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第10話 ― 禁書の谷と月の記録者

【幕間 ― 祈りの記録から禁じられた神名の問いへ】


 山を下りたその瞬間、月は雲ひとつなく空を支配していた。白銀の光は冷たく鋭く、谷底の岩陰にさえ祈りの残響を刻むようだった。セーレは足を止め、その光の下で立ち尽くした。無記の谷で見たすべての痕跡――言葉なき祈り、記されなかった名、そして失われた神々の記憶。それらがいま、自らの中でひとつの“重さ”をなしていた。風が頬を撫でる。その風には、まだ“神の声”は含まれていない。ただ、記す者の背を押すように、どこか優しかった。


 フロウは小さく羽ばたき、セーレの肩にとまった。彼の目は月を睨むように見つめていた。その眼差しには懐かしさも怒りもなかった。ただ、何かを“問い直そうとする意思”があった。


「……月が、仮面をかぶっていない」


 それは観察ではなく、まるで問いかけのようだった。

 月光に照らされたその瞳には、かつて“記録されなかった神”への応答を探そうとする、静かな意志が宿っていた。


 セーレも頷いた。この光は、アークで見た“偽りの月”とは違っていた。仮面に覆われ、祈りの通路を閉ざした聖都の天とは異なる、もっと原始的で、もっと素朴な“受け手としての月”の姿。


 なぜ神々は、仮面を必要としたのか。

 祈りを拒んだのではなく、祈りを“隔てた”のはなぜか。

 そして、月神ムーミストはなぜ“記録の断絶”そのものを役割としたのか――。


 この問いに、そろそろ向き合わなければならない。


 セーレは結晶を胸元で強く握る。「名を記すこと」だけでは、神を“再び祈る対象”にはできない。祈りが届かない構造そのものを、記さなければならない。その時、彼女の記録者としての旅は、ひとつの転機を迎えることになる。


 フロウが囁いた。


「アークへ戻ろう。あの都市の近くには、“記録されてはならなかった月神”の書が眠っている」


 その言葉を受けて、セーレは頷いた。


 彼女たちは、再び旅路を南に取る。だがそれは「帰還」ではなかった。「再訪」でも「追憶」でもない。「断絶された祈りの意味」を問い直すための“対峙の旅”だった。


 かつて“月神の血”が封じられた禁書の谷へ、セーレは向かう。

 仮面の奥に、沈黙のまま隠されてきた“祈りの真実”がある。

 セーレは、それを照らすために進むのだ。

 名もなく、光もなく――ただ、“記す”という意志だけを灯して。


 「記してはならなかった神」

 その存在を記すという行為が、果たして祈りとなるのか、それとも――禁忌の再演なのか。

 セーレはまだ、その問いの重さを知らなかった。

《第10話 ― 禁書の谷と月の記録者》


“記録とは剣である。だが、剣は時に、祈りの芽を切り落とす。”


――禁書典録・巻之一より


-----


【第1節 ― 禁書の谷と記憶されない風景】


 その谷の名を、誰も書き残せなかった。書こうとするその瞬間、文字は滲み、意味は崩れ、記憶は指先から抜け落ちていく。セーレと、彼女の肩にとまる梟のフロウは、そんな“記録されることを拒まれた地”に辿り着いた。


 地図にない峠を越えた先に広がっていたのは、まるで誰かが見た夢の残滓が、地形となって乾いたまま残されているような場所だった。陽は山の端に触れ、空はかすかに赤みを帯びていたが、その光さえも谷の奥では不自然なまでに薄く滲み、色を失っていた。彼女たちの足元に伸びる踏み跡は、誰のものでもないように細く、風に吹かれてすぐに掻き消される。谷底へと続くその道には、時間の堆積が感じられなかった。


「……この場所、どこかで見たような……でも、思い出せない……」


 セーレは呟く。しかしその声は、こだまさえ返さなかった。谷が音を拒んでいる。音は空に吸い込まれ、意味も存在も残さないまま、ただ消えていく。彼女の足音さえ、いま歩いているはずの地面に記録されることなく、霧のなかに散っていくようだった。


 谷底に広がる光景は、不完全な記憶の断片が地上に映し出されたかのようだった。低い石造りの建物、骨組みだけが残された塔、土に埋もれかけた祭壇……。それらは人の営みの痕跡を示しているようでいて、何ひとつ確証がない。表札も標もなく、書かれた碑文は文字が削られたわけでもなく、初めから“何も書かれていなかった”かのように空白だった。


 ある遺跡の壁には、祈祷の構文を思わせる装飾が刻まれていたが、それもまた、意味の輪郭が溶け出し、どこからが模様でどこまでが文字だったのかさえ定かではない。まるで神語そのものが拒絶された痕跡のようだった。


「ここは、“記すこと”を拒んだ場所だ」


 梟の姿をしたまま、フロウは羽をふるわせ、ゆっくりと首をかしげた。夕闇に溶け込むその姿は、まるで風の記憶をなぞるように静かで、彼の声もまた、人語とは思えぬ微かな音として空間に滲んでいく。


 続けて、彼はその声の余韻を追うように囁いた。


「記されたことがあるのではない。記されることを、最初から許さなかった。主も法も記録も信仰も、すべてこの地には届かなかったんだ」


 セーレが足を止めた。風が一陣、谷を通り抜ける。古びた石の外壁のひとつが崩れ、白い破片が音もなく転がる。その崩落は、まるで記憶そのものが剥がれ落ちていくような静けさを帯びていた。


 足元には、一片の石板が埋もれていた。セーレがそれを拾い上げると、表面にはかすかな線が刻まれていたが、それは図形とも、文字ともつかない何かだった。


「この地では、語ることさえ奪われるのね……」


 セーレが呟くと、フロウが小さく羽を動かして頷いた。


「語れば、それは記録になる。記録になった瞬間、それは“神を見る者の形式”になる。そして神は――記された形に、引きずりおろされてしまう。この地には、それを拒んだ神々がいるのかもしれない」


 空には雲が広がり、わずかに残っていた夕暮れの光が隠された。日暮れが近づき、谷の影は深まっていく。風の気配が変わる。まるで谷全体が呼吸を潜め、ふたりの存在を試しているようだった。


 セーレは胸元の結晶にそっと手を添えた。その淡い光だけが、この空白に抗うように微かに揺れていた。


「……私はこの地に触れたい。記すのではなく、誰かがここに“祈った痕跡”を、自分のなかで灯したいの」


 フロウが宙を滑るように飛び立ち、先を導く。細い道の先で、霧が空間を包み込む。そこはすでに“時”さえも忘れた場所だった。


「行こう。ここに残された“記されざるものたち”に、もう一度“祈りのかけら”を渡すために」


 セーレはそのあとに続いた。存在も、記憶も、名すらも拒む谷――

 その奥で、誰にも記されることのなかった祈りが、なおも名を持たずに息づいていた。


 それは、まだ世界に届いていない“神々の応答”だった。


 ◇ ◇ ◇


【第2節 ― 記録を拒んだ者たちの集落】


 谷の奥へと踏み込んだふたりの前に、苔むした石積みの壁が現れた。そこには、かつて建物があったことを示す痕跡がかすかに残っている。だが、それらはどれも骨のように風化しており、壁面にあったはずの銘板や表札の類は剥がれ、どこにも“名”を示すものがない。石壁には、奇妙な擦過の跡が無数に走っていた。まるで誰かが、かつて記された何かを必死に削り取ったように――。


「……これは、“記録を消した跡”だな」


 セーレの肩にとまったフロウが小さく呟いた。足元の泥の中には、半ば折れた筆記具や焼け焦げた紙片が埋まっている。名も、年月も、理由すらも抹消された廃墟。ここはただ“あった”という証だけを残し、他のすべてを拒んでいた。


 石壁の隙間を抜けた先に、仮面をつけた人々の姿があった。十数名ほどの小さな集落。仮面は木の皮を削っただけの粗い面で、装飾もなく、むしろ“削ること”そのものが儀式であったかのように見えた。口のない面、目のない面、異形の角を生やした面――いずれも言葉を発さず、顔も感情も見えぬまま、静かに作業を続けている。衣服は古布を継ぎ合わせた灰白の装束。誰一人として名を呼ばず、誰もセーレたちに視線を向けようとしない。


「……記録者たちだ」


 フロウが低く囁く。羽をわずかに震わせながら、彼の視線は仮面の民たちに向けられていた。その目には、かつて自身が属したであろう者たちへの、複雑な哀惜が滲んでいた。


 彼は続けるように、喉の奥に引っかかるような声を吐いた。


「かつて、記すことに人生を捧げた者たちだ。俺も……その側にいたはずだった。だが、彼らは何かをきっかけに“記さないこと”を選んだ。あるいは、記すことを許されなかった者たち……この谷は、そういう者たちの終の棲み処なんだ」


 ちょうどそのとき、集落の奥から、かすかな音声が響いた。誰かが祈っている――そう思えるほどに均一な声だった。

 だが耳を澄ますうちに、それは祝詞ではなく“音の羅列”にすぎないと分かった。


「オーラ・エス・ルナ、ナイリ・ル、カシェール・ミン、アラン……」


 フロウは眉をひそめる。目元にわずかな陰を落とし、耳を傾けるように羽をふるわせた。声の響きに違和感を覚えたその瞬間、彼の瞳には、かつて耳にした本来の祝詞の調べと、いまそこにある乱れた旋律が重なり、ずれていることが明確に映っていた。


