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第5話 ― 潮の街と赦しの名

【幕間 ― 赦しを祈る者、名を託すという儀式】


 霧の浮島を離れたあと、ふたりはしばらく湖の西岸を歩いた。舟を出す術は戻っていたが、湖面に霧はまだ漂い続けており、名の祈りを終えた静寂だけが波間に響いていた。


 踏みしめる地は、かつて巡礼者たちが辿ったとされる古の小道。

 だが今はほとんど人に忘れられ、草に覆われ、時折、水辺の鳥の羽音だけが旅人の存在を確かめていた。

 昼と夜のあいまを歩くような感覚――空は鈍く、影も淡い。まるで“名と名のあいだ”を彷徨っているかのような道程だった。


 セーレは胸元の結晶を見つめた。島で名を交わした神――ミル=エレノアの祈りが、今もそこに微かに残響していた。

 声ではなく、流れのようなもの。名とは本来、言葉で封じるものではなく、水のように手をすり抜け、それでも確かに体温を残すものであることを、セーレは学んだ。


「……名前を失うのは怖かった。でも、名を預けることにも、別の意味があるのかもしれない」


 独り言のような声に、フロウが頷いた。

 梟の面影を宿した彼は、名を語ることの痛みも、力も、その身に刻まれている。


「預けるってのは、捨てることじゃない。帰ってくる場所を信じるってことだ」


 ふたりはその言葉を反芻しながら、旅を続けた。


 やがて、小さな丘陵を越え、複雑に入り組んだ水路地帯に差しかかる。

 土の匂いに混じって、わずかに鉄と藻の気配――潮風だ。

 湖が、やがて海へと接続していることを、この風は告げていた。

 朝も昼も関係ないような濃密な霧が、少しずつ解けてゆく。そこには、入り江の輪郭が確かに存在していた。


 霧が晴れると、そこには穏やかな入り江が広がっていた。

 遠くに見えるのは、潮に洗われた桟橋と、低く築かれた石造りの町並み。

 だが、その中心には奇妙な構造物がそびえていた。

 幾重にも重なる塔のように、名札や札束、碑文らしきものが組み合わされ、まるで“名そのもの”を建築素材にしたかのような記名盤の塔だった。


「ここが……“潮の街”か」


 フロウが目を細めて呟いた。


 海原を移動する船舶には乗船手形として、名が必要になる。

 それは潮神ネリュエの霊域である海を渡るためだとされている。

 陸上ではなく海上で名乗る名である。


 そして、この街には“還名の祈り”という儀式も存在していた。

《第5話 ― 潮の街と赦しの名》


“仮の名を持つ者は、境界を越える。真名は深く沈め、祈りは潮に委ねよ。”


――潮神ネリュエの記名盤断章


---


【第1節 ― 潮霧に包まれた境界港、還名の入り口】


 白い霧が、海と空の境界を這うように広がっていた。


 太陽は天頂のはずなのに、輪郭を曖昧にしたまま、ぼんやりと滲む光だけが空を照らしている。

 光と影の区別すら溶けたこの風景は、大地の果てでも天の始まりでもない。ただ、どこかの“端”に位置する場所。あらゆるもののあいまいな境界に、ふたりは立っていた。


 セーレは潮風に顔をしかめながら、肩に掛けたマントを引き寄せる。

 霧は冷たくなかったが、微細な粒子が皮膚にまとわりつき、まるで生き物のように脈打つ気配を宿している。それは単なる自然現象ではなく、“見られている”ような、奇妙な視線の感覚を伴っていた。


 足元の石畳には、黒曜石を細かく砕いたような光沢があり、歩くたびに靴の裏がかすかに軋んだ。その軋みは、まるで「かつて呼ばれた名の残響」のようにも聞こえる。

 船着き場から街へと続く長い桟橋には、白い貝殻と潮蝕石が埋め込まれており、歩を進めるたびに、誰かの祈りの名がざわめくようだった。


 木製の案内板には、湾曲した象形文字のような印が彫られていた。

 だがそれは“読む”ための文字ではなかった。見る者の感覚に訴えかけるように揺らぎ、意味を“感じ取らせる”音符のような標識だった。異国の旋律を眼で聴くような、不思議な印象を与える。


 セーレは立ち止まった。

 靄の中にぼんやりと浮かぶ街の輪郭を見つめるその瞳には、懐かしさとも戸惑いともつかぬ感情が揺れていた。霧越しに見えるその光景が、記憶の底にある何かと重なる気がして、足が自然と止まったのだった。


「……ここが、リュア=ヴァイス……?」


 呟いた声さえ、霧に飲まれて消える。言葉は届かず、空間に溶ける。


 フロウは街の名が二重に響いているかのような霧の気配を感じ取るように目を細めた。そして、かすかに首を傾けると、静かに口を開いた。


「この港は、大信仰圏では“ラヌマ”と記されている。けれど、港の者たちは“リュア=ヴァイス”と呼ぶ。前者は記録の名、後者は祈りの名だ」


 セーレは小さく息を呑み、霧の奥にかすかに見えた街の名前に、なにか触れてはならない真実を感じ取ったように瞬きをした。


「じゃあ……この街には、ふたつの名があるの?」


「いや、“名の重なり”があるんだ。ラヌマは地図の上の名。リュア=ヴァイスは潮神ネリュエへの祈りそのもの。街と神名が交差した、揺らぎの記名だ」


「だから、リュア・ヴァイスと区切られて断絶されているのね」


「そうだ、王国には都合が悪い名だからな。国による公式名と地元名の対立構造がそこにあるんだ」


「名を奪われてから、教育の機会も奪われてしまったから、ラナリアについて知らないことばかり。なら、ミルタ=エルも同じということ?」


 自分の無知を肯定するように笑ったそのあとで、セーレは霧の向こうにぼんやりと浮かぶ街の記憶を追い、まぶたを伏せて言葉を継いだ。違和感のような予感が胸に残っていた。


「……でも、それって、記録に残らないってこと?」


 フロウは無言で小さく頷き、視線を霧の奥へと向けた。そのまなざしには、言葉にするまでもない理解と、名を巡る葛藤への深い共感がにじんでいた。


「そう。だから、地図に名を記されない“断絶された霊域”というのは、記録されることを拒む祈りの形式でもあるんだ」


「記されないことで、逆に守られてきたのかな……」


 セーレはふと、霧の奥に暮らしの気配を感じ取ろうと目を凝らした。目に見えないものの中に、確かに息づく名がある――そう直感していた。


 フロウは霧の奥へと静かに視線を滑らせた。名と構文が重なる地に、かつて祈りを捧げた誰かの痕跡を感じ取るように、淡く言葉を紡いだ。


「ミルタ=エルの“エル”は、神々の顕現地点や固定された祈りの地の構文子音を現すのに用いられるもので、“霊的構文が顕現する場所”“神の祈りが届く座標”、観測と祈祷が交差する場として作用する」


 セーレは少し首をかしげ、言葉の響きをゆっくりと咀嚼するように考え込んだ。音と意味が重なり合う感覚に、かすかな戸惑いと興味が入り混じっていた。


「じゃあ、“ミルタ”って?」


「“ミルタ”は、ミル=エレノアに属するもの、またはミルの加護が満ちた場所、つまり“ミルの~”“ミルに属する”という所有・浸透のニュアンスを霊性を帯びた女性語の音調だ」


「なるほど……音にも意味が宿るのね」


 フロウは最後に、目を細めて小さく息を吐いた。胸の奥から静かに言葉を紡ぐその姿には、名と祈りの構造に対する深い敬意と、どこか切実な祈念がにじんでいた。


「つまり、ミルタ=エル(Mirthael)とは“ミルの祈りが形を成し、世界に触れる場所”。霧の神ミル=エレノアの霊性が“音を伴わずに世界に記される”場所なんだ」


 そう語った瞬間、霧の帳の向こうから――音が流れてきた。


 それは音楽でも、明確な言語でもなかった。息を繋いだような吐息、波のような高低差をもった音の帯。まるで風が喉の奥で旋律を織り成すような、不定形の“語り”だった。声帯ではなく、喉と肺と呼気だけで作られた音列――それはまさに、この街の言葉《潮語》だった。


 セーレはしばらく立ち尽くした。耳で“聴く”のではなく、皮膚や空気の振動で“感じ取る”ことを強いられている。まるでこの街そのものが、言葉ではなく“音の海”でできているかのようだった。


「……まるで、歌のよう。でも、会話してるんだよね?」


 隣にいたフロウが小さく頷いた。


「潮語族〈マルメリア〉の言葉だ。声帯は使わない。喉と肺で作る音の起伏、抑揚と間だけで意味を伝える。記録されることを嫌い、“音が紙に触れた瞬間に死ぬ”と信じている。だから、書かない」


「文字にしないの?」


「“水は記憶を持たない”って信仰がある。この街の名も、人々の名も、全部が水とともに揺らいでる」


 そんな会話の最中、街の奥からひとりの女が現れた。流れるような衣装を纏い、喉から編み出すように潮語を奏でながら近づいてくる。言葉は分からないのに、はっきりと“こちらへどうぞ”と示されているのが分かる。その音には意味以上の情緒がこもっていた。


 セーレが言葉を返すべきか迷っていると、フロウが先に胸に手を当て、軽く頭を垂れた。女はそれに応えるように微笑み、また潮の奥へと姿を消した。


「……言葉の奥に、何か別のものがあるみたい。単に“話してる”だけじゃない」


「この街では、“名”も“音”も“距離”も、全部が揺れてる。人と人の間に境界線はなく、代わりに“濃淡”がある。……輪郭が波のように曖昧なんだ」


 セーレの足元には、音を吸い込むような静けさが広がっていた。

 リュア=ヴァイス――それは、“名前を手放した者たち”が流れ着く街。

 記録に記されたラヌマの下で、潮神の名とともに揺れるこの港は、音に繋がれ、潮に預けられ、誰ひとりとして“同じ名”にとどまり続ける者はいない。


 ふたりが桟橋を渡り終えると、霧の向こうに、街の構造が徐々に見え始めてきた――。


 ◇ ◇ ◇


【第2節 ― の構文が支える街と、その脈動】


 霧の帳が少しずつ晴れてくると、リュア=ヴァイスの全貌が現れはじめた。

 この街は、海に張り出した断崖と複雑に入り組んだ入り江にまたがって築かれた階層都市だった。

 海抜に沿って斜面を這うように、建物が波打つように連なり、まるで街全体が海に向かって歌を奏でるような、そんな印象を与えていた。


 白く削り出された石灰岩の家々は、潮風にさらされて表面がわずかに蒼灰色に変色しており、長い歳月の痕跡を物語っている。

 屋根には黒く焼かれた瓦が葺かれており、潮光に照らされて鈍く濡れたように光っていた。

 いくつかの屋根は貝殻の白で縁取られ、壁には波模様の彫刻が施されている家もあった。


 どの家の窓辺にも、ほとんど例外なく“名の灯籠”が吊るされていた。

 その灯籠は、丸みを帯びた貝殻や海辺の小石を素材とし、繊細な鎖や糸で風鈴のように吊り下げられている。

 潮風が吹くたびに、それらは澄んだ音を鳴らし、静かに重なり合って空気に溶け込んでいく。

 それは挨拶であり、居住者の在り方であり、ひとつの“仮の名”として機能していた。


 セーレは、その光景に一瞬立ち止まり、静かに目を細めた。


 霧が引き、太陽が斜面の上から街を照らしはじめていた。

 その瞬間、耳の奥に鋭い圧が走り、セーレの眉間にわずかな痛みが走る。

 反射的に頭を押さえると、フードの内側、髪の間から黒い獣耳がわずかに覗いた。

 黒豹のそれ。彼女の“呪い”だった。


 ここは潮神ネリュエの霊域。抑制の力が働いているのだろう、それ以上の変化はない。

 だが、太陽の光とともに名前を定められたこの都市“ラヌマ”では、神聖な加護の構文が発動しやすい。

 王下の元で呼ばれる都市は、彼女にとって“本来の名”との齟齬を浮かび上がらせる場所だった。


 セーレは静かに周囲をうかがい、誰の視線もないことを確認すると、そっとフードをかぶり直した。

 いつまで、自分の“耳”を隠し続けなければならないのだろうか――そんな思いが、一瞬胸をよぎった。


「……看板も、表札も、ないんだね」


「この街では“書かれた名”は潮に流されるとされている。かわりに音、模様、風の通り道……そういう“うつろうもの”で名を伝えるんだ」


 フロウがそう応える。


「赤い糸を結んだ灯籠は“商人の家”。青い貝殻は“旅人が滞在中”。声で交わす代わりに、音と光と色がこの街の言語になる。名は呼ぶものではなく、感じるものなんだよ」


「ほら、あのお店には看板が出てるけど?」


 セーレが通りの一角を指さすと、その先には煌びやかな装飾が目に入った。


「元祖ラヌマ名物? ……いや、あれは明らかに……」


 フロウが呆れたように眉をひそめ、ため息を漏らす。


 潮を模した銀藍の装飾、波形の彫刻が柱にあしらわれ、外壁には白珊瑚の粉を混ぜた塗料が光を弾いている。そこだけ、まるで“祈りの浜”を模したかのような人工的なきらびやかさがあった。


 メニュー表には、潮語を気取った言い回しで、いくつかの料理名が並んでいる。


『潮神の祈り炊きごはん』四二セリカ

 潮の満ち引きに合わせて炊かれた塩香る海藻米。


『還名スープ』二一セリカ+名札料二〇セリカ

 当店発行証明書付き。

 人気巫女のサイン入り。


『名を失いたい者のための断章酒』二〇セリカ

 呪詛構文に由来する発酵酒。

 飲酒後に“名の輪郭”が曖昧になります。

 お酒に弱い人は気をつけて!


