第五編:仮面の村と二つの契約
註釈:
この物語は王国が編纂した正史には存在しない設定や人物が描かれている可能性があります。
このエピソードはセーレとフロウが禁書の谷を旅立ち、次の目的地へ向かう道中の出来事である。
夜間にてセーレはヒトの姿に、フロウは梟の姿に変異してしまっている。
しかし、これから訪れる村では――?
Ep.5《仮面の村と二つの契約》
◆名と仮面のあいだを歩くあなたへ
この村では、仮面こそが“名”だった。
語られることなく、ただ“装われる”名。
それは真実よりも深く、虚構よりも痛く、
“嘘”という構文でしか継がれなかったもの。
けれど、それでもいい。
誰かであろうとするその意志が、
たとえ構文であれ、たしかに残るのだから。
嘘の中にこそ、継がれゆく祈りがある。
名が覆われたとき、初めて見えるものもあるのだ。
――語り手・イル=ヴァス
---
【第1節 ― 仮面の村の夜】(改稿版:フロウが梟の姿である状態に対応)
渓谷を越えた先、霧が薄くたなびく峠の麓に、ぽつりと灯りが見えた。
それは、地図にも記録にも残されていない村――ただ“巡礼者に仮面を与える”ためだけに存在すると言われる、仮面の村だった。
「ここ、入っていいのかな……?」
セーレが立ち止まり、石畳の途切れた先に視線を向ける。
月明かりが村の輪郭を淡く照らしている。家々は古びており、茅葺きの屋根には黒い苔が広がっていた。村の外壁は低く、門も形式的なものでしかない。だが、その門には一対の仮面が掛けられていた。まるで訪問者に問いかけているかのように。
フロウは声を発さない。だが、セーレの肩にとまっていた梟が、静かに一度だけ羽音を鳴らした。
「……うん。道が通じてるってことは、誰かが祈った道なんだよね」
セーレは自分に言い聞かせるようにそう呟き、門の下をくぐった。
門をくぐると、すぐに奇妙な静けさがふたりを包んだ。
家々の窓には灯りがあるのに、声も笑いも聞こえない。代わりに、何かが潜んでいるような“構文の密度”だけが空気に濃く漂っていた。
道端を行き交う村人たちは、すべて仮面をつけていた。
鳥の嘴を模したもの、獣の毛皮を思わせるもの、幾何学的な意匠、あるいは無地の仮面。
どの仮面も精緻でありながら、その意匠には“意味”が欠落していた。まるで、あえて空白を選んでいるかのように。
「……これ、意図的に“意味を消してる”んじゃない?」
セーレが声をひそめた。
梟は村の全体を見回すように、小首を傾げた。セーレの肩の上で、ふっと羽を震わせる。
「仮面を“仮面”としてしか機能させない。祈りでも象徴でもなく、記号でもない。ただの空白……そのくせ、村全体が構文の器になってる」
セーレはフロウの気配を感じ取りながら、代弁するように言葉を続けた。
宿を探し始めたとき、一人の老婆が近づいた。
黒い衣をまとい、無地の仮面をつけていたが、不思議なことにその声にはどこか懐かしさがあった。
「巡礼者かね。よかろう、一晩だけ泊まっていくといい。だが、仮面を外してはいけないよ。夜には“誰か”が訪ねてくるからね」
意味を問う暇もなく、老婆はくるりと背を向けて去っていった。
与えられた宿の部屋は簡素だった。壁には仮面が一つ掛けられており、机の上にもひとつ、置かれていた。
どちらも無地で、装飾も刻印もない。まるで、着用する者によって意味が生まれることを待っているかのように。
「……なんか、気味悪いな」
セーレは仮面を手に取り、裏面を見た。だが、そこには何も書かれていなかった。
肩の上の梟が、軽く嘴でセーレの髪をついばみ、窓の外を見つめる。
「この村の構文……信仰とも祈祷とも違う、“契約構文”に近い。仮面は、“記名以前の名”を封じる媒体かもしれない」