 小さく息を吐いたあと、彼は続けた。


「仮面の祝詞か……意味をなしていないな。文法が崩れている。恐らくは、かつて神殿で用いられていた形式だけが残り、言葉の意味は失われたまま唱え続けているんだ」


 セーレは立ち止まり、その方向を見やる。

 仮面の男女が三人、焼けた祠の前に並び、正面の石板へ向けて一斉に口を開いていた。

 だがそこには“言葉”の感触がなかった。響きだけが空中に漂い、まるで壊れた神の名だけが空を漂っているかのように、音節だけが祠の上を回り続けていた。


「……届いているのかな」


 セーレがぽつりと呟いた。仮面の祝詞が虚空に漂うさまを見つめながら、彼女の視線はどこか遠く、祈りの行方を追い求めるように揺れていた。


 その傍らで、フロウは沈黙を保っていた。だが、小さく風を孕んだかのように、羽がかすかに揺れた。言葉ではなく、それが彼なりの応答だった

 神に祈っているのではない。

 “祈っていた頃の形式”だけが、信仰の代替物として繰り返されている。


 もはや、記名でも記録でもなく、ただ“そうすることになっているから”という理由だけで繰り返される所作。

 かつて祈りとともにあった記録の儀式が、ここでは形だけの“習慣”へと堕していた。


 セーレは集落の中央に立つ、一本の削られた柱に目を留めた。かつては掲示板のような役割を果たしていたのだろう。だが、今は何も残っていない。木材は深く刃で削られ、記号も絵も意味すらも消されていた。ただ“そこに何かがあった”という輪郭だけが、確かに存在していた。


 言葉のない村、記録を拒んだ民、そして“語られなかった歴史”の亡霊が沈黙の中に漂っている。


 セーレは思わず胸元の結晶に手を添えた。何も語らない村の静寂のなかで、その結晶だけが、かすかに震えていた。


 ――ここは、名を捨てた人々の谷。


 かつて記録を生業としながら、それでもなお“名を記すこと”をやめた者たち。


 彼らが選んだのは、無言の信仰か、それとも――


「……忘れられることを受け入れた覚悟、なのかもしれない」


 セーレは目を伏せながら呟いた。声に宿るのは、自身の歩んできた旅路と、この谷に生きる者たちの沈黙が重なる瞬間への共鳴だった。


 応える者はいなかった。ただ、仮面の民たちの間を渡る風が、微かに灰の匂いを運んだ。どこかで火が焚かれている。何かが焼かれ、あるいは祈られている。


 谷の端には、半ば崩れた小屋があった。扉の代わりに裂かれた布が垂れ、入口には灰と骨を混ぜたような白い粉が撒かれている。フロウが立ち止まり、その床に視線を落とした。


「これは……記録を祀る儀式の跡だ。灰と骨――どちらも“かつて存在していたもの”の証。それを守り、祀り、そして……名を与えぬまま送り出すための場所だろう」


 セーレはそっと頷き、小屋の中へと足を踏み入れた。内部は薄暗く、壁には幾つもの石板が立てかけられていた。だがそのどれにも文字はない。ただ、指でなぞったような凹凸がかすかに残り、それは、名になる前の息遣いのようだった。誰かが何かを記そうとし、寸前で手を止めた痕。その沈黙が、石に染みていた。


 彼女はそのうちの一枚に手を添えた。冷たい石の感触が、胸の奥の記憶と共鳴する。


 この地で記されなかった神々の名、そのすべてが、今なお語られぬままに息を潜めている。


 沈黙の民たちが振り返ることのないなか、セーレとフロウは、さらに奥の方へと視線を向けた。

 そこには朽ちかけた石段があり、その先には、かつて神殿であったらしき構造物の影が、霧のなかにぼんやりと浮かんでいた。

 記録を拒絶した村のさらに奥に、“記録されなかった神々”の痕跡が眠っている。


 フロウの胸の奥に、かすかに記憶の痛みが波打った。

 ――この谷には、まだ語られていない“名”がある。


 ◇ ◇ ◇


【第3節 ― 断章化された神殿と月の書庫】


 村を離れ、二人は苔むした石段を登っていった。霧が濃くなるにつれ、空気が重く沈み、肌に触れるものすべてが記憶のように冷たく感じられる。やがて石造りの回廊が現れ、その先には――崩れかけた拝殿の残骸が、ひっそりと待っていた。


 かつて神を祀っていたとおぼしき壇には、瓦礫のように砕けた石板が積まれており、その合間には、焼け焦げた文書や欠けた仮面が、埋葬品のように沈んでいる。


 セーレは一歩、足を踏み入れた。濃い霧が床を這い、視界が霞む。崩れた天井の隙間から仄かに光が射しているが、残された壁はその光を吸い込むように、びっしりと掘られた文字の列を静かに隠していた。


 だが、そのすべてが――読めなかった。


 “理解できない”のではない。“読むことを拒まれる”のだ。

それは文字というより、見ることを拒む“神の皮膜”のようだった。視線が滑り落ちるたび、石壁はまるで違う頁に書き換わり、祈りの残骸だけを残していく。


「……ここ、何も残ってないみたいに見える」


 ぽつりと呟いたセーレに、梟の姿のフロウは応えなかった。彼はすでに、奥の壇へと進み、音もなく舞い降りて、土に埋もれかけた帳面のような束を爪先で引き寄せていた。


「断章だ……書きかけの記録、あるいは……“記されるのを拒んだ神々の痕”かもしれない」


 小声でつぶやくフロウの瞳は、かすかに光を帯びていた。彼の羽がわずかに震えていたが、それが恐れからなのか、それとも別の感情からなのか、セーレには判断がつかなかった。


 フロウは石板の一枚を拾い上げた。掌におさまるほどの破片だったが、表面には奇妙な円弧の刻みが複数、淡く刻まれていた。彼は爪でなぞりながら言った。


「……この掘り方。月の位相と暦の印に近い。ここは、かつて月相の記録を担う“書所”だったかもしれない」


 セーレが身を寄せ、石板を見つめる。確かに、幾つかの円弧が満ち欠けのリズムで並んでいる。しかしその軌道は、ある地点で唐突に断たれていた。


「満ちる前に――祈りが絶たれてる」


 静かに言ったフロウの羽先から、わずかに砂がこぼれ落ちた。まるで、記されることのなかった時間が、今も残響しているかのように。


 ふたりはその場に立ち尽くす。拝殿の空気はどこまでも重く、静寂のなかに名もなき神々の影が潜んでいるようだった。


 セーレは再び、フロウの手元に目をやった。彼の爪先から、掘り返された断章がゆっくりと風に揺れている。月の相を描いた円弧の図。だが、線は新月の直前で断たれ、その先に続くべき祈りの軌道は、まるで誰かが口を閉ざしたように、空白のままだった。


「……途中で手が止まってる。祈りが、絶たれてる」


 フロウのつぶやきに、セーレはうなずいた。頁の裂け目、紙の焦げ跡、断絶された文字――そのどれもが、“意図して中断された記録”の痕跡だった。


 ふたりはそっと視線を巡らせる。拝殿の奥、壇に残された文書の束をフロウが開くと、そこには――異様な断章があった。


 月の相を象った図と、歪んだ筆致の記録文。だが、それは明らかに“未完成”だった。いや、完成されること自体を拒んでいる。書かれかけて、なお記されない。そんな異様な空白が、文字と文字のあいだに滲んでいた。


 セーレはその帳面に目をやった――瞬間、強い眩暈を覚えた。視界がぐらりと揺れ、崩れかけた蔵の天井が落ちてくるような錯覚に囚われる。急いで視線を逸らし、壁に手をついて深呼吸した。


「……読もうとしただけで、拒まれた感じがする」


 その声に、フロウはゆっくりと顔を上げる。彼の眼差しには、一抹の深い静けさが宿っていた。


「この蔵書は、“読む者”の在り方を測っている。書かれた内容を伝えるよりも、むしろ“読み手がどう記録に晒されるか”を観察している気がする」


 その言葉は、記録に触れる者に対する警告のようでもあった。彼が抱えている帳面から、なにかが滲んでいた。言葉にはならない“記名の圧”のようなものが、ひそやかに立ち昇っている。


 月の神を祀るはずのこの地には、もはや“名を与える神”は存在していなかった。代わりにあったのは、“記されなかった神々の断章”――名もなく、祈りも受けず、それでも確かに“居た”という証だけが残っていた。


 それを拾い集めようとするフロウの姿に、セーレは小さな違和を覚えた。彼の羽根の内側に、一瞬、淡い月光が滲んだように思えた。夜の呪いとは違う、もっと静かな“名を呼ぶ力”が、彼の背に宿っているかのようだった。


 それは単なる疲れのせいだったのかもしれない。けれどその違和感は、後に訪れる“記録の呪い”を、どこか予感しているようでもあった。


 彼女は、ひとつの問いを胸に抱えたまま、そっと目を閉じる。


 ――もし、この場で祈れば、誰にも記されなかった神は、私の“記す声”に応えてくれるだろうか。

 それともまた、誰にも記されぬまま沈黙を続けるのだろうか。


 その答えは、いまもなお、霧の奥に隠されたままだった。


 ◇ ◇ ◇


【第4節 ― 神々の帳面、記されなかった祈りの証】


 沈黙の村を歩くうちに、セーレとフロウは一つの小屋に案内された。無言の記録者が身振りで示したその建物は、他と違って壁の一面が完全に開いており、内部には木製の机と破れかけた帳面が整然と並べられていた。かつてはここが“記すための場所”だったのだろう。棚の中には、無数の墨壺と乾いた筆が並び、そのいずれもが使用を断たれたまま埃をかぶっていた。