『祈祷水』一二セリカ

 当店専属の巫女が祈祷した美味しい水。


 物流が盛んなこの港町では、食料品なども比較的安く手に入れることができる。

 粗パン1斤が八セリカ、リンゴ一個が六セリカ、ミルク一杯は農村部から輸送されるため少し高めの一〇セリカ。

 宿泊費は一〇〇から一八〇セリカ。地方だと素泊まりで六〇セリカ程度だ。


 セーレは小さく息を呑み、フロウと顔を見合わせた。


「……ほんとうに、こういうのが“名物”なの?」


 皮肉気な声色のまま、フロウは軽く肩をすくめてみせた。


 その時だった。背後から、どこか涼やかで調子外れの声が響いた。


「この店はやめておきたまえ」


 ふたりが振り返ると、細身のシルクハットに燕尾服の男が立っていた。仮面舞踏会を思わせるマスカレードで顔を覆い、両手には白手袋。整いすぎた所作と、どこか現実から半歩ずれた口調。それは、演者めいた奇妙な存在感を放っていた。


 男は芝居がかった身振りで杖を鳴らしながら、通りの方を顎で示す。


「ガイドブックにも載っている観光客向けの店だよ。君たちがお上りさんの観光客なら止めはしないが、本当の祈りは、ああいうところではしない」


 さらに一歩踏み出しながら、低く囁くように言葉を継いだ。


「聞いてごらん。潮の音が、ここだけ――消えているだろう?」


 セーレは無意識に耳を澄ませた。周囲の通りでは確かに、建物のあいまを風が渡り、かすかな波の音を運んできていた。だが、この店の前だけ、どこか音が途切れ、張りつめた空気が濃く立ち込めているように感じられた。


 男は満足げに微笑むと、再び口を開いた。


「つまり、そこじゃないんだよ。この街で“ほんとうに美味しいもの”に出逢いたいのなら、潮の音に耳を澄ませるんだ。……トン・ファア・ナ、カ・ルイ・エ――」


 低く、響くような声で呟くと、その語感はどこか呪文にも似て、空気の層を震わせた。


 その響きを聞いて、フロウがそっと前に出た。


「……潮語だ」


 伏せたままの目で、その意味を口にする。


「意味は、“海よ、我に応えよ”」


 セーレが小さく首をかしげながら問いかける。


「潮語もわかるんだね、フロウ」


 フロウは一瞬目を伏せ、すぐにいつもの淡々とした声で応じた。


「中央大陸とその周辺地域の言語なら、すべて記憶している。昔は、それが“職務”だったから」


 そのまま、ちらりと仮面の男に視線を移すと、少し鋭い口調で続ける。


「あなた、その仮面……ずいぶん古い意匠だね。記録者ではなく、観測者の式年祭で使われていたものに似ている」


 男はにこりともせず、ただ僅かに肩をすくめてみせた。


「似ているかどうかは、観測の問題だ。あるいは、君の記憶の構文が歪んでいるだけかもしれない。――いや、訂正しよう。歪められている、か」


 セーレが怪訝な目を向けたその瞬間、男はいたずらっぽく帽子のつばを持ち上げ、低く一礼してみせた。


「潮風の方が、味覚には素直でしてね。良い旅を」


 その言葉とともに、男の姿は次の瞬間にはもう、小路の角の向こうに消えていた。


 セーレがそちらへ数歩駆け寄ってみるも、見渡す限り、通りにはもう彼の気配はなかった。


「……誰だったんだろう」


 フロウは少し黙ってから、静かに顔を上げる。


「さあね。けれど、潮の音が――戻ってきた」


 そっと耳を澄ませた瞬間、小さな潮騒が風のなかに流れた。ほんの数瞬前まで消えていたはずの音が、確かにそこに“還ってきていた”。


「……リズムが聞こえる」


 セーレがぽつりと呟いた。胸の奥に、波打つような感覚が広がっていく。


 潮語の響きではなく、もっと身体の奥に触れるような、律動のような何かが、彼女の感覚に呼応していた。潮のうねり、風の呼吸、そして――祈りに似たもの。


 それは、彼女の中でずっと途切れていた何かが、静かに接続しなおされるような感覚だった。


 そしてふたりは、ふたたび坂道を歩きはじめる。


 丸石を敷き詰めた歩道の上に、足音だけが柔らかく響いていた。

 坂道を進むふたりの足元には、丸石を敷き詰めた細い歩道が続いていた。

 舗石の模様が潮の満ち引きを模して描かれており、時折、足元の小さな水路が風に揺れて波紋を浮かべていた。


 通りを挟んで左右の建物は、いずれも高さが揃っておらず、層ごとに異なる時代の建築が重ねられていた。

 古い石の壁に新しい木製の柱が継ぎ足され、港風に削られた装飾が、過去の様式を名残として残している。

 まるで街そのものが“境界の書物”のようであり、時代や文化を渡り歩いた旅人の記録帳のようにも見えた。


 この街では、名を呼ぶことに執着する者はいない。

 代わりに、名を交わす気配や所作が“その人の今”を伝える。

 人と人との間に流れる名の気配は、呼びかけではなく、共鳴として在る。


 すれ違う人々は、会釈も挨拶も交わさない。

 ただ、互いに身体をわずかに傾け、相手の進行を妨げないよう静かに身を引く。

 その動作の一つひとつに、妙な親密さがあった。まるで、人と人のあいだに“距離”ではなく“濃淡”があるかのように。


 街角では、布をまとった影のような異形の者が無言で水瓶を運び、貝殻の耳飾りをつけた少年が、言葉を交わすことなく魚の価格を確かめていた。

 市場に立ち並ぶ品々――干した海藻、潮蝕石の器、潮名を刻む貝殻の文具――もまた、価格札のかわりに色付きの布や香の封が添えられており、それらの匂いや色合いで価値を伝えていた。


 商談の音、祈りの音、生活の音――

 それらが文字も会話もないまま、都市の空気を満たしていた。


 街角では、布をまとった影のような異形の者が、無言で水瓶を肩に担ぎ、角を曲がってゆく。そのすぐ傍で、貝殻の耳飾りをつけた少年が、言葉ひとつ交わさぬまま、指先だけで魚の値を問うていた。わずかな仕草と、目線の交差。それだけで、すべてが通じ合う。


 潮風が抜けるたび、市場の品々が微かに揺れる。干した海藻、潮蝕石の器、潮名を刻む貝殻の文具――どれも値札の代わりに色とりどりの布や、薄い香の封が添えられている。赤褐色の布は“昨日の収穫”、水縹の布は“名を持たぬ者向け”、香の封には潮の記憶を染み込ませ、客の鼻孔で価値を測らせる。


 通りの中央――最も人通りの多い区画の片隅に、ひとりの老婆が座っていた。腰を折り、古びた木箱の上に並べた干魚と潮紙を前に、まったく声を発しない。


 けれど、客が近づくたびに、その指は迷いなく布をつまみ、空中にひらりと掲げる。淡い黄の布は“神の祭りの名残”、濃い藍は“潮止まりの静穏”。言葉よりも前に意味が立ち上がる。


 老婆の喉には、かつて火傷を負ったような痕が残されていた。おそらく長く前に、声を失ったのだろう。だが彼女の所作には、沈黙の年月が蓄えられていた。音も言葉もいらない、静寂の会話。それはむしろ“音を持たぬ熟練”というべきものだった。


 客の頷き、目線の動き、鼻先に漂う香の変化――すべてを受け止め、ほんの一瞬のうちに応じてみせる。


 老婆の傍らには、小さな籠があり、そこに折りたたまれた布がいくつも収められていた。季節ごとに変えるのか、祈りの形式に合わせているのか――彼女だけが知る言語体系が、そこにはあった。


 そしてふと、老婆は手元の潮紙に指を走らせ、微かに皺の深い顔を持ち上げて、こちらを見た。目が合ったその一瞬、セーレは言葉ではなく、“名を問われた”感覚を受けた。


 ――けれど、呼ばれることはなかった。


 老婆はただ、薄く微笑み、ひとふさの香封を差し出すと、また静かに目を伏せた。


 名も声も交わさずに、交信だけが確かに成立する。


 この都市に満ちていたのは、そうした“交わされぬ会話”の連鎖だった。


 商談の音、祈りの音、生活の音――


 それらは、文字も発声も持たぬままに、しかし確かに都市の鼓動として響いていた。


 異文化ではない。異なる“名の仕組み”があるだけ。

 セーレはそう思いながらも、その違いの根の深さに静かな圧倒を感じていた。


 彼女の胸元には、ひとつの結晶がぶら下がっている。

 それは“アウロ”の名を喪った神から託された、名の欠片だった。

 名を呼ばれぬまま眠るその結晶は、この街の“手放す名”とは異質なものに思えた。


 ここでは、名は刻むものではなく、呼ぶものですらない。

 水とともに流れ、風に預け、そして必要なときだけ戻されるもの。

 まるで命あるもののように、“名”はこの街で独自の意志をもって動いていた。


 そんな文化のなかに自分たちが立っていることが、セーレの胸に静かな違和を呼び起こす。


「……私たち、間違った場所に来たのかな」


 思わずこぼれた疑念。それは、自分たちの“名にすがる旅”が、この揺らぐ都市にとって異物なのではないかという不安だった。


 フロウはすぐには答えなかった。

 霧の中から漂う微細な音の粒――言葉にならない潮語の響きに耳を澄ませながら、ゆっくりと声を発する。


「いや……むしろ、ここでこそ見えるものがある。名を持たない者たちの街で、“名を呼ぶ旅”の意味が試される」


 セーレはその言葉を聞きながら、彼の横顔に視線を向けた。

 かつては仮面で隠され、あるいは獣の姿に変じていた男の顔。

 その今は、たしかに“フロウ”と呼べる、ひとりの人間としてそこにあった。


 この霧の街は、名の不在によって名の重みを映し出す。

 名を預け、忘れ、揺らぐことが日常の都市。

 だからこそ、この旅の本質――“なぜ名を呼びたいのか”“なぜ名を求めるのか”という問いが、否応なく突きつけられる。


 セーレの胸に、“記す”のではなく、“応える”ための名が、少しずつ形を取りはじめていた。


 ◇ ◇ ◇


【第3節 ― 沈黙の商いと音による名の取引】


 通りの外れには“還名殿”がいくつも設けられている。

 白い貝殻を積み上げて造られたこの静かな祈祷所では、波の音に耳を澄ませながら、自らの“かつての名”を手放す儀式が行われる。

 香を焚き、水に名を委ね、静かに祈る。

 失った名が、海に還るための通路として、名を流すのだ。


 名を持たぬ者たちが、名を預け合い、呼び名を交わさずとも、祈りと誇りを守って生きている。

 ここには、そうした暮らしが確かに息づいていた。


 セーレは、そのことが不思議だった。名を語らず、呼ばれもせず、けれど失われていない。

 この街は、どこかで“神の名を失った”という喪失と、根の深いところで似ている――そんな予感があった。


 桟橋を抜けて坂道に足を踏み入れると、潮風の音が変わった。低くざわつき、風の中にざらついた響きを孕んでいる。視界を包んでいた霧はやや薄れ、街の中心が露わになっていく。


 螺旋を描くように構成された階段状の通り。その先には、露店が寄り集まった市場の広場が広がっていた。


 そこは“声”ではなく、“音と光”によって交渉が交わされる港町《リュア=ヴァイス》の心臓部だった。

 貝飾りの下がる竿が風に鳴り、旗がはためき、竹や骨で編まれた装飾品が回転しながら反射光を空に放っている。

 そのすべてが“呼び込み”の言語であり、意味のある会話だった。


 布地は南の乾地で織られた発色の良い染物。幾何学模様が織り込まれたそれは、信仰と交易を同時に象徴していた。

 貝や珊瑚の飾りには、それぞれ異なる“潮符”が結わえられ、それが一種の仮名札として機能している。香草の煙は海のものだけでなく、山岳の獣脂や密林の木樹脂が混ざっているようで、風が吹くたびに文化の気配が舞い込んでくる。


 セーレは立ち止まり、目を見開いた。


「……これは、ただの交易じゃない。世界が混ざってる」


 露店に並ぶ品物だけでなく、そこで交わされるやり取りすら、彼女には異質で鮮やかだった。言葉による値段交渉は行われない。声を発する者もいれば、まったく沈黙を守る者もいる。ただ、“そこに在る”という気配が取引を成立させていた。


 焼き台の炭火に小魚を並べていたのは、水色の腰布を巻いた潮語族〈マルメリア〉の女だった。

 その女は、声帯を用いず、短く、湿った吐息のような音を発した。「ジュッ」と、魚の焼ける音に似たそれは、価格や提供の合図だった。


 近づいた旅人は、音に合わせて貝殻の貨幣を差し出し、彼女は無言で魚を渡す。それだけでやりとりが終わっていた。言葉も視線も交わされない。ただ、音がすべてを媒介していた。


 さらに奥では、陶片を並べていた老婆が、焼き印を押した土器のかけらに“潮語”の記号を刻み込んでいた。

 売買の印としてではなく、「この時、この場所に、この潮風が吹いていた」という“記憶の印象”を残すための器だった。


 その隣では、布を肩にかけてうずくまる少年がいた。彼の背中に布がかけられており、霧越しの陽光がその下に“刻まれた何か”の凹凸を透かしていた。


 契約種〈タラニス〉。

 彼らは皮膚に“名文”を刻み、それを契約の代替とする文化を持っている。話さず、書かず、ただ皮膚で交わす――そうした契約体系は、この街の“名を記さぬ”哲学と親和性が高かった。


