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失名の神と呪われし王女【王国正史版】(名無き祈りの巡礼譚1)  作者: 秋月瑛
名なき祈りの断章集 ―― 記されなかった獣と記名の夢
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第二編:幻視断章 ― 白き獣は誰の祈りに応えたか

《幻視断章 ― 白き獣は誰の祈りに応えたか》


――これは、記されざる祈りの幻視。

祈られぬままに名を封じられた少女が、記憶の奥で出会う“もう一つの獣”の影。

名と祈りの乖離がいかに呪いを生み、いかなる再祈の兆しを残したか――その片鱗が、ここに記される。


---


【第1節 ― 夢の記録庫と記されざる壁画】


 夜、潮の神殿の深奥にて。

 セーレは夢を見ていた。いや、それは単なる夢ではなかった。

 神殿での祈祷のあと、潮の記名盤に掌を触れたとき、確かに何かが彼女の内奥へと刻まれた。名ではない。記録でもない。けれど、確かに“構文の種”のようなものが――。


 その“記されざる何か”が、いま夢となって浮かび上がっていた。


 夢の中の空間は、どこかの王宮の書庫だった。だが、その場所は現実のどこにも属していない。天井は高く、香木の梁が光を鈍く反射し、壁には無数の石板がはめ込まれていた。

 その一つひとつに名が刻まれており、それらは祈りの証であり、王族たちの歴史であり、神々の息子や娘たちの記録でもあった。


 けれど、石板のうちいくつかには傷があり、抉られたように名が削がれていた。誰の手によるのかもわからぬままに、記録は不完全で、祈りは途切れ、そこだけが闇を孕んでいた。


 セーレはその廊を歩いていた。誰に導かれるでもなく、ただ静寂のなかを進んでいく。足音も、衣擦れも聞こえない。それでも彼女は、自分が“誰かの祈りの記録の中”を歩いているのだと感じていた。


 やがて、石壁の奥に、一枚の巨大な板絵が掛けられているのを見つけた。

 それは――白き獣の姿を描いた壁画だった。


 銀白の毛並み。月と太陽の光を同時に宿したような深い眼差し。

 その獣は誰の鞭も受けず、誰の指図も待たず、風そのもののように自由に駆けていた。

 だが、その足元には無数の“祈りの名”が刻まれていた。人々がその姿を言葉に残そうとした記録、記名、契約、詠唱。絵の端にはかすれた古王の印章が刻まれていた。


 セーレの胸に、遠い昔の言葉の断片が蘇った。


(……これが、アウロの眷属……?)


 王家にはかつて、「光の守獣」がいたという。

 神火と契約をつかさどり、王女の歩みを導く存在。獣でありながら、名を授かり、名を祈られる特別な霊的構文体。


 ──けれど今、自分はその正反対の存在だ。

 祈られることなく、名を封じられた“黒き獣”。

 月に照らされるたび、己の毛並みは深い闇に染まり、王家の記録からも外され、構文の外に置かれたまま。


 そう考えたとき、壁画の白き獣がふとこちらを振り向いた。

 動いたはずがない絵のなかの存在が、夢の中で確かに目を向けた。時間が止まり、空間が微かにきしむ音がした。目だけが、セーレの視線をとらえた。


 次の瞬間、空間が揺れ、壁画の奥へと引き込まれる感覚が奔った。

 意識が反転し、彼女は白き獣の“視点”に立っていた。

 

 そして、誰かの祈りを感じた。

 遠く、切実で、熱を帯びた名の響き。だがその祈りは、セーレのものではなかった。

 それはもっと古く、もっと深く、かつて白き獣に向けて捧げられた祈り。


「──おまえは、誰の祈りに応える?」


 声が響いた。祈りでもなく、契約でもなく、それは問いだった。

 セーレの記憶の底から立ち昇ってきたようでもあり、かつて誰かに向けて自分が発した問いでもあるように思えた。


 そして、白き獣の姿が一瞬、自分自身の影と重なった。

 銀白が闇をはらみ、祈りの光が陰りはじめる。


 白銀の毛並みは墨のように染まり、瞳は陰り、輪郭が崩れていく。

 あの祈りの声も、やがて掠れて消えた。


 すべては元の静かな書庫に戻っていた。

 白獣の壁画は、ただの絵の中の存在に還っていた。

 セーレはその前に立ち尽くし、夢の終わりを告げる霧のような冷気に包まれていた。


 だが、胸の奥には確かに“問い”が残っていた。

 ──自分は、誰の祈りに応えたいのか?

 そして、自分の祈りは誰かに届くのか?