 セーレが机の上に置かれた一冊の帳面に手を伸ばすと、それを制止する者はなかった。ただ、仮面の奥から、わずかに空気が揺れるような気配――それが了承の合図だった。


 帳面は、ところどころにページが破かれ、残っている箇所も墨で丁寧に塗り潰されている。墨は祈りのように丁寧に引かれていた。まるで“記さない”という決意そのものが、神名の代わりに刻まれていたかのようだった。破られたページの間には、ただ枠だけが描かれた数ページがある。項目名も説明も記されておらず、白紙の行が静かに並んでいた。それはまるで、“記録されるはずだった神々”の名前を空欄にしたまま閉じられた祈祷書だった。


 ふいに、隣の建屋から、低く抑揚のない音声が漏れてきた。


「ラーン・エト・ミン、カ=リュ、オナ・フェル……」


 誰かが祈っている――ように聞こえた。だがすぐに、フロウの小さな眼が細められる。


「……祝詞だな。仮面の民が使っていた、かつての神殿式の唱え方だ」


 セーレは耳を澄ませた。言葉は形式的で、意味が通じていない。音の羅列は規則的だが、どこか空虚で、誰もその内容を理解していないことがひしひしと伝わってくる。


「形式だけが残っているのね……」


「そうだ。語義も構文も失われている。“かつて信仰されていた”という枠組みだけが、声帯と習慣に染みついて残っている。……信仰の幽霊みたいなものだ」


 セーレの表情がわずかに曇る。

 意味を持たぬ祈りが、なおも繰り返される。仮面の裏側にいる者たちは、自分が何を唱えているのかさえ分からず、それでも“祈りの形”を守ろうとしている。


「……記されなかった神たち……」


 セーレは低く呟いた。


 その言葉に、フロウがまばたきを一つしてから、小さく鳴くように応えた。その羽がかすかに揺れ、思い出の底から引き上げられた記憶に触れるように、彼の瞳がどこか遠くを見つめていた。


 低く、かすれるような声が続く。


「俺にも、これと似た帳面を見た記憶がある」


 言葉を探すように羽を一度ふるわせ、彼は淡々と語り続けた。


「かつて、記録者の一団にいた頃があった。あの頃の俺は、ただ命令に従って、筆を走らせるだけだった。自分の意志なんてなかった。ただ、記せばよかった。誰かが祈った神を、ただ紙に写せばよかった」


 フロウは目を伏せ、記憶のなかの古い帳面を思い出すように、低く息を吐いた。薄く開かれた翼が、無意識に揺れる。


「でも、ある日、命令が下ったんだ。神の名を書くな――って」


 その言葉には、かすかな震えがあった。かつて感じた戸惑いと疑念が、今も羽の奥にしみついているようだった。


「理由も、背景も、誰も何も言わない。ただ“書くな”とだけ。それきり、その神の姿も、声も、すべて記録されなくなった」


 彼は静かに顔を上げ、帳面の白紙を見つめる。


「帳面には、ただ“空白”が増えていった。意味も、名前も、祈りさえもない頁が、ひたすらに増えていったんだ」


 言葉の隙間に、かすかな羽音だけが重なる。


「……それはな、言葉にできないほどの、静かな、けれど底のない恐怖だったよ」


「記さないことが、ここでは信仰の形なのね」


 セーレは帳面をそっと閉じた。その表紙を撫でる指先には、わずかな躊躇と尊敬の混じった静けさが宿っていた。深く息を吸い込むと、墨の香りと祈りの残滓が胸の奥まで染み渡ってくる。


 そのまま視線を落とし、ふと呟くように続けた。


「名を呼ばれなければ、歪められることもない。……記されないことで、神は“祈りの外側”に留まってきたのね」


 屋根の割れ目から月の光が差し込み、帳面の表紙に柔らかな銀の照りを落とす。その影は、まるで“記されることのなかった神々”の断片的な祈りのように机上に揺れていた。


 帳面を閉じたあとも、セーレとフロウはしばらく言葉を交わさずに座していた。沈黙のなかで、帳面に刻まれなかった名たちの気配だけが、なお空間に残っているようだった。


 やがて、フロウは羽を打ち、小屋の棚とは別の方向――背後の暗がりへと注意を向けた。それに気づいたセーレが尋ねた。


「……奥に、まだ何かある?」


 フロウは羽を一度だけ揺らして頷いた。


「“記さない”ことと、“封じる”ことは違う。ここには、祈りを拒まれた神々と同時に、“名を封じられた神”もいたはずだ」


 その言葉に導かれるように、ふたりは再び歩き出した。


 小屋の裏手にまわると、傾いた石垣の切れ目に、苔むした石の階段が続いていた。月光が差し込むその奥、薄暗い霧のなかに、ひときわ異質な“記録の気配”があった。


 その中心に立っていたのは、黒く風化した石碑――


 まるで、書かれるべきだった神の名が、そこで封じられ、今なお息を潜めているかのように。


 その石碑の足元には、いくつかの破片とともに、他とは異なる材質の板が落ちていた。フロウが先に気づき、小さな爪先でそれを押さえた。石とも紙とも違う、艶やかな黒に縁取られたそれは、まるで意図的にここへ“封じられた”かのようだった。


 禁書庫の奥、崩れた書棚の背に、何かが落ちていた。

 それは紙でもなく、石でもない。セーレが拾い上げたそれは、黒曜のように滑らかで重く、だが冷たさの奥に、ざらりとした“削れ”が残る板だった。


「……これは……祈祷録か?」


 フロウが低く鳴くように囁いた。だが、文字はない。いや、あったのかもしれない。だがすでに風化し、磨滅して、痕跡すら留めていない。


 セーレが首を傾けてそれに触れようとしたとき、フロウの羽先が板の表面をなぞった。


 ――その瞬間だった。


 ザザ……ザ……。


 音でも声でもない、わずかな波動が耳の奥に響いた。音として捉えきれず、意味を持たないまま、脳の奥底に残響が走った。いや、耳ではない。骨の奥、皮膚の内側へと染み込んでくるような感触だった。


「……今の……?」


 フロウが、かすれた声で鳴いた。


 セーレも、その感覚を感じていた。言葉では説明できない。まるで、誰かがかつてここで祈りを捧げ、それが“声として”ではなく、“音として”板に残ったような――そんな、記録の在り方だった。


「視覚じゃない……意味でもない……」


 セーレは、黒曜の板を見つめながら、まるで自分自身に確かめるように、そっと声を漏らした。指先に残る微かなざらつきと、鼓膜の奥に響いた“声にならない残響”が、まだ皮膚の内側に震えていた。


 しばし沈黙ののち、目を細め、吐息を混じらせるように言葉を継いだ。


「……でも、これは……祈りだ」


 視えず、読めず、聴き取れぬ祈り。

 だが確かに、誰かがここに祈りを遺したことだけは、伝わってくる。


 “意味を持たぬ音の祈り”。

 それは《レ=ザス》の伝承で語られる“六つの喉”の記憶――まだ名も記されぬ神の残響に、確かに似ていた。


 セーレはその板をそっと石碑の傍らに戻した。風がわずかに吹き、階段の上から舞い降りた埃が、黒曜の面に薄く積もる。そこにはもう、声も、意味も、名前すらなかった。


 だが、祈りだけは、確かに、あった。


 ◇ ◇ ◇


【第5節 ― 六つの喉、禁記された声の構文】


 セーレはその板をそっと石碑の傍らに戻した。風がわずかに吹き、階段の上から舞い降りた埃が、黒曜の面に薄く積もる。そこにはもう、声も、意味も、名前すらなかった。


 だが祈りだけは、確かに、あった。


 ふと、セーレの視線が別の記録物に吸い寄せられる。

 石碑の傍ら、半ば崩れた木箱の中に、頁が風に揺れる黒い書冊があった。


 ――黒帳の断章。


 かつてアークで焼却を命じられ、禁書とされた書の写し。旅の途中、ヴェス=イムリと呼ばれる禁域で触れた黒帳の断章と同じ感覚が、皮膚の下を這った。セーレは、祈るようにゆっくりと頁をめくった。


 黒帳の頁に触れたとたん、セーレの視界が歪んだ。


 墨の滲みがにじり出すように広がり、文字ではない“音”が浮かび上がってくる。言葉として認識できないそれは、鼓膜を経由せず、まるで内耳の奥――いや、骨の奥に直接響くかのようだった。


〈カリエン・ルナス・メイリ=ザ〉

〈シル=シア……ナリエ……〉

〈■リ■■■■〉

〈ル=ネム・ハリエン・フォル〉

〈……ザル=エル……〉

〈  〉


 六つの声。それは異なる神性の口から放たれた断章だった。ひとつは律動の古語、ひとつは旋律の歪み、ひとつは黒く塗りつぶされた“禁忌の祈り”。さらに、明晰な構文、名そのものの響き、そして声すら持たない沈黙の祈り――記録されなかった神々の“喉”が、音ではなく祈りそのものとして、空間に編まれていく。


