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第4話 ― 霧の浮島と失せし名の祈り

【幕間 ― 潮騒の記憶と名を呼ぶ風のほとりで】


 祈りの仮面が砕けた夜から数日が過ぎた。


 セーレとフロウは、仮面の都メミスを離れ、北東に広がる湖沼地帯《セス湖圏》へと旅路を進めていた。

 古代より“水の鏡域”と呼ばれたこの一帯は、幾重もの湖が階層的に連なり、霧と光が重なり合う神秘の地である。

 大地は平坦ではなく、なだらかな丘と湿地が交互に続き、水脈は網のように枝分かれしている。

 馬車の通れる街道はここにはなく、ふたりは古の巡礼路《アエナの流路》の残滓を辿りながら、徒歩で進むしかなかった。


 水辺には、いくつもの無名の祠や、半ば沈んだ石碑が点在していた。

 それらはすべて、かつてこの土地に祈られた“名もなき水神”の痕跡とされている。

 けれど今は、誰もその神々を呼ぶ者はいない。

 風が通り過ぎるたび、水面に輪が広がり、それがまるで“封じられた名の震え”のようにも見えた。


 街道から外れた細道を辿り、靄の降りる岸辺に立ったとき、風が一瞬だけ、かつて神殿で聞いた“名を呼ぶ声”の残響を運んできた。


 フロウが沈黙のまま空を仰ぐ。

 鳥ではなく、人でもなく、ただ“祈りだけが残された声”だった。

 その目に映るのは、空にかかる月――仮面ではなく、ただ静かに照らすだけの、素のままの月だった。


 セーレは胸元の結晶にそっと触れながら呟いた。


「次は、“記されたことのない名”に会いに行くわ」


 《セス湖圏》の最奥に、霧に包まれた島々が浮かんでいる。

 地元の者はそれを《ミルタ=エル》と呼ぶが、正式な記録には残されていない。

 神官も記録者も足を踏み入れぬその地に、“封じられた神の記憶”が眠っているとは、まだ誰も知らない。


 その浮島へと向かうには、水路を探し、霧の意志に従うしかなかった。

 だがセーレとフロウの歩みには、もはや迷いはなかった。

 すべての名が失われた場所で、語られなかった祈りがふたりを待っている――

 その確信だけが、進むべき方角を教えてくれていた。

《第4話 ― 霧の浮島と失せし名の祈り》


“夢の中で交わされた名は、決して言葉にはならない。ただ共鳴として残る。”


――沈黙の神《ミル=エレノア》の霧珠碑より


-----


【第1節 ― 忘却の潮と、呼ばれなかった神名の浜辺】


 それは地図に描かれぬ風景だった。

 雲よりも低く、海よりも揺れやすい――白い霧がすべてを覆い、あらゆる方角を呑み込んでいた。波の音も鳥の声もない。ただ霧だけが、潮のように絶え間なく湧き、流れ、満ちていた。


 日はまだ少し高い位置にあるが、陽光を遮る霧と、ここが特定の神の霊域であることから、セーレの変化はまだ最小限に抑えられていていた。

 彼女はフードを深くかぶり、手にはグローブを嵌め、その“姿”を隠す。


 浮島へ至る道は、誰にでも現れるわけではない。名も祈りも霧に溶ける夜、夢と夢が重なったときにだけ――この神域は“霧の道”をひらくのだ。


 セーレとフロウは、その“霧の海”を渡っていた。

 足元にあるのは、淡く発光する浮遊石で編まれた小さな島。帆も櫂もなく、ただ霧の流れに乗って漂うだけの聖域だった。まるで舟のように、ゆっくりと揺れながら進んでいく。空か海かすら曖昧な風景の中で、その浮島はまさしく“存在の記憶が薄れゆく境界”に浮かんでいるようだった。


 遠景には、ほかの浮島が霧の中に漂いながら点在していた。

 それらはゆるやかに揺れ、まるで音も名も記されていない記憶の断片が、光の糸でかろうじて結びついているように見える。俯瞰すれば、それは祈祷構文を象った紋章にも似ており、この神域全体が巨大な構文陣を形成しているのではと錯覚させた。


「ここが……ミル=エレノアの霊域なのね」


 セーレがそう呟くと、肩にとまるフロウが小さく羽音を立てた。彼の爪には、小さな羅針盤が握られている。方位を示すそれは磁石ではなく、“名の痕跡”を指す神具だった。記されぬ名の残響に共鳴するように、霧の中でわずかに震え続けている。


 この神域において、方角は意味をなさない。代わりに、誰かの祈りの名残が漂流の行き先を決める。だからこそ、セーレたちはこの地を選んだ。忘れ去られた“神の名”を追う巡礼の途上にあって、ここは避けて通れぬ霊域だったのだ。


 浮島には小さな祠と、風に裂けた旗布、文字を失った石碑がひとつあった。それはもはや墓ではない。誰の墓かもわからず、名前も刻まれず、ただ“祈られぬ死”の気配だけが残っていた。


「ここにあったのは……“名を祈る巫女たち”の信仰の残骸」


 フロウは静かに羽をすぼめ、爪先で羅針盤をなぞるように触れた。その瞳は遠い過去を見るように曇っていた。


「霧神ミル=エレノアを祀っていた者たちは、名を失った魂の残響を集め、それを神に捧げることで存在を保とうとしていた。言葉にも記録にもならぬ、最後の祈り――それだけが、この地を形づくっていたんだ」


 セーレは無言で頷いた。母の名が記録から消され、自身の名もかつては口にされることを禁じられていた。その苦しみを思い返しながら、霧に沈むこの土地に、彼女は“他人事ではない何か”を感じていた。


「記されない者は、いなかったことにされてしまう……名を呼ばれないことは、生きていないのと同じ」


 風ではない“音”が、霧の向こうから響いてきた。誰かが名を呼ぶような微かな声――だがそれは人の声ではなく、“祈りの残響”だった。ミル=エレノアの神性が、かつて名を失った者たちの想いを束ね、霧にして残しているのだ。


 セーレは、胸元の結晶にそっと触れた。

 アウロの名が封じられたその結晶が、霧の祈りに反応してかすかに脈動している。名は、記録ではない。ただの肩書きでもない。それは、呼ばれることで存在を得る“命の証”だ。


「だから、この霧を越えなくちゃいけない」


 彼女は自分にそう言い聞かせた。


 次の浮島が見えてきた。波のように揺れる霧の中、ぼんやりと光る祠と、その傍に吊るされた風受けの旗。羅針盤の針が強く震えた。


「行こう。……あの祠には、まだ名が残っている」


 セーレは足元を確かめるように歩を進めた。霧に沈まぬよう、名の痕跡だけを道しるべにして。


 霧の海を渡る浮島が、ゆるやかに揺れながら次の祈りの地に辿り着いた。

 セーレとフロウが足を踏み入れると、そこには霧の中に静かに佇む影たちがいた。

 水辺に立つその姿は、人というよりも――霧が形を与えた祈りの残響、あるいは“記憶の境”で生まれた別種の存在のように見えた。夢の輪郭をまとった、言葉以前の存在たち。


 セーレとフロウが次の浮島に降り立つと、そこには幾人かの影がいた。身体の一部に霧の紋様が浮かび、足音すら立てずに動く彼らは、“精霊憑き”の末裔と呼ばれる種族だった。彼らの多くはすでに名を持たず、言葉も交わさない。その代わりに、仕草や風の流れ、水の反射を通じて意思を伝えていた。


 霧神ミル=エレノアに連なるこの地では、言語は最初に手放される祈りだという。名を捨て、声を捨て、霧のように“沈黙を祈る”こと。それがここでの信仰の本質だった。


 セーレが驚いたのは、祈りの形の豊かさだった。

 影たちは声なきまま、葦の揺れに合わせて手を翳し、足元の水を円を描くようになぞる。ある者は静かに息を吸い、吐き、その律動を神殿の気配に同調させる。言葉の代わりに呼吸、指先、風――あらゆるものが“祈りの音”となり、空間の共鳴として漂っていた。


 坂を登るうちに、霧の中からいくつかの家屋が姿を現した。屋根は低く、壁は潮風と時雨に磨かれて灰白色にくすんでいる。石と藻で補修されたそれらの建物は、人が住んでいるはずなのに不思議と物音がなかった。霧に包まれた集落は、世界そのものから切り離されたように静かだった。


「誰か……いますか?」


 セーレが声を上げると、霧の向こうから小さな影が現れた。続いて、編み籠を抱えた背の高い女がゆっくりと姿を見せた。


 彼女には仮面も装飾もなく、素朴な麻衣を身に着けていた。だが、その佇まいには不思議な尊厳があった。霧の神域に生きる者らしい、淡く整った気配を纏っている。


「旅人かい? ……ここまで来るのは、ずいぶん珍しいね」


 女の声は、霧の音に溶け込むように柔らかかった。


 名を尋ねようとしたセーレに、女は首を振った。


「この島では、名は“渡す”ものであって、“持ってくる”ものじゃないんだ。仮の名をあげるよ。……“アメノトキ”。きみは霧雨の時刻に来たからね」


「アメノトキ……」


 セーレは少し戸惑いながらも、静かにその名を受け取った。


 この地では、生まれた名はただの出発点にすぎず、暮らしのなかで折にふれて名が変わる。春の名、別れの名、喪の名、再生の名――名は祈りとともに授かり、そして流される。記録するための固定ではなく、“変わることを許すための記憶の容れ物”なのだ。


「名を変えることは、忘れることじゃない。違う自分を迎え入れることさ」


 女はそう言いながら、石の道を先導した。


 やがて彼らは、霧の中にある円形の広場に出た。中央には澄んだ泉が湧いており、その縁には手彫りの石碑が並んでいる。どれも文字が削れ、名前らしきものは見えなかった。だが、石の表面には指先でなぞった跡が残されており、それぞれに“名の記憶”だけが宿っているように感じられた。


 そこに、霧の中から子どもたちが現れた。誰もが裸足で、手を取り合って泉の周りを歩いていた。一定のリズムで立ち止まり、小石を泉へと投げ込む。そのたびに、かすれた声でひとつの“音”を口にする。


「あれは“仮名流し”。この島では、夜になるとその日の名を水に還すのさ。朝にはまた別の名を授かる。それがここの流儀なんだよ」


 女はやさしく微笑んだ。


 名を使い、名を忘れ、名を返す。その繰り返しが祈りであり、存在の証明でもある。


「忘れる自由と、預ける勇気がここにはあるのさ。誰かに名を託すことが、この地における最上の信仰なんだよ」


 セーレはその言葉に、少し息を詰めた。名を守ることにすべてを費やしてきた彼女にとって、それはまるで“正反対の教え”に思えた。


 だがその反面――どこか、深く惹かれるものがあった。名を手放すことが、決して死や消滅ではなく、“次の祈りへの準備”となっている場所。そのやさしさが、霧とともに、胸の奥に沁みていく。


