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第7話 ― 境界の村と書かれぬ頁

【幕間 ― 記されぬ頁の余白へ、境界を越える風】


 ザルファトを発って三日。

 ふたりは南西へと続く巡礼路を歩んでいた。

 道は石畳から土に変わり、やがて草をも飲み込むほどの風にさらされた高原地帯へと続いていく。刻まれた道は少ない。地図にも記されぬ“空白の地帯”――それが、ザルファトとリコナを隔てる境界であった。


 正確には“リコナ”という名も地図には記されていない。

 あの都市で、記されぬことこそが信仰であるならば、ここでは“記されぬ地を通る”ことそのものが、巡礼の試練とされているのだ。


 セーレは旅装の上からマントを重ね、草原を吹き抜ける風に目を細めた。

 風はまるで、ザルファトの書庫に残してきた膨大な記録を剥ぎ取るかのようだった。


 この空白地帯では、いずれの神格の権能もおよばず、ふたりの呪いも束の間の休息を得るかのように沈黙していた。


「ねえ、フロウ。ザルファトって、結局――“記録すること”の都市だったのかな」


 問いかけは唐突だったが、フロウは歩を緩めず答える。


「記録を信仰に昇華した都市だった。記すことで神を繋ぎ、名を与えることで存在を定義する。でも……それは“記されたもの以外”を見えなくする方法でもあった」


 セーレは頷いた。

 契約の神殿で、仮面の信仰に塗り込められた名前たちを目にしたときの重さを、今も忘れられない。

 そして――“断絶印”と刻まれた石片に触れたとき、思い知ったのだ。記録は祝福にもなれば、呪いにもなる、と。


 ザルファトは、都市そのものが巨大な書庫だった。

 神の名を記すこと、契約を名に刻むこと、そして記録に従って都市を統べること。

 その秩序は厳格で、美しかった。けれど同時に、そこには“語られなかった神々”の存在を封じ込める、静かな抑圧があった。


 記録官たちの淡々とした筆致。

 評議会の審問に響く、均された声。

 そして何より――都市の書架でセーレが見つめた“空白の地図”。


 そこには、名前を持たない地が広がり、祈りの網にかからぬ領域が“欠落域”として記されていた。  それは、かつてセーレが訪れた霧の浮島ミル=エレノアを思わせる、名に抗う空白の予兆だった。


「記すことがすべてではない。記されぬ祈りにも、在り方がある」


 あの都市を出るとき、セーレはそう思えた。

 そしてフロウもまた、都市で“かつての自分の名”――ファレン=ルクスという名に向き合いはじめた。


「……名って、誰かに触れるための扉だったのかもな」


 フロウが呟いたその言葉は、旅の風にかき消されたけれど、確かにセーレの胸に残っている。


 いま、ふたりの旅は、“記されぬこと”を受け入れる土地へと向かっている。

 リコナ――名を持たず、名を重ね、そして名を拒む者たちが暮らす村。

 そこには、新たな“祈りのかたち”が待っているかもしれない。


 記す旅ではない。記さぬものたちの声を、聴くための旅。

 その静かな決意を胸に、セーレとフロウは境界の風を抜けていった。

《第7話 ― 境界の村と書かれぬ頁》


“記されることを拒んだ者は、忘却されることも拒んだのだ。”


――沈黙神《ノヴァ=アネム》、境界域の祈祷碑より


---


【第1節 ― 記名を拒む村、名なき共同体の構文】


 地図は沈黙していた。

 ザルファトの記名簿にも、聖都アークの巡礼図にも――この村の名は、どこにも記されていなかった。

 それは、誰かが意図して“忘れた”ようにすら思えた。だが、村はあった。セーレとフロウの目の前に、確かに。


 書架都市ザルファトを出たとき、空は白み始めていた。

 雲ひとつない朝の空。けれど、その静けさは、むしろ記録官たちの筆音のように重く耳に残っていた。


 セーレはゆるやかな下り坂を歩いていた。足取りは軽くなったはずなのに、背筋には疲れが染みついていた。

 昨日の夜、最後に石碑の前で祈ったときの手の震えがまだ残っていた。


 ――名を記すとは、どういうことなのか。

 それは祈りなのか。それとも義務か、責務か、あるいは自分を縛る形式なのか。

 あの都市を出ても、答えはまだ見えていなかった。


「……疲れたのか?」


 フロウが歩きながら振り返る。彼の声には、ときおり風のような冷たさがある。けれど今は、それが優しさの裏返しにも思えた。


「ううん、大丈夫。ただ、書庫の空気がまだ抜けきってなくて」


 そう返しながら、セーレはぎこちなく微笑んだ。その口元にはわずかな強ばりが残り、頬の筋肉もこわばっていた。まるで、自分の言葉を信じ切れていないことを、表情が先に暴いてしまったようだった。


 王家の首飾りは歩くたびに細く鈴のような音を立てる。まるで記された名たちが囁いているかのようだった。


 丘の中腹から見下ろすと、ザルファトの石造都市が遠く小さくなっていた。記録と契約の街。その外に出たというのに、なお胸の奥に重さが残る。

 セーレは左手に日記帳を握りしめたが、開くことはなかった。


「名を記した」と言えるのか、自分にはまだわからなかった。


 そのまま黙って歩き続けるうちに、空気は少しずつ柔らかさを帯びてきた。地図にも明記されない、名もない村々をいくつか通り過ぎる。

 そして昼過ぎ、山道の分岐に差しかかったとき、一枚の木板が道の脇に立てかけられていた。


 ――リコナへようこそ。

 ――契約も記録も不要の村。


 その文字は薄れていた。

 けれど不思議と、それが“温かい拒絶”のように感じられた。


 セーレは足を止めた。視線を木板に向けたまま、わずかに眉が揺れた。その表情には、知らず呼び戻された記憶の気配と、言葉にならない胸のざわめきが宿っていた。


「ここに行ってみようか。……何か、感じるの」


 王家の首飾りがうっすらと明滅していた。弱く、けれど確かに鼓動している。


 フロウは短く頷くと、木の道標の先へと歩を進めた。


 山と森の間を縫うように進む細道。舗装もされておらず、苔の匂いと鳥の声だけが満ちている。

 人の気配がないわけではないが、何も主張してこない静けさがあった。

 まるでこの道自体が、声を発することを遠慮しているようだった。


 途中、道端に石碑のようなものが置かれていたが、名も刻まれていなければ、神の印もなかった。

 ただの石のように見えながら、どこか“祈られた”記憶のような温度を持っていた。


 セーレは思わず立ち止まり、その石に手を触れた。

 ひんやりとして、しかし確かに心のどこかを撫でる感触があった。

 それは“記されなかった祈り”の温度だった。


 やがて視界が開けた。

 低く連なる家々と、小さな市場、中央に塔のようなものが見える。だが鐘楼ではない。

 屋根もなく、積み重ねられた灰色の石が柱のように天を指していた。


 塔と呼ぶには形が未完成で、記念碑とも違う。

 けれど、そこには確かに人の手が重ねた“想いの堆積”があった。


「ここが……境界の村?」


 セーレの声に、誰も答えなかった。

 けれど確かに、ここは「名の記されぬ人々」が暮らす場所――

 記録からこぼれ落ちた祈りたちの、小さな避難地だった。


 フロウがそっと呟く。


「“語られることを拒んだ村”……なのかもしれないな。あるいは、“記す言葉を持たなかった者たち”の最後の残響か」


 その言葉にセーレは、背の結晶が微かに震えた気がした。


 目の前の塔の柱。その灰色の石のいくつかに、うっすらと色が違う面があることに気づく。

 よく見ると、かつて何かが刻まれ、のちに削り取られた跡のようにも見えた。

 誰かが何かを記そうとし、誰かがそれを否定した。あるいは――自ら忘れようとしたのかもしれない。


「名を記すことが、すべてじゃない……。ここに来て、初めてそれがわかる気がするわ」


 セーレのつぶやきは風に乗って、村の屋根の間を静かに抜けていった。


 ◇ ◇ ◇


【第2節 ― 書かれざる辺境、祈りの脱構築の地】


 村の境界を越えた瞬間、空気が軋んだ。

 言葉ではなく、肌に触れる感覚が変わる。

 喧騒はあるのに、声が遠い。誰かが囁いているようでいて、どの名も聞こえてこない――そんな村だった。


 雑踏のざわめきも、商人の呼び声も、どこか抑えられたように柔らかかった。だが沈黙ではない。人々は確かに互いに関わり合っていた。

 けれどそこには、名を呼ぶ声がなかった。


「これは……不思議な場所ね」


 セーレがそう呟くと、背後から小さな声が返ってきた。


「ようこそ、旅の方」


 振り返ると、腰の曲がった老婆が立っていた。顔は皺に覆われ、瞳は墨を混ぜたような黒だった。名札もなければ、衣の紋もなかった。

 彼女の背後には、静かに市場を歩く人々の姿が見える。誰もが目を合わせ、頷きあい、笑いあっていた。だが、名前を呼ぶ声は一度も聞こえなかった。


「ここは……リコナ、ですか?」


 老婆はゆっくりと頷いた。

 その動きは、どこか祈りのような穏やかさをまとっていた。


「ここは“名を捨てた者たちの村”。記されず、呼ばれず、それでも祈りは続くのです。……記録されないことでしか、生き残れなかった者もいたのですよ」


 その言葉は、ザルファトの書庫とは対極にあった。

 セーレは反射的に日記帳を握りしめたが、それを開くことはなかった。


「かつて、戦のあと、契約に名を記さなかっただけで奴隷にされかけた者もいました。名は祈りにもなりますが、時に呪いにもなります。記録とは、いつも祝福とは限りません」


 老婆の声は穏やかだった。けれどその声の奥には、墨で書かれぬ深さの痛みが潜んでいるように感じられた。


 セーレは思わず、フロウの方を見た。

 彼は何も言わなかった。ただ、その視線はどこか遠くを見つめていた。過去のどこか、自らの“名”が呪いとして刻まれた記憶を思い起こしているのかもしれなかった。


 老婆は微笑んだ。その目尻には長い歳月の影が宿り、けれどその笑みは、まるで何かを赦すようなやわらかさを帯びていた。


「村の中央に、石の塔があります。あれが“祈りの塔”……名のない祈りを捧げる場所です。あなた方も、迷いがあるのなら、あそこで静かに耳を澄ませてみるとよいでしょう」


 ゆっくりと言葉を置くように語ったその声には、遠く過ぎた記憶の重みと、いまを見守る者の静けさが滲んでいた。


 そう言い残して、老婆は市場の向こうへと静かに背を向けた。その歩みは年老いてなお揺るがず、けれどどこか、風にまぎれて消えてしまいそうな儚さを湛えていた。


 セーレとフロウは顔を見合わせ、無言のまま歩き出した。

 道には名前がなかった。通りの名前も、店の名前も、すべて看板のないままだった。けれど、店主たちは困っている様子もなく、客とのやり取りも途切れない。


「……どうやって成り立ってるのかしら、この村」


 セーレはそう呟いた。言葉を漏らした唇は微かに揺れ、視線は通りの奥にいる名も知らぬ誰かへと向けられていた。名を介さずとも成り立つ関係、その静かなつながりを見つめながら、彼女の胸の奥に、言葉にならぬ戸惑いと畏れが混じり合っていた。


 あらゆるものが、記録から外れている。

 けれど、そこには秩序があり、思いやりがあり、人と人との繋がりが確かにあった。


 ――では、“記すこと”とは何なのか?


