第二編:霧の舟を渡る祈り
註釈:
この物語は王国が編纂した正史には存在しない設定や人物が描かれている可能性があります。
このエピソードはセーレとフロウがメミスを旅立ち、湖沼地帯のセス湖圏から巡礼路《アエナの流路》を徒歩と小舟で進み、浮島ミルタ=エルへ向かう道中の出来事である。
ミル=エレノアの霊域にて、セーレとフロウの呪いは不安定な状況にあり、二人はかろうじてヒトの姿を保っている。
Ep.2《霧の舟を渡る祈り》
◆夢の祈りに耳を澄ませるあなたへ
名も記されぬ想いが、ただひととき霧のなかに漂い、声にならぬ祈りとして水面に揺れることがあります。
それは誰の記憶にも届かず、誰の記録にも残らない。
けれど私は、夢の断章に宿るその微かな願いを、確かに見届けました。
名を持たぬまま交わされた祈りは、やがてあなたの中にも、静かに根づいていくでしょう。
――語り手・フェリア=コラナ
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【第1節 ― 霧の祝詞、沈黙の舟路】
霧は、生きていた。
その白い流れは、風の気まぐれに従いながらも、意志をもって蠢くように、見る者の視界を覆い、皮膚を撫で、思考の輪郭を曖昧にしていく。
夜明け前、世界はまだ蒼い沈黙に包まれていた。空と川面の境界もなく、舟の下に広がるのは底知れぬ深さか、あるいは空の続きか。肌にまとわりつく霧は冷たく、それでいて、どこか懐かしい体温を帯びていた。
小舟は、音もなく進んでいた。波のささやきも、櫂のきしむ音もない。耳に届くのは、霧の粒子が触れ合うような微細なざわめきだけだった。
舟の先に立つフロウは、まるで舞台に立つ役者のように、静かに姿勢を保ったまま霧の向こうを見据えていた。彼の纏う濃紺の外套は霧に濡れ、肩先から裾にかけて鈍い光を吸い込んでいる。
「……フロウ。ここ、本当に“道”なの?」
セーレは声をひそめるように尋ねた。だがその声も、まるで霧が愛おしげに呑み込んでいくかのように、空気に溶けて消えていく。
「道じゃない、“流れ”だ。アエナの霊脈に乗ってる。だから、霧の祝詞がいる」
彼の声は低く、けれどはっきりと空間を貫いて響いた。
セーレの腕元で微かな機械音がした。
『アエナは吟遊詩人の名です。彼は霧の中を進むため謳いました。それが現在では構文となってこの地に伝わっています』
祝詞――それは、霧を進むための構文だった。名を持たぬ霧を呼び、霊域の潮流に舟を乗せるための、微かな祈り。
セーレは舟の中央に座り直し、霧を吸い込むように深く息を吸った。
声にする前に、胸の内で旋律を思い出す。旋律というより、記憶に染みついた“感触”のようなもの。手のひらに霧が触れる、あの柔らかな震えと同じ記憶。
「エラニ……ナム=リェン……アエナ、祓いて還し給え……」
小さく、唇が音を紡ぐ。
吐息に溶けた祈りの言葉が、霧に触れたその瞬間。
――霧が、応えた。
どこからともなく風が生まれ、舟の周囲の白が渦を巻いた。
それはまるで、霧自身が祝詞を聞き届け、身を開くような仕草だった。
舟が、動いた。
滑るように、音もなく進み始めた。
水を押す感触すらない。ただ霧の懐に抱かれ、風の祈りに導かれるようにして、小舟は加速する。
セーレは思わず舟縁を掴んだ。
だが揺れはなかった。ただ、時間の感覚だけが喪われていく。
夜と霧と祈りの狭間を、舟は真っ直ぐに滑っていく。
フロウの低い声が、どこか遠くから届いた。
「……霧が道を開いたな。霧の祝詞を知っていたのか?」
「ううん、霧に触れたとき。あんな詩な気がしたの」
そして――そのときだった。
霧の奥に、ひとつの影が現れた。
白の海の中に、墨を垂らしたような濃い影。
それは少女だった。
黒髪をたゆたわせ、霧をまとうその姿は、まるで現実と幻の境を歩く者のようだった。
年若く、けれど目元の奥に、どこか懐かしい深さを宿していた。
