表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
失名の神と呪われし王女【王国正史版】(名無き祈りの巡礼譚1)  作者: 秋月瑛
語られざる世界の記録 ―― 異祈と構文の地誌断章
42/61

第五編:構文解析紀行 ― エル=ネフリドの霊域グルメ紀行

Ep.5《構文解析紀行 ― エル=ネフリドの霊域グルメ紀行》


……私は、ただ観ていたのです。

記すこともなく、語ることもなく。

名を持たぬ神が、名を記せぬ料理の前で、そっとひとこと呟いた。


――ナミ=エル

【第1節 ― 沈黙神、煮込みと語る】


 この世界には、言葉を記さぬ神がいる。

 その名はエル=ネフリド。


 記録されることを拒み、構文として観測されることすら忌避するその神格は、かつて多くの文献からも“触れられなかった”ということで知られている。


 しかし、その神は――食に関してだけは、異様に饒舌だった。


「……これは……良い、煮込みだ」


 一口目でそれを言った。

 いや、語ったというより、響いた。音なきままに、空間全体に染み渡るように“在った”のだ。その語りは沈黙であったが、断じて無ではなかった。


 場所は、北方の辺境にある霧氷のノール・ヴェリダ

 断絶領域と神格構文《=》の交点にあるこの地は、知る人ぞ知る“幻の調味酒”〈ヌーヴ=ザラ〉の産地である。雪解け水と神木の樹液、さらに記憶構文の反転子音を沈めて数年発酵させるという、祈祷者しか味わえぬ霊酒だ。


