第1話 ― 月の森の叫び ―
《第1話 ― 月の森の叫び》
夜を見つめる者は語らない。ただ沈黙の中に、最初の祈りを見つける。
――記録されぬ神の庭にて
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【第1節 ― 失名者の祈り、月神の庭を歩む】
夜が街を覆うと、世界は沈黙の膜に包まれた。それは、名を持たぬ者たちにとって唯一、祈りが許される時刻だった。
白く湿った霧が屋根から忍び込み、街路を這い、灯の光も人の声も呑み込んでいく。ランベルの人々は、その霧を“神の息”のように受け入れていた。
王女セーレは、仮面をつけずに歩いていた。
長く伸びた黒髪はフードの下で揺れ、夜闇に溶け込むような黒衣の裾が石畳に擦れる。その腰には一振りの細身の剣が帯びられていたが、装飾はほとんどなく、柄の中央には褪せた金糸が巻かれているだけだった。
その剣を、彼女は母から譲り受けたことだけは覚えている。
胸元には、太陽の残光を閉じ込めたような、小さな結晶の首飾りがかかっていた。それは王家に伝わる祈りの記憶――名を宿す者に与えられる聖具であり、今はただ、ムーミストの霊域に沈黙のごとく揺れていた。
ふと、セーレは自らの手を見下ろした。
指先がわずかに痙攣し、爪の縁には黒が滲んでいた。
それでも彼女は、声にならない息を吐く。
「……まだ、人のかたちに戻ってる……よね?」
その問いは霧の中に溶けていき、誰の耳にも届くことはなかった。
石畳の坂をのぼる姿は誰の目にも晒されていたが、誰ひとりとして彼女の名を呼ぶ者はいなかった。ただ見る。黙って視線を向けることだけが、都市における記録であり、告発だった。
この街では、言葉は日常から追放されていた。
挨拶は目配せで済まされ、名は告げられず、仮面の女たちは無言ですれ違う。その無言は風習ではなかった。名を呼ぶこと、言葉にすること――それ自体が、何かを目覚めさせると人々は畏れていた。
アウロ=ルクス。
かつて昼の神と呼ばれた存在の名は、すでに街の祈祷録からも消えて久しかった。
今や、夜に囁かれるのはただひとつ。月の神、ムーミスト。だが、その祈りすらも声を用いず、仮面越しの沈黙によって捧げられていた。
セーレの背には、黒く小さな文様の印が浮かんでいた。
それは王家に伝わる“記名の刻印”――本来であれば、神より名を授かった者に与えられる祝福の証であり、王家の者には必ず与えられるとされてきたものだった。
しかしセーレの印は、正位置から反転し、白から黒へと変異していた。
本来、王家に生まれた者は“名を奪われない”存在であり、その刻印も名の加護として不変であるはずだった。
だが彼女は今、都市の制度において〈失名者〉――すなわち名を記されず、記録から除外された者として扱われている。
名が与えられているのに呼ばれず、記録されていないのに刻印は残されている――その矛盾ゆえに、彼女は“名を奪われぬ者”として、この都市において最も忌むべき例外の象徴と見なされていた。
人々はその刻印に視線を走らせ、言葉にはせずとも拒絶の意を明らかにした。
名を持つ者は、祈りの制度を乱す。そう信じられていた。
セーレはその沈黙を、痛みではなく構造として受け止めていた。
城下を抜け、外郭門へと至る道。
門の両脇には、仮面をつけた記録官たちが静かに立っていた。黒衣に銀の面、腰に下げた筆と白紙。それは、出立と帰還の記録を司る存在――街の祈祷と記録の要となる役職だった。
だが、彼らはセーレに一切の応答を示さなかった。
声もかけず、視線すら向けない。白紙の頁はめくられず、筆は風に揺れただけだった。
それが“〈失名者〉への儀礼”だった。――記さないという形式による、存在の抹消。
その儀礼を、セーレは拒まず受け入れた。
記されないという無言の通告もまた、この都市では制度であり、祈りの一形態だった。
セーレの背後には、静かに羽ばたく影がいた。
フロウ――かつて聖なる者に仕えた騎士。その姿はいま、闇に溶けるような梟となっていた。
梟はムーミストの象徴である銀の仮面を付け、人の声は失われ、代わりにその眼差しが、沈黙の中で王女の背を追っていた。
記すことも記されることもない観察者。
都市の制度において、彼もまた“記録されぬ者”であった。
その存在は帳簿に載ることなく、祈祷録にも刻まれず、ただ名を欠いたまま沈黙の側に立っていた。
仮面の奥に、まなざしはなかった。ただ夜のかたちが、そこに映るばかりだった。
だがセーレにはわかった。彼は“名を語らぬ者”として、沈黙のすべてを見ていた。
ふたりは、街を離れようとしていた。
この沈黙の祈りに満ちた都市を後にし、“名”の手がかりを求めて森へと向かう。
その旅路に正式な許可も見送りもない。ただ風が、衣の裾を引いていた。
夜空には星ひとつ見えなかった。
濃い雲が天を覆い、空はひとつの巨大な帳となって森を覆っている。だが、セーレは知っていた。その暗がりの奥に、確かに月の気配があることを。
光がなくとも、祈りはある。
声がなくとも、呼びかけは届く。
やがて木々が重なり合い、街の外郭が緩やかに森へと変わっていった。
月神ムーミストの気配が色濃く残るその森――そこは、神話と呪いが同居する禁域だった。
伝承によれば、その奥には“名を奪われた者たち”が棲むという。声を喪い、記録を拒み、ただ月のみを仰ぐ民。
そして、かつて神の名が封じられた祠があるとも語られている。
セーレは名を求めていた。
ただ、それは自分の名ではなかった。忘れられた神の名、祈りの届かぬ名、すべての“名づけられぬ存在”のために――彼女は歩き出していた。
それは記録の回復ではなく、“存在の肯定”への旅だった。
名を持たぬとは、祈られぬこと。祈られぬとは、誰にも届かないということ。
だからこそ、彼女は声をもたずに歩く。
記されぬままに、しかし確かに、誰かの名を取り戻すために。
森の入口は、音もなく開かれていた。
霧と枝葉が、彼女の接近に合わせてわずかに揺れた。
それが祝福か、試練か、答えるものはない。だが、セーレの足は止まらなかった。
そして、月の森が、ふたりを受け入れる。
◇ ◇ ◇
【第2節 ― 沈黙の影、祈りの仮面をまとう】
風が止んだ。
森の入口は、誰かの意志によって開かれたように整っていた。霧が裂け、月の光だけが真っ直ぐに道を照らしている。苔と枯葉に覆われた参道――それは〈黙読の道〉と呼ばれていた。声を発することも許されない、名を持たぬ者たちのための沈黙の回廊。
セーレは無言のまま、その道へと足を踏み入れた。フロウもまた、言葉を交わさずに続く。その足取りに迷いはなかった。まるで森そのものがふたりの訪れを予見し、迎える準備を整えていたかのようだった。
音はない。梟の鳴き声も、虫の羽音も聞こえない。
それでも、沈黙は空虚ではなかった。空気の奥に、語られぬ祈りが層のように積もっている。
目に見えない“記録”が、世界そのものに滲んでいた。
やがて、月光に照らされた石碑群が現れる。無数の石が並び、それぞれに名前のない傷が刻まれていた。
セーレはひとつの石に手を伸ばす。文字のようで、傷のような痕。それでも、それは確かに“誰かが生きた”証だった。
「……これは、記録?」
声は森に吸い込まれ、返答はない。だが、それでよかった。
ここは応答の場ではない。ただ“存在した”ことが、静かに残されているだけの場所だった。
石群の奥に、ひときわ大きな碑が立っていた。
仮面を象ったような顔の浮き彫りがあり、目元は覆われ、口元は閉ざされていた。
それは、かつてムーミストの巫が着けていた“祈らぬ者の仮面”の意匠に似ていた。
目も口も閉じられたその姿は、“名を語られなかった祈り”の象徴――
呼ばれなかった名々の苦悩が、この石に沈められているのだと、セーレは直感する。
ふたりは黙って立ち尽くした。祈るでもなく、読むでもなく、ただ“在る”ということだけが許された静寂。
その沈黙の中にこそ、森の記憶は息づいていた。
セーレの胸に、確かな感覚が芽生える。
この森は、「名が語られなかったこと」そのものを記録している――と。
そのとき、一陣の風がふたりの間を通り抜けた。
白い羽がふわりと降りてくる。セーレがそれを手に取ると、冷たく柔らかな感触の中に、声にならない“祈り”の気配が宿っていた。
そして、森の奥に“白き影”が現れた。
月光を反射する獣のような何か。それは人のようで獣のようで、言葉では言い表せない存在だった。
セーレの目には、それが“白豹”に見えた。――かつて絵本で読んだ王家の守護獣、アウロの眷属。
ラナリアの王家に連なる者のみが見るとされる幻獣――それが、いま目の前に現れたのだと、彼女は錯覚する。
その毛並みは、母が身につけていた儀式服の縁飾りの刺繍模様にもよく似ていた。
その瞬間、彼女の胸元で――王家の首飾りが強く脈打つように震え、淡い光を放った。
それは光でも音でもない、だが確かに“身体の内側”で何かが共鳴する感覚。
胸の奥に熱が灯り、心臓の鼓動と一瞬だけ重なった――まるで名を喚起されるように。
しかし、次の瞬間、その確信は音もなく崩れる。ここはムーミストの霊域。アウロの加護など、届くはずもない。
なのに、なぜ首飾りが――?