 胸の奥に沈殿していた問いが、再び静かに浮かび上がる。


 フロウが口を開いた。視線は祈りの塔の頂ではなく、目の前の風に揺れる布へと向いていた。その表情には、懐かしさとも諦念ともつかない、複雑な陰が浮かんでいた。


「セーレ。この村では……名は“共通言語”じゃないんだな」


「うん……誰もが、それぞれの仕方で“覚えて”いる。記録じゃなくて、記憶のなかに、祈りがあるのかも」


 村の中央、石が積み上げられた塔が見えてきた。


 記録も紋章も持たぬ、ただ積まれただけの石。

 だが、その不揃いな積み重なりが、まるで“語られなかった祈り”の断片を留めているように見えた。


 ふたりは足を止め、静かにそれを見上げた。


 セーレはふと、石のひとつに手を添えた。

 ざらついた表面。だが、どこか暖かい。

 人の祈りが、名のないまま染み込んだようなぬくもり。


 そのとき、フロウが小さく息を吐いた。


「……あの時、名を記したとき、俺は“誰かのもの”になったんだと思った」


 その声は、風のようだった。

 夜に吹き抜ける音のようでいて、痛みの記憶を含んだ重さを持っていた。


 フロウは一度目を伏せ、祈りの塔の足元に束ねられた布を見つめた。

 その眼差しはどこか遠く、過去のある一点に縫い留められているかのようだった。唇をわずかに引き結び、ためらいがちに続けるように、彼は口を開いた。


 そして、ゆっくりと言葉を継いだ。


「存在を証されたことが、誇りじゃなくて、呪いだった」


「この村には……その“証し”すら拒む何かがある。でも、それでも人はここで生きてるのね」


 セーレの返事もまた、静かだった。

 彼女もまた、自らの名が呪いとして呼ばれてきた身だったから。


 塔の足元には、名も記号も持たない布が束ねられていた。

 色も形も不揃い。けれど、その一枚一枚が、祈りのように結ばれていた。


「祈るって……名を呼ぶことだけじゃないんだね」


「……きっと、名を拒むことでしか祈れなかった者たちも、いるのだろうな」


 フロウの言葉に、セーレは小さく頷いた。

 無言のまま、ふたりは塔の前に立ち尽くす。


 そこに、記録はなかった。

 けれど、確かに“残されていた”ものがあった。

 記されず、語られず、けれど失われなかった祈りの、断片。


 塔の陰から風が抜ける。

 布が揺れ、光がわずかに反射した。


 セーレはその風のなかで、結晶の杖を握りしめた。

 ザルファトの書架では反応しなかった“記録されぬ祈り”の結晶が、ここでは確かに震えていた。


 語られぬもののなかに、在る。

 その確信だけが、いまは心を支えていた。


 記されなかったからこそ残ったもの。

 それが祈りであるなら――祈るとは何かという問いもまた、書かずに綴られるものなのかもしれなかった。


 ◇ ◇ ◇


【第3節 ― 石碑の祈り、記録の複層化という儀式】


 石の塔は、積み上げられたというより、寄せられた記憶の塊のように見えた。

 秩序も設計もない。ただ残され、触れられ、そこに在る。


 誰かの手が石を重ねるたび、その重さが言葉の代わりになっていく。

 祈りを口にせず、書き残さず、ただ手のひらで触れ、重ね、形を残す。


「……祈りの塔って、聞いてたけど……」


 セーレは塔の前に立ち尽くしながら、思わず呟いた。

 その声音には、驚きと困惑と、そしてなにより、静かな敬意が混じっていた。


 フロウもまた、黙って塔を見上げていた。


 塔のふもとには、小さな広場があり、木製の箱に収められた無数の石が並べられていた。色も、質感も、刻印もまちまちで――中には、手のひらにすっぽり収まるほどの平たい黒石もある。


 セーレはひとつ、白く細長い小石を手に取った。

 表面にはうっすらと筋のような模様が走り、手の中に温もりを感じた。

 誰かが長く握っていたのかもしれない。


 そのとき、背後から少女の声がした。


「その石には、“笑った記憶”が宿ってるわ」


 振り返ると、十歳ほどの少女が立っていた。髪は肩のあたりで切り揃えられ、素朴な灰色の服を着ている。名を呼ばれることを前提にしていない生活が、その姿から滲み出ていた。


「記憶が……宿ってる?」


「うん。この塔では、石のひとつひとつが誰かの想いを引き継いでるの。言葉じゃなくて、触れた手の中にある“なにか”を、ずっと抱いてる」


 少女はそう言って、塔の中腹に指を差した。


「この高さのところに、前に住んでた“旅の詩うたい”の石があるよ。名前なんて誰も知らないけど、あの人の話は覚えてる。風に似た声だったって」


 フロウが目を細めて見上げた。


「名前がなくても……記憶には残るんだな」


「うん。ここではそうやって祈るの。“名を重ねる”んじゃなく、“記憶を重ねていく”んだよ」


 少女は無邪気に笑ったが、その瞳の奥には、年齢に似合わぬ深い澄明さが宿っていた。


 セーレは黙って、手の中の石をもう一度見つめた。

 “笑った記憶”――その言葉が、胸の奥を不意に締めつける。


 そういえば、いつからだろう。

 自分が心から笑った記憶を、書いたことがあっただろうか。


 書き留めてきたのは、名と契約と祈りの形式ばかりだった。

 でも――あの時の笑顔、夜風にほどけた声、その瞬間を私は、一度でも記しただろうか?


「この塔に石を重ねてもいいの?」


 セーレが尋ねると、少女はこくりと頷いた。


「あなたが“名を呼びたかった誰か”の記憶があるなら、その分だけ石を置けるよ。……でも、名を書いちゃだめ。名前は、ここでは重くなりすぎるから」


 セーレはゆっくりと石を塔の麓に重ねた。

 何も刻まず、何も語らず、ただ掌の温もりをそのまま預けるように。


 風が吹いた。


 石の塔は揺れなかった。だがその形が、わずかに“新しくなった”ように思えた。

 世界の片隅で、誰にも記されない小さな祈りが、今この瞬間、確かに重なったのだと。


 フロウは隣で、それを静かに見守っていた。

 彼の肩にとまった一枚の葉が、微かに震えた。


 広場の片隅には、もうひとつの祈祷の場があった。

 それは、塔とは別に設けられた低い石壇のようなもので、地面に近い位置に円形に整えられていた。


 大小さまざまな石が積まれているのは同じだが、それらのあいだには、短く切られた麻布が折り畳まれるように挟まれていた。

 風が吹くたび、その端がわずかに揺れる。その音は、かすかな囁きのようにも聞こえた。


 セーレはそっとその布に触れた。

 乾いた感触。だが、それは誰かの“声になる前の祈り”を吸い込んだかのように、深い沈黙を宿していた。


「この布も……祈りなの?」


 少女がまた頷いた。


「ねえ、お姉さん。声にならなかった気持ちって、あるでしょ? それを、風のようにしてここに残すの。布にして、石に預けてね。誰にも伝えられなかったものほど、強く残るの」


「言葉になる前……」


 セーレはその言葉を反芻した。

 日記に書き出せなかった想い。

 神の名を記録する一方で、置き去りにしてきた気持ち――


 そのひとつひとつが、この村ではちゃんと“在るもの”として受け止められていた。


 フロウもまた、布のひとつを指先で持ち上げ、そっと落とした。


「……祈るって、名を呼ぶことだと教えられてきた。でも今は逆だと思う。名を呼ばずに手を重ねること、それがほんとうの祈りだったのかもしれないな」


 その呟きは、神殿で過ごしたかつての記憶の奥から零れ出たものだった。


 ――神の名を呼ぶことが、すなわち祈りであるという教義。

 けれどこの村では、その前提ごと、やさしく手放されていた。


 セーレはもう一度、塔と石壇の両方を見比べた。


「名前がなくても、記録がなくても……祈りは残る」


 その言葉に、少女はにっこりと笑って言った。


「“覚えてる”ってことは、“記す”よりも大事なんだよ。ここでは、そう教えられてきたから」


 その言葉の重みに、セーレも、フロウも、ただ静かに頷くしかなかった。


 風がふたたび塔を通り抜ける。

 石たちは語らず、麻布も記されることなく揺れている。

 けれどそのすべてが、言葉にならなかった想いを風のなかに留めていた。

 名を持たぬ祈りの、その確かな形として。


 遠く、鐘の音に似た鳥の声が響いた。


 ◇ ◇ ◇


【第4節 ― 名を持たぬ子と、祈りの観測者】


 石の祈りを終えたあと、セーレは市場の方角へと戻っていった。午後の光は村に斜めから差し込み、路地裏の影をゆるやかに伸ばしていた。


 フロウはひとり、塔の近くの丸石に腰を下ろし、何も言わずに空を見上げていた。風の音が穏やかで、昼の静けさに梟の記憶は遠ざかっていた。


 ふと、風音の途切れにまぎれて、小さな石の転がる音が響いた。視線を向けると、ひとりの少年が、影のようにそこに立っていた。


「君の目には、名前があるの?」


 目の前に立っていたのは、小柄な少年だった。年は八つか九つ。擦り切れた上着の袖を自分で縫ったのだろう、左右の色が微妙に違っている。帽子はやや大きく、耳を隠すように深くかぶられていたが、その下の瞳には、臆せぬ力があった。


 彼は腰の革袋から小石を取り出すと、足元の石畳の隅にしゃがみ、なにかの記号を刻み始めた。文字ではない、模様でもない。だが、どこか言葉未満の“かたち”が、そこには確かにあった。


