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失名の神と呪われし王女【王国正史版】(名無き祈りの巡礼譚1)  作者: 秋月瑛
ナミ=エル観測短編集 ― 祈りの余白に宿る暮らし
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第二編:霧の市と沈黙者の花屋

Ep.2《霧の市と沈黙者の花屋》


……記名されぬ者たちの街には、声のかわりに咲く花がある。

仮の名も、契約もない。だが彼らは交わしていた――香りと色と、沈黙のなかの微かな願いを。

あの押し花の帳面は、名なき祈りの図書館だったのだ。

【第1節 ― 霧に沈む街】


 ミルタ=エル。東方浮遊列島のひとつ、霧に包まれた浮島都市。


 この都市は、大陸本土からの構文接続すら断たれた、かつての“記名都市”の失敗作とも呼ばれる地だ。


 空に浮かぶこの島は、年のほとんどを濃密な霧が覆っている。

 霧はただの気象現象ではない――構文障壁の残滓が、時折、街そのものの記録を曖昧にし、住人の存在を地図から消し去ることすらある。


 朝も昼も夜も、霧が視界をなぞり、人々の姿を輪郭から削ってゆく。靴音はすぐに霞み、声は湿気に沈み、灯火は光を広げることができず、まるで花の蜜の中に閉じ込められた都市のようだ。


 だから人々は、香と色で想いを交わす。

 たとえば足音に合わせて鈴を鳴らす者もいれば、衣の縁に特定の香料を縫い込む者もいる。衣の刺繍には、それぞれの“記憶の型”を意味する構文香が重ね縫いされており、すれ違うだけで祈りが香る。


