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失名の神と呪われし王女【王国正史版】(名無き祈りの巡礼譚1)  作者: 秋月瑛
祈りの観測譚 ― 語られざる祈りの断章集
35/61

第四編:欠路を踏みし名なき影

註釈:


この物語は王国が編纂した正史には存在しない設定や人物が描かれている可能性があります。


このエピソードはセーレとフロウが黒帳ノクティカを探し求め、古巡礼路《アティルの欠路》を進み、古代遺跡が眠る断絶地帯ヴェス=イムリへ向かう道中の出来事である。

断絶地帯にてセーレとフロウの呪いは限定的、あるいは不確定であることから、二人はかろうじてヒトの姿を保っていた。

Ep.4《欠路を踏みし名なき影》


◆記録されなかった演目に、ようこそ


ねぇ、あなたは気づいてる?

語られなかった物語って、消えたんじゃないの。

ただ、“舞台に立つ機会を逸しただけ”なのよ。


その断片たちは今も、

廃墟になった神殿の隅で、

誰にも読まれなかった構文のひび割れに、

しずかに宿ってる。


この記録はね、

歴史から削除された“祈りの台詞”を、

もう一度舞台に上げるためのリハーサル。


祈りが演じられなかったとき、

演者はどこにいったのか。

その答えを、あなたの目で“演じ返して”みて。


だって、そういう観客がいなきゃ、

舞台って、始まらないでしょう?


