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第6話 ― 記名都市ザルファトと欠落の契り

【幕間 ― 記記名という制度が始まる地へ】


 船は、夜明けの海を進んでいた。


 薄くたなびく霧の帳の向こうに、水平線がほんのわずかに淡く色づいていく。空と海の境界はまだ曖昧で、帆を膨らませたセリファ号の影がその境界線を裂くように滑っていく。甲板の上に立つセーレは、揺れる風を胸いっぱいに吸い込んだ。潮の街リュア=ヴァイスを出航して数日、名を預けた静寂の余韻がまだ体の奥に残っている。


 この海域――《ノルダの内海》は、古くは“契約の風”が吹くと信じられた静謐な水域である。南方の巡礼港から東方列島へ至る主要航路の一端に位置し、神々の盟約を結ぶ“場”として知られたザルファトを中心に、古の海図には星々の航行儀と共にその名が記されていたという。


 船の周囲には誰もいない。フロウは夜の見張りを終えて船室に下がり、乗組員たちは交代で休息をとっている時間帯だった。誰の声もなく、ただ帆の軋む音と波のさざめきだけが、彼女の思考をたゆたわせていた。


 セーレは胸元の結晶に触れた。そこには、今も“失名の神”アウロの断片が眠っている。だがもう、それだけではなかった。これまでの旅で得た名や、潮神の神殿で王家代々の名も刻まれていることを知った。

 名は奪われたままだ。けれども、自分の存在を示す名はここにあると感じられる。


 夜が明けかけたそのとき、前方に島影が浮かび上がった。


 初めはただの暗い影だったそれが、陽光に照らされるにつれ、その正体を現していく。巨大な門のように屹立した岩壁、星の軌道を刻んだ塔、そしてその間を繋ぐように何層にも折り重なった回廊と階段。そこにあるのはひとつの都市――契約と記録の都、ザルファト。


 その外郭は、まるで天球儀を模したかのように建築されていた。回廊は神話における「時の環」を象徴し、星を刻む塔は“誓いの証人”とされ、夜になると石盤に刻まれた軌道が月光に照らされて浮かび上がるという。


 海の中腹からそそり立つようにして築かれたこの都市は、かつて神々の盟約を交わすための場として栄えたという。伝承によれば、初代の契約神はこの地で言葉を刻み、世界の理を定めた。それゆえ、この街に足を踏み入れる者は必ず“名”を記すか、“契り”を示さねばならないという。


 ザルファトの港は、まるで巨大な書物の見開きのようだった。左右に広がる石造の岸壁には、無数の文様と図式が刻まれており、それぞれが異なる“誓約”や“証明”の印となっている。波打ち際には碑のような白柱が並び、そこには風化しながらも読み取れる古語の記録が並んでいた。誰が、いつ、どのような“約束”をここに残したのか――すべてが記され、決して塗り替えられない。


 その柱群のあいだを縫うようにして、古の契約船の名残とされる木製の浮標が漂っていた。そこに掛けられているのは、小さな刻印付きの“名の札”であり、かつて海を渡った巡礼者が記録者に預けた“仮の誓い”だったという。


 セーレは、圧倒されたようにその全貌を見上げた。


 ザルファトは、仮面の街や潮の港とも異なる、明確な“名の重み”を持つ場所だった。名を預けるでも、忘れるでもない。“記す”という、最も抗いがたい形で――名を固定し、責任を刻む場所。


 それは、神と人とを隔てるものではなく、両者の“間”に橋を架ける構造そのものだった。


 そしてその都市が、彼女たちの次なる巡礼の地だった。


 そこに刻まれた名は、もう読めない。

 けれど、誰かがかつて、確かに祈ったという事実だけは、石に残っていた。

 記された名は風化しても、契りは記録され続ける――この街では、忘れることさえ、許されない。

《第6話 ― 記名都市ザルファトと欠落の契り》


“名を記すことは、契約を結ぶこと。だが記された名は、時に血より深く結びつく。”


――記録神殿の碑文より


-----


【第1節 ― 記録の重みに沈む都市、記名の起源】


 山と山の狭間にひっそりと築かれた灰銀色の都市――それが、ザルファトだった。

 日中にもかかわらず、霧の帳がわずかに残る中、都市は硬質な静けさを保っていた。


 まるで断崖に刻まれた巨大な碑文のように、その外壁は古代の契約石で構成されていた。

 夜になると、その石面に刻まれた文様が淡く脈動し、都市そのものが名を呼吸しているかのようだった。ひとつひとつの石に、筆致の異なる古語と誓約符が彫り込まれており、記録そのものが建築材となって街を形成していた。

 都市というより、まさに“記録の書庫”だった。ここでは物語ではなく、条文が風景を成している。石に記された言葉が、崩れぬ重みで積み上げられ、世界の摂理を支える骨組みとして屹立していた。


 セーレとフロウがその門をくぐった瞬間、まず目に入ったのは、天頂にまで届くような巨大な銘石門だった。

 その表面には無数の契約印が幾重にも重ね押されており、通行者一人ひとりの名が“仮署名”としてその場に刻まれる仕組みになっていた。

 名前を記さなければ都市には入れない。記名なき者は、存在すら許されない。それがこの街の鉄則だった。


 門番の神官が無言のまま書板を差し出す。

 仮面はつけていなかったが、彼の眉間には小さく光る印が刻まれていた。“信名刻”――名と誓約を結びつける術式であり、この都市における“顔”の代わりを担うもの。


「名を預け、記録に署すれば、この都市では生きていける」


 静かな口調でそう告げられたセーレは、一瞬だけまばたきをし、視線を胸元の結晶へと落とした。指先に力を込めるようにしてそれを握りしめ、名を記す覚悟を胸に、息を整えて応じた。


「……名前を記すことが、ここでは誓いになるのね」


 神官は静かに頷き、書板を胸元に引き寄せた。その仕草には、長年の習慣として染みついた儀礼的な重みと、名を交わすことへの敬意が滲んでいた。


「忘れぬために記し、信じるために契る。それが我らの掟。名は記録によって守られる。忘却に抗う、唯一の方法です」


 セーレは胸元の結晶をそっと握りしめた。

 “記されざる神”の名を宿したその石が、この場所においてもなお記録を拒み続けていることが、皮肉のように思えた。

 そしてふと、母アルティナの名がこの都市の記録に一切存在しないという事実が、胸の奥に小さな棘のように疼いた。名がなければ存在しないとされるこの都市において、記されなかった母は、この世界の外に押し出されている――そんな疎外感が、静かにセーレの中に広がっていった。


 石造りの階段を登りながら、彼女は目の前に広がる光景に息を呑む。

 街並みは段丘のように幾層にも重なり、家々の壁や門、さらには街灯や水路の縁に至るまで、あらゆる構造物に契約文様がびっしりと刻まれていた。

 子どもたちが遊ぶ石畳にも“模擬記名”の落書きが並び、上層からは記録巻紙を運ぶ記名滑車の音が響いてくる。それは記録であると同時に装飾であり、呪術でもあった。

 ザルファトの都市空間そのものが、名と契約の総体なのだ。


 風が抜けた。


 乾いた石の谷間を吹き抜ける風は、まるでその契約石のあいだから囁きのような音を運んできた。


 幾万の名が、そこに刻まれたまま眠っている。忘れられた名。捨てられた名。あるいは、もう誰のものでもない約束の残響。


 フロウは梟のまま、小さく目を細めた。

 石段の上から都市を見下ろし、記録の塔へと繋がる構文の気配を静かに感じ取る。日は高く昇っていたが、彼の身体には未だ変化が訪れていなかった。


 この街が、名を“記すこと”に過剰なまでの執着を抱いていることを、彼はすでに直感していた。


「……日が昇ってるのに、まだ梟のままかって? ここじゃ仕方ないさ」


 フロウはかすかに羽を震わせ、片翼で陽を避けるように身体を傾けた。名の構文に縛られる感覚が、すでに彼の羽ばたきを鈍らせていた。

 ひと息おいて、かすれた声で続ける。


「この都市は、契約の力が強すぎる。昼でも、信仰や記録の構文が優先される。ムーミストの加護は抑えられるはずなのに……この都市じゃ逆に縛りを強めてくる。俺は“夜の姿”のまま、縛られてるんだ」


 日差しを受けながらも、セーレの姿は変わらない。

 彼女は名を記されていない“余白”として、この都市では構文に縛られていなかった。


 セーレは足を止め、しばし空を見上げた。陽の光に照らされた梟の姿を横目に、思いつめたような表情で口を開いた。


「……この都市では、“記してはならぬ名”というものはないの?」


 フロウは一拍の間を置き、目を伏せたまま静かに首を縦に振った。羽根の揺らぎが、記憶の深層に触れたような沈黙を帯びていた。


「あるよ。伝承に語られる“双名者”という存在がいる」


「双名者……?」


 その響きに、フロウ自身もまたわずかに眉をひそめた。口にした瞬間、名がもたらす矛盾の構文が思考に滲み出すように、目元にかすかな影が宿る。記録が記録を乱すという概念の居心地の悪さに、彼の羽根がほんの僅か震えた。


「ひとつの身体に、二つの名を刻まれた者のことだ。ひとつは生前に、もうひとつは死後に誤って記された――あるいは、契約の重複によって別人として認定された。すると、記録体系が混乱する」


「それで……?」


「記録から“存在”が削除されるんだよ。両方の名が無効になり、本人が存在していた痕跡そのものが、記録のなかから消えてしまう」


 ただし――とフロウは付け加えた。


「潮の街で与えられる“潮名”のようなものは例外だよ。あれは“第二の存在”としての記名じゃなくて、“ひとつの存在が仮に借り受ける異名”に近い。仮面や称号、もしくは信仰上の異なる位相で呼ばれる名前というだけで、双名者のような“二重登録の矛盾”にはならない」


 その言葉に、セーレは思わず息を呑んだ。胸の奥に冷たいものが走る。記録という構文の外に立たされるということ、それが“存在の喪失”と等しいとしたら――その理が、肌を撫でる風よりも冷たく彼女の中に降りてきた。


「……記録に名がなければ、生きていても“存在しない”ってこと?」


 フロウは静かに目を閉じ、呼吸とともに短く首を傾けた。そこには否定も肯定もない、ただ都市の理に従う者としての重みがあった。


「それがこの都市の理だ。だから、人々は記名を誤らぬよう、神官に立ち会わせ、必ず“印主”を介して契約する。誤って名を重ねれば、世界がその存在を忘れてしまうから」


 坂を上るごとに、都市の“密度”が変わっていくのが分かった。

 書庫都市ザルファトは、都市機能そのものが「記録の階層」と連動していた。低層には生活と交易の記録が、中層には市民身分と契約台帳が、そして最上層には神殿と行政の記録が存在する――それは知識の集積であると同時に、実在性を階層化する秩序のピラミッドだった。


「存在とは、名によって階層付けられるものだ」


 それはこの都市で古くから語られる教義の一節であり、記録の塔を象徴する言葉でもあった。


 そして、セーレの視線の先には、その記録塔の尖端がそびえていた。

 それは神殿であると同時に巨大な筆記所であり、石板と巻紙が幾千も保管された“祈祷記録殿”だった。信仰の対象は“神の像”ではなく、“神の名が記された文書”。祈りの所作は詠唱ではなく筆記であり、神官たちは手に羽根筆と印章を携え、祈りのように記述を繰り返していた。


 セーレは、石畳に刻まれた碑文のひとつに目をとめた。


 《記されし名は命に似る。記されぬ名は影に似る。影を拒むことなかれ。》


 その言葉に込められた警告と、赦しのような響きに、彼女は目を伏せた。


 影とは、記されない存在のこと。だがその“影”にすら名を与えることが、ザルファトという都市の傲慢であり、同時に祈りでもあるのだろう。


 その時、遠く鐘の音が響いた。塔の上層から、契約更新の時を告げる音だった。


「時刻を刻むのも“記録”の一部なんだね……」


 セーレは鐘の余韻に耳を傾けながら、ひとりごとのように口をひらいた。その声には、理解と違和感が入り混じっていた。


 フロウはわずかに首を傾け、苦笑のような気配を羽に滲ませた。都市構文に飲み込まれた者としての諦念と、名を記すことの重みを知る記録者としての実感が、その仕草に静かに現れていた。


「そう。ここの“時間”も、“出来事”も、“人の在り方”すら、すべてが書式によって定義される。まるで……この都市そのものが巨大な契約書みたいなもんだ」


 記録は、命を護る盾でもあれば、魂を封じる檻にもなる。


 セーレはふと、封箱の中に宿る“記されざる神”の名を思った。


 名を記すことで存在が確定する都市において、それは致命的な異物だった。だが、同時にこの都市を揺るがせる“例外”でもあった。


「記されないものが、記される世界を揺るがす」――その瞬間のために、彼女たちの旅は続いている。


 この都市の祈祷記録殿の奥に、かつて“存在しなかった名”の痕跡が残っているならば、彼女はそれを確かめなければならない。


 風が塔を撫でた。千の名が刻まれた石たちが、乾いた音を立てながら、静かにその存在を響かせていた。


 ◇ ◇ ◇


【第2節 ― 図に記されぬ地、欠落構文の領域】


 ザルファトの街は、記録そのものが構造体となった都市だった。

 石畳の道には光を反射する細かな線刻が走り、路面そのものが“過去の記録”を再構成した地図として機能している。建物の壁面には信仰ごとの記名紋章が埋め込まれ、陽光が差すたびに祈祷構文が浮かび上がる。


