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1.狼の魔物

「困ったな」


 すっかり陽の暮れた山道、ハリーは屋敷への道を急いでいた。鉱石を採取するのに時間がかかってしまった。

 いつもの山道、ハリーは自信をもって歩を進める。ふと見た樹林の中、木の根元に光るものがある。立木を払い、屈んで光る方へ進む。視界はすぐに枯草色の薮に覆われ何も見えない。


 あっ、黒い腐葉土を踏むと足場が崩れた。前日に降った大雨で地盤が緩んでいたのだ。ハリーは崩落により滑り落ちたが、崖の手前でなんとか止まった。


 ほとんど垂直に切り立った断崖。腰が引ける。刃物で斬り込まれたように鋭く狭い谷底は暗かった。

 どうやって屋敷に帰ればいいのか。途方に暮れたハリーは石の上に腰かけた。


「そこに誰かいますか?」


 静まり返った山に澄んだ声がした。女の声だ。

 辺りを見回すものの人の気配はない。山には人を襲う狼の魔物がいる、そう祖父から聞いた。しかし、それは子供を危険な場所に立ち入らせないための伝承だ。魔物がいるはずがない。それに、助けてもらえれば麓に下れる。


「います。道に迷いました」


 山の静けさに大声を出すのを憚られ、ハリーは小さく言った。

「そうですか」と声がした。崖の上に気配を感じた。ザッと音がするとハリーよりも少し年上の女が立っていた。


 女は白い麻の服を着ていた。長い髪は夜の闇のように黒く、風に吹かれてふわりと揺れた。ハリーを見つめながら、薄い唇を少し噛んでいた。

 狼ではない。ハリーはほっと息を吐き出す。と同時に疑問が湧いてくる。崖の上から飛び降りたのか? ハリーは遠慮がちに「あの」と話しかけた。


「なにか?」


 抑揚のない声がした。怒っているのではない、笑っているのでもない。感情のない冷たい声。


「あなたは狼の魔物ですか?」


 麓への道を聞こうとしたハリーだったが、予想外の言葉が口を突いて出た。どう取り繕うか考えながら、愛想笑いを浮かべた。

 女はハリーを上から下まで見ると、「そうだとしたら?」と笑った。


「僕を殺すのですか?」


 女は「ふっ」と笑った後、呆れたようにハリーを見た。


「助けてくれと聞いたから、わたしは下りてきました。なのに、殺してほしいのですか?」

「いえ、助けてください」

「最初からそう言えばいいのです」


 ハリーは「すいません」と頭をかいた。


「目をつぶりなさい」


 何をされるか不安ではあったが、ハリーは素直に従った。枯葉を踏みしめる音が近づいてきた。ハリーが身体を固くして立っていたら、肩に冷たい感触があった。


「背負います。しっかりとつかまりなさい」


ハリーは言われた通り、女につかまった。女の身体はハリーよりも細かった。


「胸を触ったら、殺します」


 抑揚のない声だった。ハリーの緊張をほぐすための冗談なのか、それとも警告なのか。ハリーは「はい」と呟いた。


「いきますよ」


 グンと吊られる衝撃がきた。ハリーはわけもわからず女にすがりついた。とにかく怖い、目を開けられなかった。

 ハリーは恐怖と衝撃に耐えながらも、女と接していることが心地よかった。恐怖と安堵が共存する、不思議な感覚だった。


「着きました」


 目を開けたら、麓の道にいた。崖からはかなりの距離があったはずだが、どうやって辿り着いたのか?


「ありがとうございます」


 ハリーは頭を下げる。女は一瞥しただけで、ハリーには興味がなさそうだ。


「また、会えますか?」

「さあ」


 ハリーは首飾りを外した。緑の石を金属で囲うように細工してある。


「今はこれしか持っていないので、せめてものお礼に受取ってください」


 女は首飾りの石を月の光に当てた。


翡翠ひすいですか?」

「はい。採掘した石で、宝飾品を作るのが趣味なんです。どうぞ」

「じゃあ、遠慮なく」

「僕はハリー・グリフィスといいます。あなたの名前をうかがってもいいですか?」


 ハリーは女の言葉を待つ。

 女はハリーに向き直ると「リサです」と言い残して闇の中に消えた。


 **


 一週間後、ハリーはリサに会うために、獣道を探索した。そのほうがリサに会えるような気がした。小川に出ると、滝の音が聞こえた。体に響く音を立てて落ちる水。滝を間近に見ようと奥に進んだ。


 手頃な岩に腰かけた。滝を見上げて水を飲む。小腹が空いたから、パンと干し肉とチーズを袋から取り出した。パンに切れ目を入れて、中に具を入れた。


「それ、美味しそうですね」

「リサ?」


 ハリーは声の主を探した。川上で何かが光って見えた。首飾りに木漏れ日が反射していた。


「その首飾り、気に入ってくれたんですね?」

「せっかくの贈り物ですしね」


 ピシャピシャと水の音をさせながらリサが歩いてきた。


「一緒に食べますか?」


 ハリーが持っていたサンドを一つ差し出すと、リサは一気に平らげた。包にあるもう一つを見ていた。


「ダメですよ。こっちは僕のです」

「器が小さい男ですね」


 リサに威圧的な態度はない。木漏れ日に照らされてリサの肌が透けて見える。

 ハリーは目をそむけると「半分なら」とパンを割った。正確に半分に割れずに、具が一方に偏った。


「あっ」


 ハリーが苦笑いした瞬間、リサは具が入ったパンを奪い取り、口に運んだ。恨めしそうに具のないパンを頬張るハリー。


「魔物も人と同じものを食べるんですね」

「そうですね。正確には、食べなくてもいいんです。食事をしなくても生きていけますから」

「じゃあ、なぜ食事を?」

「人間だったときの癖ですね。美味しそうなものは、食べたくなるでしょ」


 リサの声が明るくなった。


「あなたは人間だったのですね」

「ええ、元は人間です。ところで、前から気になっていたのですが、あなたは勘違いしているようです。わたしは魔物ではありません」

「狼の魔物じゃなければ何者ですか?」


 ハリーが尋ねるとリサは呆れたような顔をした。


「この山には祭壇があります。そこには何を祀っていますか?」

「神様?」

「正解です」


 そんなに驚きはなかった。ハリーにしてみれば、リサが神でも魔物でも、どちらでもよかった。


 とにかくリサに会う目的は果たせた。


「また来ます」


 立ち去るハリーの後ろから、「次は甘いものを持ってきなさい」とわがままな神の声がした。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

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