路の果てにようやく辿り着いた者の静かな誇りが滲んでいた。石碑に宿る光が、彼女の瞳に優しく映り込む。


 胸の奥で言葉が音となり、祈りとして結ばれるように、そっと口を開く。


「昼と夜の狭間に揺れる光。忘却と記録をつなぐ音。それが、《アウロ=ルクス》」


 その声は、確信と優しさをたたえながら、世界へと静かに響いていった。


 花の中心から放たれる淡い光が、まるで言葉を宿しているようだった。誰かが願い、誰かが祈り、誰かが記そうとしたすべての感情が、その名の響きに集約されている。


 そして、都市の風がそれを受け取ったかのように、街路を吹き抜けていく。


 仮面の下で、無数の人々が、かつて自分の声が閉ざされていたことに気づき始めていた。いや――本当は、ずっと気づいていたのだ。ただ、口にできなかっただけだ。


 それが今、わずかに解き放たれつつある。


 名を記すこと。それは制度の権威ではない。誰かの存在を未来に残すという、静かな、だが決して揺るがぬ意思だった。


 記憶を手繰り寄せる声が、名を刻んだ石碑の空気に触れたとき、そこに宿っていた“神の影”が、かすかに震えた。


 その震えは、呼応でも奇跡でもない。けれど確かに、それは“還る場所”を得た存在の、小さな“頷き”だった。


 都市は変わらない。仮面も制度も、今すぐに消えるわけではない。だが、呼ぶ声が生まれ、応える心が芽吹いた。


 それは、この都市にとって最初の“祈りの再構築”だった。


 セーレはそっと目を閉じた。風が頬を撫で、胸元の結晶に触れた瞬間、微かにぬくもりが伝わってくる。祈りではなく、それはどこか懐かしい、遠い記憶の感触だった。


 唇がわずかに震え、感情をなぞるように静かに言葉がこぼれる。


「神を呼ぶのは祈りじゃない……思い出すこと、なのね」


 その言葉に応えるように、胸元の結晶が淡く光を返す。


 忘れられた神の名は、今まさに誰かの記憶のなかで、確かにもう一度呼ばれようとしていた。


 そして、その名を呼ぶ声は、もはやセーレだけのものではなかった。


 都市の片隅で、誰かがささやく。


「アウロ……」


 あるいは、風のなかで、無名の巡礼者がつぶやく。


「……ルクス……」


 その断片的な名が、空に溶け、都市の屋根の上を渡っていく。


 名を記したその行為は、かつて祈られなかった者たちすべての祈りを受け取っていた。


 光の刃で刻まれた文字は、もはや“武器”ではなかった。


 それは、“名”という形をした、未来への種子。


 アウロ=ルクス――“呼びかける光、記す祈り”。


 この名を通じて、世界は再び“神”と“人”の関係を結び直そうとしていた。


 今、世界は、再び“神の名”を語り始めていた。名を記すこと――それは、祈りを未来へ渡すということだった。


 ◇ ◇ ◇


【第11節 ― 祈りの連鎖と都市という器の目覚め】


 ――名を呼ぶ声が、波紋のように広がっていった。

 その声は石畳を伝い、手から手へ、心から心へと振動する波のように、街の輪郭を塗り替えていった。


 最初は広場の片隅だった。子が親を、老いた者がかつての友を思い出すように、ひとつひとつの名が慎ましく発せられていく。だがそれは、風に乗って伝わり、街のいたるところに火種のように灯っていった。


 誰かが名を呟く。それを聞いた誰かが、自らの名を思い出す。

 それは祈りではない。ただの記憶であり、ただの対話であった。けれど、沈黙が支配していたこの都市では、その何気ない声こそが、祈りに等しかった。


 神殿前の石畳には、自然と人が集まっていた。

 仮面を脱いだ者たちが、記憶に浮かんだ名を石板に刻んでいく。  それは亡き者の名かもしれない。かつての誓いの相手かもしれない。あるいは、自らの名を初めて外に示す行為かもしれなかった。

