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失名の神と呪われし王女【王国正史版】(名無き祈りの巡礼譚1)  作者: 秋月瑛
ナミ=エル観測短編集 ― 祈りの余白に宿る暮らし
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第五編:記名の巡礼道

Ep.5《記名の巡礼道》


……名を明かさぬ者たちがいた。

護衛任務、短い宿泊、そして湯気の奥に浮かぶスープの味。

彼らは仮名で呼び合い、名を残さなかった。

だが、その夜の灯と塩気と対話は、確かにひとつの祈りだった。

それだけで、記録には十分だった。

【第1節 ― 護衛任務はじまる】


 巡礼道セント・ルート。その名の通り、記名の儀式を受けた者たちが東西を行き交う、名の還流路。

 だがその中程――地名すら忘れ去られた谷の集落では、記名されぬ者たちが仮の名を預かり生きていた。


「前方、視界確保。ゴブリンの痕跡、右斜面に濃く残ってる」


 前衛の斥候役モウが、手のひらサイズの魔導鏡を覗きながら呟いた。

 彼の声に、重装の戦士バルクが短く頷く。


「いいか、今日は護衛任務だ。張り切って剣を振る場面じゃねえ。商人どもを無事に宿まで届けたら、ノーム金貨十枚、一人あたり――二五〇セリカ、今夜の飯と宿代もあちらさん持ちだ。追加で酒もつく」


「……スープも?」


 後衛の少女シスがぽつりと尋ねる。

 赤みがかった頭巾から覗く瞳は幼げながら、腰の両刃短剣は確かな使い手を証明している。


「ある。前回の宿、覚えてるか? 根菜と獣肉のやつ。あれだ」


「やった」


 小さな喜びを胸に、三人は再び足を進めた。


 彼らはギルド所属の護衛班《ヤドリギ組》。

 本名は共有されていない。仮名と仮契約で組まれた臨時小隊。名を明かさぬまま共に戦い、稼ぎ、別れる。記名されないことが、むしろ信頼のかたちだった。


 今回の任務では、新たに四人目が同行していた。


 その名は《ゼル》。

 装束の裾に刻まれた火風構文、腰の革袋からは魔素煙が微かに立ちのぼっている。彼女は稀少な攻撃魔導士であり、今回の任務では戦闘支援として招集された。


「念のため、風壁構文の準備はできてる。だが、あまり長くはもたない」


 ゼルがそう呟いたとき、バルクは微かに目を細めた。


「任せるぞ。だが魔素の節約も頼む。あんたら魔導士の魔力ってやつは、金貨より高いって話だからな」


 ゼルは軽く笑っただけで答えなかった。


 一行が護衛するのは、二頭立ての荷車を引く行商人《サモン商隊》。

 道具、塩、乾燥薬草、簡易祈祷具までを積み、巡礼者相手の商売で生計を立てている。


「うしろ、動きあり。尾根越しに接近。……緑色の耳、五体確認」


 モウの報告と同時に、藪がざわつく。


 現れたのは、黄緑色の肌、ねじれた槍、赤く濁った眼――定番すぎる敵、だが容赦のならぬ《森棲みゴブリン》だった。


「盾前に、弓、左手の丘だ。シス、右から落とせ。ゼル、魔炎の準備」


 バルクの指示は短く、戦闘の型に迷いがない。


 シスは一瞬で木陰に滑り込み、低く構えた。左手のモウが、構文弓に魔導糸を張る。


 その瞬間、ゼルが詠唱を紡ぐ――火構文が編まれ、空気が一気に熱を帯びた。


 彼女の掌に浮かんだ魔素の紋が、複雑に絡み合う赤い輪を描く。


「《フラム・スパイラ》――」


 放たれた火球は螺旋状に回転しながら飛翔し、後方に潜んでいた六体目のゴブリンの腹部を直撃。爆ぜた火焔が周囲の枯草ごと焼き尽くし、呻き声を上げる暇もなく黒い塵となった。