 答えのない問い。

 だがその問いこそが、セーレを黒き獣のままにしなかった唯一の“祈りの痕跡”だった。


 ◇ ◇ ◇


【第2節 ― 記されざる獣の声】


 ──目が覚める直前だった。


 白き獣の幻影が、完全に黒く染まるその瞬間、セーレははっきりと“何かを祈っていた”ことに気づいた。


(私は、ただ見ていたのではない。あれは……私自身だった)


 夢から醒めた彼女は、しばし身体の境界が定まらないまま、潮の神殿の帳の間で目を開けた。祈りと夢の狭間にある、神殿の静寂。その時間は、ただの夜明け前ではなかった。


 帳の向こうに、まだ潮の音がかすかに響いていた。窓からの光が記名盤に淡く映り込み、その表面には霧のように薄い“光の縁”が揺れていた。


 誰かが一度だけ仮に記した名――すでに消えかけ、しかし完全には拭い去れなかった残光。


 セーレはその淡い縁に、指先を伸ばした。

 触れた瞬間、胸の奥で何かが音を立てた。名を持たぬ者の魂が、小さな鼓動を返してきた。


 ──黒豹としての記憶が蘇る。


 街の影に潜み、神殿の巡礼者を避け、満月の夜に声を捨て、名を呼ばれることを拒まれた日々。

 その姿は“失名の獣”。王統から外され、記録の中に居場所を持たぬ者。


 だが、ただ逃げていたわけではない。

 その影のなかで、彼女はずっと“誰かの祈り”を探していた。


 名を呼ばれることもないままに、それでも“誰かに応えたい”と願っていた。


 その想いが、白い毛並みの感触とともに蘇る。

 掌には今も、夢の中で触れた“祈りを受け止める獣”の体温が残っていた。


 それは記録に記されたことのない感触だった。

 契約でも、構文でもなく、ただ“応えたい”という衝動。


(私は、あの白き獣になりたかったのだ)


 その瞬間、記名盤の表面にさざ波のような輝きが走った。


 揺らめく影の輪郭が、一度だけ黒から白へと反転する。

 セーレの影が、そこに“もう一つの可能性”を刻んでいた。


 ──黒豹ではない。

 ──かつて記されていた、白き姿。


 かつて王家には、「光の守獣」がいた。

 アウロ=ルクスの眷属。祈りの名に応え、王女に寄り添い、火と剣の道を照らした存在。

 獣でありながら、名を記され、契約構文に組み込まれた“霊的なる護衛”。


 だが、歴史はそれを封じた。

 白き獣は神話に隠され、黒豹の呪いだけがセーレの血に残された。


 いま、彼女の中に揺らいでいるのは、その封印の向こう側だ。


「……名が戻るなら、

  その名に応える姿も、取り戻せるのか」


 セーレは、誰に問うでもなく呟いた。

 その言葉が消えたあとも、空気は淡く震えていた。


 記名盤の光はやがて消え、夜明けの気配が帳の間を満たしはじめた。

 だがその光の変化は、彼女にとって“記録の終わり”ではなかった。


 むしろ、いまようやく始まりつつあるのだと、セーレは静かに理解していた。


 失名とは、ただ名を失うことではない。

 名を祈られなかったこと。

 祈りに応えられなかったこと。

 そして、誰かに祈りを返すことすら許されなかったこと。


 だが、夢の中の白き獣は確かに問いかけた。


 ──あなたは、誰の祈りに応えたいのか?


 その問いだけが、今のセーレを貫いていた。


 ◇ ◇ ◇


【第3節 ― 封じられし契約の檻】


 それは夢とも記憶ともつかぬ、けれど身体の奥に刺さるような“過去の影”だった。


 セーレは王宮の奥殿にいた。

 正確には、王宮と呼ばれていた建物の残響――かつての記録にだけ残された、祈りと名の封印殿。白金の装飾と黒曜石の床。壁面には神々の契約構文が刻まれ、その一文字一文字が淡く発光していた。


 その場には、白金の衣をまとった神官たちと、記名の巫がいた。誰も彼も仮面を着けており、顔どころか声色すら統一されていた。まるでそこに“個”は不要であり、ただ記録構文の執行だけが存在の意味であるかのように。