その面差しは、母に似ているようでもあり、セーレ自身に似ているようでもあった。
少女はセーレを見つめていた。まっすぐに、ためらいなく。まるで“あなたをずっと知っていた”とでも言うように。
霧の粒子が、ふたりの間を流れる。
触れられない距離。けれど確かに存在する、誰か。
「……誰……?」
思わず漏れたその声に応えるように、少女は静かに微笑んだ。
名を呼ばれたことのある者だけが持つ、穏やかな眼差しで。
だが次の瞬間、風が霧を巻き上げた。
少女の姿は、霧の中に溶け、影すら残さず消えた。
舟はなおも進む。祈りの流れに乗って。
けれど、セーレの胸の奥には、名も記録も持たぬ“誰か”のぬくもりが、まるで夢の残り香のように、確かに残されていた。
それが幻だったのか、記憶の反映だったのか、それとも……。
フェリア=コラナは、夢の帳の片隅にその面影を記す。
まだ呼ばれていない名が、いつか祈りになることを信じて。
◇ ◇ ◇
【第2節 ― 幻視の水面に映るもの】
霧の流れは次第に薄まり、舟の周囲にはようやく水面が姿を現し始めていた。
夜明けの光はまだ遠く、空は濃い蒼と灰のグラデーションを帯びている。水面は凪いでおり、風もなく、ただ舟の底を撫でる水音だけが、夢の奥から聞こえてくる幻のように微かに響いていた。
セーレは、ふと舟の縁から身を乗り出す。
目を凝らせば、自分の顔がぼんやりと映っていた。だがその輪郭は曖昧で、揺らぎの向こう側にもうひとつ――見覚えのある“誰か”の面影が重なっていた。
黒髪の少女。
霧の中で一瞬だけ見えた“彼女”だった。
今は水面に、セーレの隣に佇むようにその姿を浮かべ、唇を開いて何かを言おうとしていた。
――音は、ない。
けれどその口の動きが形づくった名を、セーレは確かに見た。
『リ■ル』
その音は、心の奥底に触れた。
声にならないはずの呼びかけが、どこか胸の深くで共鳴する。
それは、知っているようで、知らない名。だが、ずっと探していた気がした。記憶の隙間をなぞるように、その名は心に染み込んでいく。
そのとき、水面が静かに揺れた。
黒髪の少女の姿は、さざ波に溶けて消える。
そして、まるで彼女の代わりに何かが応答するかのように、霧の中から淡い光が差し込んできた。
「……セーレ、大丈夫か」
背後から届いた声に、セーレははっと肩を震わせた。
フロウがこちらを振り返っている。霧に濡れた外套が風に揺れていた。
「うん……ごめん。なんでもない。ちょっとだけ、夢を見ていたような……そんな気がしただけ」
曖昧な答えに、フロウは少し目を細めた。
だが、それ以上は何も言わなかった。ただ、霧の奥を見つめながら、再び舟を進めていく。
セーレは視線を落とし、もう一度、水面に目をやる。
そこに彼女の姿はなかった。だが、あの名だけが、余韻として胸に残っていた。
――リ■ル。
どこか懐かしく、温かく、そして少しだけ、胸を締めつけるような響き。
舟は霧の海を滑るように進む。
やがて空は薄紅に染まりはじめ、遠くから鳥の声がひとつ、まだ目覚めぬ世界に向かって告げていた。
そのときセーレは気づいた。
あの少女は、誰かを“待っていた”のだ。誰かに名を呼ばれることを、祈りのように願っていた。
そして、今、舟の上にいる自分もまた――誰かに呼ばれるのを、どこかで待ち続けているのかもしれない。
霧が、薄れてゆく。
幻視の中で語られなかった祈りは、ただ、静かに水面へと溶けていった。
語り手フェリア=コラナ。
名を記せなかった夢の断章を拾い上げる者。
それは恋とも言えず、記憶とも言えぬ儚さ。
けれど、その瞬間、確かに“出逢い”はあったのだと、霧は告げていた。
◇ ◇ ◇
【第3節 ― 祈りは夢に触れる】
舟が進む先には、やがて岩肌の断崖が現れた。あたかも霧の海を隔てる境界のように、その黒く濡れた岩肌が霊域の終わりを告げていた。