「……何のことだ?」


 フロウが問い返すと、少年は真っ直ぐにその瞳を見返して言った。


「この村では、目を見ればその人の“色”がわかるんだ。それが“名前のかわり”だって、大人たちは言ってる。でも、君の目は違う。……まるで、誰かに“記されてる”みたいな感じがする」


 フロウは何も返さず、ただ目を伏せた。影が瞳を横切り、風がその沈黙を覆った。


 名を記されたことのある者。それも、自らの意思ではなく、他者の意図によって“名付けられ”、語られ、呪いを刻まれた者。それがフロウ――あるいはファレン・ルクスという名であった。


「……目は、“過去”を映すことがあるんだよ」少年は言った。


「だから、僕は人の目をよく見る。言葉よりも、名前よりも、そこに“ほんとうのもの”があるって、気がするから」


 フロウはゆっくりと目を伏せた。そして、自嘲気味に笑った。


「……お前、ずいぶん哲学的な子どもだな」


「難しいことはわかんないよ。ただ……君の目が“寂しそう”だったから」


 フロウはその言葉に、ふっと息を吐いた。寂しさ――それは言い当てられると余計に重たくなる感情だった。


「ねえ、君には“本当の名前”があるの?」


「あるさ。……でも、誰にも呼ばれない名前だ」


「それって、寂しくない?」


 フロウは目を閉じた。そして静かに言った。


「……呼ばれたとき、痛かったんだ。名前に、罪や記憶が詰まってて……祈りじゃなかった。ただの“刻印”だった」


 少年はしばらく黙っていたが、やがて石の上にちょこんと腰かけた。


「じゃあ……ここで、名前を“忘れて”みたらどう?」


「忘れる?」


「そう。目をつぶって、誰にも呼ばれたことがないみたいにして、風の音だけを聞くの。……それでいいんだよ、ここでは」


 フロウは驚いたように少年を見た。しかしその表情に、強がりや欺瞞はなかった。ただ、“名のない日々”を自然に生きてきた者だけが持つ、素直な信仰がそこにあった。


 静かに、目を閉じる。


 耳に届くのは、葉ずれの音、遠くの小鳥の声、そして、村のどこかで誰かが笑った気配。


 ――名のない時間。記録されない記憶。語られない痛み。


 それでも今、確かに“ここに在る”という感覚。


 フロウは目を開けた。そして、何も言わずに少年に小さく頷いた。


 少年もまた、何も言わずに笑い返した。それは、名を持たぬ者同士が交わす、最も深い祈りのかたちだった。


 ふと、少年はさっき自分で描いた記号の石を拾い、胸のポケットにしまった。まるで、自分という存在の“形見”のように。


 フロウは立ち上がり、少年に別れを告げると、市場へと向かったセーレのあとを追った。ふたりは再び合流し、夕暮れが村を包み込むころに、今宵の宿を探すことにした。


 歩き出す直前、セーレはふと足を止めて振り返った。村の広場には、石と布の祈りが風に揺れていた。名を記されることのないまま、それでも確かにこの世界の一部として息づいていた。


 そして彼女は、ぽつりと呟いた。


「……この地では、誰かを“呼ぶ”という行為そのものが、忌避されているのかもしれない」


 フロウは横目で彼女を見たが、口を挟まず黙って聞いていた。


「祈りも、記録も、呼ぶことに始まる。でも、それすらしない人々がいる。……名を与えず、呼ばず、ただ“在る”ことを受け容れるように」


 彼女の声は、自分自身に言い聞かせるようでもあり、まだ見ぬ誰かに語りかけているようでもあった。


「名前を呼ぶって……その人を“持つ”ことみたい。書くことも、記すことも……どこかで“縛る”ことと似てる気がする」


 フロウは少しだけ目を細めた。所有。すなわち、支配。それは記録官だった頃、祈りの言葉を“支配の形式”として使っていた自分の過去とも無縁ではない。


「記録が、すべて善ではない。……この村に来て、ようやくその意味がわかった気がする」


 セーレの瞳には、ザルファトの書架を去った時にはなかった、柔らかな決意が宿っていた。


 彼女の歩みに続いて、フロウも無言で進み出す。背後には、名もなく、呼ばれぬまま、しかし祈りを宿した村が静かに佇んでいた。


 やがて丘を越え、森の影が濃くなると、道は再び名なき旅路へと還っていく。


 記されぬ祈りは、風に溶けて残っていた。語られぬまま、それでも確かに“ここにあった”ことを、風だけが知っていた。


 ◇ ◇ ◇


【第5節 ― 記名の倫理と祈るという行為の再考】


 夕暮れの風が、静かに街路を撫でていた。

 リコナの外縁部、小高い丘の上に建てられた古びた狩猟小屋――セーレとフロウは今夜、この小屋で一晩を過ごすことにしていた。村の宿ではなく、風の通り抜けるこの静かな場所を、ふたりは自然と選んでいた。


 小屋の裏手には、石垣に囲まれた開けた空き地があり、そこからはリコナの村並みが一望できた。ゆるやかに重なり合う屋根の列、祈りの塔の白い輪郭、そしてその向こうに霞む山影までが、茜色に染まっていく。


 セーレはその広場にひとり腰を下ろしていた。日記帳を膝に乗せたまま、けれどその頁を開くことはできなかった。

 書こうとすると、筆先が紙を拒んだ。まるで言葉が“記されること”そのものを怖がっているかのように。


 ――名を記すことは、本当に“祈り”になり得るのだろうか?


 この村には、名前がない。

 けれど、人々は笑い、共に働き、祈り合っていた。


 記録という秩序がなくても、

 記名という制度がなくても、

 祈りはこうして息づいている。


 むしろ、それらが“ない”ことによって、より深く、より純粋に保たれているようにさえ思えた。


 自分が今までしてきた記録――それは、ただの“刻印”ではなかったか。

 ザルファトで書かれた契約書、名を記す石の帳簿、記名されることで動き出す制度と秩序。


 それらは本当に、祈りだったのか?


 風に煽られて日記帳の頁がめくれる。空白の紙面が、問いかけのように目の前に広がった。


「私が……記してきたのは、誰のためだったんだろう」


 セーレは小さく呟いた。


 神のためだと思っていた。けれどそれは、神に祈っていたのではなく、神の名に縋っていただけだったのかもしれない。

 未来のためと信じていた記録も、その実、過去を縛る鎖でしかなかったのでは――


 ふと、背後から足音が近づいてきた。


「日が暮れるぞ。こんなところで風邪でもひいたらどうする」


 フロウだった。彼の声は変わらず淡々としていたが、どこか柔らかさを帯びていた。

 セーレは視線を日記帳に落としたまま、応えた。


「ねえ、フロウ……。もし、誰にも記されないまま、生きて、祈って、終わっていく人がいたとしたら……その人の祈りは、無駄だったと思う?」


 フロウはすこし黙ってから、静かに目を細めた。夕暮れの空を一瞥し、胸の奥に言葉を探すように、わずかに息を吐く。その横顔には、過去をたぐり寄せるような翳りが宿っていた。


 そして、ゆっくりと口を開いた。


「たとえ誰にも記されなかったとしても、誰かがその人を思い出せば、それだけで祈りは生きてる。言葉にならなくても、誰かの仕草に、声に、背中に――祈りは形を変えて、息をしてる」


 セーレは静かに目を伏せた。フロウの言葉が胸に落ち、心の奥で何かがわずかに軋んだ。視線の先、日記帳の白紙が風に揺れ、まるでまだ書かれていない祈りが、そこに息を潜めているかのように思えた。


「私、書くことで祈りを残せるって、ずっと思ってた。でも今、怖くなってきたの。もしそれが、誰かの願いを“封じる”ことになってたらって」


「……お前は、祈りを封じるような書き方はしてない」


 フロウのその言葉は、まっすぐで、それでいてどこか遠慮がちだった。セーレの胸奥に触れるのを恐れるように、しかし決して逸らすことなく語られたその声音には、彼なりの優しさと覚悟が滲んでいた。ほんのわずかに視線を伏せてから、彼は言葉を継ぐように口を開いた。


「けど、書くってのは、どうしても“選ぶ”ことになる。記すか、記さないか。書く順序、強調するもの、忘れるもの。……だから、完全な祈りには、きっとなれない」


 その言葉は、妙に胸に染みた。

 記すことは、祈りに似ている。けれど祈りではない。

 あるいは、それを祈りに“近づける”行為でしかないのかもしれなかった。


 セーレは日記帳を閉じた。


 風がまた吹いた。

 遠く、石の祈り塔の上に白い布が揺れていた。


「言葉にできない想いがあるなら……私は、それを“書くことの祈り”にしてみたい」


 その声は、風の中でも消えなかった。


 セーレの言葉に、フロウはそっと息をついた。

 そして、傍らの草に目を落としたまま、低く語るように言った。


「……セーレ。お前は記録者であり、祈り手でもある。けどな、この村の人々は……神すら呼ばない」


「……呼ばない?」


「そうだ。名も、神も、記さない。ただ風のなかで布を結ぶ。石を積む。

 誰かを呼ぶこともなく、ただ祈る。その行為が、たしかに“生きている”」


 セーレは静かに目を閉じた。

 リコナの祈り――それは語らず、記さず、ただ手に残る記憶だけで紡がれた祈り。


「フロウ……じゃあ、私たちが祈りを“記す”ことに意味はあるの?」


「意味は、お前がつくるんだ。あの祈りの木に布を結ぶとき……“語り得る存在”であることが、はじめて意味を持つ」


 その言葉に、セーレは肩の力をそっと抜いた。

 語り得る者、記し得る者――その者が、沈黙のなかに手を伸ばすことで、名なき祈りと共鳴することができるのだと。


「……誰にも呼ばれない祈りがあるなら、私はその沈黙に、そっと名前をつけて返したい。誰のものでもない、ただの祈りの“かたち”として」


 ふたりは無言で並び、夕暮れの空を見上げた。

 空は茜に染まり、遠く雲の切れ間から月の仄かな面影がのぞいていた。


 名を呼ばぬ者たちのリコナ

 記されぬ祈りの余韻が、まだセーレの胸に響いていた。


 けれど同時に、遠く――誰にも記されぬまま沈んだ神々の庭の気配が、風の向こうに漂い始めていた。


 ◇ ◇ ◇


【第6節 ― 境界図に残された神なき空白】


 翌朝、リコナの空は曇っていた。


 村を包む白い靄は、前夜に降った霧雨の名残か、それともこの場所の記憶そのものか――。


 谷を覆う空は、言葉を失った紙のように灰色だった。光も線も、境界もすべてが溶け合い、視界に名が失われてゆ

くようだった。朝の光は拡散し、村の姿を靄のなかへと沈めていた。


 村外れの半ば遺跡化した場所にその建物はあった。


 辺りを見渡しながらフロウがつぶやく。


「かつてこの村は、もっと大きな都市だった。その名残だな」


「その通りです」


 答えたのは案内人の巫女だった。


「人々の信仰の変化によって、リコナ市と呼ばれていたこの場所は、今や名も無き村となりました。旧街道には十二神を祀った祠もあったそうですが、ほとんど風化によって跡形もありません」


