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失名の神と呪われし王女【王国正史版】(名無き祈りの巡礼譚1)  作者: 秋月瑛
祈りの観測譚 ― 語られざる祈りの断章集
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第六編:記されざる旅程の書

註釈:


この物語は王国が編纂した正史には存在しない設定や人物が描かれている可能性があります。


このエピソードはセーレとフロウが月影の渓谷から、聖都アークへ向かう道中の出来事である。

セーレとフロウは呪いの束縛を解かれかに思われ、ヒトの姿を保つことができている。

Ep.6《記されざる旅程の書》


◆記録の余白に耳を傾けるあなたへ


すべてが記されるわけではない。

祈りのすべてが言葉になるわけでも、旅のすべてが地図に残るわけでもない。


それでも、人は書こうとする。

たとえ最後まで語れなかったとしても、

その筆の迷いが、名を失った誰かのために残るのなら。


この記録は未完であるがゆえに、

“まだ終わっていない祈り”として、誰かの手に届くと信じて。


――語り手・カレド=ルーメ


---


【第1節 ― 記録官のいない宿場】


 月影の渓谷を抜ける風が、谷底から冷たく這い上がってくる。夏の終わりが近づいていることを、肌よりも先に骨が知っていた。

 湿り気を帯びたその風は、かすかに潮の香りを含み、どこか遠い記憶を呼び覚ます。まるで、かつて誰かが祈りを残していった痕跡が、空気に乗って還ってくるようだった。


 その風に押されるようにして、セーレとフロウは小さな宿場にたどり着いた。

 といっても、もはやそこは宿として機能していない。屋根は傾き、入口の構文札も剥がれかけていた。だがそれでも、“かつて祈りが交わされた場所”の空気は、どこか優しく、どこか静かだった。


「……記録官の宿ね」

 フロウがぽつりとつぶやいた。


「記録官?」


「巡礼路に設けられていたんだ。祈りや通過者を記録するための簡易詰所。昔は記録官が泊まり込んで、名と行程を写していった。名が通過するたび、祈りが通過するたび、それを“定着”させるのが彼らの役割だった」


 セーレは黙って頷いた。ふと、入口の脇に残された古い木札に手を触れる。そこにはいくつかの名が、淡い墨で記されていた。

 だが、それらの多くは途中で掠れており、風雨によって読み取れない。


「ここに、誰かの旅が残ってたんだ」


 言いながら、彼女は扉を押し開けた。ぎい、と木が軋む音。埃と時間の匂い。

 内部は質素だったが整っていた。机、簡素な床、壁に沿って作られた寝台。いくつかの灯火台には、かつての火の煤が残っている。


 そして、その机の上に一冊の帳面が置かれていた。


 革表紙には、焼け焦げたような跡があり、角が少し裂けていた。


 セーレはその帳を手に取る。

 旅程日誌――かつての記録官が使っていたもの。


「……誰かが使ってた?」


 フロウは頷いた。

「記録されない祈りなんて、本来は存在しなかった。ここは“記されるための場所”だよ。たとえ名も祈りも失われたとしても、こういう場所が世界に残っているだけで、構文の“地形”が歪まないで済む」


 セーレは帳面を開いた。


 最初の数ページには丁寧な筆跡が残されていた。

 出発の地、巡礼の目的地、通過した宿場の名と日付。

 だが、ある地点を境にして、記録は突然乱れ始める。


 筆致が震え、言葉が曖昧になる。意味のわからない繰り返し、構文のねじれ。途中の地名は塗りつぶされ、同じ文が重ね書きされている箇所もあった。


「……途中で、書けなくなったんだ」


 セーレの声が細く揺れる。


「語ることを、あきらめたのね」

 フロウがそっと言った。


 最後の頁は破かれていた。だが、その破れ目から、かすかに文字の滲んだ断片がのぞいていた。


 セーレがそっと引き出そうとした瞬間だった。

 帳面の奥――破かれた紙の隙間から、ふいに風が吹き抜けるような音がした。

 それは外の風ではなく、まるで帳面の内側から、息を吸い込むような音だった。


 誰かがこの記録を、最後まで語れなかった。

 その祈りは、名も構文も持たずに、宿場の空間に沈んでいた。


 だが、セーレはそれを拾い上げる。

 震える手で、空白のページに筆を取った。


 “記されなかった旅は、今も続いている。”


