第三編:還らぬ声、彼方より
註釈:
この物語は王国が編纂した正史には存在しない設定や人物が描かれている可能性があります。
このエピソードはセーレとフロウがラヌマ港を出港して、海路で記名都市ザルファトへ向かう道中の出来事である。
海上はネリュエの霊域であることから、セーレとフロウの呪いは最小限にとどまっている。
Ep.3《還らぬ声、彼方より》
◆記憶の奥底で誰かを呼び続けるあなたへ
風が声をさらい、潮が名をかすめ去る。
それでも誰かは、今日も海辺で祈っている。
帰ってこない声のために。
記されなかった名のために。
言葉を失った祈りは、どこへ行くのだろう。
耳ではなく、魂でしか聴けない音が、世界の片隅にはある。
これは、そうした祈りの記録です。
消えたと思われた“名”が、かすかな残響として、まだ誰かの中に生きていると信じて。
――語り手・メリス=ヴェイン
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【第1節 ― 声を失った海】
潮が変わった。
それは、フロウが最初に口にした言葉だった。
朝の光が昇る前、空はまだ深い灰色を湛え、波の向こうでは何かが密やかに蠢いていた。
セーレとフロウを乗せた巡航船は、ザルファトへ向かう巡礼の航路の途上にあった。しかし、船は深い霧によって正規の船路から少し外れてしまっていた。
この経路は、霊的な回廊とされ、祈祷と祝詞によって道を開く“信仰の海”とも呼ばれていた。
「……音が、消えた」
そう呟いたセーレの声も、波間に吸い込まれていく。
鳥もいない。風も、帆を叩く音さえない。海はまるで、水ではなく、沈黙そのものをたたえているようだった。
フロウは目を細めて空を見上げた。その瞳に、かすかな緊張が走っていた。
「潮目が乱れている。……このままだと、流される」
言葉と同時に、風が一陣吹き抜けた。霧が巻き上がり、空と海の境が曖昧になる。次の瞬間、舟は大きく傾き、大波に呑まれた。
セーレの視界は水の泡に満ち、冷たい海が全身を貫いた。
それでも、声は聞こえた。
――ねえ、聞こえる?
耳元で、誰かが囁いた気がした。
目を開けたとき、そこは海ではなかった。
甲板。木の感触。揺れる灯。
見知らぬ船の上。
セーレは濡れた衣をそのままに、静かな甲板に横たわっていた。
すぐ傍には、フロウの姿もあった。彼も濡れていたが、意識はあり、ゆっくりと身を起こした。
「……どこ、ここ……?」
セーレの問いに、フロウは辺りを見渡し、低く息をついた。
「拾われたらしい。……けど、これは……」
そのとき、足音が聞こえた。
それは、音というより“祈り”だった。
甲板を歩く人影たち。だが、彼らの顔はなかった。仮面でもなく、ただ空白だった。
身にまとう服は古く、儀礼的な装束にも見えた。
彼らは、ひとつの旋律を口にしながら、甲板の先端に向かって歩き、そこで祈るように海を見つめていた。
声だけが、残っていた。
祈りの言葉は崩れており、構文としての意味を成していない。それでも確かに“声”だった。
「……記名されずに、沈んだ船だ」
フロウの声に、セーレは振り返った。
「それって……?」
『二人以外の生命反応はゼロです』
セーレはアヴィの声に驚き、再度フロウと視線を合せた。
深く息を吐きながらフロウは辺りを注意深く見回す。
「契約にも至らず、祈祷も成立しないまま、沈んだ船。信仰の形だけを遺して。……名が記されていない者たちは、こうして“声だけ”になって残ることがある」
その言葉が、セーレの胸を締め付けた。
記名されない者。祈りが届かなかった者。
それは、セーレ自身の未来と地続きのものに思えたからだった。
そのときだった。
死者たちのうちの一人が、ゆっくりと顔を上げ、セーレの方を見た。