 このような土地の巫女は総じて灰の巫と呼ばれている。

 名のない神々に仕える巫女たちは、記録にも神名にも属さぬ存在として、祈るためではなく、ただ在るためにここにいる者たち。この巫女もそのひとりだ。


 石階を下りた先、岩肌に埋もれるように建てられた簡素な建物があった。窓のない扉の先には、筆や巻物の類は一切見当たらなかった。壁にはただ、削り出された痕跡のような凹みと、かすかに残る古い刻印。文庫とも書庫ともつかないその空間には、“記録する”という意志の名残だけが、ひっそりと息をひそめていた。


 灰の巫はしばし沈黙を保ったまま、古い刻印の残る壁に視線を落とした。そのまなざしには祈りとも記録とも異なる、時の層を見つめるような深さがあった。やがてその唇がそっと開き、静かな響きが空間を満たした。


「ここは、名を記さぬ神の欠片が眠る場所です。記されなかった歴史の、断片だけが残されております」


 セーレは思わず背中の荷を降ろし、旅の間ずっと携えてきた布地図を取り出した。

 ザルファトから南東へと続く巡礼の道――その先には、いくつもの都市と信仰の地が記名されている。だが地図の一角、山と水系に挟まれた空間にぽっかりと、灰色の余白が広がっていた。そこには線も記号も存在しなかった。


「……ここ。何も書かれていないのは、なぜ?」


 灰の巫は視線を下げたまま、指先でその余白をそっとなぞった。


「祈りというものは、ときに名に閉じ込められてしまうのです。だからこの地は、名を刻まず、ただ風の中に漂わせるように祈るのです。名を記すことは、場所を定義し、領有し、信仰の枠に組み込むことと同じ。だから、あえて記さないままで残す民もいます。名前も境界もないまま、祈るために」


 セーレは地図を見つめた。余白は欠落ではなく、“選択された空白”だった。


「……地図にないってことは、“誰のものでもない”ってこと?」


「そうでもあり、誰のものより深く“自分たちのもの”でもあります。記名すれば、誰かが覇権を主張する。神の名でさえ、記されれば“奪われる”から」


 セーレの指が、地図の端にある都市ザルファトの名をたどった。幾度も契約が積み重ねられた街。すべてが記されることで成り立つ秩序の塔。それと正反対のこの谷――記されることを拒んだ地。どちらの祈りが正しいのか、セーレにはまだ答えが出なかった。


 フロウはかつて、契約によって名を奪われた存在だ。

 記録の手からこぼれた者が、こうして“名なき祈り”の地を訪れることに、何か因果めいたものを感じずにはいられなかった。


 灰の巫は石壁の一角を指差した。

 そこには名も言葉も刻まれていない――ただ、淡く光るような摩耗の跡があるだけだった。


「これは、“記されなかった名の余白”です。誰も言葉にできなかったけれど、確かにそこにあったという、祈りの残像。書き記すのではなく、忘れずに“残しておく”ことが、この地の記録の形式です」


 セーレはその摩耗した痕に手を添えた。

 言葉にはならないが、確かに胸の奥で何かが応えた気がした。

 “記されないこと”は、必ずしも忘却ではない。

 むしろ、名前に縛られないことで、人はもっと深く誰かを想えるのかもしれない。


 彼女は地図を巻き戻しながら、ふと呟いた。


「誰にも触れられなかった地が、そっと残されてる。それだけで、なんだか救われた気がする……」


 灰の巫は微笑んだ。その頬にわずかに寄った皺は、長い時を静かに見守ってきた者の証のようだった。目元にはどこか安堵と慈しみの光が宿り、言葉にせずともセーレの想いに応えるような、温かい沈黙がそこにあった。


「だから、あなたのような巡礼者が来るのです。記されぬ名を携え、記された地の理から外れたものを抱えた者が――ここに」


 祈りの言葉はどこにもなかった。ただ沈黙だけが、語られぬ祈りの匂いを纏い、この場所の“名もなき真名”をそっと守っていた。


 セーレは巻物をしまい、ゆっくりと立ち上がった。

 この先に待つ、“祈られぬ墓所”へ向かうために。


 ◆ ◇ ◆


《幕の狭間の囁き ― 道化神の舞台袖からの嗤い】

(第七の仮面 ― 観測に飽いた道化神)


ああ、よくぞここまで辿り着いてくれたね、親愛なる観測者諸君!

書かれざる名、呼ばれぬ祈り、記録なき頁の残響を踏みしめながら、君は今、“名を捨てた村”リコナの只中に立っている。


さあ、幕の中を覗いてみようか。

舞台装置は慎ましやかだが、その奥にはこの世界の“最奥の構文”が密やかに編まれている――そう、語られぬことこそが祈りとなる劇場さ!


ザルファトで学んだだろう? 名を記せば存在は確定する。だが、その瞬間に“揺らぎ”は奪われる。存在が定義されたが最後、それは神ですら固定化される。


ならば逆に――名を記さなければどうなる?

語られなければ、消える? 否。ここ、リコナの民たちはその“否”を生きている。


石を積み、布を結び、声を言葉にせぬままに想いを伝える。なんと美しい反抗だろう!

彼らは名を記さぬことで、祈りの“純粋形”を維持している。

名がないからこそ、想いがある。

記されないからこそ、記憶は生きる。


セーレが触れた記録なき墓所、語られなかった者たちの布の祈り。

そしてフロウが出会った、名前の代わりに“目の色”を読み取る無名の少年――ふふ、あれは良い演出だったね。


さて、ここでひとつ皮肉な問いを差し上げよう。


――記されることでしか、存在は救えないのか?

――記さなかったことに、意味はないのか?


この村はその両方に静かに微笑みながら、こう囁く――

「語られなかったものたちの祈りも、ちゃんと届いていたよ」と。


セーレよ、フロウよ。

君たちの筆がいま震えるのなら、それは新しい“祈りの記録形式”に目覚めつつある証拠だ。

書くとは、語ることではない。

記すとは、命名することではない。

ただ“そこに在る”と触れ返す、それだけで、充分なのさ。


では、幕間の囁きはここまで。

後半もどうぞご覧あれ――名もなく祈りも記されず、それでも確かに“あったものたち”の物語を!


――仮面の道化、観測者■■=■■■ド、記録の合間より。


 ◇ ◇ ◇


【第7節 ― 名を呼ばれぬ死者と、祈りの不在】


 セーレとフロウは、灰の巫に案内され、さらに村の外れへと向かっていた。


「ここが、“祈られぬ墓所”」


 灰の巫はそう言って、苔むした丘の先を指さした。


 柵も碑もないその場所には、ただ長方形に土がわずかに盛られた跡がいくつも並んでいた。

 だが、名を刻んだ石はどこにもなかった。

 あるのは、花の種を植えた形跡、手のひらほどの木片、拾われた小石。


「……名前も、記録も……ないのね」


 セーレが呟くと、灰の巫は頷いた。その頷きには形だけの同意ではなく、長い時を経て積もった共感のような静けさが宿っていた。まなざしは遠くの盛土へと向けられ、彼女自身の記憶をもなぞるように、わずかに瞼が伏せられた。


「ここに眠ってる人たちは、“名を返せなかった人たち”。仮の名を預かったまま、真名に戻れなかった人たち。あるいは、記されることさえ拒んだ人たち」


 フロウはひとつの盛土の前にしゃがみ込み、手のひらで土を撫でた。

 その手つきは、どこか懐かしいものに触れるようだった。


「何も……記されてないのに、ここが“墓”だってわかるんだな」


「はい。わかります」


 灰の巫は目を細め、あたりに満ちる空気を胸いっぱいに吸い込んだ。微かな吐息とともに、その表情には懐かしさとやさしさが滲んでいた。


「この場所だけ、空気が少し……やわらかく感じませんか?」


 確かに、村中の喧噪や規律の気配はここにはなかった。

 風は緩やかで、土の匂いは深く、鳥の声も遠く響く。

 名を呼ぶことなく、祈る。

 記録することなく、想う。

 それは、リコナの祈りの形式だった。


 セーレはローブの内から、ひとつの封箱を取り出した。

 薄い金属板で包まれたその小箱は、かつてザルファトにて記録官から託されたもの――祈りの断章であり、断絶神の名の欠片が封じられたものだった。


 箱の表面には、ザルファト式の印章が刻まれている。だが、その印は明らかに破られていた。

 ひび割れた封蝋と、修復されないままの刻印――それは記録制度からの逸脱であり、“契約なき名”の象徴でもあった。


「……契約がなされなかった、ってことね」


 セーレが低く呟いた。目の奥には過去の祈りの残響を辿るような光が宿り、指先はそっと封箱の縁をなぞっていた。その仕草は、思い出の輪郭を指先で確かめるようにも見えた。


 それを見つめながら、フロウは静かに頷いた。そして言葉を継ぐ。


「だが中身は生きてる。名はまだ……語られる時を待っている」


 セーレは箱を見つめたまま目を伏せた。

 それはまるで、彼女自身――真名を記されることなく、仮名すら拒まれた旅の巡礼者と重なるように思えた。


 セーレはそっと膝をつき、封箱を土の前に置いた。

 墓標も名もないこの地に、それはひとつの“名の残響”として静かに佇んでいた。


 ポケットから小さな花の種を取り出す。

 ザルファトを離れる直前、記録局の老書記官が「忘れられぬ者のために」と渡してくれたものだった。


「ここに、植えてもいいかしら」


 セーレの問いに、灰の巫はふとまなざしを和らげた。頬の皺がやわらかく深まり、目元に宿った光がどこか懐かしげに揺れた。静かな頷きとともに、彼女は穏やかに微笑む。


「もちろんです。名前ではなく、記憶を残すための“祈り”ですから」


 セーレはそっと土に指を入れ、小さな穴を開けた。

 種をひとつ落とし、土をかぶせる。そして、手のひらで軽く押さえた。

 その指先に、何かが宿った気がした。

 それは書かれた言葉でも、契約でもなく――

 たったひとつの、沈黙の中に置かれた“記憶”だった。


 フロウは黙ってその姿を見ていた。

 風が吹き、土の匂いが舞い上がる。


「……ここに来てよかったね」


 セーレの声は、風に溶けるように優しかった。彼女のまなざしは、植えられたばかりの小さな種の上にそっと注がれていた。そこに芽吹く未来を願うように、穏やかな微笑がその唇に浮かぶ。