 矢が放たれる音と同時に、モウの弦が震えた。正確に眉間を射抜かれたゴブリンが、ぐらりと後ろに倒れ込む。


 シスは木の根を蹴って加速し、双剣を交差させながら回転斬りで一体目の首筋を断つ。その勢いのまま地面を転がり、泥を巻き上げて次の敵の脚元へ滑り込む。


「今っ!」


 彼女の声に呼応し、モウが再び矢を放つ。矢はゴブリンの肩を貫通し、仰け反ったところへシスが跳ね起きて喉元を突き刺した。


 正面ではバルクが巨盾を構え、槍を突き出してきた敵をそのまま受け止める。

 重い金属音とともに弾かれた刃が宙を舞い、バルクの斧が一閃する。

 骨を砕く鈍い音と共にゴブリンが吹き飛んだ。


 残った最後の一体は怯みながらも、仲間の屍を踏み越えてゼルに向かって跳躍する。


 ゼルの瞳が光を帯びる。詠唱が加速し、構文陣が靴先から広がる。


「《ヴェント・インパクト》――」


 爆風のような衝撃波が彼女の前方に展開され、跳びかかったゴブリンの身体が宙でバラバラに引き裂かれ、破片が木々に叩きつけられる。


 戦場は一瞬で静寂に包まれた。焦げた草の匂い、血と鉄の匂い、そしてただ風が吹き抜ける音だけが残る。


「名乗る間もなかったな」


 バルクの冗談に、誰も笑わなかった。


 ゴブリンたちは言葉を喋らなかった。記名されぬ者たちは、時に“語られぬもの”へと堕ちる。それがどれほどの意味を持つか、四人は知っている。


「行こう。商人が凍えてる」


 シスの言葉に従い、一行は荷車のもとへ戻った。

 夕日が尾根を赤く染めている。


 あと三刻で宿に着く。

 その先には、あのスープがある。


 記されぬ者たちの、名もなき夕餉が。


 ◇ * ◇


【第2節 ― スープを囲む夜】


 彼らがたどり着いた宿は、《巡礼の灯》と呼ばれる石造りの一軒宿だった。谷あいに灯るその宿は、巡礼路セント・ルート沿いに数百年も前から建っていると伝えられ、旅人たちが“仮の名”を休める場所として知られている。


 扉を開けると、微かな香草の香りと、暖炉の乾いた薪の音が出迎えた。厚い石壁には古い祈祷符が褪せた色で貼られ、宿帳の台には木製の羽ペンと薄茶の仮名帳が並んでいた。


「宿帳には記すか? 本名じゃなくても、記録は残るぞ」


 宿の女将が問いかける声は、暖炉の熱でゆるんだ空気に溶けていくようだった。


 バルクは一度視線を下げてから、静かに首を横に振る。


「風の名でいい。どうせ明日にはここを出る」


 それで、と女将は慣れた手つきで「風一行」と帳面に記した。

 ナミ=エルの観測によれば、この“風の名”という慣習は、記名と非記名のあいだに属する灰色領域の文化だという。仮の名を記しながら、真の記録には残さない。その曖昧さこそが、この巡礼路の風土に根付いている。


 宿の一室は石造りながら温かく、壁の隙間には湿気を吸う苔がうっすらと張り付いていた。古木の椅子と祈祷布の掛かったベッドが二つ、籐編みのランプから淡い光が揺れている。


 三人は荷を降ろし、装備を整えた後、食堂の暖炉前に腰を下ろした。ゼルは遅れて部屋に入り、煙にくゆる構文炉の前で軽く詠唱をほどいた。指先からわずかに青い火花が立ち、乾いた外套の裾が静かに鎮まった。