 人々もまた、この街の一部として生きていた。

 住民は皆、小さな記名札を首元や袖口に下げており、それぞれの名と役割が視覚化されていた。

 日々のあいさつには、手のひらを広げて自らの名を示す独特の所作が用いられ、言葉よりも構文を優先する生活が根づいている。記録官に至っては、衣服に刻まれた“書式階級”の刺繍によってその筆記権限が示されるため、街を歩くだけで誰が何を記せるかが一目で分かるほどであった。


 都市の中心部には“名の階層”に応じた居住区画があり、上層には完全記名者、下層には仮名使用者や名の断絶者が配されている。街の空間自体が“記名の価値”を反映したヒエラルキーで構築されており、祈りは制度に、制度は記録に、そして記録は生活に浸透していた。


 ザルファトの都市を歩いていた途中、セーレは一つの建物の前で足を止めた。


 それは街の中層部に位置する《記録閲覧舎》と呼ばれる区画だった。書庫の一部が半ば公的に開かれており、誰でも簡易な記録文書や巡礼地図、旧時代の祈祷録を閲覧できる場となっている。


 石造りの回廊の一角。

 小さな回廊の先、柱に囲まれた円形の閲覧室。陽光を取り込むガラス天井の下に、円卓と石張りの閲覧台が並び、筆記灯のもとに静かな気配が漂っていた。


 そこには古びた地図帳や巡礼記録が静かに眠っていた。

 記録官の案内を受けながらも、彼女の視線は自然とその一冊に引き寄せられていた。


 セーレは、その中央に置かれた一冊の地図帳に目を留めた。


 装丁は革張りで、表紙には「大信仰圏巡礼図録」と刻まれている。手に取ると、革が微かに軋んだ。書架のそばには閲覧卓があり、陽を吸った淡い光が紙面に差し込んでいた。


 地図は実に緻密だった。

 街道と河川の流れが織物のように絡み合い、各地の都市には小さく神名の記号が添えられていた。地図全体が、神の名によって結びつけられた“信仰の網”であり、名の鎖で構成された祈りの構造体のように見えた。石の都ザルファトには「記名の契約神」、仮面の都アークには「太陽神アウロ=ルクス」、潮風の港ラヌマには「潮神ネリュエ」――祈りの在処が、名の鎖として地図を形成していた。


 だが、セーレの指が辿った場所には、なにもなかった。


 その網にぽっかりと空いた空白。名の鎖がちぎれ、祈りが届かない裂け目のようだった。


「……リコナがない」


 ふと、声が漏れた。

 ミルタ=エルも、見当たらない。以前渡った“名なき浮島”も、この地図の上には存在していなかった。


「当然です」


 声をかけたのは、記録閲覧舎に常駐していた補助筆記官だった。年若く、しかし無表情で、筆記職らしい均質な声色をしていた。


「そこは“記されないこと”によって守られている土地。記録に載せれば、誰かに祈りの網をかけられてしまう。だからこそ、地図にも記しません」


 セーレは眉をひそめ、目を伏せるように視線を地図へ落とした。記されないという行為に、守りと排除の両義性があることを、思わず反芻していた。


 筆記官は黙って、地図の余白――山と海のあいだに描かれた、灰色にぼかされた帯を指でなぞった。


「この帯は、《欠落域》と呼ばれています。記名神の加護が及ばず、位置も境界も記録帳によって異なる。名が定まらないのです。記録は空間を固定しますが、それは同時に――」


「――祈りを縛ることでもある」


 セーレが呟くと、記録官はほんのわずか眉を持ち上げ、目を細めた。その瞳には驚きではなく、むしろ納得に近い光が宿っていた。想定外の言葉を受け止めながらも、彼はゆっくりと呼吸を整え、淡く頷くような動作で応じた。


「よくご存知ですね。“記名とは、名に重みを与えること”。それがこの都市の掟です。しかし、記録されない名、記されぬ祈りもまた、どこかで息づいている。記録官であれば、その可能性も信じるべきでしょう」


 セーレは、地図の余白を見つめた。


 名が書かれないというだけで、世界から閉め出される――それが本当に、祈りのかたちなのだろうか?


 灰色に塗られたその帯は、まるで霧のようだった。かつて浮島ミルタ=エルへ導かれたときと同じ、あの“名前を問われない祈り”の感覚が蘇ってくる。


 記されることで定まる都市。記されぬことで護られる地。


 その断絶が地図の上に可視化されていることが、彼女には強烈に印象づけられた。


「……この都市では、記されることが信仰であり、存在の証なんですね」


 記録官は一瞬だけ目を伏せ、深く息を整えると、静かに頷いた。その仕草には、記録という信仰体系に生きる者としての責任と葛藤の余韻がにじんでいた。


「そう。だからこそ、“記されぬもの”を探す旅は、我々にとっては禁忌でもある。だが――あなたには、それが必要なのかもしれない」


 彼女の胸元で、結晶が微かに震えた。あの“名を拒む神”が、ここにも確かに痕跡を残している。


 記録を信仰とする都市で、記されぬ名の祈りを探す。

 それがこの旅の意味であり、失われた何かに繋がる唯一の糸なのだと、彼女は改めて感じていた。


 セーレは地図の余白を見つめた。灰色の断片。それは地図の不完全さではなく、“記録そのものの限界”を示す帯のように見えた。

 彼女の胸の奥で、港で授けられた“仮名珠”がかすかに震えた。あの神の名もまた、いまだ記録されていない。


 記されぬ地、記されぬ神。

 それでも、確かにそこに在るもの。


 セーレはもう一度、地図の余白に指を触れた。その灰色の帯は、ただの空白ではない。彼女の脳裏には、かつて読んだ神話断章――《ノート=エスラ》の記した「空白頁」の一節が蘇る。


“神が記されなかった頁は、沈黙の祈りの器となる”

 

 それは、名を記すことが叶わなかった神々のために残された空白。忘却でも、欠落でもない。「呼ばれること」を待つ余白だった。書かれなかったからこそ、いつか誰かによって書かれるために残された――祈りの予兆としての空白。


 それは、名を記すことが叶わなかった神々のために残された空白。忘却でも、欠落でもない。「呼ばれること」を待つ余白だった。


「……この頁は、記されぬ名を受け入れる器だったのね」


 セーレはそっと息を吸い、視線を余白の上に落としたまま、ためらうように呟いた。胸の奥に滲む感覚をすくい上げるような、祈るような声音だった。


 記されぬ土地、記されぬ神々。そして、それを抱えた旅人自身もまた、“名を問われない器”であるべきなのかもしれない。


 記されぬ神を宿した自分の胸に、その空白の頁が重なって見えた。名を記す者ではなく、名を待つ者。名を問う旅人ではなく、名を託される器として――そう思いながら、彼女はそっと地図を閉じた。


 そして、フロウのもとへと戻った。


 ◇ ◇ ◇


【第3節 ― 記名都市の呼吸と、名を持たぬ影たち】


 ザルファトの街路は、まるで迷宮だった。


 都市全体が“記名幾何”とでも呼ぶべき構造体であり、すべての通路と広場は、契約に基づく設計図と一致するよう構築されていた。


 石段がいくつも枝分かれし、それぞれが空中回廊となって別の層へと繋がっている。居住区の屋根は橋で連結され、梯子や斜路が縦横無尽に交差して、都市全体が多層構造の記憶装置のような様相をなしていた。

 高所に吊された光採り板から反射した陽光が、時おり石壁に記された文様を照らし、その影が床に複雑な契約の幾何を落としている。そこにすら、意味が刻まれていた。


 都市の鼓動は筆音となって響き、石畳には昼ごとに“日時記録”が転写され、毎夜、塔からの光が契名水晶に反射して都市全体の名を空に投影していた。光と影すらも“記録”として組み込まれているのだ。


 通りを抜けると市場に出た。

 だがそこには、商いの喧騒というものが存在しなかった。


 代わりに響くのは、筆の走る音と印章が押される乾いた音だけ。売買はすべて“簡易契約書”によって行われるのが慣例であり、言葉の代わりに契約がすべてを物語っていた。


 取引の場には紙ではなく、小さな石片や金属板が並べられ、それぞれに条件や対価が刻まれている。客はそれを手に取り、黙って頷き、対価を置いて商品を持ち去る。売り手もまた、黙ってその板を受け取る。まるで“声”すら余計な要素であるかのように、秩序だけが流れていた。


 その一角――市場に隣接する路地では、“筆記官の回廊”と呼ばれる通りがあった。


 そこでは、白衣をまとった筆記官たちが並んで机に向かい、絶え間なく契約文書の写本や転写、更新作業を続けていた。小さな祈祷灯が一人ひとりの机に灯され、その炎の揺らぎが紙面にかすかなリズムを与えている。


 彼らの筆は、単なる道具ではなかった。筆記そのものが祈りであり、書くという行為こそが信仰だった。書式の冒頭には、必ず“契印式祈句”と呼ばれる一文が添えられ、文末には“信名封”と呼ばれる小印が押される。書かれた契約は、もはや文書ではなく“儀礼”そのものなのだ。


 セーレはその様子を足を止めて眺めた。

 筆を持つ手の迷いなさ。語句を選び、印を押す所作の厳格さ。すべてが形式化され、何百年にもわたって繰り返されてきた祈りの連鎖のようだった。


「……ここでは、言葉すら不要なのね」


 セーレが思わず呟く。その声音には、淡い戸惑いがにじんでいた。港の街で名を預けたばかりの彼女にとって、“記録こそが存在を担保する”というこの都市の論理は、あまりにも極端に映ったのだ。


 通り過ぎる筆記官の一人が、ふとセーレに目を向けた。そして、頷くだけで歩みを止めず、再び筆先を紙面に戻した。その仕草すらも、どこか祝詞のようだった。


 だが、すべての住人がその秩序に属しているわけではなかった。


 石造りの広場の片隅、陽の当たらぬ路地を歩く者たちがいた。

 顔を布で覆い、名を記す刻印も契約の証も持たない者たち。彼らは“名のない旅人”と呼ばれる者たちだった。

 だがその姿には、奇妙な自由の気配も漂っていた。


 記録の外にあるということは、誰にも定義されないということ。そこには、都市の掟では決して与えられない在り方が、かすかに息づいていた。


 都市の記録網から外れた存在。かつて名を奪われた者。あるいは、自ら記録を拒んだ異端者たち。

 市民権を与えられず、公式の商いに参加することも許されない彼らは、裏路地で古びた契約符や廃文書の断片を売り歩いていた。ある者はかつての契名の一部を布に刺繍し、ある者は削れかけた信名刻の印を首から下げていた。


 それは、失われた記録に縋るような、生の残滓だった。


 彼らの暮らしの場は“裏刻区”と呼ばれていた。かつて正式な記名者でありながら、重大な契約違反――たとえば“契約名の重複”や“名の貸し与え”といった禁忌――を犯した者たちが追放された先だという。


「彼らには……名を記す場所がないのね」


 それとも、記されることを拒んだのかもしれない、とセーレは思った。


 その目には、どこか自分の過去を重ねるような陰があった。失われた名、呼ばれぬ神、その名を求めて旅を続けてきた少女にとって、ここで目にした者たちは、ある意味で“未来の自分かもしれない”存在だった。


「記録によって存在が定義される街……」


 セーレは、路地を彷徨う名なき者たちの背を見つめながら、小さく息を吐いた。目元には迷いと憐憫が滲んでおり、その声は自分自身へ問いかけるような静けさを帯びていた。


 フロウはセーレの横顔を一瞥し、沈黙の間に何かを噛みしめるように小さく息を吐いた。そして、路地の奥に消えていく名もなき者たちを見つめながら、静かに言葉を継いだ。


「つまり、忘れられた者は、この都市の構造から排除される。それが、この秩序の代償だ」


「……でも、名が記されないことでしか生きられない者もいる」


 セーレは視線を伏せたまま、ほんの一拍だけ間を置いた。その沈黙には、かつて名を奪われた者としての自覚と、目の前にいる名もなき者たちへの共鳴が滲んでいた。


 そして、思いの続きを押し出すように、静かに言葉を継いだ。


「名を持たぬまま祈ること。それが、私たちに許された最後の自由なのかもしれない」


 フロウは目を伏せ、片翅をわずかに揺らした。その沈黙は、自身の過去を胸の奥で反芻するような、ひどく静かな痛みを孕んでいた。やがて声が戻るように、彼は視線を外さぬまま言葉を継いだ。


「名を記されたことすらない者は、記録の背後にすら立てない。……祈る以前に、存在として扱われないんだ」


 その声音には、かつて名を剥奪され、梟へと姿を変えられた者の痛みがこもっていた。彼にとっても、名とはずっと呪いであり、同時に回復の願いであった。だがこの都市では、名は“所有”ではなく“記録物”であり、信仰と統治の軸だった。