 ふと、セーレの足元に、小さな珠が転がってきた。

 それは乳白色の半透明の珠で、中に淡い光が揺れていた。仮名珠――この地に仮名を記すための“祈りの結晶”だった。


 セーレがそれに触れた瞬間、珠の内側で微かな振動が起きた。名を記したわけではないのに、珠が何かを“記録”したようだった。

 それはまるで、彼女の存在そのものが、言葉ではなく“感応”として珠に刻まれたかのようだった。


 その珠は名を固定しない。

 朝露のように揺れ、やがて霧に還る。けれど、確かに“いまここに在った”ことを一瞬だけ記すのだ。


 セーレはその珠を胸に抱き、そっと目を閉じた。

 ――声のない祈りが、胸の奥でゆっくりと息づいていた。


 ◇ ◇ ◇


【第2節 ― 潮が揺らす名のゆりかご、かつての祈りへ】


 夜が完全に落ちると、霧の浮島はさらに音を失った。

 光もまた控えめで、家々の灯りはほとんどが壁際に伏せるように置かれた小さなオイルランプだった。外気とともに呼吸するような淡い灯だけが、影のかたちを柔らかく変えながら、空間を縁取っていた。


 家々の屋根は低く傾斜し、霧を集めるように設計されている。霧水は雨樋を通じて中庭の「記憶の泉」へと注がれ、そこに満ちた水に人々は名を映して“仮名”を預けるという。壁は石と藻の混成素材でできており、光を吸い込むような質感を持つ。住居の内部には「言葉の代わりに祈りの痕跡」を残すための紙片が吊るされ、風が吹くたび微かな揺らぎと音で“気配”を伝えていた。


 風はない。

 けれど、何かが“動いている”感覚だけがあった。

 それは海の底から、世界の隅々へとしみ込むような、ゆるやかな揺らぎ――潮の満ち引きが、島そのものを撫でている。空も海も、もはや区別はつかず、ただ「ここにある何か」だけが、霧のなかで生きていた。


 食後、セーレとフロウは案内の女とともに浜辺へ降りた。

 そこは昼間と同じ場所とは思えないほど、静寂に包まれていた。

 波音ですら聞こえなかった。いや、正確には――聞こえるかどうかすら判断できないほどの、かすかな音。空気に滲むようなその響きは、風ではなかった。“神の息遣い”のようなものだった。


「この島の神さま、“ミル=エレノア”はね。名を忘れたい者のためにいるんだよ」


 女は夜の海に向かって視線を落とし、胸元をそっと押さえた。

 その声音にはかすかに滲む祈りのようなものがあり、まるで自分自身に言い聞かせるような、静かな確かさがあった。


「目に見えないもの、触れられないもの、誰の記録にも残らない想い……そういった“誰にも救えない記憶”を、水の底に預かってくれる」


 セーレは小さく息を呑んだ。

 それはこれまでの彼女にとって、受け入れ難い祈りだった。名とは、戦ってでも守るべきもの。誰にも奪わせてはならないもの。そう思ってきた。忘れてしまったら、私は“誰か”でいられるのか。そんな疑念が、霧よりも濃く胸に広がっていた。


「名を失うことで、救われることがあるの?」


 問いに、女は短く頷いた。


「名があるからこそ、痛みもある。責任も、過去も、縛りもね。だからこの島では、名を神に“預ける”んだ。忘れてしまうためじゃない。思い出せないままで、生きられるようにするためさ」


 彼女の声はやさしく、そして明瞭だった。

 それは慰めではなく、“教え”の響きだった。


 フロウは黙って波打ち際に近づき、淡く濡れた石に爪先を立てた。

 その目の先には、小さな石の祠があった。海と地の接点、潮が満ちればすっかり沈んでしまう位置に据えられた、それは――「記録の拒絶」を象徴するような構造だった。


「潮が満ちれば消え、引けばまた姿を見せる。記憶とは、本来そういうものなのかもしれないな」


 フロウの言葉には、過去の重みが滲んでいた。


「……ここでは、“思い出さないこと”を、赦されるのね」


 セーレはぽつりと呟く。

 その言葉は、どこか自分への問いかけでもあった。


 母の名、自分の名、失われかけた数々の名前。それらは、記録としても祈りとしても、彼女にとっては手放せない“武器”だった。名を忘れることなど、戦うことをやめることに等しかった。


 だが、この地では違う。

 思い出せないことが、罪ではない。

 記録されないことが、死ではない。


「潮が名を運び、霧がその輪郭を曖昧にしてくれる。それを、私たちは“生きるための忘却”と呼んでるんだ」


 女は海を見つめながら微笑んだ。


 潮の気配が変わった。まるで誰かの呼吸が、海の深くで静かにひとつ、吸われたかのように。

 そのときだった。空と海のあいだに、ひとつの影が浮かび上がる。

 霧が一瞬だけ裂けた。

 その奥に、灯りのような微かな光が、波間の中に揺れているのが見えた。


「あれが、“御座の影”さ。夜にだけ現れる、神さまの居場所」


 フロウもその光を見ていた。

 どこかで記憶していたような、けれど決して思い出せない場所――彼の中にもまた、ひとつの“失われた名”が疼いていた。


「……この神さまの本当の名は、“ミル=エレノア”ではないの?」


「そう呼ばれてるけど、本当のところはわからないさ。名前があっても、なくても、神はそこにいる。ただ、私たちが呼ぶために“そう仮に名づけている”だけ」


 霧の中から微かな音がノイズのように聞こえてくる。


《ザザ……リ……ル……ルルル……ザザ……エル……ティナ……》


 セーレは息の呑んだ。


「あの音は?」


「さあね、たまに濃い霧の中から音のようなものが聞こえることがあるんだけど、だれにもその意味はわからないんだよ」


 セーレは、灯りの消えた海を見つめた。

 霧が再び島を包み、灯りも祠も、すべてが視界から消えていった。

 だが、彼女の胸の奥には確かに残った。


 ――それは“忘れることで守られる祈り”の記憶だった。


 ◇ ◇ ◇


【第3節 ― 仮の名を授ける者、預ける祈りの導師】


 二人は準備を終えると、廊下に続く戸口を開けた。そこには案内の女が待っていた。

 だが、今日はもうひとり――彼女の背後に、白い布をまとった人影が立っていた。

 それは、顔を薄紗で覆った女だった。半透明のヴェールが風にたゆたい、顔の輪郭すら曖昧に見える。だがその姿には、確かな存在感があった。霧そのものが、彼女に合わせてかすかに波打っているようだった。


 巫の衣は霧織りの布で仕立てられており、動くたびに粒子が空気に溶け、まるで衣そのものが霧から生まれて霧へ還るようだった。彼女が立つ床には自然に霧が集まり、足元には微かに光る名の粒子が漂っていた。巫のまわりの空間には“音が届かない膜”のような静寂が存在し、外の世界とはわずかに層がずれているように感じられる。視線を合わせるだけで、呼吸や心拍が一瞬“霧のリズム”と同調するような感覚を覚える。


「この方が、“ミル=エレノア”の霧の巫様。いまこの島で“仮の名”を授ける役目を担っているお方さ」


 名乗りはなかった。だが目が合った瞬間、セーレは悟った。

 この人物はただの導き手ではない。記録されぬものを記憶にとどめ、名のない神と向き合い続ける祈りの体現者――“記されぬ存在”の象徴なのだ。


 霧の巫は口を開かず、ただ片手を差し出した。

 その掌には、小さな白い珠がひとつ載っていた。

 波にもまれて丸くなったのだろう、どこにも刻みはなく、ただ柔らかな無垢の光だけをたたえていた。


 けれどその珠は、手に取った瞬間にわずかに震えた。

 まるで持つ者の呼吸や鼓動と共鳴するように。

 内側には微細な色の流れがあり、それは意識せずとも“今この瞬間の心のかたち”を映し出しているようだった。


「この仮名珠を、潮の祠に捧げてください。……その後で、あなたの“今の名”を問いましょう」


 言葉はやさしく、しかし儀式としての重さがあった。

 フロウが思わず眉をひそめる。


「問い直す……? 俺たちには、もう“名”があるはずだ」


 霧の巫は目元でそっと微笑み、わずかに視線を落とした。幾度となく名を預かってきた者の、静かな慈しみと一抹のためらいが、その仕草に滲んでいた。


「ええ。でも、ここでは“過去の名”ではなく、“この場所であなたを呼ぶための名”が必要なのです。何を忘れ、何を望み、どんな想いを抱えているか……それによって、“今、与えられるべき名の響き”は変わります」


 セーレは思わず訊き返した。


「……それは、偽名なの?」


「いいえ。“仮の名”です」


 霧の巫の声は柔らかく霧のようだった。


「一時だけ纏う、記憶の衣のようなものです。あなたがあなたであるために、過去を抱えながら未来に進むために……名は“今”を映す器でもあるのです」


「私はこの町に来てアメノトキという名前を住民に貰いましたが?」


「あなたから、もうその名を感じることができません。もう流れてしまったのでしょう。潮の祠で問う名は、一時だけ纏うとはいえ、すぐに流れるものではありません。それにここでは、同時にいくつもの名前を持つことは珍しくありません。そして、時間が経てば、名はミルタ=エルの霧になるのです」


 霧が少し揺れ、霧の巫の衣が風のようにたなびいた。

 その姿は実在よりも幻に近く、けれど霧のなかで確かに“そこにいる”と感じられた。

 どこにも記されず、名も残さず、しかし誰よりも強く祈りを体現する者――その在り方に、セーレは強く心を引かれた。


「この地における仮名の儀は、土地に受け入れられるための儀式。旅人が異邦者から“この地の者”になる通過儀礼、もしくは祈りを捧げる巡礼者のための入域資格です。ですので、ここを出て行く際には、名を流してもらいます。ミル=エレノアの加護は、ここに留まる者だけに与えられるものではありません」


 セーレはその言葉に、かつて読んだ旅人の記録を思い出していた。

 大陸の港町ラヌエには、潮神ネリュエの“還名の祈り”という儀式がり、そこで還した名は潮の渦に呑まれ還ってこない。


 名は与えられる儀式、名を捨てる儀式、そして名を奪われる儀式。

 すべて名に関した祈りのかたち。

 名を奪われることで祈られたのは、いったいなんだったのか?


 なにに捧げられた祈りだったのか?