……いや、“見た”と感じたのはセーレの方だけだった。
その空虚な顔には目も口もない。それなのに、彼女の中に言葉が響いたのだ。
――セーレ。
名を、呼ばれた。
声の主は、少女だった。黒髪の、幼い影。
けれど、それはどこかで見たことのある気配だった。
波の音は戻らなかった。祈りの声だけが、霧の中に漂っていた。
◇ ◇ ◇
【第2節 ― 記録に残らなかった祈り】
船は、名乗らなかった。
船首に刻まれているはずの名標は、完全に風化していた。甲板に掲げられた旗も破れ、色すら忘れている。だが、それでもこの船には“記憶”があった。
死者たちの祈りは途切れることなく続いていた。彼らは言葉ではなく、音のような抑揚で祈りを繰り返す。それはまるで、波が岩に打ち返す音そのもののようで――けれど確かに“想い”があった。
セーレは、静かにその中央に歩を進めた。霧がわずかに開き、甲板の中央には祈祷台らしき台座が置かれていた。その上には、かつての儀式で用いられていたと思しき黒く焼け焦げた石板が載せられている。
それを見た瞬間、セーレの頭の奥に痛みが走った。
“名を記すことに失敗した記録”――断章の構文が、そこにあった。
セーレは思わず膝をつく。
その構文は、王宮で基礎教育として学んだどの形式とも異なっていた。それは「名前を記そうとして、記しきれなかった断章」だった。
「これは……」
かすれる声で呟いた彼女の肩に、誰かがそっと手を置いた。
振り返れば、それはまた“顔のない”一人だった。
けれどその指先は、確かに“何かを伝えよう”としていた。
祈祷台の隅に、細い彫り物が残されていた。
――〈ラ……〉
その一文字が、最後まで刻まれることはなかった。
「……この船に乗っていた誰かの、名……?」
セーレの言葉に、答えはない。
けれど、霧がふたたび流れ、その瞬間、遠くから声が聞こえた。
それは、唄だった。
旋律は不安定で、どこか歪んでいた。だが、歌う者の想いは、風に乗って確かに届いた。
――『海の底に眠る祈りよ、記されざるままに祈りたり』
――『声だけ残して、名を問われず』
その唄が意味するものを、セーレは直感で理解した。
この船は、記名の儀に失敗した“祈祷船”だったのだ。
巡礼者たちは祈りを捧げ、名を記すことで祝福を得るはずだった。
けれど、彼らは“誰の名も記せなかった”。
そのまま嵐に襲われ、記録にも残らず、ただ祈りの旋律だけを残して海に沈んだ――そんな断絶の祈り。
「記されない祈りも、祈りなのね……」
セーレは小さく呟いた。
その瞬間、彼女の内側で何かが震えた。
どこからか、かすかな祈りの声が――彼女自身の中から響いた気がした。
それは、かつて母の手を引いて歩いた浜辺の記憶。
名も知らぬ海鳥の唄声。
消えた声、還らぬ名。
それらがすべて、セーレの中に混ざり合い、霧のように絡みついていく。
フロウがゆっくりと彼女に近づいた。
「この船の者たちは、祈った。記されることなく、ただ祈った。その声は、今も“名を欲している”。……けれど、それは君が与えるものではない」
「……うん、わかってる」
セーレは静かにうなずいた。
祈りは、名を与える行為だ。だがそれは、奪われた者に対する憐憫ではなく、敬意と覚悟をもって交わす契約のようなものだ。
だからこそ、彼らの祈りを“聴く”ことこそ、セーレにできる唯一の祈りだった。
ふと、彼女はもう一度、祈祷台に手を伸ばした。
断章の石板は冷たく、海底の記憶を宿していた。
触れた瞬間、意識の底に、“声”が落ちてきた。
――リエル。
今度は、はっきりと聴こえた。
母の声ではなかった。
けれど、その名を祈るように繰り返す声が、確かに“この船の誰か”のものだった。
なぜ、その名がここにある?