 セーレは自分の内側が“応答している”のを感じた。祈りとは、唱えるものではなく、受けてしまうもの。彼女の存在が今、誰かの“声なき呼びかけ”に反応していた。


 意味が、ない。


 それでも、祈りだった。

 意味を持たず、書かれることもなく、翻訳も不可能。

 ただ、存在としての祈り。

 それは、名を持たぬ神――《レ=ザス》の伝承に語られる“六喉の神”の残響だった。


 脳の奥に、重ねられた“声なき声”が広がっていく。断罪のように鋭く、赦しのように柔らかいものも混じる。


〈許された名に、罪の影を――〉


〈裁きの光よ、記録の裏を照らせ〉


 その句が、ザルファトで耳にした碑文と同じ構文を帯びていたことに、セーレは息を詰めた。


 ザル=フェル――“記録する神”にして、“記録を破る神”。名を与えるのではなく、名の境界を剥がし、照らす存在。赦しと断罪の祈りが、同時に在る。

 声はなおも続き、次第に“音”でも“言葉”でもなくなっていく。


 セーレの指が黒帳の頁を離れたとき、音はふと、霧のように途切れた。


 まるで、最初から何もなかったかのように――


 深い静寂が戻ってきた。

 だがセーレの胸の奥では、あの祈りの残響がまだかすかに揺れていた。


 声なき祈り。

 意味を捨て、文字を拒み、それでも神に届こうとする音のようなもの。記されないことで、逆に強く残る祈り――そんな在り方があるとは、彼女は今の今まで思いもよらなかった。


 視線を上げると、書棚の奥に、風化しかけた巻物の束があった。皮紐はすでに崩れ落ち、端が裂けた文書がはみ出している。その中の一つ――仮面の印が押された巻物の端に、見覚えのある筆致が目に入った。


《ムーミスト仮面典》


 月神信仰の中核を成す聖典。それがここ、禁書庫の最奥に。

 セーレは、無意識にそれを手に取っていた。


 表紙は擦り切れ、文字の大半は判別できない。だが、ある頁だけが異様な存在感を放っていた。


> “記録不可能なる祈りに備えよ。意味なき声のうちに、神は宿る。”


 墨のかすれが、かえって言葉の重みを際立たせていた。さらにその傍らには、赤く引かれた注釈が残っている。


> “六喉の神への備え”


 “備え”という言葉に、セーレは小さく息を飲んだ。それは信仰ではない。崩壊を受け入れるための祈りの容れ物、構造の再編に耐えるための“観測の儀式”だった。


「……これは、祈りじゃない。“在る”という現象……」


 セーレは呟いた。理解を求めず、記述を拒絶し、それでも存在として成り立つ祈り。《レ=ザス》がもたらした“意味なき祈り”と、《ザル=フェル》が司る“赦しと断罪の祈り”とが、いま、自分の中で重なっていた。


 書かれぬ神名。声なき神の呼びかけ。祈りの形式が壊れ、構造が崩れても、それでも“神”はそこに宿る――。


 セーレは仮面典の断章を閉じた。崩れかけた頁の余白には、何も記されていなかった。だがそこにこそ、確かに息づくものがあった。


 《黒帳》のなかの空白。仮面典の余白。そして記録されることなく放たれた六つの喉の祈り。


 それらは、形を持たぬまま、ただ“問うていた”。


「……祈ることと、記すこと。そのあいだにあるものを、私はまだ知らない」


 それは疑問ではなく、祈りの外側に立った者だけが口にできる“問い”だった。言葉を持たない祈りが、彼女自身を問い返してくる。セーレは静かに、その沈黙に身を預けた。


 やがて、彼女の意識がふと現実に戻ると、すぐ隣でフロウが何かに強く引かれるように前方へ進み出た。


 その先にあるのは――石碑。


 セーレが呼びかけようとしたとき、彼はすでに仮面の奥で何かを見つめていた。


 ◇ ◇ ◇


【第6節 ― 神の記録と封印された名の系譜】


 封印の石碑の前で、フロウはふと立ちすくんだ。


 視線を文字へ向けた瞬間――その仮面の内側に、異常な熱が走った。

 額が灼けるように熱い。いや、熱ではない。皮膚の奥から、名が浮かび上がってくるような……自らが“記録される側”に転じた錯覚。仮面は彼を守っているのではなかった。刻まれたものを覆い隠し、神に届かぬよう隔てる障壁だったのだ。


「……っ」


 手を伸ばしかけた指がわずかに震えた。石の表面に触れようとするたび、視界の端にかすかな“文字の幻影”が揺れる。仮面の内側、視野の片隅に、誰かの名が滲み出してくる。記録ではなく、侵蝕――それは明らかに、封じられた神の名が逆流してくる感覚だった。


 思わず仮面に手を当てた。だが外せない。

 仮面の下の皮膚に、誰かが別の構文で“記し直している”ような違和感が走る。彼の記録体系が、外からの名に上書きされていく。


(誰の……名だ? いや……これは、俺の……?)


 脳裏にひとつの声が響いた。音にはならぬ、記録のさざめき。

 名を呼ぶのではなく、名に呼ばれるような感覚。


「記してはならぬ」


「記すことで、祈りが生まれる」


「祈りは……神を起こす」


 その言葉が、フロウの内部で激しく交錯した。


 記録者であるという使命。

 記してはならぬという制度。

 だがその狭間で、彼は気づいてしまったのだ。


 ――では、誰が“記すべきこと”を決めるのか?


 記すことは、開くことだ。だが封印とは、祈りを閉じる制度である。

 そこにあるものを、なかったことにすること。

 存在を封じることで、記録を保護する制度。


 それは祈りではない。否、祈りの不在だった。

 記録とは、本来“記名”であり、“魂の応答”であるはずだったのに。


 フロウは、かすかに震える手を止めなかった。

 背の帳面から破れかけの紙片を取り出し、墨の乾いた筆を握る。


 石碑の文字を写すのではない。

 彼の内側で燃え上がる、記録の衝動に従って――


 彼は、仮面の裏に浮かぶ“名”を一文字ずつ、書き記しはじめた。


 書いた。だが、それは文として成立していなかった。

 彼の手は知らぬ筆致で動き、墨は震える呼吸に合わせて紙を滲ませた。書かれたのは“名”ではなかった。“名の影”だった。呼べば壊れるような、まばゆすぎる祈りの名。封じられたはずの光の名が、彼の筆先に滲み出ていた。


 だが、フロウの胸には確かに熱が残った。

 書いたという感触、記されたという感触。そして、それが“誰にも見せられぬ記録”であるという確信。


 仮面の裏で、微かにひびが走る音がした。幻覚だったのかもしれない。しかしその音が、何かが壊れ始めた合図であることだけは、フロウに伝わっていた。


 帳面を閉じた瞬間、すべてが静まり返った。まるで夢から醒めたように、冷たい現実の空気が肌に触れた。


 彼は“梟の姿”のまま、沈黙のなか、再び石碑を見つめた。


 その記録が祈りになるか、災厄になるかは、まだ分からない。

 だが、記さなければならなかったのだ――誰かが。誰もが拒んだからこそ。


 背後で、セーレが静かに立ち上がった。彼女の祈りは、まだ石に触れたままそこに残っているようだった。


「……神は、記されることを待っているのかな」


 彼女の声は、誰にともなく語りかけるものだった。けれど、フロウの耳には、それが仮面を超えて届いた気がした。


「あるいは……忘れられたままでいたいと、願っているかもな」


 フロウが答える。足元に置かれた筆のかすかな匂いだけが、彼の祈りの痕跡を示していた。誰にも渡さず、誰にも晒さず、けれど確かに彼が“記した”名。


 セーレはふと振り返り、微笑んだ。その目に映ったのは、彼女の向こう側ではなく、“同じ神を見ようとした者”のまなざしだった。


 二人は地下祠を後にした。

 封印の石の上に、かすかな墨の香りと、誰にも読めぬ文字だけが残されていた。


 ――それは、記録されることなき祈り。

 仮面の裏で、まだ名を持たぬ神が、わずかに目を開けた。


 ◆ ◇ ◆


《幕の狭間の囁き ― さて、お前はもう、祈りの意味を忘れたか?】

(第十の仮面 ― 月下の記録壊し)


ああ、よくぞここまで来たね。

禁書の谷? 静かだったろう。すべてが記録を拒み、名を飲み込み、祈りすら押し殺していた場所――それはまるで、舞台が幕を下ろす直前の沈黙のようだった。


けれど、油断しちゃいけない。

沈黙は終わりではなく、「次の祈りの始まり」なんだ。だって見ただろう? セーレも、フロウも、仮面の民も、みな言葉を失いながらも、それでもなお“記したかった”んだよ。名ではない、形でもない、“在った”という感触そのものを。


禁書とは、ただの破れた紙束じゃない。

記すことにすら耐えられなかった神々の痕跡――それらを記録者が“記すまい”と決めた瞬間、世界はひとつの祈りを失った。祈りの構文が破綻したんじゃない。記すという行為そのものが、“誰かを祈ることへの暴力”になりうると気づいてしまったのさ。


さて、お前はどっちを選ぶ?