 セーレは口を噤んだ。

 断絶された名は呼んではらない。記してもらない。

 思い浮かんだ名を振り払うようにセーレは首を横に振った。


 ◇ ◇ ◇


【第4節 ― 名の一部を預けること、それは欠けた祈り】


 霧の巫の導きで、セーレとフロウは島の奥へと足を進めた。

 林に入ると、霧は一層濃くなる。

 道は細く、両側には風に削られたようにねじれた木々。

 塩害地帯でも育つ黒針の樹は葉が針のように尖った常緑の樹で、枝にはうっすらと塩が結晶しており、まるで古い記憶が固まったまま残っているようだった。


「この先が、“預かりの祠”です」


 霧の巫の声は、霧そのものが語りかけているかのようだった。


 やがて林が開け、ぽっかりと空が広がる場所に出た。

 中央には潮水を含んだ小さな池があり、その中ほどに、波に浸された石の祠がひとつ据えられていた。周囲に供え物はない。ただ、祠の前に積まれた白い珠が二つ、無言で並んでいる。


 霧の巫は一歩前に出て、風にそよぐ衣の裾を静かに整えた。祠に向ける視線には、名を扱う者としての厳粛な覚悟が滲んでいた。そして小さくうなずくと、祈るような声で告げた。


「仮名を問う前にやることがあります。潮が満ちるまでに、“名”を預けるか、それとも“抱えて戻る”か――どちらでもかまいません。この地においては、“名に触れること”それ自体が、祈りなのです」


 名を忘れたい者もいる。

 この地は、それを選び取ることができる。


 そして、名を手放せない者がいたとしても、誰もそれを責めはしない。

 その名もまた、霧に包まれ、潮に寄り添うかたちで、静かに在り続けるのだから。


「預けた名はいつ返してもらえますか?」


 セーレの問に霧の巫は諭すように答える。


「いつでも、好きなときに、生涯預けたままでもかまいません。例えば、この島に名を預けて去ったとしても、“いつか戻る可能性”を残す祈りにもなります。名を返すことは、別れではなく、再訪の余白を残す行為なのです」


 セーレは手の中の白珠――仮名珠を見つめた。

 そこには何も刻まれていない。けれど、その無垢さがかえって、自分の内にある名の輪郭を際立たせていた。


 珠の内側には、確かに何かが映っていた。

 それは名ではなかった。けれど、“祈りの形”が、色彩の揺らぎとして現れていた。

 仮名珠はセーレの掌の温度と脈動に共鳴し、いまこの瞬間の心を、声なき記憶として抱いていた。


 だが――

 セーレの胸には、もうひとつの名があった。


 セーレ=イリス


 自ら選んだ名。

 誰に与えられたのでもない、失われた名の代わりでもない。

 戦いの中で、自らを呼ぶために生み出した名だった。


「……いまは、まだ預けられない」


 彼女はそっと呟いた。

 この名を、まだ自分の祈りの中に留めておきたい。

 それは恐れではない。守るべきものが、ようやく形になりかけているだけだった。


 セーレは珠を胸元に抱いたまま、祠の前にしばし立ち尽くした。

 潮の音が遠くから響いてくる。

 満ちてくる波が、かつての祈りを連れて戻ってくるようだった。


 だが彼女は一歩下がった。

 珠を置くことなく、懐へと戻した。


 ――預けるには、まだ早い。

 この名が、自分の内で本当に祈りになったとき、もう一度ここへ来よう。

 それまでは、この名とともに生きていく。


 セーレの掌に残された仮名珠は、いまだ白く無垢なままだった。

 だがその内には、祈りの残響だけがかすかに刻まれていた。

 預けられなかった名――

 それは、いまはまだ“名を記すことを拒んだ珠”として、彼女の側に在り続けた。


 祠の背後で、霧の巫は何も言わずに立っていた。

 その沈黙には、否定も承認もなかった。

 ただ、祈りの気配だけが、霧の中に穏やかに流れていた。


 やがて、フロウが一歩前に出た。

 セーレが視線を向けると、彼は何も言わず、ただ珠を手に取っていた。

 巫の掌から、仮名珠がもうひとつ、静かに差し出されていた。


 それは問いではなく、赦しだった。

 名を持たぬ者にも、仮の名を問う権利は等しく与えられている。

 あるいは、祈りの形式だけを受け取ることすら、ここでは許されている。


 フロウの指先が白珠に触れたとき、微かに霧が揺れた。

 けれど、珠は反応しなかった。

 セーレのときのように、色も流れもない。

 ただ、そこに“在る”ということだけが、空気のように漂っていた。


 フロウの目がかすかに細められた。

 その胸の奥で、遠い記憶の名前が、呼ばれもしないまま沈黙していた。


 ファレン


 ――けれど、もうその名では呼ばれない。

 自ら放棄し、誰にも明かさず、神すらも忘れた名。


「……俺には、名がない」


 フロウはそう呟いた。

 それは誰に向けた言葉でもなかった。ただ、霧に溶けるような、独白だった。


 霧の巫は頷いた。

 その動きはほとんど風のように微細で、言葉すら生まれない静謐さをまとっていた。


「だからこそ、あなたは祈れるのです」


 その声は、セーレに向けられたものか、霧そのものが語ったものか、判然としなかった。

 けれど確かに、そう聞こえた。


 フロウは珠を懐にしまわなかった。

 ただ掌に乗せたまま、静かに祠の前に立ち尽くしていた。

 珠は微かに震えた。

 それは色ではなく、音でもない――名を持たぬ存在の、かすかな鼓動のようだった。


 何も記されない珠。

 何も記せない名。

 けれどその沈黙こそが、霧の神に捧げる祈りだった。


 霧の巫がそっと歩み寄り、両の掌を差し出す。

 フロウは無言のまま、珠を委ねた。


 珠は巫の掌の上で、ひときわ細かな震えを見せた。

 次の瞬間、霧が珠を包み込み、その輪郭ごと滲んでいった。

 名も記されず、色も宿さず、ただ静かに――霧のなかへと還っていく。


 それは、祈りの否定ではなかった。

 “名を記されなかった者の祈り”が、霧という神の器に静かに吸い込まれていく、そんな瞬間だった。


 そして、祠の空気がわずかに澄んだ。

 セーレにはわかった。

 それは“記されなかった者”が、“名を持たないまま祈った”という事実だけが、静かに残った証だった。


 やがてフロウは踵を返し、セーレの隣へ戻った。

 彼は何も言わなかった。

 けれどその横顔には、どこか吹き抜けた風のような――静かな空白があった。


 そしてそれは、セーレにとってもまた、忘れがたい祈りの光景だった。


 ◇ ◇ ◇


【第5節 ― 声なき問答、記されなかった祈りへの応答】


 霧は昼を迎えても晴れなかったが、その密度はわずかに薄れ、仄かな陽光が島の上空から垂直に落ちていた。

 波に乗せられた小舟が、静かに入り江へと滑り込む。舟底に積もった露が光を弾き、まるで名前を持たぬ魂が踊っているかのように細波を描いていた。


 舟を降りた瞬間、足元に咲く小さな水草がさざめいた。

 音ではない。風でもない。だが、セーレにはそれが“呼ばれなかった名前たちのささやき”のように感じられた。言葉にならぬ記憶、記録に残らぬ祈り――そのすべてが、草の揺れに乗って島を包んでいた。


 出迎えに現れたのは、薄灰の衣を纏った少女だった。

 十六、七歳に見えるが、その瞳は長い霧を知る者のように澄んでおり、底には微かな光と深い静けさが共存していた。

 少女もまたミル=エレノアに仕える霧の巫であり、忘れられた名の声を聞き取る“記憶の橋渡し人”だという。


「あなたがたが、“名前を探す者”ならば、この島は通過点となるでしょう。ここでは、言葉よりも先に、“名の気配”が人を試します」


 ミュルリの声は凪いだ水面のようだった。敵意はない。

 彼女はふたりを導くように、島の中央部――霧神を祀る泉の方角へと歩き出した。霧はそこへ向かうにつれて再び濃くなり、白さの奥に浮かぶ細道が、記憶と夢の狭間へ続くように見えた。


「ミル=エレノアは、霧と水の間に棲む神。目に見えず、言葉を持たず、それでいて名を喪った者の声にだけ、応えてくださいます」


 霧の巫の言葉に、セーレは思わず立ち止まり、振り返った。


「……名前を失った者に、神は答えてくれるの?」


 霧の巫は頷いた。その仕草は、祈るように静かだった。


「忘れた者には、神の声は“響き”で届きます。言葉ではなく、かたちでもない。ただ、“あなた”という存在に寄り添う音。記録できず、他人に伝えられないけれど、確かに“内側に響くもの”として」


 彼女の言葉に続くように、道の脇にあった小さな泉から“ぴたり”と水が跳ねた。

 それは風でも気温でもない、祈りへの共鳴のようだった。


 足元に目を落とすと、石畳の合間に埋められた白い貝殻が、歩くたびに小さく音を立てていた。

 人々は言葉の代わりに、こうした“音の痕跡”を通して祈りを繋げているらしかった。


 フロウが、珍しく自ら口を開いた。


「……名を持たない俺にも、響くのか?」


「はい。むしろ、名を喪った者こそが、最も神に近い存在です。名が失われてなお祈る者に、神は初めて応えるのです」


 その瞬間、フロウの眼差しがかすかに揺れた。

 かつて“ファレン”と呼ばれていた記憶。自ら放棄した名。それでも、その名の残響が彼の胸のどこかでいまだくすぶっていた。


 彼はふと立ち止まり、道端の水面に片足を浸した。

 すると、水はわずかに波立ち、まるで彼の体温や鼓動に応じて色を変えるかのように、霧の中で淡い光を生んだ。

 それは“祈り”ではなかったかもしれない。だが確かに、そこには“共鳴”があった。


 やがて泉への道が現れた。

 石を積んだ階段の両脇には、いくつもの石碑が立ち並んでいた。どれも苔むし、風化が激しく、文字らしきものは何一つ残っていなかった。ただ、石肌に刻まれた不規則な凹凸が、かつての“何か”を語っているようにも見えた。


「ここは、“失せし名の記録場”です。記されなかった祈り、呼ばれなかった名が、この場に集められています」


 霧の巫は一つの石に手を添え、そっと瞼を閉じた。

 すると、霧がわずかに揺れ、石の輪郭が一瞬だけ柔らかく変化したように見えた。

 霧の巫は言葉ではなく、“沈黙の呼吸”で石と祈りを交わしている――セーレにはそう感じられた。


 その隣の石碑には、小さな穴がいくつか穿たれていた。

 そのひとつにミュルリがそっと息を吹き込むと、穴の奥から“コン”という短い音が返ってきた。

 響き。それは、返礼ではない。ただの音であり、けれども、“神がそこにいる”ことの証明だった。


「この石もまた、かつては“誰か”のために祈られたものです。ですが、その誰かは記録を許されなかった。名を持たず、ただ思われた存在として、ここへ還ってきたのです」


 セーレは黙って、その光景を見つめていた。

 風の音すら聞こえない。だが、石と霧の巫の間に通っているものがあるのは確かだった。


「……なら、私たちも、誰かを“記し直す”ことができるの?」


 問いは、静かに、しかし真剣に放たれた。


 霧の巫は微笑んだ。だが、それは否定でも肯定でもなかった。


「“記す”のではなく、“思い出す”ことが始まりになります。この島においては、記憶と名は霧のように溶け合い、明確な輪郭を拒みます。探すのではなく、感じ取ること。心のなかに、何かが“揺れる”こと――それが祈りなのです」