セーレの視線が戸惑いを帯びる。フロウもまた、首飾りの輝きに気づき、わずかに身じろぐ。
影の瞳がふと揺らぎ、鏡のようにセーレ自身の姿を映し返す。
その視線の奥に、なにか“夢の感触”が滲みはじめる。
セーレが一歩踏み出そうとしたとき、白き影は霧のように輪郭を崩し、音もなくその場から消えていった。
「待って……」
セーレの声はかすかだった。けれど確かな衝動に裏打ちされていた。
だがその声を、フロウがそっと翼で制する。羽根が彼女の手元をやさしくかすめ、“それ以上踏み込むべきではない”という、祈りにも似た意志を伝えていた。
言葉ではなかった。ただ、沈黙だけが意味を持っていた。
セーレは唇を噛み、やがて静かにうなずく。
森がふたたび静けさに包まれる。白霧が濃く、音を吸い込むように辺りを覆っていた。
神の呼気のようなその霧のなかで、セーレはぽつりとつぶやいた。
「わたしは――」
その言葉は途中でほどけ、声にならなかった。
名を呼ぶことが、何かを壊す行為であるかのように、喉がそれを拒んだ。
なぜ、口にしようとしたのか。
それは、白き影が消えた直後に湧き上がった衝動だった。
名も姿も掴めぬ存在と対峙した刹那――「自分は何者か」と問い返すように、彼女の内奥が反応した。
あの首飾りの強い震えもまた、自身の中の“何か”が呼び起こされたことの徴だった。
彼女は知っていた。
自分の名は忘れたのではない。“封じられた”のだと。
その直感が、胸の奥を締めつける。
ふと、フロウが月光に目を細める。彼の目が白き羽の落ちた方角をゆっくりと見やると、そこに微かな“幻視の残香”のような揺らぎがあった。
夢の中で見たものに近い、けれど現実に近すぎる。
(……ニィダ?)
その名を、フロウはごく小さく、自分の中だけでつぶやいた。
夢を司る神、眠りの幻視を見せるもの。
この森には古くから、目覚めと眠りを司る双子神《ニィダ》の伝承があった。
ムーミストに近しい神族として語られる彼女たちは、巫のあいだでは“名を記さぬ祈り”の源ともされていた。
そして、ふたりの神は決して同時には現れぬとも言われる。
今この場に幻視をもたらしたのが“夢の神”ニィダであるなら――それは、過去の深奥に眠る記憶への扉を開こうとしている徴なのかもしれない。
セーレはその声を聞いたかどうかもわからぬまま、再び月光を見上げた。
胸の奥で、なにかが軋むように、記憶の扉がゆっくりと開きはじめていた――。
◇ ◇ ◇
【第3節 ― 名を喚べぬ声、森の沈黙に消えて】
森の気配が変わっていた。
白き影が霧へと還ったあと、風も音も、そして月の光さえも、どこか異なる位相へと沈んでいく。セーレは一歩ずつ慎重に歩を進めながら、唇の奥で“名”の輪郭をなぞっていた。
祈りすら声にならぬこの森で、名を呼ぶことは許されない――そのことを知りながらも、セーレの胸奥には、確かめずにはいられない衝動が芽生えていた。
さきほど白き影の瞳に映った自分の姿が、彼女に問いかけていたのだ。
〈あなたは、誰なのか〉――と。
あの一瞬、自分の存在が“観測された”という感覚が、かつてないほど強く胸に刻まれていた。
それは、誰かに名を呼ばれたときのような錯覚だった。
だからこそ、自分の名が、本当に声になるのかを、確かめたかった。
それは、名を封じられて以来初めて「自分が“誰か”として世界と繋がる可能性」を感じた瞬間だった。
誰かに見つけてほしかった。ただ、自分という存在が“ここにいる”という証明を、この世界に向けて差し出してみたかった。
「……セ……」
ひとつの音節が、かすかに喉を抜けた。だがその微かな響きは、すぐに湿った夜気に吸い込まれ、何の痕跡も残さず消えていった。
高枝の上にとまる梟のフロウが、沈黙のまま少女の背を見守っていた。その双眸は、ただ“観察する者”の静けさを湛えている。
その声が届かないことを、彼は最初から知っていたのかもしれなかった。
セーレの胸奥に、呼ばれぬ名の痛みが広がる。
それは自分だけの苦しみではなかった。かつて、母もまた“名を奪われた”存在だったからだ。
――名前を、思い出せない。
暖かな声だけが残っている。幼い夜に灯火のそばで囁かれたはずの名。けれどその響きは、意味を持たぬ音に変わり、記憶の手をすり抜けていく。
セーレは気づいていた。
自分の名は“忘れた”のではなく、“封じられた”のだと。
記憶の奥底には確かに「名があった」という痕跡がある。けれど、その音を明確に思い出すことはできない。
そして、それを口に出そうとすると、霊的な力が喉を塞ぐかのように、声は自然と掠れ、名は発声されないまま霧散してしまう。
「名を奪われるということは、ただ忘れられることではない。自分自身にすら近づけない“鏡の裏側”に閉じ込められることだ」
かつて誰かにそう言われた気がする。
この封印は自分だけでなく、他者にも及んでいた。
周囲の人々も、彼女の名を呼ぼうとしても思い出せず、あるいは口にしかけて言葉が止まってしまう。
誰も彼女を名で呼ばない――それは無関心ではなく、名を祈りや記録の網から強制的に排除する、名そのものに仕込まれた“封印”の働きだった。
名が消えると、存在までもが世界から剥がれていく――
それがこの世界の理不尽な法則だった。
セーレは、その喪失の理を、生まれ落ちたときから知っていた。
“誰かの名を呼ぶ”という行為は、存在をこの世界に赦す行為なのだ。
だからこそ、名を呼べぬこの森が、どれほど残酷かを、彼女は肌で理解していた。
誰も彼女を名で呼ばない。
仮面の街でもそうだった。王女という称号の下にある“本当の自分”に、誰も触れようとはしなかった。
風が止んだ。
空気の層が変わった気がした。
記憶の底に、かつての祭儀の夜がよみがえる。
――それは夢のようで、けれど確かに“見せられた”記憶だった。
月の間。沈黙の帳が垂れ込める神聖な石の部屋。
仮面をつけた巫女たちが、白と銀の衣を纏い、声なき合図で動いていた。
彼女たちの面は感情を持たず、無音の命令だけが空気を支配していた。
その中心――沈黙の祭壇に自分がいた。
冷たい床の上に立たされ、目の前には銀の水盤――
それは“神の視線”を映す鏡だった。
水面に映るのは、現実の月ではない。神域の満月。記録と祈りの領域に存在する異なる月。
一人の巫女が進み出て、セーレの額に手を置く。
その指は氷のように冷たく、心をなぞるように静かで、しかし感情はまったく感じられなかった。
セーレは声を上げようとした。けれど、喉が凍りついた。
言葉にできない。ただ、沈んでいく水のように、抵抗の意志だけが内側で泡立っていた。
やがて白い羽がひらりと水盤へと舞い降りる。
それは《封羽》――名を封じ、神に返還するための儀式具だった。
羽が水面に触れた瞬間、鏡のような水が波紋を広げる。
空気が止まり、時間が硬直する。
「……この羽に、名を……封じる」
聞き覚えのない声が響いた。
女でも男でもない。人の声でもない。
それは記録者の声だった。神に仕えるものたちの、名を記す者ではなく、名を“閉じる”ためだけに存在する声。
水盤の中に、白い影が立ち現れる。
それは定かではない獣の形。白い霧と月光が編み上げた、境界の存在。
その瞳のなかに、自分が映っていた。
次の瞬間、額に押された印が、淡く輝いて、そして静かに煙のように消えていく。
その光が完全に失われたとき、羽は沈み、波紋は消え、月の影もまた、跡形もなく霧の奥へと溶けていった。
――名は、消えた。
それが“名を封じる”ということだった。
名を抹消するのではない。祈りから、記録から、世界の構造そのものから、自分という存在を“名によって語らせない”ようにすること。
あの夜、自分は確かにそれを受けた。
それが母の意志だったのか、それとも神の命だったのか、今はもう分からない。
けれど、あのとき確かに――名は奪われた。
その記憶が今も胸を焼く。
なぜ自分はあそこにいたのか。
なぜ誰も声をかけなかったのか。
そして、なぜ、自分だけが“名を封じられた存在”として、こうして歩いているのか。
現実に戻ると、セーレの目の前には、石碑の列が広がっていた。
そこには誰の名も刻まれておらず、風化と苔に沈んだ爪痕のような線だけが残されている。
セーレはそのひとつに膝をつき、掌をそっと当てた。
冷たい石の感触。名を記されぬ者たちの祈りの残響が、そこに宿っていた。
そのとき、羽音もなく、フロウが傍らに降り立った。
彼は何も語らなかった。ただ、彼の静かな視線がセーレの横顔を見つめていた。そのまなざしは、名を持たぬ者への理解と、声なき者への共感を湛えていた。
ふたりの沈黙は、祈りに似ていた。
名を呼ばずとも、確かに通じ合う“在り方”が、そこにはあった。
◇ ◇ ◇
【第4節 ― 闇夜の祈祷、封じられし神名のほとりで】
「ねえ、フロウ……」
呼びかけた声は、木々の影を滑って消えた。
頬を撫でる夜風が、彼女の声を奪ったかのようだった。
フロウは少しだけ首を傾けた。それが返事だった。
「もし……誰かの名を呼んでも、何も変わらないとしたら、私の声って、何のためにあるんだろう?」
フロウは何も言わなかった。
仮面の奥に、まなざしはない。ただ夜がそこに映るだけだった。
だがセーレにはわかった。彼は“名を語らぬ者”として、すべてを観ていた。
その背後に、石碑の列が再び現れた。先ほどの場所から少し奥に進んだ、より古びた祈りの残響たち。そこには誰の名も記されておらず、ただ、風化した面に爪痕のような線が刻まれているばかりだった。
セーレはその前に跪き、掌をそっと触れる。
