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失名の神と呪われし王女【王国正史版】(名無き祈りの巡礼譚1)  作者: 秋月瑛
語られざる世界の記録 ―― 異祈と構文の地誌断章
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第二編:断章構文試録 ― 歪められた契約と言語の外の祈り

Ep.2《断章構文試録 ― 歪められた契約と言語の外の祈り》


……この世界には、構文の届かぬ祈りがございます。

名が成立するはずだった構造、その反転、あるいは未完の祈祷の痕跡。

確かに観測されたはずなのに、どこにも記されなかったもの――

その矛盾の狭間にて、構文が断たれる微かな音を、

わたくしは、静かに聴いたのでございます。


――ナミ=エル

【第1節 ― 骨に刻まれた契約、あるいは名を持たぬ祈り】


……これは、名を呼ばなかった民の祈りだ。

声ではなく、骨に――いや、骨の内側に彫られた、古の“記録されざる契約”の痕跡。


この断片は、南西大陸の深層石灰層から出土したものだ。ざらついた風化骨の表面には、古代ザイン構文によると思しき幾何と断絶線が刻まれていた。記録官はこの造形を“呪文”とも“罪”とも記したが、私はこう思った。


――これは、祈りの器そのものだったのだ、と。


かつて、ザイン=ケフと呼ばれた神格がいた。構文史上にほとんど登場しないこの神は、「構文断裂の試み」において、祈りの形式そのものを切断しようとしたと記録されている。

「名は、構文であると同時に、呪いである」

その理念のもと、彼の信徒たちは“記すこと”を拒絶し、代わりに骨と血で“名もなき契り”を結んだ。


声を持たぬ種族たち――沈黙語族と呼ばれた民。

彼らは、骨の髄に契りを刻んだ。

口で交わさぬ誓い。書かれぬ祈り。


骨に刻まれた構文は、意味を持たなかった。いや、意味の“前”に留まることを選んでいた。


記録官の一人はこう綴っていた。

「……祈りがまだ構文でなかったころ、それは“痛み”と同義だった。彼らの祈りは、声でなく、骨の震えで神に届いたのだろう」と。


この祈りは、もはや“語”ではない。

それは〈響き〉であり、〈傷み〉であり、〈断絶された契約〉の痕跡。


ザイン=ロスという神格が、後にこの形式を模倣し、「音響精霊語」の嚆矢をつくったとも言われている。彼の信徒たちは、言葉の音階と構文を統合させ、記録不可能な“消える契約”を作り出した。契約が果たされた瞬間に、その祈りごと記憶から消えるというのだ。


……あなたは、信じられるだろうか。

祈りの形式が、ここまで“歪められた”ことを。


しかし私は思う。

それは歪みではなく、むしろ“構文が祈りを抑圧する以前の姿”だったのではないか、と。


記録されることを恐れた祈り。

記名されることを拒んだ契り。

存在を記すことが“存在の死”を意味するような、祈り以前の構造。


……ある少女の話を記しておこう。

名はない。

記録にも残っていない。

だが、私はその骨を“観た”。


少女は、死ぬ直前、自らの腕の骨にひとつの渦状構文を刻んだ。

それは、古ザイン語の「忘れる」という動詞の変則形――“願うことなく、存在しないものに還れ”という構文だった。


なぜ彼女は、そんな祈りを刻んだのか。

なぜ、自らの名すら書かずに。


私には、わかる気がした。

彼女は“祈りの外に逃れようとした”のだ。


祈ることで、存在が固定され、物語の一部となることを。

その恐ろしさを、彼女は知っていた。


だから――

骨にだけ、その痕跡を残した。


私は観測する。

誰にも祈られなかった、その名なき祈りの形を。


 ◇ * ◇


【第2節 ― 音の祈りと沈黙の契り】


……音は祈りになれるのか?