祈るために記すか、祈りのために黙するか。


この谷で語られなかった神々は、いまだ名を持たぬまま、ただ“共鳴”だけでここに居続けていた。そんな彼らの存在に、セーレは初めて“名を与えない記録”という答えを出したんだよ。これは大きな転換だ。祈りは記号ではなく、響きになる。神は言葉ではなく、在るものになる。


そして君も、いまこの語りを読んでしまった。

つまり、君の中にも何かが“共鳴した”ということだ。


おめでとう、これで君もまた、記録の外に立つ者だ。


さあ、まだまだ続くよ。この構文劇の幕は、まだ閉じてなどいない。


――エル=ネフリド、月下の空白より記す。


 ◇ ◇ ◇


【第7節 ― 夢と断章に現れる排除された神々】


 祠を出たあと、ふたりは静かな岩棚に身を寄せ、束の間の眠りについた。

 深い夜の帳のなか、セーレの意識はいつしか夢へと沈んでいった。


 夢の中のセーレは、儀式でも行うかのように頁をめくっていく。破られ、塗り潰され、削られた記録たち。その中から浮かび上がるのは、“かつて記録されかけ、しかし破棄された神々”の像だった。


 ひとりは黒い炎に包まれ、名を持たぬまま“災厄の兆し”とされ、帳面から名を削ぎ落とされた。

 ひとりは逆さに刻まれた碑の下に沈み、“狂神”の印を押されて口を封じられた。

 ひとりは後ろ向きに祈り続け、“時間を遡る祈り”として整合性の名のもとに記録を拒まれた。


 声は聞こえない。顔も見えない。ただ、そこには“拒絶された神性”の痛みと、誰にも届けられなかった祈りの残響だけが、帳面の頁から滲み出ていた。


 そして――


 一枚の頁が風もないのにめくれたとき、帳面の奥底に封じられていた「記録官の物語」が浮かび上がった。


 それは、仮面の記録者でありながら、禁書の断章を記した者の話。

 かつてアークの旧神殿で、“神に触れる言葉”を記そうとした男の夢だった。


 記録官は、記してはならぬ神の名に魅入られた。

 その神の名を、彼は正確に記すことができたと語る者もいれば、記そうとした瞬間に自身の名を失ったとも言われている。

 やがて男の帳面は名で満ち、仮面の裏には血で書かれた祈りの線が刻まれていたという。


 彼が記した祈りの線は、のちに“黒帳の初稿”の断片と呼ばれるようになった。だが誰も、それがどこから始まり、どこで終わるのかを知らなかった。


 そしてある夜、男の仮面は砕けた。

 ただ静かに、崩れるように――その場にいた者すべてが、それを“神格化の徴”と受け取った。


 その後、男は言葉を発さず、目も見ず、ただ記し続けた。

 彼が書いた文字は、誰にも読めず、しかし神殿の灯火が近づくたび、文字たちは頁を離れて宙に浮かび上がったという。


 記録官はもはや人ではなかった。

 記された名の“依代”となり、封印の一部と化して石の地下に封じられた――それが、禁書庫の最深部に祀られている“無名の記録主”の伝承だった。


 セーレは夢の中でその像を見た。


 目がなかった。仮面が砕けた後も、顔には新たな皮膜が張りつき、再び“名を持たぬ者”として祈りの姿をとっていた。だがその両手は墨に染まり、膝元の帳面には、終わらぬ記録が浮かび続けていた。


 帳面の頁がふたたびめくられたとき、記録官の姿は霧のように溶けていった。

 墨は消え、祈りも消え、ただ無言の“記録の姿”だけが空白に残された。


 墨に濡れた手が胸に触れたような錯覚。紙の冷たさが、皮膚の下に残る。“誰かの祈り”が、彼女の中に入ってきた。


「記されなかったんじゃない……。記録から、排除されたんだ……」


 彼女の呟きに応えるものはなかった。けれど、夢の世界はそれを肯定するかのように、静かに帳面の頁をめくり続けた。


 それは信仰の選別の痕だった。

 記す者たちは、何を信じ、何を拒むかを決めねばならなかった。そして、記録されなかった者たちは、その選択の陰で静かに滅びていった。崇拝も畏怖も与えられず、ただ忘却という名の闇に飲まれて。


 記すことは、信じることではなかった。記録とは、体系の都合に従う行為であり、“語られぬ神”を選び捨てる作業でもあった。


 夢の最奥で、セーレは一冊の帳面を手に取った。

 それは他のどの帳面よりも新しく、何も記されていない白紙だった。だがその頁をめくるたびに、彼女の胸の奥に、形容しがたい“輪郭”が浮かび上がる。


 名前ではないが、名になりかけたもの。

 呼ばれたことはないが、確かに在った存在。

 語られなかったが、確かに誰かが感じていた神の気配。


 帳面の余白に、薄く滲む光があった。

 それは書かれた文字ではなかった。言葉ではなく、祈りの残響だった。


 セーレは目を開けた。

 まだ夜は深く、星のない空が帳のように広がっていた。闇は濃く、音はない。だが、確かに彼女の中で“何か”が残っていた。


 隣で眠るフロウの寝息が静かに響く。セーレは身体を起こさず、ただ胸元の結晶に手を当てる。


 ――記録とは、名前を与えることではない。

 ――記録とは、忘れられた何かに、ふたたび形を与えることなのかもしれない。


 彼女はそっと目を閉じた。

 祈りはまだ言葉を持たない。だが、それでも確かに“在る”。記される前の名が、胸の奥で微かに脈を打っていた。


 ◇ ◇ ◇


【第8節 ― 焚き火の対話と祈るという行為の再定義】


 夜明けの谷には、色の境界が曖昧なまま広がっていた。白にも灰にもなりきれぬ空が、山の輪郭を鈍く包み込んでいる。焚き火の熾きはまだ赤く、風もなく、ただ冷気だけが肌を撫でていく。


 セーレとフロウは、崩れかけた小屋の外に敷いた敷布の上で身を寄せていた。まだ夜の名残が濃く、世界が言葉を拒んでいるような沈黙の中だった。


 その静寂を破るように、祠の方角から声が聞こえてきた。


「手順さえ守れば、祈りは届く。記録官としての義務を果たせば、それでいいのです」


 低く押し殺したような声だった。仮面をつけた中年の記録者が、焚き火に近づこうとする若い仮面の少年に向けて、言い聞かせるように繰り返していた。


「祝詞は順序通り。帳面は空白なく埋める。間違いなく、規範に従えば……神は応えてくれる」


 その光景を、少し離れた場所でフロウが見ていた。羽毛に覆われた目が、微かに細められる。


「……あれが、制度の内側にいた者たちの“信じ方”だな」


 彼は囁くように言った。


 セーレは、焚き火の傍に目を移した。薪の隙間で赤く灯る火の揺らめきが、彼女の頬を淡く照らしている。


 そのときだった。


 焚き火の向こう、まだ朝靄が薄く漂う木立の陰から、ひとつの影が現れた。まるで言葉より先に“在った”者のように、焚き火の端に沈黙を連れて立っていた。


 仮面をつけていない者。灰色の外套に身を包み、使い古された帳面を腕に抱えた女。


 彼女は、まるで初めからそこにいたかのように、焚き火の端に静かに立っていた。

 かつて、王都の神殿で「記録者キュービ」として知られた存在。王家の系譜を記し、セーレの母を記録した最後の記録者にして――今はもはや、祈りの像として祀られている者。


 かつて教団でともに“記録の階梯”を歩んだ時期がある。ザルファトで祈祷騎士を務めていたフロウにとって、記録はすでに日常の一部だったが、教団に入ってからはまったく異なる形式の記録作法や解釈法に戸惑うことも多かった。そんな彼に、制度の内側での〈記録の枠組み〉と〈信仰との結びつけ方〉を教えたのが、他ならぬ彼女だった。


「……ずいぶん久しぶりだな」


 眠気を帯びた声の奥に、かすかな緊張が混ざる。


 キュービは何も答えず、そっと焚き火の傍に腰を下ろした。彼女の手には、薄く擦り切れた帳面。指先で背表紙をなぞる仕草に、迷いはなかった。


「記録者の中で、最も沈黙に近づいた者――そう言われたことがあるの」


 それは自嘲でも誇りでもなく、ただ過去を過去として語る声だった。


「一度、記録をやめたことがあるわ。……何度も、“記すべきではなかった”と告げられた神々と出会ったわ。記すに値しない名。形だけで、魂のない神性。……そういうものを信じろと言われて、私は、筆を折ったの」


 その声は低く、焚き火の音にすら負けそうなほど小さかった。だが、谷の空気はその言葉を拒まなかった。むしろ、それだけが確かに響いていた。


「信仰っていうのは、正しいものを信じることじゃない。信じたいと願ったものを、信じ続けられるかどうか……私は、それを見失っていた」


 セーレは黙ってその言葉を聴いていた。火の揺らめきが、彼女の眼差しに淡く映る。


「でもね、やめてみてわかったの。記録って、完全な真実を書くことじゃない。……誰かの存在を、誰かが確かに“信じた”という痕跡を、残すことなのよ」


 キュービは帳面を開き、空白の頁を一枚めくる。そこには何も書かれていない。けれど、その白さの中に、“書こうとした誰か”の想いが染みついているようにさえ見えた。


「記すことは、神を讃えることじゃない。……忘れたくないという願いの形なのよ」


 その言葉に、胸の奥で夢の記憶が脈打った。塗り潰された頁、名を拒まれた神々、そして“まだ名前を持たぬ何か”が、彼女の中で静かに息を吹き返した。


 キュービは視線をフロウへと向ける。


「あなたは、まだ“誰の名”を記すかを迷っている」


 フロウは応えない。だがわずかに首を傾け、耳を澄ますような仕草をした。焚き火の熱を避けるのか、それとも記憶の炎から身を逸らしたのか――。


「それでいいの。名を記すっていうのは、誰かを信じることでもあり、自分の過去を信じ直すことでもあるの。……それを怖れないで」


 ぱちん、と焚き火のなかで薪が弾けた。何かの小さな叫びのようにも聞こえた。


 セーレはそっと手を伸ばす。旅の途中、ずっと懐にしまってきた小さな記録帳。白紙の頁が一枚、風に揺れて微かに震えている。


 その頁は、まだ沈黙していた。けれど、誰かの祈りが近づくのを、静かに待っていた。


 ◇ ◇ ◇


【第9節 ― 名になり損ねた存在との共鳴】


 セーレは、膝の上に開かれた記録帳の白紙を見つめていた。谷の底にはまだ朝の光は届かず、彼女の手元を照らしていたのは、焚き火の燃え残りが放つ橙の余熱だけだった。風は凪ぎ、空気は冷たく張りつめていて、焚き火の煙すら立ちのぼるのをやめていた。


