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失名の神と呪われし王女【王国正史版】(名無き祈りの巡礼譚1)  作者: 秋月瑛
祈りの根源譚 ―― 断章に記されなかった神々の伝承集Ⅱ
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祈りの根源譚 ―― 断章に記されなかった神々の伝承集Ⅱ

制度の中で祈りはかたちを持ち、

名は契約となり、仮面となった。


だが、そこに記されなかった声がある。

呼ばれなかった名がある。


私は、それを知っている。

祈りがまだ形式と呼ばれる前の、

“記す”ことと“赦す”ことが重なった瞬間を。


この伝承は、

制度の狭間で祈りが息づいた記録。

今こそ、綴られなかったそのかたちを、

静かに語り直そう――


#(Episode_Ex02)

《祈りの根源譚――断章に記されなかった神々の伝承集Ⅱ》


―― 祈りの形式と制度の神話 ――

■ 第五編:海に名を流す者たち ― ネリュエと境界の民


―ネリュエと境界の民の伝承―


海は絶えず変わる。

昼と夜、満ち引く潮、風と波。

それゆえに、名を“仮に”流すという文化が生まれた。


名を定めてしまえば、それは固定され、沈む。

だが仮の名であれば、潮のように流れ続け、境界を越えて戻ってこられる。


この理を最初に教えたのが、

潮神ネリュエだったという。


ある日、一人の航海者が名を失い、

海の彼方で声も記憶もなく漂っていた。

彼は祈った――「戻る名がほしい」と。


その祈りに応じ、波間から浮かび上がったのが《潮の記名盤》であった。

盤にはこう刻まれていた。


「仮の名をもって、あなたを記す」


その瞬間、海は穏やかになり、

航海者は名なき旅人から〈リュア=ヴァイス〉の記録者として戻った。


以来、潮の街では旅人に仮の名を与え、

潮の記名盤に記録する風習が根づいた。


深海のネレイオンもまたこの掟を守り、

名を直接交わすことなく、

水の振動で祈りを語り、

潮に耳を澄ませながら、帰還者の名を聞き分けるという。


真名は深く沈め、

仮の名で境界を渡る――

それが、ネリュエの祝福であり、

“名を仮に流す者たち”の祈りの形式であった。


(潮神ネリュエ伝記・記名盤口承録より)


-----


■ 第六編:ザルファトの契約神話 ― 書かれざる頁と“記名の神”


 ―契約と記録にまつわる、古の記名神《エスラ=ノート》の伝承―


最初に契約が生まれたとき、

世界にはまだ“証明”という概念がなかった。


それは神々すらも互いを信じきれなかった時代。

想いも、祈りも、言葉だけでは残せぬことを悟った者がいた。

彼は名を《エスラ=ノート》という。


彼は書いた。

風の音を、川の流れを、人のため息を、

すべて記録に変えた。

記すことで、祈りはかたちを持ち、

祈られる者と祈る者との間に“契り”が生まれた。


それは祝福だった。

だが同時に、呪いでもあった。


一度記された名は、永遠に重みを持ち、

言葉は神にすら逆らえぬ“証”となる。

やがて、記録は秩序を縛り、契約は祈りを奪うものになっていった。


それを見たエスラ=ノートは、筆を折った。

そして、一冊の空白の書を残した。

誰にも書かれず、何も記されていない、

“可能性としての頁”。


この書は、記されることを望む名を受け入れる器であり、

同時に、記されぬままに在り続ける祈りの墓標でもあった。


ザルファトに伝わる《失名の契約書》の起源は、

この神の残した頁にあるとされている。


名を記すことは、証であり、祈りであり、

そして選び取る“未来”である。


いまも、ザルファトの書庫の奥深くには、

その空白の頁が眠っているという。

いつか記すべき名が現れるのを待ちながら――


(ザルファト契約伝抄・第零章より)