セーレは目を見開いた。
――リエル。
――リエル。
声は波のように繰り返された。
そしてその響きは、静かに霧の向こうへと消えていった。
◇ ◇ ◇
【第3節 ― 祈りが届くその先に】
舟が軋んだ音を立てた。
霧の帳の向こうで、風がふたたび動き出す。
セーレが“リエル”という名の残響に囚われているあいだに、船は静かに進路を変えていた。
死者たちは、もう動いていなかった。
あれほど甲板で繰り返されていた旋律も止み、彼らは祈祷の所作を保ったまま、石像のように動かない。
「……還るんだ、あの場所へ」
フロウが低く呟いた。
その言葉の意味を問う間もなく、霧が大きく裂け、海の色が変わった。
底知れぬ青。
空も海も、光も影もすべてを呑み込んでしまうような、深淵の色。
その中央に、巨大な渦があった。
だが、それは水流ではなかった。
祈りの“痕跡”だった。
名を記されなかった者たちの想念。
交わされなかった契約。
届かなかった祈り。
それらすべてが、時の底に沈みながら、なお記録を求めて渦を巻いているのだった。
「この船は……ここに還るように“呼ばれた”んだ」
フロウの言葉に、セーレはようやく頷いた。
彼らの祈りは、誰にも届かなかった。
けれど、それでも“祈った”という事実は、どこかに記されるべきだった。
セーレは、再び祈祷台に手を置く。
今度は、書き記すのではなく、静かに“聞く”ために。
その瞬間、霧の中にもう一度、あの唄が響いた。
――『名もなく 声もなく ただ願う』
――『海の底に 祈りの残響を』
そして今度は、その旋律の中に、“名”が含まれていた。
セーレには、その音が何を意味するか分からなかった。
けれど、それは確かに彼女の中の“欠けていた何か”に触れた。
――リエル。
違う。だが、近い。
“リエル”という名は、セーレの母の名だった。
けれど、今響いている名は、それとは異なる。
その名は、かつて祈られた。
記されることなく、沈んだ。
それでも、どこかで“想われ続けた”。
その想いが、セーレの中にひとひら落ちた。
「ありがとう……」
セーレはそう呟いた。
何に対してか、自分でもわからなかった。
けれど、その祈りが、自分の中のどこかで確かに“癒えていく”のを感じた。
舟が揺れた。
船体がゆっくりと軋みながら、音もなく沈み始めていた。
甲板にいた死者たちは、誰も動かない。
ただ祈りの所作を保ったまま、静かに霧に溶けていく。
セーレとフロウは、気づけばもとの舟の上に立っていた。
霧は晴れ、海はふたたび穏やかな波を刻んでいた。
舟の周囲には、もう何もいなかった。
――だが、声だけが、ひとつ残っていた。
セーレの胸の奥に、今もその唄が残っている。
声は名を持たなかった。
けれど、祈りだった。
「死のあとに、ようやく届く祈りもあるのです」
語り手、メリス=ヴェインの声が静かに響く。
それは、記録にはならなかった断章。
だが、セーレが“聴いた”ことで、その祈りは確かに、世界のどこかに刻まれたのだった。
【語り手の紹介】
遡行神格:メリス=ヴェイン
死後の祈りを遡り、辿られなかった未来を鏡に映す、終末の記録者。
失われた祈りの“残響”を観測する、死後因果の神格。
彼が記録するのは、語られなかった遺言、辿られなかった分岐、そして“還ることのなかった声”たちの祈りである。
この断章は、海に沈んだ名なき死者たちの最期の記録――
遡行する視線によって、未来の記録から死の瞬間を逆照射する、祈りの“鏡”でもある。
封印された声をそっと拾い上げるように、彼の観測は、決して語られなかった祈りの奥へと静かに向かっていく。




