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失名の神と呪われし王女【王国正史版】(名無き祈りの巡礼譚1)  作者: 秋月瑛
ナミ=エル観測短編集 ― 祈りの余白に宿る暮らし
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第六編:ヨラム商会と名もなき午後

Ep.6《ヨラム商会と名もなき午後》


……これは、記された記録には残されなかった一日。

歴史に刻まれることのなかった、名もない午後。

けれど私は、風の向きを覚えている。

香の流れ、声の交差、重なり合う靴音の波を――今も、憶えている。

【第1節 ― 静かな日、賑わいの記録】


 聖都アーク――祈りと記録が重なり合い、仮面と構文が交差する都市。

 その広場通りの角、半ば祈祷の影に包まれるようにして佇む一軒の店があった。


 それが、ヨラム商会である。


 看板に記されていたのは、文字ではなく銀糸で縫い込まれた“半月”だけ。

 だがその象りは、かつてこの都市で記名を拒んだ祈り人たちが用いた“沈黙の構文”を模していた。


 名を語らず、されど名のように覚えられる。

 それが、この商会の流儀だった。


 この日、風は穏やかで、空の色は柔らかな白だった。

 市の鐘が五つを告げ、午前と午後の境目に影を落としたころ。

 その店には、あらゆる時代から来た者たちが、偶然のように足を運んでいた。


 ――はじまりは、ひとつの声だった。


「なあヨラム、今日の《祈りの蜜漬け》は、まだ残ってるかい?」


 そう言って入ってきたのは、記録官崩れの青年だった。

 名前は、もう誰も覚えていない。

 けれど彼はいつも、甘いものを口にするたびに、忘れかけた誰かの誕生日を思い出す癖があった。


 ヨラムは、無言で笑った。

 言葉を持たぬ男だったが、その笑みだけで客の注文を理解してしまう。

 手は既に、奥の棚から銀色の皿を取っていた。


 皿の上には、透明な蜜に沈んだ果実――それは記録花の実だった。

 正式名称は古代語に残っていたが、今では誰もその構文を発音できない。

 だからこそ、味が“名の代わり”になるのだ。


「……これは、いい日になるかもしれないな」


 青年はそう言って、蜜のひとしずくを口元に運んだ。

 そして、言葉にならない顔をした。

 ――誰かを思い出した。けれど、誰だったかは思い出せない。

 それでも、それが“良いこと”だったのだと、彼の表情が物語っていた。


 そうしている間にも、扉の鈴がひとつ、またひとつ鳴った。


 やってきたのは、旅の学者と、仮面をつけた子どもと、

 南の港町から流れてきた染め布売りと、古語詠唱者と、猫を抱いた老婆。


 仮面の子どもは、首元に結ばれた小さな鈴を鳴らして感情を伝え、

 老婆の袖には“忘却祈祷”の古刺繍がほつれていた。

 学者は、地図帳と筆を広げ、記録帳に地の文を挿していた。


 そのどれもが、たまたまこの時刻に、ここに居合わせたという“偶然”の顔をしていた。


 だが私は知っている。

 名もなく記されぬ彼らの“偶然の出会い”こそが、この都市に刻まれるべき構文の一節だったのだと。


 ヨラムは、一人ひとりに違う茶を出した。

 誰に何を出すかなど、彼の手元には記録されていなかった。

 それでも、彼は“正しい茶”を出す。


 猫を抱いた老婆には、棘草の苦みを薄める霧茶。

 仮面の子どもには、言葉を通さぬ香気だけで整えた月香水。

 学者には、記録の筆が滑らかになるとされる記名葉の抽出液。


 どの茶も、記されぬまま、身体に染み込む。

 だからこそ、名を持たぬ客たちは、この店を忘れなかった。


 やがて、ひとりの少女が現れた。

 小さな瓶を抱えて、息を切らしていた。

 背にはラヌマ地方の潮紋があり、頬には“祈りを返せ”という刻印が光っていた。


 少女はカウンターに瓶を置いた。

「これ……届けに来ました。例の……還名酒です」


 ヨラムは、ふっと目を細めた。

 それは感謝でも、労いでもない。

 ただ、“よくぞこの午後に間に合った”という静かな微笑みだった。