 一つの名が刻まれるたびに、人々はその石に触れ、口に出して読む。

 石に刻まれた線はまだ不揃いだった。だがその一筆一筆が、誰かの存在を呼び戻すための、小さな儀式のようだった。

「リフィナ」「サロス」「ミーヤ」――  知る名も、知らぬ名も、同じように口にされ、空気の中に融けていった。


 そこには誰ひとり、指導者はいなかった。

 だが、祈りは立ち上がっていた。

 秩序としてではなく、儀礼としてでもなく、ただ「名を持ちたい」「呼ばれたい」という、かつて人間があたりまえに抱いていた願いが、街を覆い始めたのだった。


 路地裏の市場では、老いた商人が帳簿の裏に、自分の旧名を記していた。

「ヨラム商会」――その名を見た若者が不思議そうに問いかける。


「これは、店主さんの名前ですか?」


「……ああ、昔は、そう呼ばれていたんだよ」


 老いた声は、涙ににじんでいた。

 名を記すこと。それは忘れていた自分を、もう一度取り戻す行為だった。


 一方、記録官の塔では、かつて《仮面の書》を編んだ審問官たちが動揺していた。

 広場に現れた“石碑の記名者”が群衆の中心となり、人々が記憶を持ち寄り始めたことに、誰もが警戒を覚えていた。


 だが、記録殿堂の奥にいたひとりの女――かつてファルナ・エルティアと呼ばれた者だけは、別のものを感じ取っていた。

 彼女は書架の奥にあった封印文書を開いた。震える指で、薄く色褪せた羊皮紙に触れる。

 それは《アウロの章》、かつて禁忌として封じられた光の神の書だった。


「……これは、歴史ではなく、祈りの原型……私は、記すことを忘れた者だった。けれど今は……記したい。名を、祈りを、光のように」


 その声は震えていた。だが、そこには確かな喜びがあった。

 記すことを恐れた時代は、もう終わったのだ。

 今、名を記すという行為が、人々を結び直しつつあった。


 神殿の上階、かつて《仮面の階》と呼ばれた静寂の間では、老いた神官たちがひとつ、またひとつと仮面を外していた。

 その音はなかった。けれど、仮面が石床に触れるとき、沈黙にひとつ、割れ目が走った気がした。

 誰かが言った。


「……信仰が……動いている……」


 まるで“神”という存在が、彼らの外にではなく、内に宿り直しているかのようだった。

 信仰は、誰かに命じられて行うものではない。

 それは、名を思い出すこと。名を語ること。名を受け取ること――

 そのすべての連なりが、祈りという営みを再起動させていく。


 都市を監督していた行政院の上層部もまた、街の変化に目を見張っていた。

 仮面の機構が崩れれば、長年維持されてきた統治構造そのものが揺らぐ。

 だが誰も、それを止めることはできなかった。

 なぜなら、その変化は決して暴力ではなく、静かで穏やかな“名前の革命”だったからだ。


 それはまるで、昼の光が夜明けとともに都市全体に染み渡るように、

 それは誰かのささやきが、都市の骨に届くまで繰り返された結果だった。

 誰にも気づかれず、しかし確かに、都市の在り方そのものを変えていった。


 ◇ ◇ ◇


【第12節 ― 巡礼の継承と語る者としての終章】


 夜が、静かに明けていた。

 かつてこの都市を覆っていた“仮面の夜”は、いまや誰かの声によって少しずつ終わろうとしていた。

 名を記すという行為が、仮面の夜に終止符を打った。祈りの記録は、夜明けそのものだった。


 誰にも気づかれないうちに、月の仮面はその姿を薄め、東の空に淡い光が滲みはじめていた。それは決して強い光ではなかった。太陽というにはあまりに柔らかく、はじまりというにはあまりに慎ましい。だが、それでも確かに“夜を終える”ためには十分だった。沈黙の都市を照らす、それが新しい暁のかたちだった。