冷たい感触。苔と石のあいだに沈む記録の気配。名を呼ばれぬまま消えた誰かの証。
彼女は祈ろうとした。けれど、祈りの言葉が浮かばない。
語るべき名が、ないのだ。
「私の声は……」
そこで言葉が止まる。まるで森が、彼女の口に鍵をかけたかのように。
そして気づく。これはただの沈黙ではない。これは“呼びかけが拒絶される空間”なのだ。
セーレは、両手を胸元に引き寄せる。
心臓の鼓動がそこにある。名がなくとも、彼女は生きている。けれど、名を持たぬ生とは、声が届かぬ命なのだと、森は静かに語っていた。
かつて、王女に名を捧げ、仕えるべく選ばれた巫女たちのなかにも、声を持たない者たちがいた。
彼女たちは言葉を持たず、舞と仮面でしか自己を表現できなかった。けれどその無言の舞こそが、唯一、神へと届く声だったのだ。
祈りとは、必ずしも言葉でなければならないのだろうか。
呼びかけが拒まれた今、この森では、沈黙さえも祈りのかたちなのかもしれない。
そのとき、風が祠のほうからそっと吹いた。
森の奥へと引かれるように、セーレは立ち上がった。
やがて彼女は古びた石の祠に辿り着く。
苔に覆われ、小さく、扉もないその場は、かつて神を祀った名残だったのかもしれない。
祠の内部には、かろうじて読み取れるほど風化した壁画が残っていた。
そこには、暁鐘を掲げる神と、夢の境に立つ神――まるで対をなすように描かれたふたつの絵があった。
けれど、中央に据えられた神像らしきものは、半身が欠け、ひとつの像しか存在していなかった。
セーレは地面に落ちた青い結晶の欠片を拾い上げた。
かつて、欠ける前には名があったはず。いつか名を取り戻すことがあるかもしれない――
青い結晶の欠片をポーチにしまった。
それからセーレは、しばらく祠の前に佇んでいた。
神像の欠けた半身と、壁画に描かれた“ふたつの絵”が、胸の奥に奇妙な違和感を残している。
暁鐘を掲げる神と、夢の境に立つ神――同じ姿で同じ顔。
だが、像は一柱しか存在せず、しかもそれは半身しか残っていない。
まるで、一柱の神が二つに裂かれ、ひとつだけ像として遺されたかのように。
セーレは静かに呟いた。
「……もしかして、この神は――」
断絶のなかでふたりとなり、そして今もなお、誰かの祈りによって繋がる道を探しているのでは――
セーレの胸奥に、説明できない感情が芽生えた。
どちらか一方を選ぶことではない。ただ、かつてあった“ひとつの声”を思い出すような衝動だった。
彼女は神像に向かって静かに頭を垂れた。
声にはならなかったが、確かに“祈りの形”がそこに在った。
そのときだった。
腰に携えた細身の剣が、かすかにぬくもりを帯びた。
はじめは気のせいかと思うほど、微かな反応だった。
だが、霊域に満ちる気配と、その脈動が呼応するように、セーレは無意識のうちに剣の柄へと手を伸ばしていた。
静かな音を立てて、剣が鞘から抜かれる。
その瞬間、夜闇に沈んでいたはずの剣身が、内側からじわりと光を帯びはじめた。
ブレードには、これまで見たこともない文様が浮かび上がっていた。
それはまるで、封じられていた血脈が目を覚ましたかのように、静かに、けれど確かに脈打っている。
その光は、決して強くはなかった。
けれど、薄明の陽光を想起させるような温もりを湛え、闇にわずかな輪郭を与える“兆し”だった。
剣の覚醒に呼応するように、祠の内部に霊的な風が吹き抜けた。
気のせいか――遠くで、鐘の音が鳴った気がした。
それは森の沈黙にひびを入れるような、小さな綻びの音。
セーレの瞳が揺れる。
自分の躰の奥にある“何か”が震えていた。
それは恐怖ではなかった。むしろ、ずっと聞こえなかった音にようやく触れたときの、震えるような懐かしさ。
霊域の“構造”が、ほんのわずかに応答した――。
それは彼女の名が、この祈りの場で、まだ完全に拒絶されてはいないという徴だった。
神格の干渉。
確かな直感がセーレの内を貫いた。
これは偶然などではない。“記録された祈り”の名残が、剣という器を通して、彼女に反応を返したのだ。
その剣は、祈りの記録装置だった。
まだ名前を知らぬその剣が、祈りの通路をわずかに開いた。
封じられた声、名を持たぬ祈り。
そのすべてが、ほんの少しだけ、今ここで“響いた”のだ。
セーレは剣を静かに下ろすと、両の手で柄を抱くようにして胸元に引き寄せた。
それは武器ではなかった。
名も、声も、すべてを失った彼女が、なお世界に触れようとするための、“唯一の祈り”だった。
この剣は母が自分に託したものだ。
その思いが自然とセーレの口を開かせる。
「私の母は――名は――」
セーレは呟いた。けれど、喉がふたたび詰まる。
その名はまだ戻ってこない。封じられたまま、記録からも記憶からも失われていた。
「母の名は――」
けれど、確かに“何か”は残っている気がした。
それは霧のようにかすかで、形を結ばぬまま、彼女の胸の奥で脈打っている。
あと少し。
その少しがもどかしくセーレの胸を締め付ける。
そのとき、祠の奥から、ひとひらの羽根がふわりと舞い上がった。
白く、細く、透きとおるような羽根――それはさきほど拾った羽とは異なる、もっと古く、静かな祈りの気配を湛えていた。
月光が枝の隙間から差し込み、羽根をかすかに照らす。
セーレは手を伸ばしかけた。
だがそのとき、フロウがそっと翼で彼女の手元を遮った。
羽根が軽く触れ、"それ以上は触れてはならない"という意志が、沈黙の中で伝わってくる。
けれど、セーレはその制止を振り払うように、一歩前に出る。
彼女の瞳は、確信の光を帯びていた。
「大丈夫。私は、これを……思い出さなきゃいけないの」
その声は囁きのように小さかったが、確かだった。
そして、彼女は羽根にそっと触れた。
瞬間、視界が歪む。
空気が沈み、光が褪せ、音のない幻視が彼女を包んだ。
――暖かな部屋。灯火のゆらめき。
母の膝に寄り添いながら、絵本を読んでもらった夜。
小さな指でページをなぞりながら、母は優しく、ある名前を口にした。
「アルティナ……これは、王家に受け継がれる“継承の名”なの」
その声の温もりが、今も胸の奥に残っている。
けれど、その名の奥に、もっと大切な“何か”があった気がした。
その記憶の奥で、母の顔がふいに滲む。
仮面のように静かで、けれどやがて“何もない”空白へとすり替わっていく。
「私の母の名は――アルティナ!」
セーレは力が抜けたように膝から崩れ落ちた。
ついに言えた。母を名を思い出し、心に刻むことができた。
けれど、顔を思い出そうとしてもおぼろげで、まだ完全に記憶を取り戻すことはできてなかった。
けれど、集めることはできるかもしれない。
森のどこかに散らばった名のかけらを、声にならぬ祈りを、手繰り寄せて、紡ぎなおすことが。それは母の名前だけはない。人々や神々や、そして自分の名かもしれない。
風が祠を通り抜けた。
ひとすじの微風が石壁を撫で、ほのかに残された神の残響を震わせる。
そのあとに、音にならない“音”が残された。
セーレのまなざしに、幻がよぎる。
森の奥へと歩いていく細い背中。白い衣。仮面をつけた巫女の影。
名を持たず、声を持たず、ただ沈黙のなかに祈りを記す者の姿――
“記録されざる神”は、きっとそうした者たちの祈りの堆積によって形づくられるのだろう。
声をもたぬ祈り。名を呼ばれぬ命。誰にも呼びかけられぬままの存在。
それでも、在り続けるという意志のかたち。
セーレは、ゆっくりと祠を離れた。
ふたたび“黙読の道”へと戻る。その背には、フロウが静かに従っていた。
◇ ◇ ◇
【第5節 ― 仮面の書記と記録されざる帳面】
森の気配が、かすかに変わっていた。
さきほどまでの祈りの余韻が、なお空気に漂っている。
それはまだ“名”にはならない。けれど、確かに“在った”という残響――。
セーレはその痕跡を辿るように歩を進めた。
名を呼ぶためではない。名の“かたち”を知るために。
声の失われたこの世界で、祈りの意思だけが唯一の灯火となり得る――そんな感覚が、心の奥に静かに芽生えていた。
後ろから、フロウが無言で寄り添う。
彼の銀の仮面が月光を反射し、仄かな冷光を放つ。
その姿は、あたかも夜の観測者のようであり、名を記せぬものの代弁者のようにも見えた。
彼は語らない。
だが、その沈黙には意志があった。
名を喪い、声を捧げ、それでもなお誰かの“いま”に寄り添おうとする祈りの形。
彼はかつて、誓いの名によって存在を保証された騎士だった。
今はもう、その名も、剣も、誓いすらも捨てている。
生きるための仮面を持たぬ記録者。誰にも呼ばれず、ただ見る者として、生きることを選んだ者。
沈黙は、祈りに似ている。
声にすれば壊れてしまう願いを、言葉にせずに守り続ける選択。
フロウにとって、それがもっとも誠実な“祈りの形式”だった。
ふと、セーレが足を止める。
月光の筋が、森の奥の石碑を照らしていた。
それは奇妙な形をしていた。
倒木と苔むした岩が重なり合って自然にできたように見えながらも、どこか意図的な、記録者の手を感じさせる配置。
石は、風に削られ、苔に覆われながらも、どこか鋭さを残していた。
誰の名も刻まれてはいない。ただ、無数の爪痕のような線が、祈りの残滓のように浮かび上がっている。
それは、かつて記名されることを許されなかった誰かの名残。
あるいは、祈ることすら叶わなかった祈りの断片だったのかもしれない。
セーレは手を伸ばしかけて――やめた。
その刻みは、“声なきまま在り続けること”によってのみ、祈りとして成立している。