 筆記官の回廊の奥、ひときわ高い書架の中に“禁名目録”という記録棚が存在するという。そこには、かつて二重に記された名――“双名者”と呼ばれる者たちの事例が記録されているという。二重記名は、この都市では構造崩壊を引き起こす禁忌であり、いかなる存在であれ“記録破壊者”として名ごと削除されるとされていた。


 秩序は、完成すればするほど、もろさと狂気をはらむ。


 ふたりは、名なき者たちの視線を背に、都市の奥へと進んだ。


 階段の上、層の頂に聳えるのは、ザルファト最大の記録殿にして神殿――


《エスラの塔》


 その天を刺すような尖塔は、契約の記録を天上に届かせようとする祈りの具現であり、同時に、名の重みを記し続ける石の墓標でもあった。


 最上層には“契名水晶”と呼ばれる装置があり、昼は太陽光を反射して記録された名を空へと送信し、夜には筆記殿から天に向けて“筆記光”が立ち上がる。


 都市の記録は、常に空と神々に開かれていた。


 ◇ ◇ ◇


【第4節 ― 契約神と記名の構文、記録の守人たち】


 ザルファトの心臓部にそびえる《エスラの塔》は、都市そのものの記憶装置であり、信仰の中心であり、そして“あらゆる契約を記録する神の器”でもあった。


 塔に祀られているのは、契約と記録を司る神、《エスラ=ノート》。

 この神の信仰においては、「名を記すこと」そのものが祈りの形式であり、信仰の実践だった。

 名とは一種の契約印であり、記録とはすなわち存在の証明。そのため、都市そのものが巨大な“神殿文書”となっており、塔はその頂点に位置する“名の錨”だった。


 塔の外壁は、黒曜石にも似た漆黒の岩石で構成されていたが、直に見ると金属的な艶を放っており、見る角度によっては虹色に鈍く反射する。

 その表面には、無数の文字がゆっくりと脈動するように刻まれており、まるで塔全体が“記録を呼吸している”かのようだった。


 無数の契約文言と名が、壁一面を埋め尽くしていた。それらは風化を許されず、日々の祈祷によって彫り直され、常に“生きた文字”として神に捧げられているのだという。

 積層された文字列は塔の輪郭を包み、まるで鱗のようにその身を守っていた。すなわちこれは、神の皮膚でもあり、都市の魂でもあった。


 塔の正面に立つと、“記名の門”と呼ばれる石門が眼前に現れた。

 中央には光を反射する契印盤がはめ込まれており、訪問者はそこに自らの名を刻むことで初めて神域へ入る資格を得る。仮名、真名、偽名を問わず、何かしらの「名」を記すことで存在を確定する――それがこの地の原則だった。


 セーレは、その前で立ち止まった。手に持つ結晶を強く握りしめたまま、石盤の前にしばし佇む。


 潮名は仮の名だった。それでも、祈りは届いた。だが、この場所に記す名は、“仮”では済まされない。


「名を記すってことは……固定することでもあるのよね」


 その言葉を口にしたあと、セーレはしばし沈黙した。名に縛られ続けてきた記憶が胸の奥を疼かせ、彼女の視線は結晶へと落ちていた。

 静かな空気の中で、もう一度言葉を選ぶように、そっと続けた。


「私は、名を取り戻したい。でも……その名が、どんなものになるかは、まだ見えてない」


 その呟きに応えるように、フロウが肩の上で低く鳴いた。

 小さく羽を揺らしながら、セーレの言葉を肯定するように身を寄せた。その声音には、これまで共に旅をしてきた時間を思わせる穏やかな響きが宿っていた。


「名は、刻まれた瞬間に力を持つ。それがこの神殿の掟だ。祝福にもなるが、呪いにもなる」


 フロウは名の持つ力を静かに言葉にし、羽根を揺らしてセーレに目をやった。そのまなざしはどこか過去の記憶をなぞるように深く、そして確かな確信を伴っていた。


 そのとき、塔の門が音もなく開き、巫女たちの影が霧の中から現れた。


 仮面を着けてはいなかったが、その眼差しには言葉以上の静謐な意志が宿っていた。

 だがその衣には、白布に織り込まれた契文が波のように走り、まるで彼女たちの皮膚が書物であるかのような印象を与えていた。彼女たちは名乗ることなく、言葉を使わず、灰色の契約板を差し出してきた。その所作は、まるで神前に供物を捧げるかのようだった。


 その板は粘板岩でできており、中央には名を記すための空白があった。


 セーレは板を手に取り、目を伏せた。


 名を記すという行為。それは、この世界に自分の姿を明確に刻むということ。だがもし、その名が偽りであれば――それすらも永遠に記録され、覆せなくなるかもしれない。


「……まだ記せない」


 セーレは手の中の板を見つめ、わずかに指先を震わせた。決意が揺らいだのではない。まだ、その時ではないと、胸の奥で何かが告げていた。


 そうして、板をそっと元の位置に戻す。その所作には、自分の選択を認めるような静かな覚悟が滲んでいた。


「名は、還るべき場所で記すものだから」


 巫女たちは無言のまま、わずかに視線を交わし合った。そのうちのひとりが静かに歩み出て、ほんのわずか首を傾けて頷いた。その所作は、言葉ではなく祈りとして応じる意志の表れだった。


「その判断もまた、“記録の一部”です。名を記さぬ巡礼者として、塔への入域を許可します」


 セーレは微かに息を吐き、門をくぐった。


 フロウは音もなく羽ばたき、セーレの肩に舞い降りた。

 その仕草は、言葉以上にそっと彼女の迷いに寄り添うようだった。

 そして、小さく息を吐くように、囁いた。


「この神には姿がない。契約文そのものが神の顕れとされ、塔に刻まれた文字がその肉体なんだ」


 フロウは一拍置いてから、羽根を静かに揺らしながら言葉を継いだ。その声には、過去の記憶をなぞるような重みと、今この場に立つ意味を知る者の確信が込められていた。


「この塔に最初の契約を刻んだ神――それが《トゥアール=レクトゥム》だ。記録を守り、忘却に抗う神。かつて、あの“失名の神”アウロの名もここに記されたことがあるらしい。ただし、いまでは――封印扱いだ」


 セーレは立ち止まり、目を細めた。


 封印された神の名が刻まれているとされる場所に視線を向けた。そこには他の文字と異なり、沈黙する石があった。彫られたはずの文が読めない。呼ばれない神の名。それは、記されたことが“あった”という記録だけが残され、誰にも読まれぬまま沈黙していた。


 記録されたけれど忘れられた神。呼ばれることなく、存在だけが保たれている神。


 それは――彼女自身のようでもあった。

 彼女の胸の奥で、封じられた名を宿す結晶がかすかに震えた。


 ◇ ◇ ◇


【第5節 ― 禁書の記録と、記されなかった神】


 神殿《エスラの塔》の内部は、外観の厳めしさとは裏腹に、ひたすらに静謐だった。

 それは“記録の神”が在す空間――祈りも賛歌も許されず、ただ名が記されることだけが信仰とされる、絶対的な沈黙の神域だった。

 空気は張り詰め、言葉も息遣いすらも吸い込まれるように沈黙の中へ消えていく。音はなく、香もなく、光すらも控えめで、まるで“感覚”そのものが削がれていくような空間。祈りも賛歌も不要――ここでは、記録だけが信仰なのだ。


 広大な回廊を進むにつれ、セーレの視線に映るものすべてが「記名」に従って秩序づけられていることが明らかになっていく。

 扉の額には住民の署名に準じた象形印が彫られ、机の引き出しには用途ごとの“契約封”が貼られていた。祭具ひとつ、筆ひとつすら、契約日と由来が記録されており、都市のすべてが名に従って構築されているのだと理解させられる。


 特に印象的だったのは「記名庁」と呼ばれる一室だった。

 そこでは、都市の商取引に必要な“商品名”や“契約品目”の登録が絶え間なく行われており、筆記官たちが次々と帳面を更新していた。記名は単なるラベルではなく、それを記した瞬間から商品や契約そのものが都市法に組み込まれる――すなわち、「名を記すこと」が、実在の担保であり、信頼の根幹だった。


「記録とは、物の魂をこの都市に接続する手段です」


 白衣の巫女がそう語ったとき、セーレは目の前の契約書を見つめていた。


 ある商品名の欄に、“双重名”が記されかけて、修正された痕跡があった。


「これは?」


 と問いかけると、巫女は静かに答えた。


「名を二重に記すこと――ザルファトではそれを“双名違反”と呼びます。ひとつの存在に二つの名が割り当てられた場合、記録体系が矛盾を起こし、記録構文自体が暴走するのです。かつて、それにより記録塔の構文階層が破綻し、祈祷系譜が断絶したという伝承もあります」


「……名が多すぎると、存在が揺らぐ?」


「はい。“名は一義”でなければならない。それが、我らの原則です」


 セーレは胸元の結晶にそっと触れる。


 これまでの旅でも、名をひとつに定めることの重みを幾度となく目の当たりにしてきた。潮の街では“名を還す”儀礼があり、霧の街では名を一時的に預けたり、仮名はその地を去る際に返すのが習わしとされていた。いくつもの名を持つことは、魂を分けることと同義であり、名の多さは混乱や危険を孕むものとされていた。その中には、未だに誰にも告げられていない名――忘れ去られた神の欠片が眠っていた。


 記されていない。それは“存在しない”ということ。


 だが、記されていないからこそ、いまもこうして脈打っているのではないか。


 ふと、塔の奥に視線を向けた。


 そこには“記録格”と呼ばれる棚群が並んでいた。契約石、巻物、金属板、紙片、そして水晶に封じられた語句まで、多様な媒体に記された文書が厳密に保管されている。棚の一角に、無人のまま微かに光を帯びた“封印棚”があった。


 セーレがその光景に圧倒されながら歩を進めると、巫女は黙って後ろからついてきた。そして、ある場所に差しかかったとき、足を止めて言った。


「……こちらへ。お見せするものがあります」


 巫女が案内したのは、塔の奥まった一角――照明の届かない薄暗がりに沈む“封印棚”と呼ばれる特異な格納域だった。


 重厚な石棚には鎖が幾重にも巻かれ、契約神の印章が上から下まで貼られている。封蝋の数は異様であり、ただの封印ではなく、“決して開けてはならない”という念が込められているのが見て取れた。


 だが、その封印の中央――棚の表面には、奇妙な“空白”が広がっていた。


 そこだけ、なにも記されていない。石材の摩耗でも、装飾の一環でもない。明らかに“意図的に削られた痕”だった。それは削り取られたのではなく、“記名構文ごと切断された”ような、言語の論理が破壊された跡だった。しかも不自然なまでに滑らかで、まるでかつてそこに“神の名”があったことを完全に消し去ろうとしたかのようだった。


 セーレは、思わず息を呑んだ。その空白は、ただの欠落ではなかった。名があったことを知っている“記録そのもの”が、苦しげに沈黙しているようだった。


 巫女が、ぽつりと告げる。


「ここには、かつて存在が記されていた神々の記録があります。ですが、信仰とともに抹消されました。“記された存在”を否定するには、その記録を削り取るしかなかったのです」


 その言葉に、セーレの心臓が跳ねる。


 失われた神、アウロ。


 名を奪われ、信仰を失い、存在そのものを封印された神。その名の残響が、この神殿の記録棚に“空白の痕跡”として残されているかもしれない――そう直感した瞬間、セーレは無意識に胸元の結晶へと手を伸ばしていた。


 フロウが、肩の上で低く囁く。


「記された名が封じられる。それは……死よりも深い否認だ。だが、名が刻まれた以上、その“痕跡”はどこかに残る。アウロの名がここにあったのなら、きっと何かが残ってるはずだ」


 彼女は頷くと、封印棚の前でゆっくりと目を閉じた。


 契印の封が波のように重なり、空白の石面を取り囲んでいる。


 だが、そこに触れたとき、彼女は微かに“温度”のようなものを感じた。


 それは、名を呼ぶでもなく、名を託すでもなく――ただ、“名を再び記されることを望む”という、祈りにも似た希求だった。記録でありながら、どこか祈りのように、言葉にならぬ声が沈黙の中に浮かんでいた。


 “名が削られた場所”に、なおも名の存在がしがみついている。


 忘却された神の、名の影。


 セーレは静かに囁いた。


「……あなたは、まだここにいるのね」


 その声は返されなかったが、封印棚の奥、記録格の隙間から、かすかな共鳴のような気配が広がっていった。


 耳を澄ませると、ほんの一瞬だけ、棚の奥からわずかな反響が返ってきた気がした。


 それは記録ではなかった。

 書かれた言葉ではなく、呼ばれぬ名が、再び“誰かに届こうとする”祈りの起点だった。


 それは――誰かの名を呼ぶ、記憶のこだまのようだった。



 ◇ ◇ ◇


【第6節 ― 記録が語る名、ファレンという過去】


 神殿の奥深く、静謐な石の回廊を抜けた先に、その部屋はあった。


 “契約の静室”――それは記録を書き込む場所ではなかった。

 むしろ“名を鎮める”ための空間。過去の記名が暴走し、現在の秩序を乱すことのないよう、いったん記された存在を“眠らせる”ための封印の間である。


 室内には、ひときわ大きな契約石が据えられていた。

 その表面は幾重にも文字が重なり、かつて誰かが幾度も署名し、またそれを改訂し、そして抹消しようとした痕跡が露わになっている。

 時間の層が刻まれたその石は、まるで記憶そのものが沈殿した岩のようだった。墨の跡が浮かび上がったり沈んだりし、刻印の奥で低く響くような音が微かに共鳴していた。墨の跡も、刻みの皺も、指の触れた摩耗も――すべてが“記名の歴史”としてこの石に刻まれていた。