 霧の濃さで一日を測り、霧の流れで季節を読む。

 この都市では、“声”はあくまで補助であり、“沈黙”こそが語る手段だった。


 その静寂の街の片隅に、“花屋”と呼ばれる小さな屋台がある。


 正確には、花屋とは名ばかりで、看板もなく、営業日すら決まっていない。

 けれど、誰もがその白布の屋台を“花屋”と呼ぶ。


 霧の濃い午後、水辺に面した丸石の広場に、風にたなびく布とともに、屋台はひっそりと現れる。


 布の向こうに座るのは、仮面をつけた小柄な老女。

 誰も彼女の名を知らず、彼女も名を語らない。けれどこの街では、それでいい。


 人々は彼女を“沈黙のみかんなぎ”と呼ぶ。

 声なきままに花を並べ、霧のなかに咲く祈りを拾い集める巫女――そのような存在として。


 並べられた花には、名がない。

 しかし、それぞれ異なる香りとかすかな色合いを持ち、仮面の下の記憶に語りかけてくる。


 忘却の香。

 別離の花弁。

 記されなかった祝詞の残り香。


 誰かを忘れた者。あるいは、自分の名を呼べなくなった者。そうした者たちが、霧に導かれるようにその屋台を訪れる。


 老女は一言も発さず、わずかな仕草、目の揺れ、呼吸の流れから“その者が求める香り”を見極め、花を静かに差し出す。


 花は、祈りそのものであり、名の代わりに手渡される“構文”だった。

 そしてこの街では、名を記せぬ者にも、祈ることだけは許されている。


 老女の傍らには、風除けの石を積んだ小さな祈祷台があった。

 そこには押し花と紙片が、静かに並べられている。


 一枚ずつ、誰の名も記されていない紙の上に、一輪の花びらが添えられ、香りの構文が浮かぶ。

 その構文は読むものではなく、嗅ぎ取るもの。感じるもの。


 香りは、皮膚に染み込むことで記録となり、指先の熱に応じて“層”を変える。

 それは文字ではなく、沈黙の感触であり、霧のなかでしか発現しない“名なき記名”の技法だった。


 ナミ=エルは、浮島のさらに上空から、その営みを観測していた。

 霧に覆われた都市の縁から、屋台の布がかすかに揺れ、花々の色が霧をほんのり染めているのが見える。


 風が吹き抜けると、香りが空へと立ち昇った。

 それは祈りそのものだった。


 この都市では、声は霧に溶け、名は花に咲く。

 構文は紙に記されるのではなく、沈黙の気配として花に宿る。


 霧に沈む街――その静寂のなかで、老女の花籠は今日も、記されざる祈りを咲かせ続けている。


◇ * ◇


【第2節 ― 花を選ぶ仕草】


 霧の花屋には、毎朝決まった時刻に現れる少女がいた。


 細身の肢体に霧色の衣を纏い、長い髪には薄桃の花弁が編み込まれていた。名はなく、声も失っていたが、その瞳は驚くほど澄んでいた。

 霧のなかでも一輪の花のように際立ち、通りかかる誰もが、彼女の存在を一度は記憶する――けれど、名ではなく、香りとして。


 この日、少女が選んだのは、青紫の花弁を持つ、丸い小花だった。


 いつも通り、彼女は迷わずにその花へ手を伸ばす。

 指先の動きには祈りのような静けさがあり、霧のなかに浮かぶその姿は、まるで構文のなかに棲まう巫女のようだった。


 老女は、いつものように紙片を取り出し、花とともに香る霧香草を包む。

 紙片の裏には、押し花による微細な構文がふたつ、そっと刻まれていた。


《あなたの名は、まだ花びらの中にいる》

《この香りは、ひとつの記憶の断片》


 構文は読むものではない。嗅ぎ、感じ、沈黙の奥で共鳴するものだった。

 香りは、皮膚に染み込むことで記録となる。

 少女は包みを胸元に抱き、仮面のない顔のまま、霧の奥へと消えていった。


 その背には、何の名札もなかった。

 だが、残された香りが、彼女の“今”を確かに記していた。


 花びらの香が霧のなかで揺れる。

 誰かがそっと深呼吸し、そこに残された祈りを吸い取っていく。


 その“誰か”――次に姿を現したのは、ひとりの旅人だった。


 旅装に仮面を提げ、重い外套の端に湿った霧が滲んでいた。

 男の首元には、古びた構文筆の欠片が紐で結ばれており、指先には長年構文器具を握っていた痕が刻まれていた。


 彼は、かつて“名を記す者”だった。

 だが今、その名はどこにも記されていない。


 屋台の前に立つと、彼はただ、霧の中に残された香りを静かに吸い込んだ。


 老女は、目を細めてうなずくと、青紫の小花をそっと差し出した。

 男はそれを両手で受け取り、構文ではない沈黙のうなずきで応えた。


 その瞬間、彼の目元がかすかに滲んだ。

 霧に濡れたのか、それとも――


 青紫の香りが、何かを呼び起こしていた。

 記されていないはずの記憶。

 失われた構文の断片。

 そして、少女と彼とを繋いだ、過去の“祈りの残響”。


 名はもう呼べない。

 だが香りは、名に代わる構文となり得る。


 ナミ=エルは、高台からそのやりとりを観測していた。

 霧の動き、衣の擦れる音、そして香りが街にほどけていく層の流れ。


 花は、構文ではない。

 けれど、そこに込められた香りは、名を超えて記憶を渡す。


 “祈り”とは、言葉にせずとも、こうして受け継がれることがあるのだ。


 少女も、男も、記名の外に置かれた存在だった。

 しかし、この霧の都市では、名を持たぬ者にも祈る権利があった。

 花の香は、彼らの物語を語る語彙のようだった。


 老女の屋台に積まれた小箱のひとつひとつが、記されぬ祈りの痕跡である。

 触れた指、抱えた胸元、歩み去る背。

 それぞれの仕草が、静かな記録となって、屋台に積もっていく。


 風が吹いた。

 屋台の白布がふわりとめくれ、次の香りの準備を告げるように、霧を招いた。


 誰かが立ち去り、誰かがまた現れる。

 この場所では、日々、“名を失った祈り”が咲き、手渡され、霧へ還っていく。


 香りは、声にならぬ構文。

 構文は、沈黙のなかに咲く祈り。


 ミルタ=エルでは、語られぬ記憶ほど、よく香る。


 ◇ * ◇


【第3節 ― 名を記さぬ花帳】


 ミルタ=エルの夜は、昼よりもさらに深く霧が濃くなる。


 風は眠りにつき、灯りは霧の粒に滲み、音すらも布の奥に包まれたように遠のいていく。そんな夜、花屋の老女は静かにひとつの作業を始めていた。


 祈祷台の石の上に広げられたのは、小さな帳面だった。

 革で綴じられたその帳には、日付も署名も構文番号もない。構文記号すらまばらで、頁の多くは花弁そのものによる“重ね”で構成されていた。


 花弁の層は、色・質感・香りの波形に基づいて配置され、記録として編まれていた。

 分類見出しには“甘み”“残香”“雨上がりの土”“初夏の胸苦しさ”など、嗅覚にしか通じぬ索引語が使われていた。


 読むのではなく、嗅ぐことで記憶が立ち上がる帳。

 それが老女の“花帳”であり、この霧の都市で最も繊細な記録媒体だった。


 ある頁には、青紫の香花が貼られ、《この香りは、ひとつの記憶の断片》という微細な構文が添えられていた。

 その隣には、同じ花が別の記憶と重ねられ、《かつて、あなたはこの花を選んだ。まだ、わたしの目を見ていた頃。》と記されていた。


 老女の指先は、その頁を撫でていた。

 震える指が語るのは筆記ではない。

 それは筆でも声でもなく、祈りそのものの痕跡だった。


 ふと、霧の流れに乗って微かな風が祈祷台に届く。

 ひとりでにめくれた頁に、ふたつの花がそっと重ねられていた。


 そこには、もう何も書かれていなかった。

 構文も、索引語も、署名もなかった。


 ただ、少女が選び旅人が受け取った、同じ青紫の小花が、香りを保ったまま寄り添っている。


 老女はその頁をしばし見つめ、そして何も記さぬまま、静かに帳を閉じた。


 書かない――その判断こそが、もっとも深い祈りへの応答だった。


 花帳に記すということは、記憶を固定すること。

 けれど、あの花の香りは、固定できぬほど深く、脆く、美しかった。


 構文に閉じ込めれば、香りは変質する。

 香りのままで残すなら、沈黙のままに寄り添うしかない。


 構文化されぬ祈り。

 それは、名を記せぬままに手渡される、最も純粋な交感だった。


 ナミ=エルは観測する。


 ……構文にしなければ忘れられると、誰が決めた?