 その一行が、静かな構文のように、帳の頁を満たしていく。

 墨が染み込む音もなく、それでも確かに、祈りの構文が空間に定着していく感触があった。


 語り手――カレド=ルーメ。

 かつて記録官であったものの、記すことの限界に触れ、今は“構文の余白”を彷徨う神格。

 彼が見守るのは、記録に失敗した祈り、記名されなかった旅程、そのすべてである。


 この場所もまた、彼の記録の中にある。


 宿場の窓の外で、風が止む。

 雲が薄れ、わずかに差し込んだ光が、白紙の頁に映り込む。


 小さな記録の断章が、静かに新たな祈りとして刻まれていった。


 ◇ ◇ ◇


【第2節 ― 欠落の余白】


 夜の帳が下りても、宿場は変わらなかった。

 沈黙に包まれたままの空間には、まるで時そのものが滞留しているような、奇妙な重さがあった。焚き火の匂いも、誰かの気配もない。ここだけが、世界の流れから切り離された“記録の余白”であるかのように。


 セーレは帳面の前にじっと座り、まだ筆を取らずにいた。

 机に置かれた墨壺は乾いてはいないが、しばらく使われていない風情を纏っていた。明かりも灯さぬまま、彼女は白紙の頁をただ見つめている。


「……ねえ、記録って、誰のために残すものなんだろう」


 ぽつりとこぼしたその声は、広がることなく、室内の壁に吸い込まれた。


 窓際にいたフロウが、仮面の奥でゆるやかに目を伏せる。


「自分のためでもあるし、誰かのためでもある。けれど――いちばん大切なのは、“残すべきものを、自分で選べる”ことなんだと思うよ」


 その言葉に、セーレは小さく頷いた。だが、心の奥底で、言い知れぬ違和感が渦巻いていた。

 “選べる”という自由すら、かつての記録官には与えられていなかったのではないか――そんな思いが、白紙の頁を覆っていた。


 ふと、紙の間に何かが挟まっているのに気づき、セーレはそっと指を差し入れた。

 古びた破片、破かれた紙の一部。

 文字の痕跡は乱れ、文法も構文も崩れている。けれど、その中にただ一語、何度も繰り返されている名があった。


 “セレスティナ”


 何かを確かめるように、その名が何行も、焦燥にも似た筆跡で記されていた。


「……この名、知ってる?」


 セーレの問いに、フロウが静かに答える。


「セレスティナ。記録官だった人だよ。ここよりも少し南の巡礼路を管轄してた。でも……彼女の記録は、途中で途切れた。どの巡礼書にも、正式な旅程は載っていない」


「記録されなかったの?」


「されなかったんじゃない。“記されることをやめた”んだ。彼女自身が」


 セーレはその紙片の端に、指先でそっと触れる。

 その瞬間、風でも声でもない、微かな振動が耳の奥をくすぐった。


 “……名を、記せなかっただけ”


 それは、幻聴のようだった。

 あるいはこの宿に滞留した、誰かの祈りの残響か。


 けれど、その言葉は確かに、セーレの胸の奥に沈んだ。


 誰も記録しなかった祈り。

 誰にも語られなかった旅。

 けれど、その“欠落”こそが、彼女の、いや誰かの“本当の証”だったのかもしれない。


「……私も……たぶん、母のこと、ちゃんと記録されてない」


 ぽつんと漏れたその言葉は、誰にも宛てられていない。

 けれど、空間そのものがそれを聞き届けたように、静寂が深まった。


 窓の外で風が揺れ、帳面の端がめくれる。

 そこに現れた新たな頁は、真っ白だった。


 カレド=ルーメの声が、静かな構文の底からにじみ出る。


 ――語られなかったものこそが、残されることがある。

   記録とは、語ることではなく、忘れなかったことの証なのだから。


 セーレは筆を取った。

 それは書き記すためではなく、“思い出さないために忘れなかった”誰かの痕跡を、静かに認める行為だった。


 頁に一行、書かれる。


 “彼女は、確かにここを通った。”