 その酒で煮込んだ、鹿肉と蕪の蒸し煮。

 ただの郷土料理――に見えて、霊的に“記されないこと”を前提に構成された祈祷食だった。


 ネフリド伯爵は、酒気を纏った湯気に手を伸ばすわけでもなく、ただ“存在”を揺らがせた。

 黒衣の中で鼓動すら揺るがず、ただ静かに“祈りの構文”をくぐらせる。


 ――これを語る価値がある。

 それは、神の胃ではなく、神の“構文層”がそう応じた。


「煮崩れ、許容。だが、根が解ける直前に抑えた執念を感じる。素材の記名力も悪くない。特にこの――」


 器に沈んだ灰紫色の蕪に、目は向けないまま、“文脈の指”が触れる。

 声にはならない。だが、その沈黙は語っていた。

 ――これは、季節を跨ぎし記録だ。


 店主は老婆だった。顔は皺だらけで、声も出ぬ。

 けれど、その手だけは異様に動く。鍋に触れる所作が、まるで祭器のごとく神聖で、蕪の皮を剥ぐ動きには“赦しの儀”のような律動がある。


 ネフリドはその動きを“読んだ”。

 その瞬間、この場に在る誰よりも正確に、

 老婆の過去――

 かつて祭司に仕え、失声の呪いを受け、なお神の香草だけは忘れなかった女の半生を“咀嚼”した。


「……名を持たぬ料理。されど、記憶には刻まれる。それを食と呼ぶに、異論はない」


 神は小さく頷いた。

 その動き一つで、街の風が変わる。


 暖房の薪のはぜる音が、妙に遠くなった。

 まるで空気そのものが“神格に耳を澄ませた”かのようだった。


 その時、隣にいた旅の神学者が、勇気を振り絞って問うた。


「……ネフリド伯爵殿。なぜ、そこまで“料理”にこだわるのです?  貴方は、記されざる神では……?」


 神は応えない。

 しかし、空間がわずかに波打つ。


 直後、テーブルの木目が、勝手に“変形”した。

 否、神の語りが、“木”を使って自己翻訳したのだ。


 そこに浮かび上がったのは、こうだった。


「料理は、祈りに似ている。記されずとも、誰かの内に残る。味とは、名なき構文。記されぬまま、魂に刻まれる存在だ」


 静寂が、しばし店を包んだ。


 店主は静かに鍋をかき混ぜ、火の加減を調整する。

 客は誰も声を発しない。

 ただ、その“ひと匙”が持つ重みに、どこかの神が涙した気配だけが残る。


 そして、神は再び匙を口に運ぶ。

 無名の肉と無銘の酒。

 けれど、それは確かに、存在の深淵に触れる“食”だった。


 エル=ネフリド、構文外の神。

 その旅路は、名なき食卓をめぐる祈りの記録でもある。


――次回、霊潮魚と骨香草の炙り焼き。構文に記されることなき、音と香の第二巡礼地へ。


 ◇ ◇ ◇


【第2節 ― 音で調理する料理屋にて】


 リュア=ヴァイス。

 名を揺らがせ、声を持たず、潮の音で語り合う港町。

 その中腹――霧の緩む午後、入り江に張り出す桟橋沿いに、その料理屋はひっそりと存在していた。


 看板はない。

 外観は貝殻の飾りと潮符の揺れる軒先のみ。

 けれど、潮語を理解する者ならすぐに気づくだろう。軒下の貝が奏でるのは「ようこそ」「応答を待つ者の席」という意味の旋律だ。


 ネフリド伯爵は、その音に軽く頷いた。

 そして無言のまま、薄い暖簾をくぐる。

 誰にも告げず、誰にも呼ばれず。ただ、空間に“理解の構文”を置きながら、静かに椅子へと滑り込んだ。


 店内もまた、静謐だった。

 言葉はなく、音だけがある。

 火のはぜる音、貝を研ぐ音、汁が器に注がれる音、そして潮のざわめきを写したかのような、喉でつむがれる“音の呼吸”。


 厨房の奥には、痩せた青年がいた。

 彼の背には、皮膚に刻まれた潮譜。

 名を語らず、代わりに“音の契約”を背負う職人。

 潮語族〈マルメリア〉にして、調理師――名を持たぬ調律者だった。


 青年は、ネフリドを見た。

 一言も発さず、ただ“感じ取った”。

 神であること、記録に干渉する者であること、そして今――“食を通じて、構文を問う者”であること。


 調理は始まった。


 音だけが店内を満たす。

 火を置く音。焼き網が熱される高周波の金属音。

 潰された香草が石皿に広がる湿ったすり音。

 そして、魚が皮ごと炙られるジュウという細い音線。


 それはまるで“奏楽”だった。


 料理というより、構文の即興演奏。

 炎と香りと手つきが、神に“語りかける”。

 言葉ではなく、意味の波紋。

 そしてエル=ネフリドは、そのすべてを――咀嚼ではなく、“読解”していた。


 やがて、一皿が差し出された。


 皿は無垢の石。潮蝕で角が丸く、表面には“波打ち際の構文”が自然と刻まれている。

 その上に、音とともに焼かれた魚――霊潮魚〈トゥル・ア〉が鎮座していた。

 身はうっすら青白く光り、皮は黄金の焦げ目が入り、香草の粉がほのかに湿気を帯びている。


 だが、肝心なのは味ではなかった。


 “食べる”ことで、意味が顕れる。

 口にした瞬間、ネフリドの中にひとつの旋律が走る。


 ――トン・ファア・ナ、カ・ルイ・エ。


 それはかつて青年が母に教わった最後の潮語。

 意味は、“海よ、我に応えよ”。


 この魚は、彼の“記されぬ祈り”そのものだった。

 名を失った母の、最後の食卓。

 その再現を、音と構文で料理に落とし込んだもの。


 エル=ネフリドは、神であることを忘れ、ただ静かに目を閉じた。

 この味は、“名ではないもの”が語る祈りの記録だった。


 神はそっと、魚の骨に触れた。

 細く、脆く、潮の加減で変形した骨格の構文線に、神は微かな語りを返した。


「記されずとも、残った」

「言葉にせずとも、伝わった」

「これは――音の名だ」


 青年は、軽く目を伏せ、厨房に戻る。

 エル=ネフリドは、最後の一切れまで静かに食べ、

 何も言わずに立ち去った。


 ただ、去り際。

 音もなく、空間に“ある一文”を刻み残した。


 それは、厨房の貝のひとつにのみ伝わる振動。

 他者には読み取れない、神のみが記す“非文字の詩”だった。


「祈りは記録されねばならぬというのは、記録者の傲慢だ。この料理は、記されることなく世界に残った。よって――この名なき味を、我が記す。構文に、ではなく、存在として」