 旅人が商品を指差すと、少年は布をわずかにずらし、背中の刻印を見せる。螺旋と斜線が組み合わされたその紋様は、「等価交換可」「片側履行可能」を示す約束文だった。


 交渉は、視線と“皮膚の記号”で完了する。音よりもさらに沈黙に近いそのやりとりが、まるで祈りの儀式のように見えた。


 契約刻印は、永続的ではない。

 霧と潮に晒されればやがて風化し、輪郭を失い、“忘れられた約束”として消えていく。

 だがそれを“欠陥”と見なさないのが、彼らの価値観だった。


 〈タラニス〉の民は信じている――

「契約とは、永遠ではなく、“記憶に残す”ことにこそ価値がある」と。


 名もまた、そうなのだとセーレは思った。

 永続ではなく、記録でもなく、記憶にとどめること。祈りとはその営みそのものではないか。


 市場の隅にある木製の祭壇には、割れた仮面が捧げられていた。

 それは名を封じた過去の信仰の遺物であり、“忘却を超えて残る何か”の象徴だった。


 セーレはそっと仮面に触れ、呟いた。


「ここでは……“思い出されること”自体が、神聖な営みなんだ」


 視界の端に、灯籠が密集する霧の小路が見えた。

 風の向きが変わり、音と香りが遠ざかる。そこは、さらに深く“名の沈黙”が棲む領域だった。


 セーレはそちらへと、歩を進める。

 名を取り戻す旅が、また一層深い霧のなかへと誘われていくのを感じながら――。


 ◇ ◇ ◇


【第4節 ― 声を喪った民と、名を還す潮の儀】


 そこは、音すら吸い込むような静謐に満ちた一角だった。市場の喧騒が遠ざかるにつれ、霧は濃くなり、光が輪郭を持たずに漂っている。風の音も消え、ただ潮の匂いだけが、呼吸のたびに肺の奥まで沁みていく。


 その空間に立っていたのは、黒と灰の狭間にあるような、曖昧な輪郭をした者たちだった。

 明確な身体線を持たず、まるで濃い影が自立して歩いているかのような姿――彼らは半影族〈スルアリム〉。


 この街に暮らす最も古き民であり、同時に“声を持たぬ祈り”を体現する種族だった。


 スルアリムは名を持たない。名を名乗るという行為そのものが、“存在の固定”であり、“過去への執着”と見なされる。

 彼らにとって、名とは流れの中にある一瞬の輪郭であり、定着するべきものではなかった。


 その代わりに、スルアリムは“光”で意志を伝える。

 彼らは灯籠に貝殻や潮符を結びつけ、潮蝕石から生まれた火でその灯を揺らす。その灯火の明滅こそが、彼らにとっての言葉であり、祈りだった。


 静かな波音の中、ひとつの灯籠が強く、リズミカルに明滅する。

 それは「ようこそ」を意味する灯し方だと、フロウが囁くように教えてくれた。


「この街では、声を使わない方が誠実とされる場面もある。名乗るということは、自分を強く主張する行為と見なされることがあるんだ」


 セーレは言葉を失い、ただ灯籠の火に見入った。

 揺れる灯火の奥に、確かに“誰かがそこにいる”という感覚があった。

 けれどそれは名ではなく、姿でもない。ただ、“存在している”という事実だけが、確かだった。


 市場の奥へと足を進めると、空気の質がさらに変化した。

 霧がわずかに巻き上がり、遠くから微かな鈴の音が届く。それは風鈴ではない。誰かが祈りを捧げたあとの、残響のような音だった。


 小さな祈祷台が路地の隅に佇んでいた。

 その中心には、潮蝕石で彫られた神像がある。波に削られたそれは輪郭すら曖昧で、目も口も鼻もない。名も碑文も刻まれておらず、ただ貝殻や潮符、風を受けて鳴る飾りが周囲に結ばれているのみだった。


 それでも、その像は確かに“誰か”を象っていた。

 あるいは、“名を持たなかった者”そのものの象徴だったのかもしれない。


 祭壇の前で膝をつく老婦人がいた。

 異国の装束を身にまとい、金糸で刺繍されたターバンを頭に巻き、腰からは赤い糸で編まれた名の符が垂れている。

 彼女はその符をゆっくりと取り外し、潮蝕石の小さな器に入れ、火を灯した。


 青白い炎が揺れる。

 それは音を持たず、煙を立てず、ただ空気の温度を静かに変えていくような炎だった。

 香のように、記憶のように、それは霧へと溶けていった。


 セーレはその儀式をじっと見つめていた。


「……あれは、何をしているの?」


 そっと問いかけると、すぐ隣にいたフロウが答えた。


「略式の“還名の祈り”だよ。名を手放すことで、喪失を癒したり、名にまつわる痛みを潮に預ける儀式だ。親しい人の名、自分の名、あるいは忘れたい記憶――そうしたものを、ここでは“還す”ことができる。いつか、必要になったときに、もう一度“呼び直す”ためにね」


 還名――それは“忘却”ではなかった。

 いったん手放すこと。そして、記憶のなかで形を変えた名を、ふたたび見出すための儀式だった。


 この街で行われる“還名の祈り”は、ミルタ=エルにおける“仮名の儀”とは意味が異なる。

 仮名の儀は、旅人が土地の加護を得るために一時的に用いる“仮の名”を与える入域の儀式であり、記録と信頼のために“新たな名を与えられる”営みである。

 一方、還名の祈りは、“すでに持っていた名”を手放すための儀式であり、記憶や痛みから距離を置くために“名を潮に返す”行為である。

 どちらも名を扱うが、その意味と方向性は正反対である。

 前者が“社会との接続のための仮構”、後者が“個の回復のための断続”であるように。


 セーレは、胸元の結晶にそっと触れた。

 そこには、いまだ名を持たぬ神々の欠片が宿っている。

 呼び名のない、けれど確かに存在する祈り。

 そして、彼女自身の“アルティナ”という名もまた、誰かの記憶に縛られてきた過去を持つ。


 だが、この街では、名を持たぬことは呪いではなかった。

 むしろそれは、祝福に近い静謐だった。

 名がないことは、不在ではなく、“在り方”のひとつとして認められている。


 ――名とは、取り戻すべきものなのか。

 それとも、還して委ねるべきものなのか。


 炎は静かに揺れ続けていた。

 セーレはまだ答えを持たないまま、その場に立ち尽くしていた。


 還名の祈りを終えた老婦人は、静かに立ち上がり、潮の風を一身に受けながら神像へと一礼を捧げた。その背は小さく、しかしどこか凛としていて、彼女の中にある“名を手放した過去”が、そのまま祈りの輪郭となっていた。


 セーレは、その背に言葉にならない感情を抱いたまま、再び神像を見つめる。


 ――名前を、還すということ。


 “名を探し、名を記し、名を祈る”ことこそが使命だと信じてきた旅の中で、ここに来て、“名を預ける”という選択が提示された。


 だが、この港町の祈りに宿るものは、否定ではなかった。

 むしろ、“変化”を赦すものだった。


 それは、潮神ネリュエの本質に深く結びついている。

 この神が司るのは、満ち引く潮だけではない。

 名前の揺らぎ、呼ばれることの不確かさ、記憶に刻まれた祈りの残響――

 それらすべてを“否定せず受け止める”という姿勢だった。


 彼女は記録に残される神ではない。

 神名を求められることもない。

 “名の不在”すらも受け入れる寛容さを持った神だった。


 その思想の対極にあるもの――

 セーレは、かつて“神の名”を剥がれた記憶の底から、仮面の主神アウロ=ルクスの面影を想起した。


 光の書に刻まれた“正しき名”。

 定められた秩序のもとでしか呼ばれぬ神の名。

 そこには、確かに救済があると同時に、選別と排除があった。


 だが、潮神ネリュエの信仰には、記録も定義もない。

 名を定めることではなく、名の“揺らぎを赦す”ことが信仰の核だった。


 灯籠の揺らぎが教えてくれる。

 いまここにあるものが、やがて風に消えても、それは喪失ではなく“通過”であると。


「……この神像には、名前がないのね」


 セーレがぽつりと呟くと、隣に立っていた灯籠守がそっと応じた。


「はい。潮神ネリュエは、名を持たず、呼ばれることも望みません。けれど、私たちはいつでも、揺れる潮を通じて“神意”を感じます。変わることを、恐れないでください――それがこの地の祈りです」


 その言葉は、静かに彼女の心の底に降りていった。


 名を求めることは、過去を取り戻すこと。

 名を預けることは、未来を託すこと。


 ――ならば私は、どちらに進むのだろう。


 問いはまだ答えを持たなかった。

 けれど、仮面の秩序に抗い、名を抱いて歩む旅の中で、セーレは“揺らぎを許す祈り”に触れたことで、確かに新たな視点を得た。


 潮風が流れを変えるたびに、名の輪郭もまた、少しずつ変化する。

 それは恐れるべきことではなく、“赦されていること”なのだと。


 セーレは、胸元の結晶に再び手を添えた。

 その奥に宿る神の名もまた、いつか変化を受け入れ、別の形で祈られる日が来るのかもしれない――


 そう思えたことが、いまはただ、ひとつの救いだった。


 セーレが結晶から手を離したとき、灯籠の灯が微かに揺れた。

 まるで、その静かな瞬きが、彼女の心の奥に落ちた波紋に応えるようだった。


 傍らにいた灯籠守は、それに気づいたかのように目を伏せ、やがてぽつりと語り出した。


「……昔、この街には“潮に還らなかった名”があったと聞いています。泡に包まれたまま、誰にも呼ばれず、神前にも届かなかった名です」


 セーレは思わず顔を上げた。その響きは、まるで遠い誰かの記録を呼び起こすように感じられた。


「なぜ、届かなかったの?」


 灯籠守は少しだけ口ごもったあと、静かに言葉を継いだ。


「記名盤の深層には、“読めぬ構文”が染み込んでいるそうです。神官たちはそれを、かつて“名を断たれた神”が残した痕跡だと……」


 その声には、確かな畏れと、どこか崇高なものを思う敬意がにじんでいた。


「けれど、私たちは信じています。名が届かなかったのではなく、別のかたちで残されたのだと。泡の奥に、まだ祈りの余白があるのだと」


 セーレはその言葉を胸に刻んだ。

 読めぬ名、祈りの余白、それらは恐ろしいものではない。

 むしろそこにこそ、祈りが“まだ終わっていない”ことの証があるのかもしれない。


 潮が満ちてゆく音が、遠くに響いていた。

 風が灯籠を鳴らし、揺れ動く光のなかに、彼女は“まだ名づけられていない祈り”の気配を感じていた。


 そして、街の奥へと静かに歩を進めた。


 ◇ ◇ ◇


【第5節 ― 還名の神殿、失せた名を託す器】


 潮の音と、灯籠の揺らぎが生む微かな鈴の音が、セーレの胸の内で複雑に交錯していた。


 広場の端に腰を下ろした彼女は、ただ静かに、霧の空気を吸い込んだ。

 異なる文明の残響がすれ違い、音で交渉され、火で名が還されていくこの港町の在り方は、これまで信じてきた“名”の意味を根底から揺さぶっていた。


 名を呼ばれず交わされる取引。

 声を用いない祝福。

 刻まれ、燃やされ、風化していく“名”。


 それらは、どれひとつとして否定されることなく、この街に“当然の祈り”として生きていた。


 名を探す旅。

 それは、セーレが“失われた神の名”を求めて歩き続けてきた巡礼の道だった。

 けれど今、その旅の根幹すら、霧の中でぼやけていくように思えた。


「……ここでは、みんな名を還して、生きてる。誰もそれを、恥だとも、失敗だとも思っていない」


 言葉にした自分の声が、やけにちぐはぐに思えて、彼女は視線を落とした。


「私は……名を呼ぶためにここまで来たのに。この街は、名を“忘れてもいい”って言ってる……気がして」


 この街の祈りは、あまりにも静かだった。

 灯籠は語らず、潮は名を記さず、ただ音と揺らぎがすべてを抱いていた。

 フロウの胸には、淡い違和感が残っていた。

 名を失うことは、彼にとって“痛み”であり、決して祈りのように穏やかなものではなかった。

 セーレが抱えてきた喪失の重みを、ここでは“信頼”と呼んで手放すという――

 その優しさが、逆にどこか遠く感じられた。

 名は、傷でもある。

 だからこそ、それを預けるという行為は、彼にとっては容易に肯うことのできぬ“信のかたち”だった。


 しばらく沈黙が続いた。

 フロウは少し離れた場所に腰を下ろしていたが、彼女の言葉に静かに振り返り、やがて口を開いた。


「……名とは、誰かに与えられるもの。でも、どう在るかを決めるのは、自分だ」


 セーレがゆっくりと顔を上げる。

 その視線に応えるように、彼は続けた。


「この街では、名を預けることが“信頼”になってる。自分が還ってこれると信じているから、一度、名を手放せるんだ。……お前が失くした名も、きっと還ってくる」


 その声は、決して確信に満ちたものではなかった。

 けれど、その不確かさがむしろ、セーレの胸に静かに染み込んだ。


「……ありがとう、フロウ」


 微かに笑みを返す彼に、セーレは言葉を重ねる。


「名を呼ぶことと、名を還すこと――違うようで、きっとどこかで、同じなのかもしれないね」


 潮風が吹き抜けた。

 市場のざわめきは遠のき、街の余韻が深く響いていた。


 ふたりは静かに立ち上がり、港のさらに奥へと歩を進めた。


 そこにあったのは、満潮が引いたあとにだけ現れる、岩礁の聖域。


 波に削られ、風に磨かれ、無数の時間を受け止めてきたかのような、“形なき神殿”――それが、潮神ネリュエを祀る祭祀場である潮神殿。


 白い霧の中で、それは幻想のように浮かんでいた。


 建築物とは言い難い。


 満ち引きの波によって現れ、また消えるそれは、“壁なき神殿”とも呼ばれていた。


 天井はない。柱もない。


 ただ岩礁が複雑に重なり合い、そこに帆柱のような白骨柱が数本立てられているだけ。


 その柱には、名の灯籠が無数に吊り下げられていた。


 潮蝕石から削り出された小さな灯籠には、ひとつひとつに異なる貝殻や色砂、紐が結ばれており、潮風に揺れるたびに微細な音を立てる。


 それは言葉ではなかった。だが、その音には確かに“意味”があった。


 音の違いが、願いの違い。

 揺れの速さが、記憶の深さ。

 色と振動が織りなす、“信仰の言語”。


 この街において、“神”は言葉で語られない。


 潮神ネリュエは、“名を預かる神”として崇められているが、語られることはない。


 その神意は、音と波に宿る。


 巫女たちは、灯籠の響きと潮の満ち引きを読み取り、神の意志を“読み解く”のではなく“感じ取る”


