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失名の神と呪われし王女【王国正史版】(名無き祈りの巡礼譚1)  作者: 秋月瑛
名なき祈りの断章集 ―― 記されなかった獣と記名の夢
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第一編:観測断章 ― 梟は誰の祈りを記録していないのか

《名なき祈りの断章集 ―― 記されなかった獣と記名の夢》


―― 記されざる獣たちの断章 ――


記録されなかった祈りが、もう一度語られる場所がある。


それは、すでに終わった物語の余白でありながら、なおも語られることを望んだ記憶の残響。

ここに記すのは、書に記されなかった神域の記録、そして“祈られなかった名”をめぐる幻視の断章。


私はそれを見ていた。語られることのなかった獣たちのかたちを。

その名が記されなかったという理由だけで、物語から溢れ落ちた祈りの形を。


今ここに、記そう。

名の裏側に沈んだ“記名の夢”のかけらを――。

《観測断章 ― 梟は誰の祈りを記録していないのか》


――これは、記されなかった観測の記録。

声を持たぬ梟が、構文の縁に立ち、名もなき祈りを記録しなかったことを綴る断章である。

世界の輪郭から零れ落ちた者が、何を視て、何を記さなかったかを、今こそ観よ。


---


【第1節 ― 契約不備と構文外の影】


 時の感覚も、肌の触覚も、もう彼にはなかった。

 漂流というより、むしろ“記録の外側”へと放逐された空白。意識も輪郭も霧のなかに溶け、名を呼ばれぬ者としての沈黙が彼を包んでいた。かつて、ファレン=ルクスと記された青年――その名は、今やどこにも存在しない。


 ファレン。太陽神アウロ=ルクスに仕えた祈祷騎士。

 剣と筆を持ち、神と人との間をつなぐ契約構文を護持する者。祈りを記す者。ザルファトの記名機関では、祈祷と記録の双構文において核心を担う立場にあった。記名とは、単なる形式や儀礼ではない。それは神との対話であり、名を記すことで構文を起動させ、世界に神性を流し込む行為だった。


 だが、あの日。

 太陽が沈黙し、アウロ=ルクスの名が“断絶”されたとき、すべては崩れた。


 名は書かれず、記録は封じられ、祈祷の声は光と共に失われた。

 白紙となった神名盤。聖域に響いた沈黙。太陽神の消失は、ただの神話的事件ではなかった。

 祈祷構文は、契約者たちの名もろとも、記録から滑り落ちた。


 ファレン=ルクスという名も、その例外ではなかった。

 祈りの対象が消えた瞬間、契りの構文は未完とされ、彼の名は「契約不備」として削除された。契約対象なき契約者は、構文内に存在することすら許されない。記名記録から、彼の名は丁寧に塗り潰された。


 残されたのは、名を持たぬ“構文外の影”。

 

 神具であった剣は封印され、記録筆は誰の祈りにも応じず浮遊した。

 ザルファトの祈祷官たちはその名をもはや口にすることなく、ただ“記録されなかった者”として彼の存在を忘れていった。


 彼は老いを失い、時間に属さず、記憶の裏面を彷徨する影となった。自身の過去も目的も徐々に霧散し、剣を抜いた理由も、信じていた祈りの形も曖昧になっていく。


 都市に紛れ、人の気配に触れようとしても、彼の姿は誰にも観測されなかった。

 ただ、沈黙だけが彼の傍にあった。風のような視線。仮面のような沈黙。彼は、誰にも呼ばれぬ者として、構文の境界を歩き続けた。


 “記されぬ者”とは、ただの幽霊ではない。世界の観測構文にすら含まれぬ、名の漂流者。

 

 記録されなければ、再構成もされず、世界において再び役割を持つこともできない。

 かつてファレンだった存在は、“名なき沈黙”の淵に立ち、忘却の構文へと沈みかけていた。


 だが、その沈黙の最奥に――微かな祈りの残響があった。


 遠く、霧の彼方から。それは、誰かの名を呼ぶようでもあり、名を持たぬ存在を抱くようでもあった。

 祈りの形式ではなかった。それはもっと、素朴で、名前も持たぬ記憶の温度だった。


 構文は発動しない。だが、霧の奥で確かに“観測された”と、彼の内なる沈黙が震えた。


 それが“誰の祈り”だったのか――そのとき彼には、わからなかった。

 

