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3.奴隷

「ここは?」


 ぼんやりとした視界、天井には見慣れない模様がある。窓から差し込む光で目が痛い。思わずまぶたを閉じる。


 リサは知らない場所に寝ていた。クリスに助けられたことは覚えていた。そこからの記憶がなかった。

 あちこち擦り切れた服を着ていたはずなのに、綺麗な白い着物を着ていた。髪や身体に付着した泥は拭き取られていた。

 着ていた服は、サイドテーブルの上に置かれていた。いい匂いがした。洗ってくれたのだろう。


 部屋の隅に目をやると影が動いた。壁際に人がいるようだが、逆光でよく見えない。

「誰ですか?」と言おうとするけど、声がうまく出ない。言葉にならないうめき声が部屋に響く。


「やっと目を覚ましたね」


 壁際の人はリサに近づいてくる。身構えながら、身体を動かそうと試みる。うまく動かない。全身が鉛のように重く、動かそうとするたびに体中に痛みが広がる。力が入らない。汗が額ににじむ。喉がひどく渇いている。


「僕です。クリスです」


 聞き覚えのある声に、こわばっていた指先の力がゆるんだ。

 クリスはリサの額に手を当てた。


「まだ熱は下がっていないみたいだね。ゆっくりするといいよ」


 リサが着物を指さして何か言おうとすると、「着替えは妹にお願いした。僕は誓って見ていない」とクリスは視線をそらした。

 礼を言おうとしたけど、クリスは「話さなくていい」と制した。


 クリスはリサに意識を失ってからの経緯を説明した。どこに送り届ければいいか尋ねたものの、リサは眠ったまま目を覚まさなかった。ひどい熱でうなされていたから、クリスの家に運んだ。リサはここに運ばれてから丸2日眠っていたそうだ。


「お腹が空いただろう? 何か用意してくるよ」


 クリスは一通り説明し終わると部屋を出ていった。


 クリスとは面識がない。つまり、ここはリサが暮らすミルズ伯爵領とは別の場所。

 リサは遠くの集落で生まれた。戦に巻き込まれて家族とはぐれ、賊に捕まった。賊はリサをミルズ伯爵に売った。

 リサは改めて部屋を見回す。凝った装飾の壁に油絵が飾られている。机には花が置かれている。きっと、貴族の屋敷だろう。

 領地を出てから何日経ったか……戻ったらミルズ伯爵に怒られる。


 クリスが戻ってきた。


「スープなら飲めると思って」


 クリスはリサの側に来ると、銀食器によそった。いい香りがした。

 器を受取ると、リサは掻き込んだ。


「たくさんあるから、ゆっくり食べたらいい」


 恥ずかしくて、クリスから目を背けた。無言のまま、ゆっくりスープに入った具材を嚙みしめた。


「ごちそうさまでした」


 辛うじて声が出た。すっかりとスープを平らげたリサは器を台に置いた。

 体調が回復するまで休んでください、とクリスは部屋を出ていった。腹が膨れたリサは再び眠気に襲われた。


**


 翌日、熱が下がり、リサは立てるようになった。これで領地に帰れる。


「何日も泊めていただいて、食べ物も与えていただきました。何かお礼をさせてください」

「気にしなくていいよ。何かを期待して助けたわけじゃない。君が元気になれば、それだけで僕は嬉しい」


 クリスはそういうものの、リサは何かできることがないかを探る。


「そういうわけにはいきません。お困りのことはありませんか?」

「困っていることね……。今のところ、領内で揉め事はない。近隣の領地との関係も良好だ」

「農作物は育っていますか?」

「小麦の生育が悪いかな。日照り続きでね。雨が降ればいいのだけれど」

「雨が降ればいいのですね?」

「そうなんだが。雨を降らすために教会に寄付して、牧師に祈ってもらった。けど効果がない。こんなことを君に言ってもしかたないけど」

「今夜、小麦畑に案内してもらえますか」


 自然に笑顔がこぼれた。


**


 その夜、リサはクリスに連れられて種まきが終わった畑にやってきた。


 辺りに誰もいないことを確認すると「このことは秘密にしてください」とあぜ道に入った。


 リサの姿が月明りに照らされて浮かび上がる。腕を上げて滑らかに宙に描く。長い髪がリサの動きに合わせて揺れ、跡を残す。周囲の暗闇がリサの姿を際立たせる。舞は徐々に緩やかになり、やがて完全に静止した。