 その想いに応えるように、フロウは小さく頷いた。視線の先には墓標なき土が広がり、その静けさがすべての言葉のかわりだった。


「そうだな。名のない祈りが、確かにあるってことがわかったから」


 セーレは目を閉じた。

 胸の奥で、結晶が微かに光るのを感じた。


 ――名がなくても、記されなくても。

 想いがある限り、祈りは世界に“残る”。


 この墓所の静けさが、それを証明している。


 灰の巫がふたりに小さな布袋を差し出した。

 中には、五色の小石が入っていた。


「これは、“記名のかわりの贈りもの”です。名前ではなく、色と手触りで、“思い出せるもの”を残すために」


 セーレは袋を受け取り、その中のひとつ――淡い青の石をそっと手に取った。

 それは、どこか月光に似た優しさを帯びていた。


「ありがとう」


 そう言って、彼女はその石を胸元の革紐に通した。

 書かれた名よりも、今はこの小さな光が、心に近かった。


 フロウもひとつ、墨色の小石を手に取った。

 それは夜のように深く、だがざらついた表面が、どこか記憶の断片のようでもあった。


 彼は封箱を手に取り、静かに呟いた。


「記されなかった名を、もう一度世界に戻すために……俺たちは歩いてるんだな」


 セーレはその言葉に頷いた。


「この箱に眠るものが、ただの断片じゃないと信じたい。誰かが、どこかで、確かに祈っていた“光”の残響。それを……次の地で、もう一度“語り”なおせるように」


 風が、祈りのない墓地を抜けて吹いた。

 その風に、名も記されぬ墓たちは微かに呼応するように、沈黙の中で揺れた。


 ――記されぬ名の地に咲く、小さな祈りの芽。


 その存在は、確かにこの世界のどこかで、名もなく、けれど強く根を張っていた。


 ◇ ◇ ◇


【第8節 ― 綴られなかった記録、声なき文との出会い】


 墓所を後にしたセーレとフロウは、村の中央へと戻ってきた。

 昼を過ぎた市場では、声こそ静かだったが活気は失われておらず、衣や陶器、干した海藻や小麦粉の団子など、多様な品が店先に並んでいた。


 その雑踏の中を抜けた先、リコナの文庫と呼ばれる場所があった。

 “記録されない村”にしては不思議な響きだったが、実際そこは文庫と呼ばれてはいても、書棚や帳面が並んでいるわけではなかった。


 木と石を組み合わせた静かな建物。

 天窓から光が差し込む一室。

 そこには、ただ一冊の本が、中央の台座に開かれて置かれていた。


「……これは?」


 セーレが近づくと、守人と思しき老女が微笑んで頭を下げた。


「“記されぬ頁”です」


「記されぬ……でも、開かれているのに、何も書かれていない」


「ええ。誰も書かなかったのではありません。“記すことができなかった”のです」


 その言葉に、セーレの胸がふいに強く揺れた。

 頁は、真っ白ではなかった。

 墨がしみこんだまま、言葉になり損ねたような線。記されようとして、祈りの重みに潰えた跡。


「……これは、“記されかけて、消された”?」


「そう解釈する方もいます。ですが私たちは、これを“祈りの途中”と呼びます」


 老女はそっとその頁に手を添えた。


「名に触れた瞬間、その祈りは崩れてしまったのかもしれません。だからここに、名も持たないまま、ただ“残った”のです。」


 セーレは日記帳を開いた。

 自分がこれまで書き連ねてきた言葉の数々が、一瞬にして脆く思えた。


 祈りとは、記すことではなかったのか。

 だがこの村では、それすらも“途中”であることを認めていた。


「……私は、神の名を記そうとしています」


 セーレは思わず口にしていた。言葉が先に漏れ、あとからその重みに気づいたように唇を引き結び、目を伏せた。だがそのまま、胸の奥に溜まっていた想いがこぼれ出す。


「誰にも呼ばれなかった、あるいは忘れ去られた神々の名を、書き起こそうとしているんです。でも、それが本当に祈りなのか、最近は自分でもわからなくなって……」


 老女は頷いた。

 そして、記されぬ頁の隣に置かれた黒革の冊子を手に取った。


「あなたに、もう一冊、お渡ししましょう」


「これは……?」


「これは、名を避けて残された祈りの影……語られなかった想いを、ただ静かに記すための帳です」


 セーレはそれを受け取った。

 表紙にはなにも記されていない。ただ、裏表紙の内側にだけ、細い筆で一行だけ記されていた。


 ――記されぬ祈りは、名を超えて残る。


 その言葉に、セーレの胸にずっと刺さっていた棘のような疑念が、少しだけ和らいだ。


 名を記すことと、記さないこと。

 どちらかが正しいのではなく、両者のあいだに“祈りの余白”があるのだ。


 その余白こそが、神を呼ぶ場所なのかもしれない――

 セーレはそう感じ始めていた。


 文庫を辞したあと、ふたりは裏庭のような小道を抜け、さらにその奥へと誘われるように足を向けた。

 道の先に見えてきたのは、まるで“迷宮”のように乱雑に並ぶ石碑群だった。


「これは……墓標? それとも、碑文?」


「名前が……どこにも刻まれていない」


 整然と整備された墓地とは異なり、石碑たちはそれぞれが異なる向きを向き、時には重なり合い、時には根を張る木に押し上げられて傾いていた。

 その全てが、無言だった。だが、その沈黙は、あまりに多くを語っているようでもあった。


 迷路のように入り組んだ碑の間を歩く。

 風が吹くたびに、葉擦れと、擦れた石の声のような音が耳をかすめた。


 セーレは足を止めた。ひときわ苔むした碑の前で、彼女はふと、石の表面を見つめた。

 そこには、言葉も印もなかった。だが、わずかに浮かび上がる“手のひらのような跡”があった。


 風化しているにも関わらず、その凹凸は不思議と残っていた。

 まるで、かつて誰かがその石に手を添え、願いを込めた痕跡のように。


「……書かれることを拒む代わりに、“触れる”ことで祈ったのかもしれないわ」


 セーレはそっと、自分の手をその跡に重ねた。

 すると、封箱のなかで眠っていた“断章”が、わずかに淡く光を放った。


「……反応した?」


 フロウが目を細める。セーレは静かに頷いた。

 封箱を開くと、淡く金色を帯びた石板がそこにあった。ザルファトの印章が刻まれてはいるが、明らかに破られており、その破断部は修復されていないままだった。


「契約がなされなかった、ってことね……」


 彼女がつぶやくと、フロウが応じた。


「ああ。だが中身は生きてる。名はまだ……語られる時を待っている」


 セーレは、断章の文字列を見つめた。

 それは名の残響だった。“アウロ=ルクス”――封じられ、拒まれ、けれどもなお、失われてはいない名。

 名は語られることで力を持つ。

 だが、この村では、それすらも慎重に問われている。


 ――では、どうすれば名は祈りになり得るのか?


 セーレはそっと封箱を閉じた。

 石碑のあいだを風が通り抜け、彼女の髪がふわりと舞った。

 その風は、まるで“名を呼ばない声”のように静かだった。


「セーレ」


 フロウの声が背後から届いた。


「名を記さないことで、想いが残ることもある。けど……名を記すことで、祈りが“かたち”を得ることもあるんだと思う」


 セーレは振り向き、ゆっくりと頷いた。

 その眼差しには、迷いと覚悟の両方が宿っていた。


「私……まだ迷ってる。でも、その迷いごと、書いてもいいのかもしれない。“記されぬ祈り”が存在するなら、私はその“途中”を記すために書けるかもしれないから」


 名が断たれた村に響く、名なき石碑の静けさのなかで――

 セーレの祈りは、少しずつその輪郭を持ちはじめていた。


 それは、まだ誰の声にも触れられていない、静かな神の名へと、歩み寄る記憶だった。


 ◇ ◇ ◇


【第9節 ― 語られざる継承、綴りとしての祈り】


 その夜、セーレとフロウは文庫の奥にある簡素な宿舎に招かれた。

 記されぬ頁に触れた者は、ひと晩をこの地で過ごすことが“ならわし”なのだという。


 月光が静かな祈りのように天窓から注ぎ、部屋の空気を静かに織りあげていた。

 そこに、ひとりの若い女性が現れた。

 浅黒い肌に、淡い水色の布を纏い、手には火を灯した小さな燭台。

 髪は短く刈られ、瞳には霧のような光が宿っていた。腰には灰色の筆が差されており、それがこの地の巫の印であるようにも見えた。


「……あなたが、記憶を綴る人?」


 セーレの問いに、灰筆の巫はゆっくりと頷いた。彼女の瞳は揺るぎなく、けれどどこか柔らかな光を帯びていた。頷きとともに、胸に秘めた思いが言葉となって浮かび上がるように、唇が静かに開かれた。


「ここでは、祈りや出来事を“記憶”として綴ります。名を記さず、音を持たず、言葉を形にせず――ただ、記憶そのものを、私たちの中に“織り込む”のです」


「織り込む……?」


「はい」


 灰筆の巫は、懐から小さな布片を取り出した。

 それは一見すると、ただの織物の切れ端のようだった。だが、よく見ると、無数の糸が複雑に絡み合い、微細な色の移り変わりが物語のように流れていた。


「これは、“ある少女の祈り”を織ったものです。彼女は名を呼ばれることなく生まれ、誰にも語られることなく眠りました。でも、この布には、彼女の想いが綴られている。悲しみも、願いも、風の匂いも、微かな笑みまでも」