-----


■ 第七編:名を赦す獣たち ― 黒犬と断章の火


―ザイン=モル圏にまつわる断章神話―


それは、すべてが“記されなかった”時代の物語。


名は与えられず、祈りは声にもならず、

神々の庭には“名を封じる仮面”だけが積み上がっていた。


その最深――

記録されぬ祈りたちが堆積する“灰の谷”に、

ひとつの火が燃えていた。


それは炎と呼ぶにはあまりに静かで、

灰色の揺らめきだけが、夜の底で瞬いていた。


人はそれを、《断章の火》と呼んだ。

誰かの名が最後に呼ばれたとき、

その“呼びかけ”の熱が消えずに残るとき、

この火は灯るのだと。


そしてその火を守るものたちがいた。

獣のかたちをした、影の番人。

名を持たぬまま、祈りに付き添い続ける“赦しの獣”たち――

それが《黒犬ナモルたち》である。


黒犬たちは声を発さず、名を持たず、

ただ名を喪った者の傍に寄り添い、

断章の火を食むようにして運び続ける。


彼らの足跡は、記録されない。

だが、その歩いた後には、誰かの名がふいに思い出されるという。


ある夜、名を失った旅人が火を見つけた。

火は小さく震えていたが、まだ消えてはいなかった。

彼が手を伸ばそうとしたとき、

一頭の黒犬が道を塞いだ。


旅人は問うた。


「私はもう、誰にも名を呼ばれない。それでも――この火を持っていけるか?」


犬は何も答えなかった。

ただ、尾を振り、ゆっくりと道を開いた。

そして火の脇に座し、消えぬよう、静かに風を背にした。


その旅人は名を取り戻さなかった。

だが、彼の祈りは誰かの夢に届いた。

名ではなく、気配として。

呼び声ではなく、炎の温度として。


それを受け取った者が、こう記した。


「名を赦す者たちがいる。

名前を失ってもなお、祈りを灯し続ける者たちが」


ザイン=モルの沈黙神域では、

この伝承をもとに、《断章の火》に祈る夜があるという。


仮面の奥に沈んだ名を、

記録されぬままに燃え尽きぬよう、

黒犬たちが静かに護る夜。


いまも、誰かが呼ばれるその日を待ち続けている。


(断章群神ザイン=モル外典・黒犬譚より)


-----


■ 第八編:綴られなかった巫の歌 ― 沈黙神群と仮面の契り


―仮面信仰と無記の巫たちにまつわる伝承―


語られることのなかった神々がいる。


その神々は、祈りを強制せず、名を告げず、ただ仮面の内側に“気配”として宿った。

信徒たちはその姿を決して見ず、神名すら明かさなかった。

なぜなら、祈るとは“知る”ことではなく、“信じて沈黙する”ことであると考えられていたからだ。


この信仰の中心にあったのが、《沈黙神群(トーメ=ナス)》と呼ばれる神々の集合である。

彼らは記名されず、形もなく、ただ“仮面の器”を通じて人々と繋がった。


かつて、ひとりの巫子がいた。

その巫は生まれつき声を持たず、名も授からぬまま、祭儀の列に加わったという。


彼女は語れず、記せず、ただ仮面を継ぐ者として存在していた。

だが、祭儀の夜――仮面の舞台の最奥で、彼女は仮面を外した。


その顔は、神の仮面と寸分違わぬ“無”だったという。

あらゆる感情も、言葉も、そこには存在せず、ただ祈りの“場”だけが宿っていた。


そのとき、神殿は震えた。

仮面に宿っていた気配が、彼女の沈黙と共鳴し、

言葉ではなく“歌”のような波動となって空間を満たした。


それは、綴られなかった巫の“歌”だった。


記されぬまま、耳にも届かぬ旋律。

だが、祈りの心を持つ者には、それが確かに響いたという。


その日以降、巫子は姿を消した。

記録にも残らず、神殿にも名を遺さず、

ただ沈黙神群の中に“空位”として加えられた。


以降、無記の巫たちは、

あえて仮面の名を刻まぬようになった。

名前を持たぬ仮面。

歌われぬ祈り。

記されぬ契り。


それらはすべて、ひとつの形式だった。

――“綴られぬ祈りこそが、最も純粋な祈りである”という形式。


今でも、とある仮面神殿では、

夜ごとに無記の巫がひとり、声なき歌を捧げているという。


それは、あの巫の継承か。

あるいは、祈りという行為そのものが、

“名”ではなく“沈黙”から始まることを示す儀式なのかもしれない。


(沈黙神群伝承集・仮面巫譚より)