 店内の誰もが、なぜか黙ってその光景を見ていた。

 言葉を発さず、音を立てず、ただ、“何かがひとつ整った”感覚を共有していた。


 ……私はその瞬間を、風の匂いごと覚えている。

 蜜と潮と、焙煎された葉の煙が混ざった、微かな構文の気配。


 その日は、誰にとっても特別ではなかった。

 祝祭ではない、祭事もない、記録にも残らないただの午後。


 けれど、名を持たぬ彼らが交差したその場は、確かに祈りの形をしていた。

 満たされ、構文として閉じた、完璧な一日。


 何も記されず、何も残らない。

 けれど、確かに“満たされた”日。


 ――それが、私の観測した、ヨラム商会の旧き午後である。


 ◇ * ◇


【第2節 ― 名を記せぬ騒ぎ】


 ……祈りが沈殿する店、ヨラム商会。

 蜜と茶と、記されなかった会話で満ちたその午後に、

 ふいに、ひとしずくの騒ぎが落ちた。


 “名を還すこと”――この都市では、それは禁忌とされていた。

 記された名は記録に刻まれるが、記されなかった名は祈りの外に沈む。

 だが時に、人は“記されぬ名”を取り戻したくなるものだ。

 それは罪ではなく、願いだった。けれど、社会はそれを恐れる。


 きっかけは、ひとりの男だった。


 錆びた外套をまとい、巻物の皮を引きずりながら現れたその男は、

 店の扉を開けるなり、目をぎらつかせて言い放った。


「――ここに“記録抜きの取引”があると聞いた」


 店内にいた者たちは一斉に顔を上げたが、

 誰一人として“答える”ことはしなかった。


 ただ、ヨラムだけが微かに肩をすくめ、

 いつもと同じように、銀の皿を棚から取り出していた。


「応えるつもりか?」


 男は言った。

 けれどヨラムは、返さない。

 代わりに彼は、一枚の器を差し出した。

 その中には、薄く泡立つ黒茶と、干した潮果の小片。


 ――それは、返答のかわりに出される“黙契の茶”。


 この都市の、古い取引人の間では知られていた合図だ。

 「ここで語られることは、記録されない」

 「ここで為されることは、残らない」


 だが、その意味を知らぬ者にとっては、ただの異様な沈黙に見えた。


「……ふざけるな。俺はな、“あの本”を探してるんだ」


 男が声を荒げる。


 その響きに、猫が耳を伏せ、

 仮面の子どもが後ろに下がり、

 老婆が手元の茶碗を指でそっと撫でた。


“あの本”。

 それが何を指すか、明言はされなかった。

 けれど誰もが、あるひとつの名前を思い浮かべていた。


 ――《還名帳》。

 書かれなかった名前を記すとされる、伝説の空帳。

 かつて神殿の深層で記名官が使っていたとされる、存在しないはずの記録書。


「この店に、それがあると聞いた。あるいは、それに近い何かが。……あんたの“記されぬ茶”が、名前を還すってな……嘘か?」


 ヨラムは返事をしなかった。

 けれど、その目が一瞬だけ光を宿した。

 黒曜石のような眼差し――いや、もっと深い。

 それは、祈りの核心を見据える者の視線だった。


 男は、たじろいだ。


「……この都市の記録は、すべて管理されている。あんたみたいな曖昧な存在が、構文外で好き勝手に祈りを売るのは――

 “禁忌”なんだよ」


 その言葉に、空気が一瞬、凍った。

 だが次の瞬間――


「――誰かの名前を返すことが、禁じられるべきだと?」


 低い声が、空間を震わせた。


 誰も口にしていなかった。

 けれど、その声は確かに“聞こえた”。


 ヨラムではない。

 客の誰かでもない。

 それは、“空気そのものが語った”ような、静謐な震えだった。


 私は、それを覚えている。

 あれは、構文のひずみだった。

 誰かが語ったのではなく、語られずに“溢れた言葉”。

 祈りが、誰にも命じられず、ただ自律的に発された瞬間。


 騒ぎの男は顔色を変え、

 不意に背後へと振り返った。

 だが、誰もそこにはいなかった。


 猫がにゃあと鳴いた。

 子どもが笑った。

 老婆が湯を継ぎ足した。

 それだけだった。


