プロローグ ― 仮の名と忘却の記録者
かつてこの世界には、祈りが過剰だった。
名を与え、神を讃え、あらゆる存在に意味を記した。
それは神聖なる契約であり、秩序であり、時に呪いだった。
けれど祈りが形骸化し、名が仮面となったとき、
世界は“記されぬもの”を見落とし始めた。
潮の街リュア=ヴァイスでは、人々が名を還す。
それは消える前提の仮名――
祈りの形だけを残し、名を呼ばずに見送る儀式。
そこには、忘却を受け入れることで成立する信仰があった。
記録都市ザルファトでは、
記すこと自体が契約であり、証明だった。
“記されることが存在の資格”とされた都市で、
記されぬ神の名は、断罪されるかのように封じられていた。
セーレは、そのあいだを巡る。
仮の名で祈られた人々と、記されずに消えた神々――
その両者をつなぐ“記録の狭間”を、静かに歩いていく。
かつて彼女は、名を探すだけの旅人だった。
だがいまは、記す者であり、
そして“記されなかった祈り”の中継者でもある。
フロウはその隣にいる。
語られざる存在として、梟の影を背負いながら、
いまやそのまなざしに、昼の光すら戻りつつある。
かつては目を逸らしていた朝の光を、今では正面から見つめるようになった――それは、彼自身が記録者ではなく“証人”として歩み始めた徴だ。
――名は、記すために在るのではない。
――名は、想われることで残り続ける。
忘れられた祈り。
記されなかった存在。
呼ばれぬまま沈んだ声。
この旅は、そうしたものたちを拾い集める巡礼である。
いずれ記録帳には残らぬかもしれない。
けれど、誰かの胸に刻まれるなら――
それはもう、名と呼んでいい。
この物語は、
記すことの意味が疑われる時代に、
なお“語り継ぐ”という行為の祈りを描く巡礼譚である。
名を呼ぶことは、ただ記録するためではない。
それは、世界に忘れさせないための“応答”であり、
あるいは“赦し”であり、“宿り”でもあるのだ。
だからこそ、
たとえその名が仮であり、
記される資格を奪われていたとしても――
彼女たちは進む。
祈りが語られ、名がもう一度“在った”とされるその瞬間を、
この世界に刻むために。
私は、それを見ている。
この旅が、語られなかった名に触れるたび、世界の縁がかすかに揺れるのを。