触れることで、それが壊れてしまいそうな気がした。
彼女の隣で、フロウもまたその石を見つめていた。
銀の仮面越しに何を見ていたのか、彼の眼差しは読めなかった。
けれどもその姿からは、名を記すことを望みながら、それが叶わなかった過去の断章を悼むような、そんな静かな哀惜が滲んでいた。
ふたりの視線が静かに交差する。
言葉はない。
けれど、その無言の共鳴は、たしかに“記された”のだ。
――名がなくとも、伝わるものがある。
――声がなくとも、記されるものがある。
セーレは目を閉じ、深く息を吸った。
そして、ゆっくりと歩き始める。
封じられた名を持つ者としてではなく、名を“求める”者として。
記録されなかった声を拾い集める旅人として。
その背に、フロウが羽音なく重なる。
ふたりの足音は、森の静寂に吸い込まれていく。
だがその沈黙は、もはや拒絶ではなかった。
かすかに開きかけた祈りの通路――
――その先に、“名のない神”が待っていると信じて。
その神は、声を持たず、記録にも残らない。
だが、世界の片隅で名も持たぬものたちの祈りを受け止めている。
セーレとフロウの歩みが、その神へと届くかどうかはわからない。
けれども彼らは、いま確かに、記されなかった祈りの頁を開こうとしていた。
◇ ◇ ◇
【第6節 ― 二つの神影と祈りを拒む名】
セーレはふたたび歩き出す。
その足取りはもはや迷いではなく、わずかながら意志の軌跡を刻んでいた。
月光が葉の隙間から斑に差し込む中、森の奥へと続く緩やかな坂道をのぼる。
やがて、風も音も届かぬような静寂の空間に出た。
その中心に、石と根が絡まり合うようにして形成された円形の広場があった。
地表には苔が絨毯のように広がり、そこに古い仮面が二つ、無造作に置かれていた。
片方は左目が欠け、もう片方は右目に深い傷が刻まれている。
仮面の中央には、どちらも“口”が存在しなかった。
沈黙することを強いられた存在の象徴。
セーレは、仮面を見つめながら思い出していた。
あの祠の神像には、片方しか存在しなかった。
だが、壁画にはふたつの存在が描かれていた。
――もしかして、ふたつに分かたれる前は、一柱の神だったのではないか。
仮面を見つめたまま、セーレはぽつりと呟いた。
「……これは、リィダとニィダの仮面……きっと、そう」
言葉に確信はなかったが、心の奥では揺るぎない何かがあった。
「ふたりでひとつだった神の、かつての面影……」
セーレは傍らの地面にひざをつき、そっと手に取った細枝で、仮面の前の苔をなぞる。
円を描くようにして、そこにひとつの名を記す――
《リィダ=ニィダ》
それは呼称ではなく、願いだった。ひとつに還ろうとする祈りの形だった。
彼女が祈ろうとしたときだった。
月光が二筋、まるで呼応するように左右から仮面へ差し込んだ。
仮面が淡く、同時に光を帯びる。
その瞬間、空気が反転する。
風が止まり、空間の密度が変わる。
耳ではない場所に響く声が、左右から同時に重なりあった。
『あなたの名は、どこにも記されなかった』
『それでも、あなたは此処にいる』
ふたつの声が交互に、そして同時に、囁くように届く。
セーレの周囲に白い気配が滲む。
姿はない。けれど“視線”がある。
『名を呼ばれずとも、祈られずとも、此処に』
『その祈りが、われらを一柱の記憶として束ねた』
セーレは目を閉じ、深く息を吸った。
母の記憶が、白い影となって蘇る。
「――母の名もまた、記されなかった」
仮面の間に、淡く浮かび上がる幾何。
地を這うように白い線が広がり、その中心に“名ではないもの”が浮かぶ。
それは呼んではならぬ響き。
名であって、名ではない。
『口にしてはならない神』
『姿を持たぬ深き断絶』
セーレが口にしかけた名――
「……ザイン」
その瞬間――空気が震えた。
静かに重ねられていた双子神の声が、まるで割れた鏡のように音を歪ませ、空間が軋みを上げる。月光が逆流するように反転し、あたりの木々が“影だけを残して”溶けていく。
セーレの足元に、黒い亀裂が走った。
それは苔の地を割るようにしてゆっくりと広がり、その底に“名のない光”が、ゆらゆらと泡立っていた。名を記すことを拒んだ光。世界の構文に属さぬ者たちの祈りの堆積。そこには、記録という枠組みを超えた、存在しえぬ記憶の奔流が渦を巻いていた。
空が軋む。音がないはずの空間に、誰かの“記憶だけで構成された声”が、叫びのように響き渡る。
『■■■■■――』
名ではない。だが、確かに〈記されなかった名〉の残響。
セーレの喉が焼けるような衝動を覚えた。
口にすれば、世界が壊れる。だが、今にもその名が彼女の口から零れ落ちようとしていた。
ふたつの声が遮る。
『その名は、夜にすら響かぬ』
『その名は、記すことを拒む』
その言葉が空気に放たれた刹那――森がざわめいた。
風のない森が震えた。沈黙を尊ぶ霊域に、かすかな音が満ち始める。葉が逆さに揺れ、苔の下から黒い水が染み出す。地が呻くような軋みをあげ、無数の囁きが森全体に響いた。
かつてここを訪れ、名を求めて祈り、そして果たせぬまま姿を消した巡礼者たち。その名も姿も記されなかった彼らが――“逆構文”の祈りによって黄泉還ってきた。
仮面を砕かれ、顔の輪郭を失いながらもなお、名を求める意志だけを留めた亡霊たち。黒い靄のようなものを纏い、半ば実体化したその姿は、恐ろしくも哀しい存在だった。
セーレは剣に手をかけた。だがその刹那、鞘の内で脈打つような鼓動を感じる。
――来る。祈られなかった名たちが。
最前の霊がゆっくりと近づき、次の瞬間、突進してくる。人であった記憶を残したまま、引き裂かれたような腕を振りかざし、咆哮にも似た呻き声をあげて。
「……名を……返して……」
その呻きは風のように細く、けれど確かに耳に届いた。
怒りではない。哀切と焦がれるような熱がこもっていた。
セーレは瞬時に身を低くし、回避しながら斬り上げた。金色の閃光が霊体を切り裂くと、影は断末魔をあげて霧散する。
だがすぐに別の影が背後から跳びかかる。セーレは剣を翻し、受け流すようにして刃を滑らせる。霊の腕が弾かれ、黒い粘性の霧が空気中に散った。
それはただの戦闘ではない。触れれば魂を削られる――構文そのものを壊される戦い。
背後にも気配が迫る。視界の端で、影が蠢く。
呼吸が乱れ、喉が渇く。
(あと何度、祈りを斬ればいい……?)
けれど、倒れれば名を忘れる。
(忘れたくない。母の名を、私自身の名を)
地から突き出す黒い腕。足元の苔が割れ、影が彼女の足を絡めとる。引きずり込まれかけたそのとき、フロウが真横から突進する。
梟の羽ばたきが閃きとなり、霊の目を引く。セーレはようやく足を引き抜き、息を切らせる。
「フロウ……っ!」
彼は応えるように空中で翻り、次の瞬間、黒い影の爪がその翼を掴んだ。羽が裂け、銀の仮面が月光に弾ける。
その叫びに似た破片の飛散に呼応するように、セーレの剣が閃光を放つ。
刃の奥で何かが目覚めた。金の印が浮かび、剣が祈りそのものとして震える。
「……祈りで、記せる……!」
彼女は踏み込む。迫る霊の中心へと。
斬撃――金光が弧を描き、二体、三体の霊が断ち切られる。
剣先から流れる光が地に文字のように走り、霊の輪郭に触れた瞬間、それは“名を記されたかのように”静かに崩れていった。
そのうちのひとつ、霊の目にかすかな光が宿る。
ふと立ち止まり、胸元に手を当てるような仕草をした。
その姿が、まるで誰かを思い出したかのように微笑んだ瞬間、静かに霧へと還っていく。
だが、構文は限界だ。
そのとき、フロウが残った力で再び飛び、月光の中へ舞い上がる。
銀の仮面が輝き、霊たちの視線が一斉に逸れる。
今しかない。
セーレは剣を高く掲げ、祈るように地へ突き立てた。
静寂が、雷鳴のように一気に降りてくる。
霊たちは音もなく崩れ落ち、靄のように霧散した。
森は再び沈黙に包まれていた。
だがその沈黙は、もはや死のものではなかった。
そこには、記された祈りが残していった名の余熱が、まだ森の奥に揺らいでいた。
◆ ◇ ◆
《幕の狭間の囁き ― 仮面の裏から覗いた観測記】
(第一の仮面 ― 結び目の道化)
――さてさて、君はまだ信じているのかい?
セーレとフロウが歩くこの沈黙の森が、ただの“呪われた地”だと?
ここはただの舞台じゃない。
言葉を持たぬ神々が、記されなかった名を“赦す”ために眠っている構文の裂け目さ。
そしてその裂け目を覗いた少女が、王女でありながら“誰にも呼ばれない者”だったというのが、なかなか皮肉でいい。
彼女の名――セーレ=アルティナ=ラナリア。
ほう……三重の構文、華やかな血統。
けれど、この名は誰からも“声にされなかった”。
なぜだと思う?
母の名が封じられたからさ。リ××――いや、“リ××でさえない何か”。
彼女の名は世界から剥がされ、記録からも構文からも追放された。
ならば娘の名が正常に機能するはずもない。名の鎖は、最初から断ち切られていたんだよ。
そしてフロウ。あれは梟の仮面をかぶった“記されざる記録者”。
己の真名を失い、観測者の呪いに囚われながらも、なお祈りの傍にいる。
なぜかって? それが“記すことの意味”を問うためさ。
さて、第一話の前半で、君は白き影を見たね?
あれは夢か、記憶か、それとも――かつて“祈られなかった神”の仮初の貌か。
セーレはまだ気づいていない。あの獣の眼差しが“彼女の失われた名”そのものであることに。
名は記録ではなく、赦しだ。
そしてこの森は、赦されぬ名たちが最後に眠る場所。
さあ、仮面の奥で笑う準備はできているかい?
