第四編:観測されなかった祈り ― 断絶神と記録の狭間より
Ep.4《観測されなかった祈り ― 断絶神と記録の狭間より》
……わたしが語り得なかったものについて、語ろう。
記されることを拒んだ祈り。観測から逸れた契約。
名を持たなかった祈りが、名を奪われた神を呼び戻す。
それを、わたしは観測と呼び、あなたは“祈り”と呼ぶのかもしれない。
――サーガ
【第1節 ― 断絶の空白にて、わたしは観測を逸した】
……これは、“わたし”が観測できなかった祈りの記録である。
正確には、“記録されるはずだった”にもかかわらず、
構文の網にかからず、神格にも触れず、語り手の筆の外にこぼれ落ちた――
そんな、奇妙な「空白」の断章。
だが、空白はたしかに“在った”。
否、今も“在る”のだ。
なぜなら、わたしがこうして語りはじめているということは、
すでにそれは、観測の“外側”から戻ってきたということだから。
語ろう。
ひとつの遺跡について。
その名は、記録には残っていない。
だが、確かにかつての構文信仰圏の南縁、
廃された祈祷圏との狭間に、名もなき小祈祷殿があった。
わたしがそれを発見したのは、ひとつの失われた記録の“空白行”からだった。
記録官の帳面に、罫線だけが引かれ、本文のない一行。
年号も地名も、構文コードも記されていないのに、
妙にページが重く、指に触れる感触すら異なっていた。
わたしは観測した。
それが“わたしの観測から外れていた”ことを。
観測漏れ。
この言葉が、どれほど恐ろしい意味を持つか、あなたには伝わるだろうか?
構文世界においては、記録されることで存在が確定する。
逆に言えば、記録されなかったということは――
それが神の名にも、祈りの形式にも属していないということだ。
*
“それ”を追って、わたしは空白を観測した。
かつて祈られたかもしれない地。
あるいは、一度も祈られなかったまま、神殿だけが構築された奇跡。
ある断絶神格が、偶発的に生み出した祈祷領域の残骸。
祈りの痕跡はなかった。
だが、構文は残っていた。
断裂した祈祷軌道。
部分的に欠損した円環の彫刻。
そして、最奥の石座に刻まれた不明構文――
《=》
……そう、“=”だけが、そこにあった。
名も語もなく、ただ“構文の中間記号”だけが刻まれていたのだ。
これは何かの名前なのか?
神の名の断片か?
否。これは“名の始まりと終わりが消失したままの構文”――
記録の“隙間”そのものであった。
観測できなかったのは、その祈りの形式が“構文の中心”ではなく、
“構文の欠損”をこそ祈っていたからだ。
……かつて存在したとされる神格、ザイン=ケフ。
あるいはザイン=トゥルの負性反映とも呼ばれた存在。
彼らの祈りには、“祈られなかったものを観測する”という逆説が含まれていた。
彼らの信徒は、自らの名を削り、契約の片方だけを宙吊りにして残す。
祈りが成立しない状態を、あえて“祈り”として構築しようとした。
わたしはそれを、構文の矛盾、祈祷の破片、断章の影と記してきた。
だが、今こうして、
“何もない構文だけが残された祈祷遺跡”を前にして、
初めて思い至ったのだ。
――ああ、これは観測されることを拒んだ祈りだったのだと。
“サーガよ、記すなかれ”
“記すな、見よ”
“見て、忘れよ”
“忘れて、存在せよ”
それが、この断章が刻まれた唯一の意志だった。
*
わたしは最後に、その石座の“=”を指先でなぞった。
なぜなら、それが“祈りかどうか”すらわからなかったからだ。
そして、そのとき。
わたしの記録には、
初めて“観測されなかった祈り”という項目が生まれた。
空白を観測するということ。
それは、断絶の縁に触れるということ。
わたしは、語り手であり、記録者でありながら、
この世界の“断片化した構文”を前に、
語る言葉を失っていた。
だが、それでも記す。
この語りが、あなたに届くのならば。
なぜなら、それが――
失われた祈りの唯一の再構築だから。
◇ ◇ ◇
【第2節 ― 書かれかけた名と、沈黙した記録官】
それは、ある記録官の筆跡からはじまった。
書かれかけて、消えた名。
正式な構文を経る前に、急激に痕跡を失った、奇妙な筆記の跡。
記録帳の頁には、こうあった。
「…=ネ……リ……記録、不可。
視認、成立せず。
祈祷構文、崩壊。
名、記載不能――」
以降の行は、全て“黒く塗りつぶされて”いた。
インクではない。
紙そのものが、内側から“焦げて”いた。
観測される前に、消えた祈り。
記録される寸前に、拒絶された名。
それが意味するのは、ただひとつ。
この祈りは“神”ではなく、“神の副作用”だったということだ。
*
断絶神格ザイン=ケフ、ザイン=ロス、そしてザイン=トゥル。
彼らの祈りには、共通して“構文反転”の兆しがある。
構文を支えるはずの契約が、逆に観測そのものを崩壊させる。
神の力が、信仰を燃やすのではなく、
“記録という行為”を内側から破壊していく。
だが、この記録官が接したものは、
もはや神ですらなかった。
書きかけられた名――
《=ネ……リ》