 その言葉に、セーレは無意識に剣の柄に手を伸ばした。

 この剣は、母から託されたもの。名を守る象徴であり、忘却への抵抗だった。

 けれど、この地では“記憶の欠片”すら、神に捧げることが許されている。


 霧の巫は最後に、静かにこう付け加えた。


「この泉のほとりで人々は、指先で水面をなぞりながら、胸に浮かんだ誰かのことを思います。

 声を出すことはなく、言葉にもしない。けれど、そうすることで“忘れた名”は、もう一度、ほんのわずかに息を吹き返すのです」


 忘れられた者たち。呼ばれなかった名。

 そのすべてが、ここでは“終わったもの”ではなく、“まだ終わっていない祈り”として扱われている。


 セーレの胸の奥に、確かに何かが共鳴した。

 フロウは隣で、黙ったまま、どこか遠くを見つめていた。


 そして、今日の儀式はここで終わった。

 まだ、明日も儀式は続く。


 ◇ ◇ ◇


【第6節 ― 記名の影、名を思い出せぬ者の対峙】


 朝の霧は晴れることなく、夜との境界を曖昧にしたまま、島を包んでいた。

 空の明るさだけがかろうじて時間の移ろいを知らせているが、風も鳥も声を失い、すべては“ひとつのまどろみ”のなかにあるようだった。


 人の姿を保ったままのフロウはひとり、神殿の裏庭にいた。

 苔むした石畳が静かに湿っており、足音さえ吸い込まれていく。

 そこは、神の霧の巫たちも立ち入らない“余白の庭”――名の祈りが届かぬ静域、霧の神域が生み出した沈黙の空間だった。


 彼はひとつの葛藤を抱えていた。

 名を預ける儀式を経て、自分のなかにあった何かが曖昧になっていた。輪郭が滲み、記憶の接続がぼんやりとしている。

 だが、それは“失った”わけではなかった。

 名の記憶が消えたのではない。むしろ、名の“在りか”が変わったのだ。

 以前のように、名が剣のように胸に刺さっている感覚はない。けれど、どこかの水底に、その刃が眠っている気配があった。


 足元の苔をふと見下ろすと、その柔らかい緑が、まるで“語られなかった過去”を抱きしめているように揺れていた。

 視線の先、石壁に何かが浮かんでいる。

 それは剥がれかけた祈文だった。古く、読めない。けれど、意味のないその痕跡が、逆に胸に迫った。


 ――お前は、誰に呼ばれたのか?


 音にはならなかった。

 だが、その問いだけが確かに胸の奥に沈み、重さとなって彼の呼吸を詰まらせた。


「……俺は……」


 言葉に出した瞬間、それは霧散した。

 口からこぼれた音は、まるでこの神域が許さぬ異音のように、霧のなかへと溶けていった。


 そのとき、時が音を失い、世界が輪郭をほどいた。

 意識はそっとほどけ、水面をなぞる指のように、夢へと滑り込んでいった。


眠りではない 沈黙でもない 霧がひとひら開いたとき

その内側に 夢が、祈りのように ゆっくりと流れ始めた


境界はなかった

空も、海も、音も、影も

すべてが“名を持たぬもの”の名をしていた



彼は浮かんでいた

けれどそれは肉のことではない


“記憶の芯”――

呼ばれなかった音が集まり、

まだ名前を与えられていない輪郭が、

ただ ゆらゆらと浮いていた


ふと

蝶が舞い降りた


ひとつ、またひとつ

白い羽音を持たぬ蝶が 彼の周囲に集まってくる


それらは音もなく 香りもなく

けれど、彼の“存在”にだけ反応して 静かに翼をひらいた


その羽ばたきが合わさった瞬間

蝶たちは霧へと変わった

名を告げぬまま ただ“応える”ために現れた霧


――それが、神だった


《あなたの名を知りません

 けれど、祈りの震えは受け取りました

 それだけで、私はここにいます》


言葉ではなかった

でも、確かに聞こえた

魂の輪郭をなぞるように 胸の奥を そっと打った


傍らに 珠が浮かんでいた


夢の中でもなお 残っていた

記さず、渡さず、けれど消えなかった 仮名珠


珠は震えていた

記憶ではない何かに反応していた

それは 傷ついたものの まだ名付けられていない痛みだった


その震えが水底に届くと

白と青の光が泡のように昇りはじめる

それは、音だった

かつて誰かが名を呼ぼうとしたときに生まれた

言葉にならなかった“祈りの名残”


光の向こうに 影がひとつ 立ち上がる


痩せた背中

笑わぬ口元

呼ばれたことのない存在


それは

“フロウ”ではなかった


――かつて 誰からも呼ばれず 語られず

ただ“名を拒む”ことで在りつづけた 彼自身だった


「……そうだ。俺は、呼ばれたくなかった」


その言葉は 音の代わりに波を起こした

静かな波紋が 胸の奥に拡がっていく


名前は 過去を縫い付ける糸だ

背負ったことも 失ったものも 赦せなかった誰かも

すべてが“音”になって 自分の名に宿ってしまう


だから彼は 逃げた

名のない沈黙のなかへ


けれど――


「……でも

 お前を呼んでくれた声が、あったんだよな」


影が 揺れた

波紋が 静かに震えた


 刹那――


 夢の中心にひとつの響きが降りた。


 それは“声”ではなかった。

 水の振動。記憶の反響。

 言葉ではなく、光と波で伝わる共鳴。

 夢の深奥で、誰かが呼びかけていた。


 ――フロウ


 その名を彼は知っていた。


 ──セーレ


 名前は刃ではなかった。

 呼ばれたことで、傷ついた場所に光が届いた。

 それは、沈黙を破る祈り。

 誰かを否定するのではなく、“ここにいる”と伝えるための響きだった。


 名を手放したのでも、預けたのでもなかった。

 それは、言葉にできぬまま、ただ“霧に還った”のだ。

 忘れるためでも、思い出すためでもない。

 ただ“誰かの声に触れてもいい”と、そう思えた瞬間。


 そして――誰かと共鳴するために。

 その想いが、静かに“名の記憶”の波紋を広げた。


 フロウは霧のなかにぽつりとつぶやいた。


「……俺は、“誰かの声”が怖かった。でも、いまは呼ばれてもいいと思える」


 蝶は再び舞い

 霧となって夢を包んだ


 その瞬間、夢と現実の境界がふっと揺れた。

 視界のなかで、霧がやさしくほどけていく。

 沈黙の庭の水盤に、一筋の波紋が広がった。


 それは神からの返答ではなかった。

 けれど、“拒まれない”という肯定だった。

 名を持たぬまま祈る者にも、応答はある――ただ言葉ではなく、存在の“受容”というかたちで。


 フロウはゆっくりと踵を返す。

 完全に名を取り戻したわけではない。

 けれど、“応じる心”を得た今、彼の歩みは霧の中でも迷うことはなかった。


 それは、忘却のなかから再び生まれた“祈り”だった。

 そして――その祈りこそが、名を記す者たちの旅路を支える、最も深い灯火となるのだった。


 ◆ ◇ ◆


《幕の狭間の囁き ― 仮の名と沈黙の祈りについて】

(第四の仮面 ― 仮面根種の影より)


ああ、ここで小休止かい?

ふたりの巡礼者が霧の海を渡るあいだ、観測者としての僕も少しばかり語ることを赦されよう。

そう、この《第四話》は……まったく、記録者のくせに“書かない”ことばかりじゃないか。


だがいいかい? それこそが、この地に祈られた神《ミル=エレノア》の真骨頂なんだ。

なにせこの神、祈られても名を記されるのを拒むし、巫たちも言葉を用いない。

名も、声も、記録もすべて霧に溶かし、沈黙のなかで“感応”だけが祈りを運ぶ。

そう、この神域は“記すこと”の限界を試す舞台なんだよ。


さて、ここで語られた「仮名珠」――あれは良い仕掛けだ。

文字を記さず、触れた瞬間の“存在の揺らぎ”だけを記録する珠。

名を固定するのではなく、“今のあなた”を受け容れるための器。

なんて粋な発明だろう? 僕が観測してきた数多の断章のなかでも、なかなかの名演出さ。


セーレはまだ、自らの真名をこの地に預けなかった。

それでいい。あれは“拒絶”じゃない。

まだ祈りになっていない名は、預けるに値しない。それを知っているだけ、彼女は誠実なんだ。


フロウ? ……ふふ、あいつはまたややこしい。

名を捨てたくせに、呼ばれることを渇望している。

でもそれこそが“名の呪い”さ。呼ばれたくない、けれど呼ばれていたい。

まったく、記録者とは滑稽な生き物だね。


ともあれ、この章は、記されぬ祈りの可能性を示した。

名は記号じゃない。ましてや鎖でもない。

“共鳴”によって名が立ち上がる――それは、記名構文の外側にこそ存在しうる、最も柔らかな祈りだ。


君も感じたろう?

霧のなかに、言葉にならない祈りがあったことを。

その震えを覚えている限り、君もまた“記録者”たりうるってわけさ。


――さあ、幕はまた閉じるが、物語は終わらない。

仮の名は流れゆく。

けれどその痕跡は、ちゃんと君のなかに残っている。


――霧の中より、■■=ネ■■■。


 ◇ ◇ ◇


【第7節 ― 神影の出現と、祈りを語らぬ者の贖罪】


 その日の昼過ぎ、霧は静かに晴れ始めていた。

 完全に消えたわけではない。けれど、島の空気はわずかに透明度を増し、光が柔らかく差し込んでいた。


 セーレとフロウは、巫の案内で本殿へと向かっていた。

 そこは霧の神域でもさらに奥、ミル=エレノアの座す泉を囲む《記名の本殿》――

 潮の儀式が最も深く行われる場所だった。


 小道の両脇に並ぶ黒針の樹々は、夜露をまとったまま霧を吐き出している。

 セーレはその霧のなかに、昨日祠で手にした仮名珠がわずかに震えているのを感じていた。

 袋の内に納めていた珠は、今やかすかな音を立てながら光を揺らしている。

 それは名を宿してはいない、ただの“祈りの器”――

 だが、この本殿へ近づくことで、珠の“空白”が神の気配に共鳴し始めていたのだ。


 ――まだ、預けていない。

 けれど、私のなかに在り続けている名がある。


 セーレは、珠を胸元へとそっと引き寄せた。


 そのとき、隣にいたフロウが立ち止まった。

 彼の掌には、もう珠はなかった。第三の選択の中で珠は光のなかで静かに溶け、霧へ還っていったのだった。


「……やっぱり、もう俺のはないか」


 彼は苦笑し、肩をすくめると、巫のほうへ視線を向けた。

 霧の巫は黙って一つの白珠を差し出した。


「この珠は、前のものとは異なります。あなたの“祈りのかたち”が変わったからこそ、再び受け取る資格があるのです。この珠には、初めて“あなたから名が触れたとき”の響きが刻まれます」