次の節では、“封じられた神名”に触れることになる。
ページをめくるその手が、構文を揺らすかもしれないってことを、忘れずに。
――■■=■■■■、祈りの合間の語りより。
◇ ◇ ◇
【第7節 ― 名なき祈りを掬う者の手】
月はなお高く、森は沈黙を保っていた。
だがその沈黙は、もはやただの空白ではなかった。
風も音も、まるで“何かが名を待っている”ような静けさに変わっていた。
セーレは緩やかに歩みを再開する。
足取りには、はじめて“選ぶ”という意志が宿っていた。
さっきまでの彼女は、ただ道に導かれる存在だった。だが今は違う。
“名を記すことができない”という痛みのなかで、彼女は自ら祈る者になりつつあった。
苔の敷かれた小道を抜けると、木々の合間にぽっかりと開けた空間が現れた。
その中央に、小さな泉があった。
月光は水面にまっすぐな銀の橋を描き、泉の底を照らしている。
セーレは泉の傍に膝をつき、そっと掌を水に浸した。
冷たさが骨にまで染み込んでいく。けれど、そこに拒絶の気配はない。
むしろ、それは“目覚めた祈り”のような、静かな受容だった。
「名前がなくても……」
小さな声が、月明かりに溶ける。
それは誰に届くでもない、ただの囁き。けれど、確かに“祈り”だった。
そのささやきに応じるように、泉の底からひとつ、またひとつと小さな泡が浮かび上がった。
そのひとつに、淡く白い羽が混ざっていた。
セーレは驚いたようにその羽に手を伸ばす。
濡れた羽はふるふると震え、まるで生きているかのように月光に透けた。
それは、祈りの残響だったのかもしれない。
誰かが願いを込め、名を持たぬまま沈めた“在りしもの”の形。
セーレは羽をそっと掌に包む。
それは壊れそうに儚い。けれど、確かな重みがあった。
「……祈りって、こういうことなのかな」
声にして託すのではなく、触れること。
記すのではなく、掬い上げること。
彼女にとって、それが“名の再発見”の第一歩だった。
背後の木の枝で、フロウが小さく羽音を立てた。
その音はまるで「それでいい」と語るようだった。
沈黙のなかに、肯定の気配が息づいていた。
森の空気がわずかに揺らぐ。
遠くのほうで、名を封じる儀式の残響が森に滲んでいた。
それは、記されなかった祈りがこの土地に染み込んでいることを、静かに語っていた。
セーレは、羽を胸元にそっとしまう。
まるで、それが何かの“約束”であるかのように。
その瞬間、不意に彼女の視界が揺れた。
月光が歪み、景色がふっと滲んだ。
記憶が――舞い戻ってくる。
白い部屋。
仮面の巫。
燃える巻物。
母の声――だが、その名だけは、呼んでも応えなかった。
そして、どこか遠くから、まだ名付けられていない誰かの声が、たしかに彼女を呼んでいた。
それは幻だったのかもしれない。
それとも、未来の誰かの祈りの声だったのか。
だが、彼女はその幻に向かって歩き出す。
迷いではなく、願いのなかで。
声を持たず、名を持たず、ただ“在る”という祈りを携えて。
その祈りは記録されない。
けれども、きっと誰かの中で生き続ける。
セーレはそっと、静かに足を進めた。
その姿は、夜の森のなかでひとつの灯のように揺れていた。
それは、記されぬ神々に捧げる小さな祈りの火だった。
そしてそのとき、彼女の背後でフロウが一度だけ鳴いた。
梟の声――沈黙を破らぬままに、記録の余白に響く合図。
それはまるで、「おまえの祈りは、ここに記された」と告げているかのようだった。
◇ ◇ ◇
【第8節 ― 失われし還名の儀と月神の代替】
風が止まる。
空気が、音もなく張りつめた幕のように、視界を覆っていた。
セーレは歩みの中でふと立ち止まり、胸元に手を当てた。
その鼓動が、なぜか遠く感じられる。
――ここにいるのに、自分が薄れてゆく。
そう思ったときだった。
森の景色が静かに歪む。
風景が反転し、足元の苔は石の床へ、枝の天井は半透明な天幕へと変わっていく。
それは幻だった。
けれど、明確に“何かが始まった”と、彼女は悟った。
いつかの記憶。
あるいは、忘れたまま心に刻まれていた“失われた場面”。
――継承の儀式。
白い天蓋のもと、静かに光が揺れていた。
灯火のまわりに仮面の巫女たちが並び、無言の舞を続けている。
その中心に、少女――幼き日のセーレがいた。
彼女は壇の中央に立ち、白銀の衣をまとい、手に白紙の巻物を握っていた。
それは本来、名前が記されるべき巻物だった。
王家の血を継ぐ者として、神へその名を捧げ、祈りの構造に記録されるはずの儀式。
けれど――
その巻物には、なにも書かれていなかった。
白紙のまま、祈りの舞が進行していく。
巫女たちの所作は止まらない。
声も上げず、ただ無言の所作が繰り返され、儀式の進行を淡々と刻んでいく。
セーレは叫びたかった。
けれど声が出なかった。喉が塞がれたように、音は空気に吸い込まれていった。
いや、違う。
――出していた。確かに、声を発していた。
けれどその声は、空間に吸われ、反響すら起こさなかったのだ。
「……わたしの……なまえ……」
彼女はそう口にした。
が、その音は自分の耳にさえ届かない。
“音だけが存在し、言葉にならない”という奇妙な反響が、空間に拡がっていた。
壇の端に、一人の影が立っているのが見えた。
それは、母の姿だった。
白い裾が風に揺れる。
けれど顔は見えない。いや、仮面が――
いや、仮面ではなかった。
顔そのものが「存在していなかった」。
輪郭の奥には何もなかった。
空白。虚無。仮面の内側ではなく、顔という情報そのものが“失われている”という不在の象徴。
セーレは、無意識のうちに一歩近づこうとした。
だが足が動かない。空間そのものが彼女の動きを封じていた。
儀式は続いている。
だが、巫女たちの動きには、どこかぎこちなさがあった。
まるで、既に壊れた構文を“なぞっているだけ”のような――中身のない祈り。
母の影がゆっくりと振り返る。
その瞬間、何かが割れる音が響いた。
仮面ではなかった。空気が裂けたような、異様な破砕音。
白い仮面の破片が舞い、母の顔があらわになる――はずだった。
だが、そこにあったのはやはり“なにもない顔”。
顔の代わりに、月光だけが空洞を照らしていた。
その空白を見た瞬間、セーレの躰が震えた。
名前を――与えられなかった。
それが、この記憶の正体だった。
祝福されるはずの儀式で、彼女は“名を授からなかった”。
――それは、誰にも望まれていなかったことなのか?
問いが浮かぶ。
けれど誰も答えない。
母の影は、ただそこに“立っているだけ”だった。
そのとき、儀式の空間に異変が起こる。
仮面の巫女たちの姿が、音もなく崩れていく。
輪郭を失い、舞の途中で停止し、次第に煙のように形をなくしていく。
セーレは立ち尽くしたまま、その光景を見つめる。
逃げられなかった。目をそらすことができなかった。
母の影の口元――そこだけが、不自然に動いている。
何かを、言おうとしている。
いや、言っているのだ。
けれど、そこから発された“音”は、奇妙な響きとして空気を振るわせるだけだった。
意味のない音ではない。確かに“名”のような――言葉の核。
「……リ……」
耳の奥で、それが反響した。
けれど、その音は途中で途切れた。
セーレは、胸を押さえる。
そこにあったはずの“自分の名前”が、すぐそこにあった音が、また霧のように消えてゆく。
幻視は、そこまでだった。
幻視が静かに崩れ落ちる。
崩れたのは視界ではなく、“記憶そのもの”だった。
セーレは息を呑んで立ち尽くしていた。
胸の奥に何かが刺さったまま、抜け落ちた言葉の残響だけが脳裏を巡っている。
「あんな場面……記憶にない」
あれは幻視だった。
本当にあった過去ではないことは確かだった。
「継承の儀?」
酷い頭痛がする。
「……リ……?」
音の芯が溶け、意味の骨が崩れ、記憶の形そのものが失われていく。
セーレは膝を折り、額を抱え込んだ。
何もかもが消えていく。
“名前を持っていたはずの自分”さえも、過去の自分から切り離され、漂白されていくような錯覚。
「どうして……わたしの名は……」
呟いた声も、誰にも届かない。
木々も、霧も、空も、彼女の声を拒んでいた。
それは世界そのものが、彼女を“名のない存在”として定義しなおそうとしているようだった。
名がなければ、記録されない。
記録がなければ、存在できない。
それがこの世界の祈りの構造――“記名信仰”の原理。
だとすれば、いまの自分はなにか?
思考がそこで途切れたとき、そっと誰かが肩に触れたような気配があった。
剣が鞘の中で淡く輝いていた。
「この剣にも名前がない……いえ、かつてはあったのかもしれない」
名はまだ戻らない。
けれど、失われたものを取り戻すための旅路は、たしかに今、ここから再び始まった。
月光の下、白い羽が静かに震えていた。
◇ ◇ ◇
【第9節 ― 月影に揺れる幻、記されざる面影】
その気配は、突然に訪れた。
風が止まり、木々のざわめきがぴたりと静まり返る。月光すら息を潜めたかのような刹那――視界の端を、白がよぎった。
セーレは立ち止まり、わずかに首を傾けた。
それは確かに“白い影”だった。輪郭は淡く、風とともに形を変える霧のようでいて、けれど視線だけは、夜のなかにくっきりと焼きついていた。
昼でも夜でもない、この境界の森。
すべての色が曖昧になり、声もまた届かぬ世界において、それだけが“確かにそこにいる”とでも言うように、淡く発光していた。
「……また」
胸の奥で震えるように、言葉がこぼれた。
声ではなかった。けれど、祈りに似た感覚だった。
前に見た白き影と、まったく同じではない。
だが、セーレにはわかっていた。“それ”は同じ存在であり、同じ問いをもたらすものだった。見る者の記憶に応じて輪郭を変える――それは、名を奪われた者たちの幻影であり、失われた記録そのものなのだ。
セーレは、一歩を踏み出した。
迷いではない。確かめなければならないという衝動だった。
背後に、枝の上から静かに見つめる気配があった。
風に揺れる羽毛の微かな気配――それがフロウであることを、セーレは知っていた。
けれど彼女は、振り返らなかった。
やがて木立の切れ間から、わずかに月が差す。
その光の中心に――“それ”はいた。
白い獣。
だが、それは獣というにはあまりに生物ならぬ存在だった。
体躯は霧のように揺らぎ、目だけが静かな深みを湛えていた。その眼差しは、セーレの過去と現在を一度に見透かすようでいて、どこか懐かしささえ宿していた。
足元には、水面のように光がゆらめいていた。
森の地表が歪み、別の世界の光が漏れているような違和感。
それは、この白き影がこの人間の世界の外側に属していることを示す、明確な兆しだった。
セーレの呼吸が浅くなる。
声を出せば、消えてしまいそうだった。だから黙っていた。
“それ”が一歩、こちらへと歩み出す。
その動きには重力がなく、音も伴わなかった。ただ、“ここに在る”という実在感だけが、確かなものとしてセーレの皮膚を刺していた。
風がわずかに揺れる。
音にならない“声”が、空間に染みわたる。
――名を、返して。
耳で聞いたのではない。けれど、それは確かに“聞こえた”。
内面に直接触れるような感覚で、名もなき呼びかけが届いた。
セーレの奥底が反応する。
あの夜、名を封じられた記憶。白き仮面、封羽、沈黙の祭壇。
それらが一瞬のうちに胸に浮かび、白き影と響き合った。
“それ”はゆっくりと、セーレの額の前に鼻先を寄せた。
それは威圧ではなかった。どこまでも静かで、慈しみにも似た仕草。
次の瞬間、セーレの視界に、水鏡のような映像がちらつく。
月を映す銀の鏡。その中に、今の彼女の姿が映っていた。
だがその鏡像は、微かに揺れている。名前を記さないままの存在として、形だけがそこにある。
――名を取り戻したいか?