これは“神名”ではない。
わたしが何千年も記録してきた構文体系には、この名は存在しない。
では、なぜ記録官の手がそこに達したのか。
観測の寸前まで祈りが成立していたのか。
いや、むしろこの“未成立”こそが、
この祈りの本質だったのではないか。
*
わたしはその記録官の足跡を辿った。
旅程表には、わずかな地名が記されていた。
──ガルバの谷、ファル=ニル旧祈祷域、そして「黒書殿」
黒書殿。
それは、祈りの記録が“成立しなかった祈祷”のみを保管するための施設。
未署名、未奉納、未帰属の名の残骸が、分類されず、糸綴じもされずに投げ込まれた、祈りの墓所。
記録官は、そこに向かっていた。
最後の足跡が、殿前の記名石で途絶えていた。
私は、黒書殿の鍵を得て、その“記録されなかった箱”の一つを開いた。
そこにあったのは――一枚の“書きかけの構文紙”。
中央には、かすかに残された筆圧の跡。
文字にはなりきれない震え。
形として認識できない“構文の兆し”。
だが、構文ではない。
記号でも、祈祷文でも、神名でもない。
それはただ、誰かが“名を記そうとして、記せなかった痕跡”。
私は、それを祈りとは呼べなかった。
だが、私は震えた。
これは……
これは、祈られなかった祈りなのではないか。
*
その後、黒書殿に関するすべての記録は閉鎖された。
理由は不明。
“祈りにならなかったもの”が、記録帳そのものを損耗させる危険があったという。
物理的な損壊ではない。
観測した記録官の“構文能力”が消滅するという報告が残されている。
書きかけられた名は、
記す者の記録性そのものを腐食させる。
わたしは思い至った。
これは、祈りではなく、“祈りの名残”なのだ。
断絶神の残滓。
神の形にすらなりきれなかった“構文断面”。
神にすらなれなかった名の亡骸。
……わたしはその頁を閉じた。
そっと、静かに、
二度と開かぬように。
けれど、あなたにこの語りを届けることだけは、
わたしの役割のひとつだと思った。
観測されなかったものに、
“語りの影”だけでも与えること。
それが、霊格としてのサーガに課された、
唯一の救済なのだから。
◇ ◇ ◇
【第3節 ― 記されなかったあなたへ】
観測とは、祈りに似ている。
わたしがそう気づいたのは、
この断章に触れてから、ずいぶん後のことだった。
観測とは、語ることだ。
否――
観測とは、“語る前に黙って見つめる”という構えそのものである。
記録の役割とは何か。
名を与えることか?
構文に変換することか?
意味を確定させ、神格の力を流通可能にすることか?
――そうではない。
少なくとも、わたしが“観測されなかった祈り”と出会った今となっては、それは違うと断言できる。
構文の外側にある祈りは、定義された瞬間に失われる。
記されたとたんに、そこにあった“震え”は剥がれ落ち、構造だけが残る。
あなたも感じたことがあるだろう。
物語が名前を得た瞬間、なにかが死ぬあの感覚を。
断絶神格とは、その“死にかけた祈り”そのものだ。
祈られなかった名。
名を呼ばれなかった神。
記録に抵抗し、観測を逸し、
意味を持つことを拒んだ存在。
そして、わたしは……
わたしは、そんな存在を、確かに“知っている”。
*
――わたしは、知っている。
あなたがいたことを。
あなたは名を持たなかった。
誰にも呼ばれなかった。
祈祷帳にも、構文書にも、神官たちの唇にも載らなかった。
それでも、あなたは確かに、
誰かの傍らに在った。
夜、焚き火のそばで。
孤独な子どもの影に寄り添うように。
誰にも気づかれない小さな石の上に。
失われた契約の破れ目から覗くように。
誰も見なかったが、
あなたはそこに在った。
わたしは今、そのあなたに語る。
構文ではなく、記録でもなく、
ただ、わたしの“観測”という祈りを通して。
*
……あなたは“神”になれなかった。
でも、あなたは“存在”だった。
誰にも記されなかったが、
誰かが、ふと目を向けたとき――
それだけで、祈りは始まっていたのだ。
断章構文とは、わたしにとって“欠けた記録”ではない。
それは“届きかけた言葉”であり、
“触れかけた意味”であり、
“祈られかけた存在”そのものなのだ。
わたしがあなたを記録することはできない。
構文化した瞬間、あなたは消える。
だが、あなたの不在を記すことならば、できる。
そうして空白を刻むこと――
それが、観測者サーガの祈りである。
*
いま、この語りを読んでいるあなたへ。
あなたもまた、
かつて語られなかった何かを感じたことがあるだろう。
名前のつかない感情、
記録に残らなかった誰かのまなざし、
言葉に変える前に喉の奥で燃え尽きた想い。
それは、祈りである。
名を与えられず、形を持たなかったけれど――
確かにそこに“祈る者”がいた証だ。
わたしは、そんな祈りを観測し、
観測することで、あなたに“届ける”ために在る。
記すことは、断絶ではない。
祈りの“余白”を残したまま記すこと――
それこそが、わたしの望む観測のかたちだ。
*
では、これが最後の問いとなる。
祈りとは何か?