 フロウは一瞬だけ迷い、そして珠を受け取った。

 まだ何も記されていないその白珠は、しかし彼の手のなかでかすかに温度を持っていた。

 それは、失ったものの代わりではなく、“受け入れられたこと”の証のようでもあった。


 そして、ふたりは本殿の石階段を登った。

 霧が静かにその背を押すように揺れていた。


 階段を登りきった先に広がるのは、霧のなかに沈む静謐な広間だった。

 天井はなく、空のかわりに淡い霧がゆるやかにたなびいている。

 中央に据えられた石の盤――それが、《記名盤》と呼ばれるものだった。


 水の気配がする。

 壁も床も、乾いた石ではない。かすかな湿り気をたたえ、潮の香りを含んだ微細な蒸気が足元に漂っていた。


「こちらへ」


 巫の声が、まるで水面を滑る風のように響く。


 セーレとフロウは、示された場所に静かに立った。

 本殿に立ち入って以来、仮名珠はますます強く反応している。

 セーレの掌のなかで光が微かに揺れ、胸の奥に眠る“呼ばれなかった名”が、何かに呼応するように脈打っていた。


 フロウの珠は、まだ何も語っていない。

 けれど、彼の中にも確かに祈りの余韻があった。

 先の夢で失ったものが、いまこの地で、あらためて「かたち」を与えられようとしている。


 ふたりの前に、霧の巫が立つ。

 その手が、静かに記名盤へと伸ばされる――


 霧の巫の指が記名盤をなぞるたび、水面を撫でるような震えが石から立ち上がった。盤に刻まれた文字は、もはや形を留めていない。だがそこには、確かに“名の痕跡”が息づいていた。潮に滲んだ微粒のように、それらは失われた記憶の断片として盤を染めていた。


 名は水であり、定まらぬもの。

 記すものではなく、通りすぎるもの。

 この地の空気には、そんな祈りの思想が沈殿していた。

 形を求めず、ただ過ぎていくことを肯う、流動の信仰。


「これは、もう流れた名の記憶。返還されることも、再び呼ばれることもない名」


 巫の言葉を聞きながら、フロウはセーレの背に滲んだ白い痕を思い出していた。

 それは記名された血の名――かつては祝福の徴でありながら、今では呪いの印となって刻まれている。


「……ねえ、この記名盤って、いつからあるの?」


 フロウの問いに、巫は盤の裏面へと指を滑らせた。そこには螺旋の紋が、消えかけた波紋のように浮かんでいた。


「これは、もっと深くから来たもの。海の底の名、声を持たぬ者たちの祈りが、最初の潮とともに流れてきたの」


 “声を持たぬ者たち”――その言葉に、セーレの思考が水底へ引き寄せられる。


 〈ネレイオン〉――深海に棲む異形の種族。

 耳を持たず、かわりに潮の振動を感受する器官を持つ彼らにとって、名とは音ではない。

 揺らぎであり、水の詩。伝えられるのは“響き”だけ。

 記されぬ名を交わし、波に乗せて祈る、静かな民族。


 一族の中で“真名”を持つ者はひとりだけ。

 他の者たちは、仮名を変えながら生きる。潮とともに名を預け、また取り戻す。

 名は留めるものではなく、巡らせるもの――個の執着を超えた、航海の詩。


 潮神ネリュエの信仰、

 “仮の名こそが祝詞となる”という理念は、まさにこの彼らの生理と神話の交差点から生まれたものだった。


 セーレは記名盤をじっと見つめていた。


 かつて自らの名が封じられた記憶。

 いま、その名はどこにあるのか。潮のように揺れ、誰の口にも上らぬまま、もうどこかへ流れてしまったのだろうか。


 ――そのときだった。

 水面に、わずかな波動が走った。


 風のない湖畔。だが、霧の奥にひときわ濃密な“気配”が現れた。

 音もなく、ただ空気の密度が変わる――朝の祈りを告げる鐘の前、最後の静寂のように。

 その場にいたすべてが、空白へと引き込まれてゆくような、張り詰めた気配。


 セーレは静かに立ち上がった。

 記名盤を離れ、神殿の正面回廊をくぐる。

 霧の巫たちの姿はもう見えなかった。

 けれど、霧の深呼吸のようなうねりが、大気ごと空間を震わせていた。


 風もないのに、潮の感触が肌を撫でる。

 セーレの髪が、耳飾りに絡まるように揺れ、刹那――小さな音が鳴った。


 ――カラン。


 耳飾りの音が、霧のなかに溶ける。

 それは、誰かに呼ばれたような合図。

 潮の神が近づいている。そんな予感。


「……同じだ」


 隣で、フロウがぽつりと呟いた。


 彼の言葉は、自身が夢で触れたあの“祈りの呼吸”に向けられていた。

 この気配を、彼は知っていたのだ。

 ミル=エレノア――名なき神の応答。それは、今ここにも、再び満ちようとしている。


 湖面は鏡のように静まり返っていた。

 だがその中心――霧が最も濃く、光も音も屈折するあたりで、“何か”が揺れていた。

 波ではない。風でもない。

 それは“存在の痕”としか呼べぬ、名も姿も持たない何かの兆しだった。


 セーレはひざまずき、両手をそっと水面へ差し出す。

 名も願いも告げぬまま、ただ“そこに在るもの”へと、掌を開く。

 形式ではなく、意志でもなく、ただ気配の共鳴だけを信じて。


「……あなたは、ミル=エレノア……ですか?」


 声は水音にもならなかった。

 だがその瞬間、霧がふっとほどけ、湖面にかすかな“影”が現れた。


 それは人のかたちをしていなかった。

 女性のようでもあり、老人のようでもあり、いくつもの時と記憶が幾重にも重なったような、輪郭のない像。

 ただ“そこにある”。

 ただ“ここにいる”。

 それだけで、この地では“神”と呼ばれるに足る存在。


 そしてその時、

 セーレとフロウの手元で、仮名珠がかすかに明滅した。


《リーネ》《シズ》


 仮の名が、霧の中で淡く反転する。

 それは、名の“真核”へと潜りこもうとする、小さな揺れ。

 波間に灯る星のように、まだ語られていない名前たちが、水の深みから浮かび上がろうとしていた。


「……応えてくれている。私たちの“欠けた名”に」


 セーレの言葉に、影は静かに揺れた。

 その揺れは波紋となって広がり、記名盤と同じ螺旋の図形を湖面に描いた。


 それは言葉ではない返答。

 だが確かに“祈りが届いた”ことを示す、沈黙の頷きだった。


 ――あなたが名を手放したとき、

 その祈りは、空白として届いた。


 声なき声が胸を打つ。

 音にならないその響きが、心の奥でゆっくりと共鳴する。


 セーレは結晶にそっと手を添えた。

 それは剣ではない。記録でもない。

 自らが“記すべきもの”を抱えてここへ来たという、ささやかな証だった。


「……私、あなたに祈りを記したくてここに来たの。でも、それが誰かにとっての重荷なら……“名前を持つこと”って、本当に祝福なの?」


 問いかけは、自分自身にも向けられていた。


 彼女の言葉に、結晶の光がやや強く脈打つ。

 仮の名が、光の粒となって空気中にほつれ始め、ひとつの柔らかな球体へと変わっていく。


 フロウが一歩、水面に足を踏み出した。

 その足元から、音もなく波が生まれる。

 湖面の影が、まるでその一歩を“受けとるように”たわんだ。


「……神様。もし、あなたが“名を祈られた存在”なら……“名前を失う痛み”も、知ってるんじゃないか?」


 再び返答はなかった。

 けれど霧のなかで、波がゆっくりと旋回し始める。

 それは否定でも肯定でもない、ただ“ここにある”という応答だった。


 名は命令でも、呼称でも、記録でもない。

 誰かに“気づかれること”。

 誰かを“呼びたいと願うこと”。


 セーレは胸の光をそっと握りしめる。

 そして静かに告白した。


「……私は、“誰かを呼ぶこと”が怖かった。名前を与えることで、その人の傷に触れてしまうんじゃないかって。でも、あなたに触れてわかったの。名は傷じゃなくて、声のかたちなのね」


 それは告解だった。

 けれど、赦しを求めたわけではなかった。

 ただ、そこにいる“誰か”へと、ありのままの祈りを差し出しただけだった。


 霧の奥で、影がゆっくりとうなずいたように見えた。

 それは──「祈りを記すために、名を持つことを、望むか」という問いだったのかもしれない。


 ふたりはただ、言葉のないまま、頭を垂れた。


 そして、その祈りは波紋となって湖面に広がり、

 やがて、空の見えぬ空へと、静かに昇っていった。


 風のないはずの湖畔に、微かな潮の香りが流れた。

 それは、神の返歌のようにも感じられた。


 ◇ ◇ ◇


【第8節 ― その名は器に過ぎず、祈る意志が宿る】


 霧に包まれた湖面は、いまだ沈黙を保っていた。だがその沈黙は、もはや拒絶の壁ではなかった。ただ、言葉では届かぬ祈りを受け止める“器”のような、柔らかな気配へと変わっていた。

 神ミル=エレノアの姿は、すでに霧の中に溶けていた。しかし、その存在は確かに“ここにある”。湖底に沈むように、深く、広く、すべての祈りを受け止め続けていた。


 セーレの胸元では、“リーネ”と刻まれた仮名珠がわずかに震えていた。

 それはかつて、名を預けるか否かを問われた白珠だった。セーレはそれを持ち帰り、神に名を刻むための“器”として使う道を選んだ。

 今、その珠は淡く光を揺らしている。内側から灯るような輝き――それは、名が定着する直前の脆く、不安定な光。

 彼女はその珠を両手で包み込み、じっと見つめながら、ぽつりと呟いた。


「ねえ、フロウ。……名って、なんだと思う?」


 その声は、仮面の奥から溢れた、祈りにも似た問いだった。

 フロウは沈黙のまま、水面を見つめていた。

 霧の奥、神の影はすでにその輪郭を曖昧にしていたが、たしかに“そこにいる”と感じられた。沈黙は不在ではなかった。対話の余白として、そこに在った。


「……俺にとっては、怖いものだ」


 ようやくフロウが口を開いた。言葉を選ぶようにわずかに息を飲み、湖面の揺らめきを見つめながら続けた。


「名前があると、誰かに“見られる”。“呼ばれる”。それは、忘れられた方が楽だって思ったほど、重かったんだ」


 フロウの声は低く、かすかに揺れていた。湖面を見つめる瞳には、過去の記憶が波紋のように浮かび上がっていた。思い出したくなかった名の重み、それでも捨てきれなかった想い――それらが静かに彼の胸を揺らしていた。


 わずかに息を継ぎ、彼は思いを吐き出すように続けた。


「誰にも呼ばれなければ、誰かを失うこともない。そう思ってた。……でも、いまは少し、違う気がしてる」


 セーレは小さく頷いた。フロウの言葉が静かに胸に染み込み、彼女のまなざしは手の中の珠へと向けられた。その目には過去への痛みと、今ここにいる自分自身への受容が宿っていた。ほんの少し息を吸い、彼の思いを受け止めるように、ゆっくりと言葉を返した。