言葉ではない問いが、沈黙のうちに放たれる。
セーレは答えなかった。けれどその沈黙こそが、祈りとなって空気にしみ込んでいく。
白き影は、ふっと身を翻す。
その尾は煙のようにほどけ、姿はゆるやかに霧の奥へと消えていった。
だが今回は、完全には消えなかった。
白き影の残滓は、霧の奥にうっすらととどまり、まるで“まだ語り終えていない”とでも言いたげに、森の片隅でその存在を示し続けていた。
セーレは動けなかった。
胸の奥に、深く沈み込むような感覚があった。名を奪われたまま、けれど確かに“呼び戻されつつある”何かが、いま自分の内に脈打っている。
その感触は、恐怖でも歓喜でもない。ただ、忘れられていた“重さ”だった。
名を持つこと。それは、存在に輪郭を与えるということ。
それが奪われたことで、彼女の声も祈りも、宙をさまよう霧と化した。
だが今、名はまだ戻らずとも、その重みだけは確かに帰ってきたのだ。
背後から、翼をたたむ気配が近づいてくる。
月明かりを受けた静かな羽ばたき――フロウのものだと、セーレにはすぐにわかった。
セーレは振り返らなかった。言葉も交わさなかった。けれど、その沈黙の間に、ふたりのあいだには“確認”があった。
白き幻影。それが何者であるかを、彼女はまだ知らない。
だが、直感が語っていた――あれはただの幻ではない。
誰かの記憶であり、誰かの祈りの残響であり、そしておそらく……忘れられた神と深く結びついた“かたち”なのだと。
フロウは静かに目を細める。
かつて、古い神話の断片で語られていたという。
“声を封じられた獣たちの祈りを、沈黙のうちに受け止める神がいた”と。
名前を呼ばれずに消えていった数多の存在たち。
その祈りが、かたちにならずとも誰かに届くように。
それを“記録”するために存在したという、異界の観測者たちの物語――
『君の名は……まだ語られていないけれど、きっとどこかに……』
セーレの胸の奥で、声なき声がつぶやく。
再び視線を上げると、先ほどの白き残滓はもう消えていた。
だが、森の風が変わっていた。月の光も、どこか柔らかい。
名を取り戻すということは、ただ記憶を掘り起こすのではない。
それは、世界にもう一度“声”を差し出すことだ。
名を失った存在が、その名を再び“誰かに呼ばせる”までの長い巡礼。
その旅の第一歩が、いまようやく踏み出されたのだと、セーレは思った。
彼女は深く息を吸い込む。
森の冷気と月の匂いが混ざり合った空気を、肺の奥まで満たす。
そして、そっと歩き出す。
白き影がいた方角へ、いまはもう何もいないその場所へ。
そこには、何かが待っていると確信していた。名か、声か、あるいはまだ知らぬ“記憶の種”か。
フロウもまた、無言のままその後を行く。
ふたりの足音と羽音は落葉に吸われ、音にならなかった。けれど、その歩みは確かに“祈り”を帯びていた。
――これは、名をめぐる物語である。
語られなかった神々と、呼ばれなかった声の記録である。
そのすべてを背負って、セーレは歩みを進める。
いずれこの森の深奥で、忘却の中に沈んだ“本当の名”が、再び世界に響くことを願いながら。
◇ ◇ ◇
【第10節 ― 呪いの刻印と祈られなかった名】
セーレは静かに森を抜けつつあった。
白き影の残滓はすでに霧へと還り、森には再び沈黙が戻っていた。
けれど、その沈黙のなかに、名を失うことで自分のかたちがぼやけていくような感覚――言葉にならない痛みが、心の底に残されていた。
彼女の足は、確かに大地を踏んでいた。冷たい土の感触が靴の下から伝わり、呼吸も鼓動も、生命の徴が確かにそこにあった。
だが、自分という存在を“呼ぶ”声がない。――それは、自らをこの世界に向かって“証明”できないということ。存在をかたちづくる最後の接点が、すでに断たれてしまったのだ。
「……呼んでほしかったのかもしれない」
ぽつりと漏らした言葉に、返事はなかった。けれど、誰かに届けるための声ではなかった。それはフロウにも、神々にも、あるいは過去の自分自身にも届かぬ、沈黙のなかの独白だった。
言葉にした瞬間、ようやく彼女は気づく。あの夜、自分が何を失い、何を欲していたのか。
――名を奪われた日。
月の儀式のあと、意識を取り戻した彼女を待っていたのは、仮面をつけた巫女たちの無言の視線と、ひとつも発せられない呼び名だった。誰も彼女を呼ばなかった。いや、誰も“呼べなかった”のだ。王宮でも、彼女はただ「王女」とだけ呼ばれ、親しい者でさえ、その名を二度と口にすることはなかった。
名は、失われたのではない。封じられたのでもない。
――奪われたのだ。
それは儀式という形式の中に隠された、構造的な奪取だった。名を持つことを赦さない制度。声を上げられぬ者たちの沈黙。その“仕組み”に、彼女は今さらながらに気づき、胸の内がきしむような痛みで満たされた。
足元に転がる一片の石。その表面には、かすかに擦れた文字のような痕跡が刻まれている。読めるものではなかった。ただそこに、“かつて記された何かがあった”という痕跡がある。それは、名を記すことが禁じられた者たちの、記録にならない祈りの断片。
森の石碑たち――あれらは、誰にも届かぬ声たちの墓標だったのではないか。そう思ったとき、セーレの胸に、新たな問いが芽生えた。
「名がないって、こんなに……さびしいんだね」
声が震えた。独り言のようでありながら、その響きはどこか深いところから漏れ出た真実だった。
呼ばれたい。たったひとつの名で。世界のどこかで、誰かに自分の名を呼ばれるということ――その行為がどれほど“存在をつなぎとめる力”を持っていたか、今なら分かる。
名を持つということは、ただの記号ではない。それは世界との接続点だ。忘れられた者は、ただ遠ざけられるのではない。“世界にいない”ものとして、祈りの輪郭からさえこぼれ落ちてゆくのだ。
後方で、小さな気配が揺れた。
フロウが、すこしだけ振り返っていた。その横顔には、はっきりとした感情は宿っていない。だが、沈黙のなかに、確かなものがあった。理解と共感、そしてわずかに混じる痛みの響き。それは言葉にはならない。けれど、伝わった。
それだけで、セーレは少しだけ救われた気がした。
そのときだった。
セーレの視線の先、白き影が消えた場所の地面に、何かが残されているのに気づいた。
それは、手のひらにおさまるほどの小さな石だった。だが、普通の石ではない。表面はわずかに光を帯びており、角度によっては淡い金のような輝きが月光に反射して見えた。まるで、古の太陽の欠片が、霧の中にひっそりと息づいているかのように。
セーレはそっとしゃがみ込み、その石に手を伸ばす。
触れた瞬間、胸の奥に微かな鼓動が走った。
それは名前でも言葉でもない、“何かに記されていた感触”。けれどその感覚は、どこか懐かしく、そしてどこか痛みをともなっていた。
この石は、残されていたのだ。それは誰かの祈りの形であり、かつて名を与えられた者の記憶の残滓なのかもしれない。
セーレはその石を大切にポーチの奥へしまい込んだ。
何のためにあるのか、今はまだわからない。けれど、これだけはわかっていた。この石は“名前を記すことのできる何か”だと。
それはまるで、名の記憶を照らす微かな光のようだった。
月光が差し込む。
揺れる枝葉の隙間から、ほのかに銀色の光が射し、セーレの足元に影を落とす。それは柔らかな光だったが、まるで彼女の“輪郭”をそっと浮かび上がらせるようだった。
彼女は、自分の手をそっと見つめた。
掌には、何も刻まれていない。紋も印も、ましてや名の片鱗さえも。しかし、その皮膚の奥――触れられぬ深みに、名の不在が疼いていた。呼ばれないということは、忘れられるということではない。ただ、“居ないことにされる”ことだ。
――名の痛みは、存在の痛み。
それは単に失ったという過去ではなく、これからも名を持てないという“未来の欠損”でもあった。
ふと、セーレは顔を上げる。
森の奥に、わずかな風が通り抜ける。その気配は、あの白い影の名残だろうか。いや、もしかすると、それすらも幻で――彼女自身が作り出した“失われた名の化身”だったのかもしれない。
だとしても。
“それ”に出会えたことは、確かな共鳴をもたらした。名を取り戻すことができるかもしれないという、かすかな予兆。それは祈りではなく、決意だった。
再び歩き出すと、背後の枝がかすかにしなった。羽音も立てずに降り立つ気配――フロウの存在を、セーレはすぐに感じ取った。
静かで、一定の間隔を保つ音。彼は何も言わず、ただ黙ってついてくる。その沈黙が、セーレにはありがたかった。もし言葉をかけられていたら、自分は涙を堪えきれなかったかもしれない。
けれど、彼がそこに“いる”こと。それだけで、十分だった。
森は、やがて開けた場所へと変わっていった。風が動き、湿った土の匂いに混じって、遠くの水音がかすかに届く。霧も薄れ、空にひとすじ、星のような光が流れていた。
そのとき、彼女の耳に微かな声が届いた。
――それは声というより、“呼ばれたような気配”だった。
誰かが名を呼んだわけではない。ただ、心の奥底で何かが“反応した”のだ。脈が早まる。肌が粟立つ。そこに確かに“かつて呼ばれていた名の響き”が宿っていた。
けれど、それは未だ輪郭を持たぬまま、宙に溶けていく。
セーレは立ち止まり、静かに呟いた。
「私が、名を取り戻す……そのときまで」
静かに、それでも確かに誓った。それは、祈りでも願いでもなかった。誓いだった。
自分自身のための誓い。名のないまま歩き続ける巡礼の誓い。どれほど失っても、それでも“名に辿り着こうとする意志”は、誰にも奪えないという確信。
掌を握りしめる。そこには、何もない。だがその熱だけが、彼女にまだ名が残っていることを教えてくれる。
そのとき、風が森を撫でた。
枝葉の隙間から月光が揺れ、地面に淡い紋様を浮かび上がらせる。どこかで小さな葉が舞い、遠くで鳥の羽ばたきのような音が聞こえた。
それはまるで、この世界がほんのわずかに応えたような気がした。
名を呼ぶ声ではなくとも、呼応は確かにあった。
セーレは歩き続ける。