その夜、風が止み、すべての音が沈黙した。
その静寂を破るように、村の広場で低く鈍い鐘の音が鳴った。
セーレは目を覚まし、窓辺のフロウ――梟の姿のまま佇む彼と共に宿を出た。
霧に包まれた広場に、村人たちが集まっていた。
皆、仮面をつけている。
顔はおろか、声の質さえ区別できない。仮面が声の反響を変えるように設計されているのか、すべての発言が、まるで同一人物のように響いた。
「“誰か”が契約に失敗した」
ざわめきもないまま、その言葉だけが響いた。
しかし、誰が言ったのかは誰にも分からない。
「“失敗”って、なに?」
セーレが小声で尋ねる。
そのとき、肩の上の梟が動いた。
ポーチの中から器用に取り出したのは、小さな羽根の筆――羽筆だった。
それはかつて、記録官であった彼が使っていた、意思を記すための道具。
フロウはその羽先を地面に押し当て、丁寧に文字を描いた。
《名のないまま、始めた》
セーレはその言葉を読み、はっと息をのむ。
「……この村では、“名”も“契約”も仮面を通して交わすらしい。たぶん、記名に失敗した――つまり“誰でもない”まま構文を始めたってことだ」
セーレは、以前フロウが語っていた記録官制度の話を思い出しながら、自分に言い聞かせるように言葉を繋ぐ。
そのとき、群衆の奥に、ひとりだけ仮面をつけていない影が立っていた。
男か女かもわからない。年齢さえ曖昧だった。
仮面を持たぬ者。
記録に乗らなかった者。
村人たちは、その存在に何の反応も示さない。ただ、誰かが“そうであること”を前提に動いているような、一種の無言の“合意”があった。
それが、“契約の失敗者”なのか?
あるいは――この空間そのものが、観測によって形作られているなら、“彼”こそが、構文の始点なのではないか?
セーレは、自分の足元が音もなく崩れていくような錯覚を覚えた。
ここで、誰かが“自分のふり”をしている。
いや――もしかして、“自分”が本当に自分なのか、すら怪しくなる。
仮面とは、他者を演じる構文装置。
ならば、“誰でもない”者が、“名乗らずに在る”ことが、最も強力な構文破壊になるのではないか。
イル=ヴァスの囁きが、仮面の奥から響く。
――名は明かされた。
だが、それは、真実の名だっただろうか?
◇ ◇ ◇
【第2節 ― 二つ目の仮面】
朝が訪れても、仮面の村には何の変化もなかった。
白む空は鈍く曇り、木々の枝には夜露が鈍く光っているはずなのに、村の空気はまるで止まっていた。鳥も鳴かず、煙も立たず、戸口の開く音さえない。
まるで夜の構文がそのまま地表に張りついて、村全体を封じているようだった。
寝床の上でセーレはヒトの姿のまま、冷たい汗に濡れた手を見つめていた。
眠ったはずなのに、夢のようなものが繰り返し彼女を包み込んだ。
仮面のない影が、夢のなかで彼女を見つめていた。
いや、見つめていたというより――“自分の顔”をしていた。
視線を合わせた瞬間、自分の中にもうひとつの“意識”が入り込んでくるような、不可解な違和感を覚えた。
「ねえ……仮面を外しても、自分だって証明できるのかな」
呟いた言葉は霧のように部屋に溶けた。
フロウは窓際に寄りかかりながら、仮面越しに彼女を見返す。
「ここでは“名”じゃなく、“仮面”が個を保証してる。逆に言えば、仮面を失えば“誰でもない”になるんだ」
静かな声に、セーレは小さく息を呑む。
この村では、記名の意味が歪められている。仮面という“名の仮構”が、その人間の存在そのものを支配している。
真名ではなく、仮面が“存在の枠”を定める。
「……夜? 私がヒトのままなのか」