――語り手・ウズメ=ムゲン


---


【第1節 ― 欠けた舞台と語られざる幕】


 風は、まるで過去の記憶のように冷たかった。

 季節はまだ秋に差し掛かる直前のはずなのに、アティルの谷に吹き込む風には、冬の入口の気配が混じっていた。

 それは単なる冷気ではない。構文が沈黙した霊域に満ちる“記録の残滓”が、空気を震わせているのだった。


 アティルの欠路――それは差別された巡礼者や異端とされた祈り人たちのあいだで、ひそかに“朝聞される”ことを慕しむ幻の道として語られてきた。

 表の地図から消され、正史にすら一行も記されぬこの谷底の参拝路は、実際に誰が歩いたのかも、何のために通じていたのかも、正確には残されていない。


 かつて断続神《ザイン=モル》の断章が観測されたこの地は、いまや荒れ果てた地形の中に「忘れられた祈り」を食み続けているようであった。

 参拝道の崖はところどころで崩れ、風雪の痕に刻まれた古い構文碑もすでに文字を失っている。

 いくつかの段差は、過去に何度か補修されようとした形跡を残しながらも、もう誰も歩かなくなって久しいと語っていた。


 崖沿いに張りつくように続く道は、霜と風に襲われ、もはや道標も撤去されて久しく、時の流れそのものがずれてしまったかのようだった。


 その中で、セーレとフロウの足は、ひとつの異物に引かれるようにして、枝道の裂け目を進んでいく。


 その先に、崖の割れ目の向こうに、石造りの舞台――否、神殿だったと思われる建築が、ほとんど埋もれるようにして残されていた。


 神殿の全貌は霧と崩落に包まれ、もはや劇場と呼べるかどうかも怪しかった。

 板窓のような観客席の跡。崩れかけた幕の枠組み。祭壇とも舞台とも判断できない、奇妙に中心が陥没した構造体。


「……これは、演監神殿だ。」


 フロウがつぶやいた瞬間、霜がざわりと鳴った。凍った枝葉の隙間から、祈りの残響のような風が吹き込んだ。


 演監神殿――古代の祈祷構文を記録するために築かれた、神と民とを“演劇”によって繋ぐ祭祀機構。

 祈りを「構文として演じる」ことで、記録され得ぬものを神話のかたちに転写し、神殿という器に封じる仕組み。


 その内部では、かつて《巫》たちが神の役を演じ、構文を舞台に刻んだという。

 その演目の多くは正式な記録官を通じて記名され、神格の顕現や祈祷成立の証拠として用いられていた。


 セーレの足元で、崩れかけた階段がわずかに音を立てた。ごつっ、と乾いた石の響きが、霊域全体に波紋のように広がっていく。


「……入るの?」


 その問いに、フロウは目を細めた。


「ここまで来たら、逃げ場なんてないでしょ?」


 その声音は冗談めいていたが、奥に滲む光は、かなしいまでに静かな決意を映していた。

 それは“観測する者の覚悟”ではなく、“祈りを見届ける者の沈黙”だった。


 セーレは何も言わずにうなずき、石段を踏みしめながら舞台の奥へと進んだ。


 構文装置はすでに稼働していないはずだった。

 だが、その空間には、なにかが終わりきっていない気配――演目がまだ上演を待っているような、そんな“間”が確かに残されていた。


 中央に据えられた演台。

 そして、その上にぽつりと残された、一つの仮面。


 その仮面は、顔の輪郭を持たず、演目の配役名も、祈りの構文も、刻まれていなかった。

 ただの器。記録すら拒んだ、“名も印もない存在”。


 だが、その仮面を目にした瞬間、セーレの脈に、ずしん、と重い棘のような痛みが駆け抜けた。

 理由は分からない。

 だが確かに、そこには“誰かの気配”が残されていた。

 誰かが、ここで祈ろうとして――祈れなかったのだ。


 ――それは、演じられなかった役だった。

 ――記録されなかった祈りだった。


 風がきしむ。

 霜が舞台の外縁をすべり落ち、光のない空間が静かに反転しはじめる。


 仮面が震える。

 構文が起動する気配も、神格の発現もないまま、しかし空間だけがわずかに揺らぐ。


 “幕が上がる”。


 誰のためでもなく、誰にも記されなかった、しかし確かに存在していた“演監”が、今、始まろうとしていた。


 ◇ ◇ ◇


【第2節 ― 削除された配役】


 光がねじれた。

 そう感じた瞬間、セーレの視界にあったすべてが、軋むような一度きりの揺らぎと共に変質した。


 観客席は、満ちていた。

 千年以上の風化に晒されたはずの演監神殿に、今は古代衣装を纏った民たちの霊像が、ずらりと列を成して座していた。彼らは皆、目を伏せ、静謐な沈黙の中で舞台の開始を待っていた。