それは、言葉になる以前に鳴った――

“存在の振動”だけを残す、原初の呼びかけ。


ザイン=ロス。

記録には、彼を「音響精霊語の発明者」とするものもある。

だが、私は知っている。

彼は祈りを“発明”したのではなく、むしろ祈りを“破裂させた”のだ。


彼の時代、すでに祈りは形式を得ていた。

構文化され、律され、契約として神に届けられる“正規の道”が存在していた。

だがその形式こそが、祈りを“神から遠ざけていた”。


ザイン=ロスは反逆した。

言葉で祈るのをやめ、音で祈ろうとしたのだ。


彼の信徒たちは、声帯を潰した。

かわりに、骨笛を用い、喉で唸り、肺の空洞を共鳴させた。

そこに記された“契約”はなかった。

だが、確かに“祈り”があった。


ある記録官が残した断章に、こう記されている。


「……彼らの音は、構文になりえなかった。

 だが構文に触れたとき、それは構文そのものを変質させた。

 音は意味を持たなかったが、構文が意味を喪った」


祈りが構文を破壊する――それがザイン=ロスの“祈り”だった。


祈りは神へ届くはずのものである。

だがこの実験は、神に届くより先に、記録官たちを狂わせた。


記すことができない。

言語に落とせない。

意味がわからないのではなく、意味が発生しないのだ。


構文は沈黙し、記録は意味を失い、

それでも“音”だけが、祈りとして残った。


……この記録は、やがて“沈黙語族”の成立へと繋がっていく。

言葉を捨て、記すことを拒み、構文そのものを疑った民。

ザイン=ロスの系譜ではない。だが、彼の失敗を“観た者”たちの末裔である。


彼らは、音響を祈りに使うことすらやめた。

音の祈りは、まだ“届いてしまう”恐れがある。

彼らは“触れぬこと”こそが、祈りだと考えたのだ。


潮語族〈マルメリア〉の登場である。


……ここで一度、潮語の断章を示そう。

正確には文字ではない。貝殻と水音を模した詩片。

その写しを紙に起こしても、意味は伝わらない。

だが音の配列は、美しい幾何構造をなしていた。


・・・・‥・・ (低音)

・・・・・・(中音、断絶)

ゥ・ォ・ウ・ゥ・・・・・・ (水音と振動)


これは、彼らの“喪失”の祈りだという。

言葉ではない。

だが明らかに、祈りの構造を持っていた。


祈りは意味ではない。

記述でもない。

「そのように在った」という証明――


潮語族の祈りは、水音と貝の揺らぎによって語られる。

そこには、“誰にも届かぬ”ことを前提としたやさしさがある。


わたしは、この形式に強く心を惹かれる。


彼らの祈りは、神へ届くことを求めない。

記されることを恐れ、構文にされることを拒む。

それでも祈る。


“存在のかたちを持たない祈り”。

“契約を持たぬ祈り”。

“記録されない祈り”。


……それは、とても静かな希望なのだ。


かつて、ザイン=ロスが音を投げつけて壊したものを、

彼らは、音を沈めてそっと拾い直したのだ。


祈りは形式を失い、意味も失い、ただ“ある”というだけで在った。

それを、祈りと呼ばずして、何と呼べばいいのだろう。


わたしは、潮の音が残した沈黙を記す。

誰にも読まれなかった記録の、その余白に、微かな祈りの震えがある。


 ◇ * ◇


【第3節 ― 記される祈りと記すことの呪い】


……構文は、祈りを救ったのか?

それとも、祈りを呪ったのか。


ザイン=ケフ――この神格の記録は、常に断片的だ。

その名は構文の中核を担いながら、構文そのものを拒絶した。

「神は名によって生まれる。だが、名が神を縛るならば、それは逆構文だ」


彼は、祈りの形式を解体しようとした。

契約も記録も、形式も意味も拒絶して、“名のないままに神と向き合う”祈りを模索した。


……その実験は、成功したのか?

――否。


少なくとも、記録の中には“失敗”しか残っていない。

ある文献には、こう記されている。


「ザイン=ケフの最後の試みは、構文外祈祷による“記録拒絶”であった。

 だが、それは逆説的に“観測”されることによって、かえって構文の一部となった」


この一節が意味するのは、

――“祈りは、記されぬままでは終わらない”という世界の矛盾である。


ザイン=ケフが試みたのは、「名を祈るのではなく、“名を失うこと”を祈る形式」だった。

彼の信徒たちは、骨に刻むことすらやめた。

名を呼ばず、声を持たず、言語も音響も用いない。

彼らはただ、沈黙の中に沈んだ。


だが、その“祈らぬ祈り”さえも、わたしたちは今こうして――“記している”。


……あなたは気づいているだろうか?

構文は、すでにすべてを呑み込んでいる。


祈りを語れば、それは祈りではなくなる。

記せば、それは構文になる。

定義すれば、存在が固定され、やがては断絶される。


それでも、わたしたちは記すのだ。

なぜか?