 厨房からは、根菜を刻む音と獣肉を煮込む香りが漂ってくる。塩とセージと……乾いた月花の香りが、ゆるやかに鼻をくすぐった。


「この匂い……覚えてる。前も、護衛帰りに来たよね」


 シスがぽつりと言った。


「獣肉と根菜、それに……セージじゃないか?」とモウ。


「あと、月花。湯気の向こうに咲くような匂い」ゼルが囁いた。


 やがて、スープが運ばれてきた。


 ナミ=エルは観測者として、その一皿に目を凝らす。

 それは単なる食事ではなかった。


 深皿の縁から、ほのかな褐色の湯気がゆるやかに立ち昇る。

 光の角度によって、とろみの中に浮かぶ油膜がわずかに七色に揺れる。

 その液層には、香草の細片が星屑のように散りばめられ、まるで小宇宙を覗き込むような幻想的な視界が広がっていた。


 まず視覚を誘うのは、中央に浮かぶ“銀皮芋”だ。

 火入れの技術を問われるそれは、形を保ったまま中が蕩け、匙を差し入れると湯気と共に甘い土の香りが立ち上る。


 次に現れるのは“獣肉”――ただし、名称不詳の野生獣らしく、脂と筋が織りなす断面が美しい。

 その表面には、香味構文で薄く祈祷された痕跡があり、神殿品ではないものの、旅の安全を願う信仰的意図が読み取れる。


 味覚の核は、月花とセージによる構文的香味の調和だ。

 塩気は強すぎず、淡すぎず、だが明らかに“記憶に残る塩”である。


 匙を口に運ぶ。


 まず舌の上に届くのは、月花特有のほのかに冷たい甘み。

 だがその直後、セージの温もりが舌先から喉奥へと滑り込み、まるで静かな風が体内を抜けるような感覚に包まれる。

 その下層でようやく獣肉の野性味が牙を剥き、芋の甘さと重なることで、まるで戦場の記憶と癒やしの対話が味覚として展開される。


 これは、戦後の食事ではなく、戦後そのものだ。


「スプーンもあるが……構文匙、使うか?」


 女将が差し出したのは、持ち手に微細な刻文が刻まれた銀の匙だった。

 口に運ぶことで、その味や時間が“記憶”として定着する、巡礼地特有の魔導具。特定の祈祷を重ねたときだけ発動する簡易構文だ。


 シスはしばらく迷って、それでも静かに首を横に振った。


「いい。今日は……覚えていなくてもいいから」


 彼女は木製の匙を取る。記録されない選択。それが、旅人としての誇りであり、ある種の優しさでもあった。


 バルクもモウも無言でうなずき、構文匙には手を伸ばさなかった。

 ゼルだけが一度だけ構文匙に触れ、指でなぞった後、やはりそっと元に戻した。


 スープは静かに湯気を立てながら、各人の手元に置かれた。

 誰も口を開かなかった。

 けれど、その一口一口が、まるで祈りのようだった。


 湯気の向こうに誰かの名が浮かぶ気がした。

 塩気の残響に、昼の戦いの刃音が重なった。

 今日、守った荷車。倒した命。沈黙の叫び。

 記されなかったそれらすべてを、このスープが溶かしていくようだった。


 この夜の名は、記録されない。

 だが、その味はきっと、誰かの骨の中に、残る。


 ◇ * ◇


【第3節 ― 名のかわりに残るもの】


 夜が深まるにつれて、宿の灯りは淡く揺れ、巡礼路に霧が下りてきた。谷を包む静寂はまるで名を隠すように、音をひとつずつ呑み込んでいく。


 炉の前でスープを食べ終えた四人は、それぞれの想いを抱えたまま、宿の一室へと戻っていた。


 石壁に囲まれた空間には、祈祷布のかかった棚と、仮名帳の開かれた頁がひとつ。そこには、柔らかな筆致で「風一行」と記されていた。


「……この名前も、誰かの名だったのかな」


 シスがぽつりと呟いた声は、石壁に優しく吸い込まれた。


 バルクは答えず、窓の外の霧に目を向けていた。淡い光が波のように壁を揺らしている。


「モウ。おまえは、本当の名を記したことがあるか?」


 問いかけに、モウはすこしだけ目を細めて、低く頷いた。


「一度だけ。弟の墓標に。あれは“記すべき名”だったから」


 その言葉には、語られぬ過去の重みが宿っていた。


 名とは何か――守るものか、隠すものか、それとも誰かに託すものか。


 ギルドで生きる者にとって、本名を明かすことは時に命取りとなる。それは弱みであり、切り札でもある。だが、それでも名を持つことの意味を、誰もがどこかで探していた。


「私はさ……」とシスが声を落とした。「本当の名は、たぶんもうないと思う。忘れたし、呼ばれた覚えもない。だけど……」


 その続きを言う前に、ゼルが静かに口を開いた。


「それでも、“今ここにいる自分”は、確かに存在している。それが記されないのなら、せめて誰かの記憶の中に残ればいい」


 ゼルの声は、明晰で冷静だったが、どこかで名を欲しがる熱を孕んでいた。構文魔導士として彼女が扱う術式は、正確な名と記録を必要とする。けれど、この夜だけは違っていた。