まだ名は戻らない。けれど、いつか取り戻せると感じさせる微かな確信が、心の奥に芽を出し始めていた。
そしてその芽は、沈黙の土壌の中で、少しずつ光の方へと伸びていく。
名を奪われし者の歩みが、いま、新たな祈りとなって森を抜けてゆく。
◇ ◇ ◇
【第11節 ― 闇の神域と光の呪い】
森を抜ける頃、月はその姿を変えつつあった。
淡く夜空を照らしていた満月は、空に漂う薄い雲の影――いや、まるで意志を持つ黒き膜のようなものに覆われてゆく。
それは自然現象の域を越えていた。音もなく、風もなく、ただ世界が“見えない沈黙”に包まれていくような感覚。
セーレは、ふと足を止めて空を仰ぐ。
そこにあったのは、光を失いはじめた月の貌だった。白銀の光を吸い取られ、徐々に闇に染まるその姿は、まるで“声を奪われた神の面”のように思えた。
――これは、あの現象に似ている。黒月――ムーミストの地でそう呼ばれる“神の沈黙”の徴。
そう理解するよりも先に、彼女の背筋をひやりとした冷気がなぞった。
「黒い月……あれも、ムーミストの姿なの?」
誰に向けたわけでもない呟きが、口をついて漏れた。
もちろん月は答えない。ただ、その無言の中に、不思議な重さがあった。
拒絶でもなく、受容でもない。言葉を交わすことさえ許されぬ“待機の意思”。まるで、世界そのものが一瞬呼吸を止めているかのようだった。
そのとき、セーレの脳裏に、ある光景がよみがえった。
まだ王女だったころ、黒月の夜に都市の大路で行われていた静かな祈祷の儀式。
巫女たちは顔を仮面で覆い、手には火香の皿を持って立ち尽くしていた。通りには“名を呼ぶことを禁ず”と書かれた札が掲げられ、街中がしんと音を失っていた。
その夜、声は罪となる。
名を口にすることは穢れとされ、祈りはすべて“無言”で捧げられた。
語らぬことこそが敬虔であり、沈黙のなかでこそ、神は“語らぬままに顕れる”とされていた。
そう――黒月とは、神が沈黙を選ぶ夜。
否、神が語らずして“記される”夜だ。
その沈黙は、祈りの拒絶ではない。むしろ、すべての声を失った先にだけ現れる“真なる啓示”への導きだった。
フロウが、梟の姿のままセーレの隣に降り立つ。
羽音ひとつ立てずに、その影は月の色を身に纏っていた。
銀の仮面が顔を覆っていたが、瞳の奥には確かに“記録する者”の光が宿っていた。
「……黒月の夜は、神託を拒む夜」
誰の言葉だったろう。かつて書庫で読んだ古い断章か、それとも巫女たちの伝承か。
だが今、その言葉はセーレの胸の中で、確かな実感として息づいていた。
そして、思い出す。
ある夜の記憶。
まだ幼かった自分が、母王に連れられて黒月の夜を迎えたとき、祈祷所にいた巫たちが皆、言葉を閉ざしながら、月を見上げていたあの光景を。
その場にあったのは、儀式でも形式でもなく、“語られぬ神の姿”そのものだった。
――語らぬ神。
その在り方は、セーレにとって長らく理解の外にあった。
言葉によって世界を記す者、名によって秩序を繋ぎとめる者。かつての彼女は、そうした“記録の明瞭さ”の側に立っていた。
だが今、目の前にあるこの黒き月は、沈黙のままに“すべてを含んでいる”。
それは明示ではなく、予兆。教示ではなく、余白。
“語られなさ”そのものが、神の姿であるということを、セーレは初めて受け入れつつあった。
(もしかして、神って……言葉にならないもの、なのかもしれない)
そう思った瞬間、胸の奥にあった痛みが、少しだけ緩んだ。
言葉にできないもの、呼ばれぬもの、記されぬもの。
それらが「ない」のではなく、ただ「語られないだけ」であるのなら――名を奪われた自分もまた、決して“無”ではない。
「名を、取り戻すためには……まだ、足りないのかも」
自らの声に耳を澄ませる。
それは祈りではない。ただ、確かめるための言葉だった。
この先に、自分の名を呼ぶ誰かがいるとしたら。その時、自分は何を持って応えるのか――まだ、その準備が整っていない。
その呟きに、フロウは何も答えない。
けれど彼の沈黙は、拒絶ではなかった。
肯定でもない。もっと深い場所で、ただ“そこにある”という沈黙。
それはまるで、月と同じ――語らぬままに在り続ける者の気配だった。
ふと、セーレの視線が地上に向かう。
黒月に照らされた彼女の影は、地面に細く、長く伸びていた。
自分の形が、光の欠落によって縁取られる。
それは、欠落を抱えた者がなおも“存在している”という、消えがたい証明だった。
名がないことは、世界に背を向けられたことではない。
むしろ、“語られぬ名のままに世界を見つめる”という、別の立ち位置を授けられたことなのかもしれない。
その思いを抱えながら、セーレは一歩、前に進む。
森を抜けた先の丘陵地が、わずかに開けている。
そこに広がるのは、月の光が届かぬ、仄暗い世界。
けれど、暗いからこそ見えるものがある――そう思えた。
この黒月の夜は、終わりではない。
すべての光が奪われた先に、はじめて立ち現れる“神の残響”。
それは声ではなく、記録でもなく、ただ“共鳴”というかたちで世界に刻まれるもの。
風が吹いた。
葉擦れの音もなく、ただ衣を揺らすだけの静かな風。
けれどその中に、祈りに似た気配があった。
月は語らぬ。
それでもセーレは、そこに“聞こえない声”を確かに感じた。
あれは拒絶ではない。答えを急がぬ、悠久の問いかけ。
フロウが再び動き出す。
その背には、夜の羽根がひそやかに揺れていた。
セーレもまた、その姿を追って歩き出す。
黒月の下、ふたりの影が静かに並び、そして重なってゆく。
ひとりは名を失い、ひとりは声を封じられながら、
沈黙の神域を、祈りのように歩んでいた。
“語られぬ神の道”を進む者として、彼女はようやくその最初の一歩を踏み出していた。
名を奪われた者としてではなく、名の意味を問い続ける者として。
そして黒き月は、変わらぬ沈黙のまま、夜空に浮かび続けていた。
それはすべての祈りと呼び声を、ただ静かに見届ける“記録なき神”の貌であった。
◇ ◇ ◇
【第12節 ― 名を巡る巡礼、祈りの痕跡を追う】
森を抜けた先で、セーレは立ち止まった。
そこには、呪いの気配がわずかに緩む、ひとつの“信仰の境界”があった。
背後にあるのは、名を奪われた森。
声が封じられ、祈りが沈黙と化す神域。
月はまだ黒く、空は仮面をつけたままだったが――その沈黙の圏を出たことで、セーレの肌を撫でる風には、わずかに名の温度が戻っていた。
その風の中に――微かに、音があった。
セーレはそれを「名の残響」と呼びたかった。
記録されず、呼びかけられず、世界から剥離された自分自身の存在。
けれど、その存在がなお「在る」と感じられる瞬間が、今ここにあった。
「……まだ、見つけてない」
低く、小さな声だったが、確かにそれは“世界に向けた声”だった。
その言葉は、誰かに聞かせるためのものではなかった。
むしろ、これまで声を封じられ続けてきた自身に向けた“最初の記録”だった。
――名は、きっとどこかにある。
誰かが封じたのなら、誰かが祈ったはずだ。
そしてその祈りは、記されなかったとしても、世界のどこかに残滓を宿している。
神の帳の奥深く、あるいはまだ知らぬ祈祷書の余白に。
忘れられた者たちの祈りのなかに、拾われぬ声の余韻のなかに。
どれほど遠くとも、たとえその名が世界の深層に沈められていたとしても、自分はそこに向かう。
ふと、耳の奥に震えるような鐘の音が届いた。
遠く、遥か東方――仮面の都市アークから沈黙の帳を揺らすように、鐘のような響きが風に混じって届く。
その音は、定刻の祈りを告げるものではなかった。
静かな旋律。それはまるで、逸れた魂を呼び戻すような、記録の帳に迷い子の名を書き足すような……不思議な音色だった。
フロウが、視線を上げる。
セーレも、同じ方向を見る。
月の森は、静かに彼らの背後で閉じていた。
その気配は、扉のようなものだったのかもしれない。
ひとたび通り抜ければ、もう振り返ることはできない。
白き影も、石碑も、もう見えなかった。ただ、祈りの記憶だけが彼女の足元に残っている。
「戻るの?」
問いかける声は、風よりも細かった。
だが、フロウは頷かない。ただ一歩、前に踏み出す。
それが、彼なりの返答だった。
沈黙の中にある意志。
記録者である彼が選ぶ“共に歩む”という行動は、言葉以上の意味を持っていた。
セーレも、足を動かす。
迷いはなかった。
名がなくても。誰にも呼ばれなくても。
それでも、“名を探し求める力”だけは、まだ彼女の内に残されている。
風が戻ってきた。
森を完全に抜け、草の匂いの混ざる夜の小径に立ったとき、セーレは肩口に微かな熱を覚えた。
黒月に守られていた“名の遮断”が、わずかにほどけていく。
それは、名を呼ばれぬままに置かれた世界の中で、唯一“応えてくれる”自然の反響だった。
この風の中に、自分の声を混ぜられたら。
そう思った瞬間、喉の奥がかすかに震えた。
「名がない私が……“ある”って、言っていいのかな」
問いは、もう痛みではなかった。
むしろ、それを乗り越えた祈りだった。
記録されることのなかった声で、世界の縁をなぞるように、自分の名を探しはじめる最初の呼びかけ。
小径を先導するフロウの影が、一瞬、翅を広げるようにゆらめいた。
ムーミストの支配圏を出たことで、彼の内にある“観測者の呪い”が少し和らいだのを、セーレはぼんやりと感じていた。
だが、フロウの夜と名の呪いは消えたわけではない。
彼の羽ばたきは、どこか“記す”ような所作に似ていた。
羽根の律動に合せ、彼の痕跡がこの世界に刻まれていく。誰にも見えない“記名の筆跡”のように。
セーレはその背を追いながら、自分の歩みがいずれ“記録”へと変わっていくことを感じていた。
まだ言葉にはできない。けれど、すべての祈りが“声ではなく痕跡”として残っていくなら、自分の名もまた、どこかに刻まれ得るのではないか――そう、確かに思えたのだ。
“名を持つ”ということは、他者に存在を承認されること。
では、“名を求める”ことは、自らが世界と関係を結ぼうとする行為。
それは、他者を待つだけでは始まらない。