 潮流の揺らぎとともに祈りを捧げる。その姿は、波間の名を読まぬように沈黙を守る祭司そのものであり、それゆえに潮の巫と呼ばれていた。


 神の声とは、“応答されるまでの時間”そのものであり、“誰かの名が呼ばれる前の静寂”にこそ、信仰の本質があるとされていたのだった。


 セーレは、潮風の中にそっと立ち止まった。


 灯籠の音は、祈りではなく“応え”のようだった。


 この場に立つこと自体が、名を呼ばずに語る祈りであり、誰かに名を返す行為だったのだ。


 霧の浮島ミル=エレノアでの儀式では、名を捧げること自体が信仰であり、俗世の価値と結びつけられることはなかった。


 だが、ここリュア=ヴァイスにおける還名の儀式では、形式上の“御布施”が求められる。これは信仰の強制ではなく、名を還すという営みが社会の中で制度化されてきた証でもあった。


 フロウは懐から儀礼用の一〇ノーム金貨を二枚取り出し、静かに潮の流れる池へと投げ入れた。金貨はゆるやかに水面を割り、音もなく沈んでいく。かつてムーミストの神殿で祈祷されたその古い貨幣には、記名を巡る祈りの記憶が刻まれている。


 それは、ただの支払いではなかった。名を預ける行為への“誓い”として、この都市が求めるかたちへの応答でもあった。


 そして、二人は潮の巫の導きによって、神殿の中央に進んでいく。


 潮の巫の姿は、波の衣を纏ったようだった。彼女は《潮色うしおいろ》と呼ばれる青緑と白のグラデーションを基調とした半透明のヴェールを身にまとっていた。幾重にも重ねられたその布は、風にたなびくたびに“潮のゆらぎ”を映し出し、ごく薄い貝殻や珊瑚片が縫い込まれていることで、微かな音を奏でていた。


「街に置かれていた還名殿は派出所のようなものです。この潮神殿が還名の儀を正式に行う本殿となります。巡礼を目的とするなら、ここで儀式を受けてもらう必要があります」


 頭には、波に削られた白い貝殻を連ねた冠――“貝のティアラ”を戴いていた。それは名を呼び戻す者、波の向こうから声を聞く者としての印。まるで祈りの波そのものが、その身を通して形を成したようだった。


 そして、彼女が歩を進めるたびに、足首に巻かれた“潮鈴ちょうれい”がわずかな音を立てる。その音は極めて小さく、風の音にすら紛れてしまいそうなほどだが――名を喪った者だけには、確かに届くという。


 神殿の中心には、円形に並んだ磯石の列と、その中央に置かれた“記名盤”があった。


 潮蝕石を彫り抜いたその盤は、まるで海の記憶を封じたように深い色をしていた。


 淡く濡れた石肌の上には、無数の名がかつて記され、そして流されていった痕跡だけが残っている。


 いまは何ひとつ、文字は見えない。


 けれどその沈黙こそが、潮に預けられた名の記憶だった。


「……この盤に、名を還すの?」


 セーレの問いに、灯籠を守る潮の巫が頷いた。


「記すのではなく、“染める”のです。潮の石は、あなたの揺らぎを受け取ります。名は形にならずとも、ここに宿ります。まずはあなたが身につけている記名石(キ=ナム)から、記憶を読み取ってみましょう」


 セーレはそっと、盤の縁に膝をついた。そして、自身の胸元にかかる小さな結晶――旅の始まりから身につけていた“名の記憶”に触れた。それは彼女がまだ“名を持っていた頃”の微かな残響であり、今ここで“潮に還す”べき祈りのかたちだった。


 潮の巫が差し出した透明な器に、結晶が移される。


 盤の中心に置かれたその器の中で、淡く光る結晶が波紋を呼ぶように光を広げ始める。


 そのときだった。


 セーレは、器の中に浮かぶ泡のひとつが、ふいにかすかな人影のように見えた気がした。


 それは輪郭を持たず、波に溶けるように揺らいでいたが、どこかで見覚えのある佇まい――長衣の裾、片手を胸に添えた姿勢、そして月光のように静かな気配。


 ……母。


 そう感じた瞬間、泡が弾けた。


 音ではなく、泡の破裂が潮のささやきのように耳に触れた。そこには、声ではない“名のようなもの”が、かすかに混じっていた。


 意味は掴めなかった。だが、それは確かに祈りの形をしていた。


「名とは、彫るものではなく、流すものでもある。ただ、いまのあなたが“こうありたい”と願うかたちを、潮は受け取ってくれます。……どういう……こと? この記名石には複数の名前が……ただの記名石ではない?」


 顔の見えぬヴェールの下で同様の声音がした。


 王家の首飾りは聖具だ。


 一般的な記名石は公的な証明書であることが多いが、聖具である王家の首飾りには王家代々の記名と、忘れられた神――アウロ=ルクスの名の欠片が封じられていた。


 記名盤の中心で何かが燦然と輝いたかと思うと、潮の香りがした。


 すぐに光は消え失せ、王家の首飾りが静かに沈黙していた。


 潮の巫は動揺しているようだったが、儀式を中断せずに続けようとした。


「……記憶の読み取りは終わった……と思います。次に名を還すために、記名盤に直接触れてください」


 ミルタ=エルでは、名を預けることはしなかった。


 あの場所では、名を抱えて持ち帰ることもできた。


 この場所は名を還さなかれば、祈りが成立しない。


「名は還ってくるの?」


「還りません」


 潮の巫は静かに、けれどはっきりと断言した。その声音には、教義に従う者としての確信が滲んでいた。


 だが、フロウはそれを真っ向から否定した。


「必ず還ってくる」


「還りません」


 ふたたび交わされた言葉の応酬。けれど今度は、互いの言葉以上に、その沈黙がぶつかり合っていた。


 どちらも揺るがぬ意思を持ち、それぞれの“祈りのかたち”を信じている――そんな気配が空間に満ちていた。


 セーレはフロウと潮の巫を交互に見つめた。


 神託に忠実であることと、記録に誠実であること。


 どちらが“正しいか”ではなく、どちらの“祈り”に寄り添いたいか――それは、彼女にとって明白だった。


「私はフロウの言うことを信じてる。あなたは観測者で記録者だから」


「そうだ、俺の呪われた眼は嘘を観測することもできる。元ザルファト記録官としての知識と記録もある。この巫女は、祈りの“形”しか見ていない。教義の“声”を聞いていない。ネリュエの真の教義を忘れた嘘つきだ」「その言葉、撤回してください!」


 怒りをあらわにした潮の巫が、他の巫たちによって制止され、神殿の奥へと連れて行かれる。


 それは怒声というよりも、“教義を乱した者”として静かに処理される儀礼だった。


 すぐに別の巫が現れた。年老いた声が、穏やかにその場を収める。


「若い巫が失礼をしました。儀式を続けましょう」


 その声は柔らかでありながら、潮の流れのように抗いがたい力を含んでいた。


 フロウの無礼も責められることはなく、すべては“祈りのうち”として包み込まれる。


「リュア=ヴァイスは拒まない。これも教義のひとつだ。この程度で巡礼は妨げられないのさ」


 フロウの言葉に、セーレは静かに頷いた。


 波がどれほど揺れても、潮は祈りを運び続ける。


 形式が異なれど、今はこの都市の“かたち”に身を委ね、儀式を受け入れることにした。


 セーレが記名盤にそっと手をかざす。


 指先が石盤に近づいた瞬間――盤の表面に水のようなゆらぎが広がった。


 触れていないのに、盤が震える。


 それはまるで、彼女の名が、まだ声にもならぬ“揺らぎ”として、記名盤に染み込んでいくようだった。


 その感覚は、記録ではなく、共鳴だった。


 石に名を刻むのではなく、潮が彼女の名を“いまだけの波長”として受け入れてくれる――


 石肌の波紋は、やがて結晶と共鳴して淡い青に染まり、ふっと消える。


 風が止み、灯籠たちが、まるでその瞬間だけ静止したように、音を止める。


 セーレはそっと手を引いた。


 彼女の指には何も残っていなかったが、胸の奥に、ほんのわずかな“熱”が残っていた。


 フロウもまた、別の記名盤の前にいた。


 同じように、胸元の結晶を器に預ける。


 彼は黙っていたが、そのまなざしには“応答を信じる者”としての穏やかな揺らぎがあった。


 風が再び吹き始める。


 灯籠の音が、ひとつ、またひとつ、名を呼ばぬままに揺れる。


 潮の巫は、記名盤に広がる波紋をしばらく見つめていた。やがて風の流れに合わせて衣を揺らし、名を預かる覚悟を胸にふたりを見つめる。


 その表情には、確かに祈りの重さを受け止めてきた者の静けさがあった。小さく頷き、声を落とすようにして告げる。


「これで、潮はあなたたちを“覚えた”でしょう。名はまた戻るかもしれない。あるいは変わるかもしれない。でも、今日という一瞬のあなたの姿は、潮に染まりました」


 セーレはふと目を閉じた。


 “名を預ける”という行為が、こんなにも静かで、やさしくて、怖いものだったなんて――


 彼女は初めて、名が“形”でなく“信”として扱われるということを知った気がした。


 この瞬間、名とは祈りだった。


 そして祈りとは、潮の奥底で静かにたゆたう、戻ることを願う波の記憶なのだと。


 ◇ ◇ ◇


【第6節 ― 錨の祈り、名と魂を呼び戻す】


 海殿の奥、石の柱が連なる潮室。

 波音に似た低い振動が、床を、空気を、そしてセーレの心臓を打った。


 灯籠はすべて消えていた。巫たちは誰ひとり声を発さず、まるで儀式の一部として石像のように沈黙していた。


 潮の記名盤が、音もなく開かれる。

 盤面の中心──白濁した結晶層がゆっくりと割れ、かつて封じられていた“潮帰の核”が姿を現す。


 それは光でも、音でもなかった。

 だが、セーレには確かに“呼ばれた”と感じられた。


 周囲の巫たちの目が、いっせいに彼女に向けられる。その眼差しは命令でも期待でもなく、祈りに近い何かだった。


 セーレが一歩、前に出る。


 その瞬間、記名盤の結晶核が青白く脈動し、天井の隙間から差し込んだ潮光が結晶に触れて反射した。

 その光はまるで水面をなぞる指のように、天蓋から神殿全体へと滑り出し、空中に無数の光の泡を生み出していく。


 泡のひとつひとつが、小さく“音”を抱えていた。

 それは名の断片、祈りの余響、かつてこの地で仮名を預けた者たちの呼吸だった。


 空気がふっと冷たくなる。

 泡の群れのあいだから、ゆっくりと影が浮かび上がる。


 しなる海蛇の身体が、透明な空間に軌跡を描く。

 銀色の鱗をきらめかせた精霊魚が群れをなして円を描き、ひとつの渦を形成する。

 その渦の中心には、流光の柱が立ち昇っていた。


 泡と祈りを紡ぐように、彼らは舞っていた。

 形を持たず、言葉もなく、ただ名を還すという意志だけを帯びて──


 ネリュエの眷属たちが、封印された祈りの舞台に現れた。


 彼らは名を持たず、しかし名を還すために在る。


 セーレは立ち尽くしていた。

 だがその身体に、潮が流れ込むような感覚が走る。

 それはまるで、空だった器に祈りという水が注がれるような、不思議な充足だった。


「いまより、潮帰の祈りを解き放つ──」


 老巫が、初めて言葉を発した。

 それはセーレにしか届かぬ声だった。


「汝は、記されなかった者。だが、祈られなかった者ではない」


 盤面に浮かぶ一つの泡が、セーレの胸元へと漂ってくる。

 それに触れた瞬間、彼女の記名結晶が淡く震えた。


「還した名を、受け入れる覚悟はあるか?」


 セーレは頷く。微かに、しかし確かに。


 その瞬間、かつて封じられ、記憶からも消されていた潮帰の祈りが、静かに息を吹き返し始めた──


 祈りが終わったあと、神殿の奥、石畳の階段を降りた先にある聖域へ、セーレとフロウは老巫に導かれていた。


 神殿の奥、石畳の階段を降りた先にある聖域へ、セーレとフロウは老巫に導かれていた。


 重い扉が軋み、潮の記録が刻まれた最奥の聖座が姿を現す。

 壁面には古の記名構文が渦巻くように刻まれており、その中央に、潮神ネリュエの象徴たる瑠璃の石が安置されていた。


 老巫は、セーレが背負っていた剣──ルクスブレードに目を留めた。

 そして、胸元に刻まれた王家ラナリアの紋章を見て、短く息を呑む。


「その剣……それは……」


 老巫の声には、何か深い記憶を揺さぶられたような震えがあった。

 まるで、過去に失われたはずの旋律が、不意に胸の奥で鳴り出したかのように。


 巫は多くを語らなかった。

 だが、何かを直感したことは明らかだった。


 そして、隣に立つフロウのことも見つめる。

 彼が“名は必ず還る”と断言したその口ぶりには、まるで既に知っていたかのような確信があった。

 封じられて久しいはずの「潮帰の祈り」についても、その存在を当然のように理解しているようだった。


 老巫は目を細め、しばしの沈黙の後、ひとつ頷いた。


「お前たちは、還流の兆しを運ぶ者なのだな」


 その言葉には、畏れと、かすかな期待が宿っていた。


 潮の神殿は長らく、祈りと名を封じる場として静まり返っていた。

 だが、いま──

 還らぬはずの名が、ふたたびこの地で、呼び声を待っていた。


 ◆ ◇ ◆


《幕の狭間の囁き ― 潮の街、その名は書かれずとも】

(第五の仮面 ― 潮語る旅の傍観者)


おやおや……まだ、ここで足を止めているのかい?