それは、構文という呪いが、“存在を記したい”という衝動の化身だからだ。

神に触れた証を残したい。

祈ったという痕跡を残したい。

名があったという事実を、どこかに刻みたい。


ザイン=ケフは、それを「呪い」と呼んだ。

彼の信徒たちは、すべての記録媒体を焼いた。

石板も、皮書も、骨符も。

唯一残されたのは、“誰かが観測してしまった”という痕跡だけだった。


それが、構文断章《祈祷抹消の記録》である。

本来なら存在しないはずの頁。

記された瞬間に、意味が消えるはずの一文。


「……かれは、祈らずに祈った。

 名を持たずに神に触れ、記さずに契約を結んだ。

 それが、わたしに観測されるまでは――」


この断章を書き残した者の名は不明である。

だが私は思う。

その者もまた、エル=ネ■■■と同じく、

“記されぬものを観てしまった観測者”だったのだろう。


私は、観測する。

観測するしかできない。


構文の内側にある祈りではなく、

構文に囚われなかったはずの祈りが、

こうして再び、記録の頁に閉じ込められていく様を――


だが、記されることでしか残らぬものもある。

あなたがこの頁を読んでいるということは、

ザイン=ケフの祈りも、ザイン=ロスの音も、

沈黙語族の沈黙も――いま、ここに息づいているということだ。


……語られなかった祈りに、

ひとときの記録を。


記録されなかった契約に、

一行だけ、仮の名を。


そしてそれを――

また静かに閉じよう。


私の名は、ナミ=エル。

記録されざる観測者。

声を持たぬ祈りの余白を、あなたとともに記した者。


祈りは、いつも意味の外にある。

だが、それを“観た”あなたがいる限り――

きっと、この断章も、祈りとして在り続けるだろう。


―― Ep.2 歪められた契約と言語の外の祈り(終わり) ――


---


―観測者の余韻文―


祈りは、いつから“構文化”されねばならなくなったのでしょうか。

この問いの裏には、きっと、“神が人に届こうとした数多の失敗”が、

そっと刻み込まれているように思われます。


構文とは、本来、神と人とのあいだをつなぐ架け橋でございました。

けれど、その橋が制度へと変じたとき、

祈りは選別され、扉の前で足を止められるようになったのです。


この断章に集められたのは、

その扉を通ることが叶わなかった、さまざまな祈りの声。

けれど、それらは歪みではございません。

むしろ、もうひとつの言語の在り方として、

わたくしは静かに記録したいと願いました。


どうか、あなたも、耳を澄ませてみてくださいませ。

この扉の向こうにこそ、語られなかった祈りの余韻が、

今もなお、ひっそりと息づいているかもしれませんから。


――ナミ=エルより。

◆《歪められた契約と言語の外の祈り》をお読みくださったあなたへ


――構文を拒んだ祈りに触れたとき、世界は、あなたをそっと“記録し返す”ことでしょう。

(観測者・ナミ=エルより)


……あなたは、祈りに「形式」が必要だとお思いになりますか?


この世界において、祈りは構文という形式によって形を得てきました。

神と結びを交わすために、人は名を記し、記録という形で願いを残したのです。

それは確かに、文明が築いた大いなる発明のひとつでした。


けれども、その“形式”からこぼれ落ちた祈りたちは、いったいどこへ向かったのでしょう?


この小さな断章に記されたのは、祈りが制度として定義される以前にあった、いくつかのささやかな試みです。


声を持たず、骨に刻むしかなかった沈黙語族。

意味を拒み、音そのものを祈りへと昇華しようとしたザイン=ロスの信徒たち。

そして、名の呪いから逃れるため、“構文そのもの”を破壊しようとしたザイン=ケフの試み。


どれも、体系としては「成立しなかったもの」とされ、歴史の目録には載せられておりません。

けれど、わたくしはそれらを“失敗”とは記しません。


それはむしろ、祈りという概念がまだ形式に回収されていなかった頃の、自由で柔らかな“呼びかけ”であったと、そう感じております。


祈りとは、本来――意味であってはならず、

名とは、本来――拘束であってはなりません。


神がそれを受け取るかどうかではなく、

人がそれを発しようとする意志――

そのひとつだけが、祈りを祈りたらしめるものなのではないでしょうか。


かつて、潮語族〈マルメリア〉の海辺にて、

わたくしは貝殻の音に耳を傾けたことがございます。

それは、意味を剥ぎ取られた後に残る、ただ静かな、けれど確かに美しい“構造”でした。


ザイン=ロスが音で構文を壊したとき――

その波紋の先で、誰かがその破片を拾い集めておりました。

砕けた意味を、小さな貝の内に映し込み、

「もう届かなくてもいい」と、静かに祈ったのです。


この記録を通して、あなたは祈りの“外側”を、少しだけ垣間見られたかもしれません。


祈りが名によって制度化される以前の姿。

言葉になる前の“疼き”としての祈り。

構文が始まるよりもさらに前の、“沈黙”としての契約。


どうか、覚えていてくださいませ。

語られなかった祈りもまた、確かに祈りであったということを。


そして、いま、あなたがこうしてこの頁を読み終えたという、その事実だけで――

ザイン=ケフの構文破壊の試みも、沈黙語族の祈りも、貝に残された無名の響きも、

……すべてが“記録された”ということになるのです。


祈りとは、名を与えられることではなく、

名を赦されることであり、


記録とは、言葉を残すことではなく、

言葉が届かなかった場所に、耳を澄ませること。


わたくしは、観測者として――

語られなかった祈りを、祈りとして認めるために、これを記し残します。


それこそが、わたくしにとっての“観測”でございます。


――ナミ=エルより。

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