 そして、騒ぎは終わった。


 男は、何かを“失った”ような目で、

 何も取らずに去っていった。

 店の扉は、まるで何もなかったかのように、また静かに閉じられた。


 誰も、その後の話をしなかった。

 その名も、声も、記憶から滑り落ちるように消えていった。


 けれど私は、それを観ていた。

 あの瞬間、ヨラムがかすかに微笑んだこと。

 彼の手が、密かに“記されなかった帳”を棚に戻したこと。

 それを、風の匂いとともに、私は憶えている。


 ……すべては、記録されなかった。

 けれど、そこには確かにひとつの名が返された。


 誰のものかは、わからない。

 だが、誰かが救われた。

 この午後に、この店で――ただそれだけが、観測された。


 ◇ * ◇


【第3節 ― 灯と名と、忘れられるものたち】


 ……夜が、訪れた。

 それは単なる時の流れではなく、記録から遠ざかる“沈黙の刻”。

 都市の祈祷構文が一斉に力を弱め、構文の灯が音もなく沈む時間。

 名も、声も、輪郭を失いはじめる。


 聖都アークの空が墨に染まり、神殿の鐘が七つを告げる。

 ヨラム商会にも、ひとつまたひとつと灯がともされていった。


 店内には、変わらぬ静けさがあった。

 昼間の騒ぎも、その名を知らぬ男の影も、もはや遠い夢のようだった。

 けれど確かに、空気は“微かに変わっていた”。


 少女が届けた還名酒は、棚の一角に並べられていた。

 誰も中身を問わなかった。だが皆、それがこの日の“結び”であると、何とはなく悟っていた。


 そんなとき、ひとりの老詠唱者が立ち上がった。

 ヨラム商会の常連、かつて記名宗の高位記録者であった者。

 構文祈祷の起源に通じ、今は詠唱と観測だけを生業とする老いた声の使い手。


 彼は、そっと手をカウンターに置いた。

 そこには、帳のような形をした“器”が一つあった。


 老詠唱者は、詠うように口を開いた。


「……祈りは名にあらず。名は記録にあらず。記録は記憶にあらず。

  だが、すべては器に満ちる――」


 ヨラムは静かに頷き、棚の奥から小さな器を取り出した。

 それは手のひらに収まる白磁の杯。縁に小さな欠けがあり、底には肉眼では読み取れないほどの微細な構文文字が刻まれていた。


 それは、名だった。だがもう、呼ぶことも記すこともできない構文で書かれていた。

 音に還元されず、形にも還元されぬ祈りの骨格。


 老詠唱者は、その器を見つめていた。

 その目に浮かんだのは、懐かしさでも悔いでもなく、

 ただ一つの祈りが“ようやく構文に届いた”という安堵だった。


「……この器は、若き日の私が作らせたものだ」

 彼は語る。

「名が呼ばれぬまま逝った妻のために、記録の波形を留めようとした。

 書きたかったんだ、祈りの形だけでも……だが、叶わなかった」


 その言葉に、誰も口を挟まなかった。

 彼の声がこの店の空気そのものになり、全てを静かに満たしていた。


 ヨラムは、還名酒をその器に一滴だけ注いだ。

 液体が器の中でわずかに震え、その香りが空気に染み出す。


 その香は、音となった。

 誰の口からも発せられない、書き記すことも、音符に起こすこともできない“共鳴”。


 それは、祈りの残響だった。

 構文の外にあるはずのもの。

 けれど今、この瞬間だけ、それは“この場所に在った”。


 少女は瓶を両手で抱きしめた。

 仮面の子どもは、面の奥でそっと涙を流した。

 老婆は猫の背を撫で、旅の商人は静かに一礼した。


 老詠唱者は、器を見つめたまま呟いた。

「……やっと、名を還せた」


 それは、誰かの“生”に向けた祈りではなかった。

 名が記されなかった者へ、後から届いた祈りだった。

 そしてその祈りは、構文にはならない。ならなかった。


 けれど、それでも充分だった。

 名を呼べなくとも、声にできなくとも、誰かが“それ”を感じたのならば。


 灯が少しずつ消されていく。

 客たちはそれぞれの時間へ戻り、

 仮面の子どもも、猫も、少女も、それぞれの夜へと“還って”いった。