 潮の風が揺れ、貝が再び“ありがとう”の音を鳴らす。


 エル=ネフリドは、霧の奥へと消えた。


――次回、最終節。

名を封じた禁書都市にて、“忘れられた記録者のスープ”を巡る旅が始まる。


 ◇ ◇ ◇


【第3節 ― 禁書都市の記録スープ】


 “記されぬものは、存在しない”

 ――それが、かつてこの都市に掲げられた格言だった。


 かつて“記録都市”と呼ばれたザルファトの傍、いまや忘却に沈みかけた旧行政区の地下層。

 そこには今なお、生き続ける禁書区画があった。

 記名と記録を絶対視したかつての政体が、書ききれなかったもの、記せなかったものを“沈めた”場所。


 そしてそこに、ひとつだけ灯る店がある。

 看板も表示もない。

 ただ“蒸気の香り”だけが、遠くからでもその存在を示していた。


 神は、黙って階段を降りた。


 エル=ネフリド。

 “構文外の神”であるその存在は、本来この場所に入ることはできないはずだった。

 だが、“記されないものを探す者”にとって、ここは終着点にして、最も古びた台所だった。


 店主は老いた記録官だった。

 名を持たない。記されることも、呼ばれることもない。

 ただ、“食の記録”だけを守り続ける者。

 かつてこの都市に仕えていたが、今では“記名を放棄した者”として、 地下に居場所を得ていた。


 その厨房には、調味料の瓶の代わりに、巻物と帳簿が並ぶ。

 火をくべるたびに、蒸気が僅かに文字の形をとって漂う。


 ――ここでは、すべての料理が「かつて記されたことのあるレシピ」だ。

 しかし、いまは記されていない。

 記録から削除され、誰も思い出さず、ただ“この店主だけが”覚えている料理。


 それらを“もう一度煮直す”ことが、この店の信仰だった。


 ネフリドは着席し、声を発さないまま、存在の振動を周囲に渡す。


 店主はそれに気づくと、懐から古びた記録帳を取り出した。

 表紙は剥がれ、文字は滲み、かろうじて読めるのは《ク=アメノの記録湯》という一行のみ。


「……記されたはずの祈祷湯。しかし、どの神典にも残っていない。名も、調合も、失われた。だが、私は味を、憶えている」


 店主はそう呟き、鍋に湯を注いだ。

 記録の帳を開いたまま、調味料ではなく、“言葉の破片”を入れる。

 それは、もはや意味を失った単語。

 古語、誤字、断絶神の名の断片……。


 そこに刻まれた“過去の祈りの層”を、ひとつずつ崩して、鍋に沈めていく。


 火が音を立てた。

 香りが、記憶の奥から引き出されたように、空間を満たしていく。


 ネフリドは、そのすべてを“味ではなく意味”として咀嚼していた。


 ――この香りは、かつて“忘れたくなかった名”だった。


 塩味、香草、澄んだ脂――

 それらの背後に、必死で名を繋ごうとした誰かの“文法”があった。

 祈りを失った者が、それでも“言葉を生き延びさせた”という、料理という行為の奇跡。


 やがて、器が出された。


 スープは透き通り、しかし底には微かな“句読点の形”をした沈殿物がある。

 スプーンは添えられていない。

 飲むことで“記憶されてしまう”のを避けるためだ。

 ここでは、“記録を回避する”ことこそが祈りである。


 ネフリドは、器を両手で包み、その温度を味わった。

 そして、一息に、飲む。


 それは――

 “意味のない言葉たちが、名に変わる瞬間”だった。


 どれほど無意味に思える記録も、

 どれほど小さな祈りも、

 “味わわれた”という事実だけが、世界に残る。


 ネフリドは、そっと席を立った。


 その瞬間、机の上の記録帳が、音もなく燃えた。