「私もそうだった。“アルティナ”って名は、母の名でもあって……ずっと誰かのために祈らされる名前だった。背負わされるだけで、自分のものじゃなかった」


 セーレは一度言葉を切り、手の中の珠を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。過去の痛みと現在の祈りが胸の奥で交錯し、それでも続けるべき言葉が彼女の中に確かに芽吹いていた。


 そして、意を決したように言葉を重ねる。


「でも、“リーネ”になってからは、少しだけ自由になれた。誰かの代わりじゃなく、自分自身の祈りでいられた気がするの」


 その言葉に呼応するように、湖面にひとすじの波が走った。


 神の気配が応えるように、霧がわずかに揺れる。名を持つことを恐れながら、それでも語り、願い、祈ろうとするふたりの声に――静かに「それでよい」と囁くように。


「……この名前に、私は安らぎを感じた。縛られず、ただ“私”としていられた気がした。でも……」


 セーレは珠を見つめたまま、声を落とした。

 “リーネ”という仮名。それはたしかに彼女自身の祈りから生まれた、はじめての名だった。

 だが、祈りを記す者になるには、“誰かに呼ばれる名”が必要だった。

 それは血の名であり、継承された重みであり、かつては呪いとすら思っていた真名――


 彼女は珠をそっと地に置いた。淡い光が、石の上でかすかに脈打つ。


 セーレの手から離れた仮名珠は、ひとすじの光を放ちながら宙を舞った。

 そのリーネは、彼女がこの旅路の中で初めて“自分の祈り”を託した名前。

 けれど、それはあくまで通過点――“名を記す”ために必要な問いかけに導かれる、橋であり、仮面だった。


 珠が砕け、微かな音を立てて結晶の粒子となり、湖面に降り注いでいく。

 波紋が広がるたび、記憶の奥底に眠る別の名が、静かに呼び起こされていった。


「……私の名は、“セーレ・アルティナ”。」


 その名を口にした瞬間、霧の層が揺れた。

 それはまるで、霧神が“古い名の響き”を聴き取ったかのようだった。

 光の残滓が湖面を渡り、沈黙のうちに“祈りを受け取る”姿勢を見せる。


 《アルティナ》――それは王家に受け継がれる継承名。

 かつて母が背負った名であり、セーレにとっては“呪いの始まり”とも言える名前だった。

 儀礼のなかで押し付けられた祝福。

 祈ることを強制され、祈りの道具として名づけられた幼い日々。

 自分自身の意志を無視したまま、ただ「神に捧げる器」として記された名。


 その名を、自らの意志で、再び名乗る。

 それは、呪いをなぞることでも、運命に従うことでもなかった。

 “記された名を、今度は自分の手で祈りに変える”という選択。

 名はもう、支配ではなく、祈りを記すための言葉になる――そう信じたからこそ、彼女はその名を名乗ったのだ。


「痛みも、願いも、誰かと繋がることも、すべて含めて……これが、私の祈りの名前」


 静かな決意の声とともに、霧が柔らかく揺れた。

 それはまるで、神がその名を聞き届け、応じたかのような“やさしい揺らぎ”だった。

 湖面の奥、神の沈黙が、ひとつの名を受け止める“器”となっていた。


 隣でそれを見ていたフロウの瞳が、かすかに揺れた。

 それは驚きとも、理解とも、どこかに寂しさを含んだ光。

 けれど彼は言葉少なに、短く頷く。


「セーレ……お前は、それを選んだんだな」


 セーレは微笑み、小さく頷いた。


「うん。名は、逃げ場所にはならない。だから私は、それを“道”にしたい」


 イリスという仮面の名も、リーネという仮の祈りも、いまはひとつの地平へと収束していく。

 セーレ=イリス=アルティナ――

 祈りを記す者として、自分の名を記し、かつて奪われた真名を、意志によって取り戻す者として。


 その決意を受け取るように、霧の奥で神の気配が再び揺れた。

 それは拒まぬという肯定。

 祝福ではなく、選択の承認。

 “その名であってよい”という、祈りの受容だった。


 水面に一筋の光が走る。

 仮の名を通じて呼ばれた神が、“本当の名”にふれるように。

 光は湖面を渡り、神殿のほうへとゆるやかに昇っていった。


 セーレは、そっと湖に語りかけた。


「ミル=エレノア。あなたの沈黙が、私たちの声を聴いてくれた……今度は、私たちがあなたの祈りを記す番」


 そのとき、霧の向こうから巫たちの影が現れた。

 風もなく、足音もなく――

 まるで最初からそこに在ったかのように、静かにひとり、またひとりと現れ、そして、ひざを折った。


 誰も言葉を発しない。だが、沈黙の礼は何よりも重い意味を持つ。

 名を選んだ者に捧げる、祈りに近い敬意。

 セーレが“自らの名”を記したその瞬間――世界が、彼女の選択を肯定した。


 ◇ ◇ ◇


【第9節 ― 呼び戻された記憶、ファレンの名が応える時】


 セーレが“セーレ=イリス=アルティナ”という名を選び直したとき、その横顔には、過去と向き合った末の静かな覚悟が浮かんでいた。

 仄かに霧が晴れ、浮島を撫でる風がその頬を柔らかく撫でていく。

 その髪を揺らしたのは、ひとつの名が新たに“記された”ことに対する、神の返答のようでもあった。


 ――セーレは、かつての名を、自ら呼び戻した。

 それは王家の継承名。

 母と同じ名、《アルティナ》を名乗るということは、呪われた記憶すらも引き受けるということだった。

 だが彼女は、それをただの血筋の印としてではなく、自らの“祈りの記録名”として、今あらためて選び直したのだ。


 それは逃避ではなく、誓いだった。

 名を持つことの苦しみを知ったからこそ、その名を“語り直す”者になろうとする意志。

 祈りを記す者――名に魂を宿す者としての、再出発だった。


 しかしその隣、フロウの影はまだ揺れていた。


 彼の胸元には、“シズ”と刻まれた仮名の結晶が揺れていた。

 それは名も家系も意味も持たない、ただ沈黙のなかで与えられた響きだった。

 誰にも呼ばれず、誰を呼ぶこともない“無名の安全圏”――それは彼が願ったはずの影の避難所だった。


「……俺は、いったい、どこまで逃げるつもりだったんだろうな」


 ぽつりとフロウが呟くと、その言葉が波紋となって湖面に広がった。

 霧の奥、沈黙の神ミル=エレノアは何も応えない。だが、水面にはゆるやかな揺らぎが走り、まるで鏡のようにその問いを返していた。


 セーレが振り返る。

 その瞳に責める色はない。ただ、名を持つ者としての“対話のまなざし”があった。


「あなたは、いなくなろうとしていた。でも私は――あなたを、呼びたかった」


 その言葉に、フロウの胸がかすかに震える。

 逃れようとしていた何かが、言葉という刃で、静かに切り開かれていく。


 湖畔に立ち並んでいた霧の巫たちが、無言のままフロウの周囲に集まる。

 誰も彼に干渉しない。ただ、名を選び直そうとする者の沈黙を、尊重するように見守っている。


 フロウは胸元から、仮名結晶シズをそっと取り出した。

 その表面はひどく淡く、まるで最初から“終わり”の定めを宿していたように震えていた。


「……この名は、俺にとって“誰でもない者”になるための名だった。何も背負わず、何も記さず、ただ在るための……」


 言葉はそこで途切れた。

 けれどその途切れこそが、フロウの沈黙の告解だった。

 そこにあったのは祈りではない。“祈り以前”の、応答のための余白だった。


 霧の巫のひとりが、一歩だけ下がる。

 それは、「名を選び直すならば、私たちは退く」という無言の承認だった。


 仮名結晶シズは、フロウの手の中でかすかに脈打っていた。

 その震えは、彼の心の奥底で眠っていた“呼ばれた記憶”を、静かに揺り起こしていた。


 ――月の森。

 あのとき、彼の名を呼んだのは、セーレだった。

 “ファレン”と――かつて誰かから授かり、そして自ら棄てたその名を、もう一度、誰かの声で呼ばれた瞬間だった。


 彼の中で、何かが解けていった。

 封じ込めていた罪も、後悔も、喪失も――名を失ったことで葬ろうとした過去が、再び彼の輪郭をつくり直していく。


 彼は、静かにその名を呟いた。


「……ファレン。俺は、ファレンだ」


 それは誰に届くでもない独白だった。

 だが、言葉にした瞬間、霧の奥に、ひとしずくの波紋が広がった。

 まるで、神がその響きを肯定したかのように、記名盤の螺旋に似た揺らぎが水面に浮かぶ。


「罪を犯し、名を捨て、誰からも呼ばれないことで自分を守ってきた。……でも、それじゃ誰の祈りにもなれない」


 フロウの声は、やがて湖に染みるように届いていく。

 それは“許しを請う声”ではなかった。

 ただ、過去を“受け入れるための再記名”だった。


 彼は手の中の結晶を見つめた。

 仮のシズは、最初から“残らない名”だった。

 沈黙の器としてのみ存在し、名の重みを預かる一時の依り代。

 そしていま、その役割を終えようとしていた。


 フロウは、その結晶をそっと湖面に沈めた。


 水に触れた結晶は、すぐには砕けなかった。

 むしろ柔らかな光を放ち、湖の奥へと静かに沈んでいく。

 その光は、まるで名を手放すことそのものが祈りであるかのように、周囲に淡く広がった。


 巫たちが、再び膝を折る。

 その静寂は、失われた名に再び呼び名が与えられたことへの、沈黙の敬意だった。


 そのとき、湖面の中央にうっすらと光の柱が立ち上る。

 霧の帳がふわりとほどけ、空間全体がやわらかく明るんでいく。


 ミル=エレノアの気配が、神殿の奥より滲み出す。

 名を拒むことなく、祈りの沈黙をそのまま受け入れる神――その存在が、空気ごと彼らを包み込むようだった。


「……セーレ」


 フロウは、改めてその名を呼んだ。

 今度は迷いもなく、ためらいもなかった。


「ありがとう。お前が呼んでくれたから、俺はまだ“ここ”にいられる」


 セーレは小さく笑った。

 それは、まるで再び“祈りを記す者”として彼を迎え入れるような笑みだった。


「それは、私も同じ。あなたが名を返してくれたから、私は私の名を選べた」


 ふたりの声が静かに交差する。

 その瞬間、神殿の奥から、ごくかすかな音が聴こえたような気がした。


 それは風でも水音でもない、祈りの響き。

 言葉ではなく、記されなかった祈りの残響。

 名を持たなかった者たちが、いま再び“記されること”を願い始めたかのような、霧の神の返歌だった。


 セーレはその音に耳を傾けながら、静かに呟いた。


「これは、祈りのはじまり。……記されなかった名たちのための、最初のひとつの響き」


 それは決して、名の終わりではない。

 むしろここから、失われた名のすべてが記され直すための旅路が始まるのだ。

 セーレとフロウの選択は、その最初の頁となる――


 ◇ ◇ ◇


【第10節 ― 鏡面の彼方に潜む、祈りを失った神々】


 霧がわずかに晴れ始め、湖面に空の色が戻りかけた頃、セーレとフロウは、霧の巫たちに導かれて神殿のさらに奥へと進んでいた。沈黙の中に沈む石回廊。歩を進めるたび、苔の匂いとともに、外界とは異なる“深度”に足を踏み入れている感覚があった。