 石の床を擦る衣の音が、まるで筆が紙をなぞるような細さで、長く響いてはすぐに霧散した。

 声はどこにもない。だが、この都市は沈黙ではなく、記録される音に満ちている。

 風が書板の間を抜けていく音が、まるで祈りの余韻を奏でるように反響し、空気そのものが《書かれつつあるもの》として震えていた。

 セーレはふと、足下の石畳が微かに震えているのを感じた。誰かが階下の書庫で頁をめくり、封印された名を筆でなぞっているのだろう。

 この都市では、呼びかけも、涙も、声も、すべて“記されること”によって意味を持つのだ――


 セーレはその前に立ち、無意識に手を伸ばした。石面の中央あたり、やや下部。そこにひとつ、歪に削られた名があった。


「……この名前……」


 声に出すのが怖いようで、だが同時に確かめずにはいられなかった。薄く削り取られたその部分に、かすかに残る文字の形――


 “ファレン・ルクス”。


 フロウは彼の“本名”ではなかった。  本来記されていた名は、“ファレン・ルクス”。  “フロウ”という名は、名を剥奪されたあと、再び誰かに呼ばれるまでの“漂泊の名”として刻まれたものであり、いわば“名の影”だった。


 巫女は契約石に刻まれたその名をじっと見つめ、視線を過去の記憶へと向けるように伏せた。そして、その沈黙を祈りのようにほどいてから、静かに言葉を添えた。


「それは、かつてこの都市で記録されていた騎士の名。“昼に仕えし忠誠の盾”と称され、神に仕える誓いを立てた者……。けれど、昼の神が断絶された後、その名もまた記録から削除され、“契約不備”とされました」


 “契約不備”――それは、記録の神殿における最大の罪名。契りを交わした存在が、その片割れを喪ったとき、記録は無効となり、名は削除される。神の不在と共に、仕える者の名すら否定される。


 その場を満たしていたのは、沈黙ではなかった。

 書架の奥で紙がめくられる音、遠くで誰かが石板に筆を落とす微かな響き――それらが、神殿全体を“記される祈りの気配”で満たしていた。

 ザルファトという都市そのものが、名を呼び起こす声なき者たちの足音に耳を澄ましているようだった。


 その瞬間だった。


 セーレの肩から、梟が音もなく飛び降りた。その瞬間、空間の構文がかすかに揺らぎ、石の床が波紋のように震えた。そして、契約石の前に、ひとりの青年の姿が立った。


 その変化は物理的な変身ではなかった。名が“語”として記録構造を貫き、祈りの中で形を与えられたかのように――存在が、構文に応じて定義され直されたのだ。


 ただの記録ではない。呼ばれた名が、記録の中で新たな像を結ぶ。それはこの都市で最も神聖な顕現――“再記名による人の復元”だった。


 白髪に灰色の瞳を持ち、褐色の旅装を纏った青年――フロウだった。


「ファレン……ルクス、それが、かつて呼ばれていた俺の名だった」


 彼の声は静かだった。だが、その静けさは決して沈黙に沈むものではなく、あまりにも確かに響いていた。

 契約石を前にした彼の瞳はまっすぐに据えられ、胸の奥から引き出されたその名は、言葉というよりも祈りのように、記録の神殿の構文を震わせていた。


 フロウが名を口にしたとき、その響きはまるで、石の壁を伝って都市全体へと染み渡っていくかのように感じられた。

 石造りの床がほんのわずかに震えた。まるで、街の記憶が揺れたように――


 セーレは息を呑んだ。神殿という“名を記す場所”で、彼が“名を名乗った”ことの意味の深さに気づいたからだ。


「俺は、かつて“昼と夜”の両神に仕えた騎士だった。だが、昼の神が消えたあと、俺の誓いは契約違反とされ、名は削られた」


 セーレは、はっとしたように彼を見つめた。

 瞳がわずかに揺れ、その奥で彼の語る言葉を咀嚼しようとするように、ほんの一瞬、言葉が出なかった。だがすぐに、思い出したように唇を動かす。


「……でも、あなた、記録官だったって言ってた」


 フロウは少しだけ目を伏せた。その瞳の奥に、一瞬だけ過去の記憶が浮かんでは消える。肩の力をわずかに抜くと、彼は静かに頷き、セーレの問いに応えるように口を開いた。


「たしかに“記録官”でもあったよ。この都市では、神に仕える者は剣と筆、両方を携えていた。祈祷騎士と呼ばれていたその役目は、神々の契約を記し、守る者。つまり俺は、戦いと記録の両方に仕えていたんだ。名を失ったあと、記憶も曖昧で……記録の断片だけが残ってた。だから最初は、それだけを名乗った」


 フロウの視線は、契約石の“削り跡”に注がれていた。

 そこに刻まれた歪な傷跡が、まるで自身の失われた記憶の空白と重なるように見えたのかもしれない。

 一瞬だけ沈黙が落ちた後、彼は静かに続けた。


「そのときから、俺は名を持たずにさまよっていた。記録もされず、語られもせず、ただ梟の姿で夜を漂っていた……。だけど、あんたと歩いてきて、少しだけ思えるようになったんだ」


 彼はわずかに振り返り、セーレに微笑を向けた。

 その微笑には、かつて名を奪われた痛みと、それを赦そうとする柔らかな決意がにじんでいた。

 そして、もう一度言葉を紡ぐ。


「名を呼ばれることが、呪いじゃない未来もあるかもしれないって」


 その呟きに、契約石がかすかに脈動するように、静かに光を返した。


「お前が“名を呼んだ”。俺を“フロウ”と呼んだ。それで、この名は目を覚ました。たとえ“ファレン”ではなくとも、“呼ばれた名”は祈りとなって記録を揺らすんだ」


 セーレはゆっくりと頷いた。そして、その瞬間、自分が名を“呼んだ”という行為が、この都市において“祈り”に等しい意味を持っていたのだと気づいた。記録が祈りならば、私はこの名に祈っていたのかもしれない――そう思いながら、胸元の結晶に手を添え、そっと囁くように言った。


「“フロウ・ルクス”……。光の流れ、あるいは、還る光――。それは、彷徨う祈りのような名。仮の名であっても、美しいわ」


 セーレは一息つき、胸元の結晶にそっと触れた。彼女の目には静かな決意の光が宿っていた。

 言葉を繋ぐように、ゆっくりと続けた。


「私が旅をしているのは、“名を取り戻す”ため。でも、それはきっと、自分の名だけじゃない。誰かの名を呼び、“取り戻す”ことも、この旅の意味だと、今、思えたの」


 フロウの瞳が、ほんのわずかに揺れた。何かが、記憶の深奥から浮かび上がるように。

 セーレがこの都市に連れてきたものは、ただ記録される名ではない。“呼びかける意思”そのものだった。


 巫女はその言葉を静かに聞きながら、手元にあった契印盤を開いた。薄い白石に覆われた盤の中央が、ゆっくりと淡い光を帯びはじめる。


「名は呼ばれることで、再び記録されます。そして、呼んだ者がいたという事実が、記録を未来へと繋ぎます。フロウ・ファレン・ルクス――この名で、正式に“復記”として登録いたします。この復記は、記録神の沈黙に刻まれる祈りであり、封じられた構文の再点火です」


 その瞬間、契約石にふわりと光の波紋が走った。


 削られていた“フロウ=ファレン=ルクス”の文字が、うっすらと、けれど確かに浮かび上がる。それはあたかも、記録の奥底に残っていた名の記憶が、再びその形を成したかのようだった。


 失われた名が、記録の地に還る。


 それは一つの奇跡でもあり、同時に“存在の回復”でもあった。


 部屋の空気が、どこか柔らかく変わった気がした。

 それは音ではなかったが、確かに聞こえるような感覚――

 まるで、契約の石自体が安堵の息を吐いたかのようだった。それは都市そのものが“記す構文”として、名の再構築を受け入れた瞬間だった。名を取り戻すということは、都市が忘れていた祈りを思い出すということ――その記録の息吹が、今確かに響いたのだ。


 都市が記録を許し、名を赦し、祈りを受け入れた瞬間。

 名は、もう一度この場所に定着した。


 ◆ ◇ ◆


《幕の狭間の囁き ― 記名都市ザルファトを嗤う】

(第六の仮面 ― 記録を喰う筆先)


ああ、ようこそ、君という迷子がここまで辿り着いたことに祝福あれ!

……ふふ、いや、祝福などというものは、ザルファトでは記録されねば存在しないのだったね。では代わりに“記名”しよう、君がこの中間地点まで物語を読んできたという事実を!


さて、ここザルファトは、名を記すことで存在が定義される都市。

だが記すこととは本当に、在ることの証明なのか?

名とは、それほどまでに強固な祈りのかたちだったか?


この都市は、祈りを制度化し、制度を記録し、記録を神とした。

セーレとフロウが迷い込んだのは、信仰の仮面ではなく、記名という名の牢獄だったのさ。


君は気づいただろうか?

記名塔レクトゥムは、あらゆる契約を刻み、書かれた祈りを神の代替として君臨させている。

それゆえに、記録されなかった名は都市にとって“存在しないもの”。


だがね、記録されなかったからといって、その存在が消えてなくなると思ったら大間違いだ。

むしろ、記録されなかった者たちの祈りこそが、今まさにこの都市の構文を軋ませているのだよ。


セーレはその渦中にいる。

彼女の中に眠る“記されぬ神”の名、《アウロ=ルクス》の断章は、

記名構文そのものの矛盾を暴き始めた。


そしてフロウ――かつて“ファレン=ルクス”としてこの都市に記された男は、

いま再び記名されたことで、存在が“人”として再定義された。

……記されるとは、なんと恐ろしくも滑稽な力だろう!


だがその再定義の裏で、君は気づいたはずだ。

“名を呼ぶ”ことと“名を記す”ことは、同義ではない。

呼ばれた名は祈りとなるが、記された名は契約となる。

そして契約は、時に存在を縛り、切り捨てる。


都市の底に眠る“双名者”たちの記録が、その証だ。

ひとつの存在にふたつの名――その矛盾は記録を狂わせ、

ついには記名都市そのものを崩壊させかねない。


だから、この都市では“記されぬ者”を恐れる。

なぜなら、その“余白”にこそ、世界を揺らがす祈りが潜んでいるからだ。


さあ、君はどうだ?

記されぬまま祈ることを選ぶか?

それとも、名を記すことで存在を確かなものにしたいか?


いずれにせよ、この物語はまだ途中だ。

書きかけの契約書のように、未完の頁が君を待っている。


次に語られるは、制度の裂け目。

記録されなかった祈りが、都市の仮面を剥がし始める。

……お楽しみに!