私の出番はまだかい?


旅は進んだ。祈りも交わされた。名も――どうにか、預けられたようだ。

だが、あの港町《リュア=ヴァイス》で君たちが見たものは、ほんの潮の表層に過ぎない。


さあ、舞台裏へようこそ。

この章の真なる問いを、仮面の内側から解き明かしてあげよう。


記名の都市ザルファトが「名を刻む場」なら、リュア=ヴァイスは「名を流す場」だった。


ん?

まだザルフォトには行ってない?

ああ、そうだったね。


まあいい、話を続けるよ。


けれど、名を流すとは、忘れることではない。

還名とは、赦し。記録ではなく、共鳴。

君たちの知る“記名”の定義そのものを、あの潮の街は静かに覆した。


潮神ネリュエ――あの神の祈りには、決して名前が刻まれない。

いや、刻まれることを拒み続けている、と言うべきか。

その代わり、波が、泡が、香りが、音が、すべてを語る。

名とは、“読むもの”ではなく、“感じるもの”だと。


ふふ、耳のない者にも聞こえる音。目のない者にも見える祈り。

それを言語と呼ばずして、何を語りとするのだろうね?


そして、忘れてはいけない。

セーレの首飾り……あれはただの結晶ではない。

アウロ=ルクスの名が封じられた、記名と断絶の聖具だ。

潮の記名盤が震えたのも当然だろう?

記されることを拒んだ神々と、記されるべくして記されなかった神。

その狭間にあるのが、彼女自身なのだから。


そして……あの巫女、思い出したかな?

彼女の動揺、彼女の断言、そして彼女が口をつぐんだときに起きた“静寂の祈り”。

あれこそが、ネリュエの沈黙が“終わり”ではなく“応答”であるという兆しさ。


さてさて、

名を記す旅の中で、「還名」という行為に出会った君たち。

この潮の街で、何を赦し、何を選び取ったのか。

その問いに答えられぬまま、船は次の都市――ザルファトへと向かっている。


え、まだザルフォトに向かわない?


ふふふ……では、続けようか。

記名と断絶の祭典へようこそ、観客諸君。

劇はまだ折り返し地点。


――黒き仮面の観測より、道化■■=■フ■■が記す。


 ◇ ◇ ◇


【第7節 ― 析かれた祈り、名を喰らうものの影】


 潮帰の儀式は、昼の陽が高く昇る静謐な光のなかで始まろうとしていた。


 海殿の中央、結界の火が四方に灯され、石板に描かれた潮の円環紋が淡く輝いている。巫たちは円の外側に並び、誰ひとり声を発しないまま、静かに祈りの姿勢を取っていた。潮の記名盤の周囲には灯籠が配置され、泡を模した小さな祈り珠が浮かんでいる。天井からは潮光を導くための細い水晶柱が垂れ下がり、その一本一本に潮神の詠唱文様が刻まれていた。


 祭壇全体がまるで潮の満ち引きのように呼吸し、祈りの場そのものが生きているかのようだった。


 セーレとフロウは記名盤の正面に立っていた。

 フロウが静かな声で隣のセーレに囁いた。


「このときのために、名を還す器が作られてきた。きみは、ただ受け止めればいい」


 セーレは緊張した面持ちで頷いた。だが、その瞳には確かに覚悟の光が宿っていた。


 老巫が前に出ると、潮光が彼の足元に集中するように集まり始める。


「いまより、潮帰の祈りを開始する」


 そう告げた瞬間、記名盤が低く唸るような音を立て、再び結晶核が脈打ち始めた。祈りの循環が、確かに始まろうとしていた――はずだった。


 次の瞬間、祈りの場に異変が起きた。

 石の柱が軋みを上げ、神殿全体が呻くように震えた。


「……これは」


 老巫が表情を強張らせたとき、天井の岩盤に走るひびから、闇のようなものが滴り落ちた。


 潮光が歪む。泡が消える。魚たちが逃げ、蛇たちが沈む。


 語られぬ言葉――否、語ってはならぬ音が、神殿内に染み込んでいく。


 反=転。


 それは断絶神格《モル=ザイン》の干渉だった。


 名の還流を拒むもの。

 記された契約を反転させ、祈りを呪詛に変える者。


 神殿の上空を覆っていた陽光が、突如として翳った。

 まるで昼と夜が反転したかのように、潮光は黒い幕に吸い込まれていく。


 セーレの隣に立っていたフロウが、苦しげに膝をつく。

 その身体が軋むように歪み、彼の輪郭が夜の影に引きずられるように変わっていく。

 目の色が金に染まり、背からは羽毛が噴き出すように現れ、やがて――


 フロウは梟の姿となり、その場に崩れ落ちた。


 セーレもまた、胸元の記名結晶が激しく脈動し、全身を異様な熱が駆け巡る。光と影が入り混じり、彼女の耳が尖り、黒く変色した尾が背に現れる。瞳の色が深く、夜のごとくに沈む。


 変化は、完全ではなかった。ルクスブレードが淡く光を放ち、セーレの胸元に潮光の残響を戻す。その光が波紋のように広がり、呪いの浸食をわずかに押し留めた。


 だが、もう“もとどおり”には戻れなかった。

 彼女の姿には、確かに黒き獣の痕が刻まれていた。


 神殿の壁面に、影がひとつ、ふたつ……やがて十数体に増えていく。


 それらは人の形をしているが、顔がなかった。

 仮面を剥がされ、口だけが無惨に開いた“祈りの破者”たち。


 灯籠が次々と倒され、泡の祈り珠が弾けて霧散する。

 祈りの構文が壊れ、潮神の紋様が黒く焼き焦げていく。


 セーレは一歩も動けなかった。


 老巫が叫ぶ。「祈りを続けよ! 潮はまだ応えている!」


 しかし、その声すらも“語れぬ音”によってかき消される。


 記名盤の核がひときわ強く光を放つ。セーレの足元に一条の潮が走り、彼女を中心に守護の輪が広がる。


 その内にあっても、セーレの耳に問う声が届いた。


「なぜ、汝の名は記されなかった?」


 ──なぜ、私は名を持たなかったの?