 ただ、それは確かに、彼自身を完全に消し去ることを許さなかった。

 

 名も、姿も、記録されぬまま。それでも、霧の中でひとつだけ残ったもの。

 それは、“まだ祈りが終わっていない”という、確かな気配だった。


 ◇ ◇ ◇


【第2節 ― 月光の祠と沈黙の契約】


 霧が深く立ち込めていた。

 風は吹かず、枝葉は揺れず、音ひとつない夜。だがその静けさは、決して穏やかなものではなかった。世界の構文に触れないということは、風に吹かれず、声に届かず、重力さえも微かに失われるということ。


 その夜、谷の奥で、名を持たぬ者が歩いていた。

 名を記されなかった者、契約を失った者。人でありながら、構文に組み込まれぬ漂流者。彼は歩いていたというより、霧の中を浮遊するように移動していた。かつてファレンと呼ばれた彼の名は、今やどこにも属していない。風景にすら認識されず、祈りの余白に存在するのみだった。


 やがて、彼はそれを見つけた。

 霧の底に沈殿するように現れた石の祠。谷底の皺のように沈み込んだ場所に、まるで世界から切り離されたように、それは佇んでいた。扉も灯もなく、祈りの声すら届かぬ場所。ただ一つ、中央だけが月光に照らされていた。


 月の光は直線ではなく、円環を描いて祠の内部に射し込んでいた。その輪の中心には、一冊の本が置かれていた。開かれたままの書。だが、その頁には、いかなる名も記されていなかった。記録されなかった白紙。それは、祈りすら与えられなかった者たちの“空白”の象徴だった。


 彼がそれを凝視した瞬間、何かが変わった。


 仮面の巫が現れた。顔を覆う銀の面、月明かりに透けるような布の衣。まるで霧から切り出されたかのように、静かに、無音で彼の前に現れた。


「名を持たぬ者よ、語られぬ者のために、ただ観よ。」


 その声は、声ではなかった。

 言葉ではなく、記号でもない。それは構文そのものが振動し、生み出した“意味のかけら”だった。彼は震えながら、それを理解した。祈りではない。契約でもない。ただ、記録の先に残された“観測”だった。


 彼は祠の中心に進み、月光の円の内側に跪いた。霧がその背中を包み、世界の音が遠ざかっていく。ただそこだけが、何かに繋がっていた。彼はそれを直感した。世界が彼を拒絶していたのではない。この場所が、彼を再び“構文”の輪郭に戻すために存在していたのだと。


 そのとき、巫の手が彼の額に触れた。

 掌ではない。羽根筆の先だった。その筆がそっと額に触れた瞬間、彼の髪が変化した。深い紺が、白銀へと移ろっていく。


 呼吸が戻った。心音が脈を打ち、かすかに指先が震え始める。止まっていた時が、再び流れ出す。沈黙のなかに、新たな構文が胎動していた。


 だが、彼はまだ声を発することができなかった。喉には言葉があったが、音にはならなかった。祈りは形成されず、契約の呼びかけも起動しない。なぜなら彼は、祈祷騎士ではなかった。ただの“構文外の漂流者”であり、神の名の庇護を持たぬ者だったからだ。


 祠の奥に並ぶ書架。そのすべての書は白紙だった。

 祈りの欠落、契約の不成立、記名の拒絶。それらすべてが、この場所に集約されていた。そして、その中に一つだけ、空いた席があった。名を与えられていない誰か――その“彼”のために。