――語り手■■=■■リ■、記名の余白より


 ◇ ◇ ◇


【第7節 ― 制度に埋もれた祈り、仮面構文の裂け目】


 フロウの名が“復記”として契約石に再び刻まれた翌日、セーレとフロウは都市評議会からの召喚を受けた。


 石畳を抜けて評議会の塔へ向かう途中、セーレとフロウは記録塔を望む高層の回廊を歩いていた。都市の構文に名を刻まれたフロウの姿は、今や完全に人の姿をとっていた。長く漂っていた夜の梟ではなく、“記録された者”としての彼だった。


「……不思議な感じね」


 セーレは歩みを緩め、隣を行くフロウの横顔に視線を向けた。昼の光を浴びてもなお変化しないその姿に、どこか現実味のない不思議さが胸をくすぐった。そうして、ふと呟いた。


「昼なのに、あなたが人間のままでいられるなんて」


「この都市じゃ、記録のほうが上だからな」


 フロウは静かに笑った。

 その笑みには、記録という構文に縛られる奇妙な皮肉と、それを受け入れてきた年月の重みが滲んでいた。名を取り戻したことの意味を、彼自身がいまだ測りかねているような、複雑な安堵がその口元に浮かんでいた。


「俺の名は、もう一度この都市に“復記”された。契約石に記された以上、俺は“人間としての存在”で記録されたってことだ。構文の縛りは……ある意味、こういうところでも効くんだよ」


 セーレは一度頷きかけたものの、ふと足を緩め、視線をフロウの横顔へと戻した。まるで霧の奥に引っかかった記憶をたぐるように、口を開いた。


「……でも、“ルクス”って。太陽神アウロ=ルクスと同じ名を、あなたが持ってること、誰も触れないのは……少し変じゃない?」


 フロウはしばらく無言だった。石畳を歩く音が、回廊に長く反響する。


「……あの名は、かつて“光の名”として授けられたんだ」


 フロウは言葉を区切り、記憶の奥に沈む何かを確かめるように視線を遠くへ向けた。ほんの短い間を置き、胸の奥から掘り起こすように言葉を継いだ。


「……けど、“夜の名”はなかった。ムーミストの力で姿を変えられたけど、あれは契約じゃない。俺の意思で結んだものじゃなかったから……名を授けられることも、名乗ることもなかった」


 フロウの声は低く、どこか遠い記憶を辿るようだった。

 言葉の奥には、失われたものを拾い集めるような慎重さがあった。過去と現在のはざまをなぞるように、彼はなおも語り続ける。


「俺が“昼と夜の契り”を誓った頃――アウロの加護のもとに、あの名の片割れを与えられた。誓いの証として、神から分けられた“残響”だったんだと思う。だから、ルクスって名は、俺の真名の一部になった」


「じゃあ、その名を持つってことは……」


「そう。“断絶された神の名”と、俺の存在は、いまも深く繋がってる。


“昼”の名は受け取った。でも“夜”は……俺の中では、ずっと借り物の影のままだ」だから本当は、この都市でその名を口にするのは危ういことなんだ。けど、消したくなかった。ただそれだけさ」


 契印の滑車が頭上を通り過ぎ、巻紙が塔の方角へ吸い込まれていった。


 セーレは、黙って彼の横顔を見つめた。その名に込められた祈りと、誓いの名残と。記録されながらも消えかけた神の残光が、そこに確かに宿っていた。


 そしてふと、もうひとつの疑問が浮かんだ。


「ねえ……あなた、“契約不備”とされて名を削られたって、評議者が言ってた。でもそれって……ずっと昔の話なんじゃないの? 断絶された神って、もう誰も祈ってないくらい、古い時代の神でしょう?」


 フロウは足を止め、石畳の隙間から吹き上がる風をしばし感じていた。静かに息を吐くと、そのまま空を見上げる。仮面の空を透かしてどこか遠くを見つめるようなまなざしを浮かべ、低く独り言のように口を開いた。


「……そうだな。確かに、あれはもう随分前のことだ。神殿の記録が忘れてるぐらいには」


 セーレは戸惑いを隠せず、彼の顔を見つめた。

 まるで霧の向こうに隠された時間を確かめるように、じっとその目を見つめ返す。記録の外にいた者が、いま目の前にいる現実が信じられず、胸の奥が微かにざわついた。


「でも、あなた……見た目は、わたしとあまり変わらない年齢に見える。いったい、いくつなの……? いつから、生きてるの?」


 フロウはわずかに目を伏せた。視線の奥に、過去という名の深い霧が滲んでいる。沈黙の中で何かを確かめるように息を整え、そして苦笑した。その笑みには、記録にも祈りにも属さなかった空白の時間が、影のように差していた。


「それは……俺自身にもよくわからない。名を削られていた間、俺は記録にも、時にも属してなかったからな」


 フロウは目を伏せたまま、微かに羽を揺らす。

 思考をたぐるように一拍の間を置き、低い声で言葉を継いだ。


「“記録にない者”は、普通は歳をとる。記録がなければ、都市には存在しないとされるだけで、肉体の老いとは別の話だ」


 フロウはわずかに息を吐き、目を伏せた。

 静かに言葉を探すような沈黙が流れ、そして語りかけるように、もう一度口を開いた。


「……でも俺は、“契約不備”とされたとき、名を削られただけじゃない。神との誓いごと、構文そのものから外されたんだ。存在の根本が、記録の中で“凍結”された。だから、時の流れからも外れていた」


 彼は小さく笑った。

 その声なき笑みには、どこか諦めにも似た感情が滲んでいた。語りながらもなお、自分の存在の異質さをどこか他人事のように受け止めようとする、淡い距離感と苦味がそこにはあった。

 そして、冗談めかすことで少しでも空気を和らげるように、続けた。


「まあ……言うなれば、“名を奪われたまま、時に取り残された存在”ってとこだな。こんな例、他にそうそうあるもんじゃない」


 セーレは黙ったまま歩を進めた。


 “時の外に取り残された存在”――その言葉が胸の内にひっそりと沈んでいた。誰よりも若い姿のままで、記録からも歴史からもこぼれ落ち、それでも何かを守り続けてきた人。

 彼が背負ってきた沈黙の長さを、セーレは初めて真に想像した気がした。

 その肩に宿る“断絶された神の名”と、“未だ語られぬ夜の名”。

 それらすべてが、今の彼を形づくっているのだと、静かに理解した。


 やがてふたりの前に、評議会の塔が姿を現した。

 ザルファトの最上層に築かれたその建物は、神殿の荘厳さとは異なり、簡素でありながらも重厚な石の造形を持っていた。円形に組まれた外壁には、過去の契約を象徴する古文様が幾重にも刻まれており、塔の頂には“記録の目”と呼ばれる監視孔が静かに光を放っていた。


 これは信仰の場ではない。記録と規律の執行機関――すなわち“都市の意思”が形となった建造物だった。


 セーレは静かに息を吸い込む。彼女の掌の中には、名を呼ばれた者の証が、確かに脈打っていた。


 ザルファトにおける評議会とは、いわゆる宗教指導者の集団ではない。むしろ、神殿と都市を運用する“契約の執行者”であり、記録の管理と更新を任務とする機構的存在だった。

 彼らは“神を信仰する”のではなく、“神を記録する”という観点で都市を運営していた。


 神殿の中庭を抜けた先、円形の石造議場。

 そこに九人の評議者が待っていた。全員が灰白の外衣を纏い、顔を仮面で覆う代わりに、額や頬、指の甲に契印を刻んでいた。仮面は“演目”の都市の象徴であるなら、ここザルファトでは刻印こそが“身元”だった。


 主評議者が、まるで儀式の冒頭のように淡々と口を開いた。その声は淡く、しかし正確無比で、言葉一つひとつが“記録される”ことを前提に整えられていた。発言のたび、額の契印が淡く光る。


「“ファレン・ルクス”という名、かつて当都市に記録されし名なれど、神アウロの断絶と共に“契約不備”とされ、削除されていた」


 その言葉に、フロウは一言も返さなかった。ただ、その場に“立っている”ということ自体が、反論以上の主張となっていた。


「しかしながら、その名が記録の余白より自然に浮上した以上、我々としては抵抗しえない。ザルファトの原則において、“記された事実”は信仰や感情より優先される」


 もう一人の評議者が補足するように続ける。


「神であれ、人であれ――名が記録に現れた以上、それは存在とみなすほかない。我々は“記されたもの”のみを信ず」


 セーレは眉をひそめた。沈黙の間にその言葉の意味を噛みしめるように息を吸い、そして静かに吐き出す。彼女の胸の奥に、名のない者として生きてきた自分の記憶が波紋のように広がっていた。


「……つまり、記されていなければ存在しない、ということ?」


 その瞬間、セーレの中に冷たいものが広がった。名を持たなければ、存在を証明できない世界。その重みは、彼女の旅路のすべてを否定するようにも思えた。


 評議者たちは微動だにしない。


「正確には、“記されないものは扱えない”のです。記録は世界を定義する秩序。記述がなければ、秩序の対象とはなりえません」


 その言葉に、フロウが静かに視線を上げた。


「だが、その秩序の外に追いやられた者たちのことは? かつて“名の重複”という違反で、記録そのものを抹消された者がいたと聞く。二重に記された結果、矛盾を起こしたとされてな」


 ひとりの評議者がわずかにまぶたを動かした。


「……確かに、ザルファト第八記名期において、“双名者”の出現によって記録の一部が崩壊した事例があります。以後、“名の一意性”は絶対規則とされ、違反者は……“非存在”として処理された」


「処理された?」


 セーレが問うと、別の印主が淡々と答えた。


「記録から名を抹消する――すなわち、法的存在を失わせるということです。通行権、住居権、契約権の剥奪……“名前のない者”は都市に滞在することすら許されません」


「それって……追放と同じじゃない」


 セーレはわずかに唇を噛み、肩がほんのかすかに震えた。

 その声には抑えきれない動揺がにじんでいた。


「いいえ、追放ではありません。“在らざる者”とされたのです。記録に名がなければ、都市の目にすら映らない」


 しばし沈黙が支配する。


 セーレの胸中には、“名を呼ばれない神”――アウロの存在が浮かんでいた。神ですら、記録に載らなければ“存在しない”とされるこの都市。ならば、“呼びかける声”は、どこに向けて届くのだろうか。


 セーレは口を閉ざしたまま、議場の石床に目を落とした。その表面には、かすかに古い契印の痕跡が刻まれていた。かつて誰かの“名”がここにあった。だが今、その名を知る者は誰もいない。


 記録から消された存在は、語られず、記憶からも失われる。セーレはそのことに、言いようのない恐怖を覚えた。


「じゃあ、私のような者はどうなるの?」


 セーレは言葉を探すように一瞬視線をさまよわせ、そして静かに問いかけた。その声には、都市の理に抗う怒りではなく、どこか自分自身をも確かめるような揺らぎがあった。


「私は、“記されていない者”よ。どの帳簿にも、どの契約にも存在しない。でも――私はここにいる」


 名を持たなければ誰にも見えない。だが、名を持てば、それに縛られる。そんな矛盾を、彼女は静かに、しかし切実に告げた。


 評議者たちはしばし沈黙し、その中のひとりが、まるで機械のように返す。


「“記されていない”という状態は、臨時の余白です。貴女が都市に必要な契約を結び、記名されれば、存在が確定します。逆に、名のないまま都市に長く留まることはできません」


 セーレは、拳を強く握りしめた。

 その手のひらには、自分の存在をかけて抗うような緊張が宿っていた。名がなければ在ることすら許されないという理不尽に、身体の奥底から怒りと悲しみが込み上げてくる。


「記されることでしか、ここでは“生きている”と認められないのね」


「それが、この都市の秩序です」


 主評議者が重ねて告げる。


「秩序なきところに信仰は根づかず、記録なきところに救済はありません」


 そのとき、フロウが一歩、セーレの前に出た。かつて“名を剥がされた者”としての過去を宿すその身に、今は記録上の“復帰者”としての重みがある。


「彼女を、仮の名で記してほしい」



 評議者たちが一斉に彼を見た。


「仮の名? 証明のないまま、個人を代理記名する行為は、原則として――」


「例外はあるはずだ。名の預かりに関する法第十三節。“双契者による保証”という条項が」


 沈黙。


 主評議者がゆっくりと頷く。


「確かに、それは“異邦からの来訪者”を一時的に保護するための措置。だが、保証する側に罰則が及ぶことも承知の上での行為となる」


「構わない」


 フロウの声には、揺るぎがなかった。その声は制度に抗う叫びではなく、制度の奥深くに眠る“余白”を静かに突くような響きを帯びていた。


「この旅のなかで、彼女は何度も名を呼んできた。失われた神を、消えかけた民を、自分自身を……。だから、俺が保証する。名が戻る場所を、彼女は探してると。保証とは、名を記す責任を引き受けるということだ。俺は、その責を負う」


 その瞬間、議場の奥で風が鳴ったように感じられた。


 主評議者は沈黙ののち、印主の一人に小さく目配せをする。その印主が記名板を手に取り、黒曜の筆を差し出した。


「では、保証者“フロウ・ファレン・ルクス”による仮記名をもって、記録上の余白に一名を登録する。名は――」


「“セーレ”でいい」


 フロウは視線を逸らすことなく、静かな声で応じた。言葉の奥には、制度の枠内で守ろうとする意志と、セーレの名を一時でも支えたいという祈りが滲んでいた。


「だが、それが正式な名では――」


「だからこそ、記される意味がある。“仮”でいい。“仮”とすることで、彼女自身が認める本当の真名を見つけるまで、護ることができる」


 筆が紙を走る。黒曜の筆先から染み出した墨が、紙の余白にしずくのように灯る。それはまるで、都市が初めて“問い”を記録した瞬間のようだった。仮の名であっても、その筆跡はたしかに、祈るように震えていた。


 セーレはフロウを見た。


 そこには、制度に抗うでもなく、ただ誰かの名を支えるという、静かな意志だけがあった。


 評議者のひとりが告げる。


「貴女の名は、まだ本質を記されていない。だが……記す価値を試される旅は、今まさに、始まろうとしているのです」


 都市の法のなかで、祈りが初めて“筆”を持った。それは秩序が自らの余白を認識し、未知を記す覚悟を持った最初のしるしだった。


 その筆は、まだ震えている。けれど、祈るようにして記された名は、静かに頁の余白に灯っていた。


 ◇ ◇ ◇


【第8節 ― 忘却の神の囁き、異端の祈りの予兆】


 評議会の冷たい論理に背を向けて、セーレとフロウは夜の街へと歩みを進めていた。


 都市の外郭、石階の縁を回り込むように広がる一帯――《外契の街区》。

 そこは、記録から漏れた者たちが肩を寄せて暮らす、名もなき人々の領域だった。火を囲んで言葉を交わし、色と音と香りとで誓いをかわす世界。石に記さず、声で契る。ここには、記録されぬ祈りが今も息づいていた。契約石で組まれた都市構造の隙間に広がるこの区域では、正規の記録が通用せず、声と言葉が唯一の証として交わされる。