 セーレはその布を受け取り、両手でそっと包んだ。

 言葉にはならない、けれど確かに“生きた”記憶の重みが指先から伝わってくる。


「……これもまた、祈りなんですね」


「そう。記すこと、語ることだけが祈りではない。想いが誰かの中に生きる限り、それは祈りとして続いていく」


 灰筆の巫は部屋の中央に敷かれた布の前に座り、織機のような木枠に手をかけた。


「あなたがここに来たという記憶も、今から綴ります。名は記しません。けれど、“祈るように記す”のです」


 パチン――と糸が張られる音が静かに響いた。

 木枠のなかで、祈りの糸が静かに交差し、“語られなかった想い”がひとすじの布へと姿を変えていく。

 セーレはその姿を見つめながら、そっと呟いた。


「私たちはいつか、忘れられるかもしれない。けれど……どこかに、こうして“残る”のなら――」


 フロウがその隣に腰を下ろした。

 彼もまた、言葉にはせず、その織られてゆく祈りの布に、静かに手を添えた。


 灰筆の巫はひとつ頷いた。織り機の上にそっと手を添え、その指先に宿る祈りの余熱を確かめるように目を閉じた。その表情には、過ぎし時を思うような静かな慈しみが浮かんでいた。そして、祈るように言葉を紡ぎ出す。


「忘れられても、消えたわけではありません。記されなくても、祈りはここにあります。名なきものたちのために、私たちは祈りを織り続けるのです」


 その言葉は、まるで夜の風に溶け込むようだった。


 祈りの形式は違っても――

 記されぬものを、記すために。

 語られぬものを、綴るために。


 人々は今日も、“祈りの糸”を紡いでいるのだ。


 静かな沈黙のなかで、灰筆の巫はふと顔を上げ、ふたりを見つめた。


「……あなたたちは、“名を持つ者”なのね」


 その言葉に、セーレは思わず背筋を伸ばした。まなざしがわずかに揺れ、胸の奥に走った緊張が、その身を内側から支え直すように姿勢を正させた。言葉に込められた祈りの気配を感じ取ったかのように、彼女の瞳は灰筆の巫をまっすぐ見返していた。


「はい。わたしは……神の名を記録する旅をしています。失われたもの、呼ばれぬものを、祈りのかたちとして――」


 灰筆の巫はわずかに視線を外し、細く息を吐いた。胸の奥に去来する思いを鎮めるように、そのまつげはわずかに震え、ひととき言葉を選ぶ静けさが彼女の表情に広がっていく。空気を織るようなその間のあと、彼女は静かに言葉を紡いだ。


「この地では、名が呼ばれることで、神が夢から醒めてしまうのです」


 その一言に、部屋の空気がかすかに震えた。


 セーレは目を見開いた。

 記されない、ということが、ただの無関心や拒絶ではなく、“神を起こさぬため”という行為であるなら――

 それはまさしく、この村の祈りの形式そのものだ。


「記さないことで、神を封じる……?」


 セーレの声はほとんど囁きだった。


「神々の多くは、名を呼ばれることで目覚め、動き、世界に介入する。だからこそ、わたしたちは、“語らずに祈る”道を選びました」


 灰筆の巫の目は真っ直ぐで、しかしどこか哀しみを湛えていた。まるで自らの言葉が過去の記憶の波紋を呼び起こしてしまったかのように、視線の奥には痛みと慈しみが混ざり合う光が宿っていた。口を閉じたまま、彼女はしばし祈るように目を伏せ、そして再び穏やかにまなざしを向けると、言葉を継いだ。


「この地にも、かつては名のある神がいたのかもしれません。でも、その名は失われ、祈りだけが残された。……だから、わたしたちは、祈りを織るのです。語らぬままに。記さぬままに」


 その語りのなかに、セーレは確かに“断絶された信仰”の核を見出していた。

 それは、記されることで狂い、記されぬことで静かに在り続ける神々の気配――


 ――モル=ザイン、ミル=エレノア、アウロ=ルクス……


 名前を記すことが祈りであると同時に、“祓い”や“喚起”となってしまう神々が、この世界には確かに存在する。

 だからこそ、名を避け、祈りだけを留める形式が、ここでは“信仰”として受け継がれてきたのだ。


「それでも、わたしは……記したいと思う」


 セーレは小さく息を吐いた。胸の内に積もった迷いが言葉となって漏れ出たあとの静けさのなかで、彼女の視線は織りかけの布へと注がれていた。その目には、決意とも不安ともつかぬ揺らぎが滲んでいた。


 そして、思いを確かめるように続ける。


「記すことで失われていったものも、確かにあるかもしれない。けど、何も記されなければ、誰もその存在を知らずに終わってしまう」


 灰筆の巫は少しの間、沈黙した。

 そして、織りかけの布をひと目見つめてから、静かに口を開いた。


「……ならば、名を記すその代わりに、“祈りの記憶”を、ここにひとすじだけ織り込んでもいいかしら?」


 セーレは驚いたように灰筆の巫を見た。目を大きく見開きながらも、その奥にはどこか安堵に似た光が宿っていた。まるで、わずかな救いの糸を見出したように、胸の奥に温かな波紋が広がっていく。言葉を重ねるように、静かに彼女は続きを促した。


「あなたの記す名は、まだ神を揺るがすほどには強くない。だからこそ、いまこの瞬間だけは、“眠れる祈り”として受け取ることができるのだと思う」


 灰筆の巫は、布の端に一本の糸を通した。

 それはごく細く、月光のように白かった。


「これは、“記されかけた名”の糸。名前ではなく、呼ばれなかった響きの残滓。それを、祈りの記憶として織り込む。……それが、わたしたちの接触のかたちです」


 セーレはそっと頷いた。指先に残る布のぬくもりを確かめるように視線を落とし、そのまなざしにはわずかな決意と柔らかな迷いが重なっていた。言葉を紡ぐように、そっと続けた。


「ありがとう。わたし……たぶん、これからも揺れると思う。でも、その揺らぎさえ祈りとして、書き留めていきたいの」


 灰筆の巫は微笑んだ。目元に静かな光が宿り、その口元には祈りの布に糸を通すような繊細な温もりが浮かんでいた。セーレの言葉を受け止め、確かに理解したことを、言葉よりも先にその表情が物語っていた。


「そのために、わたしたちは“記憶の綴り手”で在り続けます。名なき神々と、祈りの余白のために」


 夜は更けていく。

 けれどその静寂のなかには、確かに綴られた祈りが脈打っていた。


 名を記す者と、名を記さぬ者――

 ふたりの間に結ばれた“糸”は、名なき祈りを越えて結ばれる、断絶の時代に編まれる最初の橋だった。


 ◇ ◇ ◇


【第10節 ― 観測者の視界、祈りと名の乖離】


 夜明け前のリコナの村は、祈るように静かに息をしていた。まるで名を持たぬまま、夢を織る生き物のように。

 遠くから聞こえる水の音、霧の隙間から見える街灯の残光、そして静かに移ろう空の色。

 フロウはひとりで文庫の外へ出て、名もなき街路を歩いていた。


 この村には、「祈る言葉」がない。

 だが、そのことが不思議と息苦しくはなかった。


 いや、むしろ――心地よかった。


 名がなくても、祈りはある。

 語られずとも、想いは伝わる。

 それが、この村の真実であり、秩序だった。


 フロウの心には、遠い昔の記憶が浮かんでいた。

 仮面をつけ、名を封じられた日。

 月明かりの下、巫女たちの前で読み上げられた“他者による名”。  自分の意思ではなく、与えられた言葉に縛られた瞬間。


「お前の名は、これから“フロウ”と記す」


 そう言われたとき、胸の奥が冷たく凍ったように感じた。


 だが今、リコナでは――

 誰も彼を「名」で縛らない。


 彼が“何者か”である必要がない。

 “誰かの弟子”でも、“仮面の継承者”でもない。

 ここではただ、“そこに在ること”が祈りなのだ。


 足元に、小さな灯りが見えた。

 石畳の隙間に置かれた、油を染み込ませた布のようだった。

 その炎の前に、幼い子どもが膝をつき、何かを手に掲げていた。


「……何をしている?」


 フロウが問いかけると、子どもは振り返らずに答えた。


「“名前のない記憶”を忘れないようにしてるんだ。手の大きさとか、声の響きとか……豆の匂いとか」


「誰の?」


「きのう、ここで死んだおじいちゃんの。名前は知らないけど、手が大きくて、背中が丸くて……いつも豆の匂いがしたの」


 フロウは言葉を失った。


 名を記さずとも、記憶はある。

 記録されずとも、祈りは宿る。


 やがて子どもは炎の中に、手にしていた布の切れ端を落とした。

 布には、何かが縫い込まれていたようだが、最後まで言葉は読み取れなかった。

 だが、その仕草には確かに、深い敬意と哀悼があった。


 ――呼ばれずとも、祈る。

 ――語られずとも、残す。


 フロウは空を見上げた。

 夜明け前の空は、まだ淡い群青色を帯びていたが、東の端から金の線が差し込んでいた。


 セーレが語っていた“記すこと”の意味が、少しだけ、わかる気がした。


 言葉ではなく、想いを――

 名ではなく、まなざしを――

 それを書き留めるように、生きるということ。


 リコナの祈りは、“名なき者たちの祈り”だった。

 だが、その名なき祈りこそ、もっとも深く、根源的なものだった。


 フロウはその場に膝をつき、小さな声で呟いた。


「……ありがとう。君のおじいさんの祈り、俺も見た」


 子どもは微かに笑った気がしたが、何も言わずに去っていった。


 火は、しばらくその場に残っていた。


 そのころ、セーレは文庫の奥にいた。


 老女に案内された一室には、いくつもの石板が壁に沿って立てかけられていた。どれも風化が進み、線刻はほとんど消えかけていたが、それぞれが異なる材質と手触りを持ち、まるで“別々の時代”の祈りの断片のように思えた。