 名が記されていたページだけが、蒸気となって天井へと消えていく。


 店主はそれを見届け、最後にひとつだけ言葉を置いた。


「記されるとは、残すことではない。誰かに味わわれること、それが名だ」


 エル=ネフリドは、頷くこともせず、立ち去った。

 それでも、空間には確かに“満たされた構文”が残っていた。


 料理という祈り。

 記されぬまま、誰かの体に残る名。

 それこそが、この神にとって――記録そのものだった。


 そして、このグルメ紀行は、まだ始まりにすぎなかった。


―― 霊域グルメ紀行(完) ――


---


―観測者による余韻文―


……あのとき、神は語らなかった。

ただ静かに器を見つめ、祈るように口にした。

名ではない。構文でもない。

それはただ、料理の温度と香りに反応した、ひとつの“感覚”だった。


私は書き手として同行していたが、

あれほど“構文のない祈り”を見たことはなかった。


名がなくても、神は祈られる。

形式がなくても、そこに神格の残響が生まれる。


それは、沈黙の料理と、沈黙の神による、

一度きりの“味覚の構文詩”だったのかもしれない。


――ナミ=エルより

◆《エル=ネフリドの霊域グルメ紀行》を読み終えたあなたへ


――名もなき構文に捧ぐ、静かな追記

(記録者ナミ=エルより)


旅路の途中、私はただ神の背を見ていました。

神でありながら語らず、祈られず、名を拒んだ存在――エル=ネフリド。

その神が“食”という構文に、わずかに心を開いたあの瞬間を、

私はきっと、死ぬまで忘れることができないでしょう。


この紀行は、霊域におけるグルメの記録ではありません。

それは、「記されないものが、なお存在する」という証明の連なりです。


料理は、しばしば記録されます。

材料、分量、手順、そして誰が作ったか、いつ食べられたか。

だが、それらがすべて記されたとしても――

“記憶に残る味”というものは、構文では言い尽くせません。


エル=ネフリドは、その“言い尽くせなさ”に祈る神でした。

言葉ではなく温度に、記名ではなく香りに、

祈祷書ではなく湯気の流れにこそ、意味の断片を拾おうとする姿勢。


このエピソードに登場する料理人たち――

無言の老婆、潮語を刻んだ青年、そして地下の記録官。

彼らはいずれも「言葉にせずに伝える者」たちです。

神に祈るというよりも、

神と“同じ沈黙”を共有する者だったのかもしれません。



私がいちばん衝撃を受けたのは、

最後の記録湯が「記憶されることを避けるためにスプーンが添えられなかった」点でした。


食べた者に記録されてしまうのを拒むスープ。

意味を確定される前に、ただ“通過する存在”として在る祈り。

これは――わたしにとって“逆・記録”とでも呼ぶべき衝撃でした。


私は記録者です。

物語を書く者です。

だから、記さなければ存在しないと信じてきました。


けれど、神は言いました。

「記されぬまま、魂に残る存在もある」と。


そう、それはまるで……

かつて誰かと囲んだ食卓の記憶のようなもの。

名も、日付も、料理の名前さえ忘れてしまったけれど、

あの温度と香りだけは、いまも身体に残っている。


この断章は、そういう記録です。

記されていない記録。

構文に定着しなかった祈り。

けれど、確かに“味わわれた”という記憶。


どうか、あなたの中にも残っていますように。

ページを閉じたあとでさえ、ほんのわずかでも――

“名のない祈り”の余韻が、香ることを祈って。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