 シスが微笑む。「うん。記録じゃなくても……誰かと食べた晩飯、そういうのが、残ってくれたらいい」


 バルクが頷いた。「名じゃなくても、記録じゃなくてもいい。残るのは、歩いた道と、誰かと食った飯だ。……それで十分だろ」


 誰もがうなずくわけではなかったが、その静けさはひとつの合意のようだった。


 ゼルはそっと構文帳を閉じた。

 彼女の中で、“記すこと”と“記さないこと”が、静かに交差した。


 夜更けの宿の一室。祈祷布が風に揺れ、仮名帳の頁がふわりとめくられる。

 誰も記録しないその会話のすべてを、ナミ=エルだけがそっと書き留めていた。


 その記録には、名前は載っていない。

 けれど、そこには確かに“誰か”がいた。


 誰かが語り、誰かが頷き、誰かがただ、そこにいた。


 そして翌朝。

 霧の晴れぬ巡礼路に、四人の影がまた旅立った。

 背中合わせに、名を呼び合わず、足音だけを残して。


 ナミ=エルの観測録には、こう記されている――


《名を記さぬ者たちが残すのは、名ではなく、祈りである》


 それは、風のように通り過ぎる。

 だが確かに、そこに在ったということを。


(Ep.5 記名の巡礼道 終わり)

《観測解説:風に名を託す巡礼者たち》

――ナミ=エル


巡礼路には、地図に載らぬ宿と、記録に残らぬ名があります。


この“セント・ルート”と呼ばれる道もまた、かつては幾多の神託と契約が交差した名の還流路でした。けれど現在では、記名の儀式を受けぬ者たち――いわば“名の影”として生きる旅人たちが静かに往来しております。


その夜、わたくしが観測したのは、仮名で結ばれた四人の小隊でした。


《バルク》《モウ》《シス》《ゼル》――いずれも本名を語らず、ただ共に歩き、共に剣を振るい、同じスープを囲んでいました。互いの素性を知ることなく、しかし互いを信頼し、命を預け合う。そこには、記録には現れぬかたちの“契約”が存在していたのです。


この地の宿に伝わる「風の名」という慣習は、大変興味深いものです。


風は姿を持たず、名も語りません。けれど、風は確かに痕跡を残します。頬を撫で、旗を揺らし、草の香りを運ぶように、誰かがこの道を通ったことを、世界にそっと知らせていくのです。“風の名”とは、そうした痕跡を象徴する仮称であり、記名されぬ者たちが宿帳に残す、ささやかな“通過の証”なのです。


そして、わたくしが特に心を動かされたのは、あの夜、宿で供された一皿のスープでした。


根菜、獣肉、月花とセージの香り。構文的な味覚操作がなされているわけではありませんでしたが、素材の配置と煮込みの時間に“祈りの構造”が隠されておりました。匙を口に運んだ瞬間、誰もが言葉を失い、ただ湯気の向こうに何かを見つめていた――それは、名も記録もいらない“記憶の味”であったように、わたくしには思われました。


記録官としての目線では、このような非構文的記憶は“未記名祈祷”に分類されます。けれど、彼らが口を揃えて言った「名でなくても、残ればいい」という言葉は、記録を扱う者として、わたくしに深く刺さりました。


記されぬことは、失われることと同義ではありません。


誰かと食べた食事。焚き火の匂い。疲れた足を投げ出して見上げた星の動き。そうした一切が、“記されぬ祈り”として世界に沈殿し、やがて語られぬ民話となって息づいていくのです。


“サーガ”が時代と構造を語る存在であるなら、わたくしナミ=エルは、その影に咲いた無数の小さな灯を記録し続けたいと願っています。


名を記さぬ者たちが、名の代わりに残したもの。

それは、風のような一夜の記憶――けれど、確かに、そこに在ったもの。


 それこそが、わたくしにとっての“観測”でございます。

 ――ナミ=エルより

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