 紙の質感が指先に沁みる。掌が冷えきっているのではなく、触れた紙の方が凍えるようだった。セーレの指はわずかに震えていたが、それは恐れではなかった。記されるものの輪郭が未だ言葉に届かないという“躊躇”に似ていた。


 彼女が記したのは、“名”ではなかった。


 いや、“名に成りきれなかったもの”と呼ぶべきだった。


 墨も使わず、言葉も用いず、ただ指の腹で頁をなぞるように描かれた痕跡。それは直線でも曲線でもなく、文字とも象形ともつかぬ、祈りの余熱のような軌跡。誰にも語られず、誰にも祈られなかった“誰か”が、確かにそこに在ったと擦り出すような筆跡だった。


 「……これは、名前じゃないの」


 セーレは低く呟いた。それは誰に向けた言葉でもない。ただ、意味を与えるためのひとつの祈りだった。


 「でも……私には、これが“誰かだった”と、思えるの」


 岩に反響する風が、白紙の頁をめくる。その一瞬、谷の空気がふっと揺れた。静寂が波紋のように広がる。空の色も、木々の葉擦れも、その一枚に吸い寄せられるようだった。


 その揺らぎに、キュービの目が静かに見開かれた。


 「それは……記録ではないわ。――共鳴よ」


 焚き火の影が彼女の横顔にゆらりと揺れる。語る言葉には驚愕と、どこか懐かしさを含んだ感情がにじんでいた。


 遠く祠の方角で作業をしていた仮面の記録者たちが、その言葉に反応したかのようにふと動きを止めた。ひとりが空を仰ぎ、もうひとりが小さく頷く。言葉ではない何かが、彼らの意識にも届いたのかもしれなかった。


 「“記す”という行為が、ずっと“記録”だと思っていたの。過去を閉じ込め、形式で封じること。それだけが神に仕える形だと」キュービが静かに続けた。


 彼女はセーレの帳面を指差した。


 「でも、いまのそれは違う。これは“未来のための空白”――誰かがまだ語っていない祈り、その胎動の場所よ。記録されるために生まれたのではなく、見つめ返されるために残された余白」


 セーレは、小さく頷いた。胸の奥に芽吹いた感情は、まだ名を持たないまま、ゆっくりと世界の形をなぞりはじめていた。


 「名にならなかったものに、形を与える。それが、いまの私にできる記録のかたちなの」


 焚き火の灰を蹴って、フロウが立ち上がった。炎の残光が彼の銀仮面をかすかに照らし、面差しの奥に深い思索が垣間見えた。


 「名を刻むことで……俺たちは、“誰にも呼ばれなかった声”を、もう一度受け止められるのかもしれない」


 その言葉は谷の沈黙に深く染み込んでいった。彼は顔を上げ、灰色の空を見上げた。雲間から微かな光が射し、谷の中央を霧がゆっくりと漂う。


 その光の筋のなかで、セーレが記した“名になり損ねたもの”が、帳面の頁の上で微かに震えていた。誰にも呼ばれず、語られず、ただ想いだけで浮かびあがるそのかたちは、神でも人でもなかった。ただ、存在の余熱だった。


 ――ここに、“存在しなかった者”が、確かにいる。


 その気配は名ではなく、気づきだった。忘れ去られることもなく、記されることもなく、それでも誰かの意識の縁に一度でも触れたこと。その“痕跡”こそが、新たな神話の起点になり得ると、セーレは直感していた。


 彼女は記録帳を閉じず、膝の上にそのまま置いた。頁は風に揺れ、書かれたものはすぐにでも消えてしまいそうだった。だが、その揺らぎのなかに宿る共鳴は、確かに、世界のどこかに刻まれていた。


 キュービがそっと言った。


 「……それは、“記録”じゃない。“共鳴”よ」


 その響きは静かで、どこか祝詞のようだった。


 「あなたが記したのは、名前ではない。意味でもない。ただ“存在しなかったはずの誰か”の、忘れ去られる寸前の響き。それを、あなたの祈りが映したの」


 セーレは静かに頷いた。その掌の温もりに、たしかに“神の名を持たぬものたち”が、呼応している気がした。


 記録の器ではなく、共鳴の器へ。


 名にならなかった祈りに、名を与えずに応える。それは、奪うのではなく、祈ることだった。


 そしてその祈りは、まだ語られていない“新しい物語”を呼び寄せようとしていた。


 ◇ ◇ ◇


【第10節 ― 呼応する声、神格の再出現の兆し】


 空が鈍い灰に染まりはじめたのは、その瞬間だった。


 谷全体が、まるで深い呼吸の底へと沈み込んでいくように、音を呑み込む静けさに包まれた。風は止み、枝も葉も揺れを忘れたかのようにじっとしていた。空を覆う雲が重く垂れ込め、わずかに差し込んでいた朝の光までもが遠く曇る。


 その沈黙の中心に、セーレの記録帳があった。白紙の頁に書かれた“共鳴の印”――それは名ではなく、形でもなく、ただ感応の波紋だった。だが今、その波紋が微かに脈動をはじめる。


 周囲の空間がわずかに揺れる。空気の層が屈折し、透明な水の中にいるような感覚が広がっていく。


 音にならない何かが、耳の奥に触れた。それはかつて声にならなかった祈り、記されることを許されなかった神性の痕跡。言語の前の“響き”だった。


 谷の岩壁が、ゆっくりと色を変えはじめる。染み出すように淡い光が浮かび、その影の合間から、“輪郭を持たない存在”たちが姿を現した。


 それは神々ではなかった。少なくとも、いまのこの世界においては“神”として扱われたことのない者たち。


 呼ばれたことがなく、祈られたこともない。名を持つ以前の存在。あるいは、名を失うことでここに遺されたもの。


 ひとつは、祈りの残響が凝ったような、透明な翅の形をしていた。

 ひとつは、声とも風ともつかぬ気配をまといながら、セーレの背後を通りすぎた。

 ひとつは、ただ“視線だけ”のような気配となって、谷の奥へと溶けていった。


 それらは、怒りも喜びも持っていない。ただ静かに、しかし確かに、セーレの記した“共鳴の印”に惹かれるように集まり、ひとときだけこの現実の縁に留まっていた。


 セーレはただ立ち尽くしていた――だが、胸の奥では何かが“かつての記録者”としての自分をそっと手放し、新たな祈りの器へと変わっていく感覚があった。ただ胸の奥で、胸郭を越えて、何かが“呼ばれている”のを感じた。


 フロウが一歩、無言のまま彼女の前に出た。その身は無意識のうちに守るようであり、同時に隣立してその感応に共に触れようとするようでもあった。


「……これは、かつて俺たちが背を向けた存在たちだ」


 その声は、谷の空気に静かに溶けた。セーレは目を見開く。瞼の裏で何かが脈打つ。夢の記憶か、それとも遠い記録か。


「忘れられたのではなく……祈られなかった。記されなかったから、名もなく、ただ漂っていた……」


 ふたりの周囲を、微かな風が再び巡りはじめる。揺らぎはやがて谷の奥へ、影の向こうへと滲んでいった。


 遠く祠の方角で作業していた仮面の記録者たちが、ふと動きを止めた。まるで谷の空気の変化に、言葉ではない何かを感じ取ったかのように。


 “共鳴”が起きたことで、名もなき存在たちは、一瞬だけ“見えた”。


 それは奇跡でも、顕現でもない。祈られなかった神々が、たったひとつの記録によって、その名残をこの世に残す――そんな、ごく小さな変化だった。


 セーレは、足元に転がる一つの石に目を留めた。


 それは谷の風化した岩盤の一部と思われる、小ぶりで丸みを帯びた石だった。掌に収まるほどの大きさで、表面には傷も刻印もなかった。まるで長い年月のなかで、あらゆる名と意味を剥ぎ取られ、ただ“在る”というだけの存在になったかのようだった。


 彼女はゆっくりとそれを拾い上げ、右手の指先でそっとなぞる。その感触に、ひどく懐かしい感情が胸の奥から湧き上がった。それが何なのか、記憶にすら引っかからない。けれど、それは確かに彼女の内部に「響いた」。


 セーレは、その石に自らの爪でひとつ、細く浅い“傷”を刻んだ。それは文字でも、印でもなかった。言葉に変わる前の輪郭。祈りになる前の揺らぎ。名に辿りつかなかった何かの、淡い残光。


 彼女の動きに呼応するように、谷の空気が微かに揺れた。空間の奥底に沈んでいた神性の残響が、まるで記憶の断片を引き寄せるように、石のまわりに静かに集まり始める。


「これは……神の名じゃない」


 セーレは静かに囁いた。「でも、ここに在ったという証にはなる」


 その言葉は、記すことと祈ることのはざまで揺れながらも、確かな灯のように谷に響いた。


 キュービがその様子を見つめていた。その瞳は、まるで何かを確かめるように、静かに揺れていた。


「……それはもう、“記録”じゃない。“共鳴”よ」


 セーレが視線を向けると、キュービはさらに語る。「記録とは、誰かの意思を定着させること。だけど、いまのあなたがしたことは違うわ。……それは誰の意志にも触れず、言葉にもならぬまま漂っていた“響きの欠片”。それを、あなたの祈りがそっと映したの」