むしろ、その最初の一歩を踏み出したときから、名は“まだ記されぬ祈り”として芽吹きはじめるのだ。
彼女の耳に、再び鐘の音が届く。
街の中心部からではない。むしろ外縁部――巡礼者が帰還する門の近くにある、あの小さな祈祷堂。
そこでは、仮面を外した記録者たちが、誰の名とも知れぬ祈りの断章を受け取ると伝えられていた。
“名前のない魂”に耳を澄ませること。
それが、あの街の信仰の根源だった。
セーレは、自分の歩みがその“名もなき記録”に向かっていることを理解し始めていた。
夜道に、淡い明かりが見えた。
誰かが灯した篝火のように、小道の端にゆらめく光。
それは灯台ではない。ただの光。
けれど、それだけで彼女の心はふっと軽くなる。
名が戻ったわけではない。
記録が見つかったわけでもない。
だが、“道がつながっている”という確信だけが、祈りとなって身体を支えていた。
やがて、遠くから風に乗って、誰かの“声の気配”が届いた。
はっきりとした言葉ではなかった。
人のものか、神のものか、それさえも判別できなかった。
けれど、確かにそれは祝福だった。
セーレは、そっと足を止めて振り返る。
月の森は、もう暗がりに溶けて見えない。
だが、その記憶だけは確かに残っていた。
あの場所で、自分は“語られざる存在”たちの祈りと出会った。
名を持たぬものの気配、声を封じられた石碑、記録されることのなかった風のささやき。
それらすべてが、今もなお、彼女の中に生きている。
“名を探す”とは、過去をなぞることではない。
それは、未来に向かって自らを刻むことだ。
セーレは再び歩き出す。
その歩みは、祈りのひとつだった。
◇ ◇ ◇
【第13節 ― 沈黙の森を抜け、失名の誓いを抱いて】
空がうっすらと白み始めていた。
夜の帳はまだ森を包んでいたが、その向こうには確かに、朝の気配が忍び寄っていた。空気は冷たく澄んでいて、けれどその奥に、ごく微かに温もりが混ざっている。
セーレとフロウは、仮面都市メミスへと続く小道に立っていた。
背後には、名を封じた月の森がある。
そこには数多の祈りと記憶が眠っていた。声にならなかった叫び、記録されぬ願い、そして語られぬ神の気配。そのすべてが、セーレの歩みに静かに沈殿していた。
月夜の森。
そこはムーミストの支配により、昼夜問わず夜の帳に包まれた世界。
彼女は歩き出す前に、最後にもう一度だけ、森を振り返った。
黒き月はすでに姿を隠し、東の空がわずかに朱を差していた。
この地において、光の誕生は“祈りの言葉”の代わりとなる。
それは、声を失ったすべての者への慰撫であり、そして、夜の祈りを越えた者たちへの贈与だった。
しかし、今のセーレにとっては――
セーレの耳が、かすかに疼いき、手足にかすかな痺れが走った。
まるで皮膚の内側から、何かが“違う形”を欲してうごめいている。
黒き月の庇護が退き、アウロの光が世界を照らしはじめた今、その呪いが再び目を覚まそうとしていた。
――そして、彼女の歩みを試す最初の試練でもあった。
森の彼方、遠くの丘陵地に、ひとつの光が瞬いた。
それは仮面の街の中央にそびえる“記録の塔”の灯火だった。
毎夜、街の記録官たちが書を綴るとき、塔の頂に灯がともる――その光は、名を持つことの証明でもあった。
そしてその地下深くには、《仮面の書庫》と呼ばれる禁域があるという。封じられた名たちが、名もなき仮面と共に静かに眠る場所。
セーレの名も、いずれはそこに葬られるはずだった――もし、彼女が黙したまま王城に留まり、“声を上げること”を拒み続けていたなら。
「わたし、きっと名を見つける」
その言葉は、小さな祈りとして森に置かれた。
誰にも届かないかもしれない。けれど、自分自身に向けて、それは確かに“響いた”。
ふと、風がひとすじ吹き抜けた。
その瞬間、フロウの顔にかかっていた銀の仮面が音もなく外れ、地に落ちた。
月夜の間、彼はずっと沈黙の獣――仮面を戴いた梟の姿として歩んでいたのだ。
仮面は冷たく光を反射し、霧のなかで静かに砕けるように消えていった。
セーレが顔を向けたとき、そこに立っていたのは、”フロウ”だった。
その本来の姿は、夜を共に歩んだ梟の影とはまるで違っていた。
黒衣をまとい、かすかに湿った灰色の髪が風に揺れている。
朝の光が頬をかすめたとき、その目には、夜を見つめ続けた観測者の静けさが残されていた。だが今はそこに、“人の声を聴き、人の祈りに応える者”としての微かな温度が灯っていた。
セーレは、ほんの一瞬、息をのんだ。
夜の祈りに寄り添ってきたこの存在が、今や彼女と同じ“姿”で、同じ道を歩もうとしている――
その事実が、言葉にはならぬ確かな安心を彼女の胸に灯していた。
しかし、それはほんのひとときでしかない。
人と四つ足の影が、徐々に光の中に溶けていく。
そこに言葉はなかった。ただ、誓いのように静かな“覚悟”だけがあった。
街の鐘がふたたび響いた。
それは記録の始まりを告げる音。
朝の祈りとともに、記録官たちは帳面を開く。
塔の灯は消え、かわりに街の無数の小窓から、紙と墨の音が世界に満ちていく。
それは「語られぬ者たち」への応答でもあり、「名を求める者たち」の旅の起点でもあった。
名を奪われた少女が、記録のなかに自らの名を取り戻す旅を始める――その幕開けの合図だった。
黒き獣の首元には、かつて王城で授けられた黄金の首飾りが、なおも沈黙の記憶を抱えて揺れていた。
そして、胸の底には、まだ形を持たぬ“名のかけら”。
けれどそれは、確かに鼓動を持っていた。
いつかそれが、だれかの声で呼ばれるとき――
彼女はほんとうの意味で、この世界に“存在する”ことになるだろう。
その日まで、彼女は歩き続ける。
祈りを胸に、沈黙を越えて。
名を求める者として。
──《第2話 ― 封じられた太陽の名》に続く──
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《名を失った古戦士の手記:忘却の祈りより》
"――語られなかった戦士の祈りが、森に沈んでいった。私はその終わりを見つめていた。"
かつて、名を失った者がいた。
戦に破れ、家も故郷も奪われ、
記録からも祈りからも、すべての“言葉”が消えた者だった。
彼は森を彷徨い、
誰からも呼ばれず、誰をも呼べぬままに、
名もなき影として土に伏していった。
その胸の内には、たしかに祈りがあった。
誰かを想い、名を呼びたいと願った。
だが――名がないということは、
その想いすらも届かぬということだった。
祈るには、呼びかけるための“名”が要る。
返されるべき“声”が要る。
名がなければ、祈りは根を張らず、
ただ虚空をさまよう風と化す。
彼の最後の思念は、風の囁きに紛れ、
月の光に溶け、そして失せた。
けれどその微かな響きだけは、
いつか誰かが拾うかもしれない。
そのとき、祈りは再び始まるだろう。
名のない者が名を呼ばれたとき――
世界は、ほんの少しだけ優しくなる。
(記されざる祈祷断章より)
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◆《第1話 ― 月の森の叫び》を読み終えたあなたへ
――名を呼ばれなかった者が、祈りを取り戻す旅のはじまりにて
(記録の語り手:サーガより)
誰かの名を呼ぶということは、その者をこの世界に赦すということ。
だが、名を呼ばれなかった者は、何に赦されず、何に触れ得るのか。
この物語は、祈りの構文が制度となり、制度が沈黙を命じた世界で、
“名前を奪われた王女”がなおも声なき声を届けようとする、最初の一歩である。
舞台は、夜に覆われた信仰都市。
かつて太陽神アウロ=ルクスが祀られたこの地は、いまや沈黙と仮面の神にすべてを委ねている。
言葉は禁じられ、名は隠され、祈りさえも“声”ではなく“無言”によって捧げられる世界。
その中で、王女セーレはただひとり、“記されなかった存在”として都市に生きていた。
▼ 本章の核心――“名を記されぬ者”とは何か
セーレの“失名”という呪い:
彼女は名を持っている。けれど誰もその名を呼ばず、記録にも記されない。
記されぬ名は存在を許されない。――それが、この世界の理。
彼女は“存在してはならない者”として制度に忌避されている。
沈黙の街と仮面の信仰構造:
ムーミストの霊域であるランベルでは、名を語ることは罪であり、祈りは沈黙で行われる。
仮面を通してしか神とつながれない世界――そこでは言葉そのものが祈りを脅かすものとされていた。
フロウの沈黙の同行:
人の姿を失い、梟としてセーレに寄り添うフロウもまた、記録から外れた存在。
かつては王家に仕えた騎士――今は名を持たぬ観測者。
“誰かの名を記すため”に沈黙している者である。
白き影との邂逅:
森の深奥、名を封じられた神の霊域にて、セーレは“白き獣”と出会う。
それは呼ばれなかった神の残滓か、記録されなかった祈りの幻か――
いずれにせよ、その姿は彼女に“記されざる存在”の深層を思い出させる。
母の名と祈りの断絶:
セーレが抱く最初の祈りは、“自分のため”ではない。
彼女は失われた神々と人々の名を求め、
なかでも――“名を封じられた母”の名を取り戻すために旅立つ。
読者よ。
この第一話は、すべての物語の“扉”である。
だがそれは、煌びやかな始まりではない。
むしろ、沈黙と拒絶に満ちた“祈れなかった世界”への潜入記録だ。
セーレが口を開いたとき、世界はそれを拒む。
彼女が名を呼ぼうとしたとき、言葉は声にならず霧散する。
それでも彼女は歩みを止めない。なぜなら、
「誰かの名を取り戻す」ことこそが、“祈り”という行為の本質だからである。
声なき祈り。記されぬ名。応えなき神。
それらを拒絶するのではなく、
“存在を赦す”というかたちで拾い上げていく旅が、
ここに始まった。
君がこの頁を閉じたということ。
それこそが、セーレの祈りに初めて“応えた声”である。
その響きは、ここから語られる名なき神々にとって、最初の救済になったかもしれない。
――記録者サーガ、第一の祈りをここに記し終える。