 息を整えるためにリサは目を閉じた。深く息を吐き、目を開いた。


「綺麗な踊りだった」


 興奮したクリスが走ってきた。「これで明日には雨が降ります」とリサは静かに微笑んだ。


 **


 翌朝、クリスは雨音で目を覚ました。美しい踊りが雨を降らせた、昨夜の興奮が蘇った。クリスはあの踊りが何なのかを教えてもらいたくて、部屋の扉を開けた。


 リサはいなかった。熱が下がり、礼が済んだから自分の領地に帰ったのだ。境界警備の兵に確認したら、夜も明けぬうちに出ていったという。

 クリスは数日間休息する場所と食事を与えただけ。それなのに、リサは雨を降らせて領民を救ってくれた。過剰な礼だ。

 雨を降らせてくれた礼をしないと、クリスの気が済まない。


 リサを助けた場所に近いのはミルズ伯爵領。クリスは馬に乗り、ミルズ伯爵領を目指した。


 クリスはリサに礼をするために出てきた。しかし、具体的に何をすればいいのか? 考えがまとまらないまま、ミルズ伯爵領に着いた。

 ミルズ伯爵領には雨が降っていなかった。リサが雨を降らせたのはコーエン子爵領だけのようだ。


「何かご用か?」門にやってきたクリスに、警備兵は言った。

 高圧的な物言いではない。クリスは馬に乗っており、身なりも良い。貴族がミルズ伯爵へ面会に来たと考えるのが自然だ。


「コーエン子爵家の者です。お尋ねしたいことがあります。昨夜から今朝がた、行方不明だった女が戻りませんでしたか?」

「ああ、あの女ですか。先ほど戻ってきました。連絡もせずに行方をくらまして、困ったものです」


 リサはミルズ伯爵領に戻っている。行先を間違っていなくてよかった。クリスの口元に笑みが浮かぶ。


「その女に礼がしたいので、中に入れてもらえませんか」

「礼? あの女に? 物好きな人もいるものだ。別の者に案内させるので、しばしお待ちを」


 警備兵はすんなりと応じてくれた。ミルズ伯爵との揉め事を避けたいクリスは、胸をなでおろした。


 待っていると門が開いた。従者に案内されて、クリスは馬を引いて歩いた。しばらく歩くと一段と大きい屋敷が見えた。コーエン子爵家の屋敷の倍はある。


「この役立たずがっ! お前なんか野垂れ死ねばよかったんだ!」


 屋敷に近づくと怒鳴り声が聞こえた。さらに近づくと、「申し訳ございません」と何度も女の声が聞こえた。


 クリスが屋敷の入口に差し掛かると、年配の男と目があった。父の代わりに参加した会合で何度か会ったことがある、ミルズ伯爵だ。

 ミルズ伯爵の前には、地面に座り込むリサがいた。リサはクリスを一瞥しただけで、すぐに目を逸らした。


「お主は……コーエン子爵の息子か?」

「はい、お願いがあって参りました」


 ミルズ伯爵は「なんだ?」とクリスに向き直った。


「その女を私に譲ってもらえませんか」


 ミルズ伯爵は「ふっ」と笑って女を見下ろした。


「こんな女が欲しいのか? もっといい奴隷がいるだろうに」

「いえ、その女がいいです」


 ミルズ伯爵は唖然とした表情でクリスを見る。


「それで、いくらならお譲りいただけるか?」

「こいつは安くない。そうだな……その馬と交換でどうだ?」


 ミルズ伯爵は笑みを浮かべる。これは異国から取り寄せた特別な馬、一頭で奴隷が5人買える。相場を知っている者であれば、こんな条件で取引しない。

 しかし、リサは雨を降らせることができる。リサがいれば、領内の不作を心配しなくていい。十人、いや、百人の領民を救えると考えれば、馬一頭は悪い条件ではない。


「分かりました。馬はここに置いていきます。女を連れて行って、構いませんか?」


 ミルズ伯爵はクリスがすんなり条件を呑んだことに驚いた。


「ああ、構わないよ」


 ミルズ伯爵はクリスを騙せたことに満足な顔をして、屋敷の中に入っていった。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

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