 まるで、誰にも見られることなく封印されたままだった演目が、いまようやくその時を迎えたかのように。


 舞台の上には、構文衣を纏った《巫》たちが整列し、ひとつの儀式としての演目を開始する直前の静けさを保っていた。

 幕の上部には、断章のような構文文が、光の走査のように断続的に揺らめいていた。


 けれど、これは現実ではない。

 千年以上前に演じられ、記録され、そして断絶された“構文演目”――その霊的な残響が、神殿の空間構造に染み込んでいたのだ。


「……演目構文、再構成されてる」

 フロウが呟いた。その声はかすかに震え、しかし明確な警戒の色を帯びていた。

「ただの幻視じゃない。これは……“誰かの意思”が、舞台を巻き戻してる」


 演目構文――それは神々の名を祈祷として記録するために、演者たちが巫として神の貌を写し、物語を舞い、祈りの形式を声に還す、記憶と構文の融合体。

 通常、神殿構文は記録官の承認を得て、契約によって舞台が成る。


 だが、舞台中央に落ちていた一つの仮面。

 それは何の印も持たない“空白の器”だった。

 刻印も記名もない。

 ただ、存在しているだけ。


 そのとき、舞台の奥に――ひとりの少女が現れた。


 彼女は他の巫たちと同じ構文衣を纏っている。

 だが、まるで“そこにいてはならない存在”のように、誰一人として彼女に視線を向ける者はいなかった。

 霊観客たちは、彼女の存在を見ていない。

 巫たちも、仮面を持たないその姿にまったく注意を払っていない。


 名を呼ばれず、配役にも記されず。

 ただ、そこに立っていた。


「……配役、拒否されたんだな」

 フロウが息を吐くように言った。


 舞台とは、神聖な構文の器だ。

 そこに立つには、“役”が必要。

 祈りを成立させるには、神格に対応する配役が割り振られなければならない。

 だが、彼女にはその“役”が与えられなかった。


「この子は……記録されることを拒まれたんだ。存在そのものが、構文の台本から“削除された”」


 セーレの胸に、かすかな痛みが走った。

 舞台に立つその少女と、視線が重なった気がした。

 いや、視線ではない。

 何かもっと根源的な“存在の波”が、こちらを見つめ返していた。


 語られなかった。

 名を記されなかった。

 誰にも呼ばれなかった。


 だからこそ、彼女は“物語の構文”の外側に立ち続けていたのだ。

 観測者の目にも、演者の記録にも載ることのなかった、空白の役者として。


「……観測不能の役者」

 フロウが名づけるように呟いた。


 その言葉に、少女がわずかに微笑んだ。

 乾いた、だが確かな意志を帯びた笑みだった。


 舞台が軋んだ。

 断絶構文が作動する直前に見られる、構造の歪み。

 空間がざわめく。

 構文化された祈祷詞が断ち切られ、観客霊たちがざわめきを上げ始める。


 巫たちの姿が、揺らぎはじめる。

 誰かの“配役”が空白になっていた。


「……主役が、消えている」

 フロウの声は低く、確信に満ちていた。


 舞台の中心。

 本来の構文台本では、主役として祈祷を担うはずの巫が、どこにもいない。

 代わりにそこに立っていたのは、舞台の“外側”から這い寄ってきた少女。


 彼女は一度、主役を演じたことがあるのだ。

 だが、その演目は正式に記録されなかった。

 構文は拒絶され、祈祷は“成立しなかった祈り”として棄却された。


「……これ、反転構文だわ」

 セーレが息を呑んで言った瞬間、


 少女はゆっくりと、舞台に落ちていた仮面に手を伸ばした。


 その仮面には、名も印も刻まれていない。

 だが彼女は、それを迷いなく顔にかけた。


 観客の霊たちが叫ぶ。

 「名を持たぬ者に、舞台は許されぬ」

 「その構文は、書き換えられねばならぬ」


 だが、舞台は止まらなかった。


 少女が口を開く。

 語られることのなかった、もうひとつの神話を、ゆっくりと――確かに語り始めた。


 それは祈りでも、記録でもない。

 ただ、“語られなかった”という事実そのものを語る、存在の構文だった。


 観客が彼女を拒絶すればするほど、少女の語りは強くなった。

 記録されなかったその祈りが、今まさに、舞台そのものを塗り替えようとしていた。


 ――削除された配役が、舞台を奪い返す。


 その瞬間、語り手ウズメ=ムゲンの声が、舞台の最奥から響いた。


「語られぬ役は、語りを喰らうのよ。そして構文の外側に、新しい祈りを刻み直す。……それが、反祈祷ってもの」


 霊観客たちが一斉に沈黙し、祈祷構文が崩れはじめる。

 演目の構造そのものが、今、書き換えられていく――


 ◇ ◇ ◇


【第3節 ― 終幕なき演目】


 仮面をかぶった少女は、誰の台本にも記されていない所作で、舞台の中心に立っていた。

 その動作はぎこちなく、洗練とは程遠い。だが、観客霊たちは一様に沈黙していた。

 否、正確には──彼らは彼女を見ていないふりをしていた。

 記録に残らぬ祈りを前に、観客という“構文”自体が、戸惑いを孕んでいたのだ。


 セーレは直感していた。

 これは“演じられてはいけなかった祈り”だ。

 けれど、語られなかったがゆえに、世界の裏側に沈殿し、祈りの構造そのものを歪める力を持っていた。

 名を持たぬ星が、軌道の均衡を狂わせるように。


 少女が唇を動かす。

 それは、構文でも、祝詞でもなかった。