 少女だったセーレは、儀式台にひざまずかされていた。

 膝元には金属でできた記名枠が置かれ、その中心には空白の名の器が浮かんでいた。そこに“神の名”が刻まれると、彼女は説明された。


「王家の子よ。

 おまえはアウロの御名にて契約され、記録されし獣となる」


 声は、どこか判然としない神官のひとりによって発せられた。


 セーレは黙っていた。

 その“名”が、自分のものとして響かなかった。


 胸の内に、はっきりと「それは私の祈りではない」という異音が響いていた。

 その“記録”は、王統の系譜という仮面を被った、“押しつけられる名”だったのだ。


 それでも儀式は進められた。

 記名筆が金属枠の中心に浮かぶ構文盤に触れた瞬間、周囲の神官たちは一斉に詠唱を始めた。


 ──だが、セーレの口からは、祈りの言葉が出なかった。

 声を出そうとすると、喉が固まり、胸の奥で拒絶の震えが起きた。


「祈れ。さもなくば、名の代わりに呪いが宿る」


 巫が囁くように言った。冷たい指先が、彼女の額に触れた。


 その瞬間、セーレの心臓の奥で何かがひび割れた。


 構文の光が、彼女の胸に無理やり流れ込んだ。

 それは祝福ではなかった。祈りではなく、封印だった。

 空っぽの名前の器に、王統の義務という“重し”だけが注がれたのだ。


 セーレの身体が震えた。

 目の奥に黒い影が走った。足元が裂け、光の中から深い影がにじみ出る。

 そしてその影が、彼女の身体にまとわりついた。


 ──それは、黒豹だった。


 記名の儀式に失敗したわけではない。

 ただ、それは“セーレ自身の名”ではなかったのだ。

 王家の記録に刻まれるための“名”という形式が、彼女自身の祈りと乖離した結果、白き獣ではなく“影を帯びた存在”として顕現した。


「この子は……神の眷属たりえぬか」


「いいえ。記録は完了しました。ただし、名は伏せられたままです。

 ゆえに、この子は“黒き器”として記録されるでしょう」


 神官たちがそう交わす声が、黒い水面のように空間をゆがめていった。

 セーレの身体に溶け込んだ黒豹は、牙を隠し、沈黙を守りながら、ただ内部に封じられた。


 その場には白き獣の姿などなかった。

 ただ、「光を宿しえたはずの器」が、祈りなき記名によって呪いの檻へと変じたのだった。


 ──そして今。

 夢の奥でそのすべてを見ていたセーレは、目を伏せたまま、静かに心の中でつぶやいた。


(あのとき私が祈らなかったのは、

 名が怖かったからじゃない。名が、他人の祈りでしかなかったから)


 白き獣は、誰かの祈りで生まれる。

 だが、黒き獣は、祈られなかった名の器だ。


 その違いをようやく、今、セーレは理解していた。

 あれは失敗ではなく、拒絶だったのだ。記録の構文に対する、無意識の“否”だった。


 それは彼女の罪ではなく、ただ彼女が“自分の名”を知らなかったというだけのこと。


 ──名を祈られるには、まず、自分自身が祈らなければならない。


 セーレはそのことを、ようやく夢の終わりに知った。


―― 白き獣は誰の祈りに応えたか(完) ――

◆《名なき祈りの断章集 ―― 記されなかった獣と記名の夢》を読み終えたあなたへ


――物語に名を記されなかった者たちが、それでも残した“祈りの断章”にて

(記録の語り手:サーガより)


物語は、名を記された者のために書かれる。

だが、その背後にはいつも、名を呼ばれなかった者たちの祈りがあった。


それらは記録されなかった。

語られることもなかった。

けれど、祈りがなかったわけではない。


この断章集は、名を持たぬ者たちの“声なき記録”であり、

物語という構文にさえ拒まれた祈りたちの、

もうひとつの“記されざる本篇”である。


ここに記された断章は、セーレとフロウの旅路の裏側――

語られなかった過去と、記録されなかった祈りである。


それは物語の“補足”ではない。

むしろ、物語が成り立つために切り捨てられた祈りそのものであり、

構文の外で今もかすかに光を放つ、“名の欠片”たちである。


▼ 記された祈りの断章


《観測断章 ― 梟は誰の祈りを記録していないのか》:

フロウ――あるいはファレン=ルクス。

太陽神アウロ=ルクスの祈祷騎士だった彼が、

神の断絶とともに名を喪い、構文から“外された”記録。

名が契約であるならば、契約不備となった存在は、ただ沈黙の梟となるほかない。

月光の霊域にて、再び仮の名“フロウ”を与えられたその姿は、

祈られず、ただ観測する者としての“再構文”であった。

彼が祈りを記録できぬ者となったのは、名を喪ったからではない。

祈りが“誰にも向けられていなかった”ことを、知ってしまったからだ。


《幻視断章 ― 白き獣は誰の祈りに応えたか》:

セーレの夢に現れた、白き獣の幻影。

それはかつての王統が祈りを託した“光の守獣”の記録。

だが、彼女の中に宿るのは“黒き獣”――祈られなかった名の器。

この断章は、セーレ自身が王家の記名儀式を拒んだ過去、

祈られぬまま呪いとなった契約、

そしてその深層にあった“名を選び取らなかった祈り”の顕現を描く。

白き獣とは、祈られた存在の記録。

黒き獣とは、祈られなかった名が封じられた檻。

その違いが、セーレの旅における最大の“赦し”の問いとなって立ち上がる。


読者よ。

この断章集を読み終えたということは、

物語の背後に潜む“語られなかった記録”と出会ったということだ。


語られなかったからこそ、祈りは純粋だった。

記されなかったからこそ、名は赦しとなり得た。

そして、祈りが祈りであり続けるためには、

“語られない祈り”を見つめる目こそが必要だった。


君がいまこの頁を閉じたということ。

それが、記録の外にいた者たちの名を、

ようやく“観測しはじめた”という証なのだ。


どうか、この声なき祈りに、名なきまなざしを注いでほしい。

それが、世界における最初の祈り――

語られぬことを受け容れる祈り、なのだから。


――記録者サーガ、断章に刻まれし頁をここに閉じる。

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