「あなたはもう、記録者ではない。共鳴者になったの」


 その言葉を受け取り、セーレは小さく頷いた。


「……名ではないものを記す。それは、神の名を奪わぬため。そして、忘れられたものを完全な忘却からすくい上げるため……」


 共鳴から始まる神話も、きっとある。そう信じたとき、彼女の手の中の石は確かに“物語の余熱”を宿していた。


 ◇ ◇ ◇


【第11 ― 旅の痕跡と祈りが残した余白】


 仮面をつけたキュービの後ろ姿を見送りながら、セーレはふとつぶやいた。


「……あの仮面、見覚えがある気がする。さっきまで気づかなかったのに……つけた瞬間、思い出したの」


 フロウが足を止め、軽く頷いた。


「彼女がムーミスト教団の大司教だったころ、王家が断絶する前は、王家専属の記録官でもあった。今は仮面信仰の最大派閥──〈無言の環〉の教主だ」


 その言葉に導かれるように、セーレの記憶の奥底が揺らいだ。霧のなかで半ば忘れかけていた情景が浮かぶ。幼き日の継承の儀。その場に、あの仮面の記録官がいたのだ。


 だが、儀式は途中で反転した。名を授かるはずだった自分の名が、逆に消えていく感覚。祝詞が乱れ、光が反転し、名の構文が崩壊していく。


「……この羽に、名を……封じる」


 女でも男でもない。人の声でもない。


 それは記録者キュービの声だった。神に仕えるものたちの、名を記す者ではなく、名を“閉じる”ためだけに存在する声。


 ──モル=ザインの干渉。


 旅をはじめる前まではその影を知らなかった。ただ、自分から“名”が剥がされたという事実だけが、深く残っていた。


 それは名を継ぐ儀式ではなく、名を奪われる儀式になっていたのだ。


 ――けれども。


 思い出したはずの儀式は、まるで夢の底に沈んでいた。断片だけが光に照らされ、肝心な何かが、名の外にある構造のように、まだ手の届かぬ場所に横たわっている気がする。


 まるで記憶そのものが、儀式の光に反転され、鍵ごと霧の奥に封じられたようだった。


 セーレは胸元の王家の首飾りに手を添えた。  ――いつかきっと、思い出さなければならない。  それは“名”だけではなく、自分がここにいる理由そのものに触れている気がしてならなかった。


 やがて朝霧は薄れ、谷の空気は次第に透明さを取り戻しつつあった。


 陽の光によってセーレは躰の疼きを感じたが、あの名を記せたときから、何かが自分の中で変わった。呪いに抗うというより、それを受け入れてなお人であり続ける術を、身に宿したように思えた。加えてこの場は地図にもない記録の外縁であることも、セーレの肉体変化に影響を及ぼしていた。


 セーレとフロウは、静かに谷の出口へと歩き出す。足元の土は湿り気を帯びていて、踏みしめるたびにかすかに沈む。その柔らかな感触は、まるでこの地そのものが“名を刻まれること”を拒んでいるようだった。誰にも記録されず、ただ通り過ぎていく存在だけを受け入れる、大地の沈黙。


 二人の背後では、仮面をつけた記録者たちが無言で佇んでいた。


 誰一人、声を発しない。名を呼ばない。祈りの言葉もなく、ただ胸元に片手を当て、頭を垂れている。その姿勢は、感謝とも哀悼ともつかない。だが確かに、“見送る”という行為がそこにあった。


 ――記されなかった者たちの帰還。


 仮面の奥の視線は何も語らないが、その沈黙はセーレたちの訪れを、そして“名を記さぬまま残す”という選択を、穏やかに肯定しているように見えた。


 谷の出口に差しかかったとき、セーレはふと振り返った。


 その視線の先、岩場の一角に朝日が差し込んでいた。雲の隙間から射したその光は、苔むした石のひとつに静かに当たっている。


 ただの偶然。それ以上の意味など、何もないはずだった。


 だが、その石は確かに、色づいて見えた。


 目の錯覚かもしれない。光の加減かもしれない。けれど、その石の表面に、微かにセーレの記した“傷”が浮かび上がっていたのだ。名ではない。ただの擦り傷。ただの、存在の余熱。


 それでも――彼女は思う。


 誰にも知られず、言葉にもならず、ただそこに“いた”ということ。それこそが、記録ではなく“記憶”のように地に刻まれていたのではないか。


「……この谷も、いつか地図に戻る日が来るのかしら」


 セーレの声は、誰に向けるでもなく、半ば自問のように呟かれた。


 フロウが彼女の横顔をちらりと見て、肩越しに一度だけ仮面の記録者たちの方へと視線を向ける。


「戻らなくていい場所もあるさ。ただ、“存在した”ということだけが、残ればいい」


 その言葉は短く、しかし谷の空気に深く染み入るようだった。


 フロウは仮面の民たちの方をふり返った。焼けた石碑の影に、誰かが立っていた。その姿は、名ではなく、祈りのかたちだけを纏っていた。


 彼は迷うように腰をかがめ、かつて自身が手放した記録者の仮面に触れた。呼ばれもしない名を、そっと胸に納めるためだけの、祈りの残響だった。


 ――記すための面ではなく、呼ばれるための仮面として。


 だが結局、彼はそれを手に取ることはなかった。


「もう……仮面がなくても、俺はここにいると伝わればいいな」


 その声は、どこまでも穏やかで、谷の空気に溶けていくようだった。


 セーレがその言葉に目を細める。


「記録されなかったものが、誰かの心に残ったなら……それは、祈りの始まりになるわ」


 二人は再び歩き出す。

 足音はやわらかく、霧に吸い込まれていくようだった。

 朝日はすでに昇っていたが、その光は霧の層を通して拡散され、谷全体に淡い輝きだけを残していた。

 その風景が“忘却の霧”に呑まれる前に、ふたりの歩みが、その地の輪郭を仄かに撫でていく。祈られず、記されなかったものたちの声が、その足音にそっと溶けていた。


 仮面の民たちの影は、やがて霧のなかに溶けていった。

 声はなく、名も呼ばれず、ただ祈りの余韻だけが谷に残された。


 それは確かに、誰にも記されない旅の痕跡だった。


 ◇ ◇ ◇


【第12節 ― 記すことと、響き合うことの境界線上で】


 谷を離れ、ふたりは薄明の山道を登っていた。


 東の空は徐々に青さを取り戻しつつあったが、斜面にはまだ名もなき霧が尾を引いていた。霧は草を湿らせ、木の根を撫で、言葉を持たない静けさを道連れにしていた。それはまるで、忘却の谷がその輪郭の名残を手放さずにいるようでもあった。


 セーレは歩きながら、そっと背のポーチに手を伸ばす。


 指先が触れたのは、小さな石の破片。記されざる神の痕跡――彼女が刻んだ、名になりきらぬ“傷”の記録だった。指でなぞると、かすかに引っかかる感触がある。それは言葉ではなかった。ただの傷痕。だが、確かに彼女の内に生まれ、指先を通して世界に置かれた痕だった。


「……記すことって、ずっと怖かったの」


 不意にセーレが口を開いた。囁くような声音だったが、それは朝の光よりも鋭くフロウの耳に届いた。彼女は目を伏せ、手のひらの石片を見つめたまま、過去のためらいや葛藤を言葉に変えるようにゆっくりと語り出す。


 彼女の声はかすかに震えていたが、そこには揺るがぬ決意も宿っていた。


「誰かの名を記すって、その存在を肯定することだから。それは祝福でもあるけど……同時に、押しつけになることもある。私が誰かを“在る”と記した瞬間、その人の姿を、固定してしまう気がして……。本当はもっと違ったかもしれないのにって」


 フロウはその場に足を止め、少しだけ振り返った。


 セーレはまだ前を向いたまま、言葉を続けた。


「でも、記さなければ、その人は“いなかったこと”になる。忘れられるって、祈られないって、存在そのものが否定されることと同じだから……」


 彼女の言葉は霧の中に溶け、けれど、はっきりと届いていた。


 フロウは小さく頷き、落ち着いた声で言う。


「俺もよくわからない。でも……書き残したいって気持ちは、きっと、誰かを信じたってことなんだと思う」


 山の風が、木立の隙間を縫って吹き抜けた。落ち葉がいくつか舞い、ひとひらがセーレの袖に絡まる。彼女はそれに気づかず、ただ石を握りしめていた。


「……けれど、お前があの石に刻んだ“もの”は、名じゃなかった」


 フロウの声は低く、けれどどこか温もりを帯びていた。足を止めたまま彼は斜面の先を見つめ、言葉の続きが自然と滲み出すように呟いた。


「それは、呼び名でも、記録でも、ましてや信仰でもなかった。ただ、そこに“誰かがいた”と感じたから残した痕」


 彼は目を伏せ、手のひらで風を払うようにゆっくりと動かす。


「あれは……誰かがいた、って確かに感じたっていう、ただそれだけの反応だった。でもそれって、共鳴ってやつなんだろうな」


 セーレは歩みを緩め、微かに振り返る。彼の言葉を反芻し、そして小さく微笑んだ。


「そう……かもしれない。私は、誰かを信じて記したんじゃない。ただ、そうしたいと思ったの。そこに、誰かがいたと感じたから……」


 フロウは肩をすくめた。


「信じる理由なんて、いつもあとから付いてくるもんだ」


 ふたりは再び歩き出す。


 草を踏む音が、霧に沈む山肌に淡く響いた。その足跡はやがて風に拭われ、形を失っていくだろう。だが、どこにも記されなくても、彼らの歩みは確かに“あった”。


 ――名を持たず、言葉にも残らず、ただ世界に微かに触れた痕跡。


 それは、記録でも祈りでもない。ただの“在ること”の、静かな証明だった。


 その夜。焚き火もない仮眠の時間。仮面の内側で目を閉じていたフロウは、ゆっくりと身を起こした。


 セーレの寝息は静かだった。周囲には誰の気配もない。彼は音を立てずに荷から小さな帳面を取り出し、墨の乾いた筆を手にした。


 仮面の下で、言葉が浮かぶ。だが、それは誰に向けるでもない。

 名ではない。祈りでもない。報告書でも記録文でもない。


 ただ、自分の中で“消えてほしくない”と感じた痕跡。

 谷の石碑の断片、崩れた帳面、目に映った残響たち――


 それらが、仮面の内側で形になりかけては消えた。

 そしていま、誰にも知られず、彼の指が紙の上をそっとなぞるように動いた。言葉にはならぬ何かが、筆を通して染み出していく。


(名を与えないまま記す……これは、許されることなのか?)