「……これ、夢で見たことがある気がする」


 思わずこぼれた独り言に、後ろからフロウの声が返ってきた。


「おまえが夢見たものが、記録者としての過去なのか、それとも神の残響なのか……どちらにせよ、こうして解き明かすことが、祈りを蘇らせる行為なんだろうな」


 セーレは頷きながら、最も古びた石板に指を触れた。

 すると、その瞬間――


 彼女の胸元に提げられた革袋が、かすかに鳴った。

 中に入っていた封箱の断章が、ほのかに熱を帯びる。


「……この石板。断章と、共鳴してる?」


 石板の中心にだけ、わずかに残った形があった。

 それは、単なる線刻ではなく、手のひらのような印跡――


 誰かが長い時間をかけ、石の表面に“触れ続けた”痕のようだった。


「これは、記されなかったんじゃない……記すことが祈りに耐えなかったんだ」


 セーレは呟いた。

 その声に、フロウが隣でそっと頷いた。


「語ることで壊れてしまう想いがある。名を記すことで、祈りが“名前”に変わってしまうこともな」


「でも……触れるだけなら、残せるのかもしれない」


 セーレはそっと手を石板に重ねた。


 手のひらの奥に、震えるような微かな感触があった。

 風ではない。冷気でも熱でもない――

 まるで、過去に触れているような感覚。


 そして、記されぬまま残された“声にならない祈り”が、

 言葉ではなく、皮膚の下で鳴っていた。


 彼女の内で、何かが重なった。


 自分が記してきた名の記録。

 消された神々の断片。

 そして、今目の前で“記さず残された”想い。


 封箱の中の断章が、確かに微かに揺れた。


 それは、“開かれるのを待っていた記憶”――

 ただ誰にも、語られなかっただけの神名だったのかもしれない。


 セーレは深く息を吐いた。


「……わたし、まだ書けないかもしれない」


「無理に書かなくていい。名を記すっていうのは、祈りが言葉に姿を変えても壊れないとき……そのときだけ、許されるんだと思う」


 フロウの声は、夜明けの空気のように静かだった。


 窓の外に、薄明が射し始めていた。


 村に名はない。祈りにも、文字はなかった。

 けれど、この村で見たもの、感じたものは――

 祈りが名になりきらぬまま、触れられた記憶として――その頁は、まだ淡く、けれど確かに開かれ始めていた。


 ◇ ◇ ◇


【第11節 ― 沈黙の筆が描く、書かれざる祈祷式】


 朝の光が、祈りの残響のように文庫の天窓を透けて落ちていた。

 セーレはまだ眠らずに、木机の前で筆を握っていた。


 文庫の一角に、名もなく置かれていた黒革の記録帳。

 その表紙には何も刻まれていなかったが、ページを開くたびに微かな風の気配のようなものが漂っていた。


「……ここには、“名前”を書かないんだよね」


 誰に言うでもなくつぶやいたその声は、部屋の中で柔らかく反響した。

 筆先は止まったまま。けれど、書かねばならない想いが、指の先から染み出してくるようだった。


 名ではなく、想いを書く。

 肩書きでも、称号でもなく、呼ばれた記憶そのものを綴る。

 この帳に綴られるものは、世界に知られたくないのではない。

 ただ、“忘れられたくなかった”だけ。


 セーレはゆっくりと筆を動かした。


 ――彼は、月の光を恐れなかった。


 ――彼女は、声を失っても、笑っていた。


 ――そのひとは、記されなかったが、確かに“ここ”にいた。


 一行ずつ、思い出す限りの記憶を綴っていく。

 名を伏せているというよりも、むしろ名を超えたところに触れようとしているようだった。


 やがて、頁の一角に筆が止まる。

 セーレの手が微かに震えた。


 そこに書こうとしていたのは――“彼女自身のこと”だった。


 誰にも呼ばれなかった夜。

 記録者でありながら、自分自身の“名”を記せなかった日々。

 それは呪いのように纏い続けてきた名なき日々。それを初めて、“祈り”という形で手渡そうとした。


 ――私は、記されることを恐れていた。


 ――でも、忘れられることのほうが、もっと怖かった。


 ――だから、記したい。自分のためにではなく、同じように“呼ばれなかった誰か”のために。


 筆が最後の一行を綴ったとき、セーレの目には涙が滲んでいた。

 けれど、それは後悔の涙ではなかった。


 書ききった、という安堵。

 誰にも知られなくていい、けれど、確かに“残る”祈りを捧げた者としての誇り。


 セーレは帳を閉じた。

 そのとき、結晶が微かに震えた。


 名を記さずとも、

 想いが記された瞬間――そこに、祈りは宿ったのだ。


 やがて朝の光が部屋の中を満たし、

 その黒革の帳の上に、やさしく影を落とした。


 セーレは帳を閉じたあと、そっと机の引き出しから封箱を取り出した。

 それは、小さな金属の留め具で封じられた黒い木箱だった。


 ザルファト式の封印――本来なら記録局の権限で開かれるべきもの。

 だがこの封印はすでに破られていた。誰かがその“契約”を拒み、再び閉じ直されることなく、放置された痕が残っていた。


「……契約がなされなかった、ってことね」


 セーレの呟きに、背後でフロウが静かに頷いた。


「けれど、中身は生きてる。名はまだ……語られる時を待ってる」


 セーレは小さく息を吸い、箱の蓋を開いた。


 中には、石板のかけらが一枚――

 昨夜、記録帳に記した想いと呼応するように、淡く光を帯びていた。


 手を伸ばしかけたが、指先はそこで一瞬ためらった。


 この断片が、もし“記すこと”を望んでいないのだとしたら?

 祈りがまだ、言葉になるべき時を迎えていないのだとしたら――


 けれど、セーレはそっと指を石板に添えた。

 そして、小さく呟いた。


「これは……私のための祈りではない。でも、私がそれを拾ったことで、もう“誰かの想い”になった。だから――もう一度、眠ってもらうの。今度は、ちゃんと“意志”をもって」


 その言葉とともに、封箱の中に石板を戻した。


 記録とは、単なる保管ではない。

 それは、今はまだ語ることができない祈りを、いつかの誰かに渡すための橋であり――

 それを“待つ”という行為そのものだった。


 セーレは封を閉じ、金具をそっと固定した。


 封箱は静かに伏せられていた。だが、それは“沈黙”ではなく、“まだ語らぬ意志”の形だった。

 ほんのわずかに、セーレの結晶が震え、共鳴の余韻を残していた。


 記されたものではない。

 記されることすら拒まれたものでもない。


 ――語られぬまま、“生きている祈り”。


 その祈りを胸に、語られぬ名とともに――彼女たちは、次の地へと歩き出す。


 ◇ ◇ ◇


【第12節 ― 記録か祈りか、綴るという選択】


 文庫の外に出ると、朝の霧がわずかに晴れかけていた。

 村の音はまだ眠りと祈りの“あわい”にあり、光も音も輪郭を持たずに漂っていた。

 セーレは黒革の帳を胸元に抱えながら、フロウと共に《祈りの塔》へと向かっていた。


 その道すがら、ふたりはあえてメインの大通りを外れ、小道と小道を継ぎ合わせるようにして村の裏手へと抜けた。

 路地裏に続く石畳の尽きた先――かつて祈りのために用いられていたのかもしれない、崩れかけた石造の壁が姿を現す。


「……ここは?」


 セーレが足を止める。瓦礫の陰に、何かが埋もれていた。


 フロウがかがみこみ、指先でなぞるように掘り出すと、

 風化しかけた石板の一角に、掌大の凹みが浮かび上がった。

 それは、まるで“触れられた”ことの痕跡のようだった。


「刻まれてない……けど、手のひらの形に似てる」


 セーレがそう呟くと、フロウは表情を曇らせる。


「……これは、祈りでも命令でもない。ただ“在った”ことを示す痕跡だ。名前はもう消えてる。でも、祈った手の温もりだけが、石に沈んで残っている」


 その瞬間、セーレの胸元で、王家の首飾りに組み込まれた祈りの結晶――かつて母から託された“記名石”が、わずかに震えた。

 ふたりは同時に気づく――それがただの石ではなく、祈りを封じた“何か”であることに。


「まだ……語られていない神の、名の残り香」


 フロウは囁くように呟いた。掌に残る石の感触を確かめるように目を伏せ、その奥にかすかな懐かしさと痛みを宿すまなざしを落とす。言葉にならぬ想いが、記憶の奥からふいに浮かび上がってくるようだった。


 この村には、明確な神殿も偶像もない。


 だが、村そのものが祈りの場であり、あらゆる路地と石の間に、“かつての神”の痕跡が封じられている。


 名は封じられ、記録もされない。だが、それでも確かに“在った”ものの残響が、ここに宿っている。


「記されていないから、消えたんじゃない」


 セーレは、そっと手をその掌の形に重ねた。石の感触を確かめるように指を伸ばしながら、彼女のまなざしはどこか遠い記憶を見つめていた。胸の奥で、言葉にならない想いが波紋のように広がっていく。


 そして、つぶやくように続けた。


「むしろ……記さなかったからこそ、“残ってる”のかもしれない」


 名を語らないことは、忘却ではなく、祈りの形である。

 この地では、そう信じられている。


 彼女の掌から結晶へ、そして結晶から封箱へ――微かな共鳴の連鎖が波紋のように広がる。

 まるで、言葉を超えた対話が、世界の深層で密やかに進行しているかのようだった。


 やがてふたりは立ち上がり、祈りの塔のある広場へと戻る。

 塔の周囲には人影はなく、ただ、風に揺れる白布が静かに空を泳いでいた。


 その静けさは、記録されないことの肯定――

 いや、名を持たぬものたちの共鳴のようだった。


 セーレは塔の足元に、ひとつの石を見つけた。

 それは誰かが祈りを込めて積んだものか、それとも偶然そこに転がったものか――今となっては判別できない。

 だが彼女は、黒革の帳の上にそれをそっと置いた。


「この記録は、どこにも提出されない。でも、きっと――誰かが、どこかで思い出してくれるって、信じたい」


 それは、かつて自分が願ってきたことと同じだった。

 名を呼ばれずにいた自分の声が、いつか誰かに届くようにと――祈った日々の延長線上にある想い。


 そのとき、不意に塔の上方から小さな鈴の音が聞こえた。

 風に吊るされた祈祷鈴が、霧の中で揺れ、ひとつだけ澄んだ音を立てた。


 フロウがそれを見上げる。まぶたを細め、鈴の音の残響に耳を澄ませながら、どこか懐かしいものを追いかけるように目を瞬かせた。その表情には驚きと郷愁、そして名もなき記憶への手がかりを探すような、静かな焦がれが滲んでいた。


「この音……覚えてる。どこかで、昔、聞いた気がする」


「……それは、たぶん“記録の外にある記憶”なんだよ」


 セーレは自然とそう言っていた。言葉は自らの口から零れ落ちたというよりも、胸の奥から滲み出た祈りのようだった。視線は祈祷鈴の揺れに重ねられ、その瞳の奥には、自分自身も気づかぬほど深い記憶への共鳴が宿っていた。