断崖の下方、切り立った岩の凹みに、小さな祠が浮かぶように建っていた。霧のなか、ぽつりと灯る燭台の光が、幻想のように揺れている。青白い火が水面に溶け、舟を迎え入れる一筋の道を形づくっていた。
セーレは無言でそれを見つめた。霧がここだけ濃く、深く、色を持っているように見える。紫と青と白が幾重にも折り重なり、空間の境界を曖昧にしていた。まるで夢と現の裂け目のように、その祠の周囲だけが時間から切り離されているようだった。
舟が近づくと、風も波も止んだかのように静寂が満ち、空気の密度が変わった。何か大きなものに包み込まれたような、体の輪郭すら曖昧になる感覚に、セーレは小さく息を呑む。
フロウは舟を祠の前に止めると、背を向けたまま、ゆっくりと振り返った。
「ここは通過の祈りを記す場所。……夢の中に入る者もいる」
その言葉に、セーレは思わず顔を上げた。
「夢の中に?」
フロウは静かにうなずく。
「この霊域では、まだ名を得ていない想いが、祈りになる前に姿を持つことがある。特に“名を持たぬ者”は、強く共鳴しやすい」
その言葉の意味は、言葉より早くセーレの胸に届いた。自分がまだ“本当の名”を持たぬ存在であり、この巡礼がその名を取り戻すためのものだということ。ならば、この祠もまた、彼女のために設けられた場なのだ。
セーレは静かに祠を見つめ、舟の上に膝を折る。そしてゆっくりと目を閉じた。
――意識が沈む。
『構文の乱れを――』
アヴィ=レクスの声が途中で途絶えた。
霧が、時間ごと視界を溶かしていくような感覚。あらゆる音も、重力も、肉体の感覚さえも緩やかに遠ざかり、代わりに心だけが深く沈んでゆく。
そこは、夢だった。
けれど夢とは思えないほど鮮やかで、確かで、胸を打つ情景が広がっていた。
微光のさす水辺に立ち、セーレはひとり、誰かを待っていた。
霧が割れて、少女が現れる。
黒髪の少女。小柄な身体。まっすぐな瞳。笑み。
その姿は以前よりもはっきりとしていた。輪郭は柔らかく光を帯びていたが、その目だけは、どこか懐かしい熱を秘めていた。少女は近づいてきて、セーレの前で立ち止まる。
「あなたに、名を」
その声は、音ではなく、心の内に響いた。まるで胸の奥に眠る想いを、そっと呼び起こすように。
少女の手が伸びる。その掌に浮かんでいたのは、霧のように揺らめく“名”の断片――まだ語られたことのない、祈りの欠片。
セーレは吸い寄せられるように、そっと手を伸ばした。
だが、次の瞬間――舟が軋む音がした。
現実が波のように押し寄せる。
セーレははっと目を開けた。霧は晴れ、断崖の上から朝日が差し込んでいた。空気は澄み、静けさのなかに鳥の声が微かに混じっていた。
「……夢、だったの?」
問いかけの言葉は、自分自身に向けたものだった。けれど答える代わりに、フロウはただ、こちらを見ていた。
セーレの胸には、何も持っていないはずの手のひらの温度が、まだ確かに残っていた。
名も、言葉もなかった。
けれど――夢の中で確かに“祈り”は交わされた。
あれは幻ではない。語られなかった想いが、祈りという形で交錯した瞬間だったのだ。
――夢の中で名を呼ぶ。それだけで、祈りは成立するのです。
フェリア=コラナの声が、記憶の余韻として静かに響く。
記されなかった名。
記録されなかった祈り。
けれど確かに、そこに存在していた想いの熱。それこそが、名を持たぬ者たちが歩む祈りの道の始まりなのだ。
――了――
【語り手の紹介】
夢紡神格:フェリア=コラナ
夢と幻想のなかで交わされた祈りを記録する、忘却の恋を愛する語り手。
霧と夢の狭間を彷徨いながら、誰かの記憶にすら残らなかった“想念のかけら”をすくい取る観測神格。視覚・聴覚・香りといった非言語的構文の記録に長け、祈りの未成立構文を幻視のかたちで編む。
この舟の旅は、夢のように儚く、それゆえに現実より確かな祈りの記録。
たとえ目覚めて忘れてしまっても、ほんの一瞬交わされた祈りが、確かにここに残っている。