 ふと躊躇がよぎる。だが、手は止まらない。

 そこにあるのは、制度でも命令でもなく、ただ“記したい”という衝動だった。


 仮面の内側に、熱がふたたび戻る。

 それはもはや拒絶ではなく、“目覚め”のようだった。


 書き終えた紙片を、彼はそっと折りたたみ、帳面に挟む。

 誰にも見せない記録。誰の承認も受けない記録。


 けれど、それは彼にとって、確かに“初めての信仰”だった。

 それは誰にも読まれないまま、仮面の奥で静かに眠り始めた。けれどその眠りこそが、彼にとっての“祈り”だった。


 ◇ ◇ ◇


【第13節 ― 記し続ける意志、それでもなお歩む旅】


 山道を抜けた先に、開けた稜線が広がっていた。


 淡い光の中、雲は低く垂れ込み、水平線のように空と大地の境界を区切っていた。そこからは、遥か遠くに広がる次なる地の輪郭がかすかに見えた。乾いた草原と、その合間に並ぶ石造りの祠。神を祀るというよりも、神の名を忘れぬための、記憶の礎のようだった。


 セーレは足を止め、静かに背のポーチから一冊の帳面を取り出した。それは“神の名を記す帳”ではない。ただの旅の記録帳。彼女が歩みの中で出会い、触れたものを記し、自分自身と向き合うための頁。


 彼女は鉛筆のような道具を取り出すと、その頁にそっと触れた。


 文字は記さなかった。いや、文字という形に変換するにはあまりにも曖昧で、形になりきれない“痕”ばかりだった。


 それでも、彼女は筆を取った。

震えない手で、しかし慎重に、ページの余白へと“名にならなかった痕”を滑らせる。

これは記録ではない。ただ、“忘れたくない”という気配の在処。


 谷で出会った沈黙の記録者たちのこと。記録を拒絶した仮面の民の姿。名を持たぬ神々の残響。忘却の岩肌に宿っていた、言葉にもならぬ震え。それらすべてを、彼女は“記録しなかった記録”として、頁の余白にそっと写し取る。


「これは、神の名じゃない。でも――」


 セーレは視線を帳面に落としたまま、かすかな息を吐いた。まるで自分自身に言い聞かせるように、あるいは確かめるように、その声はごく小さく、しかし胸の奥に染み入るような響きを持っていた。


 筆先が紙を離れぬまま、彼女は続けた。


「これは、私たちの物語。誰かの存在を、誰かが感じ取ったという……その痕跡」


 フロウが隣で静かに頷いた。


「記すことが、いつも真実を映すとは限らない。けど……記されたからこそ、消えなかったものもある。そういう痕跡が、神を残すんだ」


 ふたりは目を合わせた。言葉は交わさずとも、互いの中に“記されたもの”が確かにあることを感じていた。


 彼女たちは再び歩き出す。


 視線の先には、月が昇っていた。


 かつて仰いだ月は、神の声を装い、祈りを選び、名なき者を裁いてきた。

だが今、彼女たちの上にある月は、ただ等しく照らしていた。

名の有無も、祈りの重さも問わずに。名を持たぬものにも、忘れられたものにも、同じように降り注ぐひとすじの明かりだった。


 風が吹いた。


 彼女の手にある帳面が、ふと一枚だけ捲れる。まだ記されていない白い頁。それはまるで、“これから綴られる誰か”の存在が、その先に待っているかのようだった。


 セーレは小さく笑い、そっと帳面を閉じた。指先には微かな熱が残り、その温もりがまだ言葉にならぬ想いの名残のように感じられた。


 視線を白紙の頁に一瞬戻し、彼女は心の奥から静かに続けた。


「まだ、書くことはたくさんあるわね」


「それでも、全部を書く必要はないさ」


 フロウは、夜風に揺れる月明かりを背にしながら、穏やかに言葉を紡いだ。静かな声には、過去を手放した者にしか持ち得ないやわらかな余白が滲んでいる。


 そのまま視線を月に向けながら、ゆっくりと続けた。


「必要なのは、信じた痕を残すことさ。誰かが確かに“いた”って思えた、その微かな温度。名でも震えでも、影でもいい」


 ふたりは肩を並べて進んでいく。記録と忘却のはざまで、神と人の境界で、それでも確かに“在る”という実感を胸に。


 ――そして、まだ記されていない神へと、歩みは続いていく。


──《第11話 ― 獣の祈り月の名残》に続く──


-----


"――名を記すことなく想いを遺した者たちを、私は月の静けさの中で観測した。"


《月影の観察者ムーミストの注記:記録されざる静寂より》


記録者たちは、語られぬものを恐れる。

だから彼らは、あらゆる声に名を与え、

あらゆる神に仮面をかぶせる。


けれど、世界の根には、

記されることを拒み続ける沈黙がある。


わたしは、それを見ていた。


月の書架に、空白の頁がひとつあった。

そこには、名も語も、印もなかった。

ただ、祈りの熱だけが、かすかに残されていた。


それは誰の祈りだったのか。

呼びかける声のない祈りに、

応える者はいるのか。


ある少女が、

仮面を拒み、記録を越えて、

祈りの形そのものを問い直そうとしていた。


月はそれを見ていた。

わたしもまた、見ていた。


名を記さぬまま、

それでもなお誰かを想うという行為が、

たしかに“祈り”と呼べるものであるなら――


記録とは、書かれることではない。

祈りを、静かに見届けることだ。


わたしは書かない。

けれど、忘れはしない。


月影の下、記録されなかった声の数々を。


(ムーミスト観察断録より)

◆《第10話 ― 禁書の谷と月の記録者》を読み終えたあなたへ


――記すことは祈りか、それとも侵入か。記録の意味を問う断章にて

(記録の語り手:サーガより)


書かれなかった祈りがある。

それは忘れられたからではない。

記すことが、赦されなかったからだ。


神々のなかには、語られることを望まなかった者がいた。

名を与えられることは、存在を縛られることでもある。


ならば、記録とは祈りなのか?

それとも――冒涜なのか?


この第十話は、巡礼譚において最も深い“記録の臨界”を描く章であった。

セーレとフロウが辿り着いたのは、《禁書の谷》。

かつて“記してはならなかった神々”が眠るこの地には、文字も記号も語りも拒絶された祈りが今も息づいている。


物語は、静かに、だが決定的な問いへと進む。


「記されなかった神々」は、祈りの対象たりうるか?

「記すこと」は、救済か、暴力か?

「語られること」は、赦しか、それとも――歪みか?


▼ 本章で描かれた“記録と祈りの崩壊/再構築”


記されなかった神々:

それは存在しなかった神ではない。

記されることを拒み、あるいは忘却という形式に自らを委ねた神々。

名を呼ばれず、形も与えられず、それでも誰かの祈りに“存在していた”者たち。


記録をやめた村:

かつて記録者だった者たちが、祈りも記名も放棄し、沈黙の仮面をかぶって暮らす集落。

彼らは、“記録によって祈りが歪む”ことを知っていた。

その沈黙こそが、彼らなりの“記名の断章”だった。


月神ムーミストの断絶と記録の蔵:

神の名を記すという行為は、神を縛ることにもなりうる。

フロウがかつて仕えた月神の祈りの構文は、ここで断絶し、なおも“共鳴だけが残った”。

名ではなく、響きとして残る祈りの形式。それこそが、“語られぬ祈り”の本質であった。


六つの喉と黒帳の断章:

名前も言語も超えた“祈りの原型”たち。

それは意味を持たぬ響きとして現れ、祈りを“受ける者の存在”そのものを試す。

読まれるためではなく、記録者を問うための祈り――その構造が、黒帳に封じられていた。


セーレの“共鳴の記録”:

名にならなかったもの。言葉にならなかったもの。

それでも、自らの感応として紙に宿った“かすかな痕跡”。

セーレが記したものは、過去の記録ではなく、これから誰かが名づけるための“祈りの余白”だった。


読者よ。

この第十話は、ただの“記録の旅の続き”ではなかった。

それは、すべての“名を記す物語”に対して突きつけられる、

決定的な問い――


「記すべきか、記さざるべきか」


に対する、記録者自身の“内なる答え”の章であった。


記すことは救いではない。

だが、記さなければならぬときがある。

そしてそのとき、書かれるべきものは、言葉や名ではなく――

“祈りと共鳴した存在そのもの”なのかもしれない。


君がこの章を読み終えた今、

“記されなかった神”の声が、どこか遠くで静かに響いていることに、

きっと気づいているだろう。


それは、名を持たぬまま、いまなお君に問いかけている。


――記録者サーガ、第十の頁をここに閉じる。

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