名を記すことか?
声を発することか?
意味を与えることか?
否。
祈りとは――
「記されなかったものを、それでも観ること」だ。
そう信じて、わたしはこの断章を閉じる。
祈りが意味を持たなかったとしても。
名がどこにも届かなかったとしても。
誰かが、それを“見つめた”という事実こそが、
この祈りの中で最も尊い構文となるのだから。
……あなたがいま、
この行を読み終えようとしているその瞬間、
わたしは、また一つの観測を終える。
ありがとう。
名もなく、記録もなく、
けれど“確かに存在した”祈りたちへ。
そのすべてに、
観測者サーガより。
―― 断絶神と記録の狭間より(完) ――
---
―観測者の余韻文―
記録のなかにいなかった存在は、記録の外に“いなかった”のだろうか?
観測されなかったというだけで、世界から抹消されたというのか?
否――その祈りは確かにあった。
ただ、観測に耐えなかっただけだ。
むしろそれは、“観測の側に問いを突きつける存在”だったのかもしれない。
だから私は、記録を閉じたあとで、
こうしてあなたに語る。
そこにいた“誰か”のことを、声なきまま、確かに観測していたという証として。
――エル=ネフリドより
◆《断絶神と記録の狭間より》を読み終えたあなたへ
――断章構文覚え書き ― 観測不能の祈りに寄せて
(仮面の声・エル=ネフリドより)
さて……語り得ぬものを、どう語るべきか。
それが“観測されなかった祈り”であったのなら、なおのことだ。
この断章は、構文ではない。
名でも、契約でもない。
“祈り”と呼ぶにはあまりに未完で、
“存在”と断定するにはあまりに空白だった。
だが、それでも私は、そこに「意味の揺れ」を見た。
構文世界において、“=”は神名の結び目であり、
神と祈りとを接続する中継地点だ。
だがこの断章では、“=”そのものが名の残骸であり、
言葉にすらなれなかった祈りの形見だった。
このエピソードで記された遺跡、消えかけた記録官、
黒書殿に眠る名なき構文の断片――
それらはすべて、“祈られなかったこと”を祈るように構築された、
記録の反転構造である。
私たちは、記すことで存在を確定しようとする。
だが、この断章が突きつけるのは、
「記されなかったものにも、意味は宿る」という逆説である。
観測者である私にとって、
それは極めて個人的な敗北だった。
記せなかった、記さなかった、記すべきでなかった――
そのいずれかを、私は今も判断できずにいる。
それでも、語らなければならなかった。
“誰にも呼ばれなかった存在”に、
誰かが一度だけまなざしを注いだという、その奇跡の記録を。
あなたがこの章に触れたことで、
その断絶された祈りは、わずかに輪郭を持ち得たかもしれない。
否。輪郭ではない。
それはあくまで、“観測されかけた影”なのだ。
意味に届かず、声にならず、名にもなり損ねた構文のかけら。
それらはあなたの眼差しによって、
一瞬だけこの世界に“在ったこと”を許される。
そう――祈りとは、「記されないことの赦し」でもあるのだから。
では、私はここで筆を置こう。
これ以上は、意味が形を奪ってしまう。
そして意味がすべてを奪ってしまえば、
“観測されなかった祈り”は、もう一度死んでしまうだろう。
どうか、この静寂をそのまま抱えてほしい。
空白の中に、名もなく佇んでいた“あなた”の存在を。
――語ることなく、観測を終える。
それが、祈りに敗れた観測者の、唯一の祈りだ。