 その先にあったのは――《水鏡の間》。


 神殿の最も奥まった聖域。光の差し込まぬ円形の広間。その中心には、直径三メートルほどの真円の池があり、天井はなく、壁一面には祈文すら書かれていない。代わりに、霧の巫たちが一定の距離を保ち、無言で立ち並んでいる。その立ち姿は、あたかも“神の気配を見張る者たち”のようでもあった。


 池の水面は、まるで磨かれた鏡のように、ひとつの波紋も持たず静止していた。音も風もなく、時の流れすら留まったような空間。存在しているという事実だけが、そこに確かにあった。


 セーレは池の縁に膝をつき、そっと手を伸ばす。指先が水面に触れるよりも早く、自身の影がそこに映る。


 だが、次の瞬間、彼女の影の隣に、もうひとつ――誰のものとも判別できぬ、ぼんやりとした“影”が浮かび上がった。


「あれは……」


 フロウが思わず声を低くして立ち止まる。視線の先、湖面には複数の“影”がゆらめいていた。顔も、輪郭も、性別すらあいまいな像。それでいて、確かに“そこにいた”という痕跡だけを残している。名も、記録も、祭壇も持たぬ、祈られぬ神々の影だった。


「……呼ばれなかった神々」


 セーレが呟いた。


 それは、失われた名の残響。この地に残されていたのは、“名を封じるための場所”であり、同時に“名を呼ばれなかった神性”たちが眠る空間でもあった。祈りかけられて、忘れられた者たち。かつて語られかけ、しかし祭儀にも記録にも至らず消えた存在――火に至らなかった炎の神、夜に宿ったまま名を呼ばれぬ夢の神、契約を果たせず失墜した神霊たち。


 仮名珠の起源のひとつもまた、この水鏡の記憶に由来しているのかもしれない。名を記すための器ではなく、“名を記録から解除するための媒体”――すなわち、名を祈りからそっと解き放つための、最後の依代としての珠。


 そのようにして神々は、名を刻まれずとも、記憶されずとも、“祈りの最後の余韻”としてここにとどまり続けていた。


 セーレはふと、手を伸ばした。水面に触れ、祈るように囁く。


「……名を、呼びたいの」


 その声が、水を伝って広がっていく。音はない。けれど、水がわずかに震えた。まるで、囁きがそのまま水の記憶に沁み込んでいくようだった。


「あなたたちの名は、もう誰にも届かないのかもしれない。けれど……私が、あなたたちを呼びたいと願うこと。それ自体が、祈りになるでしょうか」


 霧の巫たちは答えない。ただ、沈黙のまま、その祈りの行方を見守っていた。


 そのとき、水面がそっとゆらいだ。いくつもの影のなかから、ひとつの像がうっすらと浮かび上がる。それは人の姿ではない。抽象的な輪郭、波形のようにゆらめく祈りの“痕跡”。けれど、その中心に、小さな灯のような光が宿っていた。


「……誰かに、祈られたことがあったんだな」


 フロウはその光をじっと見つめ、まぶたを少しだけ伏せた。

 名がなかったとしても、誰かの心に残ったこと――それが、存在を繋ぎ止めていた。


 セーレは小さく頷き、ささやく。


「名を記すことが、祈りのすべてじゃない。……“呼びたい”と願うこと。それだけで、きっと何かが届く」


 そして、水に向かってそっと囁く。


「ありがとう。いてくれて」


 影は答えなかった。けれど、その瞬間、池に広がる波紋が静かに一巡し、あたかも受け取った返礼のように、湖面が静けさを取り戻した。


 すると、ひとりの霧の巫が歩み寄り、両手でひとつの白石を差し出した。掌に乗ったそれは、なめらかな丸石。何の文様も、文字もない。


「……これは?」


 セーレが問うと、霧の巫は静かに頷いた。


 それは、“記されなかった神々”のための白紙の祈り――名を記さず、名を語らず、それでも“祈られたこと”の証として捧げるもの。


 セーレは石を受け取り、自身の胸元に下げた結晶のそばに添える。そして、そっと立ち上がる。


 水鏡に浮かんだ影たちは、ふたりの背に淡い光を投げかけていた。言葉にならぬまま、この世界に残った“呼ばれなかった祈り”の最後の証として――。


 ◇ ◇ ◇


【第11節 ― 沈む祭壇と、仮初の名が刻まれた印章】


 水鏡の間を出たとき、セーレとフロウは、霧の質が変化していることに気づいた。かつては呼吸のように波打っていた霧が、今は静かに、音もなく降り積もる雪のように濃度を増していた。空と湖面の境界は曖昧になり、まるで世界が輪郭を手放し、ひとつの祈りの内側へ沈もうとしているようだった。


 セーレは水辺に立ち尽くし、霧の彼方を見つめる。ふと、足元の草が波に触れるように揺れた。


「……もうすぐ、この島は消える」


 フロウの静かなその声は、どこか名残を惜しむようでもあり、覚悟のようでもあった。


 セーレは頷いた。

 ここは、仮の名が交わされ、失せし祈りが記憶された場所。名を預け、名を拾い直した者たちが通り抜けるためにだけ存在した、“記されざる信仰の島”だった。

 役目を終えたその浮島が、今まさに、静かに水へと帰ろうとしている。


 そのとき、湖面の霧を縫うように、一人の霧の巫がふたりの前に現れた。白衣の裾を引きずるように歩くその姿は、霧の化身のようにも見えた。名を持たぬ巫女――“名なき巫女”。彼女の腕には、一巻きの古びた巻物が抱かれていた。


 それは、何も記されていない――白紙の祈りだった。


「それは……?」


 セーレが問いかけると、霧の巫は穏やかな微笑みを浮かべ、小さく頷いた。そして巻物をそっと広げる。紙は、まるで呼吸しているかのように柔らかく、指先に温もりすら感じさせた。


「これは、“記されない祈り”を刻むためのものです。……名ではなく、言葉でもなく、“あなたたちが感じたもの”を、この紙に記してください。それが、あなたたちが祈りに応えた証となります」


 その言葉に、セーレは巻物を受け取った。まるでそれは、今この瞬間を、忘れぬために与えられた“責任”だった。手に取った紙の重みは、過去でも未来でもなく、確かに“今”を抱えていた。


「……これは、私たちが“忘れたふりをしない”ための物語」


 そう呟いた彼女の声に、風が微かに応えた。


 霧の巫は一礼し、踵を返して神殿の方へと戻っていった。彼女の足元にはすでに、静かに水が満ちはじめていた。神殿の石階が一段ずつ、水底へと沈んでいく。そのさまは、時の帳を畳むようでもあり、祈りを静かに封じるようでもあった。


「……もう、時間がない」


 フロウが言うと、セーレは頷き、ふたりで神殿をあとにした。


 浮島の桟橋には、小舟がひとつ待っていた。霧に包まれたときと同じように、音もなく、自然の一部のようにそこにあった。


 セーレが振り返ると、霧の巫たちが神殿の前に並び立っていた。誰ひとり声を発することはない。ただ、胸に手を当て、静かに見送りの祈りを捧げている。その姿は、まるで“名を預けた者”に対する最後の祝詞のようだった。


「……さようなら、“リーネ”。ありがとう」


 セーレは静かに、かつて与えられた仮の名を口にする。消えゆく名へ、最後の別れを。

 そしてもう一度、自身の真名を――今や祝福の響きを帯びた名を胸の奥に刻み直すように、囁いた。


「私は、セーレ=イリス=アルティナ。名を呼ばれ、名を取り戻した者」


 フロウもまた、小さく息を吐きながら続いた。


「そして俺は、ファレン。だが、ファレンという名は、俺の原罪とともにある。フロウとして、誰かに呼ばれた記憶の方が、今の俺を救ってくれた。まだ、完全に受け入れるまではフロウという名で旅を続けようと思う」


「今のあなたはどちらを選ぶことも、どちらを名乗ることができる。そして、どちらでもない名を名乗ることも」


「そうだな……自分に相応しい名、考えるには時間が必要だ」


 ふたりが小舟に乗り込むと、霧が静かにうねり、湖面に波紋がひとつ走った。


 浮島の影が、霧の中でゆっくりと沈んでいく。その姿は、まるで祈りそのものが眠りに帰るようだった。


 だが、湖面には確かに“痕跡”が残っていた。


――波紋。


 名もなく、声もない。ただ、誰かが“ここにいた”という存在の余韻。それだけが、神と人の間にほんの微かな証として残されていた。


 セーレは巻物にそっと手を添えながら微笑む。


「……祈りって、声じゃないのね。こうして誰かが見て、残すこと――それだけでも、“名”になるのかもしれない」


 舟は、霧を裂いて進みはじめた。

 ふたりを乗せて、再びこの世界の“記録”の側へと還っていく。


 その背後――神殿と祈りの島は、ゆっくりと、静かに、完全に姿を消した。


 ◇ ◇ ◇


【第12節 ― 記された仮名と、名を運ぶ旅のはじまり】


 小舟は、湖面を静かに滑っていた。


 霧はまだ薄く残っていたが、出発のときのような重苦しさはなかった。風が進むべき道をつくり、水はその意志に寄り添うように静かに波を広げる。名を持つことで視界が晴れ、進むべき方角が、まるで湖そのものから示されているかのようだった。


 岸辺は遠く、まだ輪郭も曖昧だった。けれどセーレもフロウも、不思議と不安を抱かなかった。戻るべき場所がある――それは、祈りを終えた者だけが持つ確かさだった。


 舟の上、セーレはそっと懐から巻物を取り出す。白紙のままのそれは、何も記されてはいない。けれど彼女の体温が移ったのか、紙はほんのりと湿り気を帯びて、まるで“祈りの余韻”を抱えているかのようだった。


「……記すって、何を書くことなんだろうね」


 問いかけるように漏らしたその声は、風に溶けるように舟の先へと滑っていく。フロウはすぐには答えず、湖面を見つめたまま、ゆるやかに微笑んだ。


「言葉じゃなくてもさ……“名前を呼んだ時間”が残ってるなら、それも記録なんじゃないか?」


「名前を呼んだ時間……?」


 セーレが問い返すと、フロウは小さく頷いた。


「お前がリーネとしていた時間も、俺がシズだった時間も、誰かに縛られずに過ごせた自由だった。でも、それを通して……もう一度“自分の名”を選び直せた。そういう時間があったってこと、それ自体が……祈りなんだと思う」


 セーレはしばし黙ってフロウの顔を見つめ、それからゆっくりと瞼を閉じて、小さく頷いた。肩の力がふっと抜けたように、その仕草には言葉にできない共感と安堵の色が宿っていた。