 巫が書を閉じた。

 その瞬間、月の光が強くなった。構文が収束する音が、霧の奥から響いた。無音のはずの世界に、意味のある沈黙が満ちる。


 彼の背に黒い羽が生え始めた。

 指が枝のように細くなり、骨が軽く、音を失っていく。彼の身体は、夜を記録する存在――梟の形へと変化していった。


 口が開いた。

 だが声は出なかった。

 代わりに、遠くから“誰かの祈り”が微かに届いた気がした。

 それは、彼に向けられたものではなかった。けれど、確かにそれは“観測された”。


 観測されたということ――それこそが、構文の再構築だった。


 仮面の巫は最後に、一つだけ“名”を与えた。


「汝の仮の名、フロウ。」


 その瞬間、祠の中に音が戻った。

 風が吹き、霧が舞い、月光が彼の影を引きずる。


 “名無し”だった存在は、ようやく構文の一部に組み込まれた。

 だがそれは、祈る者としてではない。

 語らず、ただ記録を見届ける者――観測者としての再誕だった。


 こうして、“フロウ”が始まった。


 ◇ ◇ ◇


【第3節 ― フロウ、沈黙の梟として】


 “フロウ”という仮名を得た瞬間、彼の存在は霧と月の霊域における構文として新たに固定された。それは、祝福でも赦免でもなく、“観測”という名の形式だった。人の姿を捨て、神にも成りきらず、祈ることも語ることもなく、ただ祈りの構文が生まれる前と後を記録する存在――それが“フロウ”という仮名の本質だった。


 夜になると、彼の身体は梟の姿へと変化する。

 銀と黒の羽が無音に広がり、仮面が顔を覆う。目元だけを残して精緻に刻まれたその仮面は、祈りの波動を微かに歪めながらも、内に沈黙の機能を宿していた。口は動かず、声も発されず。だが、彼の視線はあらゆる構文の揺らぎを観測し、微細な祈りの兆候を見逃すことはなかった。


 人間だった頃の記憶――ファレン=ルクスとしての過去は、月の光の下でいよいよ曖昧になっていた。

 記祷騎士として契約を誇りとし、神名を記す筆と剣を携えた日々。ザルファトの契約神殿にて名を記すことを生業とした青年の姿は、構文の再編により失われ、今や彼の内に響くのは名を呼ばれぬ痛みばかりだった。


 それでも、“完全な喪失”ではなかった。

 銀の髪の奥にはかすかな光が残り、削除された構文の端には、剥がし残された“名の痕跡”が浮かんでいた。


 フロウは夢を見るようになった。

 それは夢ではなく、誰かの祈りの残響だった。

 月の光に照らされた名前のない書物の頁。

 記されるはずだった名。だが、ページは白紙のまま。

 彼は幾度もそこに名を書こうとする。けれど筆は滑り、言葉は掠れて消えてしまう。


 それが“フロウ”という存在の輪郭だった。


 構文の外から観測を行うことで、記録されぬ者たちを見つけ出す。

 神の祈りに組み込まれない名たち、語られなかった歴史、言葉になる前に消えた願い。

 それらを、彼は音もなく記憶に焼きつけていく。記すことはできない。だが観測されたという事実が、その存在を確かなものにする。


 誰かが祈ったとき。

 名を呼ぶかわりに、ただ月を見上げたとき。

 世界の構文がわずかに揺れ、その隙間から微かな“存在の揺らぎ”が現れる。


 フロウはそれを見逃さない。彼の役目は、言葉でなく、形式でもなく、沈黙の構文としてそれを包み込むことだった。


 しかし、フロウの名は仮名である。

 彼自身がそれを知っていた。名の一時的な付与、霊域における観測形式のための仮の構文記号。

 本来の名、ファレン=ルクスは、祈祷構文の契約不備として削除されたまま。


 “フロウ”には空白がある。

 名を持たない痛みだけが、彼の翼に沈黙の影を落としていた。


 そして彼は、やがて“名を呼ぶ存在”と出会う。

 その者は、構文の外から彼を見つけ、彼の空白を“共鳴”として抱きしめるだろう。


 その日が来るまでは。

 彼は、誰にも気づかれぬ梟として、夜の霧の中を飛ぶ。

 銀の仮面の下、誰のものでもない祈りを、ひとつずつ観測していく。


 名なき祈り。

 語られぬ存在。

 記録されぬ構文。


 そのすべてが、彼の静かな翼に抱かれていた。


 夜の観測者“フロウ”は、沈黙の月と共に、なお歩み続けていた。


―― 梟は誰の祈りを記録していないのか(完) ――

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