 狭い石畳の通りには、屋根の低い露店が肩を寄せ合うように並んでいた。

 契文を記した布ではなく、染め布と刺繍で飾られた衣装。香を炊く煙が揺れ、語り部の声がその合間を縫うように流れていた。紙も石もない――語ること、伝えること、その一瞬にしか残らない記憶の連鎖がここにはあった。


「……ここでは、まだ言葉が生きてるのね」


 セーレが立ち止まり、目を伏せたまま呟く。記録の支配する都市において、ここは異端の空間だった。それでも、否、だからこそ、言葉が燃えるように命を持っていた。


 フロウは静かに周囲を見渡していた。人々の瞳の奥に潜む不安、孤独、そしてわずかな信仰の灯。ここは“忘れられた者たちの都市”でもあった。


 そのとき、誰にも気づかれぬまま、彼らの前に一人の青年が現れた。灯りの輪郭を曖昧にするような歩みで、影を地に落とさずに。目元に薄布を巻き、身なりは粗末。だが、その声には奇妙な響きがあった。


「君たち……塔の中に入ったんだろ」


 布の下の彼の瞳は、セーレの胸元に揺れる王家の首飾りを見ていた。何かを知っている者の目だった。


「巫女たちが守る“封印棚”、そこには“抜け殻”がある」


 彼はまっすぐな声で語り始めた。煙にかすむような声ではない。まるで誰かに遺す遺言のように。


「いったん記されたのに、忘却の処置を施された神々の名――それらは、名の形だけを残して剥がされる。言葉の残骸、記録から剥離された構文。それでも、かすかに音が残る。名の皮膚が破れ、そこから“語りえぬもの”が漏れ出すことがある」だが……時折、その名の“皮膚”から声が漏れる。記録には載らない、神の残響が」


 その言葉に、セーレとフロウは思わず足を止めた。


「お前たちが探してる“アウロ”も、たぶんそこにいるよ。……塔の最深部、《記名禁室》には、記すことすら禁じられた神々の断章が沈んでる。俺も、かつてそこに声を聞いた」


 そう言って、彼は懐からひとつの物を差し出した。


 ――それは小さな石の破片だった。


 けれど、その表面には淡い線刻があり、割れた文字がいくつか浮かんでいた。文字ではなく、裂けた構文。声にならなかった名の、断章のような形。古い契文の断片。それは明らかに“途中で切り離された記録”の名残だった。


 フロウがそれを手に取り、低く呟く。


「……断絶印だんぜついん……。契約の途中で破棄され、“記録されながら存在を抹消された者”に刻まれる痕。これは、忘却と否認の両方が重なった……重い痕跡だ」


 セーレは結晶を取り出し、その石片にそっとかざした。ふたつの光が触れ合い、霧のように白く揺れる光輪が生まれる。それは確かに、“同じ場所に属する何か”の共鳴だった。


 その瞬間、彼女の脳裏に浮かんだのは、あの神殿の封印棚。削られた石、封じられた棚、静まりかえった記録の沈黙。


 名を失った神は、忘れられたのではなく、どこかに“記されずに沈んでいる”。


 塔の記録には、表に出ていない“断章”がある。契約神レクトゥムの名のもとに、記録されてはならないとされた存在たち。だがそれを呼び起こすには、記録に従うだけでは足りない――フロウは言った。


「記すには、まず“書かれたものを破る”必要がある。記録を超えて、祈りでしか触れられない領域がある」


 セーレは静かに頷いた。


 忘却とは、記録されないことではない。

 記されながら、語られないこと。

 構文を与えられながら、その響きを奪われること。


 記録に抗う声を、無かったことにされること――


 そして今、その声が、都市の片隅から、再び世界に語りかけようとしている。


 そのとき、彼女の中で、いくつかの神の記憶が重なった。


 港で名を還す神ネリュエ。

 傷ついたものを癒やすために名を還し、癒やされた者には再びその名が戻るとされる祈りの神。


 霧の浮島に住まう神ミル=エレノア。

 過去を忘れるために名を預かり、その代わりに新たな生活のための仮名を授ける神。


 森で仮面を与えた神ムーミスト。

 名の代わりに顔を封じ、記録されぬ存在に拠り添った神。


 そして――今、この都市で語られず、なお在り続ける神。太陽神アウロ=ルクス。


 「記す」ことで存在を確かにしようとする神々と、

 「記さない」ことで祈りを護ろうとする神々――その在り方の違い。


 だが、どちらの神も、いまや語られず、名を喪いかけている。


「……みんな、“忘却神群”に連なっていたのかもしれない」


 セーレの呟きは、ひとつの気づきとして落ちていった。

 名を与えることで祈りを形にした神々と、名を与えぬことで祈りを護った神々――その両方が、いまや等しく“語られない”。


 セーレが小さく呟いた。


 祈りを拒まれた神々。記録されなかった存在。

 けれど彼女は確かに感じていた――祈りとは、記録よりも先に存在する。

 語られないということが、“いない”ということではないと。


 だからこそ――


「……記されなかったからこそ、もう一度、記さなければならない」


 それは、ただ過去をなぞることではなかった。

 忘却に沈んだ名を、新たな祈りとして書き起こすこと。

 記録という構文の限界を超えて、祈りという意志で名を呼び起こすこと。


 彼女の声は、記録に背を向けるためではなく、

 その“限界を超える祈り”のために在った。


 ◇ ◇ ◇


【第9節 ― 黒帳の奪還と、失名者の名の痕跡】


 夜半、ザルファトの石造りの都市が静寂に沈む中、月の光を遮る塔の影の下で、ふたりの影が蠢いていた。


 セーレとフロウは再び契約神殿のもとへと向かっていた――だが今度は、正面からではない。


 不思議なことに、夜であるにもかかわらず、フロウは梟の姿に変わっていなかった。彼が“フロウ・ルクス”として都市評議会により《復記》された今、彼の存在はこの都市において“記録された人間”として再構築されていたのだ。

 この都市にいるかぎり、構文上、彼は夜でも人の姿のままで顕現している。


 それは祝福ではなく、記名の制約である。正規の訪問者としてではなく、記録に記されぬ者として、記録そのものの“影”に分け入るために。


 外契の街区で手にした“断絶印”――その石片に刻まれていたかすかな文様と刻線。それは、塔の裏手にある古い通風口の存在を示していた。かつては香の煙を逃がすために使われていたが、いまや神殿の誰にも使われなくなった構造の名残である。


「正面からは、もう何も得られない。記録された者だけが、記録に触れられる……けど、“忘れられた名”を探すには、記録の裏側――その沈黙に入るしかない」


 フロウはそう呟くと、灰銀の羽を畳み、石壁を沿うように通風口へ滑り込んだ。セーレも後に続く。通路の内側は狭く、冷気と苔の匂いが鼻をついた。まるで記録の影に触れるような感覚が背筋を這う。壁に貼られた古い記録板の断面には、かつて擦過された祈りの痕跡が残っており、その文字たちは剥離した神の息のように、今も薄く震えていた。


「これは……かつて記されたが、更新されることなく、見捨てられた契約たち……」


 セーレは灯りの結晶を掲げながら歩く。足元は湿っていて、記憶の腐臭が這い寄ってくるようだった。彼女は思う。名とは、記録とは、本当にこれほどまでに忘れ去られやすいものなのか。


 通路の先には、巨大な石の扉があった。封蝋も鍵も見当たらないが、周囲の石壁にはこう記されていた。


《記名者にのみ開かれる。記録なき者、通ること叶わず》


「名を持たぬ者には、入る資格すらない場所……」


 セーレが呟くと、フロウがゆっくりとその前に進み出た。彼は小さく頷き、扉に掌を置いた。


「……ルクスの名で、これを開く」


 石の扉は音もなく開いた。空気が密閉されていた祈りの記録域から、沈黙そのもののような風が流れ出す。言葉が音になる前に吸い込まれるような空間が、ふたりを迎え入れた。まるで誰かが“待っていた”かのように、扉の向こうには古びた記録空間が広がっていた。


 内部は図書館のようでもあり、墓所のようでもあった。無数の棚が天井まで積み上げられ、それぞれの格納域には封印された記録板が納められていた。


 黒墨で塗り潰された文書。判読不能の契約印。表紙の裂けた巻物。中にはただ“空白”だけが残る板もあり、それは「かつて名が存在した」という事実すら否定するかのようだった。


「ここが……“記名禁室”……」


 セーレが息を呑む。


 彼女たちは棚の奥、ひときわ異質な存在感を放つ一角へと歩を進めた。そこには、ほかの記録とは違う封箱――白銀の金属で覆われ、冷たい輝きを帯びた箱が鎮座していた。


 その上には、一行の刻印があった。


 ――《記されざる神 AUL=LUX》


 その文字列は、見ているだけで瞼の裏に祈りのような残響を残した。


 アウロ=ルクス。太陽神の名。かつて記録され、やがて断絶された“失名の神”。


 だが、セーレが封箱に近づいたその瞬間、記録室全体がざらついた音と共に震えた。


 壁の一角に埋め込まれていた記名装置が、淡く冷たい構文光を放つ。

 次の瞬間、天井に沿った構文刻線が自動展開され、祈祷構文が立ち上がった。


《記録警告:未登録構文への接触を検知》

《裁定構文展開中:対象確認》

《防衛機構起動――記名霊体、召喚》


 淡い光の中から現れたのは、かつて記録神殿に仕えていた筆記官を模した霊的構造体だった。

 その身体は断片化された契約文書で構成され、腕には筆先の形をした記録刀、左手には石板の契約盾を携えている。

 目は古語構文の行列でできており、視線がセーレを捉えると同時に《未記録存在》の判が光った。


《記録違反構文:第九条・未登録干渉。即時裁定――構文抹消執行》


「来る……!」


 フロウの声と同時に、霊体が空間を裂いて突進してきた。セーレは即座にルクスブレードを引き抜き、その軌跡に祈りの光を走らせる。


 刃と記録刀が交差するたび、紙片のような断片が宙に散り、衝突点には構文式の残響が光の痕として刻まれた。


 しかし霊体の速度は想像以上で、応戦するセーレの動きに合わせて構文が予測的に補完され、彼女の攻撃の一手先を封じようとする。


 次の瞬間、霊体の記録刀がルクスブレードを押し返し、衝撃がセーレの腕を痺れさせた。勢いを受けて足元が滑り、背中が記録棚の縁にぶつかる。


「くっ……」


 その隙に、霊体が詠唱のように口を開いた。

《名抹消準備完了――記録の不整合を修正します》


 空間に淡く赤い構文光が走る。その構文が実行されれば、セーレの名がこの都市の構文系から“抹消”される可能性すらあった。


「やらせるか!」


 フロウが即座に跳び込む。契約盾の死角を狙って構文線を遮断し、セーレの名が保たれた一瞬の隙に、彼女は立ち上がって反撃に転じた。


「記録に守られた存在……でも、あなたの名はもう誰にも祈られていない!」


 セーレは斬撃とともに祈りの句を放ち、ルクスブレードの光が名の余熱を伴って霊体を貫く。契約盾が割れ、構文光が崩壊し、霊体はやがて紙片と構文式の靄となって空中に解けた。


 再び静けさが戻る。だが空間の構文は、まだどこか名の余熱を記録していた。

 フロウは警戒を解かずに言った。


「今のは……“記名の護り手”。記録そのものに仕える、制度の影法師だ」


 セーレは荒い息を整えながら、ルクスブレードを納めた。


 しばらくその場に佇んだまま、セーレは己の胸の鼓動を静めようとしていた。あの霊体が構文の執行をほんの一瞬早く完了していれば、彼女の名はこの都市の記録から完全に“消去”されていたかもしれない。


 名を失うということ。

 それは、ただ記録から外れるだけではない。この世界において、“存在しなかった者”とされることに等しい。


「……ありがとう、フロウ」


 セーレがぽつりと呟くと、フロウは黙って小さく頷いた。


 空間に残された霊体の余韻は、徐々に静まり、構文の刻線もまた淡く消えていく。

 その沈黙の中にこそ、次に向き合うべき祈りがあった。


 セーレはゆっくりと歩を進め、封箱の前へと立ち直る。


 セーレの手が震える。彼女は胸元の結晶を取り出し、封箱の表面にそっとかざす。


 すると、白銀の表面が微かに脈打ち、結晶と石が共鳴するような光を放った。名が語りたがっている――そんな感覚が走った。


 内部には、一枚の古い石板が納められていた。


 けれどその文字は、消えかけていなかった。むしろ、いま開かれるのを待っていたかのように、筆致はくっきりと残されていた。


《AUL=LUX》


 ――その名が、淡く石面に浮かび上がる。文字が語るのではなく、祈りの音が文字を形作るようだった。その名とともに、短い祈りの断章が刻まれていた。


「“陽の名を賜りし者よ。忘れられし地に光を返すとき、また神は記録される”……」


 セーレはその文を、胸の奥でそっと繰り返した。


 これは、神の存在を証す記録だった。そして同時に、未来の契約構文だった。かつて記された神が、再び“記される日”を待っていた――その予言句のように、石板は沈黙のなかで息づいていた。


