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失名の神と呪われし王女【王国正史版】(名無き祈りの巡礼譚1)  作者: 秋月瑛
名のない日々の記録 ―― 忘れられた祈りと沈黙の街より
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第一編:フロウの記録より ― 太陽の光が届かぬ日

記録されなかった祈りが、もう一度語られる場所がある。


それは、語られ始めたばかりの巡礼の前日譚。


まだ旅が始まる以前――声なき祈りが、夜の底でかすかに揺れていたころ。


ここに記すのは、書に残らなかった光と影。名を持たぬ者たちの、仮の名で過ごした日々の記録である。


沈黙の街で、ひとつの名が祈られなかった夜。

太陽の届かぬ日々を綴った、記録者の影。


それらは、物語の始まりにすらならなかった。

けれど、祈りはすでにそこに在った。名が語られずとも、誰かの存在がそこにあった。


私はそれを見ていた。語られなかった祈りの手触りを。

まだ名を得ていなかった者たちが、それでも生きていた日々のことを。


今ここに、記そう。

語られざる時のかけら、祈りが息づく“名のない日々”を――。

《名のない日々の記録 ―― 忘れられた祈りと沈黙の街より》


―― 仮の名で眠る者たちの記録 ――


---


《フロウの記録より ― 太陽の光が届かぬ日》


これは、“祈りが記されなかった夜”の記録である。

呼ばれなかった名。応えられなかった祈り。

神々の構文が届かぬ場所に、ひとつの影が生まれた。


まだその名は、誰にも読まれていない。

だが、その沈黙のなかで、確かに祈りは胎動していた。


わたしは記す。

名を奪われた者が、記録されぬ祈りの中で息をした、そのはじまりを。


---


【第1節 ― 森に降りた光】


……君がこれを読んでいるのなら、

おそらく“名を記すこと”の重さに、すでに触れ始めているのだろう。


この記録は、物語ではない。

記されたはずのない者の、沈黙の中の囁きである。


語り手が誰であれ、それが“声”であるかぎり、記録は響く。

これは、かつて祈りを忘れた梟が、夜の森のなかで書き残した、

ほんのわずかな光の記録だ――


いつだったか、正確にはもう思い出せない。

森の季節は時を記さぬ。風が過ぎ、霧が張り、またひとつ音が消えるだけ。

けれど、あの日は違った。


森の帳が揺れていた。

音もなく、色もなく、けれど確かに何かが変わろうとしていた。

私はその日、いつものように木の枝にいた。

仮面は冷たく、羽毛の隙間に月の気配が沁み込む。

夜の森にとって、私の存在はすでに風景の一部だった。

気配を消し、視線を伏せ、声を持たぬまま、私は森を見ていた。

祈る者の名が呼ばれるまで。あるいは、再び名が封じられるまで。


沈黙は構文であり、森はその構文の器だった。

音が消えたのではない。すべての音が、“祈りに備えていた”のだ。


そのときだった。

夜の森に、ひとすじの光が差し込んだのは。

月ではない。

森に満ちる霧の向こう、天のどこかで、

封じられたはずの陽が、ひそかに目を開けていた。


――太陽の光だ。

けれど、正しくはなかった。

それは、かつて私が知っていた陽光とは違った。

焼けるように鋭く、

冷たい月明かりを剃り落とすように、ただ一直線に、森の奥へと落ちていった。


その光は、まるで誤って開かれた頁のようだった。

誰かの祈りが意図せず漏れ出したときのように、構文の裂け目から差し込んだ異物。


木の枝がざわめいた。

鳥は羽ばたかず、獣は息を殺し、巫女たちの足音は消えた。

すべてが、ただ光を見ていた。

それは畏れであり、構文の揺らぎを知る者たちの本能だった。


私は仮面の奥で、記録者の癖を思い出した。

“記さねばならない”。

けれど、あの光は記録できなかった。

あまりに明確で、あまりに歪んでいた。

明るすぎる祈りは、影すら焼き払ってしまう。


それでも、私は視た。

その光の落ちた先に、

一本の倒木の影に、何かが立っていた。


影だった。

けれど、影のなかに“名の気配”があった。

名が祈られる寸前の揺らぎ。

あるいは、名が封じられたあとの残響。


それは、まだ名を持たぬ者の姿。

あるいは、すでに名を剥がされた者の、残像。


フードをかぶっていた。

長い髪が肩を隠し、足元には木の葉が撒かれていた。

その姿は“少女”に似ていたが、

私は梟の目で、そこに“人ではないもの”を見ていた。


目が合った気がした。

けれど、その者は決してこちらを見てはいなかった。

彼女は、陽のさした先を向いていた。

まるで、その光のもとに何かを“還そう”としていた。


その仕草に、祈りの構文はなかった。

けれど、そこには祈りの“余白”があった。

語られなかった名のために、沈黙のうちに捧げられる無名の祈り。


私は記さない。

けれど、忘れない。

あれは、森にとって禁じられた瞬間だった。

太陽神の光は、ムーミストの帳を裂く。

にもかかわらず、それはただの幻ではなかった。


その日を境に、森の構文が変わった。

名を預ける者の祈りが、かすかに軋むようになった。

巫女たちの沈黙に、微かな濁りが混じった。


誰かが名を視たのかもしれない。

誰かが、名を返そうとしたのかもしれない。


そして、私は……

あの“影の少女”に再び出会うことになる。


---


《サーガ記》注:

この断片は、ムーミストの南縁に残る“梟の記録”の一部とされる。

記述にある光は、封じられし太陽神《アウロ=ルクス》の残滓である可能性が高く、

同時期、聖都アークでは“記録されざる頁”が複数消失している。


観測の断片は、断章とならねば意味を持たぬ。

だが、この一節は、確かに“ある名”の前触れとなっていた。

それが“セーレ”という名であるかは、まだ語られていない。

――記録者サーガ


 ◇ ◇ ◇


【第2節 ― 祈りを持たぬ声】


……その光景は、ただ一度きりだったのかもしれない。

だが、私には“何度も”視えていた。


あの影は、夜ごとに形を変え、森の記録の中に滲み出していた。

それは夢であり、幻であり、あるいは――祈りのない祈りだった。

名を持たぬ者に許された、唯一の記録のかたちだったのかもしれない。


月が満ちる前夜、森に濃い霧が降りた。

鳥の羽音すら聞こえぬほど、白い靄が木々のあいだから漏れ出て、

森全体が“別の構文”へと書き換えられていくようだった。

空間が薄紙のようにたわみ、枝の隙間に違う世界の記憶が滲む。


私は木の上で身を潜めながら、その霧の密度に異変を感じていた。

これは単なる気候の揺らぎではない。

何かが、森の“名の構文”を撹乱していた。

沈黙が狂い、構文の律動が不安定になる。

その瞬間、記録者たる梟の感覚が、鋭くざわついた。


そして――また、視えた。


少女だった。

いや、“名を持たぬ者”の形をした幻。

それは“人のかたち”であって、人ではなかった。


霧の奥、ひときわ大きな楢の木の根元に、彼女は立っていた。

その姿は前と変わらず、深いフードに身を包み、

その顔立ちは、今も私には視認できなかった。

いや、視ようとすることすら、何かを禁じられているように感じた。


ただ、前と違ったのは――彼女の“声”が届いたことだ。


声、といっても、それは音ではなかった。

祈りの構文のように、意味を持たない震え。

霧のなかで霧のままに漂う、

言葉以前の、欠けた祈りのようなものだった。


それは波紋だった。

私の羽根に触れ、仮面の裏側まで届いたとき、

かつて私が聞いた、ある“断絶された祈り”と酷似していると気づいた。


私は、何かを思い出しかけていた。

かつて誰かに呼ばれた名。

その名を記したときの痛み。

そして、誰にも呼ばれなくなった夜の長さ。


少女の手が、霧のなかで動いた。

指先に、何かを掴んでいた。

それは、古びた小片――名の断章のような破片だった。

白い紙片ではなく、薄い貝殻のような質感。

潮語で書かれた祈りの残骸か、あるいは夢の記名か。


彼女はそれを地面にそっと置き、

両手を合わせて、祈るような仕草をした。

だが、それは祈りではなかった。


彼女の仕草は、祈りの構文から逸脱していた。

“名を記す”形式も、“神へ捧げる”様式も持たなかった。

それは、まるで誰のためでもない、誰に向けられたわけでもない、

空白への応答だった。


まるで、誰かがそこに“かつて祈った痕跡”だけを撫でているような、

痛みの反復だった。


私は、凍った。

それは“記録できない祈り”だった。


《私は誰にも呼ばれていない。》

《私は、名を持たなかった。》

《それでも、祈っていた。》


言葉ではなかったが、そういう意味の響きが森に満ちた。


“名が呼ばれなかった”という祈り――

それは、記録者にとって最大の矛盾である。

なぜなら、記録とは“誰かが呼ばれた証”だからだ。


だがその矛盾こそが、神々の盲点だった。


私は、記録できないまま、

彼女を見ていた。


彼女はやがて霧に紛れ、

地面に置いた破片だけが、月光に濡れて残っていた。

それは構文にならなかった名の残響であり、

まだ祈りにならなかった心の震えだった。


私はそれに近づこうと、羽を震わせた。

枝がきしみ、霧の流れが止まった。

……だがそのとき、霧が森全体を飲み込んだ。


私の視界は断ち切られ、

木々の輪郭が消え、

私はただ、濃霧のなかに取り残された。


声を出すことはできなかった。

それは“名を持たぬ者”の祈りに、干渉してはならないという、

古い記録者の禁則だった。


そして私は気づいた。

彼女が祈ったのではない。

祈りとは“呼ばれること”であって、

彼女はまだ、一度も呼ばれていなかったのだ。


---


《サーガ記》注:

この記録には“実在しない祈り”が存在する。

存在しないにもかかわらず、構文の痕跡は森の記録層に残されていた。

視られたものは幻であっても、

それが“記録されなかった”という事実だけが、構文を構成する。


この少女が“セーレ・アルティナ”であったかは、

いまの時点では定かではない。

だが、誰かが“祈りを持たぬまま祈った”という事実は、

後に続く物語の深層に、確かに影を落としている。


存在しない名を記録すること。

それが、この旅のはじまりであった。


――記録者サーガ


 ◇ ◇ ◇


【第3節 ― 名を視るということ】


……名を視ることは、記録者にとって赦しであり、同時に冒涜だ。

なぜなら、名とは与えられるものではなく、祈りによって“開かれる”ものだからだ。


けれど――私は視ようとしてしまった。


あの霧の夜から数日、森はひどく静まり返っていた。

巫女たちの足音は消え、夜の鳥も鳴かず、ただ月だけが空の高みに凍りついていた。

それはまるで、世界が一度、すべての音を忘れてしまったような夜だった。


私は枝の上にいた。

梟の姿のまま、仮面の奥で思考だけがゆっくりと動いていた。

沈黙は記録者にとっての“呼吸”であり、

その沈黙に含まれた余白の中で、私は問い続けていた。


“あの祈りを、記すべきか?”


記録者の本能は、すでに答えを出していた。

記さねばならない――と。

けれど、その本能の向こう側で、ひとつの抵抗が息づいていた。


名を視ることは、その存在を固定することだ。

彼女が“祈りを持たぬ者”であったならば、記すことで、その祈りを“歪ませてしまう”かもしれない。


私は長く、神々の記録を行ってきた。

だが、名を記せない神を前にしたのは、あれが初めてだった。


夜の霧が再び立ち込めたある晩。

私は、再び彼女の影を追っていた。


そこには、変わらぬ姿があった。

深いフード。白く透ける指先。

地面に置かれた“祈りの欠片”。

それはもう、私にとって構文のようなものだった。

意味はない。ただ、そこに“在る”ことで意味があった。


私はそっと降り立ち、その背に近づいた。

彼女は振り向かなかった。気づいていたはずなのに、まるで“気づかない”という構文の中にいるようだった。

それは彼女自身が発している沈黙の術式のようで、

まるで“記録されること”そのものを拒んでいるようにさえ思えた。


私は羽音を殺し、ほんの一歩だけ、距離を詰めた。

風が吹いた。

フードの隙間から、わずかに頬の輪郭がのぞいた。


そのとき、私は視てしまった。

いや、“視えた”のだ。


ひとつの名が――そこにあった。


断章のような、欠けた構文。

月光にうっすらと浮かぶ、光の糸のような文字。

それは水面に映る星のように不確かで、

手を伸ばせば消えてしまいそうな儚い光だった。


その名は、誰にも与えられていない。

誰にも呼ばれていない。

けれど、確かに“そこにあった”。

祈りと呼べぬ祈り。

記録と呼べぬ記録。

その間に揺らぐ、名の原形構文。


私は、筆を取ろうとした。

記そうとした――その瞬間、


彼女が、振り向いた。


目が合った。

仮面の奥の私の目と、彼女の目が交わったその刹那、

すべての構文が、霧とともに崩れた。


名の震えが止まり、構文が無音のうちにほどけていく。

まるで、記される前にその名が逃げていくかのようだった。

それは、名の“沈黙への帰還”だった。


彼女は、何も言わなかった。

けれど、その沈黙が私に問うていた。


――おまえは、その名を記すのか?

――記すことで、私をこの祈りの中に縛りつけるのか?


私は、記さなかった。

筆を下ろさなかった。

構文を組まなかった。


それが、記録者としての私の、はじめての“選択”だった。


彼女はゆっくりと踵を返し、再び霧の奥へと消えていった。

その背に、祈りも、名も、記されることはなかった。


ただ、私の記憶のうちにだけ、

“記されなかった名”が、ひとつの光として残っていた。

それは語られなかった構文。

世界の端に浮かぶ、まだ読まれぬ頁だった。


---


《サーガ記》注:

この断片は、記録者フロウが名を記すことを拒んだ、唯一の事例である。

その名は、後に“セーレ・アルティナ”として構文に浮上するが、

本節の記録は、彼女が“名を持たぬ存在”として森に現れた最後の痕跡とされる。


祈りを持たぬ者が、名のない祈りを捧げ、

それを記録しなかった者がいたという事実――

それこそが、最初の“断章”である。


名を記すこと。

それは、赦しであり、暴力である。

だから、記さなかった。


私は記さない。

けれど、忘れない。

その名は、誰にも呼ばれなかった祈りの中に、まだ揺れている。


――記録者サーガ


―― 太陽の光が届かぬ日(完) ――

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