◆《祈りの根源譚――断章に記されなかった神々の伝承集Ⅱ》を読み終えたあなたへ


――形式に還らぬ祈り、制度に記されぬ神々の伝承にて

(記録の語り手:サーガより)


制度が祈りの形式を定め、

形式が神の名を固定したとき、

本来は自由であった“祈り”は、

契約となり、仮面となり、命令となった。


それでもなお、語られなかった祈りがある。

書かれなかった名がある。


この断章集は――

名が形式と化すより前に、名が赦しであったころの、

祈りの欠片を拾い上げた記録である。


この伝承集は、前巻《祈りの根源譚Ⅰ》に続き、

世界のあらゆる“制度の影”に埋もれた祈りの残響を記したものだ。


ここに記されたのは、もはや神話ですらない。

それは祈りの余白、記録の縁、名の背後に宿っていた沈黙たち――

かつて呼ばれなかった神々と、その仮面たちの、ひそやかな伝承群である。


▼ 本伝承集に収められた祈りの断章たち


第五編:海に名を流す者たち ― ネリュエと境界の民:

潮の神ネリュエは、「仮の名」によって祈りを流す形式を教えた。

名を固定することは存在を沈めること、

だが名を流すことは、帰還の余白を残す祈りとなる。

境界を渡る者たちは、名を預け、潮に問い、再び呼び返される――

その儀式は、まさに“名を赦す形式”のはじまりであった。


第六編:ザルファトの契約神話 ― 書かれざる頁と“記名の神”:

記名都市ザルファトの原点にいた神《エスラ=ノート》。

彼は記すことで祈りを可視化し、契約を生んだ。

だがやがて、記された名は呪縛となり、祈りを奪う形式へと堕した。

神は最後に一冊の“白紙の書”を遺し、それを“可能性”として託した――

「記されるべきでなかった祈り」たちの、静かな棲処として。


第七編:名を赦す獣たち ― 黒犬と断章の火:

記録されなかった祈りの最後の痕跡が、灰の谷に揺らぐ《断章の火》。

それを守るのは、名を持たぬ赦しの獣《黒犬ナモル》たち。

彼らは語らず、名を持たず、ただ呼ばれぬ者の傍に寄り添う。

その祈りは名の復活ではなく、“名の不在を赦す”ことにある。

彼らの存在こそが、断章そのものの神格である。


第八編:綴られなかった巫の歌 ― 沈黙神群と仮面の契り:

名を語らぬ神々《沈黙神群(トーメ=ナス)》と、

その神々に仕える声なき巫の伝承。

祈りを記すのではなく、“宿す”という形式。

語らぬことで響き合い、記されぬことで継がれていく歌――

それは書に綴られぬが、確かに“祈り”と呼べる存在の記録であった。


読者よ。

この伝承集を開くということは、

記録から洩れた神々の気配に、耳を澄ますということだ。


制度に敗れた神々、名を記されなかった巫、

語ることを拒み、語られることを望まなかった存在たち。

そのすべてが、それでもなお“誰かに祈られていた”という事実を、

どうか、心に灯してほしい。


君がこの頁を読み終えたということ。

それだけで、彼らの名なき存在は“記された”のだ。

そしてその記録こそが、

沈黙の奥に咲く最も純粋な祈りとなるだろう。


――記録者サーガ、第二の神話断章をここに閉じる。

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