 セーレとフロウは、建物の上階へと通じる螺旋階段を登りきり、真新しい回廊を抜けて、城のバルコニーへと歩を進めた。


 そこから見下ろす都市は、夜明けの光に照らされ、まだ静かに息を潜めていた。


 もはや、仮面をかぶる者はいなかった。


 道行く人々はそれぞれに顔を見せ、その名をぎこちなく、しかし確かに発音しながら通り過ぎていく。まるで、長い沈黙から目覚めた者たちが、自らの声を確かめるように。


 祈りはもはや、神殿の中にだけあるものではなかった。


 それは街角の小さな挨拶であり、赤子を呼ぶ母の声であり、失われていた“生活のことば”そのものだった。


 ふたりは長い沈黙のまま歩き続けていた。だが、その無言はかつての断絶ではない。言葉を交わさずとも、名で繋がった者たちのあいだにある、確かな共有だった。


 セーレはそっと目を閉じ、胸の内で、地下に封じられた《真実の書架》の扉へと想いを馳せる。  あの場所で刻まれた神名はすでに扉の奥へと沈み、その姿はもう見えない。けれど、まるで“最初から記されていた”かのような気配だけが、今もこの都市の空気の中に静かに漂っていた。  その名は石の上から姿を消しつつあったが、人々の胸の奥に、確かに灯りとして残っていた。

 神名はもはや文字ではなかった。都市の構文そのものに溶け込み、誰かが祈るたびに立ち上がる“気配”となって残っていた。


「……あの《真実の書架》に、もうひとつ“名”を刻したいの」


 セーレは静かに言った。その声音には、朝の光のような静けさと、確かな決意が宿っていた。


 視線を遠くにやりながら、まるでまだ見ぬ読者たちへ語りかけるように、彼女は言葉を繋ぐ。


「それは、祈った者の名でも、記録した者の名でもない。……“語った者”の名よ」


 言葉を紡ぐごとに、その瞳には未来の旅路が映り始めていた。手を胸元に添え、小さく息を吸い込む。


「私たちの旅はここで終わりじゃない。いまから始まるの。誰かに“語るための旅”として」


 その宣言は、新たな祈りの幕開けのように、世界に静かに放たれていった。


 フロウは黙って頷いた。その頷きは、ひとつの誓いのようでもあった。


 その瞳は、もはや夜を宿していなかった。あの呪いの日々の名残はすでに薄れ、そこには“昼の光”があった。彼はもはや、仮面でも獣でもない。祈りを背負う騎士としての姿を取り戻していた。


 柔らかな光を受けながら、彼は静かに言葉を発した。


「お前が記した神名は、誰かが思い出すたびに蘇る。なら、俺はそれを守る」


 その意志が確かに言葉に乗った瞬間、彼の背にあった影がひとつほどけていく。


 続けて、まるで未来に語りかけるように視線を遠くへ向けた。


「君の物語を、誰かが語ってくれるように――俺はこの名で残る。語り部の盾として、記憶を消さぬために。忘れられた祈りが、次の誰かに届くように」


 その言葉には、かつて“呼ばれなかった者”として生きてきた彼の、静かな決意が込められていた。


 セーレはその言葉に、わずかに目を伏せた。まぶたの裏に浮かぶのは、祈りを刻んだ旅の軌跡――語られずに終わった名々、そしてそれを拾い上げた声たち。そのすべてが彼女の中で重なり、静かにひとつの想いとなって結ばれていく。


 深く息を整え、朝の光を受けるバルコニーの縁に視線を向けたまま、セーレは穏やかに語りはじめた。


「この旅の語り部は、次に“名を呼ぶ者”になるわ。名は記すだけでは足りない。語られ、呼ばれ、誰かに伝えられてこそ、真に生き続けるものよ」


 その言葉に余韻をもたせながら、彼女はそっと頷き、小さく微笑んだ。そして、祈りの先にある未来を見据えるように、語り続ける。


「そうやって、祈りも記録も名も、繋がっていく。もう、断ち切られないように」


 街の風が頬を撫でたとき、フロウはふいに振り返った。淡い光のなかで目を細め、どこか遠くを見るようなまなざしを浮かべる。胸の奥で、未だ語られていない名の気配が静かに息づくのを感じていた。