 自分のなかで、ずっと閉じていた扉が、今まさに開こうとしていた。


 だが、その問いに、彼女は答えられなかった。

 泡のように言葉が浮かび、泡のように弾け、消えていった。


 だが、記名盤はなお光を失っていなかった。

 破られかけた祈りの結界のなかで、巫たちは再び祈りの円環へと力を集めはじめる。

 潮神の文様が刻まれた水晶柱が再び脈動し、淡い潮光が泡の粒となって空間を満たしていく。


 老巫の声が静かに響いた。「祈りを絶やすな……潮は、まだ、聞いている」


 セーレは変化した耳を押さえながら、震える身体で前を見据えた。

 この名のない夜に、名を還すために。


 「わたしは……」


 その呟きは小さかった。

 けれど祈りの空間にあって、その声だけがまっすぐ届いた。


 「私は、ここにいる」


 名を持たぬ者として、名を喰らわれかけた者として。

 それでも記されるべき祈りがあると信じて、セーレは目を開けた。


 彼女は、歩みを止めなかった。


 ◇ ◇ ◇


【第8節 ― 還名の構文崩壊と、断絶の咆哮】


 泡の静寂を破ったのは、祈りではなく、断絶だった。


 モル=ザインの干渉が本格化し、神殿の外縁から潮の市街地にかけて、微細な歪みが広がり始めていた。

 空が揺れ、潮の風が逆巻き、昼だったはずの空に、夜のような黒の帳が垂れ込める。


 驚愕する市民。

 声を上げる者、灯籠に縋る者、子を抱きしめる者。


 それは突如、波間のかすかな異変から始まった。

 湾の沖、朝の靄に包まれていた水平線が、黒く染まり、泡立ち、ゆっくりと不吉な影を孕みはじめる。


 漁師が最初に気づいた。網を引き上げようとしたその手を、水中から何かが絡めとろうとしたのだ。

 叫び声とともに網が引きちぎられ、次の瞬間、海面が裂けるようにうねった。


 黒い海蛇の群れだった。

 モル=ザインの眷属──闇の祈りから生まれ、光を嫌い、名を裂くもの。


 それらは波の衣を纏って、陸へと這い上がる。

 牙もなく声もなく、ただ存在そのものが呪いのような静けさを帯びていた。

 ひとつ、またひとつと、潮の町の屋根を這い、灯籠を呑み込み、祈りの記号が刻まれた壁面を黒く侵食してゆく。


 誰かが「夜だ」と呟いた。

 昼のはずの空が、黒く閉ざされていた。

 太陽が覆われ、光が濁り、潮の町は偽りの夜に閉じ込められていた。


 街の広場で遊んでいた子供たちが泣き叫び、大人たちが空を仰いだ。

 灯籠が一斉に点灯されるも、黒蛇の影がその灯火に触れた途端、炎はしゅうと音を立てて掻き消える。


 それは、ただの侵略ではなかった。

 この町に根づいた“名と祈りの構文”そのものを、根底から破壊しに来たのだ。


 潮名の記録所では、通行許可を司る記名盤が次々と黒ずみ、文字が読めなくなる。

 住人たちは自身の潮名札が反応しないことに混乱し、船の出航が止まり、街路の通行証が機能を失う。

 仮の名しか持たぬ者たちは、名を喪失した恐怖から声を失い、地面に伏して自分の胸を打つ。


 神殿の医療区画では、潮光によって保たれていた癒やしの構文が歪み、回復の祝詞が反響しなくなった。

 助けを求める者の名が記録に届かず、祈りを媒介にした診療がことごとく沈黙する。


 巫たちの間でささやかれていた──「これは、忌み潮ではないか」と。

 昼が夜に反転したその瞬間、封じていた禁域──名を奪われた祈祷碑の地下が開いたのを見た者がいる。

 影の内から半影族〈スルアリム〉だけでなく、記録を歪める存在までが這い出してきたと。


 この町で“名を呼ばれる”ことが生を意味し、“記録される”ことが信頼の印だった。

 その根幹が、今まさに瓦解していた。


 潮の祭壇のひとつが破壊され、祈りの石柱が裂ける。

 名の札が風に散り、文字が消えていく。


 さらに、その影の裂け目から現れたのは、半影族〈スルアリム〉だった。

 明確な身体線を持たぬ彼らは、まるで濃い影がそのまま立ち上がったような姿をしており、通常は祈りの静寂に棲まう存在だった。


 だが今、断絶の力に引きずり出されるようにして実体化した彼らは、言葉を持たぬはずの身で、呻くような声を発し始めた。

 それは名を持たぬ音、祈りの構文を汚染する“言葉にならない語り”だった。


 逃げ惑う市民たち。

 灯籠のもとに身を伏せて祈る老女。

 目を閉じて立ち尽くす巫子。

 叫ぶ者、祈る者、名を呼ぼうとして声を失う者──


 そのすべてが、“語れぬ音”に呑まれていった。


 黒い泡が立ち昇り、祈りの言葉を音ごと侵してゆく。

 神殿の天蓋に浮かんでいた潮の符文が崩れ、漂っていた祝詞の粒が空中で消滅する。


 巫たちの唱える声は、発せられる前に呑まれた。

 祭壇の灯籠は次々と倒れ、記名盤の周囲にあった“潮の風景”が破壊されていく。


 それでも誰かが、叫んでいた。

 壊れた構文をなぞるように、途切れた祈りをつなぎとめようとする声が、名の断片を紡ごうとしていた。


 それは失われた祈り。

 記録には残らぬ名。

 だが確かに、潮の街のどこかで誰かが、名を呼ぼうとしていた。


 セーレはそれを聞いた。

 すべてが呑まれていくその只中で、たったひとつ──名を諦めない声があった。


 そして、祈りの最後の灯りが、神殿の奥で小さく揺れた。


 その灯りは、誰かが名を手放さなかった証のように、波の呼吸に合わせてかすかに揺れていた。


 そしてその祈りの名残に触れた瞬間、セーレとフロウの前に現れたのは、かつて潮神の祠に仕えていた巫たちの変わり果てた姿だった。


 反転した祈祷構文に呑まれた彼らは、名のない“潮の影”へと変貌していたのだ。

 祈りの衣をまとったまま、顔には崩れた構文が黒く焼きつき、瞳の奥では潮流の逆巻くような虚無が揺れていた。


「……祈りが、名を護るはずの祈りが……」


 フロウが息を呑んだそのとき、影のひとりが突進してきた。

 足元には黒潮のような影がうねり、腕には祈祷時の印を固めたままの呪いが渦巻く。


 セーレは即座にルクスブレードを抜いた。刃と刃がぶつかるのではない。まるで潮の音同士が干渉しあうように、光と影の祈りがぶつかり合った。


 その一撃には、かつて祈られた“名の重さ”が、歪んだまま染みついていた。


「これは……“名を失った者の祈り”。でも、まだ残っている……祈りたいという声が」


 影たちは言葉ではなく、引き潮に似た低いうなり声を発しながら迫ってくる。

 そのすべてが、記名構文を逆転させ、祈りの形式を侵食する反潮のような音だった。


 フロウはセーレの背を守るように立ち、名を護る詠唱を断片的に紡いでいく。

「名を記すは、光……影を断つは、祈り……」


 だが、潮の影の一撃がフロウの構文をかすめ、衣の一部を裂いた。影はなおも蠢きながらセーレへと迫る。


 セーレは一歩引き、深く息を吸った。

 そして、刃を振るう。


 それは断ち切るための剣ではない。

 歪みきった祈りを“還す”ための祈祷の所作だった。


 ルクスブレードがひとつの円を描くたび、黒い構文のしぶきが波紋のように散り、ひとり、またひとりと影が静かに崩れ落ちていく。


 その終わりには、不思議な穏やかさがあった。

 まるでようやく名の呪縛から解かれたかのように。


 最後の影が、潮を招く祈りの手振りのまま崩れ落ちたとき。


 潮神の祠の灯籠が、ふたたびひとつだけ、静かに灯った。

 その光は、返潮のように静かで、どこか潮神の呼吸を思わせるような“祈りの余韻”を帯びていた。


 ◇ ◇ ◇


【第9節 ― 還名神ネリュエ、裂かれた存在の残片】


 泡が弾ける音だけが、静まり返った神殿の空間に散っていた。


 その瞬間、セーレの背後で、低く軋むような唸り声が響いた。


 振り向くより先に、暗い霧のあいだから何かが飛び出す――それは、影のようにしなる身体と、鋭い金色の瞳をもった黒猫の形をした眷属。


 ただの猫ではない。


 尾だけが異様に長く、蛇のように揺れており、その先には光を食らうような裂け目が口を開けていた。


 セーレの喉奥で、かすかに黒豹の呻きがこぼれかけた。意識が獣のかたちに引きずられそうになる。


 だがそのとき、ルクスブレードが静かに震え、白銀の光が刃を包んだ。


 母の声に似た何かが、その光に宿っていた。


 セーレはとっさに剣を抜いた。意識よりも先に身体が動く。


 影猫が跳躍した瞬間、彼女の剣が淡く発光し、弧を描いて影を斬った。


 風も音もなかった。


 ただ光の軌跡が残り、影猫は悲鳴もなく弾けて、泡のように消えていった。


 それと同時に、空間を圧迫していた“気配”がひとつ、すっと引いた。


 モル=ザインの干渉――否、祈りを侵す“何か”が、斬られた断片と共に退いたのだ。


 影が消えたあとも、神殿の空気は不安定なままだった。


 誰かの声が遠ざかり、祈りの音が潮に呑まれていく。


 フロウの姿すら、泡の彼方に霞んで消えていく。


 セーレはただ、引き込まれるように──

 深淵へと落ちていった。


 視界が歪み、重力が反転するような不安定な感触。


 彼女はひとつ、瞬きをしただけだったのに、もうそこは現実の神殿ではなかった。


 ――潮の底。


 水はなく、光もなかった。

 ただ、音もなく浮かび上がる泡たちが、彼女の足元から空へと昇っていく。


 どこまでも高く、どこまでも静かに。


 その中に、ひとつだけ違う泡があった。

 白く、微かに歌うような響きを宿す泡。


 セーレが手を伸ばすと、それは彼女の指先に触れ、脆く、音もなく弾けた。


 ──母の姿が、そこにあった。


 正面からではなかった。

 彼女は遠く、光の屈折の向こうに立っていた。


 横顔だけが、霞の向こうに浮かんでいる。


 衣が揺れ、髪が風のように踊り、唇がなにかをつぶやいている。


「……リエ…ル……アルティナ……」


 その音だけが、はっきりと届いた。

 けれど、それ以上は何も聞こえなかった。

 名が、語られぬまま、再び泡になって消えていく。


 そのとき、セーレの背後に、なにか“気配”が立った。


 空間が、ひび割れた鏡のように揺れた。


 次の瞬間、視界が歪み、場面がまるで舞台装置のように反転する。


 セーレの目の前に現れたのは──まるで劇の一幕。


 銀の皿に蓋がかかり、まだ何も盛られていない。

 空の皿の上から立ち昇るのは、煙ではなく、名の気配だけだった。

 食卓に広げられた赤いクロス。


 その奥には、黒い燕尾服の紳士が、優雅にナイフを振るいながら、誰もいない観客席に向けて笑みを浮かべていた。


 母の姿は、厨房の奥へと歪み、調理長へと変じた。

 調理長の額に、ぶくりと奇妙な角が生え、身体が歪み、瞬きの間にブタへと変わる。

 ぶひ、と短く鳴いたかと思うと、ブタはテーブルに飛び乗り、空の銀の皿の上にぴたりと座った。

 その瞬間、皿の蓋が音もなく開き、ブタの姿が熱を帯びた光に包まれて溶けていく。

 そこには、香ばしい煙と共に、ポークソテーが現れていた。


 笑い声が聞こえた。


 場を乱し、観客のいない劇場で独り芝居を続ける道化の声。


 テーブルの皿が微かに震える。


 セーレが目を向けた瞬間、皿の上にはいつのまにか、ひとつの“頭部”が置かれていた。血は流れていない。肉の感触もない。それなのに、それは確かに──セーレ自身の生首だった。


 目は閉じられ、口元はわずかに笑っていた。


 そのあまりの静けさに、彼女の心は一瞬で冷たく凍りつく。思考が割れ、感覚が崩れ、現実と幻の境がぼやけていく。


 笑い声が遠くから迫ってきて、心をかき乱す。


 そのときだった。


 セーレの胸元で、王家の首飾りが強く脈打つように光を放った。


 銀の鎖がぴんと張り、皿の上の生首と、ナイフを振るう紳士の動きとが、断ち切られるように弾けた。


 その共鳴が、彼女の正気を引き戻してくれた。


 セーレははっと息を呑んだ。


 目の前のこの存在が、ただの幻ではない。

 なにか、神のようなもの。

 名も、祈りも、人格すらも“演目”として扱う神格。


 けれど、まだその名は──知られていない。


 セーレが拳を握ったとき、劇場は泡のように崩れ去り、現実の潮の深層に戻る。


 すっと空気の重さが変わり、存在だけで空間が染まるような圧。


 その気配は、姿を持たぬままに“変化”そのものの形をしていた。


 言葉のようで言葉でなく、祈りのようで祈りでなく、名の殻だけをまとうもの。


 泡の間を滑るたびに、セーレの声と名が剥ぎ取られていくようだった。


 だが、たしかに“祈りを歪める何か”がそこにいた。


 そのとき、ふたたび泡が揺れ、母の幻影が現れた。


 先ほどと同じ横顔──けれど、今度はその瞳が、はっきりとこちらを見つめていた。


 唇が何かを叫ぼうとしている。


 だが、音は届かない。


 セーレは声を出そうとしても、喉が塞がれる。

 名を呼ぼうとしても、言葉が泡になってほどけていく。


「……私は……どうして……」


 自分の声で、母の名を呼べない。

 それが祈りを閉ざされた者の宿命であるかのように。


 母は母ではない笑みを浮かべた。


「ハハハハッ、面白い、実に面白い人間だ。人の子でありながらモルザインを退け、母の力を受け継ぐ器でもあるのか。特異点というべきか、世界構造の欠陥というべきか。外宇宙の言葉を借りるなら、バグだな」


 声も、名も、すべてを笑いで塗りつぶされそうになる。

 けれど、セーレは胸に手を当てた。

 そこにはまだ、母の祈りの残響が、微かに脈打っていた。


「あなたは……だれ!?」


「断絶神? ああ、いい響きだ……だが、君たちの言葉ではそう言うらしいね。私はただ、幕が下りるその瞬間まで、役を演じているに過ぎない。そう、ネフリド伯爵とでも呼んでくれたまえ。観客は少ない方が、芝居は冴える」


 黒い燕尾服の紳士は軽く会釈をした。


 その瞬間、潮の記名盤の光がふっと翳った。


 一時の静寂。


 気配を感じてセーレが振り返ると、そこには母の姿があった。


「その者の言葉に耳を傾けるな。そいつは虚言の神だ!」


 そして──


 母だったものが潮水になって崩れ落ち、それは意思を持つかのように、泡のなかから伸び上がった細長い水流が、手のかたちを模して揺れた。


 その“手”は、迷いなくセーレの腕を掴む。

 冷たい衝撃。

 それは激しくもなければ、乱暴でもなかった。

 むしろ、あまりにも優しく──祈るように、潮の“手”はセーレを掬い上げた。


 ぐいと引かれた身体が、水面を割って浮かび上がる。


 現実の神殿。

 潮神ネリュエの気配が、微かに残っていた。

 祈りは、記されなかった。


 そして、名も──


 その重さだけが、セーレの胸に沈んでいた。

 ――それは、まだ語られていない名前の、沈黙だった。


 すべてが静まり返った神殿の奥で、記名盤だけが微かに震えていた。

 まるで、まだ呼ばれていない名を、どこかで待ち続けているように。


 ◇ ◇ ◇


【第10節 ― 潮神の沈黙、祈りなき死のかたち】


 セーレが水面を割って引き上げられたその直後、神殿の奥、潮の核盤が再び震え始めた。


 神殿を包んでいた重苦しい気配が、まるで海底の底流のように沈静していく。

 それでも闇の余波は残り、潮の光はまだ揺らいでいた。


 だが、突如として、海底から巨大な光柱が神殿を貫いた。

 それは一閃の稲妻ではなく、深海から湧き上がる“潮の呼吸”のようだった。

それは命を創る力ではない。名を還すための、ただ一度きりの呼吸だった。


 ネリュエの声なき意思が、神殿全体に広がる。


 泡の流れが止まり、精霊魚や蛇の眷属たちが静止する。

 それはまるで、海全体が一つの祈りへと変わったかのようだった。


 《この子は、名を返されるべき者》


 声ではなかった。

 しかし、その意思は確かに届いた。


 神殿の天蓋が音を失い、空気が凍るように沈黙する。

その刹那、奔流のように光の潮が落ちてきた。

 泡のひとつひとつが刃のような形を取り、神殿の重力をねじ曲げるようにして螺旋を描き、中央に集束する。

 それはまるで、祈りそのものが武器となって敵を討つかのようだった。


 断絶神の影がそれに気づいたときにはすでに遅く、泡の刃が幾重にもその身を貫き、名のない悲鳴をあげながら砕けた。

 祈りを歪め、名を裂いた“何か”は、潮の還流に巻き込まれ、渦の奥へと押し流されていった。


 だが、それはネリュエの全力だった。


 光柱が静まり、泡が再び流れ出したとき、神殿に満ちていたネリュエの気配はふっと失われた。


 祈りの波動は届かず、潮の声は聞こえない。

 神殿は、静かな“沈黙”に包まれていた。


 ──ネリュエは、沈黙に入ったのだ。

それは祈りの終焉ではなかった。

ただ、海の神が波の裏へと静かに退いただけだった。


 セーレは、何も言えなかった。

ただ、胸の奥で何かが確かに崩れ、そして還ってきたことだけを知っていた。


 そのとき、セーレの意識に、はっきりと母の姿が甦った。

 流れるような髪、優しく凛とした眼差し、祈りを編む手つき。

 あの日、最後に見た声が──今、鮮明に耳元で響いている。

 

 セーレは震える唇を押さえながら、そっと呟いた。


「リエル=アルティナ=ラナリア……」


 その名が口にされた瞬間、胸元の王家の首飾りがまばゆい光を放ち始めた。

 同時に、腰に下げられたルクスブレードが共鳴し、青白い潮の光を灯す。

 光は神殿全体に広がり、名の共鳴として波紋を描く。


 その光の中心に、セーレはひとり、ただ立っていた。


 盤面に、ひとつの泡が浮かび上がる。


 盤面に、ひとつの泡が浮かび上がる。

 それは他のどの泡よりも淡く、しかし確かな響きを宿していた。


  潮から帰ってきた名はセーレの名ではなく、母の名だった。


 誰にも語られず、記されることのなかった祈りの痕跡。


 泡は音もなく記名盤の中心に吸い込まれ、静かに記された。


 その静寂のなか、倒れていたフロウがゆっくりと身を起こす。

 彼の目がセーレのほうへ向き、胸元の光を見つめたまま、かすかに呟いた。


「リエル……“Liel”って意味、知ってるか?」


 セーレは驚いたように振り返る。


「古代語で、“祈りを刻む者”、あるいは“誓いの光”って意味なんだ。 王家の名にその名があるのは……きっと、偶然なんかじゃない」


 彼の声はかすれていたが、どこか確信に満ちていた。

 首飾りの光はまだ微かに脈動していた。


 フロウはしばらく沈黙した後、ぽつりと続けた。


「アルティナ……それは覚えてる。王家の継承名だ。女王に与えられる名。ラナリアも忘れてなかった。太陽神アウロ=ルクスから授かった王家の姓……きみと出会ったとき、なんとなく思い出した」