「この村全体が夜の構文に包まれているからだ。俺の場合は、この無地の仮面をかぶることで、ヒトの姿を保つことができるらしい」
宿を出た二人は、村を離れようとした。
だが、門の前に足を踏み出した瞬間、異変が起きた。
地面に、ひとつの仮面が置かれていた。
昨夜、セーレが手にしたものとよく似た、無地の仮面だった。
白く、飾り気がなく、意味を持たない仮面。
しかし、その裏側には――名が刻まれていた。
《Seele》
セーレの指が、ぴたりと止まった。
「私の……名?」
「いや。あれは、“記された”名だ。君自身の本質名とは限らない」
フロウが眉をひそめながら、慎重に答える。
「……罠?」
「あるいは、“仮面構文による再契約”。名の上書きか、あるいは分岐した契約の末端だ」
仮面を手に取ったフロウの指先に、かすかに熱が走った。
同時に、広場の鐘が再び鳴り響いた。
ゴォォォン……
深い音が、構文の始動を告げるように村全体に鳴り渡る。
再び、仮面をかぶった村人たちが広場に現れ、静かに集まってきた。
その中に――もうひとりのセーレがいた。
セーレと“同じ仮面”をかぶった存在。
目元の形、頬の曲線、額の膨らみ。
全てが、彼女の仮面と一致していた。
「……私?」
セーレの声が震える。
「もうひとつの“Seele”だな」
フロウが隣で低く息を吐く。
その人物は無言で、仮面の奥からじっとセーレを見つめていた。
無言のまま、その視線が突き刺さる。
「契約の真実を問う」
村人のひとりが声をあげた。
それは詠唱にも似た形式的な響きを帯びていた。
「名を与えたのは誰か」
「記録したのは誰か」
「それは正しかったのか」
それは裁きでも、宣告でもなかった。
ただ、構文的な問答。
だが、祈りの形式を持たぬ者にとっては、存在を脅かす“再契約の試問”だった。
「……このままじゃ、この村に“本物”のセーレとして残されるのは、あっちかもしれない」
フロウの声に、セーレは全身の血が凍る思いがした。
だが、さらに衝撃は続いた。
“もうひとつのセーレ”の仮面が、ふいに傾いた。
その動きに合わせて、仮面の裏側が見えた。
そこには――異なる名が刻まれていた。
《Altina》
セーレの心臓が、一瞬止まる。
「なぜ……あなたが……」
その名は。
セーレの、母の名だった。
彼女が幼いころに失った、女王アルティナ。
封印され、誰にも語られぬ名。
この村で、その名が、他人の仮面に刻まれていた。
問いは宙に浮き、誰にも回収されなかった。
村人たちは、それぞれの問答を終えたかのように、また静かに広場を離れていく。
風が吹く。
霧がふたりのセーレを包む。
ふたつの仮面が地に残された。
一つは《Seele》、一つは《Altina》。
セーレは立ち尽くす。
“もうひとり”のセーレもまた、沈黙のまま佇む。
まるで、互いの存在を拒絶することも肯定することもなく、ただ観測し合うだけの、鏡像のように。
イル=ヴァスの囁きがまた響く。
――名を明かすことと、名で在ることは違う。
仮面とは、誰かで在るための“嘘”の構文。
セーレの掌で、仮面が熱を帯びる。
まるで選ばれるのを待っているかのように。
風が、ふたりの髪をそっと揺らした。
その風は、問いの答えを運んではこなかった。
それでも。
セーレは決めなければならなかった。
どちらの仮面を、手に取るのかを。
◇ ◇ ◇
【第3節 ― 嘘の名、真の構文】
仮面の縁に指を添えたセーレは、震えるようにその裏面をなぞった。《Altina》という文字が、無音の熱を発していたわけでもないのに、なぜか彼女の中に、深い記憶の波が押し寄せてくる。
「これは、母の名……アルティナ」