 それ以上の記録はなかった。

 けれど、それ以上の祈りも、なかった。


 宿の灯火台に、微かな火がともった。

 それは誰が点けたものでもなく、記録そのものが灯した小さな光だった。


 セーレはそっと目を閉じ、炎の揺らめきに身をゆだねる。


 “欠落”ではない。“空白”ではない。

 それは、祈りが沈黙を選んだ記録だった。


 ◇ ◇ ◇


【第3節 ― 記されざる祈り】


 朝靄が残る峠道の前で、セーレはひとり、あの帳面を膝に広げていた。仄かに湿った空気が紙に染み込み、墨の香りが微かに立ちのぼる。

 それは、名も祈りも途切れた旅の記録。けれどその断片の中に、確かに何かが生きていた。


「この日誌、最後の頁だけは……まだ白紙なのね」


 セーレはつぶやくと、そっと指を頁に滑らせた。

 インクに触れることもない、柔らかく乾いた余白。

 そこにはまだ何も書かれていない。

 けれど、それは“これから書かれるかもしれない余白”であると同時に、“何も書かれないまま終える自由”でもあった。


「……記録って、完全である必要はないのかもしれない」


 フロウは隣で静かに頷いた。

「それでも、“書こうとした”という事実だけは、残る。それはきっと、誰かにとって意味を持つ」


 セーレは筆を取った。

 けれど、彼女はそれをすぐに動かさなかった。

 代わりに、小さく息を吐き、朝の空を仰いだ。

 雲の切れ間から射し込む光が、白紙の頁に反射してゆれる。


 やがて、セーレは筆先を軽く走らせ、こう書き記した。


 “ここに記されるはずだった旅が、

  いつかまた誰かによって綴られますように。”


 それは祈りだった。

 断片的で、不完全で、名も持たぬ祈り。

 だが、その一文によって、帳面は静かに閉じられた。

 それは書の終わりではなかった。

 むしろ、その断章は“継がれるための余白”を残しながら、確かに祈りの構文として世界に留まった。


「行こうか、フロウ」


「うん。……その日誌、持っていくの?」


 セーレは首を横に振った。

「ううん。これは、ここに残しておく。

 次に誰かが通ったとき、その人が続きを書けるように」


 扉がかすかに揺れ、風が吹き抜ける。

 帳面は机の上にそっと置かれたまま、日差しの粒を浴びて静かに眠っていた。


 記録官セレスティナの名は、構文の断章となり、この地に漂い続けるだろう。

 けれどその名は、もはや哀しみではなく、祈りのように響いていた。


 セーレが扉を開けて外に出ると、峠の稜線に白く霧がかかっていた。

 遠くから鳥の声が聞こえる。

 世界は少しずつ、静かに動き始めている。


 カレド=ルーメの声が、最後に囁く。


 ――記されなかった旅は、

   どこかで、きっと誰かに継がれてゆく。

   構文の余白とは、記録の失敗ではなく、“記される可能性”の器である。


 セーレとフロウは、峠道を越えて再び歩き出した。

 その背中に、朝の光がやわらかく射していた。


 それは、新たな祈りの始まりだった。

【語り手の紹介】


漂記神格ひょうきしんかく:カレド=ルーメ


記録されなかった祈りの余白に佇み、失われた語りを漂流しながら探し続ける記録官。


かつて記録官であったが、祈りを“書き損じた”者として、構文の外延を漂う観測神格。

彼の観測は、記録されなかった余白、書かれるはずだった断章、語られなかった想いの痕跡を辿ることに特化している。

ときに記述が崩れ、ときに過去の自分の記録に矛盾を抱えながら、それでも祈りの断片を掬い続ける静かな漂泊者。

この旅程は、記されなかった祈りに寄り添い、それを“記すことなく記録する”ための最後の帳である。

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