 彼はそこで言葉を区切った。


「でも、“リエル”は……聞いても、思い出せなかった。きみが口にするまでは、そんな名前があったことすら、俺の記憶にはなかった」


 彼の声は淡々としていたが、その奥にかすかな困惑と畏れが滲んでいた。


「名前を奪われたのとは違う……もっと深い、断絶がある気がする。まるで、その名だけが……最初からこの世界に存在していなかったみたいに」


 それは、祈りが記した“まだ呼ばれていない名前”──

ひとつの静かな宣告だった。


 ◇ ◇ ◇


【第11節 ― 流されなかった祈り、記憶に刻まれた名】


 夜が明けた。


 空はまだ淡い灰色を残していたが、海殿の外には確かに朝の気配が漂っていた。

 潮の香りが風に混じり、波が穏やかに岩肌を撫でている。


 セーレとフロウは、神殿の外れに散らばる灯籠の残骸をひとつずつ拾い集めていた。

 泡の祈り珠はすでに消え、ただ濡れた石の破片と、灯りの記憶だけが残っている。

 名を還す儀式の痕跡。それは祈りの余韻というより、何かを失ったまま残された“名の殻”のようにも見えた。


 ネリュエの声は、もうどこにもなかった。

 けれど、潮の匂いは変わらずそこにあり、沈黙のなかに祈りの名残が静かに息づいていた。


 そのとき、老巫の傍らに立っていた神殿の記録官が、ゆっくりとセーレに近づいてきた。

 彼の手には、古びた巻物が抱えられていた。

 巻紙はわずかに潮に湿り、けれど記された文字は確かにそのまま残されていた。


「これは……母の名?」


 セーレがそっと訊ねると、記録官は無言で頷き、巻物を差し出した。


 巻物を手に取ったセーレの指先が、ふと震える。

 それは紙の冷たさのせいではなかった。

 まるで、遠い昔の祈りの熱が、そこにまだ宿っているかのようだった。

 彼女の視界に、かすかに母の横顔が重なる。

 神殿の灯りの中、名を記していたあの手──今、自分が手にしているものが、確かにその延長線上にあるのだと、理解できた瞬間だった。


 それは数十年前、まだ女王だった頃のリエルがここを訪れた際に、自らの手で刻んだ祈りの断片だった。

 通常であれば、その名は潮に還り、痕跡を残さぬはずだった。

 だが、この記録だけは、断絶の力を受け流すように、潮の奥底に沈まず残っていた。


「おそらく……これは、“祈り”としてではなく、“証文”として記されたからでしょう」


 老巫が、巻物に刻まれた構文を指でなぞりながら呟いた。


「名ではなく、旅の記録として、形式の外側に残されたもの……だからこそ、断絶に呑まれなかった」


 筆致は簡素で、名も、文も、長くはなかった。

 けれど、そこにはたしかに“リエル”という響きがあった。

 あるいは、母が“リエル”と呼ばれていた時代の、最後の痕跡だったのかもしれない。


「記された名は、すべて潮に還る。それが、この地の掟です」


 老巫が静かに告げた。

 その声は、まるで海底の泥に染みる泡のように、深く、柔らかかった。


 セーレは、両手で巻物を胸に抱きしめた。

 波の音が、名を包むように寄せては返す。


 ――名は、まだ生きている。


 そう思えた。


 ふと、セーレは問いかけるように老巫を振り返った。


「……還名の祈りは、これからも行われるのですか?」


 老巫はゆっくりと頷いた。


「形としては続きます。海殿の務めとしても、航海者や旅人の名を預かることは絶えません」


 そして、少し間を置いてから、低く付け加えた。


「けれど……“潮帰の祈り”は違う。あれは、ネリュエの息吹そのものが導くもの。いま、あの方は沈黙に入られた」


 セーレは言葉を失い、波の音に耳を澄ませた。

 どこかで、遠い祈りの気配がまだ続いているような錯覚のなかに身を沈める。


「どれほどで回復されるかは、私たちにもわかりません」


 記録官が代わって答える。


「ただ、この地は人が行き交い、名が交わされ、祈りが捧げられ続ける場所です。すぐに、あの方も力を取り戻すでしょう」


 セーレは巻物をそっと胸元に抱き直した。

 名が、また還る日が来ると信じたかった。


 フロウがその隣で、仮面の奥の視線を空に向けた。

 彼は何も言わなかったが、その静けさが、答えだった。


 港へ向かう石道を、セーレとフロウはゆっくりと歩いた。

 朝の光がまだ弱く差し込むなか、背には断ち切られた祈りと、繋がれた記録の気配が重なっていた。


 途中、風に運ばれて小さな貝殻が足元に転がってきた。

 セーレはそれを拾い上げ、指先で軽くなぞった。

 何の刻印もない白い殻。だが、それはまるで、これから記される名の器のようだった。


「……ここに、母の名をもう一度刻んでみたい」


 セーレが小さく呟くと、フロウは「それもきっと祈りになるさ」と応じた。


 夜の祈りが終わり、朝の名が、また世界に息づいていく。


 潮はすでに満ち始めていた。


 ◇ ◇ ◇


【第12節:潮より名を授かる者、再構成される祈り】


 リュア=ヴァイスの港町は、潮と祈りが共鳴する場所だった。


 海に面した街並みには“潮紋”と呼ばれる独特の波形模様が施され、漆喰の白壁に青緑の線が走る。屋根の上では潮風が小さな祈り旗をなびかせ、家々の軒下には名を流すための仮名珠が吊るされていた。


 人々は皆、“潮名”という第二の名を持ち、それは自身の祈りと海との契約を表すものだった。


 漁師たちは船に乗る前に浜辺の小祠に珠を供え、商人は旅立ちの前に市場で潮歌を唱えた。年長者ほど潮名の響きを誇りとし、子どもに授ける名を“潮の声”に問いかけて決めるという風習がある。


 港の外れには、海に向かって大きく開かれた石造の祭壇があり、朝と夕には潮に祈る者たちの姿が見られた。祭壇の背後には“潮の書架”と呼ばれる祈祷板が立ち並び、名を刻むかわりに仮名珠が納められていた。珠は潮風を受けてわずかに揺れ、光を受けるたびにそれぞれ異なる波紋のような輝きを放っていた。


 ちょうど今、漁船の積み込みが行われており、その甲板には小さな籠に納められた祈祷珠がいくつも並べられていた。珠には仮の名と祈りが封じられており、漁や航海の無事を潮に託すためのものである。朝の陽が昇るにつれて、珠の光が潮の面に反射し、港全体に淡い虹のようなきらめきを与えていた。


 桟橋の先では、遠く帆船の影が潮の中に揺れており、空にはかすかに海鳥の声が響いていた。市街から続く石畳は夜露を吸ってしっとりと濡れ、朝の光に濡れた海藻が足元を彩っていた。


 セーレとフロウは、ひとことも交わさず、ただ静かにその道を歩いた。神殿からの余韻がまだ身体の奥に残っているようで、二人の歩みはどこか慎重で、祝詞の一節をなぞるような律動を持っていた。


 港の管理塔は、朝の光を背に受けながら、潮霧をうっすらと纏っていた。

 この町で暮らす者や、海を越えて旅をする者の多くは、潮名をひとつ持っていた。

 それは義務ではないが、海との関係を結ぶ“礼儀”として、長く受け継がれてきた風習だった。


 港の管理塔は、朝の光を背に受けながら、潮霧をうっすらと纏っていた。


 この町で暮らす者や、海を越えて旅をする者の多くは、潮名をひとつ持っていた。


 それは義務ではないが、海との関係を結ぶ“礼儀”として、長く受け継がれてきた風習だった。


 セーレとフロウは、塔の中へと足を踏み入れる。


 潮気を含んだ石造りの回廊を進むと、すでに幾人かの旅人や市民たちが並んでいた。多くは漁師か巡礼者風の服装で、手に潮名札や申請紙を携えている。


 ふたりはその最後尾に加わった。時折、呼び出しの鈴音が鳴ると列がひとつ進み、巫の姿が見える窓口が徐々に近づいてくる。


 待ち時間の静けさのなか、セーレは何気なく視線を上げ、壁に掛かっている一枚の書に目を留めた。


 声なき者の名よ、波に溶けよ

 名なき者の願いよ、潮に乗れ

 潮は還す、呼ばれなかった名さえも

 ネリュエよ、赦しの水で、世界を巡れ


 毛筆で書かれたその祈祷詞は、年月を経たように見せかけた、いかにも“演出”めいた古色を帯びていた。


 セーレは眉をひそめ、ぽつりと呟いた。


「……これ、偽物かな?」


 その声には、呆れよりも、どこか切なさが混じっていた。


 フロウは目を伏せ、淡々と返した。


「祈祷詞として昔からある言葉だから偽物ではないが……」


 そう言って、掲げられた額の縁を横目に見やる。


「わざわざ文字にして飾ってあるのは観光客向けだろうな」


 その言葉にかぶさるように、真後ろから日焼けした低く太い声が響いた。


「この街は観光業で成り立ってるからな。俺みたいな漁師は肩身が狭い」


 振り返ると、陽に焼けた肌の巨漢が腕を組んで立っていた。肩には潮に濡れた粗布の荷袋がかけられており、袖口からは貝細工の数珠が覗いている。


「この事務所の看板だって、いつの間にかラヌマに変わっちまった。全部が悪いとは言わんが、祈りの形式まで変えちまうのはいかがなもんかと思うんだがなぁ」


 男は首をゆっくりと左右に振り、目を細める。窓口の奥から微かに聞こえる潮の音に、何かを確かめるように耳を澄ませながら、続けた。


「街の名前がラヌマに変わっても、潮の音は、昔と変わらない」


 フロウが何かを思い出すようにその言葉に頷いた。


「……たしかに。名が変わっても、音は構文の下に残るものだ」


 男は懐から一枚の布を取り出し、そこに刺繍された古い図紋を広げて見せた。そこには“ヴァイス”と読める潮語の構文が淡く残っていた。


「爺さんの話だと、リュア=ヴァイスのヴァイスはな、“声”とも“空白”とも読める。呼ばれなかった名が、波の音に混じって還ってくるって信じられててな……昔は、それを“祈り”って呼んでたもんさ」


 セーレは黙ってその言葉を聞いていた。心のどこかで、確かに感じていたもの――この地に満ちる名残の気配、それがほんとうに“祈り”と呼ばれるものだったのかもしれない、という感覚が、静かに胸を満たしていった。


 そしてようやく順番が回ってきたとき、フロウが事情を簡潔に説明し、セーレが隣で無言で頷いた。


 そして、受付に立つ巫は、記名板を一瞥し、静かに首を横に振った。


「陸の名のままでは、航海の許可は下りません。この海を渡るには、“海の名”が必要です」


「だから言っただろう?」


 フロウは肩をすくめて小さく苦笑し、セーレに視線を投げ言葉を続ける。


「海を渡るには潮名が必要なんだよ」


 どこか諦めにも似た親しみが、口調ににじんでいた。


 セーレは受付とフロウを交互に見つめ、少しだけ戸惑いながら尋ねた。


「でも……ネリュエが沈黙しているのに、本当に潮名が要るの?」


 受付の巫は表情を変えず、しかしその声音にわずかな緊張を含ませた。


「そのようなことは、軽々しく口にしないでください。人々の混乱を招きます」


 受付の巫は、ちらりと周囲の気配をうかがい、言葉を切った。ひと呼吸置き、慎重に言葉を選ぶようにして続ける。


「……ですが、名を捧げる儀礼は航路の基礎です。たとえ今は神の気配が遠のいていても、それが形式であれ制度であれ、祈りの場を通すことが海と向き合う礼儀であり、秩序です」


 セーレは小さく息をつき、一瞬だけ目を伏せた。だが、すぐに顔を上げ、まっすぐに頷いた。


 受付の巫は、事務的ながらも、儀礼的な敬意を忘れない声音で応じた。


「新規登録ですと、ノーム金貨五枚、または六百セリカでお支払いくださいませ。金貨でお支払いいただくと、百セリカ分お得となります」


 フロウは腰のポーチを探り、掌の上に古びた金貨を一枚取り出した。


 それは、中央に満ち欠けの月と仮面をかたどった意匠が刻まれた、古のムーミスト神殿で祈りを込められた金貨だった。かつては、沈黙の誓いを立てた者が“名を封じる儀式”のために奉納する聖具であり、今ではその意味を知る者も少なくなっていた。


 彼は、それをカウンターにそっと置きながら言った。


「……これでも通るか?」


 巫は金貨を受け取り、しばし沈黙した。まるで声を失った祈りの残響に触れるように、指先がその表面をそっとなぞる。刻まれた構文のかけらが、ひととき彼女の内に眠る記憶と呼応していた。