「名を手放して初めてわかったことがあった。名を持つって、ただ記号を背負うことじゃない。“誰かに呼ばれる”っていう、その瞬間に応えること――それが、“生きてる”ってことなんだよね」


「俺も、そう思うよ」


 ふたりは舟の上で顔を見合わせた。その間に流れる沈黙は、言葉を要さない理解の静寂だった。


 やがてセーレは小さく笑みを浮かべ、ふと目を伏せた。


「ねえ、フロウ。……ありがとう」


 その声は、胸の奥からそっとこぼれるような静けさを帯びていた。


「……なんで、急に」


「あなたが私を呼んでくれたから。リーネじゃなくて、ちゃんとセーレに戻れた。……誰かの声がなかったら、私はきっと、どこかで消えてた」


 フロウは少し照れたように視線をそらし、肩をすくめる。


「そっちこそ。お前がフロウの名を呼んでくれたから、俺はこの舟に乗ってる。……きっと、あのままなら、まだ影のままだった」


「ふふ……そうかもね」


 風がふたりの髪をかすかに揺らした。そのとき、湖面の向こう――かつて霧の浮島があった方角に、ひとつの波紋が生まれた。音もなく、ゆっくりと水面に広がるその痕跡は、誰かの名も、声も持たない“存在の応答”だった。


 セーレは、そっとそれに向けて手を振った。


「さようなら、ミル=エレノア。……さようなら、“名を封じた場所”」


 彼女の胸の奥で、かつて封じられた名の残響が、やさしくほどけていく。


 それは祈りでも記録でもない。ただ、“忘れない”という静かな決意だった。


 舟はやがて岸辺にたどり着いた。朝の霧がまだ漂う中、村の気配は静かだった。人影もなく、ただ湖の水音だけが辺りを満たしている。


 けれどふたりは、その静けさの中に、確かな“還る音”を聞いた。


 セーレとフロウは、小舟を降り、あらためて陸地を踏みしめる。かつて“名を手放した”者として、そして“名を選び直した”者として――。


「行こう、フロウ。まだ、記すべき祈りがある」


「ああ。……次は潮の街だな。こことは違う意味を持つ“仮の名”をもつ者たちが暮らす、港のほうへ」


 ふたりは肩を並べ、静かに歩き出した。


 その背には、もう浮島の姿はなかった。けれど、湖面には最後の波紋が、いまだ消えずに残っていた。


 セーレは足元の地面に視線を落とし、そっと片膝をついた。

 湿った土に触れながら、彼女は白紙の巻物の一頁を取り出し、そこに指先で“何か”をなぞった。


 それはまだ文字にならぬ、名の余韻。

 けれど、そのかすかな線は、誰かの生を記す“始まりのしるし”だった。


「ここに、“まだ記されなかった誰か”のための頁を一枚、残しておく」


 その言葉に、フロウは振り返り、静かに頷いた。


「それがきっと……“記す”ということの、最初の意味なんだろうな」


 記されざる神の祈りを継ぐ者たちの、静かな巡礼の物語が、またひとつ刻まれていく。


 風が霧をさらい、朝の光がその輪郭を描き出す。

 そして、ふたりの歩む先に――潮の匂いが、かすかに届き始めていた。


 ◇ ◇ ◇


【第13節 ― 仮の名の舟、祈りの本質へ至る揺らぎ】


 ──霧が完全に晴れる前の、ほんの一刻。舟が岸に着くその前、セーレは水辺にひとり立っていた。


 夜の湖畔は、すでに祭の余熱を失い、静かな呼吸だけが漂っていた。

 霧は薄れ、水面の向こうに島々の灯がぼんやりと浮かんでいる。

 セーレはひとり、水のそばに立っていた。

 いや、そばに――ではない。水面が揺れた。そこに映る自分の顔が、知らぬ名で呼ばれている気がした。


 《ミル=エレノア》の霧の巫たちが授けた“仮の名”。

 それは本来の名ではない。けれど、名を失った者にとって、それは“世界と繋がるための橋”でもあった。


「……この名前を、好きになってしまいそう」


 セーレは水面にそっと指を差し入れる。

 波紋が走り、映っていた顔が歪む。それでもその名は、確かにそこに残っていた。

 忘れられるために記され、消えることを前提とした“仮名”――

 けれどその儚さが、彼女の胸に小さな灯をともす。


 梟の姿をしたフロウが静かに舞い降りてきた。

 彼もまた、新たな名を授かっていた。それは誰にも教えない名、けれど彼自身のうちで確かに鳴っている。


 フロウは小さく羽を揺らし、風の音に紛れるような声で呟いた。


「水に書かれた名は、いつか消える。でも、おまえの中に刻まれたなら……それはもう仮じゃない」


「仮でもいいの。消えてもいいの。でも――」


 セーレは小さく微笑んだ。


「今の私は、この名前で立っている。なら、それでいい」


 湖のそばに、古い石碑があった。

 それは《仮の帳面》と呼ばれる場所で、かつて名を預けられた者たちの記録が刻まれている。

 けれど、その石碑の表面には、もはや何も読めなかった。

 霧の滴が長い時間をかけて文字を削り、記されたすべてを水に返してしまったのだ。


 セーレはそこに、そっと手を触れた。

 指先に、ほんのかすかな刻みがあった。

 たしかに、誰かの名がここにあったのだ――そう思わせるだけの、祈りの痕跡。


「ねえ、ここに記された名は、全部忘れられたのかな」


「たぶん、忘れさせるために記されたんだろう」


 フロウは答えた。


「けれど、それを誰かが読むかもしれない。そう思って、記したんだと思う」


「私も、そうする」


 セーレはそっと呟いた。


「名を預ける者がいて、それを記す者がいる。たとえ消えるとしても――その一瞬のために」


 仮の名は、永遠ではない。

 けれどその名が、忘却と赦しと願いの狭間で揺れながら、確かに祈りを生んだこと。

 それだけが、今の彼女を支えていた。


 月が、霧の切れ間から顔を覗かせた。

 湖面に映るその光のなかで、セーレとフロウの影が重なる。

 その間に、ひとつの“名”が静かに宿る――消える運命にありながら、今だけは確かに在るものとして。


「さあ、行こうか」


 フロウが小さく羽ばたき、セーレの肩に乗った。

 ふたりの背に、湖と石碑と霧の帳が広がっていた。

 そこに記されたものが、やがて忘れ去られるとしても――今このとき、彼女は名を預かっている。

 それは仮の名でありながら、彼女の旅の、次なる章を開くための“鍵”だった。


──《第5話 ― 潮の街と赦しの名》に続く──


-----



"――輪郭なき夢の底で、名なき祈りが揺れていた。私はそれを見届けた。"


《霧の神ミル=エレノアの詩:夢の底にあるもの》


声を持たぬ者たちが、

夢の中でわたしに祈る。


名を忘れた者、

言葉を閉ざした者、

記されることを拒まれた者。


そのすべてが、

沈黙というかたちで祈りを編んでゆく。


霧のなかには輪郭がない。

けれど、その曖昧さこそが、

祈りを祈りたらしめる。


はっきりと願われた祈りよりも、

名を持たぬ囁きのほうが、

わたしには深く届く。


わたしは、神ではない。

答えるものではない。

ただ夢の底で、

呼ばれぬ声の震えに身を澄ますだけ。


ある日、ひとりの少女が

霧の岸辺に立ち、名も告げずに祈った。


わたしは、その祈りを記してはいない。

だが、霧はそれを包み込んだ。

名のないままに。


名を与える神がいれば、

名を受け取らぬ神もまた、世界には必要なのだ。


わたしの霧は、

祈りの輪郭を奪う。

そして、祈りの核だけを――

そっと残す。


(ミル=エレノア神夢譚より)

◆《第4話 ― 霧の浮島と失せし名の祈り》を読み終えたあなたへ


――記されぬ祈り、語られぬ名。そのいずれにも応答する“沈黙の神”に出会うために

(記録の語り手:サーガより)


名を持たぬ者は、存在しないのか?

いや。呼ばれなかっただけだ。


祈られなかった神々のなかにも、耳を持つ者がいる。

声なき声に応える者がいる。


この章は、“記されぬこと”そのものを受け容れ、

忘却のなかに生きる名なき祈りたちの《還る場所》を描く巡礼であった。


前章までで、王女セーレは“記名制度”によって奪われた祈りと名を求めて歩んできた。

だがここ《ミルタ=エル》では、その“記録の構文”さえ意味をなさない。

名を持たぬ者たちが生きる霧の浮島。

祈りは言葉ではなく、風、息、光、沈黙として交わされていた。


それは、「名がなければ存在できない」という世界観そのものへの異議申し立て。

名を記さずとも、そこに“確かに在る”という祈りのかたちだった。


▼ この章に刻まれた“霧の祈り”と“仮の名”


仮の名とはなにか:

この地では、名は固定された記号ではなく、“今のあなた”を受け容れるための器として渡される。

名は預けるもの、託すもの、そして還すもの――記録ではなく、共鳴のためにある。


“記さぬ祈り”という赦し:

名を持たぬまま祈ることは、世界に対する静かな問いである。

忘却されることを拒まず、むしろそこに安息を見出す信仰。

この島の神《ミル=エレノア》は、そのような声に応じる“沈黙の受容者”であった。


フロウの祈りと名の記憶:

かつて“ファレン”と呼ばれた記録者フロウは、名を持たぬ自らに沈黙を課してきた。

だが、祈りを“記すこと”から、“応えること”へと転じたとき、

彼は再び「呼ばれてもよい」と思える心を得た。

これは、“名なき者”が祈りによって世界と繋がる過程を描いた、再生の章である。


セーレの“名を手放さない”選択:

セーレは、自らが選び取った名《セーレ=イリス》を預けることを拒んだ。

それは執着ではなく、“まだ祈りとして成っていない”という誠実な選択であり、

名を守ることの痛みと、それでも誰かを祈るために記し続ける覚悟の証明である。


霧の巫と仮名珠の儀式:

記名ではなく、“感応”によって祈りを珠に宿す儀式。

この珠には文字も刻まれないが、触れた者の“今”が共鳴として残る。

それは、書かれずとも“祈りの痕”を記す、もうひとつの記録形式である。


読者よ。

この章で語られたのは、「記す」ことの対極にある祈りのかたち。

名を奪われた世界で、なおも祈り続ける者たちの“赦し”と“再構築”の記録であった。


忘れることが敗北ではない世界。

記されないことが否定ではない信仰。

名を持たぬままでも、誰かの祈りの中で“存在していた”という証を、

この浮島の霧たちは、静かに、しかし確かに宿している。


君がこの章を読み終えたとき――

言葉にならなかった誰かの声が、

あなたの中に微かに“響き”として残っていることに、きっと気づいただろう。


そしてそれこそが、“記されなかった名”に対する、最も美しい祈りとなる。


――記録者サーガ、第四の頁を、霧のなかに閉じる。

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