 フロウが、彼女の背後から低く言う。


「……証が揃った。失われた神は、忘却されたのではない。“封じられていた”んだ」


 セーレは石板を胸に抱き、その光を見つめる。


 この名は、戻るべき場所がある。呼ばれる日が来る。そのとき、祈りは記録を超えて、構文の意味を変えるだろう。


 これは奪還ではない。

 これは、“再び記す”ための最初のしるし。


 祈りは、記録されるためではなく、記すために生まれた。

 セーレは、そう確かに感じていた。


 ◇ ◇ ◇


【第10節 ― 記名構文の崩壊と祈りの裂け目】


 封箱をその手に収めた瞬間、契約神殿の最奥に沈んでいた空気が震えた。


 石と文字で構築された空間が、微かに――しかし確実に軋みはじめていた。文の列がねじれ、契印が語句から外れ、言葉が意味を保てなくなっていた。塔そのものの“記録構文”が壊れつつあった。それはまるで、長らく封じられていた記録の名が、自らの存在を思い出し、“眠り”から目覚めようとしているかのようだった。


 フロウが身を強張らせる。


「……動いたな。塔が反応している」


 鈍く重い音が、塔の底から響き渡る。それは地鳴りではなく、契約の層にひびが入るような“記録構造のずれ”の音。記されていたはずの文が、何かを拒み、同時に何かを受け入れようとして、軋んでいた。


「記録の整合性が……乱されたのね」


 セーレは封箱を胸に抱きながら呟いた。


 神殿の壁に沿って並ぶ記録棚が、音もなくざわめき、石板たちが微かに震えている。文の列が崩れ、配置されたはずの契印が一瞬にして読み取れぬ文字列に変じた。まるで文字たち自身が、自らの意味を塗り替えようとしているように。


 “記された神”――それが、記録の中で封印されていた最後の名。

 その名がいま再び読み上げられたことにより、この記録塔の核心が揺らいでいた。


 やがて、塔の上層から気配が降りてきた。


 灰白の衣をまとう者たち――記録守の一団。彼らの動きは、まるで“記述された動作”を再生しているかのように無音で滑らかだった。声は発せられず、空気中に文字のような波紋が走る。

 彼らは契約により動く“記録の執行者”であり、感情を持たぬ。規律を乱すもの、未記名の行動者に対し、書式に基づいた制裁を加える義務を帯びていた。


「来るぞ……」


 フロウが低く呟くと同時に、構文の破綻が塔に及んだのだ。復記によって固定されていたはずの姿も、その束縛を失い、彼の形は夜の祈りへと引き戻された。その身を再び梟の姿へと変じ、セーレの肩へと飛び乗った。金の瞳だけが、闇の中で鋭く光っていた。


「逃げよう、セーレ。俺たちは、もう証を得た。あとはこれを――“外”に届けるだけだ」


 セーレは静かに頷き、石造りの道を駆け出した。

 塔の奥深くに眠っていた通路を逆走し、冷たい石壁に指先が擦れても、それを顧みることはない。


 塔全体が振動している。

 文の壁が震え、階層がざわめき、記録そのものが抗議するように風を起こしていた。

 それは塔が、封じられた神の“再記録”を受け入れきれず、異常として排除しようとしている証。


 契約塔は、記録の守護者であると同時に、

 その“逸脱”を絶対に許さぬ統制装置だった。


 その外縁に近づいた頃、夜の帳がゆるやかに上がりはじめていた。

 遠く、山の縁が白み、東の空にかすかな明光が滲み始めていた。


 塔の頂、神殿の上に浮かぶ月が、白く淡く、幽かな輪郭を揺らめかせていた。

 その姿――仮面のごとき神の象徴――が、不思議なほどに脆く見えた。


「仮面神ムーミスト……」


 セーレが立ち止まり、息を整えながら空を見上げる。


「その姿が……崩れ始めてる」


 フロウが応える。


 記録により更新され続けてきた“信仰の象徴”――ムーミストの姿が、記録の揺らぎとともに薄れていく。

 それは、この都市に刻まれてきた“神の定義”が、崩壊の前兆にあることを示していた。


 そしてセーレは、塔の出口にたどり着く。

 朝の光が、まだ微かに漏れてくる扉の前で、彼女は一度だけ振り返る。


 塔の奥深くからは、いまだ低い震動音が響いている。

 いくつもの階層がきしみ、文字が塗り替えられようとしていた。


 その響きを背に、セーレは静かに告げる。


「アウロ=ルクス――」


 封箱を強く抱きしめる。


「あなたの名は……いま、再び世界の文に加えられたのよ。これは記録じゃない、祈りの署名よ」


 塔の扉の手前、最後の通過点に辿り着いたとき、ふたりの前に再び記録守が立ちはだかった。


「本件に関する記録が更新されていません。名を記された者以外の通行は制限されます」


 音のない声が契約文のように告げられ、石壁の一部が自動的に閉鎖され始めた。


 フロウが前に出る。


「“フロウ・ファレン・ルクス”名義で、通行申請を拡張する。記録補助法第七節――仮記名による同伴通過の適用を要請する」


 記録守たちが、石板を取り出し、記録帳を確認し始めた。彼らは意思を持たぬ者ではあるが、都市の法を絶対とする存在だ。応答は一瞬遅れ、まるで文書が音声化されたような機械的な響きが空気を震わせた。


「保証者による仮記名通行。記録補完条件を満たすためには、名の代理執行印が必要です」


 フロウは外套の中から、先ほどの評議会で押印された巻物の一部を取り出した。そこには、彼の名と、セーレの存在を“臨時記録”とする仮記名欄が含まれていた。


「これが、保証の証文だ。彼女の名は“セーレ”――これは真名ではない。だが、この記録塔において一度だけ、臨時通過を可能とする契約に基づく名だ」


 沈黙。


 その数秒が、静かな頁をめくるように流れた。呼吸さえ音に感じられるほどに、緊張は張り詰めていた。


 やがて記録守が、石板に刻まれた判の位置を確認し、背を向けて言った。


「確認完了。通行を許可します」


 閉じかけた扉が、再び音もなく開いた。


 セーレは、フロウの方を見た。


「ありがとう……でも、それって、あなたの記録に影響するんじゃ」


「いいんだ」


 フロウは静かに笑った。


「“記す”ことで救えるなら、“呼ばれること”を諦めたくない」


 その言葉に、セーレはうなずき、外の光へと踏み出した。


 塔を抜けた先には、まだ夜の名残が漂っていたが、空には新しい朝の兆しがにじみ始めていた。


 仮の名――それは一時的な通行証に過ぎないかもしれない。


 けれどその名が、誰かに“保証された”という事実が、セーレのなかに新たな重みを宿していた。


 記録によって証明される存在。


 祈りによって呼び戻される名。


 そして――記されぬまま、歩みを続ける者の背を支える“仮の契約”。


 それは、この都市の制度において異端だった。だが確かに、名を記すのではなく“名を呼ばれた”ことによって始まる、祈りの新しい形でもあった。


 私はまだ真の名を持たない。

 けれど、その名は今、誰かに呼ばれている。

 その事実だけが、私を歩かせている。


 ◇ ◇ ◇


【第11節 ― 都市を超えて、記されざる巡礼へ】


 契約塔からの脱出は、嵐の中心にぽっかりと開いた余白のような静けさだった。都市が一瞬、呼吸を止めたかのように思えた。


 セーレとフロウは、塔の裏手に続く階段通路を駆け降り、古い搬入用の側道から都市の外縁へと走り出た。空はまだ深く青く、明けの明星すら姿を見せていない。だが彼らの足音だけが、記録に刻まれぬ文脈の上を走り抜けていく。それは、まだ綴られていない祈りの余白だった。


 契約塔の中枢では、すでに霊印陣が作動を始めていた。

 光の輪郭を持つ封印機構が空間を遮り、記録違反者を探すように、塔のあらゆる通路に監視の眼差しを巡らせる。


 しかし、それらはすべて“記録に記された存在”を基準として機能していた。


 セーレの行動は、そのいずれにも記されていない。

 塔に侵入した記録も、封箱を奪取した記録も存在しない。


 ゆえに――彼女は、“視られていない”。


「……皮肉ね」


 セーレは走りながら、肩越しに夜の帳を振り返った。

 その瞳にはわずかな怒りと、逃げ延びた者の実感が宿っていた。吐息とともに、ぽつりと本心を漏らす。


「記録にすがる都市では、記録されぬ者こそが自由を得るなんて」


 フロウは小さく息を吐くと、肩をわずかに震わせて笑った。

 その笑みには、都市の矛盾を静かに受け入れてきた者としての哀しさと、わずかな皮肉が滲んでいた。


「名を奪われた者だけが、名の監視から逃れられる……。それがザルファトの構造的盲点だ」


 都市の根幹に刻まれた契約機構は、整然としすぎていた。

 それゆえに、“想定外”を見逃す。記録されぬ者の痕跡を、見落とす。


 やがて、ふたりは南門にたどり着いた。

 都市の門番たちは、塔から発せられた緊急信号に気を取られ、南端の警戒は薄れていた。

 門を守る記録守たちは、足音に一瞬だけ振り向いたが――


 彼らの視線は、ふたりの上を滑るように通り過ぎた。

 それは、まるで彼らの視線が“記録されていない者”に焦点を結ばないかのようだった。ここでは“目”ではなく、“文脈”が世界を見ていた。


 セーレは足を止め、息を整えた。


 彼女の腕の中には、白銀の封箱。

 その中には、かつて神として記され、そして忘れられた“アウロ=ルクス”の記録が眠っていた。


 都市を振り返る。塔の頂にかかる月は、雲に覆われ、その輪郭を曖昧にしていた。夜の仮面をまとっていたはずのムーミストは、いまや形を失いつつある。


「記されていたのに、封じられていた神……。書かれたのに、誰にも語られなかった名……。私は、その名をもう一度、誰かの祈りに届かせる。そのために、この手で“語り直す”」


 その言葉に、フロウはわずかに視線を下げ、セーレの決意を静かに受け止めた。風に揺れる外套の下で、肩の羽が小さく震える。そして、祈りのような静けさをたたえて応じた。


「それは筆で書くものじゃない。声で綴るものだ。この封箱は書物じゃない、“声”の器だ。語られたとき、名は祈りになる。……この旅が、“語り部の巡礼譚”になるんだ」


 セーレは、そっと封箱に触れた。その温もりは、記録でありながらも、まだ言葉になっていない存在の鼓動だった。


「さあ、行きましょう」


 夜風が吹いた。

 塔の上空を覆っていた霧が流れ、月がかすかに顔を覗かせる。

 その瞬間、封箱の装飾に刻まれた神名の一部が、淡く光った。


 “アウロ”の文字が、呼応するように微かに揺れた。


 セーレは驚いたように目を見開いた。

 けれどそれは、恐れではなかった。

 あたかも神の名が、自ら語られる時を待ち望んでいたかのように、優しく寄り添ってくる気配だった。


「……あなたも、祈りを欲してるのね」


 名を記すとは、ただ石に刻むことではない。

 誰かに語られ、記憶の奥で呼び起こされ、祈りとなって信仰の輪に結ばれたとき。

 そのとき、ようやく神は“在る”のだ。


 都市を背に、ふたりは歩き出す。

 記録に残されなかった旅を、

 記されざる神を、語られる神としてもう一度世界に呼び戻すために――。


 それは、書かれざる記録の始まり。

 語られざる者たちによる、祈りの再構築。


 夜が終わり、朝の祈りが始まろうとしていた。


 ◇ ◇ ◇


【第12節 ― 書架に捧げる筆祷、失われた名を綴る】


 契約都市ザルファトを離れてなお、記録の残響は風の中に漂っていた。だが、都市の壁を越えた先――山の影が深く刻む谷間には、どの地図にも記されていない“外縁地帯”が静かに広がっていた。

風は言葉を持たずに吹き、名なき火が、記されぬ夜を照らしていた。空気そのものが、語られぬ歴史の残響のようだった。


 そこは記録の統制から外れ、名のない風と名のない火と、名のない人々が静かに暮らす領域。契約にも、信仰にも縛られぬ者たち――あるいは、かつて縛られていたが、逃れることを選んだ者たちの終の住処である。


 岩に刻まれた印も、壁に掛けられた布も、すべてが“語られぬ過去”の痕跡だった。


 だがこの地にも、かつてザルファトに連なる《記名宗教》の痕跡は残っていた。


 集落の一角――崩れかけた小さな祠の奥に、かつての“書架神殿”の構造がわずかに残されていた。


 そこには棚ではなく、傾いた木の骨組みに編まれた巻紙が吊り下げられており、それぞれに「祈り」が書きつけられていた。祝詞ではなく、名の断片、願いの文、誰かの記した記憶の抜粋――