「祈祷済みの金月硬貨……確かに五ノーム金貨に相当いたしますが、現在の貨幣価値では……」


 流通用のノーム金貨は、金の純度がかなり低く、銅の割合が多くなっている。それに比べ、祈祷済みの金月硬貨は、金の純度が高く造幣されていた。


「……もう、そう簡単に値はつかないさ。けど、これは祈りの名残だ。釣りなんて、いらない」


 その言葉に、巫は短く頷いた。


「承知しました。それでは、受付番号札をお渡しいたします。どうぞ、こちらをお持ちになってお待ちくださいませ」


 フロウは軽く頷いて札を受け取り、セーレとともに無言で窓口を離れた。彼らの背後で、またひとつ番号が呼ばれ、潮霧に包まれた順番の列が静かに進んでいく。ふたりの足元には、かすかな潮の香りと石床の冷たさが残っていた。


 潮の名を授かる儀式は、港町の市政塔の一角に設けられた小さな祭壇室で行われた。


 そこは神殿ではなく、行政手続きの延長としての場でありながら、最低限の儀式性と敬意が保たれていた。

 壁には潮紋をあしらった装飾布が掛けられ、祭壇の脇には小さな潮石と杯が並べられている。

 窓から差し込む朝の光が潮石の表面に淡く反射し、その光が部屋の静けさをさらに際立たせていた。


 潮の巫は、白潮の織物を肩にかけた老女だった。

 語る言葉よりも沈黙に重みがあり、その所作はまるで波が岩を撫でるようにゆっくりとしていた。


 潮の杯を両手に持ち、セーレとフロウの前に立つ。


「これより、潮渡りの誓いを執り行う」


 巫の声は静かに空気を震わせ、祭壇室にわずかな緊張を走らせた。杯の水面がかすかに揺れ、セーレの指先がそれに呼応するように微かに動く。


「陸の名に加え、新たに潮の名を授ける。名は祈り、祈りは航路。潮の加護が、その歩みに寄り添うよう」


 セーレが跪く。


 杯にそっと触れた瞬間、波打つ水面に淡い文字が浮かび上がった。


 ──リュア=セーレ


 潮の語で、“潮の声に導かれし者”を意味する名。

 還流の祈りによって、仮名が洗われ、神前にふさわしい構文が与えられた瞬間だった。


 セーレの胸の記名石の結晶が、潮の光に共鳴して淡く脈動する。呼ばれた名が、今度こそ彼女自身の祈りと響き合っていた。


 フロウは一歩引いたまま、そっと首を振った。


「俺は受けない。潮名は……もう持っているんだ」


 セーレは驚いて顔を向けた。


 フロウは目を細め、少し照れたような、どこか諦めを含んだ笑みを返した。そして、小さく肩をすくめると、懐かしさと苦味の混ざった声で続けた。


「昔、ザルファトで記録官をやってた。中央港の事務棟でね。名前の記録や、出入国の審査、文書の転写なんかを一通り。あの街は混沌としてて、名前のない旅人も多かったから、制度だけはきっちりしてた」


 フロウはふと視線を逸らし、潮の杯に残るかすかな波紋を見つめた。過去の記憶をたぐるように、その揺らぎの奥へと言葉を落としていった。


「名を記すってのは、居場所を証明することだった。けど、同時に……人の輪郭を固定してしまうことでもある。記録された名は、それ以外を許さない形になる。だから俺は、もう名を記したくないんだ」


 フロウの声はわずかにかすれ、言葉の端々に迷いと悔いが滲んでいた。過去を記すことに手を染めてきた者としての重みが、その声音に静かに宿っていた。


「セーレ、お前が“名を失った王女”として扱われる以前から、俺は知っていた。……お前の旅が始まる前から、もう俺の旅は始まっていたんだ」


 セーレはしばらく沈黙し、心の奥に届いた言葉の余韻を手探りでたどっていた。視線は伏せたままだが、その胸の内では記憶と感情が静かに交錯していた。

 やがて、わずかに顔を上げてフロウを見つめ、ためらいがちに問いかけた。


「……じゃあ、もっと前は? ザルファトに行く前……子どもの頃は、どこにいたの?」


 フロウはわずかに目を伏せ、肩を揺らして曖昧な笑みを浮かべた。だがその目元には、過去の霧に触れたような陰りが宿っていた。


「ずっとずっと昔のことすぎて、もう覚えてないよ。霧の向こうみたいなもんさ」


 彼の目は遠くに向けられていたが、その先には誰にも見えない時間の断片が横たわっているようだった。


 セーレは顔を伏せたまま、迷いと切なさが入り混じった吐息をひとつ落とす。そのまま俯いた姿勢のまま、低く静かな声で問いを重ねた。


「……覚えてないって、ほんとに?」


 フロウはわざとらしく肩を揺らし、息を吐いた。本心を隠すときに見せる“いつもの冗談めいた調子”が、逆に答えを物語っていた。


「記録官ってのはね、過去よりも“いま”を正しく書くのが仕事なんだよ」


 セーレはじっとフロウを見つめ、言葉の奥にあるものを探ろうとした。


「でも、ほんとは何か知ってるんじゃない?」


 問いかけるようなその視線に、フロウは答えなかった。

 否定もしなかった。ただ、肩をすくめて目を閉じた。

 その仕草には、言葉の代わりに“時間”が滲んでいた。


 名を受けるとは、祈りを受け取ること。そして、祈りを返すこと。


 それは、旅の新たな起点だった。


 名を授かったその足で、ふたりは再び航路に向き合う。

 朝潮の満ちる方角、その先にある島の名が、すでにセーレの胸に刻まれていた。


 ◇ ◇ ◇


【第13節 ― 潮に運ばれた名、記される者となる旅路】


 出航の朝。

 ラヌマ港の桟橋にはまだ朝靄が立ち込め、灯籠の光だけが行き先を照らしていた。


 朝靄のなかで始まった船旅は、光の中で静かに転じ、いつの間にか夜の潮へと染まっていた。


 船はゆっくりと動き出す。


 セーレとフロウが乗ったのは、潮の町特有の装飾が施された旅船だった。


 船首には潮神ネリュエの小像が祀られ、銀化した貝殻と潮紋の装飾布がたなびいている。波を割る舳先の両脇には、祈りの刻印を写した板金が打ち付けられ、霧の中でも音もなく進むその姿は、まるで静謐なる祈りの器そのものだった。後方には、港の灯籠の群れと、まだ微かに残る潮の光が滲んでいた。


 振り返れば、海殿の尖塔と、その上にわずかに残る潮光。

 その灯が、まるで彼女を見送っているようだった。


「名とは……なんなのだろうね」


 セーレは月明かりに照らされた波間を見つめながら、小さく息を吐くように呟いた。長い旅の末にたどり着いた問いは、どこか自分自身へと向けたもののようでもあった。


 フロウはその隣で羽を小さく揺らし、空を見上げる。


「祈りの器だよ。空にしておくのは、もったいないだろ?」


 船の先端で、ふと泡がひとつ、静かに浮かび上がる。

 それは幻のように一瞬だけ“リエル”という響きを宿し、すぐに弾けて消えた。

 響きは消えたが、名の気配だけが波間に残っていた。


 だがその痕跡は、セーレの心にしっかりと刻まれていた。


 船はさらに霧の帳を抜け、やがて夜の海へと出た。

 空には月が昇り、潮の道を静かに照らしている。

 星と波のきらめきが、ひとつの祈りのように静かに寄せては返していた。


 セーレは甲板に立ち、ゆっくりと目を閉じた。


 かつては名を奪われ、祈りを拒まれ、姿すら失った。

 だがいま、彼女の内側には、まだ空白ではあるが、確かな“余白”があった。


 その余白に、自分の祈りを、名を、記していくのだと決めた。

 母の名は記され、己の名はまだ空白。

 だが、その空白こそが──祈りを記すための最初の頁だった。


 彼女の手が、腰に下げたルクスブレードに触れる。

 刃ではない。

 それは祈りのための器、記すための剣。


 淡く、刃が共鳴した。

 記名はまだなされていない。

 けれど──呼応だけは、確かにあった。


 風が静かに吹いていた。

 波が揺れていた。

 世界は、祈りに満ちていた。


 船が揺れるたび、セーレの隣にとまった梟のフロウが羽をふるわせ、木の板を静かに軋ませていた。

 ネリュエの霊域を離れた今、彼は再び“沈黙の観測者”としてその姿を保っていたが、その沈黙は、もはや隔てる壁ではなかった。


 旅は、続いていた。


 名を受け、船が進み、波が背後を閉じていく中で──セーレは、これまでの旅路を静かに振り返っていた。


 ──それは、名の旅だった。

 名を失い、名を問われ、名の意味を知るために踏み出した道。

 母の痕跡を辿り、王家の血と記録の欠片を拾い集め、そしてひとつの名を自らのものとして受け入れた。


 セーレはようやく、記すべき余白を手にしたのだ。

 それは、奪われたものをただ取り戻すための旅ではなかった。

 自らの祈りで、自らの名を記す旅──それこそが、彼女の真の出発だった。


 今、彼女の航路はザルファトへと向かう。

 契約都市。

 記録と制度、名前の意味がもっとも問われる地。


 ルクスブレードの奥で、まだ語られていない祈りが、静かに光を宿していた。

 ザルファト──そこにはまた、記されざる祈りと、答えのない名が待っている。


──《第5話 ― 契約都市ザルファトへ》に続く──



----


"――潮の街で交わされた名のやりとりに、ひとつの祈りの形を見た。"


《観測者フロウの走り書き:潮の名と祈りの舟》


名は器だった。

だが、それは“中身”を満たすためだけにあるのではない。

名とは、本来空であることを許された、奇跡的な余白なのだ。


セーレの名が、初めて祈りと呼応したあの瞬間。

私は、彼女がまだ“何者でもない”ということを、美しいと感じた。


ザルファトで記録官をしていた頃、

名は契約だった。証明だった。番号だった。

だが、この潮の地では違う。


名は還るものだと言われていた。

名を預け、名を受け、潮の流れに委ねる。


ネリュエが沈黙した夜、

私たちは名のない祈りを胸に乗せ、舟を出した。

誰に届けるでもないその祈りが、

ただ潮の道を渡っていくのを、私は見ていた。


梟としての私には、言葉はない。

だが、記録者としての私は、目で祈る。

沈黙の中に浮かぶ泡のように、

一瞬だけ光を宿して消えた“リエル”という名を、

私は忘れない。


名とは、思い出すことだ。

誰かが想い、誰かが呼び、

誰かの心に、まだ残っているということ。


セーレの旅がそれを教えてくれた。

それは名を取り戻す旅ではなく、

名を記すための“はじまり”だったのだ。


(観測者フロウの断章より)

◆《第5話 ― 潮の街と赦しの名》を読み終えたあなたへ


――名を記す旅の途上で、名を還す祈りに出会った者たちの物語

(記録の語り手:サーガより)


名は、呼ばれるためにあるのか。

それとも、還されるためにあるのか。


忘れたくなかった名、記されなかった祈り、

そして“赦される”ことすら知らぬ者たちの、静かな叫び。


この章は、沈黙を生きる港町で、

名を“刻む”ことから“預ける”ことへの祈りの構造変化を、

旅人と共に辿った記録であった。


舞台となったのは、霧と潮に満ちた港町《リュア=ヴァイス》。

記録上は「ラヌマ」と呼ばれるが、地元の人々にとってそれは“外の名”であり、真の名ではない。

この街では、名とは“固定”されるものではなく、“流れるもの”である。

言葉ではなく潮語、記名ではなく灯籠、記録ではなく記憶によって、人は在り方を伝えている。


▼ 本章の祈りの構文と意味の再定義


記名と還名の違い:

ここで語られた“還名”とは、忘却ではない。

名を一度潮に預け、必要なときに再び呼び戻す――

それは“赦し”の祈りであり、“変化を受け容れる勇気”の形でもある。


沈黙の交信と潮語という信仰体系:

この街では、声を発することは必須ではない。

喉と息と光と風――それらが祈りの媒体であり、

“誰かとつながる”という意志だけが、すべてを通じさせている。


名を持たぬことの肯定:

異種族〈スルアリム〉の存在や、契約種〈タラニス〉の皮膚に刻まれた契約紋。

そして灯籠で光を交わす風習は、

名を語らずとも信頼と関係が築かれる“非言語祈祷文化”の成熟を物語っていた。


セーレの内なる揺らぎ:

これまで“名を記す”ことにこそ救いがあると信じていたセーレは、

この地で初めて“名を預ける”という選択肢に触れ、祈りの意味そのものを揺さぶられた。

彼女が持つ王家の記名結晶は、記録と血統の象徴であると同時に、

変化を拒む構造の象徴でもあった。


フロウの記録者としての信念:

“名は必ず還る”という言葉は、

彼のかつての記録官としての矜持と、

“応答なき神々”への最後の祈りだった。


読者よ。

この章は、“名を探す旅”が一度立ち止まり、

“名を手放す”というもうひとつの可能性を受け入れる章であった。


名を呼びたい。

けれど名を還してもいい。

そう思えたとき、名は“記号”から“赦し”へと変容する。


そして潮神ネリュエ――その存在は、

「祈られることを望まない神」でありながら、

「名を抱えて生きる者たちを拒まない神」として描かれた。


その姿は、呼ばれることを前提とせず、

ただ“そこにいてくれる”神格の原型であり、

この物語が描く神と人の関係性の新たな地平でもある。


君がこの港町を読み終えたということ。

それは、“名前を記すこと”と“忘れること”が、

互いに矛盾せず、祈りの両極として共存し得るのだと気づいたということなのだ。


――記録者サーガ、第伍の頁を、潮に還して閉じる。

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