その名は、長く語られることのなかった女王の名。記録にも、祈祷にも、今は刻まれていない名。その仮面をかぶって立っている存在が、静かにセーレを見返していた。
仮面の奥、その人物の視線がはっきりと分かるわけではない。だが、沈黙の中に宿る意志は確かに存在していた。
「この村の構文は、嘘でしか語られない」
フロウが呟くように言った。
「でも、だからこそ、その嘘の中に真実が宿る」
セーレは《Altina》と記された仮面を見つめながら、もう一方の仮面――《Seele》と刻まれたもの――を手に取る。
一方は、他者によって与えられた“自分の名”。
もう一方は、失われた母の名。
「どちらを選んでも、私は私……」
だが、その声はどこか不確かで、自身の存在を確かめるように重さを探していた。
そのとき、仮面の“もうひとり”が、音もなく動いた。
ゆっくりと仮面を外し、その顔を晒す。
そこにあったのは、セーレの母・アルティナの面影。
完璧な写しではなかった。だが、あまりにも似すぎていた。
瞳の光、頬の線、唇の端のかすかな癖。そのすべてが、セーレの記憶にある母の残像と重なる。
「あなたは……母……なの?」
返答はなかった。ただ、女性は仮面を差し出した。
その動きは、遺志を託すかのように静かで、揺るぎないものだった。
「……継いでほしいってこと?」
沈黙の中に囁くような声が流れる。イル=ヴァスのものだった。
――“真実”は、常にひとつとは限らない。
だが、“選ばれた嘘”には、意味がある。
セーレは両手で二つの仮面を重ねた。《Seele》と《Altina》。
与えられた名と、忘れられた名。
彼女はその狭間に立っていた。
そして、小さく問いをこぼす。
「名を継ぐって、どういうことなの……?」
その問いに答えたのは、もうひとりの“セーレ”だった。
その声は母の声に似ていたが、違ってもいた。
「――忘れないことよ。たとえ語られなくても」
言葉と同時に、風が吹いた。
仮面がふたりの間にあった空気を裂き、音もなく砕けた。
セーレの掌の中に残されたのは、ひとひらの面片だけだった。
それはもはや《Seele》でも《Altina》でもなかった。
だが、その欠片こそが、彼女の中で最も“重い”ものとなった。
「……ありがとう」
その言葉が届いたかどうかはわからない。
だが、“もうひとり”のセーレは、それを聞いたかのように微笑み、影のように霧の中へと消えていった。
その瞬間、村の上に朝日が差し込んだ。
鐘が一度だけ、低く響く。構文の終わりを告げるように。
フロウが小さく息を吐いた。
「構文が、終わった。君は“自分”を取り戻したんだ」
セーレは首を横に振る。
「違う。“誰だったか”はまだわからない。でも、“誰でもない”わけじゃない」
その言葉に、フロウはゆっくりと微笑んだ。
「……それで十分だよ」
ふたりは村をあとにする。
小さな村だった。
けれど、そこには、ひとつの構文が確かに記されていた。
名を語ることでしか語れなかった祈り。
名を語らずにしか伝えられなかった真実。
その両方が、この仮面の村にあった。
最後に、イル=ヴァスの囁きが静かに響いた。
――名は明かされた。
だが、それは、真実の名だっただろうか?
【語り手の紹介】
偽構神格:イル=ヴァス
嘘と仮面に宿る祈りを拾い、真実を語らずに構文の裏側を照らす知略の観測者。
偽名と裏構文の観測者。“真実”を明かさず、あえて曖昧な余白の中にこそ本質が宿ると考える寡黙な神格。
彼は名を語らず、仮面の裏側にだけ存在する祈りを観測する。
構文の“ずれ”や“二重性”を観察し、読者自身に真実を再構成させるような、思考型の祈りを編む。
この村の記録は、仮面の裏に仕込まれた二つの契約と、語られなかった祈りの裂け目を照らし出す。