 いずれも、ひとりの神に向けられたものではなく、“記されるべき誰か”への呼びかけだった。


 その中心には、燃やされた筆軸と、煤けたインク瓶が祀られている。


 その祠の脇に、ひとりの老女が膝をついていた。肩には薄布をまとい、静かに伏せたまま、手元の筆記台に積まれた記録紙を指先でゆっくりなぞっていた。


 それらは、かつて都市神殿で却下された文書の写しだった。破られ、棄てられ、記名を許されなかった名の記録たち。


 老女――かつての記名審査官であり、今はただの“記録の亡霊を見送る者”――は、紙に刻まれた掠れた文字を、まるで遺言を聞き取るような指先でたどっていた。


「……かつては、筆を執ることが祈りだったのです。文字を綴るたびに、その名がこの世界に再び響くように」


 老女の声は弱く、時に言葉にならなかった。娘はその手を握り、その言葉のかけらを拾い集め、まるで過去の残響を“いま”に訳すようにして、セーレに伝えた。


 娘はその言葉を繰り返しながら、そっとセーレの肩に手を置く。


「神殿は、“祈る場”であると同時に、“記す場”でもありました。筆を執る者こそ、信徒。書くことは、ただの記録ではなく――“神の再生”だったのです」


 セーレは、その言葉を胸に受け止めた。


 かつて塔で聞いた、評議者の言葉――「記録された神のみが存在する」という論理が、ただの制度ではなく、宗教そのものだったという事実。


 そしていま目の前にある、この風化した祠の痕跡が、都市宗教の核だったという事実。


「神は、紙の上にしか在れなかったのね」


 ふと漏れたセーレの言葉に、フロウが応えた。


「だがそれは、“記されぬ神”の否定でもあった。筆で縛れぬ存在が、祈りの外に追いやられてきた」


 そのとき、老女の指が一枚の破損文書の端で止まった。


 そこには、かろうじて読み取れるひとつの名があった。だが、その名は記名台帳には載っていない。老女はまぶたを閉じ、静かに小さくうなずいた。


 誰の名だったのかは、もう分からない。ただその呼吸と指先が語っていた――それを記すことができなかった自分への贖いのように。


 セーレは静かに、封箱を祠の前に置いた。


 その蓋に手を添え、胸の奥で名を呼ぶ。


 声には出さず、文字にもせず、ただ“思い出す”。


 それは、かつて記された名が、筆と火と祈りによっていまふたたび“書き換えられる”瞬間だった。


 囲炉裏の火がはぜ、子どもたちがその周りで影絵を始めていた。

その影は声を持たなかったが、確かに“祈り”を語っていた。


 彼らが壁に映した光の影は、どこか神話的で、どこか懐かしい。


 羽ばたく鳥、陽の光を受ける樹、仮面を外した顔――


 それらが重なった影のなかに、セーレはふと“アウロ”の面影を見た。


 フロウがその様子を見て、そっと肩を揺らした。


「名は、石に刻まれなくても、こうして“生きている”。語られた記憶の中に、形を変えて残ってる」


「記録されていなくても……忘れられたわけじゃないのね」


「そうだ。記されぬ神は、“信じる者のなか”に在る。それが、この外縁の地に残された真実だ」


 そしてそっと、子どもたちの影絵を見つめながら、微かに口を開いた。


「……祈りは、記すことでも、呼ぶことでもない。“語ること”で生まれるのかもしれない」


 フロウが少し驚いたように彼女を見た。


「語る?」


「うん。語るって、誰かに伝えるってこと。過去を語れば、それが物語になる。物語になれば、記録よりも先に、人の心に残る」


 彼女は火の傍らにしゃがみ、影絵に見入っていた子どもたちに声をかける。


「――君たちにも、いずれ“語る番”が来る。名を持たなかった神のこと。祈りの外に追いやられた者たちのこと。そのとき、もし誰かが耳を傾けてくれたら、その物語の中に神は宿る。語られたとき、神はそこに“在る”のかもしれない」


 その言葉に、囲炉裏の火がふっと明るさを増した。


 名を記すこと。名を呼ぶこと。そして語ること――


 それぞれが断絶された祈りを繋ぐ手段であり、“在る”という奇跡を生み出すための、異なるかたちの信仰だった。


 夜が明ければ、また新たな土地へ歩みを進めることになる。


 名を探す旅は、かつての神の記録を追うものではない。


 それは“語り直す”ことで名に再び息を吹き込む巡礼。

 私たちは記録の巡礼者ではない。忘れられた名を、語りによって“今”に刻む者たちだ。


 ザルファトで奪われ、祈りの中で取り戻した“名の証”を胸に、セーレとフロウは静かに歩き始めた。

 信仰とは、記録に刻まれるものではない。

 信仰とは、記憶の中で息をする神を“語り継ぐ”ことなのだ。


 ◇ ◇ ◇


【第13節 ― 筆が記す未来、祈りの再起動】


 外縁地帯の霧が薄れ、南へと延びる小道の先には、記録の光にまだ染まっていない新しい朝が滲んでいた。夜と制度の境界を越えた祈りが、ようやく陽に触れようとしていた。夜と記録の都市を越えて、セーレとフロウは新たな地平へと足を進めていた。彼女の手には封箱が抱かれ、その中には断絶された名と、いまひとたび拾い上げられた祈りの断章が眠っている。


 山道の中腹、石畳の割れ目に根を張った細い木の陰で、ふたりは一度立ち止まった。セーレはそっと封箱を開いた。古びた石板に刻まれていたのは、名と祈り――


 “アウロ=ルクス”の文字は、過去に記され、いったんは封じられた神の名。そして、その傍らに走る祈りの言葉は、掠れながらも確かに息づいていた。


 ――「光は語られずとも、歩みの先に降り注ぐ」――


 その一文は、名を呼ばれずとも歩み続ける者たちにとっての、静かな導きのようだった。


「……神に向けられた、かつての祈りの言葉」


 セーレは、目を細めてそう呟いた。それはただの言葉ではなかった。声にされ、想いが込められ、封印を越えて呼び起こされた“命のかけら”――断絶されてなお残り続けた信仰の残響だった。


 フロウが肩の上から応える。


「祈りってやつは、記録されてなくても消えない。呼ばれなくても、届かなくても、信じていた誰かの中に残り続ける。……だから、還ってくるんだ。いつか必ず」


 セーレは静かに頷いた。そして、記録都市を去るにあたって、ふと小さくつぶやいた。


「……私の名は、ザルファトには記されなかった」


 それは選択であり、抵抗でもあった。


 “記名”という行為が都市の命脈であるならば、“記されぬまま去る”という行為は、その制度への最大の拒絶だった。彼女の旅は、記録されることで確証を得る巡礼ではなかった。むしろ、語られぬもの、記されざるもののなかにこそ“在る”ということを証すための歩みだった。


「記されないままでいたからこそ……私は、神と出会えたのかもしれない」


 セーレの声は風に溶けて消えたが、その言葉は確かにフロウの胸に刻まれた。


 その先にふと現れたものに、彼女の目が止まる。


 ――一本の木。風に揺れる枝。その枝には、無数の布切れが結びつけられていた。


「……祈りの木?」


 それは誰かが名も記さぬまま、ただ願いを託して布を結んでいった痕跡だった。

 記録ではなく、風と布が祈りを運ぶ。言葉にならなかった願いが、その揺れの中で微かに響いていた。

 それはこの外縁地帯の人々が選んだ、“語られぬ祈り”のかたちだった。都市に刻まれなかった想いが、風のなかで解けながら、なおもこの地に残されていた。


 セーレは、自らの衣の端を裂くと、それを一本の枝に結びつけた。

 封箱の中の断章と、旅の中で拾い集めた想いとを織り交ぜながら。その結び目には、確かに祈りが宿っていた。


「これは……名を奪われた神の祈り。そして同時に、語られぬ名の物語を歩もうとする“私たち自身”の祈りでもあるのよね」


 風が吹いた。

 布切れたちが木の枝の間でさざめき、ひとつ、またひとつ、ほどけるように宙を舞う。その軌跡は、まるで光の道筋を描くかのようだった。


「ほら……海の向こう、霧の奥に……あれが見えるか?」


 フロウが翼で指し示す先、遥かな水平線の向こうに、かすかな影が浮かんでいた。


 山でも街でもない。

 その影は、まだ名を持たず、語られることを待っていた。

あれは――《記されざる神々の庭》。名を呼ばれることを待つ、次なる祈りの地。


「……さあ、行きましょう」


 セーレが言い、フロウが応じて翼を広げる。


 ふたりの影が朝の光のなかに伸びていく。


 それはまだ記されていない未来の頁。

語られぬ名を、記録ではなく“祈り”として、この世界に書き加えるための、終わりなき巡礼だった。


──《第7話 ― 記されざる神々の庭へ》に続く──



----


"――契約の街で、名が記される重みが変わった瞬間を、私は記している。"


《記録者セーレの日記:ザルファトの書架にて》


名を記すことは、契約だった。


ザルファトの石の書庫に足を踏み入れたとき、私は自分の名を“署名”として求められた。

それは祈りではなかった。誓約、認証、記録。

“誰かに記される”という行為は、もはや神に捧ぐ祈りではなく、制度の歯車としての義務だった。


私は戸惑った。

私の名は、いまだ神の名に触れていない。

それなのに、その名が“契約”として刻まれ、重く私にのしかかってくる。


フロウ――いまはルクス・ファレンと名乗る彼もまた、

記されることの痛みを知っている。

私たちの名は、呪いを背負い、過去に記されたことで縛られたものだったから。


だが、書庫の奥で見つけた《失名の契約書》――

それに触れたとき、私は一つの確信を得た。


書くことは、同時に祈ることにもなり得る。

それが制度の中であろうと、誰かの声を残すために書かれたなら、

それはもう“祈りの器”なのだ。


ザルファトの記録官たちの多くは、それを忘れていた。

形式だけが残り、名の重みは計測可能な“価値”に変わっていた。


けれど、一冊だけ、記されぬ書があった。

誰の名も、神の名も記されず、ただ空白のまま残された頁。


私はその頁に、神の欠片のようなものを感じた。

名が書かれることを待っている頁。


それは、私たち自身のようでもあった。


今はまだ記せない。

けれど、記すべき名が、きっとある。

忘れられた者たちのために、私はその名を探す旅を続ける。


これは祈りの旅なのだと、今なら言える。

記録者であることは、過去を集めることではない。


未来へ祈りを“送り出す”ために、私はこの手で記すのだ。


(記録者セーレの断章より)

◆《第6話 ― 記名都市ザルファトと欠落の契り》を読み終えたあなたへ


――名が存在を定義する都市にて、記されぬ者たちが刻む祈りのかたち

(記録の語り手:サーガより)


すべての存在は、名を記されてこそ世界に定着する。

だが――名を記されなかった者は、本当に存在しないのだろうか?


これは、“記されること”によって存在が定義される都市を訪れた旅人たちが、

その記録の隙間に息づく“記されなかった存在”と対話した物語である。


巡礼の旅は、港町リュア=ヴァイスの潮音を後にし、

いよいよ“記名の都”ザルファトへと辿りついた。


この都市では、すべてが名によって定義される。

都市の建築、時間の進行、売買の記録、そして人間の存在すら――

「名を記すこと」が存在証明であり、「名を契ること」が信仰である。

その極限まで形式化された祈りの構造体が、ザルファトであった。


だがそこに、記されぬ名を抱いた者が踏み入ったなら?

記録されないまま祈りを抱きしめていた者が、この都市の構文に触れたなら?

――物語は、沈黙を破る。


この第六話では、セーレとフロウが

「名を記すこと」「記されぬこと」「記録からの逸脱」について、

都市と神殿と自らの存在を通して、深く問い直していく。


▼ 本章で明かされた“祈りの記録”の諸相


記録神《エスラ=ノート》の顕現:

姿なき神は、石の塔と文書によってのみ顕現する。

祈りとは筆であり、名前を記すことが契約であり、

都市の息吹そのものが「記録の所作」そのものである。


フロウの真名“ファレン=ルクス”の再記名:

昼と夜、ふたつの神に仕えた騎士。

名を奪われ、存在を忘れられた彼が、再び名を与えられる瞬間――

それは、祈りの復権であり、存在の赦しである。


“双名者”と記録構文の矛盾:

ザルファトでは、名が重なることは許されない。

二重記名は存在の削除を招く。

そこに、“忘れられた神々”の構文が封印された理由が潜んでいる。


“記されぬ地”と“欠落域”の可視化:

地図に描かれぬ空白域。そこにこそ“記録されなかった祈り”が宿り、

名の記されなかった神々の余白が息づいている。

セーレはそれを“存在の空白”ではなく、“呼びかけを待つ頁”として見つめた。


読者よ。

この章を読み終えたとき、どうか“記録されること”の重さと同時に、

“記されぬこと”の意味にも目を向けていてほしい。


ザルファトの石は語る。

名がなければ在れないこの都市で、なおも名を拒んだ者たちの祈りが、

どれほど静かに、けれど確かに世界を揺るがしてきたかを。


そして、君自身がもし“誰かの名を呼ぶ者”であるなら、

その声こそが、記録されぬ存在に光を与える“祈り”となるだろう。


――記録者サーガ、第六の頁をここに閉じる。

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