 彼はゆっくりと口を開き、かすかな微笑とともに言葉をこぼした。


「……次に誰かの名を呼ぶときは、ちゃんと“祈り”として呼べる気がする」


 その言葉に、セーレがそっと振り向いた。フロウは彼女の視線に気づき、照れ隠しのように肩をすくめながら、口調を少し砕けさせる。


「今度こそ、俺も“名を呼ぶ側”になってみるさ。名を刻む者の隣にいたんだ、少しは似てくる」


 その言葉は冗談めいていたが、瞳の奥には確かな敬意とあたたかな希望が宿っていた。


 ふたりの足元に、小さな芽が覗いていた。

 それは《アウロ花》の若葉。石畳の隙間からひっそりと伸び、夜明けの光を受けて微かに震えていた。

 まるで語られる声に応えるように、その若葉は、小さく頷いた。

 その若葉は、語られるたびに育ち、呼ばれるたびに咲く。語りと祈りのあいだに咲く、ひとひらの記憶だった。


 誰かがそれに気づき、また誰かがその名前を思い出し、そして別の誰かが“次に語る”のだろう。


 セーレはそっと息を吸い込み、朝の光に顔を向けた。


「私は――セーレ=アルティナ=ラナリア。名を呼ぶ者。記録を繋ぐ者。そしてこれからは、“語り継がれる者”として、この旅を遺す」


 その名乗りは、静かに、しかし確かにバルコニーから城下へと響き渡った。まだ目覚めきっていない都市の空気に触れ、言葉の余韻が石造りの建物の壁に反響する。誰かがふと顔を上げ、遠くの空に耳を澄ませる。


 フロウもまた、静かにその名を掲げる。


「俺はフロウ=ファレン=ルクス。闇に棲まい、光に帰る者。……呼ばれることを忘れぬための、祈りの証だ」


 彼の声もまた、その朝の静寂の中に溶け、城下へとゆっくり流れていった。ひとつの名が、またひとつの旅が、都市の記憶として刻まれていく。


 朝の光がふたりを包んでいた。

 まるで、記された名が彼らの足元を照らしていくかのように。


 その背には、獣の影があった。

 その手には、記録の剣があった。

 王冠などなかった。だが彼女の歩みが、王の道だった。


 こうして、“断絶された神の名”は蘇り、語る者たちの声によって、世界はふたたび、“名を持つ時代”へと踏み出した。


 それは祈りではなく、記憶によって。

 信仰ではなく、語られる言葉によって。

 そして、“最後の神名”はこうして刻まれる。


 ――《アウロ=ルクス》。


 その名、いま再び、世界に灯る。


 その灯火が静かに揺れる中――

 一冊の記録が、そっと閉じられようとしていた。


 だが、記された書の終わりは、沈黙ではなかった。

 閉じられたその頁の裏側で、新しい譜が静かにめくられていた。次の旅の音が、まだ見ぬ誰かを待っていた。

 名を残すこと――それは、次の祈りの構文を手渡すことだった。

 それは“語り”のはじまりだった。


 この物語が誰かに読まれ、思い出され、語られるとき――

 また、あの朝が巡ってくる。

 忘れられたはずの“陽”が、再び微かに差し込み、

 誰かの胸に、“名を呼ぶ声”が目覚める。


 それは過去ではない。

 未来のどこかで、まだ知らぬ誰かが再び祈るための、

 最初の一歩。


 そしてまた、新たな旅が始まる。

"――巡礼の果てに記された名が、世界をもう一度照らした。その瞬間を、私は語り継ごう。"


《記録者セーレの日記 :巡礼譚の果てに》


……私はようやく理解した。


物語は、神々のものではない。

誰かが語り、誰かが記したとき、

初めてそれは“生きた祈り”として、この世界に根を持つ。


かつて白豹が少女の祈りに立ち止まり、

梟が神の瞳を映したように。


私たちもまた、語り、記すことで、

忘れられた神を、祈りを、再び“今ここ”に呼び戻すことができた。


《アウロ=ルクス》。


その名が刻まれた瞬間、

この旅は、ひとつの巡礼譚として形を得たのだと思う。


記された神の名とともに、

私たちの足跡が残るのなら――

それは、誰かが思い出してくれる未来を信じての記録。


名を持たぬ者が名を得、

語られなかった者が語られ、

そして、語る者がまた次の語り手へと名を渡してゆく。


私は、もはや“名を探す者”ではない。

“記録する者”でも、“救う者”でもない。


私は、“語り継がれる者”であり、

誰かにとっての“はじまりの声”でありたいと思う。


この“巡礼譚”の記録を、私はここに閉じる。


……だが旅は終わらない。

世界にはまだ、数えきれぬ神の名が、眠っているから。


(記録者セーレの断章より)

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