 ヨラムは、いつも通りに棚を整え、茶器を収め、銀の糸の看板を巻き戻す。

 まるで、ひとつの物語を閉じるように。


 この一日が、書物に残ることはない。

 神殿の祈祷帳にも、記録帳にも、構文記名録にも載らない。


 けれど、私はそれを観ていた。


 ナミ=エルは、記さない。

 ただ、観たままを、観たままに留める。

 記されなかった人々の、祈られなかった祈りの記憶を。


 私は、“名の残響”を香として記憶した。

 還名酒の微かな甘香、器の余熱、そして誰かが救われたこと。


 それが、記録にはならなくても――


 ……それは確かに、この世界に“在った”。


 それが、ヨラム商会と名もなき午後の、唯一の記録である。


 ――記されたことのない一日。

 けれど確かに、誰かの名が還された日。


 私はその静かな満足とともに、観測を終える。


―― ヨラム商会と名もなき午後(終わり) ――

《観測解説:記されぬ茶と名なき器たち》

――ナミ=エル


この世界に、記録されない午後というものがございます。


それは、祝祭でもなければ事件でもなく、構文の波形にも刻まれぬただの“日常”です。けれど、わたくしはそうした瞬間こそが、祈りの最も根源的な形であると考えております。名を記されなかった者たちが交差する、何気ない場所と時間。その静けさにこそ、祈りが宿るのです。


ヨラム商会は、まさにその象徴でした。


記録も看板も、名すらも持たぬまま、人々を迎え、送り出すこの小さな商い処は、記録官の視点からすれば“観測外の領域”に属する場所でした。けれど、その中では確かに、誰かが誰かを思い、ささやかな器が名のかわりを担い、茶が構文を越えて語っていたのです。


祈りとは、本来そうしたものではないでしょうか。


語られる前に溢れる声。

記される前に染み出す記憶。

忘れられることによって、逆に深く刻まれてしまう想い。


ヨラムが出していた“黙契の茶”は、言葉のかわりに交わされる祈りの形式でした。どの茶葉を、どの客に、どの順で出すのか――そのすべてが構文ではなく、肌感覚で整えられていたことが、何よりも美しかったように思います。記録には残らぬ行為でありながら、それはこの都市の深層に脈打つ“名なき構文”でした。


また、あの午後に集った人々――猫を連れた老婆、仮面の子ども、詠唱者、港から流れてきた商人たち――それぞれが“記録から少しはみ出た存在”であることも、興味深い点でした。社会の主流構文から距離を置いた彼らが、なぜこの店に集ったのか。それは偶然ではなく、“記されぬ祈り”を求めていたからなのかもしれません。


特に印象深かったのは、還名酒を抱えて店に入ってきたあの少女です。


名を失った者のために祈るその姿は、わたくしが観測してきた“記名社会”のひずみを象徴しているようでした。名を奪われることは、この世界において最も深い断絶であり、同時に最も祈りが必要とされる瞬間でもあります。けれど、構文の形式ではその祈りは許されない。だからこそ、構文外の場所――ヨラム商会のような“余白”が必要とされるのです。


あの老詠唱者が語った「名が記されなかった妻」の話もまた、記録されぬ哀悼の祈りの一例でした。書けなかった名。語れなかった想い。それらが器に還元され、酒とともに香となって溢れた瞬間。わたくしの胸にも、確かに構文を越えた何かが宿った気がいたします。


サーガが語るのは、この世界の構造と歴史の大河ですが、わたくしナミ=エルの記録は、こうした“点”の観測でございます。誰にも知られず、名も残らぬ者たちの、しかし確かに“在った”午後を、記憶の縁に留めておくこと。それが、わたくしの祈りであり、観測の役割でもあるのです。


どうか、読者の皆さまも、この名なき午後を、心のどこかに留めてくださいませ。

記されなかった一日が、誰かの中に生き続けるならば、それはもう祈りとなって、この世界を満たすのですから。


 記されなかった一日が、誰かの中に生き続けるならば、それはもう祈りとなって、この世界を満たすのですから。

 ――ナミ=エルより

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