 記されぬからこそ、残る祈りがある。

 言葉にならない香りは、むしろ強く、深く、記憶の底へ沈む。


 この都市では、記録は沈黙の中に息づき、霧のなかで漂っている。

 構文の網にはかからぬ、香りの名残り。

 誰かの仕草とともに、風の層へ折り畳まれていく。


 老女の花帳には、そうした記録がいくつも眠っていた。


 誰かを忘れた者。

 誰かの名を呼べなかった者。

 呼ばれることを望まなかった者たち。

 そのすべてが、記されぬ香りの一頁に編まれている。


 香り。

 花弁の温度。

 霧の中で交わされた眼差し。

 そして指の動きが残す“言葉にならない構文”。


 それらすべてが、この街の“文法”であり、記録であり、祈りだった。


 ナミ=エルは最後に記す。


 ……私はこの香りを、構文に変換しない。

 名も記さない。

 だが、それでも私は知っている。

 これは、“構文の外に咲いた祈り”であると。


 霧は、この都市の書物。

 香りは、その一頁ごとに編まれた言葉。

 風はそれをめくり、あるものは残り、あるものは消えていく。


 けれど名を記されなかった者たちの祈りは、今日もまた、霧のなかに咲き、香り、記録されずに、けれど確かに残っていく。


(Ep.2 霧の市と沈黙者の花屋 終わり)

《観測解説:香りに咲く、語られぬ祈り》

――ナミ=エル


霧のなかに咲く花は、ときに言葉よりも雄弁に、祈りを伝えてくれるのです。


ミルタ=エル――この浮遊都市は、かつての“構文接続”の失敗により、記録から外れた土地とされております。そのせいか、書物にも地図にも、その存在を明確に示すことが難しく、あらゆる観測記録が霧に覆われたような曖昧さを残しております。しかし、だからこそ、この地に根づいた祈りの文化は、たいへん興味深いものでございます。


まず、霧という存在そのものが、“名を曖昧にする現象”としてこの都市の根幹を成している点に注目すべきです。わたくしどもが普段用いる構文や文法が通じず、記録そのものが霞んでしまうこの環境では、人々は“香り”と“所作”によって祈りを交わします。衣の縁に仕込まれた香、すれ違いざまの沈黙の気配、指先に込められた意味――それらすべてが、この都市の文法なのです。


特に、“沈黙の巫”と呼ばれる老女の営みは、わたくしの心に深く残りました。声を持たず、名を記さず、ただ花と香りをもって他者の祈りを受けとめ、返していくその姿は、まるで記録の中にすら収まりきらぬ祈りのかたちでした。紙ではなく、押し花によって記された“香りの帳面”――あれはまさしく、“構文なき構文”でございます。


その帳に記されたものは、日付や署名ではなく、風に乗った香りの変化、肌に染みる記憶の余韻でした。言語を超え、構文の枠をも離れた、そうした祈りのありようが、この都市には満ちております。


また、印象的であったのは、名も声も持たぬ少女と、構文筆を失った元・記録官との再会でした。ふたりは名を交わすことも、言葉を掛け合うこともありませんでした。けれど、同じ花を選び、同じ香りを抱いたその行為のなかに、わたくしは確かにひとつの“記録されぬ祈り”の往還を感じ取ったのです。名ではなく、香りでつながる縁。それはとても静かで、繊細で、そしてなによりも強いものでございました。


このように、ミルタ=エルという都市における祈りは、“香り”によってなされるという、極めて珍しい民族的特徴を備えております。嗅覚を記録媒体とする文化は、世界中を見渡してもごくわずか。特に、それを宗教儀礼や記名にまで応用している例は、ほとんど確認されておりません。


香りの構文。

香りの記名。

香りの帳面。


すべてが、沈黙のなかに在る祈りであり、この都市の人々は“語らぬことで祈る”という道を選んでおります。わたくしはその在り方に、ひとつの“知の姿”を見出しております。構文というものが、必ずしも言葉や記号に依らずとも、人と人とを結び、神へと届く手段となる――そのことを、彼らの暮らしは教えてくれました。


サーガが記録するものが“時代”ならば、わたくしナミ=エルが記すのは、“日々”でございます。構造でも制度でもなく、小さな祈りのやりとり、消えゆく香りの名残り。それらが、世界の片隅にどれほど大切に息づいているかを、わたくしは記録してゆきたいのです。


この都市の記録は、ページではなく、香りの中に綴られておりました。

わたくしは、それを読み、嗅ぎ、そしてそっと覚えておくことにいたしましょう。


 それが、観測者ナミ=エルの祈りなのです。

 ――ナミ=エルより

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