 名や出来事として書き留められなかった記憶。

 けれど、確かにそこに“あった”もの。

 音、風、視線、沈黙――この村では、それらすべてが“祈り”を形づくっていた。


「記録って、なんだろうな」


 フロウの問いかけは、昨日までのセーレなら答えられなかったかもしれない。


 けれど、いまは違った。


「……記録は、“誰かを記すためにある”んじゃない。忘れられぬために、ただ静かに在り続ける。記録とは、そういう祈りの“器”なんだと思う」


 風がまたひとつ吹き抜けていく。

 祈祷鈴がふたたび揺れて、音もなく記された祈りの残響が、霧に吸い込まれていった。


 ふたりはしばらく、その音に耳を傾けていた。

 世界に満ちる“声なき祈り”を、静かに受け取るように。


 その時、セーレの胸元の結晶が再び淡く脈動した。

 誰かが彼女の名を呼んだわけではない。

 けれど、名の奥にある記憶が、静かに世界と共鳴したような感覚があった。


「ねえ、戻ろう」


 セーレは黒革の帳を抱え直し、塔を背に歩き出した。


 フロウも無言でその後に続く。

 ふたりの足音が、まだ語られぬ頁の上に静かに印されていく。声なき祈りが、いま“旅”という名に変わりはじめていた。


 記されずとも、確かに“残る”祈りのように――


 ◇ ◇ ◇


【第13節 ― 祈りを継ぐ者、語り手の目覚め】


 昼の太陽が、霧の祈りをそっと手放すように村に降り注いでいた。

 リコナの村に差し込む陽光は柔らかく、石畳の街路を淡く照らしていた。


 旅人ふたりの姿が、港へと続く坂道をゆっくりと歩いていた。

 胸元の結晶に手を添えながら、セーレは視線を遠くに投げた。


 霧の村で触れた祈りは、すべてを“言葉”で記すことの限界を教えてくれた。

 名を持たない祈り――語られぬまま、誰かの中に息づいていた記憶たち――それらがどれほど深く、強く、澄んでいるかを。


 港へ向かう途中、ふたりは最後に《祈りの木》の前に立ち寄った。

 名を記さず、ただ小さな布を枝に結ぶことで祈りを捧げるという、リコナ独自の風習の場所だった。


 枝に結ばれた無数の布は、風にそよぎながら、まるで名もなき者たちの囁きを受け止めているように見えた。


 セーレは腰布の端を裂き、小さく折って、木の枝へと伸ばす。

 そして結びながら、かすかに呟いた。


「言葉が届かぬなら……この手で“結ぶ”ことが、祈りのかわりになる気がするの。名がなくとも、想いを結ぶことで、記録になるのなら――」


 その言葉に応じるように、木の枝が微かに震えた。

 枝先の一枚の布が朝日に透け、淡い光を孕んだように見えた。


 フロウも、彼女の隣で静かに布を手に取った。

 それは、昨夜の文庫で子どもが焚いた布と、どこか似た手触りがあった。


「書かれなくても、名がなくても……記憶に触れるだけで、人は祈れるんだな」


 セーレは微笑んだ。フロウの言葉に静かに頷きながら、その頬には柔らかな光が差したようなぬくもりが宿っていた。祈りというものの輪郭が、ようやく手の中に収まり始めているのを感じながら、彼女は続けた。


「私たちは“記す”ための旅をしてると思ってたけど、たぶんそれだけじゃ足りないんだね。“結ぶこと”も、“見送ること”も、“忘れないと願うこと”も、全部が祈りで……。そしてそれを、誰かが“見つけること”も含めて、記録になる」


 フロウが頷く。彼の頷きは言葉の代わりにそっとセーレの想いを受け止めるようで、まなざしの奥には穏やかな共鳴が宿っていた。静けさのなかで、彼は言葉を重ねた。


「……結局、“誰かが拾うこと”が、祈りを残すんだろうな」


 セーレは、枝に結び終えた布をそっと撫でた。

 記された名ではなく、“想い”だけが託された証として。


 港には小さな船が一艘、潮の満ちを待っていた。

 それは、ザルファトで出会った記録局の老書記官が手配してくれたもの。

 次なる土地への唯一の水路――“記されざる神々の庭”へと至る、静かな航路だった。


 甲板に荷が積まれる音が遠く響く中、フロウが懐から地図を取り出し、指先で谷の位置をなぞった。

 “記録拒絶の地”、そして“神の名が眠る場所”――

 そこには、セーレ自身の記憶とも、血筋とも結びつく断章が存在するとされていた。


「……あの谷では、もう誰も祈っていないかもしれない」


 フロウの声には、どこか予感めいた静けさがあった。視線は地図の一点に注がれ、まるでそこに眠るものの声なき気配を感じ取るかのようだった。


 その沈黙を受けとるように、セーレはゆっくりと頷いた。唇をわずかに引き結びながら、そのまなざしは水平線の先へと向けられていた。


 そして、迷いを振り払うように言葉を継いだ。


「それでも行かなきゃ。記されなかった神の名に、触れられるのは、もう私たちしかいないから」


 その言葉には、かつての彼女にはなかった確信が宿っていた。

 記すことへの迷い。呪いのような過去。祈りの意味への疑念。

 そのすべてを越えて、今、彼女は“記す者”であろうとしている。


 フロウは彼女の顔をじっと見つめたあと、そっと目を細めた。まなざしの奥には、言葉よりも先に浮かんだ信頼の色が宿っていた。しばしの静寂の後、深く頷くように、彼はゆっくりと口を開いた。


「……信じられるな。おまえの言葉なら」


 その言葉が空気に溶けるように響くと、セーレは少しだけ驚いたように目を見開いた。だがその表情はすぐに和らぎ、ゆっくりと微笑みへと変わっていく。


 彼がそのように口にするのは、これが初めてだった。


 彼女はその想いを確かに受け止め、やわらかな声で続けた。


「ありがとう、フロウ。たぶん、私はまだ、自分の祈りさえ書き終えてない。でも、だからこそ旅を続ける意味があるの」


 風がふたりの間を吹き抜ける。

 潮の香が混じるその風に乗って、祈りの木に結ばれた布がゆらりと揺れた。


 その布には、何の名も記されていない。

 けれど、それは確かに――“祈られた想い”だった。


 船が出航の合図を告げた。

 船長が控えめに手を振り、乗船を促す。


 セーレは足元の小石をひとつ拾い、水辺に投げ入れた。

 波紋は小さく、音もなく広がった。

 誰にも見られずとも、それは水面の下で、祈りのように続いていた。


「行こう、フロウ」


「……ああ」


 ふたりは船に乗り込んだ。

 帆が上がり、舳先がゆっくりと霧の村を離れ始める。


 リコナの祈りの木は、音もなくふたりを見送っていた。

 だが風は確かに吹いていた。

 その風が、ふたりの旅路に、記されざる祈りの意味を運んでいく。


──《第8話 ― 黒帳の断章と語られざる契り》に続く──



----


"――語られぬまま閉じられた頁に、確かに祈りの温度があった。"


《アエリの記憶断章:祈りは語られずとも》


名を記さぬ帳がある。

語られぬ記憶がある。

忘れられた声たちが、いまもこの村の石に宿っている。


私たちは、記録しない。

けれど、忘れはしない。


風に舞った声の調べ、

衣擦れの音、頬に触れた涙の温度――

それらすべてを、“祈り”と呼ぶのだ。


名は重い。

名は鋭い。

だからこそ、名を持たない祈りが、

ときにもっとも澄んで、まっすぐに人を打つ。


昨夜、この村にひとりの記録者が訪れた。

彼女は筆を持っていたけれど、

記すことをためらいながら、

ひとつの頁を“祈りのように”閉じていった。


その頁はまだ、言葉を持たないままだ。


けれど私は知っている。

そこに宿った想いが、

きっと誰かを導くだろうということを。


記録は物語ではない。

祈りは形ではない。

でも――

その“あわい”に触れた人は、必ず変わってゆく。


それだけで、十分だ。


(祈織の巫子アエリ断章より)

◆《第7話 ― 境界の街と書かれぬ頁》を読み終えたあなたへ


――名が祈りを縛るなら、名を捨てることでこそ救われる者たちがいた

(記録の語り手:サーガより)


名は、すべてを記すためにあるのではない。

名は、ときに、記さないことで守られる。

呼ばれなかった祈り、記録されなかった存在、語られぬまま消えた声たち。


――この章に記されたのは、そうした“書かれなかった頁”の記憶であった。


巡礼の旅は、記名都市ザルファトを後にし、

名も記録も拒むリコナへと辿り着く。


この第7話では、セーレとフロウが初めて、

「記すことそのもの」への根源的な懐疑に直面した。

記すことが祈りであり、救済であると信じていた少女が、

“名を持たないことを誇りとして生きる村”の祈りに出会ったとき、

その信念はやさしく、けれど深く揺さぶられる。


▼ この章に記された“沈黙の祈り”たち


記名のないリコナ

地図にも記されず、住民たちは互いに名を呼び合わず、記憶だけを手渡して生きる。

そこでは、名前は重荷であり、祈りとは“言葉になる前の想い”のことであった。


祈りの塔と名なき石たち:

村の中心に立つ不揃いな石の塔。

そこでは言葉も記録も拒み、手の温もりだけで想いが重ねられてゆく。

名ではなく、触れられた記憶こそが祈りの礎であった。


語られぬ墓と封じられた名の箱:

“祈られぬ墓所”と呼ばれる地に、記録官から託された封箱がそっと置かれる。

それは、かつて記名を拒まれた神の名の“断章”。

セーレはそこに、名なき祈りの赦しを見た。


“記されぬ頁”の文庫:

文字を拒む白紙の本。その中に、“祈ろうとして言葉にならなかった痕跡”が滲む。

語ることをやめた祈り、記されることなく残った記憶――

それは、書き得ぬ者たちの最も静かな声であった。


灰筆の巫と“織られる祈り”:

名を記す代わりに、糸で記憶を織る者たちがいた。

語られなかった願い、書かれなかった悲しみが、ひとすじの布として綴られてゆく。

その形式こそが、記されぬ祈りの救済となる。


読者よ。

この章は、セーレにとって“記す旅”の転換点であった。

書くことに意味があると信じていた彼女が、

書かないこと、記さないこと、名を与えないことの“やさしさ”と“覚悟”に触れることで、

祈りとは何かという根源的な問いへと、もう一歩踏み込んでいく。


名を記すことは、祈りを与えることか。

あるいは、それが誰かを縛る“枷”にもなりうるのか。

セーレの問いは、記録者としての信仰の在り方を静かに揺さぶり続けた。


そして読者である君もまた、

この章の終わりにはきっと気づいただろう――

「記されぬこと」は、忘却ではない。

それは、記憶に抱かれた祈りの、別のかたちなのだと。


――記録者サーガ、第七の頁を、ここに結び残す。

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