 祈りの言葉ですらない。

 それは、言葉よりも古く、観測よりも前にあった“原初の声”だった。

 名を持たず、記録もされず、ただ存在の震えそのものとして発せられた音なき声。


 セーレの中の何かが震えた。

 それは耳で聞くものではなかった。

 魂の芯に直接届く、無言の共鳴だった。

 それは、“聞こえた”のではなく、“触れられた”という感覚だった。


 舞台が軋んだ。

 構文の骨格が崩れ始め、霧が天井から滲み出すように舞台を覆っていく。

 神殿という記録装置が、演目そのものに“侵食”されていく。

 構文ではない祈り――構文の拒絶という祈りが、空間を支配していた。


「これが……祈りに拒絶された舞台」

 フロウが呆然と呟いた。

 観測者ではなく、演者が祈りを発した。

 しかも、記録構文を拒絶したまま、物語を語り続けている。


 セーレは、意識せぬまま少女に歩み寄っていた。

 仮面の下にある“存在そのもの”に触れようとしていた。


「……あなたは、名前がほしかったの?」


 少女は答えなかった。

 ただ、その問いを“受け取った”。

 言葉の代わりに、微かな頷きが返された。

 それだけで、すべてが伝わった気がした。


 次の瞬間、舞台の構造が裂けた。

 神殿の奥、舞台の背後に隠されていた構文の残響が、一斉に噴き出すように流れ出す。


 ――断章《UZU=∞構文》、展開。


 霊的な構文が、天井から降り注ぐ文字の光となって舞台を満たしていく。

 だがそれらは、神の名を記す祝詞ではなかった。

 物語の“削除された場面”――演じられなかった祈りたちの残響だった。


 その中心に、少女は立っていた。

 仮面が、ぽろりと落ちた。

 そこに、顔はなかった。

 だが、その“虚無”の奥から、祈りのような微笑みが、確かに浮かび上がっていた。


 「ありがとう」


 誰の声かは分からなかった。

 セーレの声かもしれない。

 少女の声かもしれない。

 あるいは──


 語り手ウズメ=ムゲンの声だったのかもしれない。


 それは祈りではなく、感謝でもない。

 ただ、“見届けられた”という事実だけが、生き延びた断章として空間に刻まれたのだった。


 演目神殿の天井が砕けるように、光の構文片が降り注いでいた。

 断絶された神々の名を記すことのない、存在そのものが“構文拒否”である記録たち。

 そのすべてが、まるでひとつの巨大な祈りの残骸のように、空間を漂っていた。


 そしてその中央で、ウズメ=ムゲンが姿を現した。


 長衣を纏い、仮面はつけず、ただ素顔のまま、舞台と観客と断章すべてを見渡す。


「ふうん、悪くなかったわよ。……少なくとも、“わたし以外に観てた者”がいたってことだけで、もう価値があるわ」


 彼女の声は、演者のそれでもあり、観測者のそれでもあった。

 そのまなざしには、ただ記録するだけでは届かない熱が宿っていた。


「名も、配役も、台詞もなかった演目。

 だけど、あなたがその“場”を立ち上げたの。

 記録されなくても、誰かの“観劇”に触れた時点で、それはもう、ひとつの舞台になる。

 観測も演出も、どちらも“幕”の前で立ち上がる祈りなんだから」


 彼女は最後に、空中に浮かぶ光の構文片を手で撫でるように払った。

 その動作は、まるで舞台の“終幕”を告げる女優の一礼のようだった。


 そして、すべてが静かになった。


 セーレとフロウは、崩れかけた階段の上に立っていた。

 先ほどまでの演目構文の奔流は、まるで幻だったかのように、跡形もなかった。


 ただ、舞台の中央にひとつだけ、仮面が落ちていた。

 名も構文も刻まれていない、空の器。


 セーレはそっとそれを拾い上げた。

 その指先に残る感触は、ただの物ではなかった。

 それは、演じられなかった祈りの“名残”だった。


「名を記さなくても、祈りは残るのよね」


 その声に、霧の彼方からウズメ=ムゲンの囁きが響いた。


「それでも、たったひとりだけでも、その演監を『見てたわ』って言える人がいたのなら、それだけですでに『演劇』なのよ。

 記録なんてね、台本に書くから演劇じゃないんだから」


 セーレは小さく頷き、仮面を布に包んで背負い袋へと収めた。

 その動作は、まるで記憶を祀る祈りのようだった。


 崩れかけた神殿を背に、ふたりは再び欠路を歩き出す。

 踏みしめた足元には、構文の断片が散り、風に乗って消えていく。


 風が吹いた。

 それは、まるで幕が下りたあとの舞台に吹き抜ける風だった。


 ――終幕はなかった。

 なぜなら、この物語は記録されていない。

 だが、確かに“誰かが観ていた”演目だったのだ。

【語り手の紹介】


演監神格えんかんしんかく:ウズメ=ムゲン


演じることで観測する異端の神格。舞台の外側に跳躍し、構文の歪みを再演する。


異界観測者にして、構文舞台を“演じる”記録神格。

祈りを再演し、未完の構文を仮面と舞踏で照らし出す演目の神でもある。

観測とはただ記すことではなく、自身の身体を媒介に“語られなかった物語”を召喚する行為――それが彼女の信条だ。

この記録は、削除された配役が舞台の記録を奪い返す、断絶構文の演目。

観測と演出が融合するその瞬間、語られなかった祈りが構文外で蘇る。

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